アウシュビッツ強制収容所 (20th May 1940 - 27th

アウシュビッツ強制収容所
(20th May 1940 - 27th January 1945)
公式サイト(英語)http://auschwitz.org/en/
アウシュビッツ解放70周年記念式典ビデオ(英語)http://goo.gl/5S1eyS
解放70周年記念ドキュメンタリー“アウシュビッツ““http://goo.gl/InAWpt
歴史的写真と記録(公式サイト)http://goo.gl/vgxlSo
1. はじめに
アウシュビッツ(ドイツ語発音。ポーランド語ではオシ
フィエンチム)はナチスによって建設された収容所の中
で、強制収容所として、また絶滅収容所としても最大の
ものです。場所は南ポーランド上シレジア地方、クラコ
ウの西約60km(37マイル)、第二次大戦前のドイ
ツとポーランドの国境近くで、ナチスは1939年のポ
ーランド侵攻の際にこの地方を併合しました。1940
年ハインリッヒ・ヒムラーはオシフィエンチム近郊に新
収容所の建設を決定、5月にはメインキャンプ(アウシ
ュビッツ1)使用が開始されました。収容所の規模は拡大
ビルケナウ入り口「死の門」
を続け解放時には3つのキャンプと45のサブキャンプを
有していました。ここで約110万人が集団虐殺の犠牲と
なりました(公式サイトによる www.auschwitz.org)。その殆どはユダヤ人でアウシュビッツはホ
ロコーストの象徴となっています。
収容所の規模:1942年当時、アウシュビッツ1(最初のキャンプ),アウシュビッツ2(ビル
ケナウ、労働者の強制収容所と絶滅収容所を兼ねていた),アウシュビッツ3(モノビッツ)とさ
らに45のサブキャンプから成っていました。
最初の時期は主にドイツ政府により逮捕されポーランド人が主に収容されていました。エリートや政
治的宗教的指導者、市民レベルのリーダー、文化学術に携わる人、又レジスタンスのメンバー、軍の
士官など様々でいずれもナチスが危険視したグループに属する人々でした。1942年絶滅収容所の
機能を兼ねたアウシュビッツ2の完成後、欧州全土からのユダヤ人移送が増大します。
ユダヤ人、ジプシー、同性愛者、犯罪者、戦争捕虜たちが集められ、貨物車に文字どおり詰め込まれ
てアウシュビッツへ送られました。収容者のグループについてもっと知りたい方はこのリンクから
http://auschwitz.org/en/history/categories-of-prisoners/
2. 収容所の歴史
2.-1. アウシュビッツ1またはメインキャンプ(1940-1945)
アウシュビッツ1は約30の施設からなる最初の収容所で1940年5月20日に使用が開始されま
した。平均して1万3千から1万6千人、ピーク時は2万人が収容され、ポーランド人政治犯、ソ連
軍の戦争捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者がその多くを占めていました。最初の囚人は30人のドイ
ツ人で、収容所の管理運営の仕事に就かせる目的で送られてきました。その後728人のポーランド
人(ユダヤ人20人含む)が収容されました。ポーランドのインテリ層や反体制派、地下レジスタン
ス運動に関わる人々が続々と送り込まれ収容者数はうなぎのぼりに上がっていきます。
ここにはアウシュビッツ全収容所の管理棟があった他、人体による医学実験の場所(ブロック10)、
また恐ろしい拷問が行われた場所(ブロック11)がありました。クレマトリウムとブロック11の
間には“黒い壁”があります。ここで SS(ナチス親衛隊)による囚人の処刑が行われました。メイン
キャンプの入り口には悪名高い「労働は自由への道」(Arbeit Macht Frei)という文字が掲げられ
ていました。(下の写真参照)
メインキャンプの入り口
アウシュビッツ1の航空写真
2.-2.アウシュビッツ2またはビルケナウ (1942-1945)
1942年初旬、メインキャンプから約3km(1,9マイル)のビルケナウにアウシュビッツ2が
建設されました。最初は約12万5千人の戦争捕虜を収容するのが目的でしたが、ナチスがユダヤ人
絶滅政策を決定した時点(1942年春)で変更され、以後は強制労働者の収容所と‘絶滅収容所’
の機能を兼ねることになります。
移送直後の選別が行われた場所であり、カモフラージュされたガス室が労働に適さないと判断された
人びとを待っていたのもここビルケナウでした。
三つの収容所の中でも一番規模が大きく(約1,7ha、東京ドーム37個分)、鉄条網によって1
2以上のセクションに別れており、男性、女性、ジプシーの家族等のセクションもここに含まれてい
ました。
2.-3. アウシュビッツ3またはモノビッツ‐ブナ(1942-1945)
アウシュビッツ3(またはモロビッツ‐ブナ)のあるモノビッツ村はメインキャンプから約7km
(4,3マイル)東に位置しており、ビルケナウに遅れて1942年の10月に開所しました。
ここは当時のドイツを代表する IG ファルベン社等の工場や施設で働く囚人の強制労働者の収容施設
で、ブナはその合成ゴム・合成石油プラントでした。他にも45のサブキャンプがあり囚人は厳しい
強制労働に駆り出されます。最初囚人はメインキャンプから7キロの道を歩いて通うために3時に起
床しなければなりませんでした。囚人の多くは到着しても疲労困憊の為に働くことが出来なかったと
いいます。
モロビッツ・ブナは民間企業の資金によって建設された始めての強制収容所でした。ここで総数約3
万5千人の囚人が労働を強いられ、2万5千人が飢餓や病気、常軌を逸した過酷な労働により命を落
としました。ここで労働する囚人の寿命は約3ヶ月だったとされています。
アウシュビッツのサブ・キャンプ
アウシュビッツの囚人たちは1942から1944年の間強制労働に従事しなければなりませんでし
た。労働の場所であったサブキャンプは40以上にも上り、主にドイツの産業プラントや工場でした。
一覧はこちら http://auschwitz.org/en/history/auschwitz-sub-camps/ (英語)
3. 強制移送、到着、選別そして“最終的解決”
3.-1.アウシュビッツへの強制移送
移送列車は全ヨーロッパから続々と到着します。強制移送された人の正確な総数は分かっていません。
多数の人々があの「選別」直後にガス室に送られたこと、また SS により多くの記録が葬り去られた
ことが主な理由です。その為戦後数多くの調査研究がなされています。9章も参照)最も妥当と思わ
れる推定数は以下のとおりです。
およそ110万人のユダヤ人がヨーロッパ各地から強制移送されました。国別内訳は、ハンガリー
(42万6千人)、ポーランド(30万人)、フランス(6万9千人)、オランダ(6万人)、ギリシャ(5
万5千人)、ボヘミア・モラビア(4万6千人)、スロバキア(2万7千人)、ベルギー(2万5千人)、
ユーゴスラビア (1万人)、イタリア(7千5百人)、ノルウェー(690人)、その他(3万4千人).
(出典:アメリカホロコースト記念博物館 http://goo.gl/u7gbhs)
その他の強制移送の犠牲者は約20万人。非ユダヤ系ポーランド人 (14~15万人)、ジプシー(2
万3千人)、ソ連軍の戦争捕虜(1万5千人)、その他(合計2万5千人。ソビエトの民間人、リトアニ
ア人、チェコ人、フランス人、ユーゴスラビア人、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人等)
(出典 www.auschwitz.org http://goo.gl/xbu8rB)
3.-2.到着と選別
移送車はアウシュビッツ2(ビルケナウ)に到着し、
人々は全ての持ち物を置いてプラットフォームに並
ぶよう指示されます。家族も容赦なく引き裂かれ、
一人一人二つの列に選別されていきます。
多くの女性と子供(身長1,2m 以下は子供とされ
ました)、年配の男性、それに病気や体調不良と看
做された人びとは左側の列へ、一方大多数の若者や
厳しい労働に耐えうると見えた人々は右へ送られま
す。
左側の列に分けられた人々には、誰であったか、ま
アウシュビッツ到着 1944 年 5 月か 6 月と推定
たどれだけいたのかすら登録されずガス室行きの運
命が待っていました。幼稚園や学校から移送されたグループの子供たちは引率の教員もろともガス室
に消えていきました。
右の列の人々は収容所の囚人になりました。ガス室行きは免れたとはいえ、殆どの囚人がその後、飢
餓や過酷な強制労働、拷問により、さらには極度に劣悪な生存条件や危険な労働環境のなかで命を落
としました。
選別の後貨車に残された囚人の所持品は全て集められ、収容
所内の所定のバラックに山と積み上げられ保管されたのです。
大量の洋服や眼鏡、薬や本、靴、絵画、宝石が
、はては祈りのためのショールまでありました。これらは定
期的にまとめてドイツ国内に送られました。
3.-3. “最終的解決”-チクロン B による大量虐殺
ガス室の建設:最初のガス室(クレマトリウム1)は194
1年アウシュビッツ1に作られました。約800人のソ連軍
被収容者から猟奪された靴の山
の戦争捕虜とポーランド人がそこでまず「試験的に」殺害さ
れました。その「成功」後アウシュビッツ2に4つのガス室
(クレマトリウム2-5)が1943年3月から6月にかけて建設され、稼動を始めます。同時期に
二つの農家(“赤い家”と“白い家”)も改装されガス室として使用されました。合計7つのガス室
が存在しましたが、殆どの犠牲者はアウシュビッツ2(ビルケナウ)のガス室で死んで行きました。
クレマトリウムは脱衣所、大きなガス室、そして死体焼却のための焼却炉のある部屋という3つの施
設から出来ています。SS はビルケナウで1944年11月までガス室による大量虐殺を行っていまし
た。
32分で800人:選別時に左へ分けられた人々は消毒のためシャワーを浴びるという口実で着てい
る服を全て脱ぐよう命令されました。脱衣後、全裸の男女及び子供達はシャワー室のように見える大
きな部屋へ案内されます。(壁の上部には偽装のためシャワーが)ドアが閉まると、空気に接触する
と毒ガスとなるチクロン B が屋根か窓などの開口から注ぎ込まれました。
チクロン B は体内へのまわりが早いけれど即死ではありませんでした。800人の人が約32分で殺
害されたといわれています。人々は最後の瞬間にシャワー室ではなかったことに気づき、息が出来る
窓を見つけようとお互いの上によじ登ったという。全ての人の死亡後、ソンダーコマンドと呼ばれる
特別なユダヤ人の囚人グループが遺体をガス室から焼却炉へと運びます。遺体は金が隠されていない
かと検索され(肛門まで確認)た後、火葬場に運ばれました。ひとつのガス室で、一日約6000人
の殺害が可能であったということです。 (説明、描写の出典は
http://history1900s.about.com/od/holocaust/a/auschwitz.htm)
4. 収容所での生活 Arbeit Macht Frei (労働は自由への道)
完き非人間化のプロセス: 選別で右に分けられた人々は非人間化のプロセスを通っていきました。所
持品の全ては奪い取られ頭髪と体表の毛は剃られ、囚人用の服と 1 足の靴だけが与えられました。
登録番号が腕に刺青され、キャンプでの強制労働に駆り出されます。そして収容所内の残酷で、劣悪
かつ、不条理な恐るべき世界に投げ込まれました。そして彼らは一週間もたたぬうちに、左に送られ
た自分の愛する人の運命を知ったのです。
ウィーン出身の精神科医ビクトール・フランクルは1944年10月にテレジアンスタッドからアウ
シュビッツへ移送されました。その時の様子を有名な著作「夜と霧」の中で描いてます。このような
限界をはるかに超えた状況の中でも人間の精神と魂が生きえたこと、人間がその外的な運命よりも内
的にいっそう強くありえるということ-‘しかもかかる証明は多かったのである’(P169霜山訳)
-の証言をここに見つけることができます。
ではその収容所内の生活はどんなものだったのでしょうか。(ウィキペディア http://goo.gl/8Rfubk、
Hisotry100s.about.com から引用、要約)
1 日の始まり:4時半に起床(冬は 1 時間後)、朝の点呼。囚人は外に5列に並んで立つことを命令
され、SS の士官が 7 時に到着するまで直立不動で待ちます。監視兵はその間、囚人に手を頭の上に
上げたまま 1 時間しゃがむことを強要したり、服のボタンが無いとか、食事の皿がきちんと洗ってな
いとかいった違反の理由で殴打されたり、また列から連れ去られていきました。
この朝の点呼において死に至る被収容者もあったのです。点呼が終わるとコマンドと呼ばれる労働ユ
ニットに別れ行進しながらぼろの囚人服のまま各労働場所へ。下着や靴下などは与えられず、靴は常
に足にあわないものが与えられ裸足でした。
カポー:囚人の中から選ばれた労働監督員のことで、労働中の囚人の指揮と監視の責任者でした。
1 日の労働時間は夏は 12 時間。多くは野外の建設現場での仕事や、穴を掘ったり製材の仕事など重労
働で、休憩時間もなかった(初期には昼30分あったようです)。日曜日は労働はありませんでした
が住居であるバラックの清掃や週1回のシャワーに当てられました。
生活環境 : バラックはあまりに混んでいたため上を向いて寝ることが出来ず、横になるにも体を立て
て休むこととしか出来ません。それでも体を完全に伸ばすことは不可能で、囚人服のまま、盗まれな
いよう靴を枕代わりにして寝ていました。
暖房施設はなく(冬はマイナス20度にも)、ツララが部屋の内部に下がるほど寒かったのです。ま
たバラック内部は湿気がひどく、虱やねずみが深刻な問題で、伝染性の疾病が頻繁に流行しました。
キャンプの各所に風呂施設が設置された1943年の時点で、衛生状態はある程度改善されたものの、
ビルケナウは1944年になってやっとシンクとトイレがバラックの内部に設置されたという状態で
した。
囚人にも限られた範囲での入浴の機会がありましたが、脱衣は各自のバラックで行い全裸で風呂施設
まで歩かなければならなかったので、多くの人はこのために病気になったり死に至ることもありまし
た。
食事: 配給量については諸説ありますが、朝は朝食なしでホットドリンク、昼は水のように薄い野菜
スープ、晩には小さなパン(約300g)が支給された。多くの囚人はパンを少し翌朝まで残してお
いたといいます。日々の食事のカロリーは700kcal を超えず、常に飢餓状態でした。
抵抗運動: この戦慄すべき生存条件にもかかわらず、抵抗運動が組織されていたことは特筆に価しま
す。最初の動きは1940年後半に既に見られ、アウシュビッツ・コンバット・グループは1943
年に発足。目的は囚人が生き残れるよう助ける、脱出の組織的支援、さらにキャンプ内での反乱の準
備等でした。*もっと読む(英語) http://goo.gl/oyNLC7
ウィトルド・ピレッキ (Witold Pilecki) は最も有名な運動グループの中のひとりで、アウシュビッツ
のボランティアと呼ばれました。彼はアウシュビッツ内部に入るため、1940年の9月にワルシャ
ワで故意に捕られられ、収容後最初の地下抵抗運動を組織しています。
こうして、ソンダーコマンド(ガス室で殺害されたユダヤ人を火葬場で焼く役目をしていたユダヤ人
囚人のグループ)による“ビルケナウの反乱”が起こりました(1944年10月7日)。かれらは
3人の SS を殺害しましたが夜にはこの暴動は鎮圧されてしまいます。
*もっと読む(英語) http://goo.gl/sJG72w
5. 処罰と処刑
ブロック11は収容所の中の刑務所というべき場所で、ここで規則に違反した人々が罰を受けまし
た。食料を盗んだとか、労働を適切に行わないとか、通常の洋服を着用していないとか、または脱出
や自殺を図った等々。収容者は常にひどい罰(拷問)や処刑を受けるのではないかという極度の恐怖
にさらされていました。
一番頻繁におこなれた罰は鞭打ちです。また多くの人は‘黒い壁’で銃殺されたり、‘ポスト’と呼
ばれた宙吊りの刑もありました。これは腕を後ろ回しに縛られ何時間も吊るされるので、肩の関節が
2
外れてしまいます。別の人は1,5m (16sqft)しかない‘起立監房’に4人で何日も入れられま
した。
また‘暗黒牢’と呼ばれた独房は、とても小さな窓ひとつの他はぶ厚いドアで外界から完全にさえぎ
られ、ここに囚人が酸素がなくなるまで入れられました。時には早く酸素をなくすためろうそくをい
れた SS までいたそうです。ここはまた‘餓死牢’とも呼ばれ、脱出を図った囚人が入れられ、死に
至るまで水も食事も与えられませんでした。
*もっと読む(英語) http://goo.gl/kdB9ZX
聖コルベ神父: フランシスコ会のポーランド人修道士で、1930年から1936年まで長崎で布教
したこともあるコルベ神父は1941年アウシュビッツに収容されました。同年7月29日、脱走者
が出たため規則に従って10人の囚人が任意に選ばれたとき、自ら進んでその内の一人-家族のこと
を思って泣き出した一人の男性‐の身代わりになって餓死牢に入れられました。
受刑者は飢えと渇きで錯乱状態のうちに死ぬのが通常であったのですが、コルベ神父は毅然として他
の9人の囚人を励まし祈り続けます。2週間の後、まだ息のあった他の3人とともに牢から出されフ
ェノールを注射されて殺害されました。代わりに命を助けられた男性、フランチェク・ガイオニチェ
ックは生きてアウシュビッツから帰り妻に再会し、その後コルベ神父の行為を広く知らしめるために
欧米を公演して回りました。彼の熱心な活動のおかげで、1982年ヨハネパウロ2世により列聖さ
れました。*もっと読む(日本語) http://goo.gl/kL4lSc
子供たち: 「収容所の記録はその一部が残っているだけですが、それによれば、アウシュビッツ・ビ
ルケナウに移送された約130万人のなかで、18歳までの子供と少年の数はおよそ23万2千人人
であったとされます。」(出典:公式サイトより)
子供たちどこから送られて来たかはこちらで(英語)http://goo.gl/oUCI6h
選別で残った子供たちの運命は、極度に厳しい労働条件、寒さと餓えという大人と全く同じものでし
た。また恐るべき医学実験の犠牲者ともなったのです。
一生存者の証言
何度死にかけた事でしょう。同じバラックの女囚が拷問にかけられる様子を見ながら、その苦しみを
感じ、何度恐怖と痛み、そして選別のストレスで身が凍る思いをしたことでしょう。バラックのなか
で私の隣にいたこの女性と私は、同じ運命を共にしました。到底描きつくすことの出来ない永遠にも
続くかと思われる恐怖を。それは1分が1世紀にも感じられ、次の 1 分は一体本当に訪れるのだろう
かという絶望的な問いかけでした。
ある日、長い点呼があった時-日が輝いており、私たちは殴られていませんでした-ある悲愴な考え
が心によぎりました。「どっちみち彼らはこの鉄条網の向こう側のクレマトリウムで私を燃やしてし
まうんだ、そしてアウシュビッツに来る前ワルシャワのゲットーにいたときに読んだ本の中にあるよ
うな愛の口づけを受けることは一度も出来ないまま死んでしまうんだ…」
14歳という年齢にして既に死を間近にした時、人はこのような深い思いと悩みを抱くものなのです。
ハリナ・ビレンバウム ワルシャワ生まれの詩人。14歳でアウシュビッツに移送される。(出典
http://auschwitz.org/en)
当時の体験を綴った「希望―いのちある限り」が邦訳有 http://goo.gl/fU69PN
*他の証言も読む(英語)http://goo.gl/Q5XHx
6. 医学実験
ブロック 10は医師により恐るべき犯罪行為である医学人体実験(断種、新薬テスト、乳幼児や双子、
小人等)が行われた場所でした。
断種実験: 1941年3月から1945年3月にかけて、SS の医師は X 線による断種実験を何千人も
の女性に対して行いました。クラウベルグ医師はまた子宮を接着・閉鎖させる目的で、子宮に化学物
質を注射しました。
新薬投与実験:
IG ファーベン社(アウシュビッツ3やサブキャンプに工場があった)の子会社であるバイヤー社は囚
人を「購入」し、彼らを新薬のテストのために使用した。囚人はあらかじめ接種を受けた後毒性物質
にさらされ、新薬の効能が調査された。
双子への実験:
‘死の天使’と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレ医師がこの実験の中心的人物であった。1943年から
1944年にかけて双子の遺伝子の共通点と相違点を明らかにするための実験が行われた。また人体
を人為的に操作できるかどうかも試された。およそ1,500の双子の兄弟が犠牲者となり、200
人だけが生き残ったとされる。
これらの犯罪行為は戦後‘医者裁判’として知られる裁判にかけられ、医療倫理に関するニュールン
ベルグ綱領の制定へとつながった。
*もっと読む(日本語) http://goo.gl/mhfHrZ
7. 死の行進と解放
他収容所への‘移送’-死の行進
1944年11月、ソ連の赤軍はポーランドに迫っていました。ヒムラーの命によりその時ガス室の
使用が中止され、クレマトリウムはユダヤ人大量虐殺の事実を隠蔽するために解体、改装されました。
ソンダーコマンドは死体廃棄場所など他の殺害の証拠を隠すよう命じられます。
SS により解放の 1 週間前に証拠は抹消され、記録は葬り去られ、建物も燃やされるか破壊されました。
そして何千もの人が死の行進が始まる前の数日間に殺害されました。
1月17日、5万8千人のアウシュビッツの囚人達は監視の下徒歩でアウシュビッツから出発を余儀
なくされました。そのうち 1 万人はウォジラウ・スラスキの西に向けて行進させられ、少なくとも 3
3000人は命を落としたとされています。別の2万人はドイツ国内のベルゲンベルゼンにたどり着
き 1945 年 4 月にそこで英国軍により解放されました。
行進の目的地であったグリウィスとウォジラウでは暖房のない貨車でドイツ国内のフロッセンブルグ、
ザクゼンハウゼン、グロス・ローゼン、ブッヘンワルド、ダッハウ、さらにはオーストリアのマウト
ハウゼン等別の強制収容所に移送された。水も食料も毛布もない貨車での移送は数日間続き、沢山の
人は移送中に死んでいきました。
1月23日ドイツ軍は‘カナダ2’に火を放ちます。そこは集団抹殺の犠牲者となった移送者から没
収した大量の所持品が納められていた倉庫のあるバラックでした。
解放
赤軍は1月27日にアウシュビッツに到着した時、そこに
はおよそ7千5百人の囚人がいました。彼らは衰弱や病気
で歩くことが出来なかったため残されていたのです。また
600もの死体、そして移送された人々の大量の所持品も
発見しました。例を挙げると、約37万着のスーツ、83
万7千の女性の服飾品、7,7トンの人間の頭髪その他で
す。
(ウィキペディアより)
Children on the day of the liberation
*アウシュビッツ解放時の映像(英語)http://goo.gl/pshmzQ
8. 解放後のアウシュビッツ
1948年にババリア政府(ドイツは連邦制)はこの地に避難民の住宅を設置し長年使用されました。
その後アウシュビッツ収容所で生き残った人々の努力により二つのバラックが再現され、1965年
記念館がオープンしました。起こったことを忘れないため、そしてこの場所の歴史を忘れないために。
30のバラックはコンクリートの土台で示されています。収容者が信仰していた 4 つの宗教の礼拝堂
もあります。現在の記念館のバーチャルツアーは http://panorama.auschwitz.org/
9. 犠牲者数についての調査研究
アウシュビッツの犠牲者数を確定するのは困難であることは
先に述べました。1942年初頭にヒムラーはこう言ってい
ます。「全ての死体廃棄場所は掘り起こして死体を焼却し、
灰も将来どれだけの遺体が燃やされたのか計算できないよう
に配慮して埋めよ」
ソビエト政府は解放まもなくアウシュビッツで 4 百万人が虐殺されたと伝えましたが、現在ではこの
数は実際よりもかなり多く見積もられていたと考えられています。
以来多くの調査研究がなされていますが犠牲者の推定数は総合計、内訳ともに異なった数字が挙げら
れています。
Hungarian Jewish children and woman on
the way to the gas chamber
現在アウシュビッツ記念館では、3章で書いたように、少な
くとも約130万人が強制移送され、110万人がアウシュ
ビッツで命を落としたという数字が公式に採用されています。
最後に
“各国の自己決定の権利の冒涜、国境の不可侵、人間の生命に対する侮辱と悪への受動的な態度が何
をもたらすか、覚えておこうではありませんか。アウシュビッツというこの場所から、我々は全ての
憎悪、反ユダヤ主義と排外主義を糾弾します。アウシュヴィッツを生き残ったプリーモ·レーヴィは
「過去を忘れる者は(その過ちを)繰り返すことを宣告されている」と指摘しました。
覚えておくことは私たちの義務です。ヨーロッパの、そして全世界全体の。ここでの苦悩した人々の
ために、このキャンプゲヘナを生き延びたご列席の皆様、あなた方のために。
また私たち自身のためと、そして私たちの将来のためにも。”
元被収容者ブロニスラフ・コモロウスキー氏、アウシュビッツ解放 70 周年記念セレモニーでの言葉
(出典(英語): http://goo.gl/kO87yL 画面一番下にあるダウンロード用ファイルの中にあります。
参考リンクおよび出典
「夜と霧」V. フランクル
(みすず書房)
アウシュビッツ公式サイト(英語)http://auschwitz.org/en/
USHMM – アメリカホロコースト記念博物館(日本語)http://www.ushmm.org
USHMM - アウシュビッツの項(日本語) http://goo.gl/23Euh8 http://goo.gl/hH7tYm
Wikipedia- アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(日本語)http://goo.gl/wZG3o6
(英語)http://history1900s.about.com/od/holocaust/a/auschwitz.htm
(英語)http://www.history.com/topics/world-war-ii/auschwitz
アウシュビッツ平和博物館(福島県白河市)http://www.am-j.or.jp/