羅 茶 - 日本宗教学会

羅 茶
マ
フ
日本神話に属する考察
を
村
−Ric?Spiritミしてのトヨタケヒメの紳
﹁御飯座本記﹂を見ると、
﹁和久塵巣日紳ノ子。蟄宇可能買弁ハ丘船稗ノ霊ノ紳也b
武
堆
とある。自分の考では、﹁蒋′軍神﹂といふlニ字は、どうも少くなからす怪しいものであぺと思ふ。
稲′重なら問える。詔ノ紳でも問える。箱′婁ノ前の三字の裡には、どうも相異った文化時期の
.イ
た宗教意識若くは宗数的表象が温故しでゐるやうに思はれてならぬ。果然﹁御鎮座停記Lを見ると.
是暮秋︰㌍鮎畑紺地
日本紳鰐に闊†る著痘
鼓甘ではなかったと見るべき
物であぇことは勿論であるから.この垂格は、寮生的には一個の﹁婁﹂であつて、呂tFr。胃m。旦1i軋
とある。そしてトヨクケヒメの紳︵豊字気姫痢︶が、トヨタカノメの命︵豊字可能東食︶と同一人
患久々知晶明星墨字慕晶鯛
とあ♭、﹁大殿祭痢﹂にも、
82丁
8コは
日本調諸に田†る考察
二
r帥三耐の御庄み弊奉れるもりにて長船雪空言は、御殿の御魂ね都く云る御名にて、こ竺︼耕lこかかれり。J︵日本書
紀通繹巷之
と云ってゐるが、自分の限には、頗る覚束ない見解と思はれる。﹁大殿祭両﹂や﹁御鎮座侍記﹂に
ぇた﹁箱′震﹂を解して、武郷象のやうに或る紳の御室となすのは、太だ無理である。箱ノ婁は、
まで稲の婁であ♭、稲の号itであて?と見るのが、穏曹でなくてはなるまいGこれを本務からある
人格和であつたもの∼婁とするのは、日本民族の宗教意識や宗教的表象が、文化の進展につれて生
起した流動と鍵相と一ピ閑却した固定的な.スクチックな考方の産物で争Qと思ふ。
トヨタケヒメは、古文献では食物を司る紳である。そして這般の職能を司る紳の名は、畢にト・
クケヒメに限らない。古文献には、多くの食物頑の名が現れてゐる。︵多くは同一紳であるが︶
ァヵタカノメの命︵若宇加蘭糞命︶⋮⋮⋮⋮⋮﹁御名帳﹂及び﹁廣瀬大息教戒詞﹂
タカノミクマの紳︵字迦之御魂紳︶⋮⋮⋮⋮・・﹁古事記﹂、﹁日本書紀﹂、
トユタケの紳︵登由宇気前︶⋮・⋮⋮⋮・;﹁古事記﹂及び﹁止由東宮儀式帳﹂
トヨタケヒメの軸︵豊宇束毘東沖︶⋮⋮⋮⋮⋮・﹁古事記﹂及び﹁延書式﹂大殿祭祀詞
オホグッヒメの紳︵大宜都比翼醐︶⋮⋮⋮⋮・・﹁古事記﹂
M クケモチの紳︵保食紳︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮↓
日本書紀﹂及び﹁山城風土記L
(6)(5)(4)(3)(2)
ヽJ 7 ︵
弼
三タカノの紳︵里芋賀能吏細︶⋮⋮⋮・伊勢の﹁壌座樽記﹂.﹁猿津風土記﹂
オホタカの紳︵大字加痢︶⋮⋮⋮⋮・⋮﹁紳名帳﹂
オホミケツ紳︵大御食紳︶⋮⋮⋮・:﹁建書式﹂祈年祭祝詞及び蹟詐大嘗祭、﹁文徳賓鏡﹂
︶
ミケツ紳︵御食津紳︶⋮⋮⋮・﹁紳名帳﹂、﹁止由東宮儀式帳﹂
9 ︵
ヽJ O
l ︵
等これである。
これ等の紳が、食物を管掌する神格であることは、その稀呼から略々察知
らう。﹁倭名類象抄﹂に、
冒本紀私望。保食品蛤椚知。師舐。保霊夢也。字誓食之慧。官是芸食物乏慧−
と云ひ、﹁古事記侍﹂器五に、
ゲケッノケサケ
買嘉比慧。宜ほ食。⋮⋮都は例の岩音。ミ此食姦
ぎ足先り。如是れば、免、辛気、宇迦宅同音にて右紳等の御名いづれも豊¢篭り。−
.ピーイング といふ如きみな同一方向を指してゐる。かうして、是等の存在は、
▲
川食物を禁て司るもので,特に稽のみを司るものではない。
8本紳括に闊†る考♯
何 人格紳であつて、精窒ではない。
と思惟せられてゐる。
829
830
日本繍賠に■†る寺豪
四
然るに一方に於て、自分蓮は、副の字をつけない、畢なる﹁タカノミクニ若くは﹁クケノミク
サケ ノー、L’▼
ウ■カ ′・−タ ▼
†﹂の稀呼を見出す。﹁和名砂﹂に、
稲魂劇名字介力美大萬。俗云宇加方夫大萬。
とあり、﹁延書式﹂大殿祭就詞に、
皇帝樽也。俗詞字賀能美多摩。
︵魂若くは婁︶に、自分は深い意味を認めたい。自分は、クマの
となすものでぁる。本居窟の如きは、
とある如きこれである。このクマ
意義を衰直に解して−鼠rit
へ㌣る名光り。b︵古事記博巷九︶
﹁和魂ミl‡、息轍︵紳岸又露光ビもぁり︶叉高菜五︹二十六丁︶に、阿我見斯能美多廊多廠比邑先ビあ云意にて、其功徳み捧
と説いてゐるが、何となく物足らぬ心地がする。一億﹁ミクマノアことか、﹁ミク†クマヒテ﹂な
どからして、激して単に功徳を荊へる言葉ではない。本務は、他の人の骨itを自分の身にわけ貰
ふことである。﹁給ふ﹂﹁賜ふ﹂の如きも、本原的には、婁魂の授受を意味する言葉で透って、自然民
族が、病人や頻死の人の口に、おのが口を曹て∼、そこから放れ出る婁魂を摂取し待と信じたのと
趣を同じうする。︵この風習信仰は、羅馬人の間にも行はれてゐた。︶
詮 てタ†ノブ己や﹃タ†フLの意味の解梓lこつさてほ、飯に折口信夫氏、金田〓児助氏等の卓説がある。
それからまた﹁クケノミクこや﹁タカノミクニといふ碑呼が、官僚的文献的耕呼でなくて、
飢
民間の俗稿であるといふことも、太だ示唆に富む。自分セちは、この言葉を通じて、素瑛な
またちが、乱等血勺i邑を讃仰したb敬長した♭してゐた文化階層の要を、ほのかにも眺めることが出
水ると思ふ。官僚的記鎖化した文献から見れば、かうした形の崇拝は、人格調教と和一致し
がき ぅに思はれたので、﹁俗云﹂とか﹁俗詞﹂など一種のことわり書を添へねば寛が済ま
らうが、宗教文化史的に見れば、クケノミクマやタカノミクマを単に稲のみに内存する、若
に稲のみを支配する精宣と信じた宗教的階層が、なべての食物を司る人格神と考へた宗教的
ヽ 先行Lてゐたことを示唆すると思ふ。そして箱の精室としてのクケノミクマやタカノミクマが、よ
民間一部の宗教は、より強大なC。屋r邑訂日
のお蔭で、依然として古い素数的
ゥ高級な宗数−・司祭や官僚の宗教では、なべての食物を司る人格前に皇で進展したに拘らす、い
ヽ
ヽヽヽ ♭低汲な宗教−
康象を保持したのであらう。かぅしセ解辞は、廉く農耕的自然民族の宗教意識及び宗教的表
展の過程や方向の性質を考へるとキ太だ訂然なものになつて凍る。
農耕的自然民族は、殆んどすべて精婁信仰を持ってゐる。それが農耕文化期に生れたか、若くは
それ以前の文化期に生れたかといふr費生期﹂の問題や、それを螢生させた原因が、政令的経済的
なものであつたか、若くは純心理的なものであつたかといふ﹁螢生望の問題は、曹面の考察に閑
8本紳鈷に中†ろ琴線
五
832
日本醐拝に脚†る考森
六
典するところがないから、その研究は他日にゆづるとして、とにかく農耕的自然民族が、殆んど例
外なく精霊の存在を信じてゐたことは.拒むペからぎる事賓である。
然るに農耕的自然民族は、植物成長の現象を、彼等の食養過程上の必菅冒結びつ
を得なかった。彼等のま要食物が、植働から成り立ってゐる以上、ノ訂g旨b訂gr。まhの現象は、彼
等にとつて最も大きな注意関心の封象でなくてはならぬ。彼等は、何物が植物を成長させるかの問
題を解決すべき立場に置かれる。そして彼等はこの疑問を解く鍵として、椅婁を持ち出さねばなら
なかった。何故なら、彼等にとつては、植物の成長は、一の超自然な現象であ♭、而して彼等の事
象解蒋のtbきr﹃に徒へば、超自然的な現象を生起させるカの源泉は、精婁であつたからで牒る。
かうして植物の成長を通じて蘇現する生成カが精霊の信仰と結びつくのでぁるが、その結果とし
て生れる或る種の精霊が.いかなる種類のものでぁるペきか一ぞ決定するものは.自分の考では、
川 食養過程の上に持つ植物の重要性
閂 自然民族の知力の進展の方向
であつたと思ふ。
へへgOa旨ny賀−、となしてゐる
農耕的自然民族の目には、植物は、食用のそれと非食用のそれとして映せざるを得ない。アフリ
カの或ろ士族が、あらゆる植物を単に二つに分けて、昌宏F−−と
833
如き.その一例である。習乳〓ぎ
の残像の﹁食へないもの﹂のすペてを含んでゐる。かやぅに同じく組物で今?としても、農耕的自
然民族にとつては、重要性の上に差異がある。従って植物持塞を考へる場合にも、彼等は食用植物
ヽヽ
の精霊一どより大きな注意関心の封象となすのは、極めて自然ぢ心理的蹄過と云はなくてはならぬ。
次に考へなくてはならぬことは、自然民族の知識は、常に乱=讐︼弓なものからgene邑なものへ、
。ぎi。uSなものからremO訂なものへと進展して行くといふことでぁる。だから同じく食用植物の成
長を司る精霊を考へるに曹っても、まづ個々の食用植物の精室の表象が生れ、それから、それ等を
包放した一の綜合的な持運表象が生れなくてはならぬ。これを賓際に欲すると、自分たちは、ペル
ーの士族の間に於て、嘉um冒こぎ計1マm旨erの義!甘藷の婁である︶、鼠n仁胃買入チャマメの
婁である︶、S与1日pm又玉萄黍の婁︶、Cg寧日芝ロp︵コカの蔓︶等を見出し、イ甘クすイ族の問には、南瓜
の精室、玉萄黍の精霊二且の精霊等が香して居ら\一エスパーニーラには、草色rit︵各は食用に供す
べき栽培根︶が見出され、サニーラ、ボルネオの土民、馬家人及び東印度のダイアブク族などは、稲
の精霊を待ってゐa。︵声J・P芦yn2︶H訂すyOrt訂穿宅W宅ld邑−乱Ameri2邑∵●p●芦こ
巴の文化民族にあつても、農耕生活を螢んでゐる百姓たちの間では、かう⊥た個的な穀宣の存在が
信仰せられてゐる。メクレソブルグやコ:一ユーに於けるRy?弓01♪■W−1寧千尋○ぶOp﹃wO馬の如き、
8本所括lこ陶†る考簸
hニ;l
‖本納話に脚†ろ考在
八
ソレジアに於け乙ノ⊇cP三ご明、の如、き.スピナルに於ける一宇つ芦t・・d︹申︸ざU土葬P︵きすbOgの如き、
︻苫¶∃m2−の如き、みなこれである。︵J.¢.冒軍G〇一dぎ冒gb、Spiri訂
ァーネベルゲンに於ける一首1pl一¶こ5岳t・p一1gの如き、ノダ丁リアに於ける○已?2岩︶W−1邑畠呂の
如き、一7ィルシットに聡ける
○〓訂9rn呂dつ=hO一三d参銅︶
これ等の事賓が、自分たちに敦へるところは、
A〓g−T−−eP01utiOコ○〓he〓3〇へG〇d−りーn冠●
Ⅲ一般的ハ仏農業耐.食物紳が生れる前に、個々のぎtu顎の精霊が生れる。
註 グラント・アレン氏も、そり著﹃洒の盟念の進化﹄︵Grぎt
一
時種の穀研が見出される﹄ミ云つてゐる。
に於て、﹃他界の∴てr・:J=ろ、苛も耕作の行lェれろ地域にぁつてほ、主要先金料−−−iてれが玉重奏でわ左lニぜよ、
畏椰子でわ・々に写⊥、甘煮でぁろに壱よ、はた米でちろl二ぜよ
ぎd蚤5.を目して、、訂のれ等の食養過程を最もよく保拝するものと考へてゐるか
拘 個々の訂已賢司の精霊が、いか打てる種類のものであるかは、その精霊を有す乙民衆が、い
かな一〇
に依接する。
といふことである。
これ等の民俗的革質及びその事質の致へるところ一ど胸臆に務めて.我が古史票数神話に於け乙丁ト
り一・−一・ン′
ヨウケヒメの命に締って凍ると、この郡鋸㌍﹁慧迂とせられてゐ一芸賓に、多′、の意味を誼みと
ることが出凍ると思ふ。この存在は本務単に霜の精窒と信せられたこと、沿スマトラ、ボルネオの
836
土民、特殊人、束印度のダイアック族に於けるが如くであつたらう。しかも地味の上から、気候の上
から、はた温度の上から、可行7り早い文化時期に既に稲を以てすべての食用資料の圭座に置くこと
を伶儀なくされた日本民族は、知力の費達、人格頑の観念の生起につれて、単なる箱の窒としての
トヨクケヒメをすべての食物を司卑前にまで推馨し一般化しなくてはならなかったでぁらう。
かうした心理が、舌代の日本民族に強く働いてゐたといふことには,多くの霹徴がある。その一
っは、カヤノ姫とその職能との関係である。﹁古事記﹂に、
カ†ノヒノノブチ
竪琴︹卿柳瑠.一紺︺蔓紳・⋮・⋮至芸。名如尉掛か訂。亦名詞−鮎郵
とぁり、﹁日本書紀﹂に、
伊弊諸寄、伊井井草⋮⋮・・於是陰始適合多夫琴⋮⋮:次生‘草敵軍野唯可亦名野槌。
とめるによつて明かである如く、草の紳︰野の紳である。野に生する草は、さまん1であつた竿で
ある。カヤに限ったことではない。然るにカヤを以て草を代表させ、野を代表させてゐるのは、舌
代口本人が、屋蓋の葺料に主として葺茅の類を用ひてゐたからでなくてはならぬ。言葉を換へて
云へば、彼等の草に対する、若くは野に対する概念が、﹁有用﹂といふことに支配せられて、▼野に生
えた多くの草の中のカヤが、一個のく已莞→詔n雷になつてゐた食めに、野の和事の紳をカヤ紳によ
8不和話lこ苗†る考簸
九
836
F本紳括に闊†与奪蘇
って代表せしめたのである。
イずナ・−
ハ一一††ヒノ
・Iタハノノ
生名火紳軒遇突智︰時。伊弊舟寄食£封追突智−所レ鳥而絵美。其且一艇之開。生一土紳増山姫及水耕同条女可
その二は、ハニヤマ姫君くはハニヤス姫とその職能との関係でぁる。﹁日本書紀﹂一書に云ム。
カグツチ
と。また他の一書に云ふ.
ハー二てス′カ・−
伊井舟寄生l火産琴時。食草庸一焦而紳退臭。亦云屯所避奏。其旦紳退一之時。則生永前岡象女及土祀増山姫“
と。更に他の一書に云ふ、
伊非旦婆雷撃伊琴旦翠共生▲大入洲国﹁⋮⋮叉生一海浦等?⋮:土紳夢一喝安所可
と。即ち舌代日本民族は、土の紳の崇井と醐話とを有し、そしてその鱒哲ご一ヤ†若くはご︻ヤス
と呼んでゐた。然るにご一は、土の絶稀ではなくて、特稽の土でぁる。埴土である。器物を造る原
遼待安l定区i弐
故既−取レ土之寧日占職安“
’†
料となつた粘土である。それにも拘らす∵ご−ヤマ若くはご−ヤスの稀呼によつて呼ばれる要路が、
窮自育成争議紳可
翠に埴土を掌る紳ではなくて、一般の土の紳とされたのは、﹁日本書紀﹂神武天皇の備に、
世故支香山之租土可以造入十字軍叫
とあるやうに、土の<已ロ?籍ntr2は、かかつて埴土にあつたからでなくてはなら温。
自分たちは、これ等の革質から類推して、食用資料の償伍の中心であつた稲を司る婁が、やがて
はなペての食物を司る存在にまで一般化せられる運命を持つに苧eJとを換想しても、強ち無稽で
837
はないやうな気がする。
ヨソモノ
二
﹁外者﹂ミしてのサルダヒコの紳
天孫一三ギの骨が、天照大神の命によつで、高天成から豊葦原瑞穂閏に降下されるとき、サルダ
コの紳が、天之八街にゐて.その限の光が,上は高天尿を照らし、下は葦原中岡を照らした。それ
故天聴に随従した諸々の軸は.これと日を合して﹁不一得高野﹂であつたので、7メノウタメの命が、
天孫の命を奉じて、これに立ち向ひ、
﹁露其胸乳抑裳帝於臍下而芙唆﹂することによつて、これを厭服したとある。これは﹁白本書紀
一書の記述で.﹁古事記﹂には、サルダヒコの醐が、這般の異様な目の♯圭であつたことや、ア
ゥヅノの命が,陰私を示してこれダ厭服したことが説かれてゐない。しかし之に立ち向つたアメノ
J﹁ムカフ タブメの命が﹁面勝紳﹂であ♭、﹁伊牟迦布紳﹂であるといふ理由によつて、同前との交渉する後々
負はせられてゐることから推して、サルダヒコの頼の目が、一種特別ぢカを持ってゐセことは、略
明かであらう。さてこの一段の紳諸については、嘗て、
印 サルダヒコの耐に封して、前々が﹁不待目膠﹂であつ化のは、重責するに二同前が、﹁邪限L
︵亭主e3︶の拝まであつたこと。
日本紳話に脚†る考搭
8:は
日本調話lニ闊†る考察
拘 アメノウブメの命が、陰私を露呈して、サルダヒコの朝一ピ厭服したのは、陰私が、生成の
反動カとして、産物に封す・Q大きぢ扇風カ.厭屡力一で有するといふ信仰の一つの現れで・¢
ること0
を論覆した。
しかし一歩を進めて考へると、サルダヒコの紳が、邪限の持主で一のつたといふ推定は、更に一個
の興味ある解繹を胎んでゐるやうに思はれる。それは、サルグヒコの紳が邪限の拝まであつたとい
▲モも○
ふことは、同軸が、天孫系の民衆とは臭った民族︵若くは同民族でぁるとしたら、.日本来任の時期
の先攻のために、異民選らしく考へられた民族︶の前−1要するに天孫系の民衆から見て﹁外老﹂で
あつたといふことの一個の傍諒とする億伍があるのではあるまいかといふことである。尤も同軸は、・
既に﹁古事記﹂に於て、
﹃僕者圃紳。名援田島古紳也。所以出居着。阿天紳御子天降坐故。仕奉御前而。巷伺之停。﹄
クエツカ・− と、自ら﹁固紳﹂と名乗りをあげてゐる故、天孫系の民衆とは、臭った民族、若くは異ったと考へ
られた民族の紳であつたことは、略々察知せられる。ただ自分が指摘したいことは、
川 サルダヒnの和が邪限の柿壷であると考へられたといふ事賓が、同軸の﹁外者﹂でろつた
ことを更に裏書する。
判 同じく﹁外着﹂であるとしても、形膿杓に天孫系の民衆と可ハナウ臭ってゐたらしい。同
に於て、
族でめろのが、異民族と考へられたといふよ♭は、寧ろ賓際に異民族であつたらしい。
といふ鮎である。
ジョージ・∇−レンス・ゴム氏は、その著国t−1g−Ogy山−1芽ニハ︼Ore
r最も顕著な形の迷信わ生み出し主ょ=ろのもりl‡、何︼種族の部族間の敵意では克くて、異光つた椙族の閉め敵意でぁろ。
相異ろさまざまり唱族が、相托申して久・しく住居Jてゐろミ=ろで托、到るミ=ろで、種族間の敵意が、常に迷信み生み出
J㍗ミいふこヾJl‡、我々の科挙の公理¢一?写して設写し稗られ・の。b︵00mヨ○、p●缶二買︶
と云ってゐる。
ゴム氏の言稟は、大優に於て正しいと思ふ。自然民族の﹁おのが住土﹂﹁おのが民衆﹂﹁おのが
に対する執念は、文化人のそれ等から類推してはならぬさまぎまな特異性を♯ってゐる。
自然民族の巷間表象は、彼等の時間衷象に於けると同じやうに、それが太だしく定性的であり、
日本新話に厨†る考搭
ても、おのが任土でない地域は、異った精蛋や紳等の支配する別世界であ名。畢に土地が違ったと
くて、そこに存在する神々その他のものを合んだ地域である。だから谷一つ越えても、川一つ渡っ
られ表示せられる。いなむしろ戚得せられる。﹁おのが住土﹂とは、畢におのが棲息する地域では
ない。該地積・ざ浦してゐるすべてのもの一と地積との由に不可分鑑な共享的関係があるとして思
限定的でぁることを特徴としてゐる。ある地積は、決して畢なる巷間的ぢ贋がらとしては考へられ
839
840
日本紳正に田†る考蘇
一団
か、住民が別だとか云ふだけの問題ではない、彼等の住むところは﹂言葉の充分Ⅵ、そしで厳密な
意味に於て、﹁披﹂のもので今0。任土は、自然民族にとつては、おのれの句○㌢n已ityであろ。レ
ブ.ブ,ユール氏が、・′、の薯﹁原始的心性﹂︵L言・︼蔓l一二ど﹂き旦邑l忘望邑l且に於て、■
冒uこ象primitiPF・蔓1釘nt邑。ndニ、象ちe。、C。−11n−。e各。dutem電こ乱すnニそ旦旨β已旦豪雪月雇き妄言呈邑
ど巨虚琶巨忌
q邑it邑声訂:宣○己dニ、。竜呂ロ0容ntp覧en苫きnlpr。p弓m芝居r釘nt
eOn色賃きOP cビ呂−nの邑iロ乳ppl・PEOdOeOq一♭︼♂ヨーpe●︵pワ冒︼、N鍔︶
と云ったのは至言である。
自然民族の巷間表象が、かやうに定性的、限定的、区別的なもので透って﹂料して
なものでなかったと同時に、彼等の赴食生活が文太だ不安なもので匂った。√彼等の多くは∴バブテジ
氏︵対象訂n︶が造成し佗やうに、﹁苦痛経済﹂の時代にゐ㌃。食物供給伊不規則から乗る飢饉、衛生法
に射する無知から凍る疾病、▼防輿カの故知から凍る動物の危害等、彼等を脅か七傭ますものが、頗
T訂○匂。、許eiむ句OrC率参照︶
る多かった。就中彼等の心配したものは、種族間の零闘の頻繁と敦烈とに困す石地種族の静怖妹意
とでなくてはならぬ。︵Ptt苫−ヨe
かうした事情の自然の産果として、自然民族は、
囲 おのが種族が、異におのれ等のものとしての住土を持つと同様に、.他の在族は具に彼等の
ものとしての任土を祷つ。
841
何 相異なる住土や種族は、相異る精霊や紳々に支配せられてゐる。
閏 従って種族間に等闘と怜慈とがあるやうに、精笈や赫々の問にも零閉と情意とがある。
拘 だから、他の種族とその種族を支配する精窟や赫々とは、ひとしく恐るペきものである。
拘 さまざまの悪しきもの恐るべきものは、他の種族そのものや、その精震及び所々に内存し
てゐる。
と考へるやうにならざるを得なかった。かくて馬秀人にとつて.原住民たるジ†クソ人が、超自然的
なカと、自然界の秘密に関するあらゆる知識を持った、恐るペき存在であつた。︵J呂rPInd・Ar。F IT・
ヨ、慧・︶。西部オース!フリアの土人たちは、北部に住む他族を目して、意魔的勢能を有し、自由に
悪魔に舜形することが出凍るとなしてゐる。マダガスカルのホプア族は、原住民であるブアジムバに
対して超自然的な霊能を認容してゐる。︵2mn″。、Op・Ci︷−p・缶こヱ。ニューギアナの沿岸民の精窒に関
する信仰も、隣接した原住民に射する恐怖から引出されてゐ一〇。原住民を保護する精霊どもは、新来
まごこヾ︼
一
着たちに戟を挑みかけるし、原住民そのものも.それ等の特定に倖はれて、さまざまの凶事を営む
死亡へ与どの凶事が、頻々と起って凍ると
と信せられてゐる。ラウェス氏の記するところによると、原住民が近くにゐると、そのめたらの中原
は、悪登に充ち満ちて、草地、儀僅、暴風雨、洪水、浣弼
いふのでぁる。︵F司包、T−・旨pヨぎ0︼・哲つ・声弾︼IH・拉岩、旭日ダ臼つ・︶
8本御託に閤†る考蘇
細
︰l*︳︳に■†‘●嘉
自然民族が、かやうに、凶事の源泉を異なる種族に想定してゐる壬すれば−凶事の一つでぁるト
ニろの邪取を、同じく兵務に観じようとするのは,頗る自然な心持であると云はなくてはならぬ。
ぅ考へた。サンナイトとシイイブトもお互に他を邪限者として恐れ揮った。︵牢二戸We賢Opp−2邑i■巾
は恐ろじい。彼等は嘗意める魔編者であう、窓塞を件ふたものであり、邪限の持主
アルメニア人はー土耳古人を邪娘の持主であると信じ、土耳古人はまた希胞人、ア
するときに、地境で厳重な.そして面倒な澤斎の儀式を執♭行はねば安心が出奔なかつたd﹁胴部﹂
ねば寛がすまなかった自然民族は、自分セちが兵士に入り込んだら・射手が兵士か
とであつた。兵士からの忍婁を厭勝し防過するために、おのが任地の現に、さまざ
が相作用して.自己種族以上に異種族に多くの、そして強烈な邪限の拝まを駁するのは、曹然箪J
しかし今写ったやうに、交通の困琴言語の不通、卒園復讐の頻繁激烈−およそこれ等の事情
弓乳rOpp−吋乱2.串扁m甘邑訂−訂P等ね重商。
註=9、ミに闊J謹、四賀習6日ー旨どberF邑d昆A膏や、句・弓・苧○ユぎ碧空1音や、声芦
徐地は、充分に存する告である。︵註︶
もとよら邪限の恐怖は、同二鱒族の間にも存してゐた。邪限の信仰が、豊魂や生命
及び目から放射せられる族みや患意の可能性に基づいてゐる以上、隣りの人の目に
▲・
母乳良計︼憎・夢︶希膿のめる島で、一人の老嬢は、ペソ一成に面接したとき.氏の邪限を慮って、頻
りに十字をきつた。︵トβ宮口t、Tb昌首鼠きローP︶
かうした事情が今んために、異った民族の接嘲葛藤を詮く紳話や博詮には、その一・が他を邪限の
持主としてごれと日を合せることを避けたことを語るものが、往々にして見出される。ケルト族の
問に存するメロル︵謬−Cr︶の紳話の如きは、その好適例である。弓宏已呂deD昌呂n族と句。日。り族
との季陶に於て∵前者が後者を恐れた最も大き笹原因は、フォ竜ル族の中のメロルが兇猛な邪限の
主で、これと日を合するものは立ろに死ななくてはならなかったといふこ、とでぁつた。かくてダナ
ソ族の勇者どgFは.玉石をメロルに投げつけて、先づ彼の目をつぶすことに努め詑。青い文書に、
モA訂−巳um−訂彗うこざ弓こぎき
各i臣tFOT邑どせ∞せ呂Pnn訂d乳首t訂日、、ぇ司監t訂t冒0訂一訂首r好評lOよ童gOごE、int訂b呈︼由0〓訂﹃邑
胃m−寧モ
と歌ったのが、即ちこれである。︵9邑亀ぞire、冒試盲。︼。笥。ニど家臣H巴呂du、憎・−−P︶
かくて天孫系の細々ぉして目勝つこと虐待ざらしめたサγダヒコの醐の日が邪限であつたとすれ一
ば、それはやがて同所が、天孫民族と異った民族.若くは同一民族であつたとしても、日本に森住
した時代の先彼の関係から・﹁服部﹂であると考へられセ民族の醐であつ欠ことの一傍忍と打了り
打算︳簡に■†る専■
と言へはしないだらうか。それについて自分克ちの日を牽くの咤天我民の目に映じた猿田彦醐の
843
844
日本榊話lこ園†¢善療
容貌形騒が太だ異様であつたといふことでぁる。﹁日本書紀﹂の一書に、
﹃鼻長七児常長七尺餃︹苦言七琴︺且口尻明確眼如八尺蛇而轟然似泰醸曹也。﹄
とある。かうした記述を預から馬鹿にしてか∼る或る一波の畢徒たちの畢問的軽率に、自分は賛同
することが出奔ぬ。史的革質だけが、眞の革質であつて.心理的事賓はさうでないと,何人が断言
することを得るだらう。ある民族の過去の生活を窺ひ知る資料としては.主観的事案が持つ慣偲は、
決して客観的事案が有するそれに劣るものではない。いな往々にして、前者は後衰に優る侶偲と憑
雷性とを内存させてゐる。なせなら史的事賓、客観的事賓は、その中に些少の過誤が合まれてゐれ
ば、それが持つ憑青的憤偲は、手痛く損はれるか若くは絶無に踪してしまふのに反して、心理的事
賓、ま軌的事賓は、客観的妥昏性に映けてゐても、その憑澄的樺成に何等の毀傷をも受けないから
である。賓際の事賓がどうであらうとも、める民俗が、それに対して圭戟的にかう思ふたといふこ
とは、毅然たる一個の事賓でなくてはならぬ。その考方が、客観的にはいかに事賓に背戻してゐて
も、主観的には、あくまで眞賓である。だからさうした主観的な考方は、それを通じて民族の生活
心理を窺ひ得る立派な憑澄に㌢匂。
ある民族が、他の異った民族の形憩に関して輿へる侍承は、即ちかぅしたま軌的心理的事賓の一
っであム。異民族に射する心理的印象は、往々にして賓際の事賓と違ってゐる。しかし賓際の事賓
と逼った印象を輿へられるといふことが、心理的に見て事賓であるとするなら、自分たちはそれ一で
その櫨に受け入れろのが本皆である。.♪タブニア人は、永い問主人叢として物語られてゐたが、今
ヘブライ人は、アナクと解せられる主人族の倍詮を倍へてゐるが、これも
日では賓正の民族で、しかも身長は平均六択であるに過ぎないことが明かになつた。﹁氏数記路﹂や
﹁ヨシュア記.岬によると.
日本紳話に閑†る考客
すぐに察知せられ一笑﹀オルガンチソといふ伊太別の伴天蓮が、日本に渡蒸して、織田信長に引見せ
日本人もさうした心理の持主であるのを免れなかったことは、F南蟹妖法記﹂の記述を見ただけでも、
主観的にさぅ見た、さう考へたといふ箪貨の簸正さをどうすることも出凍ないではばいか。そして
られた形憬的記述若くは侍承が、賓際の形磋から見て、いかに間違ってゐるとしても、ぁる民選は
は、少許の形岱約特典が、大きへよ沌坑を以て、その心理に印象せらるゝといふことである。誇張せ
これ等の事賓から、自分たちが確知し得ることは、ある民族が、ある他の民族に接簡する場合に
侍説の侍ふるほどには大きくなかったといふだけである。
の南部パレスタインには、賓際シュム族に先って、主張の非ジェム族が住んでゐた。ただその身長が,
A呂山旨﹃。、苧−−−邑ぎi−−2邑1凰の中で言ってゐ一〇ところに徒へば、ヘブロンからアシドドにかけて
は、ヘブロン附近に住んでゐたと倍へられるが、マタリスクー氏が﹁ハレスタイン文化奴﹂︵ぎ邑isぎ
最近の研究によラこ、賓在した民族であつたといふことが略、明自主仏つた。僧詭上の五人族アナク
S41i
日本■紆に闊†る考察
モの著一山¢人生−の申に輿へられ㌔山男山女¢形態に蹄→る日本会記述が、概して異様尤ものでぁるミいふヰ童
クエツカ.1ヰビカイハすンワク
や、記紀に現る1圃所が、尾み生やL圭井泳鹿?石神牙之子芸うに、特異光形相みLてゐわモいふ=妄ビみ専
ダの静江、完立ち行くb=え怠学る琉球訪¢冒ダル白から出㍗も等わらう軍推断盲れ㌣=言、柳田伊具氏が、
註光ほ=?、ミについては、伊波普獣氏が、その著完球音今空中三猿m菱餅の意義な詳手芸で﹂に於て、サル
見て曹然でなくてはならぬかである。もしさうだとすれば、高天原から降ちかけて
した猿田彦なるー一人物に関する天孫民の形態的記述が、太だしく異様であるとい
が、自身元ちと相異った﹁外者﹂を目陪したときの心轟や印象を反映してゐると考
はなからうか。
上モもの なら.だしぬけに﹁外者﹂に接し空般民衆なら、こんな風に異楼な印象を受ける方が、心理的に
のでないことい雪芸人の莞記で空ことの大切な記披に誉。もし記述の内容が霊的革
質的になつてゐれば、それこそその内容の怪しさ具さを漏らしてゐると云はなくて
であつた。これではなるほど村上直次郎氏の云はれた通ら﹁伴天蓮はまるで鬼﹂で
ヽヽヽヽ 分たちに云はすれば、記述がかやうに非現質的であるといふことそれ自
克ク袖長シ左空前こ令テ堀撼ノ果チ⋮ゲクルガ如シ月鞄少シモ膵クル慮ナク甚見昔欺シキ風俗也。b
られたことがある。而して曹時の日本人の限に映じたこの倖天蓮は、
冨長七尺、合健メ蒜チイサシ顔色赤ク眼ハ圃クシテ茸也鼻高久大塊ノ如ク耳ハ
サモ長シ手足ノ爪ハ熊ノ如ク舞茸鼠色也年齢五十雪見エテ音詩不通鳩空似メサ
846
847
我が国に於ける母系母権制の痕跡の問題
へ●†べきであら、’。
三
我が国の古い文化が母系母権の制度を持ってゐたか否かについては、可捏アり早くから肯
棲の種々の考設が現れてゐる。白鳥庫盲博士、三宅米吉博士、於岡静雄氏、近くは﹁女人政
若者としての佐喜泉典英氏の如きは,そのまなるものであらう。
自身もこの開港には大きな興味を♯ってゐるが、まだ研究の港についただけで、今のとこ
かに交番を極めることが出奔ぬ地位に置かれてゐる。ただ母系制度、母権制度が、日本民族
の文化生活に行はれてゐたであらうならば、まさしく後代の文化の諸相の上に残すであらう
れる痕跡と認め得られるやうなこ三の現象を、他日の研究費料として、書きとめて置きセい
吉事記﹂を見ると、垂篇に亙って、誰某は誰某のオヤといふことが、夢しく記載せられて通る。
こ︼
而してそれが父君くは父親である場合は、殆んど常に単に﹁オヤ﹂と呼ばれ、それが母君くは母組
である場合には、殆んどすべて﹁ミオヤ﹂と呼ばれてゐる。
﹁あは、園紳、名は贅持之子とまをしき。こは、あだのうかひの引。﹂
日本■♯に如†る専縦
日本所謂に関†る考察
た。父君くは父親に輿へられない美禰食滞が、母君くは母剋に輿へられたのも、翠
ろから警ゐるかも知れぬ。しかし若し我が国の古い文化が、母系母描の制寧品って
女性はクワーレー氏が云ったやうに・姦の冨鼓L碁トと見られて、大きな畏敬の対象であつ
い文化階層に告ては、女性は男性望に1星c?rel嘗芸榊芳の楳有着であると老へられた。
であらうか。この現象を直ちに母系母権の制度と結びつけて考へるのは早計でゐ
﹁そのり利刊オキナガタラシヒメの命、きりさけ嘉みて・たてまつらしき。﹂
等とあるが如きこれである。
.
か
母苧は母瓶吋り刈可と呼ばれ票といふ問題に逢着、言。忍美雫あ基警空ことには
が嘉らう。然らば我々の祖先は、何故に美解合謂の市価⋮によつて両者の間を差
﹁このオホナカツヒメの命は、カブタカノミコ、オシクマノミコのJ︰1引にます。﹂
﹁そ取引イスケヨリヒメぅれひまして﹂
﹁ゐは、団紳、ゐびかと享ピしき。こは富野首等が可刊掌り。﹂
﹁そのオトニソカシ、こはクダノモヒトリらが可刊へ号ト′。﹂
等に対して、
S4S
S49
,I
してその痕跡がいかなる形で残るペきかを考へたら、かうした革質も、這般の混跡の一つ.j見られ
ぬことも小甘いであらう。
﹁古事記﹂には、また紳の名が奉げてないために、それが父を指すか母を意映するかが、一見不明
.
のやぅに思はれる場合に、封可叫の語を持ち出してゐる。そしてさういふ場合の可利.刊1は、物語の
前後の関係から察すると、常に母を精してゐる。
関 大捕ま命が、八十紳のために苦められる段に、
﹁その可利ヤlの命琴き息ひて、天にまゐのば♭て﹂
とあ丁り、また
﹁封利.ヤlの命、みこにのトたまはく、スサノヲの命のましますネノカタス由にまかでよ。﹂
とぁる。この場合のミl利刊の命は、大国主命の父を意味Lないで、そ−の痩ブタクりす;
メを意妹してゐる。
判 春山乃霞杜夫と秋山乃下泳杜夫とが、美女イブシヲナノを季ふ段にも﹂
﹁ここにその兄、弟のえつるこ4をうれーたみて・そのうれづぐヰの々懲ほす。■か廠その母
l
に愁ひまをすときに、き引可のいぺらぐ⋮・⊥
日本新苫に∬†る考察
850
日本紳括lニ膠すろ考察
と一項・¢。この場合のミオヤも勿論二人の兄弟と母を指してゐ一¢。
かうした一見奇異に思はれ一心現象の記錐は、ただに﹁古事記﹂だけではない。その他の古文献に
も散見してゐる。﹁出雲風土記﹂の如きはその一つである。だから自分建は、這般の現象を単なる偶
然と解し去ることの出来ぬ立場に置かれてゐると云はねばならぬ。
・・、ザハ
F出雲風土記﹂仁多郡三澤鄭の條に、
命。御子究払耐。卒−巡八十咤
ミヤヤノ・・・コト
大研大穴薄命細子阿速射伎高日子命。御薪髪八拉丁宅婁夜業坐之じ餌不レ迫。固持弧
手長加志給郁。狼不止英之。大沼夢駁給。止‖‘御子之失由刈夢樹新生。即一歩見地仰子郎泣叫則椙糊給。帯締御
然三間給。帥御私的立去於坐而。石川度。茨上至留。申恵寧也。闇昨其澤水沼出面。借受.仰渥坐。故国追納宕事葵。
とある。この場合にも、異き叫ぶアデスキクカヒコの命を舟に爽せて、八十島を巡りながらあやし
ミオヤ′ミコト
た人物は、単に租命とあるだけでぁる。名は怒げてない。そしてこの﹁厳命﹂によつて指示せら
れた人物は、アデ↓︵キクカヒコの命の臆クキリの命︵多紀理命︶である。
かうした書きざまは、自分達の目から見ると、太だ陵昧であるやうに思はれる。しかし古文献が
這般の古きざまを漂ったのは、特に名を怒げなくても、りJ封﹁刊主︸ぢただけで、その何人−父と
母との何れを意味す一︺かが、蕎むもの∼、若くは聞くもの∼心に直ちに通するのを常としたからで
へ仏くてはなるまい。若しさうだとするならば、我が甑の古い敢食生活は、ミオヤによつて母君くは
母親を意疲してゎた時代を待ってゎたといふことになる。
更に一歩推論を進める。若し我が国の古い家族制度及び赴骨髄度に於て.ミオヤが特に母方を意
映してゐたとするならば、それは、血筋が母方を主として辿られ、父方は眞の意義に於ける血縁的
な親と認められなかったことを示唆することにわ†りはしょいか。この推定にして皆ってゐるとする
ならば、古文献に於て、Jのる者の血統を記する場合に、将に母の名を奉げて、父の名を無成する賓
例が見出さるペき誓である。そして賓際の革質は、その然ることを示してゐる。
﹁日本書紀﹂孝昭天皇の條を見ると、オホヰヒメ︵大井媛︶の血統を説きて、
て毒づ倭ノ圃翌秋狭大建ノ女大井媛也。
ユタ
とあム。即ち父の名を奉げないで.母の名のみを記してゐる。そして﹁一云﹂として、特にこの記
述を割註の形で書き入れてある顎頗る注目に償すると恩ふ。﹁日本書紀﹂に於ける血統の書きぎま
はなべて父方を主としてある。それが昔時の賓際の家族制の反映であつた。だから父を無成して、
母の名のみを袈げる侍承は可打アり異境に思はれ霊あらう。そしてその心持が、オホ井ヒメの血統
を劃註に細番させたのであるまいか。
しかし血統を辿るに母の名のみを以てする書きぎょは、決してこれだけではない。﹁日本書紀﹂に
ヽヽ 汎 比して、I†り素朴古風な社食相を侍へてゐると思はれる﹁出雲風土記﹂を見ると、多くの人物につ
日本調話に闊†る考癖
鑓三
日本網膳lこ声†も蓉縦
二大
いて同一の手法が用ひられてゐ一Qのに気がつく。即ち次の諸人物は、温く女御カミムスビの命の子
として奉げられてゐる。だからこの書きざまは、決して出鱈目ぢ、罵bit2月ものではなくで、質際
の家族制度をその背景に持って居るだらうといふこと空不唆する。
ヤヒpホコナガヨリヒコノミコト︵八尋鋒依長日子命︶
ウ/ムカヒヒメノミコート︵字武賀比比爵命︶
キサカヒヒメノミコト︵釈佐加比比裏命︶
︵天排枚伍可美高日子命︶
アメノミL・Ⅵソノミコ・ト︵天御鳥命︶
アマツキチカミタカヒコノミコト
アヤーヒメノミコ、ト︵綾門日女命︶
と云ってみる。何だか到ったやうな到らぬやうな解繹で、頗る要領を得てゐない。母系制など云ふ
故ぞかし。﹄︵日本書紀通精強之二︶
﹃此lェ、紳等二桂軸の御問に生坐れミ紳星座露命lェ、その御母にこ語り座すが故lこ、御子わば苺ミ此前に係て、詐り停へたる
この一見奇異に恩はれる革質に射して、飯田武郷窟は、
げられた人物は、一人も之を見出すことが出水ぬ。
等がこれであ一心。然るにカミムスビの命の夫醐たるタカミムスビの命︵高御魂命︶の御子として凝
(6)(う)(4)(3)(2)く1)
653
ことが考の中にない時代の解粋として止むを待ないことではあるが、この制度を胸臆に戴めて、か
ぅした書きざまに射すると、白も何ものかが骨得せられる。
一一億タカミムスビの紳とカミムスビの紳とは、多くの赫々のうちでも、殊に屡々ある人物の刈羽
として怒げられるのであるが、文献を見ると、その奉げ方に三つの型があることに気がつく。
川 南紳を奉げる型
拘 タカミムスビの軸のみを奉げる型
拘 カミムスビの紳のみを奉げる型
がこれである。﹁本朝軍船﹂に、カナトミの命︵加奈止美命︶を、
冒阿鼻産砿典卵星座荘之子也。﹄
としてゐる如きは、第一範型に屈し、﹁姓氏鉄﹂に、
イクムスヒ
﹃恩智鮒主高魂命兄。伊久魂命之後也。・﹄
とめる如きは、第二範型の例でぁり、﹁碑名式﹂に、
﹁出雲図紳門郡。紳魂子角疑紳﹂
とある如きは、第三範型の例である。
かうした現象はどーぅ解すべきものであらうか。母系制から父系制への鼻轄の時期に昏然生起すべ
日本調話lニ陶†る考察
仔本紳怯に闊†る専蘇
は這般の観念勃拓と因果園係を持ってゐるかも知れぬ。
かうした血統上の混乱は、易の考だけから云へば・どうして孟洗髪の動揺の塵奥
はれない。もしこの推票替ってゐる与る苦ば、第一、竺重義型甲並存といふ婁も、
御魂命入港孫。味耳命之後也とある。
拘クメノアクヒ︵久歪︶は、﹁姓氏讐には、刷魂命八世孫。誉命之後也と雷、まセ高
カミムスビの紳の子とある。
拘三アキッヒメの命は、紀一書には、カミム⋮の細の子とあゎ、記及び紀毒に
の命の子となつてゐる。
囲+スクナヒコナの命は、記では、カミム⋮の命の子と彗て居ケl紀には、クカミム⋮
の文献を通覚すると、同一の人物にして、時としてはタカミム言の紳の育とせ
カミムスビの紳の育とせられるものが、決して少くない。
第一垂一、彗石範型に組み入れることが出凍だやうな異警混雑が起伏してゐる。
﹁古事記﹂言本書空﹁姓氏鐘﹂などを見ると・ある人物の血筋の辿り方が頗
き血統観念の動拓をほのめかすものと考へることは無理であらうか。このこ
質に思を潜めなくてはなるまい。
854
5
5
8
男女の対偶紳のうちで.特に女神だけをある目的意向の対象として怒げる場合が多い。たとへば・
﹁古事記﹂閲読卜一の段に、大団産命が、天神に臨順の意を表しで.火をきり出したときに、
てのわが堪れろ火−‡、高天原にほ、カミムスビミすヤの分¢ミだろ天之舞妓りブすの八拳撃0まで嶺き拳げ⋮⋮︰b
と云はれ打とめる如き、大開主命がスセリ姫を琴心神話に於て、父紳のことはまるで閑却せられて、
ただ母紳のみが活躍する如き、若くは蕃山乃霞批夫と秋山力下泳批夫とがイブシヲトメを要にすべ
く相軍うたとき、その問題を解決すべく∵藤葛の窄祢,禎、沓を織り縫ひ、また﹁イブシ河の河偏
の一節竹む取上し八日之荒琴芝写、その由の石を取り邑にあへて其の竹の尭につつみ﹂Fこの竹粟
の青むがごとー此の竹真の萎むがごと苛み萎め云々﹄の祝言を敦へたのが、父ではなくて母であつ
た如きこれである。
ヽヽ
母系母権制時代の家庭に一ぢては、子女の結婚により重大な干輿と標カとを持ったものは、父′ぺ
二九
はなくて母でぁつた。さうした風習がもじ後代の説話にその癖をとどむるとすれば、正しく上に奉
げセやうな形相を探一旬と云へるであらう。
ヒコホホデミの命の兜トヨ三姫が、産期となって、産屋にこもられる段に、
日本神話に園†る考家
、
85(;
日本紳話に関する考在
三〇
己而従容謂支寧日。妾方産。謂勿臨之。天孫心怪真言東野之。則能義八尋大鰐可而知夫孫親其私屏
之後。天孫就而間日。鬼名何杯者普可乎。封日。宜レ寧彦沢汝武鵜鮨草茸不合音〓云乾力渉レ海径
とあえここの醐話は.自分蓮にケルト族の一倍設を想起させる。グタィデイオンに子が生れると、母
が何かの不興から之に名を輿へることを拒んだ。子供は名無しで少年に生ひ立たねばならなかった。
父のダウィデイオンがこれを変更し靴師に慶鼓し、少年と共に母の居城の下で仕事をしてゐる。母は
わが夫、わが子と悟らすして、鞄の注文に出て琴・Q。折から一朝のみそさざいが飛んで凍たのを.
少年が〓前に射止めたので、母はその技に感じて璧えす﹁獅子のやうに碇みした手っきで狙った﹂と
叫んだ。ダウィデイオン喜んで、﹁これで名が奥へられた。この子は以後巳ew巳箋G笠評︵﹁しっか
りした手を持つ獅子﹂の義︶と呼ばれるのだ﹂と呼んだ。︵Pぞire、声Q試盲。−。内:岩Fd空tg.FH㌢nd♂
吋■誓ド︶
この侍詭とヒコホホデミの命の紳話とを併せ考へると、天孫がトヨタマ姫に問はれた﹁見名何稀
者昏可乎﹂が単なる相談若くは意見の聴取ではなく、一の必然であつたことが略l推知せられるでぁ
らう。言尭を換へて言へば、天孫の御子の名は、必ずトヨタマ姫によつて奥へられねばならなかっ
たのであると云ふことになる。垂仁天皇と兜チホヒメの命の物語は、この推断一で立番する。
垂仁天皇の妃ナホヒメの命が、その兄サホヒコ王の薮胤を諌めかねて、兄と共に火の中に変死さ
舶丁
れるとき、邁々皇子が生れた。そこで、
天皇令紹其眉。晋凡子名。必母名。何樽見子之御名。胃答日。今昔火焼稲城之時而。火中新生故。共和名。宜霹本草
御子。
とるる。即ちこの記述にあつては、﹁凡て子の名は必ず母の名つくるもの﹂なることを、明白に言ひ
.
きケすゐる。
ぉ知♭得るのである。
軽 ︻文相質録︼一lこ、先朝の制に、皇子出産われば、乳母の姓を取りてそ¢名ミする由が見えてゐる。=の制儀も、恐らく
や性分名機め後代的移行でわらう寸−息ふ。
名は自お民族にとつては、人間の質世の︼部と倍せられ、之を通して呪術的に人そのものを支配
することが出水ると考へられたが故に、命名といふことは家族生活の上の重大な行事の一つである。
従って母系制母樺制を持つ民族の間では、多くの場合生見の命名権は主婦の手に握らiもてゐた。上
に皐げた我が国の紳詩も、この信仰風習の一反映と解すれば解され拘こともないでぁらう。
最後に、わが国の上代にあつて、多くの人物が、その姓を父から受けないで、母から受けたもの
が少くないといふ葺も注目に償する。
閏 孝室天皇の女は御母チデハヤマフカ姫の名を採らてチデ♪ヤ姫と呼ぶ。
拘 孝元天皇の男は御母ご一ヤス姫の名を凍りて、クケご一ヤスヒコの命と呼ぶ。
日本潜拝に碑する老痘
制
甘辛︳膵に††皐讐義
三二
の如亨Jれである。この蔓も、血筋を尋ねるのに、父の名を奉げないで、母の名のみ一で奉げた革
質や、鬼女の名を輿へ・るものが、父ではなくて母であつたといふ事賓などと結びつけて考へると、
をの指すところが邪法にあ急かが略々窺ひ知られるやうな気がするではないか。
姜軽へることにしセい。
︵こ、十、−︶
直ちに我が因の古い文化が母系制母樺制に持ってゐセと云ひ切ることは、自分としては今のところ
面がいかなるものでぁるかはこゝに詳越する暇が無いが、とにかく這般の可能性が存する以上、今
寸云ったやうに、これ等の辛苦は、他の方面からも解辞し得られる可能性が無いでも無い。他の方
自分は以上母系嘱母権制の痕跡と見れば見られる事質を古文献から拾ひ集めた。しかし先にもー
■t
ウェ
ルギリウスの来世思想
∴
黒
田
正
キケ∇は野草者の紳として崇敬せるブラ㌧﹁ソに倣ひ彼も亦﹁共和国諭﹂を書いた。此書の最終の
利
様を再び人に話すやうな結構となつてゐて、その結構といひ、或は思想といひブラトンのそれ等
する。スキビオの夢物語はかの名将スキビオ・アフリカヌスが養親父のかつて夢中に見た凍世の有
の緒論として置かれ、恰もプラトンの﹁共和国﹂の最壊に附加せられたエルの凍世見聞淡に相対
章たる璽ハ章では雇馬の理想的国家に於ける宗致の問題を諭じたのである。スキビオの夢物語は守
︵円︶
て塞げなくてはならぬ。
声、ルタレチタスの﹁物性﹂及び㌘ルギ,ク芸﹁アユエア芸歌﹂の三篇を代表的のものとし
︵一︶ に馳せることをしなかった。文革的作品の上に患家界を取入れたものとしはキケロの﹁スキビオの
因良性が質際的であることに因るためであるか、羅馬人は希浪人程に重なる峯想を死後の世界
●
クエルギサウスの禿せ息想
略々同棲である。これに依ると、スキビオは亡き養親父及び欝父に食った、其巌は非常に高く基
貼9
860
ウェルギリウスの来世思想
三日
輝いてゐるところで、即ち銀河に於いてゞぁつた。此度よら地上を備瞭し、初めて無限の時と客間
とを知った。地上にあつては霊魂を除いては悉くの物無常樽慶す、しかもこの蛋魂は内懐の牢獄に
繋がる。されば地上にあつて人のいふ生命とほ死のみ。月を超えて彼方に到らば初めて久速の世界
がある。今この短い詭話の中でキケロが熱烈に圭振しようとする主意は、その第十八節以下で、如
何にも雇馬人らしい理想である。
即ち人間の死滅するものはその内健に限り、しかも人間の賓質を成すものは、塞魂でめつて物的
︵五︶
の形象ではない∵︼の自ら動く霊魂のみは不滅である。国家のため亜す者は死後直ちに天界に繰り、
肉慾に支配せられるものは発育率の間彷復したる後初めてこの天に掠ることが出水る。由是キケp
の思想はブラトンの﹁共和開﹂及び﹁メイドルスLに説くところのものを出ては居ない。但し彼の
思想が後代の基督数の死後に於ける室内の問題と一敦することに依って、注目に償する。加之クェ
ルギリクスは固くキケpの意見に従った。
樽じてルクレチタスの﹁物性﹂に到ると、我等は古典の文畢に於いてもまた思想上に於いても新
奇な戚に打たれる。それは近代的科挙的、批評的精細である。自然と人生を見るに科学者の峻最な
目をもつてしたルクレチタスは、世俗の信仰となつて通る来世の存在を否定した。1我が詩に於い丁
霊魂の性質を明にし、アケロンテに関する舌凍の恐怖を〓滞せざるペからす。この恐怖は人生を根
881
︵▲ハ︶
︵七︶
祇より撹乱し、すべての物を蔽ふに死の暗黒を以てす﹂、諸讃の罪悪の破顔を成すこの﹁心の閻Lを
自然の現象と事物一ど支配する内的法則とに依って除去しなければならぬ、と彼は考へたのであつた。
﹁物性﹂第三編はこの詮詮のため捧げられたのであつて、身心相聞の理とその各々の性質の検討より
入♭、発多の澄明を血中げて蛋魂不滅詭一ぜ倒し、未蒸界に於ける苛真の存在を否定し、かつ冥界樽詮
を現賓生活に於け・Q曹愉に置き換へた。彼は吾人の生れる以前に於ける無限時の過盲が垂である如
︵八︶
I−3鼓net
nilum●
く、死後に於ける兼務も亦然りとし、然もその死セるや自意識の消滅することでJ¢る。ヨ〓git弓
mOr00邑乙口忌gqlle
ウェルギリウスと時・で同うし、交一ぞ深うした詩人ホラチタヌも冥界のことを詩中に言ってはゐる
︵九︶
が、その果して欝在を信じたのでぁつたか、或は俗信の嘲笑、詩的装飾に使ったにとゞまるかは明
らかでない、恐らく後者であらう。併し彼はルクレチタス程に克明に未森界の存在を否定すること
はしなかった。何れにせよ、常時一般の政令に凍世の信仰と恐怖と希望とが流行してゐセことは、
︵一つ︶ それが文革の上に材料となつてゐるこLによつて推知せられる。
クェルギブクスはルクレチタスと具わ、荒誕無稽として捨てられた口碑侍詭でむそれが苛も高
︵〓︶ 何字0眞理を威し詩的菜を宿してゐるならば、好んで利用し死のであつた。彼は今未森界を辞に歌
ふに曹って、イタリア人が懐いてゐた信仰に注意したことは勿論であるが、更に彼以前の文畢哲垂
ウニルギザクスの来世思想
882
クエルギ,クス¢来世思想
三大
宗教よりも材料を待て、それを彫琢し暫畢的にも整理し.かくて﹁アテネイス﹂第六の堆蒼は出奔
上ったのである。﹁オブクセイアヌ﹂弟十一歌とこの﹁アイネアス﹂第六歌とは古典文革中、neすFを
歌へるもの∼隻壁でろる。
〓
今﹁アユネイスLのnek且pを述べるに先立ち.作者がこれを書くに嘗カその眼前に展げられた未
▼
凍思想の諸種に就いて一應観察して置く妻がある。
まづ伊太利に於ける凍世思想である。然るにこの方面の思想は甚だ幼稚であつて、到底叙事詩を
喚起する程に摩れた何物をも有してはゐない。元−てり未凍世界に関する信仰の存在してゐた事は他
の譜民族と異らぬ。かの有名なオルカエアの死後苛真の姶は古代トスカニア地方に在った信仰をよ
、ゐると言はれてゐる。椅婁祭は羅馬の祭日の中にて最も古くより行はれてゐ陀。或はオル
︵︼こ く樽へて
Cぎmnあり、犬なるロに萬を現はし.
クス○ヨ6ディスパーテルH詳.吋押すの如き冥府の軸あり、又エールスキの中ではツクルカ月宕l亭
1日争pの如き、殊に輿眈あるは希汲語のやゝ鼻化せるクルソ
黒き翼竜有し、槌を持ち恐ろしい妾をしてゐる。これ等舌代の下界の赫々は恐ろしさと陰帯と剥落
との表現である。これらから偉大なる宗教思想と詩に迄螢達するであらうとは今日我等の想像は許
さない。
郎3
叙事経由インスビレージョンを得るためには希膿に材料を得るに若くはない。彼が過舌の博訣と
︵〓ニ︶ 哲孝皇室憩盲を金言て壁学芸肯したことは莱でに琵家セルブ一夕スの注意せる通りである。でま
つ譲者の日に着くことは、彼がアユニアスの冥界行をオブク七夕スのネキュイアに倣ひ、構想の模型
︵︼日︶ をこれに獲たことである。元よ♭この偉大なる詩人は先人に奴隷的へ仏模倣はしなかった。碓着では
− て
あるが素朴なそして薄墨で措かれたやうなホメロスに射して、彼は明確な▼訂pO唱名首を奥へ、確
乎としセ人物描尭を見せ1例へばディドや父アンキセス或は部済との遊逼の場面の如き
ゐる?殊に農馬帝園の理想を呼吹し、浄柴のエ〝シタムを措くに到っては.陰惨な夢幻の薄暮に終
ったホメpスの中には見出すことの出水ない光明と垂満とを魔えしめる。
ホメ三にあつては、現世の雀活に於ける蕃志の應報を未凍界に於てするてふ思想は未だ費見し
ない、アキレタスが冥府にあるを厭ふたとしてもそれは苛真の結果ではない。随って善人の酬ひら
一
るペきエタジクムの軌念の明かでないのも曹然でぁる。然るにウェルギリウスには薯忍應報の思想
と輪廻愕生の思想とが克明に書かれてある。抑冬霊魂が死後に罰せられ或は幸せられるといふ思想
︵一石︶ が希膿に於いで現はれたのは所謂ピタゴラス汲の数と甜柁である。人間が何等かの形式で死後
に於いても自己を保存し得ると考へるならば、誰しも幸惑にあらねいと思ふであらう。棄撲なる考
にぁつては、冥界司記者を喜ばせ因って幸鰯を獲るにまづある儀式又は郵法R甥すi窃を通してせ
ケエルギーナス¢楽せ暴
ウエルギ,ウスの来せ思想
三八
んとす・ミエリこソジスの琴法出−eu㌢−1my賢rie∽の如きがそれで今0。即ち秘法の侍授如何が凍世
に於ける皐頑を司配する。恰も基督故に於ける洗惑その他の害昌一−邑に於ける心理である。され
ばダンテも醐曲に於いてツクラブそプラトン始め希腋羅馬亜渕比重の諸賢哲を地殊に配したので
︵一大︶ ある。同時に私法に附随するに道徳上の善行を以ってすることもある、例へばOrphi胃の如きが
それである。この派は南方伊太利庶務にシチタアに昌えビクブラス哲学と結合した。鹿典を重ん
ると共に教義皇旦要成してゐる。人間はチタヌスの次より一生じ、而してチタヌスはこの況の童
オニッスの敢掌らが故に患なり、故に人間も亦悪の要素を有してゐる、従って幸頑たらんが虜に
三
ストイック況等膏畢上の思想の影響は今改めて言ふ迄もない。
斯る一般に流布せる宗致思想の外にプラトンの﹁共和国﹂の如き、或はビタブラミュビク∇そ
︵一七︶ 四にはやゝ詳にオルフェクスに就いて述べてゐる。
菜唐な醐統記に習はす、苛発と浮罪、内債と婁魂に関する教義を採った。殊に農耕詩n§gie呂第
ならぬとする。クェルギリクスに取つでオルフィズムは重要な関係をもつて居り.彼は此の宗鶉の
b法庭に引出され、.或る期間下界に止められて、苛責と浄罪とを受け、再び地上
忍を過れなければならぬ。肉燈は霊魂の獄舎である。而して滅罪されない霊魂は死に際し冥府に
$8l
S6∂
﹁アユネアス﹂第六歌の研究に入る。先つその大健の筋を見るに、アユネアスは亡父アンキセスの
幻に敢へられたる僅に、ラチタス・に入るに先ちクマエに上陸しシビラ禁by−1Pを訪ね自らの購凍を
知♭且つ冥府を訪ねんとした。シビラの洞窟に入♭神託によつて婿黍起らんとする事件を知った。
父の亡塞に食んが眉まづ黄金の妓を取ってブロセルビネに供へ、葬られざる部下の者を挙り供物を
供へ一Q。この儀式一で終ると共にシビラ巫女に噴かれ地下に降♭色々の怪物に遭ひ、入口を過ぎて葬
られざる部下に遭ふ。地獄の川がある、漆守カワン両人を渡すことを拒むが、黄金の故を見て承知
する。次に恐ろしいケルペルスの側を過ぎ始めて色々の亡者に曾ふ、ディドーの亡室も亦此庭にゐ
た。道は映れて一つは悪人の苛責せられたるクルクルスに到り、他事された者のゐるエルシタムに
到る、前者の妖感はシビラの説明に止わ、アユニアスはエルシタムに到り父に骨ふ。かくて鳴の門
より出でて冥界を去る。
ホメロスではへーデスの位瓜凪が甚だ陵昧であつたが、クェルギリクスは明らかにそれを示し且つ
グラフィックに描いてゐる。アユエアスが上陸したのは南伊クマエCumgの寝であつて、巌の高
く聾ゆる噴にCubOicPQrロp訂にアポロの宮殿がめつてその近くにシビラの大洞窟がある、アユエアス
︵一八︶
A言r日記に降るは容易である、暗きデイブ
はその内陣で琴言を聞いた。下界の入口はそれより程遠らぬ所で深き森林の中にある。而して下界
に到る焉にシ・ビラが示した注意によると、アブェルヌス
クエルギタクスの束世思想
86う
Oiti00
四〇
の門は歪も求も開放され、化し再度上室に蹄一心は困難で今Q。中間にコキッスの沼のあ
ウェルギリウスの来世思想
︵一九︶ 已ri
乙森めり、これに黄金の樹枝がある、これを求めて下界のブpセルビネに供へへ仏ければならぬ。又
つ山〓︶ 友の屍健を葬hノ、畏き家畜1−ig−・諾︼勇己つ山を引き行く専が必要でぁつた。アユニアスはこの言真に
徒ひ道を森に取ると忽ちヘクトルの友人ミ七ヌス呂∽e⋮Sの死屍を見、甚く哀み乍らこれを葬る。
暫くにして斧の未だ入らぬ森に入った、二羽の鳩の行街を見守るとアデュルヌスの上迄飛んで行き
忽ち飛び上り、それよりある未に止った、其蕗に黄金の枚がめつた。アニネアスは直ちにそれ一で折
︵二C︶ ってシビルの許に持ち締った。
此虞で我々の注意を惹くは下界に入るための度肢とでも言ふべき黄金の枝である。しかも此の故
≡p§
氏は黄金の放と寄生木とは全然同一物言アりとし、﹁.ゴき
に就いて、﹁恰かも厳冬の森に、同じ樹に蒔れたる寄生木の若菜を吹き、黄色の賓が固き幹に蛙る如
︵l〓︶
く﹂と形容してゐる。これに射し
ide註やb已。已ヽっ○⋮−﹀PrCこ[wit︼−ヨ宣etOe・出11tt︼lis−nPybeO已yp
mi邑eざe
b︼岩乙Outi賢一P2頂r2t≡■L
gO−dC−−筈
g︼pmOllr〇ヨrt訂︼⋮各−e−Jhllt・〇rこゴOre−一rObPbl︶1ニーi払desc与tiO︼1∃二
5rgi−dc貌n。t
b c邑芦m叫Stic
lさl︶乙弓⋮per鼓tiC巨th已﹁p什つeユPニーュmqニ︼1e
といひ更に、何故寄生木が黄金の放と呼ばる∼かとの理由を述べて、ミH訂w︼litisF・ye−−OWウr tl−e
2ist−eどe訂rri望iニー弓d−yenO品︸ニe胃CO∈t守t︼−:l昌e−守≦rgi−∽薫:b乳t︼岩一さug−−Wま
7
6
◆ S
mpy一しq
mO
rrO⋮t訂−・icr
deriくed
t︼12nPme
t−1er gO︼del︼−賢員思考e−1aこe雲或・憎er訂ps
and−ハept訂∽Ome
︵二二︶
ま︼ichPbOug−−已∵日is邑etOe琵umeSま1e巨it’g訂encut
て例の生命の移偶の象徴に鯨してゐる。我々はこれを太古の械木費穿ヌは自然栄祥の遺物として解
すべきか。それにしても何故これがブロセルビネに捧げられなければならないで、そして冥府に降
る着に放いてはならないものであるかは充分に説明がつかない。又これを○旦−icで死者と共に墓
に埋める金牌にハ仏ぞらへたものとも考へられない。
次に冥界の存在するところであるが、作者は最初よ♭既に衆知の如くにアウェルヌスの語を用ひ
︵ニー1.︶ てゐる。語源よりしてA言r・1宏︵計3貞、まtb呂什birds︶即ち毒気に依ってそこに烏の棲むことの不可
︵二M︶ 能なることを示してゐる。ルクレチクスは更に具憶的な詭明を奥へ、かつ常時通俗の迷信を諾して
ゐる、﹁まづアウェルヌスと呼ばる.∼理を説明せんに、此等︵所と沼︶はすペて鳥に有害なるに因る。
印ち偶々鳥がその冤の操綻ぉ忘れて此の上に飛び凍るときは、その飛ぶカ窮♭、首を垂れて眞逆倒
に塔婆9、⋮血の地はク三の傍にあつて山煙は烈き硫黄によつて窒息せしめ又温泉多し、⋮ト
オルクスOrcusの入口が此虞にあると思ふに到り、⋮⋮由是他人は死人の綿々が亡蛋をこれよりア
︵二五︶
ケアソの岸に引き降すものと想ふやうにへ仕れり﹂と。ウェルギリウス亦記して、ロ腐く﹁探き洞窟﹂
已訂甥l旨epにて曙き湖と陪き森にて指され、口よ・り一は漠々と畑を吐くと。彼は此庖で通俗の設を
ウェルギリウスの禿せ思想
868
ウェルギリウスの来世息想
利用してゐることが解る。
花とエレブスの父カオス、フレグトン等に
彼等はまづ犠牲を供へ、ヘカテ′出釘已e、ブロセルビネ、ブルト、及び柁などの紳を祭る。アニネア
スは又亡蛋を司配する赫々、聾なき影βmb−・ae乳︼2nす
︵二六︶ 所♭﹁地の底と閻に埋められたる秘密を現せんこと﹂を願ふ。更にアユエアスはシビラと共に﹁淋
︵二七︶
しき鱒﹂﹁デイブの重なる廣間﹂﹁影の固Lを経てブルートの固の入口に到る。想ふに下界ブルートの
Pd言r苔i・こimiヒe悲滞、
領域はまづ上の如き前庭とでも挿すべきものあら、これを過ぎて入口︼imenに達す、入口はβ訂res
︵二八︶
m已呂eロtimg呂dipが居り、観の反射
によつて内庭に通じ、内部は発馬劃かに別たれてゐる。前の入口に普って
心配、病気、孝琴恐怖、餞俄−敵乏、死、困窮、眠、悪念の歓
側には﹁蛇の如き髭を血の如き剋で締めたL闘争がゐる。更に面白いのは前庭の大輪があつてその
菓の基には﹁償の夢﹂が附若してゐる。入口は豊北希膿痢諸に出る澄切が守ってゐるがこれ等は峯
︵こ九︶ な要のみである2ヨS各im品iロe㌢r日罵。
︵三〇︶
︵三一︶
温は樽じてアケロンテの河に出る。濁流渦いて泥砂をコキッスに注す。この河に渡守句Ortiすな
るカワンが一隻の舟で多くの群集を渡してゐる。タウンは白髪を振う乱し、眼光虚の如く、衣の韓
日ば肩にかゝり舟を操る壊はとても影のみなる冥界に居る物とは思へない。ホメロスにもへシオド
ヌにも未だCぎrO臼の名は見えぢい、それ以後の時代に於ける創造であらう。紀元前五世紀頃既に
869
カロン・は老人として檜塞に表されてゐる。パウチニアスの記載するポリユグノトス
ヨ遥−10ど
の給
がそれで、この姶にはオブユツ七夕スのへーデスに降る光景が措いてあつて、﹁水は
く、アケロンに相違なく、又魚を現はす・⋮⋮・河には小舟と匿を手にせる舟夫﹂とふ
グノトスは﹁ミニュアこ累日y琵に操るもの∼如し、これFミニュアニの詩にはテセクスとベイリ
トオズとに関して次の如くに記せばなり、自室の考舟夫カーン云々﹁。Y⋮P§払司Q3§ね表⋮苓盲ご
と。ミニュアスの辞は今日詳にしないがこの檜婁に於けるカロンの原本となつてゐるこ
低する。又ユタリビデスは﹁アルケスチス﹂の中に﹁ブルートの犬も我等を留むること
︵三≡︶ 造るかの解放のカーンとても然わ。われは御身の命一ぜ取戻せり﹂と言及んでゐる。冥府へ行く精霊
が何故舟によつて渡されなくてはならないかとの問題も太古民族の地理的関係などよら
は解せられぬでもないかも知れぬが、貧窮なる私の知識は敢へて博雅の致示を待たなく
ともかくカ﹂−ソの白髪と恐ろしい重などその形態は路々定った謬である、而してエールスキのカル
ソは大使希腺の形式に倣ひ、前に逓ペたやうに醜い竿鞍的な姿を取り、死人の簑内着た
︵三田︶一 基守の役をもつとめる事になった。とにかくクェルギタクスがアケロンの渡場を措いた給は賓際巧
︵三五︶ 緻である、後にダンテがアケロンの渡壊を昏くときにも深くこれを記憶に留空しゐたので一¢らう。
此虞に面白い場面がある。老若男女の大群集は木棺に落敷く米菓の如く、カーンの舟
ウニルギザナス¢来世思惑
四四
サエルギザウスの尭世思想
押寄せ対岸に早く渡らんものと手さへ差伸べる。然るにタロンはその中のあぇ老の
のせ,他の者は岸から追ひ返へす。この追ひ返へされたものは﹁葬られざる者﹂i眉ニーニ、≡。賢焉
t弓b芸tであつた。彼岸へ行く宕は葬られた者袴p已tiである。﹁彼等の骨その息の虞を見出す迄はこ
想はオルフィズスやブラートンの思想がー肉と室のーー渓くは入ってゐることが解
︵dO︶ ほなく、地上の生活苦に耐へすむしろ生れ出でないことを欲Lたからである。クェルギリクスの思
を過ぎ、地下に深く眠書こと一芸んだとしても、それはそれは未凍界に於ける希筆
︵lニ八︶ らんよゎはむしろ地上にぁつて奴隷たらんことを希望したのである。ヘシオドスが﹁ヘーデスの門
入したからである。さればホメ⋮の諸にあつて第一の華やかな英雄アヰレタスもへ
はメネラオス一人のみであつた、而も彼はツエクスの娘ヘレナと結婚したことによ
きものであつ雪死後の世界は暗黒と忘却と陰惨とそして容でぁる。言シオンに幸せ
分を持ってゐることである。凍世生活が恰も現在の生活の綺きでめゎ、かつ牧猿で
笹公率な判断によつて、善悪の勝報が輿へられた事を思はせる。ホメ三ではへーデ
︵l三ハ︶ る河淵に再び凍るを得ん﹂と。この群集に就いてまづ威じることは、彼等が非常に麓粛で緊張した気
の恐ろしき汲鳴る河を越ゆること能はす、有年の間はこの岸に彷徳ひ、かくて漸く
870
871
旺︵こCすrO−謬自niu日S¢ip訂i少光ほ遂塊不滅脊に申してlミ妖lこゴ琶u一3巴首旨t⋮0巳−こ出てゐる。
︵ニ︶卜占ereti卓せの3mmn已u声 ︵三︶5→gi︼i房−Aeneip
︵〇D巾re苫bli辞︵m†−讐声Pの問に成ろ︶托現存のものは僅に三分¢一に過ぎ互い。スキビオミその友人蓮の問に琴し
辛骨話俄にぜる国東塾。
pOt邑・
︵≡et臥eぎb︷きーnOロ窺etOmO旨t昌、邑e08eどe︰口汚苫imt仁e∽q宕m診mp訂pd邑prpt∵罵dmeロ
乱雲gきnOn昏、首弓ヲ琶莞digitOdOmO旨i
︵犬︶せe reヨm n已ロローHl︼父Tム声
︵七︶ibid¢−−だHuロCigit弓terrOrem冒i邑こene訂■月日On籍鑑札好di胃象pnt、邑nPturpem葛Uiき⊇tiβ夢
︵九︶例へばⅠIOH少tiu∽−Od空ⅣHI、−P
︵〓︶G︼OYer−﹂3rgi−く●
︵∧︶iEd讐中−¢00∽︰rO色毎it昌二衰mni−已nO∞呂t辞etp﹂為t邑民tempOr訂邑巾ヨi●
︵岩︶冒r巾2m npt弓pHHIこ.雪0誇
︵三︶Ggrg W訂雪盲∴謬ligiOロ弓d只u一t畠d雫︼㌫mer、lI−芦亡nter31冒自己∴冒t昏乳tす●句電註−1‡二月十三
同月二十一日迄繊く。
︵三︶紆ヨiきCOm已β訂Tii、くH−ごP
︵一5︹宗研︺HlI●嶋.﹁ホメロスのへーデス﹂参照。
︵︼吉死後賞罰の叙念に就いてli既に竣及のTFの出00打○〓訂D昏dにも出づ。
Hづ●
︵完︶OeO鼠cOn
Hメ㌫u誇
Qr籠−つeir乱民む見本詩にぁつてl‡Ⅶib笑F
AneF6.包 lな置く
08ビ6.日に雌してli主ミJて詳言ell−G一語吋ど⊇邑す巨didgO〓BmO
︵一CHロ訂mO
︵︼0冥界に珠首者な定く=ミ、冒OmerO仏にあつてli
て死者の蜃が人事わ珠首†る=ミ叉HOロ巧Ouに同じ。
クエルギザウスの凍せ思想
872
ウェルギリウスの束世思想
︵l九︶Hn訂ヨO HIr
︵云︶黒き毛の家書l‡下界の前々にこ犠牲ミ・して貴lてれた。
︵云︶APくeこ芸−誓−.
et邑山内inem垂罵声P
︵ニ〇くl、gひーごq邑e邑et乱丁訂b22巳i賛gOrO↓訂u2ぎndO■ir℡dnO召−quOdn呂警:e亡︼il邑pTbOP
︵ニ川︶くl−望−−宍戸
︵圭︶つFegO︼denbO磨ビ︵旨ridg乱乱it●︶ヨ丁ム■
︵云︶5∑喜こ岳●
︵孟︶せe︻e2日一︼nえu旨﹂コーご岩二R
Mub巨象per旨訂呂P竹男quedO営S営倉召C宏含iロ邑p一局n2由是死人の居所は如何光る人でも収
︵蓑︶乱tゴumineY乳−′Op呂計りel袋巳t;ter−a
︵云︶誓∽−e︰邑P
ⅠⅠ−−押印誤:参照。
容†るが、それミ共豆こ†べて空光るこミみ知る。
︵天︶ホメロスに比Jて如何に精密の度を加へ・しかな知ろ、︹宗研︺
︵三︶くー一望蒜二戸
ne−訂層ttOl
HiH−ゴ∵B
︵克︶つurgO︷briO HI∴﹁¢︰Oi O日brP■呂e−PO叫CFe
︵き︶宗研、HlI・♪”芦Ap.くⅠ、け笛−芦Hn計mO
︵塁︶Hu㌫pid窃、AIc邑i∽望岩−兜声
︵至︶句a宏Pロi責H−法●
︵天︶ibこ∴M:−祭¢−¢r
︵票︶くⅠ∵貿申−衰岩■
︵孟︶Pel訂r−臼山m訂訂mytど10giO II、ヾ嶋・
︵孟︶IP訂ヨO HIH−芝−−⋮¢●
︵云︶Od﹃拷i監∴M−くこm声
︵孟︶T訂Og呂ip A㍑T・法●
︵竺︶詳電EHem雪巳岩−、−声
さ73
摩崖像の蓉願
鎌倉時代の蒲勒信仰
五
︵下︶
大
屋
徳
城
貞慶に依♭て始まりし爾勒信仰は、南都の敦界を風靡七、諸甚に滞勒殿の造螢と焉ト、覇勒像の
造癒と眉♭て現はれた♭。就中大野の摩崖像を以て最も有名なる代表作と点す。
斯像は奈良蝶宇陀郡三本給村大野寺に現存し、寺より宇陀川一ぎ隔て、略画而して時立せる英婁
山岩の大巌壁に彫刻せられ、二重の閻相を後光とせる彿身を鹿彫にし、麟就を点せる螺髪を戴き、
袈裟一ピ迫肩に纏ひ、蓮華座を踏め.る立像にして、像高光背を併せて四十五尺玉寸.傭身蓮華座を併せ
て総高三十八尺・傍に食勝星茶鹿を刻し−賓に互大なる石像と虜七重空室二月七日、後鳥羽上
皇行幸あらせられ、落慶の供養を行ひ、随喜の除り、御誇わ定翰に染め姶ひ、供奉の后妃臣僚各姓
︵二︶︵三︶ 名を著して、胎内に納め、以て親筆三食の結線に資せらと侍へ、宋工次郎五郎六郎四郎の作と侍ふ。
而して其の蓉靡者は賓に興福寺別曹大借正雅繰にして、頃年清澤の大願を馨し、笠置の爾勒像を
︵担︶ し、造螢を企て、新年漸く成ら、開眼供養を行ひし打了り。興福寺別富来第にこれを許して、
徽オ時代の†勒信仰
87l
︳暮疇代○︳︳†●
出入
・石像に至りては.殆ど速く韻事三富の期亡妻盲可し。笠置の婁像に如かずと錐も、今重代に曹♭、
教女の石像を彫ら奉る、豊勝事に非すや。
前法務大僧正雅鱒琴空一年二月十二日遠任訊嘗l巧大骨正噴年以爽寧清浄大額面法院領大野郷之内、別事磐石空些
︵四︶興福寺別清次発に左の如くにいヘリ。之れみ最も筆先る史料モす。
他人にて行方不知 ︵下略︶
大野村1ェ昔は宇陀郡ミ云、此所lこ石弼勒有長五丈二寸、放元二年lニ宋より次郎五郎六郎四郎ミ云ふ石工渡、切付由此四人
︵三︶大和史料lこ左¢知音口碑む載†。
ざりLミいふ。
寸二分ぁり、厚一寸〓分の韮わ飲料丈句︶を琴阜し、春子ね駒ゆ圭る形跡か費見辛しも、全く朽敗・して原形み耕する能li
Jも、手わ飾るれば破諷Jて開くべからす。養にも︼二の文字を認めJも明に預む能l‡す。叉臍の漣に孔穴︵璽二寸撃二
孔穴を敦与し、之を検L、盤内二段亡兄り、厚︼寸の石基わ石灰座灰棲¢ものlこて飲込ゆる申に朽放ぜる小袋子わ戟見ぜ
臣鮮各姓名む托して、嗣子く儒内に柄む﹂ミいへり。案文解河童の時ほ、石像鳩尾の位置に、径二寸七分、撃二寸五分¢
︵二︶大野寺格練起にT上皇御怪事限り克く、親ら御許み笈翰に染ゆ、俳の憶内に籠らぜ、上生兜車重華甲し給ふ。供奉¢居組
︵自選肉重度花︶ニ尺五サニ分、自重啓二サー分、専肝属茶漆方九尺桓寸、閲相直径七尺三寸五分。
尺、肩巾十尺、自頂上至腺六尺二寸八分、市部点描︵蒙耳ミも︶三尺七寸五分、︻中略︼蓮華組幅一女︼尺一寸五分、蓮華高
背光彫込嵐高四十五尺五寸、背光巾中央にて十日尺一寸、地盤より哩上迄高十一尺五寸、沸点線高︵蓮華座む含む︶三十八
正六年三旦誉蒜妄行︶ド詳か光り。今石像の法置む袈ぐれば左の如J。
位︵︼︶大正五年八月十三日、奈良麻史鹿部萱合ほ足場を遮り、石像む訴宜ぜり。其の報昔は秦支舷虹技膵地神萱報骨寄算四回︵大
されし雰囲気が其の背景を秀せるは察知するに鎗bま?り。
といへり。事は貞慶の晩年に属すれば、偏に其の威化に依るものといふペぐ、彼れに依トて醸し出
▲▼
声野媚勒立魚姦笠定石像以夢規模而巳、彿像紳異晃験滑々多、而殊元去年望月骨
●
師垂嶋彗非音義徳入上以不レ受乏、供斐=有主星臨幸宗像立像者撃相好戯欒怯乏非未朽三着像哀殆可レ至論寧三
食之期姦レ不知義紀庄倣ギ雷重代重野赦丈石像豆非添学者、殊凝ヱ叡信者勤臨幸二言︵下略︶
宗性の禰勒信仰
︵上︶
輿編寺略年代陀に、﹁三月七B大野石併有あ幸恵夢賞﹂見・右臣政司補完に﹁殊元三年三月音御幸女鬼ピ去り
六
宗性は東大寺の畢匠にして、華族を以て問ゆ。鎌倉時代、南都の華厳を三期に劃すと
遭性、尊宅聖藤、良頑、良忠、空詮.景雅、光瞭、萩喝造澄等はまとして第一期−若くは第二
宗性は宮内大輔隆尭の子にしで、官、樺信正に上♭、喝東大寺別曹に亨Q。昔時細流としては
期に属し、而も何人もま系を形成せす。而して、宗性は第二期のま系を鰯し、轟然は第
︵一︶ を点せり。
︵二︶
最も顕桑を極めたるもの打了り。文應元年七月二十日東大寺別嘗に任じ、寺撃毎︶正應五年七月十
︵ロ︶
七日、九十一義にして寂す。彼の家系も亦貞慶と同じく、舶應に文轟、票数の名士に富
︵五︶ 父倍賞は養家として名高く、﹁似給書名人也﹂とあるが如く、常像董の大家たり。同じく軟風は出家
●書時代¢■︳傭仰
あト、炒飯の習慣あるは斬る侍疲的家風の由凍するところあるに因る可b
して囲城寺の長克と焉り、従妹詣は歌人にして、薪勅撰の作家たゎ。高津々、彼が文革
875
878
徽倉時代の†勒修信
五〇
宗性の蒲勒信仰は其の淵源する虞明かならすと雄も、解脱上人貞慶を景仰し私淑するの除兜率腐
生着たる貞慶の先鞋を追へるものに似た♭。点永元年自ら記して、去々年款の此、笠置寺に重篤以
︵七︶
準 偏に弼勒加水に臨供するに至♭し由をいへば、其頃より特に弼勒の信仰に入♭しものなる可し。
抑1弼勒如来の信仰は宗派を以ていへば、支那、日本に亘♭て、法相宗に窟接の関係あ丁りて、華厳
宗に萱トては、数理上の交渉も、歴史上の関係も極めて洋きを通例とす。偶隋の蛋幹の如きあアワと
へ九︶
姓も、いふに足らずじ之を鎌倉時代の南都諸畢匠に徹するも、華厳の人多くは西方を戯求す。奇が
の如き、固照の如き、疑鮮那加き比々然らざるなし。此間に在老、宗性が伺う都卒麻生の熟信者
として、異彩を放てるは、数理上若くは思想上の系統よりも、寧ろ貞慶を景慕私淑するの除に出で
たる、人格的戚化に因るところ多しと解辞するを以て、最も妥雷なる見解といはぎる可からす。今
少しく彼が如何に貞慶に傾到せしかを観察せんと欲す。
宗性の遺砂中に、遁世述懐抄と題するものふ㍗ク。其中に、故解放房造故倍正之許滑息之妖を納め、
終に左の如く附記せり。
悪二中音官幣大寺両院中位侶撃警南雲腰高同書重荷都泰山寺家震レ芝慧也、可衰可義之者也。
ヌ、笠置寺上人御自筆願文と超する一巻あら。題覆は宗佐の筆にして、其下に梧大将都宗性と署名
し、建久九年四月十五日の七箇日逆俊幸根の願文あ丁ワ。こは貞慶の筆跡を尊ぶ除、宗佐の表装を加
へて、愛蔵せしものなり。断簡零墨と証も珍菓して措かぎるを似て其間の滑息を伺ふ可L。而して
宗性は貞慶を見ざるを以て、終生の邁域と点し.常に其高風を慕ひて、笠置に登り、庫l般若茎を訪
へら。貞永元年、自ら記して、
虔宗性今世不レ拝一彼上人一之恨銘鼻心肝l而尤深、後生値姦彼上人乏志、徹有寧而‡切。
︵一一︶ といひ、又、天頑二年の文にも.
就中宗性深仰−勅勒之引撃粂忽主人之法跡↓勧請一重定之山高卜南開之居表面嘩夢般若室院建立之由琴親閲支線帥利窪感之
鵠考⋮膵俵之思此時埼托、渇仰之誠英後靖切。
︵一六︶
といひ、剰へ、文應元年には、貞慶の建てたる笠置寺十三重渚に修理を加へ、又貞慶の柄中の記文
︵一七︶
の文を見ること少からす。即ち十四歳の砂記の奥には、
則偲一十有絵筆之結東京撃毎月一日之詩論姦−乏倭仰可不急之勒必寧悪畢二骨之暁奏。
鎌倉時代甲賀勒信仰
五︼
ふに、少年の頃は未だ然らぎりきと見え、自筆の砂物にも、或は摘靭に蹄し、或は猫陀に紆命する
し誉可し。然らば貞慶の針化に供与㌧望謹が滞勒の信仰に入らしは、いつ頃よえ㌻しかとい
見るに及ばぎわしも、貞慶の高徳一位を風靡せし時なれば、共成化を蒙♭しことも尋常一様に非ぎち
二五︶ を書寄せしことあり。貞慶は建保元年五十九歳にして寂すれば、此時宗性は十二歳にして、貞慶を
︵〓ニ︶︵l円︶
此中覿兄率由之外、常長組帥上人御茸案也、撃拝見一信仰之漢学眼、毎論詰一位菩之息銘添、買足末
︵一二︶
といひ、文暦二年貞慶の草薮を集め、
8TT
878
鎌倉時代¢膏勒借仰
︵−八︶
といひ、十八歳の時には、
門跡之中後隆之輩、必鳴動陀之芸事霊芝夢臭、孟宗沙門宗笑話批難断
といひ、珊勒、弼陀相混れり。固より少年の事なれば、昔時の習慣に徒ひ、通途の文句を踏襲せし
に過きぎる可く、深く考へての事に非るべけれど▼蒲勒に対する信仰の確定せしに非るを記するに
︵二〇︶
十分なるべし。果して然らば、彼が意識して、輔勒の信仰に蹄せしほいつ頃なる可きか。恐らくは
軍竺牢が頃まソ誉可し。此事浦勒如凍戚應抄の奥書に見ゆ。
抑宗性自妄冤章一年之秋宗田拳銃此盛些以降、深翠若草之引撃廟準兎率之牲生乏間、驚卜亀山
′
之
景
亡〓︶
︵二︼︶ 而して、文麿元年の頃よ♭、経論章疏を渉猟して、珊勒に閲する文を集め、五巷の抄物を製し鶴め
︵二三︶ ければ、其完成は後年の事に属すと錐も、此頃を以て信仰の最高潮に遷せしもの∼如く、嘉癖四年
二月五日の夢想は這般の滑息を洩して除あるものといふべく、自ら記す所の夢の記を一読せば、思
︵二門︶ ひ竿ばに過ぎむ。
嘉顧四年二月五旦依レ夢慈専有妹之日−故、挿入斎戒感再議法華経第一撃南軍井行詣勒講式
一座葡一頭八名鑑十除草唱諭勒貿披二千除遍、剰亦上生鮭九品往生己下之文、令恵恩疏和迩切
旬丁、其後亦上生鮭宗要取壊議事譲蔽乏、其衆重畳理悪道軍豊賓弘壷公也、其凍上生経内庭
虎要文、井調勒十二惑軟邁商乏、蓬争暗簡垂其後陣榊夢云、有産ノ山之上チ行軍見ヲー↓二こ翠
879
拝受含有乏而彼ハ幾程遽ッ上月舜行饗璧問フ貞舜金口二三丁アルヨシナ申、仇宗性質弘貞舜相具
要一一両付一人夢二朱書泰、自奥巷城見乏梵字標的ヒシー書也、サテハシへ巷ナ壊、彼借之奇勝
得業一事ク言,見出之.宗牲見レバ乏サナノ‡覚.真吾本自定性二世事,嘗置タ〝ト畢彼借此審チ蘭チ問.、宗
牲修業志探し傭単音ケ〝事也、頑分之非義、寿命七十三;可毎也、螢雪之勃清二谷現世一一モ列呑場︰
−
高妨
−渾寓
−光暁
︵備考︶
︵下略X高山寺流ほ略†︶
光暁に安く。
宗性l‡叉尊重、漣澄、
沙門宗性記一之、
後生可毎股乏旨チ蘭一発ユ〝程夢魔丁、森双盲夢也、戚茨弾抑.是則大喪慈尊重引擁護法冥衆致衰
慈乏故也、如一今夢想之告三世勝利辞疑者也、
嘉祓四年二月六品於東大寺中院−記乏、夜分居誌房南面二間庇也、
旺助−−−
弾
性⊥棋ト[縞
辛−よ蚤
推
住︵一︶案文lこ於ける華厳の法泳li鰹然の﹁洗昇竜鐘﹂巷下ド詳か光り。之ね寧芥†れば走の如し。
−︰︰=
芸
−[銅摘l蛋−慧
光智1ふ冨T⊥慧T−琴平−鹿埠1定義
鎌倉時代の攣勒倍加
さ$0
鎌倉時代の#勒信仰
−
逆性1宗牲
−
宗額
−
公暁
諸崩宗泳馳、下、華厳宗の俵lこ凛れば、左の如し。
・⋮⋮・耕嗅
−
思料
−
惰躍−−知鋼
−知畠
−守雅
−
I信哉
伊信
− 信海
文信−1惟風
知信−
−隆史
一束範
経膵
−
︵二︶宗佐め家系は﹁耳ヰ分厳﹂長文嫡流に出づ。左に之な略抄†可・し。
長文 − 圃経
1隆竜
−家信
−信黛
・陀
−粂
−飯田
匁l箋 − 隆信 −1信粟
−仁巷
−行頗
−角瓶
﹂潤寄
・⊥叔性
−女子
−女子
−守圃
−女子
−隆辟
−女子
−女子
−女子
−女子
−女子
1
島忠−−
︵三︶東大寺要銀、別普草。然るに、宗性白撃の天台宗疑問論載用意抄、罪八、非lこ天造景十知見蔑称零抄にlミ十九日ごわり。
十九日補任、二十日祥堂か。
へ四︶東大寺別啓統譜。拙著凝然周師年譜︵正館五年の條︶
︵五︶‡卑牙腱の註に、﹁歌人、正四下、左京積大夫、中務大甫、似檜書名人也﹂ミ見岬。
881
︵六︶宗性の抄録†ろ虚数千巻.現に千数百健忘存す。日本高倍停要文抄、名倍博抄、頑勒如就感應抄光ごは其中のもの光り。
︵七︶華厳裡親世昔菩薩感應嬰文抄の奥書lこ見岬。
抑宗性去々年秋比参−籠笠記寺l以梨、偏蹄ム俵紺執り雄一欣l東都撃︵中略︶飯奥一主人−倶詣▲粥勒都率天乏糊︵下略︶
貞永元年六月晦=根於一義大寺申院垂−之畢
︵八︶擾重圧﹁軍戯宗系﹂lこ依れば、能慢の弟子に・して、選任ミ同門圭り。建保五年、七十五歳にLて、孔日章砂田祭︵流布本
l‡各巻か上下に分ち、八帖ぁり︶ね箸†。初め鹿率ね厩生L、後西方lこ膵†。一巻上の奥書の中lニT餅以一此第法力↓必生−
率ミ種欒ね並視ぜろが、田上l︰﹁抑尊重齢圃入旬︰飴命妖追、一文丁旬之缶慈、皆以嬰向後準育彗一信〓鱒Z糞修、欲レ備l
骨莞耳出世之時︰列■ニニ骨相脱之座奏﹂ミいひ、三巻上の奥寄り中に、﹁今レ成一読臨終正念、往生庵染之併版元﹂ミいひ、児
浄土巣囚乏畠、俵l主菜欲心京■浄土之湖東上野報貞土葬瓦戚之析友、一nil供こ東歌定一l往生之所娼之時既述、此儀象軽
九品生文↓初見瓦文可年来本意既閲、往生頗有い澄蔚欺、臆▲頂敲↓摩添敬↓如上暗夜野意、知見迷路綽㌔迫師↓率故、列ム持寄違法
00000000000000000000000
王夢催遇於此文乏革、然別凰縛我等、撃璃陀引撃送一疎生本意乏事、岳不レ可レ疑レ之、況亦盛衰戯天井↓婁夜押£見担攣基
金非姦印税子平、弊風一一由来︰臓次之往生、蒐以有レ隠者欺﹂ミいへるわ取れば、終に西方に抒、し㌣るを察す可︺。又、西方、
児卒ふ比較・して左の如くいへるlこ徴†ろlこ、西方に蹄J余るこ寸1疑ふ可からす。﹁間章云、社生有三島↓一足西方、二生融
勒夢云々、鱒軍一皮往生、相封緋易、何可レ定耶、答云云疑南方、琴石論陀盛易嘉、凡夢二虞往生呑、品俵丘信力之強襲
可レ任︼融練之有無−也.田一所宛細叫不レ可一声往生難易↓俵レ之穀粒及十社生広中、退避入社を西方l云々、児車乗レ閏一重例可是以
憾感躍帥於三成往生立一t十五同襲准乏等哉宗レ可レ事由率牲生易一耶、著儀レ之云南方易豆、今率飯南方盈異界故、褒状も斬
惑編制盛足同界故、不レ暇土師惑東成帥往生云々、︵中略︶答凡西方児率粍生之難易、琵旦日城詰師異論紛々、其義非二、憤
怒蹄師維レ立岩十五同哉↓至▼立ヱ八個之異襲井造−群徒論い於三招柑祁児筆立貞十二膀劣”怒息大師宴十畢明占徒蛙差異↓知レ此聖祝、
各引レ文立一理、論ヱ描垂紺姦非番見之学者、何取捨耶、但或先徳一哉者、闘陀如炎、始行初心之時、立−由十八大厨姦値ち
遇壌土衆生ご汐轟面土刹堰菅野安寧衆草枕凍教化、悉夢引由来代衆些也、桟感若相應、何県界芦難耶、信心著至、巻
捺倉時代の封勒信仰
88三三
鎌倉時代の靖勒信仰
根著純熟者、何以添土こぎ不生面、︵下略︶
︵九︶打順は凝然の師に・して、東大寺成増院1ニ任・し、三論宗¢律健在り。連泊三年十月二十二月寂†。春秋五十七、凝然著す所、
行状三琴ぁり。怨中に入寂の相を甲して云く、﹁甘言東口悶㌢性渾敬二徳左£野中夜趨讃音曲雅亮−頼勉物信、念併之
中調速迎琴上人忽詣、同音念彿、帥出義視高上諸化彿云々、蒲刻己雫夢週毎牛妻干貰些忽見▲瑞光南方空
0000
明赫央、見執事薩感塾衆−充﹂ミ又、巻上に、﹁貞居諸家崇至二論垂煉炭音義遊妻拳南公彿法曹
沖土法門源流牽に、﹁衆弘上梓教義人面致こミいへり。
︵岩︶凝然は東大寺戒哩院の律励−こJて軍属皇軍J、熱鴻→るミ、ろ多く、元亨元年九月五日寂†。春秋八十二。︵停暦ほ既着
年譜1こ乳か光り︶浄故に閲†る著述も少からす。二十二歳、九品寺長西に風趣疏を漁き︵経歴経疏葛薙記奄第九の中に、
﹁予鈴居三十二謹話衰寺垂詩巷導和府税無我疏事レ時長西大徳年齢七十八、帥弘鼻元年辛酉七月自慈克也、西公野予日l
覿脛主心、維靡軽十七草中、初之三心、過信論中断祝三心、二至論所説仝同、経歴載経並是浄土門中心行
緩土修行、聖法門中習兼安心、所レ向雄眞、法妹是同云々﹂ミいへり︶安養の往生を期・し、自ら﹁欣浄沙門﹂ミ稗†。圃照上人
0000
︵三︶時に三十三歳。何秒、第一、奥書−こ見ゆ。︵菜五¢奥香にほ、文軍︼年二月の比より始むミわれミ文屠二年に書ける第︼
︵ニ○︶爾勒如来感應抄、弗︼、奥書︵文暦二年、笠置寺に於て抄†︶又同抄、第二、奥青畳照。
︵一∧︶倶告諭第十一巻要女抄、奥鷲倶舎論第十一巷抄、奥沓亦略之に同じ。︵完︶宗性時に二十九歳。
︵一七︶倶嘉竿九笹項疏惑問答託、奥書。終に、華厳宗天稟沙門宗基警撃苛。︵此時津保三年︶
︵一パ︶宗性は正應五年、九十〓覇に−して寂†れば、建仁二年生、建保元年は十二歳め時に苦ろ。
︵−苫清浄光寺扁揮等勧進帳の養に、﹁笠置寺上人御病中記、沙門挿宗性﹂軍宗性自筆二行ら文字あり。本文ほ見えす○
︵一章弼勒如来感応抄、第五、奥寄り中に﹁加之十三東安堵呵場撤基微力南加誌撃二七日入堂参祀、狭義骨一致熟誠こミあり。
︵三︶華厳痙廠世音菩薩感應嬰文抄、奥書。︵二〇華厳経文殊師利菩薩感舷要文抄、奥書。︵一三︶封勒如来感臆抄、竺、奥書。
・
り
さ83
甲奥書にほ、去年より始むミあれば、第五¢方l‡記憶の失ミ見るべ与・もの光らん︶
︵ニニ︶卿勒如来感廠抄、五帖。
︵云︶弟五の完成は文應元年、五十九歳の時光れば、如捗の文暦元年エリ二十七年の星霜わ経圭り。
宗性の禰勒信仰
︵下︶
︵ニ豊春花秋月抄革、秀一の中に、宗性の手抄†るミ・ろなり。罫祓四年は宗佐三十七歳り
七
宗性の蒲勒信仰の事蹟を碓群に物語るものは、彼の抄餞に係る爾勒如凍に関する経論章成の要文
何倍、験記の要文之打アリ。宗性は抄銀に多大の趣味を有し、蔑めば即ち抄し、抜けば即ち聾す
を諌めば経抄あ♭。諭を譲めば論抄あら。侍・ざ蔑めば侍抄あら。静養の場に列すれば、必ず静
鎖し、願文、表白の類、或は自ら抄し.或は人をして抄せしめ、以て他日の麿忘に備ふ。凡そ抄依
の存するもの宗牲の如きは稀なゎ。恐らくは古今の第一人ならん。随て其抄録の存するが焉に、
本既に失はれて、抄藤に依りて、面影を忍ぶべきもの少なからす。例へば、鹿討摩耶経の疏の如き
梁質唱の名付侍の如き、共著名なるもの、其他、延暦伶銀の如き、青石山大付都侍の如き亦有数
るものに属す。
宗性が鋼勒信仰に閲し要文を抄鎖し始めしは、前述の如く、文暦元年、三十三歳の時なるが、式
後断繚ありと堆も、兎に角二十七年間此事業を棄てす、文應元年五十九歳の時に及べち。以て尋常
鎌倉時代の爾勒臆如
884
鎌倉時代の対勒信仰
一様の妙音家に非るを知るべし。法苑疎林指示抄の奥に、
︵一︶
嘉頑二年±月二十八日帖於恕衰寺東城院引見食詰錦︼了、芦勘こ爾勒戚應之要文、兜卒往生之先野
也。
費貿
借印
志茂
道任
意精
︵三︶
追放
伶某省放資書
法感
泣焙曇副
と記せるは、正しく要文蒐銀中の出水専行7り。斯くの如くにして、名伶噂を抄し、岡持示抄を造♭
曇浪
︵二︶ き。而して、名付侍よ♭は、左の十五人の侍記を爾勒加薬威庶妙に牧叙し田。
温安 志最
菜性邁抄中に裁て.直接蒲勒加水に関するもの左の≡確あち。
珊勒如来戚應指示抄
︵六︶
應元年四月、大和中ノ川地蕨院に於て注し光るもの行アリ。
︵諷︶
同月同所に於て始め、嘉頑三年三月、同寺藤城院南堂に於て抄了し、第四帖は文暦二年二月同寺東
︵八︶
輔勒如来戚應抄五帖の中、第一第二の雨帖は文麿二年二月、笠置寺東谷房に於て、夢二帖は同年
︵七︶
︵田︶ 詭虔を記し、第二帖は天頑元年十一月、東大寺中院に於て、彿戒経以下の詭庭を注し、第三帖は文
蒲勒加水戚應指示抄三帖の中、第一帖は、天頑二年正月.笠龍等充谷房に於て、大役若経樽以下の
瑚勒如凍戚應抄草
珊勒如凍戚應抄
(三)(二)(一)
886
︵一∩︶
︵九︶
谷房に於て始抄し、晃元元年三月、同寺東成院に於て抄了、第五帖は文應元年五月、同寺般若院に
於て抄了せるもの打了り。
浦勒加水威應抄草三帖は又甜勒如凍結線私文集といひ、威名抄の草稿本たト。麓一は天頑元年九
︵二︶
︵一二︶ 月五日.東大寺中院に於て始め、嘉崩二年四月四日.三輪中等尊大智院に於て抄了し、第二は天福
︵〓ニ︶︵一門︶ 元年十二月、東大寺中院に於て抄し∵琴こは正元二年三月抄了せ♭。即ち指示抄は綱目、抄草は稿
︵︼市︶ 本、抄は持寄本なるを知る。而して−宗性は抄出に際しては、奇膠院に滴勒堂を建て、或は錦勒の韮
像一品け、浄衣を著して・其下にて箪を執り、或は笠置般若蔓の十三重渚を修理境或は八静戒を
﹁
︵一入︶ 拝し、白檀を以て∵河勒の像を刻する軍歌虔の念に満てるを以て観るに、其熱烈なる倍仰の一端
を窺ふに足らん。其他事抄本奥審に於て、砂寄の功を以て礪勒に蹄し.上生内院、下隼伍遇の結線
硝勒加水成應抄の内容如何といふに、経論輩疏樽記の類よト抄録蒐集せしものなれば、固より一
︵一九︶ に資せるは、頻々として、殆んど毎巻に撃Qところにして、枚拳するの繋に堪へぎるところ打Tヮ。
へ二〇︶
個の撰述として観る可きものにあらす。.いはゞ自受法柴の焉の膠業と観る可きものにして、著書と
しての健夢皆兵へぎるは己むを得ぎる打てヮ。今其の抄銀されたる原本を調査するに、第一帖は講
︵ニー︶ 廟文など、まとして貞慶の作を集め、終に軌兜率記を附す。琴一帖は、上生軽.西域記、慈恩侍、
求法高僧倍、法統嘩高相侍、頼高相停、世親傭、偽造諭衡.三賛成迫銀、比丘尼侍より爾勒信仰
校倉時代の鞘勒倍加
8£¢
鎌倉時代の積勒億知
六〇
者の侍記を集め、第三帖は、華厳倍、暴露弼珠玄記、大疏。大般若嘩 弘費法華侍、法華嘩 三
賛成鹿要略錬、法苑深林、十二祓、唯識論疏玄
、費要集より、侍記、要文を輯め−第四帖は、名借
弘法大師侍、給邁徒生噂 秒速和僻入定蘇生記よト,第五帖は.
嘩 宋高付侍、意思大師碑文、満州大師碑文清
、涼停、廣清涼侍、心性罪頑固繰集、囁應刑嘩 日
本法草食記、聖徳太子嘩遺草
大館内典銀、上生抄、浄土諭渦、徒生辞土樽新
、修浄土往生侍、法華経顛應錬、新編古今徒生浄土
弘法侍、延暦傍聴.粕應侍、尊意侍、性婁倖、徒生要草本朝新修往
費珠鱒大唐地裁菩薩應鹿記.入唐求法巡惑行記、大歳冠侍、軌自在菩薩三世最勝心明王経、雄
砂、青石山大付都噂∵畢草昭
牲に倦み、
生侍、後拾遺徒生侍、今撰往生噂−理趣分奥日記1㌻り蒐鎖せるものなら。宗佐は斬る先贋の跡一旦慕
ひて、自らも弼勒の倍仰に鯨入し、治療の愛染に耽ゎしなゎ。
荒性は華最の畢匠打了りと堆も、菜食の如き著作に没頭する純畢究に非す。多情多嘩
血に悩める地の入行了り。漫セぴか、滴を禁じて替じ待す、欲を制して御し待す。向上の破綻と戦ひ
︵ニー一︶
つ∼、醐に誓ひ、備に新すて、自が煩惰に泣けり。斬る性格は弼勒信仰の記殊に興味を魔えしめし
なるべく、戚應秒は畢なる侍記、記録の研究に非すして、党費の行業の上に、法恰を酌んとする求
︵二︻ニ︶ 温の歴程なゎし捏了ク。滴々たる生血の結晶た♭し打了り。
宗世の門下に貨弘あゎ。又調勒を倍じて兜率の往生を靡ひ.四十九重の内、因明智畢院に生せん
88ケ
こと一ぜ希求す。碁要義断賓勝殊義抄の中に自ら記して云く。
抑以瓦功攣併姐丘向内院上生国、伸餅大聖芳澤撃京怒↓抹那天主等施︼↓加護︰必今レ速毎絡正念、上生内院素懐︰四十九重之内、於−一
因明習学院l者、厨望辣相應.感庶何空。︵上、下略︶
鴎絶佳−正念︼
社主生珂勒前一
と。これ延應元年十九歳の時行7り。同じ年に書ける大成上琴質膵残義抄の奥にも.
麟以占此功琴 翠向兜率琴
南無蕃死導師弼動感亘
といへ♭。造砂数十部あり。此類の文亦少からす。而も不幸短命にして、天所の不幸に合したれば、
宗性の如く、別に弼勒に閲したる砂物も見雷らぎるなト。恐くは、師の戚化に依わて、兜率の上生
を厨求せしものへ㌢Qベく、別に甚深なる動機は無からしなる可し。而も鎌倉時代に於ける上生者の
一人として逸すペからざるを璧ゆるを以て、此に附記し置く次第なり。
00000000000000000
文麿二種五月晦日晰於三笠置寺南堂垂l渇之垂、抑宗性白●主十三日豪忽常山↓名僧些二十巷中今レ抄一包緬勒想應之繁文乏
控︵一︶此事情に名恰博重文抄並に名借問指示捗り兵曹lこ詳かなり。
次、共外至婁之持聯伊記壷之瓦、此沓世間流布惰希之間、夢想劫大尉蕗三相勒要文乏今、雄一似レぎ飴事女声億
倍要文抄、奥書︶
門跡之輩可誌奏志奏、伸餅以誌島々要文抄出書嵩之功芯蒜写生々盤随弼勒債遇之挙兵、右筆笠足守住僧沙門宗性︵名隠
本東大寺東南院鰐赦之本也、是則琴線動物結線之先嘆声託義挙雀生之
︵二︶一旦文撃一年五月十五日昨季間十八日牌︼於垂足寺福城指南筆名偲博一霊室十森之中、至要改良隠王引見呑気銀垂、其
00000000000000000000
鎌倉時代の蒲勒信仰
888
鎌倉時代の靖勒鹿仰
示抄、奥番︶︵三︶第四帖l二収む。
六二
其深志東傘天之秋暮必速註生於内院之整二軍零封之春朝、早夢芳接於三食之風奏、右筆笠置寺任侶沙門宗性︵名恰停細
︵四︶渦勒如来感愈指示抄、坑〓、奥書。
串 ︵下略︶
天満第二之府、正月中旬之供、於員笠置寺東谷房↓我£集粥勒如来感應文乏時、引l見請偉記乏次、大般若経侍巳下耽岳詑之
︵五︶綱勒如来感鯨指示抄、第二、典せ。
天稲元年十一月二十八日、朋於衰大寺中院引克之−丁、俳蔽経已下今旦野引見一也。抑宗任那率往生之繋志、澤レ自春頃
︵下略︶
三曾依過之餅、誠徹≒丹野之間、日義二十五日相l夢今日哺瓦ぬ詣勒結撃ん文引見諸持論鮮能筆之吹、寧其重要之
耽岳小柳詑−銀之lT、此間恕鼻輪俄雨勒於眼前↓着ホ清浄衣服於貞上↓慧抽鼻信心−研一検ふ支持l也
︵六︶滑勒加水感旛指示抄、第三、奥書。
文應元和之天、四月上旬之候、於血中川地敢院掌託▲銀之奉、自l苑十五日︼夢籠笠置寺般琴堅欲l・抄さ出謝勒如衆感鹿妻廟︼之
同、此間於■此道場↓恕新一助舌共功一也 ︵下略︶
︵七︶珊勒加東感鯨抄、弟一、奥書。
率之年寧之間、常ト▲青山幽閉之居可‡所‘後世得戊之旦喪中去年常陽之始、常山居住之時、怒徴槍−訪紹論併託孝琉之耽り抄義
文蟹一年二月入口叩於垂足寺東谷野抄レ之串、抑宗性自主冤書二中之秋宗掛声飽此媒些以降、深憩■恐耳之引接商学児
︵下略︶
出痛勒如来惑廃之文↓亦肺魚以ま弧押上人御封作東レ本.詔勅讃数之私.兜率染田之略抄等−庶焉▲浦本↓欲レ上線一帖−之凪︵中
略︶璽抽員悲惣之誠一戯曲︼抄出之勒可今此一帖抄所凸癌集結一也、此中叔児牢記之外普及組師上人御草案也
同、第二帖、奥香、︹大略右lニ同じ、但二月七uミわり︺
︵上略︶亦願郎以一首山譲泣所軽戒之本、併本寺耳勝院相承之香”於轟爾勒萱−交‘合夜霧裁唐本↓発語饉詑中、揆一出其誓文−︵下略︶
︵八︶何、第三惰、奥書。
889
前後−而書一之、︵下略︶
文暦二年二月之比、笠定専束谷原始抄レ之、募鱒二中三月時日畔、於高専損城院再生式一帖夢奏功︼葛.随一僻地之感得志■
︵九︶同、第四、奥書。
文暦二年二月之比、於垂直寺東谷夢始抄乏、井伏年■季籠此丘遂々鯉勤夷文諸家之博籠、等訪不.祇、蕃山之居住乍嵐
亦希ナ而、已評注赦牛歩類義一部霜今冗元元和之天、暮春蓉臨之候、且夢森算之巳迫互敷瓦勒之乗数、再挙飽食山︰
凛相知井野華人清涼#廣清浪停並心性丼霜田繰集之嬰文乏次、結集頼果以要一帖−畢、凡前後合雫今軍務四帖産夢
†勒如来感應抄奏。︵下略︶
︵岩︶同上、井五、奥書。
文鱒空品玉月十音別於一笠置寺般若寧抄−之●、自重文軍妄こ︼月之比妻子克元元年暮春之侯妄卜亀山寂英之閑居︼I
聯抄一媚勒感應之畢芸前後九孤之問、夢集四帖聾紙夷後者山之碁敵中紹、侍詑之抜覧而今六旬齢傾、雄−期▲後年於笠置之
鶉月り一生残迫疎撃願念於兇率天之‡零俵乏自主四月十五旦多伎此幽閉聖跡亮蝮不一勘及乏婁虎、此間抄出亦夢一帖可
如来五衝帖、披乏甜勒如来感庵抄︵中略︶何故大聖漕耳知友此探翼状乞春日機現さ撚此懲戒︰一期終焉之瑚、早開恵解於
︳−貰旦︵中略︶津印積大僧都素性、年齢五十九、‡沸四十七。
壬︶一事如環戚鳥抄革、英二の督た、﹁天濁元年九月五日哺於東大寺中院︼歩乏﹂亨わり。
一
︵;︶村井一、奥書。
‡洩二年由月曽品於主格山別安平等寺大智堅以一群息御厨之御本iざ出之l串、同六日畔亦以訊御車聯倉移鮎串、亦さ
鶉笠置寺i勒感虎抄中断i才人之瓦。︵下略︶
︵一古河算二、臭♯。
天滞空之冬、膿月中旬之候、於兎大寺中院議▲粧性套寧之串、尊鱒院御鈍戚之本葬欠鹿多之仰・夢知議席残之敵−
也、鼻声清一爾勒御衣感嵐之畢文も。︵下略︶
★書時代¢†勤惰如
糾
︵き
︳倉時代の数■償■
、芸謹選歪雲量是聾墓・蔓讐誓芸砂嚢蓋
黒誓文乏問、芦用一彼直代車秒速革季也。︵下略︶
︵一七︶爾勒如来感應抄、慧、奥焉
白蒙−語‡東茎モー中大旦−十月︶同上︵同上︶︹〓千日禁酒の事、時宣十四瞥敬白l生涯力重盗未死際閻酒宍仁冶
持ユ◆点文か引く龍ほざれげ、七億條の日窟川Lて参考1二賓ぜん。五箇健也詣事。十箇條腎即事︵文辟二年六月十日︶敬
︵童︶彙断磁事勤修善根警炊抄一帖ほ彼が時々の連綿文︵セ箇使わり︶わ集やしもりにLて、偽ら言人間的生活の記録耽り。此
ある・へく、霹申し播き節われども、之に依りて、天台沙円債胤の作㌣る=JJは明か光り。
四月廿九日添例再冶・す夢夢群雲夢天上扶遠近人共期天茸動生文事日夜寧此舐文表象天上垂
せ音‡悪臭にl吾如く誓言のわれば叱り。﹁天台沙円債胤以支給元年音十八日革集、其抜放年、芦仁平元年閏
鋲T†勤如来至妙に就い三三十五頁に、﹁覿兜牢記だけ托宗性の自著に係り﹂ざぁり︶自著−こ1‡非す。其証は観兜申
︵ニー︶・︳寄託蓋世の作音量,言人われども︵著大畢蔓、第二音字表、大正十五竿二月十日、龍谷大書行、
一、﹁悔恨利耶にこ脚†る文ご上の中にて、余初ゆて之わ世−こ紹介L㌣り。
︵云︶司勒笈感應抄の内容−Ⅰ、雑誌﹁無産燈﹂︵大正四年二月一日.乱宗大谷大挙費行、竺十巷竺哲にて、南軍肇隼の十
︵一九︶千数百懇の紗太殆んビ其意味の典番わらざるほ稀光り。此等圧悉く拙誉琶上人年譜︵稿本︶に詳光り。
形像衰 ︵下略︶
下具足依套靖勒有線之旦‡竺心之悪感撃八草之戒品畠竺抄始−也、︵中略︶今日亦以▲白檀御衣兼房学芸勒蛋
︵一入︶酬勒加水感館珍事、第一、希首。
︵一む︳勒加東感厳指示抄、竺、奥書。︹五に引く︺
︵;︶琵法印造言宗論義抄、竺の墓に、弘安元亘音二十二日、束大審吾疲院芸新堂蛋に於て抄言且岬。
.
帆
酉年正月一口︶︹四十二き故合音催鬱誓.毒
笥一事︶専一零普蔓■籠居の事並lこ♯軟の事︺
皇︶︻弟哀慕ふ失ひては、維■鰹♯喪戎半文抄、・▲〓、篭﹁善一十三董筈l衰章掌.・iI欝肝、蔓†之
巳﹂せいひ、建冶元年八月四8、何宿力倉丸凱抒苑島Lては、・悲数雪女克く−壷︳に渡れて、克怒の滞に暮れ甘り。
闊.決将乏勤衰・鎧甚儒.空電蓋芽室登竜着電悪妻言葉誉蚤晋農之零挙晋於規準漁法之寧而
異状、遥鎗寧蒜、筆書芸濃抄、阿同点躾甘苦醤拝曙ぢサ。﹁燕雀ヰÅ月再訂£まカ●丸骨欄之後妻■今旦’撃
︼lj十八8之光塁糟暮之息声色、搬誉群舞﹃書之裏毛吏敵暮套脆︳↓霧士之爽不≒
結
論
塁彗‡黒蜜冨毒之月コニ曾達之串夢抒−象夢︼一蒙れ攣井足之ヰ誓書薫戯け.算葦・・奥書ジ
八
鎌倉時代の南都に於ける貰際倍仰は頗る勒残しー多くは僻線的倍備に満足することを得す。或は
祀に念じt或は念俳に馳せ、各葡しき円βに向つて叩くの状勢を呈せり。法相宗の良遍の如き、念
俳を唱へ、坐諦を試み、唯読取を擬し、戒律に精進せるが血戦■此時代の劫勢を一身に経験せる最
・ご〇.
も代表的人物の一ならすんばあらす。此間にあらて、法相に貞丘あら。華厳に宗牲あ♭。上生内院.
隼墾二骨の廠行に精進せしは、一見故きを守,て薪しきを知らざるが如きも、其倍仰の内容を検討
暮倉疇代¢†●償傭
しものなるを麓せぎる可からす。従て斯も偉人密行跡−よ芽阻蒸着と弛隋着を生じて.鋼勒経典
として止む俄はゃ。大にしては、新しき時代の思料に促されて↓深溝ける一路を許勒骨仰の中に求め
し凍れば、決して数千年来侍胱の倍仰を墨守せしに非ゃして∵損じしては、自己中心の欲求止まん
ヽ
★倉時代の†租借伸
夫未
︵一︶︵〓︶ の開版あり。珊勒の登臨書き場所としては、.典顧寺北卸堂、元奥寺内院等は、足利時代の来電も有
名な♭き。
然るに、此に一膳考ふべきは、貞慶にも、宗牲にも、一面に軌音信仰の存在し光ること之なiも
000000000000000
之往生亦寧所望之閉、自議二十五日き千今日今時重液経内宗家群中.読取昔任虜相之文、述・大
0
0
0
000
0
00
0
0
0
林て之を貞慶に裁て考ふるに、文澄の存するあり。貞慶.観音譲式の奥に記して云く。
︵田︶
0
0
000 0 0
望すとあゎ。加之・貞慶夙に取昔の悲願に乗じて、巳に禰陀落の往生を造ぐること現在多しといふ
即ち、偏に爾勒に臨伏してJ都率を欣求すと踵も、観音の悲願をも信仰して、禰陀落の往生も亦所
々鮭ユ産地地上之修行謹成義上之彿畢還度有線之衆生麺向無式願望有乏、軌音大士哀慈知見奏。
切二嬰野上人−同生垣菅禰陀落之堺︰靡奥主人︼倶詣論勒都奉天l之柳、世々撃重大慈大悲之法門重
000000000000000000000000〇〇
帥軒か新都如、星置今世不奉彼上人l之恨銘ヨ心肝︼而尤深、後生伍適役上人︼之志徹脊髄南専
専畢論伏−耳、而彼上人早乗観音大士之悲願已造詣陀落山之往生乏事、現在之所宗、罪一夢想之
000
就中自表裏線二年十月之比大義渦寺光明院法具鮎費−避門室乏間、彼師範雷置寺上人腎畢
士誓癒旨−之辞、随憩出奉之、偏馬鹿融路資糧之困︰任勤及︼而抄乏、亦声止ヰ後日披見之煩垂
0000000
抑宗性去々年款此、参籠笠置華以来偏蹄ユ依甜勒或読︼求都率祓自在奇之悲願殊致詣仰葡陀落山
貞永元年、宗性自ら砂せし奈奥に記して云く。
892
893
′■ヱ′
、’′
︵上略︶
凡現世後生之新帝世多レ用.別々本尊其翠軍許可−然.著於一塊些於二俳書薩滅入衰功一了
考後生事只可読王彼本草欺、付皐於観音−孝二世之願方々和琴設叉疲法㌘名利之畢軍制生一殊
牧山︼頻有a夢想哀保二年八月十八日、白土佐国宝戸津、粕▲具弟子一人象以進軍一乗船如−飛向y南、
ノ
セ=ツ
′
可レ仰さ此響︰又禰陀落山草欣求人甚少欺、極楽方便殊以相嘩一億院御時、阿波観加登上人、深欣ユ
タ一lト′一一シテチ
貞慶
設任占身於足利固之風冠㌘命於沃焼海之熔︰本懐狩可一足、況又大喪方便何不レ到−義朗︰現身僻如r此、況
ナルコト′
一一十
トシティサ†
於コ後生一哉、普人志願堅固如r此、我等緩々不y男、可y恥可レ悲英、笠置寺沙門
へ六︶
貞慶と観音との因縁浅から
在−英常儀︰亦筆画方之数門所y仰兼務之引鎮也、︵中略︶仰願、依さ此披見之功容ユ其習畢之勒ギ方俳
隷書時代¢†戦備仰
●●●●
以降和弊鮮紆紆a野新鮮鮮新新ど断掛i掛訃掛
西方要決去八月十四日銅山謂専凍詣心事浄衣声譲乏畢抒宗性生年第二十九之秋、蓼−籠笠置寺−
すといふ可し。宗性骨て西方要決を抄b︶其奥に記して云く。
と云ふ。ヌ笠置寺が観音の霊地なることは、種々の文記あり。されば▼
︵玉︶
本尊は自然涌出の像と耕し、堂打に普門品の説相を書き、空武天皇の勅願にして、貞慶之々再興す
霊場として知られ、海佐山は山城圃瓶虎郷に在hく本食十一▼両親音、脇侍地萩︵左︶毘沙門を安置し、
取せらる。唯そが客観的記述なるを異な♭とするのみ。抑貞慶が障棲せし海佐山も笠置寺も観音の
こは前者の如く明かならぎるも、亦観音の功徳を鎮仰し、信念を賃廃するの意なることは容易く看
ク
恥
★オ時代の#勒信仰
土之仰、上方西方多伎虞︰三世如衆之中、.細蒼陀事由池衰沌
靡盤内院の行者も、時の風俗に随ひ.常儀に任せて.西方往生の文を抄し.此功徳に依かて、十方彿
土の閉.上方西方を任虞と超し、三世如殊の中∵滞勒珊陀に位遺し奉らんといへち。.然らば、前に・
偏に漕勒に蹄依して、都率を欣求し、貌自在今の蕗廟殊に信仰を致し、禰陀落山の往生亦所望と眉
すといひ.靡くは、上人と異に同じく観音禰陀落の堺に生せん。厭くは、上人と典に河勒都率天に
生せんといひbも、亦﹁随恕風俗荏衰常儀▼には非るなき歎。記して彼考を待つ。
鱒︵︼︶鎌倉時代にこ珊勒三部経︵拙著早業刊露見、二二七貢さ鰭︶井に註蹟¢開放有︵留楽音経巡、別射附錘、横車簗刊鱒冬空巴
ヽ.
︵二︶大書寺姦叢、文明翌十月昔の條に、﹁一、雷妄言レ之.三六沫策、案文中村動座志願、古里、元典寺卵班
内院﹂ミ見え㌣り。
︵三︶華最終軌世音葛藤感應草丈抄、奥書。此香ほ員永元年六月晦日、東大寺中院に於て抄†る言ぇ、時に宗性大法師余り。
︵四︶建亡元年五月廿三日草之了ミぁり。
︵五︶山州名跡志、慈恵十六。
蔑■法嬰ごミ見岬。
春山日鰻に﹁牧人島原藤森任山寺隻夢小茅革任乏、此寺原義魚力満出観音也、琴南潜補陀山一彼議些也、鱒軍翠慶
わ山ツ。
、
︵六︶東山に観音生わり。春花秋月抄、第一の中に、﹁夫菖締着、飼音大士新参欄垂之暮地、笠置上人古今窟任乏聖跡也﹂ミ
︵セ︶古刀畢決薯文抄.天真元ヰ九月八日.東大寺中験に於て秒L鴨る。−帖守。
モー’シ†ダ■ヽ
平
慮鳴と解脱法品との蹄係に就いて
−俳所行斎富解脱法品
等
通
昭
馬鳴が大軍鹿多詩∴買を許訂ra訂を知ってゎたことは、彼の著したること殆ど疑なき大荘殿諭経
︵巷第五、第廿四章︶の
我背骨閉。有嬰迦利人至中天些。時天竺国王帥用彼人名泉落圭。時取落中多諸政鹿門有親近者。
名東落ま設羅摩延寄。又婆産地音読。降職死者命終生天。投火死者生天上。又詭天上種縄快事。
僻専巧璧
品試巨b弓ローとの圃係を暗示する資料を蒐集螢見し得た。
俄所行諭は言ふ迄もなく、傭陀生涯の純粋叙事詩で、A−岩野⊇井藤調に書かれた
■■旦解航法五官由■係に耽いて
解股法晶は大婆廠多時中第十二篇に位し.所謂四哲轟音中の随一であゎ、内容としては大儀教諭愉
商裁辞も漢評も共に廿人品より成る所から察すれば.原本も廿八品−㌻り成ることが推定される。・又
︵大宮在韓︶である。現存梵本は十七品.内、眞作ほ十四品前年迄で、勉は後世の附加である。併し
ぎl−詩ぎ㌣
の句によつても明である。が、打身は今岡偶怨の横合から、更に備所行舌と大軍雇多詩中の解放法
895
■血ぎ解股浅鳥さらh偶に鉄いて
伽思想を記したものである。左に雨音の類似鮎を列重して見やう。
︵〓︶ ﹁鋼帯的表。この問塩は単に解脱法品に止らす、大叙事詩仝健に関係すること謹あるが、この
諸事の挟心具慨となり高潮される楽節欝息βの子孫般邦婆崇息a声井向王冒昔r畳rpの子孫
望邑旨恩官■ の説話は俳併行讃に頻繁に現れてゐる。
Hづ● 諾=旨ど局声量岩:旨邑暫旨m崇息訂j誹声、pi内岩r芸風−
賢仁.恩讐官厨ipF甘駄賃扁訂m各層コロ打F学
H的−誓r出巳訂g2二p岩g乱弓昏.冒bF雪eロpRpmenpR勘日eぎeP出F阿品宅e写
●●
、ヨ吉富Frgpi昔pri習tF6︹pit邑≦m牒盲訂sik弓tum掌且
H●−㌣m芦︼諾すd雪p日訝且葛p邑y葛iq阜獣−○夢ヨ巴づ㌢i−匡m旨雪弓Ⅶm㌣妻⋮・⋮⋮⋮−
HI●−00・q雪勘ヨdF臥穴痢⊇d首筋ヨd訂ぜこ垣百雷ite月itコロP£.p苗P寧訂日賢●
†−ドリーの美と徳とに魅され
‡との情交、死に終るを知れど
lじ曾
カサ’ サ
パーンヅサ
而して瑞尾迦王発頭は
ぎ匡F畳Fp邑im点u点u訂日名β︹訂唱巴m雪旨r註サ唱警︺●
舛H・芦↓F臥呂Piヨ廿穴馬pさ苫d邑FP日づ首唱﹃呂d訂k阿試Pi家宣首嘗敦富−
898
897
愛慾の凍らす快欒に捉はれぬ。珊
叫
昆林度王子
ピーシユ†
ガンガの胎よb生れし比林摩
二羅靖故薩
ラー7
羅摩、ヌブリグの子なる羅摩は
弼斎既難相
正男貧利故。︹分合別品二八︺
愛欲形亦然
知屠案刀机
調都制撞英
如牧場速歩
都子王遊歩
汝今亦舷然
聞父勤務命
﹂7一
ヽtノ
その父喜ばす菜なしたりと聞きては
叫 ︹御身も父の望むことなさるペきな♭。︺笹
パーン〆パ
展特定相破
l
勇武般那汲のごとく、婁山の如き披︵瓶沙王︶
えーの
王冠戴き、獅子の如き姿なし、人中の獅子にて笹
恐しき武器もつタグラーユダすら
−
り 〇一
ピーシユ†︵三︶ これら楓菓lなして毘森摩の割により殺されたり。
ク ル ゲ サリシュー一
丁ンダカ 鳩尾歩弼志朕、さては難陀
▼イチイラグシダ力
また浦和利根茶の破滅に陥入卜し
槍、刀さては梶棒に似たる愛欲に
︹発き者、誰か書架を見出すべき。︺閑
臭般郵婆破
更に梵本桐失の部分であるが、漢評には
︵︻︶ 先王硫雇婆
鳥叫ミ解放法品モの闊係に就いて
▲
七
一一
(ⅩⅠ.18)
‘鴫ミ解放誉仙ミのす備に就いく
七二
更に又、悌所行讃一・二九には股より生じた優留Aur≦王︵婆鹿多一・二六一〇︶.頂より生じた畳
陀冒ndF喜︵同・三・一・一〇四五〇︶等、一・五〇の閉那迦等の説話、一・九四の雷神︵D︸l巳.。d。賢尋
iti㌔r已轟く昆虫言1p−㌢k軍岩品.・ロ琵眉巳Fロ
共通するものであ丁り.殊にその八三には之を左の如く結んでゐる。
ゴー.誓‖ゴ昔FP.ゴー.会−1誓卓曾−ヨⅠ・gl−ゴ琶l︹宮d・C芦−≠−8に出す︶は大軍最多詩と
〇三︶等の不倫的享欒の説話は︵全く同様の説話、馬鳴作S昌d弓⋮ndpk3.2ゴー・琵=﹃罵罫rp、
ヴシスタ 鉢底くri−・眉P−i・重罪堕W畳−P仙義足合冒賢rP・欒頭王・苧邑昔PkÅ婆三・七〇五、同三
と想像されろ。殊に傭所行讃四・七二−入三に於てはAg阜a・どp昌l已r又婆雇多三・九七︶・毘利詞
である。これは雨着の詩髄の一致と併せ考へれば、それらの何れかゞ他を知ってゐたの
多欲の論詰・三・六七︵後述︶、三・八七迦問Gpyp仙等は大婆産多詩の人物行事と符合するもの
〇〓ニ並に三・八五九l︶、二・二ニ⊥六に鼻陀王・農沙芝居r王壷羅Ⅰ曾又はⅠ−p王等の
九・五九1庵嬰梨Amb息p王、九・六〇−安低垂Al音de≦.と婆私書雪駄諷ぎ仙︵婆羅多三・一
九・二〇の匿i−厨盲・毘提討の関都迦JP旨kp王︵同・各所︶、S2n告の子︵同三・六五二四等︶琴
一ndきと合脂変乱、八●七七のSu竃ウ呂事iまnとS畳Pypとの説話︵殊に婆鹿多詩三・≡︶、
rp︶と子那羅鳩婆︼苧E蟄責ミ一三一一のYPy賢二・二七の合邦鳩摩
89$
彼のこれら理ある
甜割判口耕
†時王太子
巷説糠南相
開友憂陀夷
こ亡わl
丁−ガ† すぐれし古塑偶に支持されし言兼開きて
然るに大婆鹿多詩一二・二六九には
芦昌苫r︰弓kP訂−re亭yPMt曹m腎旨眉yPth仙曹m買−⋮曹−星邑雪邑宏l
︵五︶
念.↓邑l賢;ヨPmup加数さ品pm琵t賢p監b3ti、
t三pr−︵p許Lrぎie蜜mPl
と耕し,又他には自ら一ざ発五吠陀とも言うてゐる。之一で見れば,傭所行讃四。八三の句は前説話
監dll音︻︶rそPlハ讐u℃pCPdri耳PtyおPm邑−軍y芦
︵六︶
を大婆鹿多詩より引くを暗示するのではなからうか。
私は彿所行譲の之等青侍説話は、一その記述教の多く且詳かなること、婆鹿多詩と渾然と一致解
ヴィヴィド すること−措寓の躍如なることより、・譲彼の直受的印象によト1馬鳴が婆薙多詩を讃んだと信する。
然し一方、之等の古侍説は印度文化の共有財産であつて、吠陀・焚書.冒rぎP︼lti11ぎ等にも多少
の藁化を以て存してゐたものであるから、馬鳴と婆農多寄とは直接的の相互関係なく、民間乾布
七三
共通源泉より採用したとも考へられる。故に私はこの侍認的一致のみによつては、馬鴫と大飯事辞
馬喰ミ解脱法品ミの闊係lこ就いて
〓、大軍藤多辞十二︵解脱法品︶≡一入には教諭諭師として次の人々を奉げてゐる。
の相互関係を主張せす、単に参考資料として残すことゝする。
$09
900
馬喰ミ解脱法品ミの関係に就いく
七日
芦JPig官くy点1賢t伝yp冒邑P薫p日py帥釘已眉−P琴芝弓たy三言三愛二百膏g眉y芦唱P
dF叫m旨廿●
●
芦出hrigOサ憎呂l夢詳−1P唱ぶ1pR鼠−琵琶、S良民ypep−穿仁訂m荒箋r農相昌P∽ypG寛g民竃声戸PF賢
R邑磨盲
J昌PkO
jidd−1乱cPiくp
句弓毀寛与︶
林蔽沙仙人及異聞郡迦
anye2mOk思盲lr
林祀沙と閤廓迦
咄陀波超沙
く誉邑首
巴・甥冒Pd月芯s彗eい2i≦∴ワ一l邑y覧アロCpdh川mP邑−、S2−Ptk亡m宥監で邑已−戎ukr琵ypgmpF警m昌p
声内乱でpaS竃pit急epiヨp冒さmeヨm首二ヨ旨P訂d呂呂t弓p紆p
mPtPF
︵七︶
官
然るに俳所行讃十二品に於ては阿羅藍仙は太子に原始的教諭説を説明して左の如く附加してゐる。
3● ㌢ig官童0
i日Pm召11t11巴−昌乙邑官muk罫︼−y
バラーシ†ラ
また年老へる汲題沙すら
及飴求遺著
ヂ†イキーシヤヴ†︵八′ヂ†ナカ
この道に従って解脱しぬ。
悪徒於此道
両得直解脱
解脱望める他の者等も然り。
︵九︶ これは木村教授によつても夙に指摘された所であるが、この林舐沙。聞邦迦・改定沙は解脱法品と一
致するものである、何問郊迦は般茶戸討冒ncP茅hPより教諭約数義を聞いた王で、一・五〇、九・
二〇にも出で、汲雇沙は四・七六にも出でてゐる。而して﹁解脱望める他の者等﹂︵日Ok昔与︶の語は
他の多くの仙士を瀧想してゐるに相違ない。又解脱法品の毘求
日吉g声は俳所行讃の他虜では一・
四六、迦枇尾野pi−pは丁二.九四、一二・二一、雀曇摩仙G邑昌pは四・一入、七二、合邦鳩羅
S呂atk呂腎pは二・二七五・二七.億迦荘払uk⊇は一・四六、九・一〇にも出る。しかも林砥沙の名
︵−○︶ は後代は屡々言はれるのであ畠が、大婆雁多詩︵本籍には九・五〇にも出す︶外の以前の外道例の古
書には見普らないものである。又馬鳴記述のこの教諭々師の侍読も阿合垂典には無いも
かく見凍れば、これらの南書の一致は到底其間の相互的関係を否むことを得ない。しか
教諭諭師で教諭の歴史に通擁してゐたものなら、傍所行讃が婆絃多詩に影響したとも言
然らざる限り、且又大叙事詩が馬場前に存した大荘厳静脛の記述のある以上、馬鳴が解
の部分を知ってゐて、傭所行讃を書いたと推論する外はない。唯一つ、関越となるのは雲r芸名yp
︵一一︶ である。高柄教授の世親偶の研究によれば≦r讃P唱pは雨衆の原語で.金七十諭の故婆利・唯識
速記の茂里沙の原音、稔伽経註の雲r讃P望で、世親と略同年代で、自在異︵四二〇−五〇〇こ
の師でゐ♭、雨衆は四世紀と見ねばならぬ。一方.木村教授の考へられる如く、金七十諭の迦枇農
より自在黒まで大仙の相承はその間の歴代諭師の代表的のもの∼名と考へ、まr讃P召Pは自在黒の
直接の師でないとすれば、三世紀にまで遡る。何れにするも−この解股法品の雲r讃眉ypの年代
馬喰ご解脱法品ミの縛備に就いて
は三、四世紀と行了ワ、馬鳴よ♭後世の人物となる。恐らくはこの一人は後世附加され
901
903
喀鳴ミ解脱薩品ミの附係lこ就いて
七六
らうか。此虞に我々は解脱法品の現形は既に紀元前に初り、大部分は馬鳴前に成立し、一部分が後
世附加されたと見べき一理由を見出し得ペしと思ふ。
解脱法品が教諭漁伽書でめ♭、彿所行藷が偶数所侍としては詳細にして特色ある教諭詮を有する
以上、南書の比較上には一應之に切れなければならない。私はこの問題は未だ精査してないが、傭
所行讃の教諭思想は醐我を明かに説かす、五唯は梵本・漠就謬共に説かサニ元的傾向は分明でなく、
解放論は詳記するが、形而上畢的寵明は鎗り組織的でない。教諭としては原始的であつて、むしろ
︵〓一︶
木村教授の言はれる如くA誓git隕薄伽梵歌の教諭詭に類似してゐる。之に射し、解脱法品の教諭は
二元説になり、二十五講説を取って居♭、成熟期に達してゐる。然し、備併行讃の教諭に近いものが
今後解脱法品に費見し得る濠想は持つことが出奔る。馬鳴が傭修行過程に教諭思想を配し、之を不
可として棄てしめたのは、昔時漸く盛な教諭詭よら偽詭の偉大を示す一の思想的の修飾であらう
が、その材料を民間より得たか、大婆羅多辞より得たか、推定の材料一ぎ有さない。彿博文厳に現る
る教諭稔伽訣と正統教諭稔伽思想との関係は今後研究を要する。
三、俳所行讃言叩には、父親によつて成就されなかったことが子孫によつて完成された例を奉げて、
cpkrpt弓<眉卦k等号ri凰t呂.
年齢が事業の規範でないと述べ、太子の兼務を成東してゐる。
会・Y乙且註乳ram望一呵肯弓Aロ乳rp忌np
903
ゼ。廿s已P三呂ep撃音岳監k巴e−一p払ukr臥e⋮号握註掛声
芦S旨彗星嵐。苫ijをd⋮−ぷ甘蔓邑長pun雪y眉d与iぎnppurヨ卓
l●
●●
ぜぎ∽監Fpin眉bpFld−一押cp訂r=lpy眉ぎ茸昔サk苫P忌np斧ti廿.
声雲−邑kiロ註臥昏笹声音p乱篭虐J品r邑FPy呂Cy雪呂○日P訂r普、
eiki訂it眉ygCp2k買.pn賢iすp乳邑監Atr唱:−署j品㌣F
芦YP巨d孟賢長戸欝。nニebbe訂旨弘d訂n眉00ぎurp畠p:宅n、
乳首芦m已re眉登ま百d邑1re−−ek笥許雪Oy首prP旨2臣・蔓bPb賀dhllb●
毘求央曹羅
各生孫異子
此二仙人族
彼等二人の息傭迦薙・
詞底
鉢低及典傭迦羅
鳥毘
利利
討鉢
綬歴久邁世
kby罠P山k雪m邑epy賢哲弓鼻Sur已Py邑e明言bP−笹babh毒・早
芦腎腎3k巴か﹃。管主l−昌d孟ぎ昌.還r考訂m呂y已rJ呂PkOj品ぎa、
、ヽ
かれら仙士、家族の創始者
プリグ アンギラス
毘求又は央番屋も作らざりし王典
ティ
不従兵族兼
ハスパ
能造帝王論
経論久断麺
り
時経て終に造りぬ。㈱
薩羅薩仙人
濱復明経論
ブ
まことサーラスブタは先つ世に見られぎりし
両生叢婆
シュク ラ
かの失はれたる吠陀を諭し
馬鳴キ解脱法品ミの閲係lこ訊いて
●●
セ
セ
90・1
霹鴫ミ解脱鹿品ミの園係に就いて
現在知見生
多邁諸評論
不必由先管
ゲイ†−サ
毘耶婆、多くの形にて
見耶沙仙人
仙士阿低能は彼の後に述べぬ。㈹
又阿低利も妾出し待ざらし審術を
大仙チャゲナも作り能はぎ♭し詩を朗じぬ。
験蒲の壁は
後伽提那王
二生駒戸仙
後生阿倍雑
阿低利仙人
席集偏章句
末後胤駿輔
生育千王子
不能制掠輔
悉解外道法
不閑外道論
草能冶首病
不解皆方便
ケアシスタ
カヘ仏く婆ア咤の鮨し能はぎらしそを復葡せ♭。∽
駒戸も待ざりしかの梵を
甘庶王始族
使不越常限
ケール・−−キ
王よ.彼の子はそこに達する道を見出しぬ。
至婆Ⅲ轟王
イターンユサーク
サガラ
クシカ
アートレー†
また婆伽羅、海に境を作トぬ。
能別大海潮
そは甘庶も前に定め得ぎりき。㈹
閤耶駒は稔伽の儀現にて
無師結滞造
風那駒仙人
ヂヤナカ
未だ他人の蓮せざらし二重族を数ふ一Qカを得ぬ。
ラ
いさほ
而してシューラとその他は
シューラの孫の名高き動功立つるカなかりき。動
シ丁ウ
然るに之に類似の章句が解脱法品ニー〇にもぁる。
七
八
ーP Y患口訂ぎ邑碧象ぎ邑F露nmpb眉薫風−−ebFlre首鼠pぎ昌呂丘許屋S≦﹃巨bF亘
芦邑雪id象F夢喀多=乳首曾1ゴiF琵琶声謬腎g⋮邑賢r邑ヱ亀dヱ君臣こ巨旨●
豊・き善互眉tr軌唱呂e打賢︷已旨甘露宮i忌dib屋⋮:といひ、
芦管dF弓邑宇乱⋮註穿rを督dFロurgrpF昌−邑弓盲ri賢嘗習重吉号音Oi
訂i訂m.
︵〓ニ︶
芦P邑官許芝p⋮召brP訂⋮pde忌n蔓yO畠阜ek邑をed⋮壱昏d−−賢二芦屋麿
p⊇夢阜︵無始至高の梵を天も仙士も知らぎらき。そを竺人重なる道化者カなるナーラーヤ
このこ音に於て毘別封鉢低ゴロ1まp註・毘求皆官阿低耽㌢唱p︵阿低利の子︶の説話は全く
ナは知ら元。︶と結んでゐる。
丁▼■ト■■り
表する。又俳所行蔑にいふ沙伽展S品弓p殊に開郵迦の事跡は婆癒多詩の他の品章には屡々出す
●
る併である。.而して解脱法品の大仙等日計r等風は傭所行藷のサーラスヴク・毘耶沙を意妹する
現に加れて、毘耶沙は大婆轟多詩の作者犀官二冒首肯巨でふ丁り第五吠陀としての大婆鹿多辞の
のは婆羅多辞の他品、殊に解脱法品の他軍曹時の侍詮からも推測される。ダール▼ソ教授は此間
︵一日︶ゲイ†−ナ
作者と推論し、サーラ言クもー人の毘耶沙と言ひ、ブァシスタは子孫眉耶沙よ
鱒鳴の眉尭を旨足し、大婆鹿多待と悌所行詣を脇係つけんとしてゐる。美談の眞
馬ヰミ解脱法品ざ竺園係に就いて
購
嘉︳モ#投法品ミ¢員係に競いて
八〇
鹿法品三四九には昆耶沙は大婆羅多事頗纂の後疲れて雪山に退き弟子に吠陀・婆最多書の内容を詠
明し﹁自分は劇生サーラスブタとして創造まの命によゎマヌ期七d疫学旦旨ヨの名にて諸吠陀編纂
すシスタ
ナ期に又生れ吠陀を四分し、剋父斐私咤の後汲雇沙とサトヤプティーとの子として生るべし﹂
し解脱哲聖二二〇は邑F旨王の開郵迦が在家解放の可能を詭き、般茶戸河竹昏訂臣lpに徒へば王
障七満つるもので、棄て去る可く、出家のみが真の遭、法のみが求むべきものとカ改する。之に暫
きを極力勧め、太子は之に答へて十二晶に、人生は無常にして.、王権愛慾凡て頗る可らゃして親忍罪
㌢弓が出家した悉蓮多太子に琴羅門制度の立場より非時の出家を止め、愛慾と財と王権に赴く可
十.十二品と解脱法品三二〇章との間に思想的修解約言語的一敦がある。倣所行諌第十品は簸沙王
四、最後に畏友坂本畢士の暗示に従って椅査した結果によれば、最も有力な資料として彿所行讃第
の事情をも絶食して、情誼的には婆維多持と併用行藷とのこの章句が相互関係あるは否めない。・
居り、従って馬鳴が之を認めて彿所行轟〓・四六を書いたと想像される。此虜に他の説話の一致・他
一般には愕説的に昆耶沙・サーラスブタ空一書の編纂者とする婆鹿多詩の記述が真相と考へられて
の吠陀・婆農多詩の庵纂者は之よ♭軽々しく決すべきではないが、此解脱法品の記述によら、昔時
●
はれた﹂と述べ、更に﹁自分は茸i噌琶D象pギ呂pとしても生れた﹂と辞してゐる。勿論史茸として
パラーシヤラ
を焉し、更にそのまは汲言して﹁カ,期には内岩r寧く昏といふ婆雇多の子孫が生れ戦あう.クリシュ
▲▼
90丁
擢も在家生活も解脱の支障にならぬとカ託する。之に答へで、㌢−pb訂∵比丘尼は在家生活の罪障を
述べ、王権の不安・無力騒擾にして解脱に到達し発きを詳論してゐる。この帝章は全く思想的に一
致し、向一趣旨の思想を語ってゐると言へ▼る。殊王政雇門の人生の三つの目的ゼi尋1習法財愛
UF弓す巴邑訂村野巳は雨音共に重大視されて改かれる所︵厨ud・望声∴舛●g●り夢︼−●舛
で、彿所行讃にいふ適時非時の出家は婆鹿門制度の基調をなし.大婆鹿多時にも言はれる所のもの
である。更に商事のこの部分の文の結構としては副ま人あとして瓶沙王に封して閣那迦王︵本番に
屏▲出す︶あり、ま人あとしで悉連多比丘に封し、そフノー比丘尼あ㌔先ず副生人あ典じ、後室人
公租じ、副ま人あ同志・ま人公同志は夫々同l思想の所有者であり、雨音は面白い程一敦平行して
ゐる。分けて、王権を無力とし在家生活を棄てて解脱に赴く可しといふ思想の一致に加ふるに商事
の論法の筆致が甚だ酷似し、をの思想と文章の醸し出す雰園気が全く合致してゐる。而してかかる
文革的作品に於ては筆致・気分の類似するか青かはその節係を考へる吻合甚だ重要なものである。
更により根城あるものとして、雨音は王権の無力・不幸を説いて次の如く言ってゐる。
解股法品は王位の不幸を競いて、︵三二〇︶
−駕●pyF隕召prithi島召k叫i訂nPmekpgF旨抑mprp瞥i
−琴芝p彗e邑k昌e■首p乳F眉︸乱已Fiこ邑l阜乳he首p冒貞1ek㌢ロl茸鼓こ鼻声暦象・
属喰ミ鰐皮法品ミ¢餌係に放いて
●ヽ
−
1
●
bp−紆p雪p寧YPi晶勘p弓pm
、
908
卑鴫モ解脱法品モの打係に就いて
八二
−芦甘司陶乱臣呂首曹ぎ賢甘冒1昌邑1i草鼻邑昌gPp属領nPp邑eE㌢弾こ呈す夢
−夢e吉日e≦pPbど讃βbg官旨邑−已昌e嘗=冒−gu義仁p弓巨.唱ゼ=身官許巨g邑F邑prPti.
●
●
−芦p宅診ntrP乳鉢且勘笥阜e容、pipr忌&註撃ndFi5.grpF薫っgeCp打u訂r膏ぶ笥賢ntr註
●
傭所行諌十一品は王の苦を説き、無常邪悪なる王位に頗る.は不幸捏了りと言って,
彗・Y乱酔寧慈官省i日PFim寧日agr阿召く琵l削¥d訃訂m purPmekPme≦、
t旨鼠膚b訂ヨn眉n・溜くy長町冒ふp弓腎t−1en岩戸r督b訂ざ争
唐苦何金貞
常求於萬事
用皆不通︼
誰王四天下
n呵i琶訂rm乙葦戸
念● r各d宜■2.推ヨgPmekPme≦ksu訂P2nir已h考竺E訂nn2日斡訂由1.
釘顎仁一監hPik監l呂PmekP日eヨ釘甘ま釘瑚pl
ま㍗仝士打ち雀ふるごも
≠ 住居の角にl三上三市見出さるのみ。
㈹
ま㌣そこに㌣ゞ一家に住む可きのみ
王㌣るは唯他人の鎧の努力にわらすや?
王衣l二ても㌣ゞ一曲な要†るりみ。
食は唯肌わ止むるにて足る。
主ぶ土石ゞ一つの癖床ご一つの座席のみ。
王の他の馬別1‡㌣ゞ抒蒋に草してのみ。㈹
●
︵︼五︶ −芦乳r官kTid賢︶l旨e苫ni官mぷ笠哲冒訂ntr邑・臼邑re象mぞ琶乳ぎku訂乳薫p笥旨ntr邑.
●
といひ、王位なくとも満足あり、人世に皇ことに満足すれば、なべての差別は無差別となるといふ。
雨音の文に長嶺繁錬はぁるが、全く同一事皇一声ひ、鮮句︵ヮ⋮√釘3卓のkエも同一のものがある。
かゝる思想的修解約文解約類似は偶然の単なる一致類似ではなく、両者が密接なる関係にあるを語
長嶋モ解脱法品ミの闊係に就いて
説き及んでゐる。之を以て見れば、馬鳴が解脱法品乃至大婆産多詩に影響したとは到底考へられな
後者は悌所行讃の固有停設を少しも引用記述せす、殊に馬鳴は大荘最諭経巻第五にて大婆鹿多辞に
上欄立的に多くの教諭諭師を知る誓なく、馬鳴は解版法品と共通神話をし≒Yりに引用するに反し、
ヽ
者に影響を輿へたことをも考へて見る必要がぁる。然し馬鳴は前述の如く眞正の教諭諭師でない以
然らば馬鳴と大軍薙多詩解脱法品の編者と何れが、他一ぞ見、蔑み、影響されたか。一應馬鳴が後
は単なる類似を示すものでなく、雨音間の密接なる相互関係を示すことを推論し得る。
も雨音を詳細に探究することにより∵有力な材料が蓉見され得ることも濠想される。然らばこれら
源泉より雨音に凍ったのでなく、少くともその内若干は相互的関係あることが想像される。僻今後
は否めない。しかもこの三箇僚の一致ある以上、相関的に第一の紳詩的一致も唯に印度思想の共通
なる類似資料あ♭、更に第四の如き修鮮的文節的一致すらある以上、商事問に相互的関係あること
以上、四個億の傭所行讃と解放法品との類似鮎を奉げた。而も其等の内には第二夢二の如き有力
♭、雨着の相互関係の存在に決定的終結を奥へる。
909
■ヰミ靡虎曹冒¢闊係に就いて
解脱法品及び大婆羅多詩の霜寒年代
入
二世祀には大婆産多詩は大部分完成され、其彼多少の附加樹痛があつたとすべきで
の間に他の関係ぁることも汲想される以上.之も馬鳴以前に存在したことが推定される、即ち紀元
重く同様に大婆雇多書はその第十二品たる解股法品が斯くの如くであるが故に止
紳詩が第十二品以外の他品にも関係し、婆雇他者の名は馬鳴著大荘放論経に記述さ
形に成立したと考へられる。
之が相補瑛大され、紀元後二世紀馬鳴前に大憤完成し、以後附加されつ1四五世紀に至って現存の
られる。然らば解脱法品は印度文書成立経過の例に洩れす、軍刀前こ世紀頃には既
晶三一入●五九記述の霊r讃眉で爾来が三・四世紀の人とすると.この頃以後に附加されたと考へ
紀前年とする設が正しいとすれば、西暦二世紀前には厳存してゐたのである。然し
ない捷であも然し.この推論よ♭、解放法品は馬鳴前1即ち若し私の馬喰を一世紀後竿よb二世
前逓の如く馬鳴が解股法品に影響されたとする結論が正しいならば、解股法品は
部分は馬鳴前に存在したと推定される。解腹法品の年代に就いては泰西にても何人
二
解脱法品を積み、之に影響されたと考へる外はない。
010
三
之に開運する詰問邁
︵在庫耶奈詩の編纂年代並に大乗起信諭︶
馬鳴と解脱法品との比較新発は計らやも解脱哲叩、引いては大婆鹿多詩の年代に一推論を
得た。更に私は、よセ椎茸に展摩耶奈詩訂巨糾苫苫の煽纂年代を推定し待一心。即ち大荘最
巷二十四声に婆産地育と並んで雇摩延書の記述、彿所行讃との間の醐話の一敦、作者披弼雲−邑ki
︵〓ハ︶ の記述︵一.四八︶.宮廷韓日号苫としての詩髄の一致、二三の描寓の一致よト、羅摩耶奈詩が馬鳴
に影響を輿へ、之以前に存在し.紀元二世紀には成立してゐたと推定される。かくて若し私の推論
に誤謬なくば、計らすも私は印度文畢史上の二大作品の年代に一決論を典へたことになる。
僻、時節柄一應触れなければならないのは、馬鳴邁蓮と侍へられる大乗起債諭であろ。私
起倍諭は深く知らず、詳論する暇もないが、この書は俳所行藷や大荘厳諭経を榛準とする限
人としての掲鳴の著作とは信じ難い。︵他の馬鳴があるなら兎に角、︶私の馬鳴は数理的立脚地からす
れば、小乗布部をまとしながらも寧ろ自由な所謂分別部の如きに属しl大乗的傾向は殆んど認めち
れす、晩年の作と思はれるものに僅かにその筋芽を認められるに過ぎす、起信静の組織的大
説とは余りに轟け離れてゐる。馬鳴真作と信じ得る傭所行苧大窪愚論経の思想・修管傾向・
ヽヽ 重く臭ってゐる。例へば俳身諭に就いて言へば、俳所行讃に現れるそれは生身彿と教
員︳せ解脱法点きのh係に就いて
入五
る法身悌の原始的二身思想で、起信論の法・報・應り三身思想は覗ひ知られす、眞如法性・
911
ヰ■草餅股法品ミの囲備に競いて
pを未だ全部詳説せぬのは遺域だが、これも阿合的のものでぁつ
の如きは爾著に字すら見出されぬ。か∼る馬鳴折起倍論を作ったとは到底信せられぬ。唯、彼の孫
陀農難陀緑野邑胃∈ロd中内31
て.苦に至嘉潮される重訂琶思想は文字すら存しないといふ。警ば現在の文献の範囲に於
ては現存大乗起信諭は、少くともそのま1では詩人馬鳴の著作でない皇ロつた方が妥曹であらう。
唯こ∼に、解脱法品は教諭稔伽の思想をまとするが、JJdぎ流の所もゐ♭、その梵思苧・動か
ぬ梵冒呂ぎ訂p動く梵Ap弓昌冒l自pの考は起信諭の一心二門の思想に多少類似してゐる。
特に注意すべきは、ぎnd弓呂昌d岩音あ最衡㍍莞如き文句のあることである。
り∵Jの孫陀鹿難陀詩はk抑づdh弓mm副−﹁宮廷詩の法よりL書いたに封し,彼は他にmO嘗1解
これによれば、﹁他に我によら解脱の警創られたるも1こは宮廷詩の法によ尾ら焉♭。﹂とあ
t各b首○臼甘t昌uppF⊇ゼa邑kp2日iti.
l
日0すp弓邑ti・tpdb邑冨ぎ拝眉首邑⋮ぎmi−Ogr茸呂n=巨岩−p糾監邑︼yOd訂1
声p普号音−Ok昌5.章一息冨召m息tp邑ぎ官こ旦琶孟2日p要点Ft巳−邑訂m弓・ −●
≦蔓巨象:妄芋蔓旨・唱蜃d¥mF夢眉:官diti.
J岩p邑邑k昔・yP呂Ok邑打ri訂mP苫d旨p已m昔−Ot訂dヨ粁d
訂rmm糾オ
→i訂m、p糾t⊆唱−ik訂mi・
声音協望息糾n苔eロ⋮p官emOk嘗訂g雪bb茸i−i甘−ぎ昔日grp宮野旨m呂¥日昌琵首k
912
股の眉に﹂ 二菅を書いたことは疑ふことが出家ぬ。不幸にしてその原典は残って居らぬけれども、
ゴd勘nどS首kl︼y芦思想に
その性質上から判じて、思想的なものでJのつたものとせねばならぬ。こゝに恩出さるゝものは大乗
︵一九︶ 起信諭である。蓋し過信静は偽教諭ではあるけれども、或る意昧に於て
近く、解脱法品のそれと似通ふからである。かくて、馬鳴が解脱法品を読んだとすれば、その思想
を受け入れ、自由奔放な詩人でふγり思索瞑想的な彼は之一宮悌数的に発展せしめ、其が即ち所謂﹁解
の焉﹂の書で、起信諭の原型となつたものでは一のるまいかと想像され得ることになるのである。未だ
漸足することは出水ないが、兎も角これらの事情は現存大乗起信論及びその思想の淵源に就いて何
ヴュー甘
二、以下に論ずるものト内若干ほ既に穿孔1教授・TFe冒dd−1P2rita
四、大正読経四、五三文中。
丁−ガ▼
︶
されど又古聖典ミは乾語論なり。雄
即完に讐て劉呵拙。
丁−ガ▼
︶
音聖典代決定光るが故lこ。錘
=1に音聖典は成就さる
﹂31句ぎ邑ぎ竃m芝田︷琶−毘1yぎi−i胃−i書:註n已h官p忌日ぎm賢bbぎb琶ロI2邑F
罵鳴き解脱法品モの拍係に就いて
巴T・⋮告こ¢・喜竃db召ip音呂01︸ぎ邑p竜ぎma訂n昔ざ⋮:YedぎPdb号p息邑訟臼賢b冨r旨pp印
六、T・讐√望r
成就は現前の相ゴ;し見らる。
浄行期の儀現に徒ひ奉行J
音盤典ビは吠陀の祝lこて
丁−ガ▼
五、大意。他に墓論表れて
三、或ひは﹁ピー▼の手によりて﹂か?
。:㌢各。盲︵m・芦田舛亡国︶・P≡巨P㌢︰b監詳−1琵ぎF常柔軟授﹁馬喰菩薩借﹂lニも指摘さる。
︹旺︺ ︼、大正蔵押四巷、二八〇天下−二八〓員上。
等かの暗示を輿へるの軌がぁる。今後の研究に待ちたいと思ふ。
913
914
馬鳴ミ解脱法品ミの関係に就いて
阿
Pチ羅l
カ ラ私
七、大意。粁ヤ喧呵言.アシタ.デーデ丁ラの芸 我に聞かれね。
討ヤ シ
シ沙ヤ
阿私陀
賢きブールシャガヌヤのをも。弼
カ▲ピラ
迦咄忍・ま㍗シュカのね
︶
︵
よ主心大なろ億迦羅のをも。四
ま㍗心大光るガルガのなも。脚
シユタラ
嘗て我聞手き。
賢きデイシュダァルーバのをも。喝
我にて蓮・しね。笹
ダイチェーヤよりも
︶
併本行修経間阿羅山警宍大正戴撃ニ・七五六−七頁︺lこ教諭盲師名多く託さtO。再者の園係未だ考証ぜす。
彼等久遠の凡ての所知を言ふな
︰1︰トニよ㍗諸紳請父租
かくて填いてルドラ
ま㍗組父カシャバの仰視さへ
ナナトク†−ラ 而して含那鳩盗
︶
●ろ
ガウタ†
租塁靡・アールシュティシューナ
茶
般バ波ノヾ沙
ン ラ
ナーヲダ・まゎアースリのさヘ
〆ぜ 癒
よた発きパケラスッヤ
鬼ブ再
林 _■■.tt ▲L
求り生
九、﹁印度六況哲撃﹂〓九京。大正十五年度束大詰哉﹁稔伽思想の蓉蓮﹂
誇大仙lェスダヤンナードより
披見門l工吠陀な
ブリグ
ま七尾衰ゐ子lミ
苦行lこてかつて知り待たり。⋮
如是所祝ミ共
ヽノ
ダリハスパティl‡デューダ・アンガか絆
世に金ぁろ行論な池べわ。印
ヽ′
一三、大意。ユガの終に失lミれ︺請吠陀む
一一、ワ○卜TpF軒家u︰巳訂0︻く農ub呂dbupp●お・芦 一二、﹁印度六振曹撃﹂一〓一貫。
イチイハーサ
一〇、YOga診trp l−Ⅰ・︼¢芯∽ 毘耶曾註。T星邑ハaun昌d叫∽ひ●
−‡†。
八、樹砿沙の訣篤か。俳併行讃一二・六七に全く一致すろ旬、併本行修紆間阿羅誉宍大撃ニ・七五五︺l二ぁり。関係ぁるね思
〇
915
帝他の所行むガールグヤ
ナーヲダl‡音架む
多くの賢者には育代れ㌣り。
ヽノ
バラrダーヂ注武術な
そな恭敬ぜられよ。拘
黒きアーサの子は腎衝を知らね。倒
ヌヤーナ・タントラの如き薮々のもの
原因・首聖典・賛成lこて首ほれLこミ
天も仙も知らぎり、そ。
丁−ガ†
無始至高の梵な
︶
カぁろナーラーヤナは知らね。笹
之わ唯一人聖光る蓮他者
一四、ロ夢一日胃nこP石︼萬已払bF綽芝P l1.P︼舎⊥諾.
唯一つの城市に住むのみ。㈹
唯一人の王上る
かの王もまこミ
一五、大意。この全土な冶ゆ.
かくてかの城市lこて
彼の唯一つの家に住む。
ヽ■ノ
夜そこに臥る。仰
その家にて唯一つの寝床に
浩に王lェ他に頼り
功徳にも所罰
かく事欒lこても
かくこの思惑のみ
いかで王に猫立ある・へ亨
揺少のものlこ宕げる。
ヽノ
食物衣服lこても
天人体む。
ヽノ
具写して持つ。岬
Lかもま主彼の癌床の年にほ
平和主戦のこごにても
ヽノ
恩嘉に草しても限らる。押
席人・戯集にも
いかで彼lこ猫立わらん。⋮
彼にl‡常に猥立なL。
八
九
補佐lこも大臣り集にても
鳥鴫モ解放論品ミの闇係に就いて
0
916
鳥ヰミ解脱法畠ミの麒係に就いて
〓ハ、苫m首p膏︵謬mF註︶く●−〇・監−畠r
︼どddぎ昏riす∵く・金−芦
九〇
前者−こて︼芽室巨岩﹁が]評言ぷpの宮殿に入つ圭時
の根室の描幕ミ後者の悉蓮多大子出城の夜の壌室の括第の類似。苧d・C芦∃ITこ¢−00○︵D訃r出旨i︶○ヨHI、00○
︵D鼓弓旨i︶くH−駕○−H、¢.㌍、寧芦︵冒n鼠︶の十車王、濃度大子の記述。
︼七、巨b︼iOt訂9Hロ臣事せ訂増訂ri象ロ〇・−匝巴・p−芦
解脱の食わ胎盲・しての作光り。
宮廷詩の法則lニて作られ圭り。
︼八、大意。かく、=托寂定の食に・して、苦楽の食草bす
他事に心ぁろ痕者の心捉ふる焦
ヽノ
苦き襲のごミ飲む可き?﹂ミ思ひて。阿
そほ宮廷語の法より作られ圭り。
﹁心に密のごミ甘与Tbの、如何にJて
世界な概取して
他lこ我l二て解脱の発作られ㍗れど
解脱より離れ、境の♯ね至上ミ†る
=1より取って、戯るべからす。
宮廷詩の括勝り方箕lこて我こゝに晋ヘリ﹂ミて
金む取り分くるコ引、ミ忍びて。仰
解脱ね至上ヾ1†る眞理を
︶
かくて寂定わ覚り、会ゎるもの
砂より、土怒青より常に
六三Cむ叫呂⋮:FT享普通lこ解・して、そ﹁の内に解脱以外のもの我−二作られ・し1ェ、そは宮廷詩の法より作られJ
なり﹂ミ誇†鹿島助教授の解揮lェ或ひは文法的lこより牢しいかも知れ塞い。今=ゝでほ私は︼どppr邑dP芦叫賢−
︵孫陀羅雛陀詩の校訂者︶の苫nn与i︼eミ考へろ解辞lこ従つて、立琴し㌔︵cトPund宅呂呂dp冒■苫∴PePg
Hi.︵巨b−●H已●甥e司紆r・甥〇・−柏芦︶
一九、哲畢的書l=て長嶋の作かミ思ほれるものに尼乾子間無我義経、生壁二昧経巻下米、︹至ハ・二〇a︺の;十倍及び巻上第四
冶思螢法門︹暑六二〇エ中の二十飴偽がわる。殊l二級孝一つほ閲申出弾軽序︹拓一・五一b︺の記事−ニより馬鳴作光るこ
ミ略▲確でぁるらJい。唯、解胞法品ミ馬鳴良作三書ミ今の断固係づけられるやうには息はれ兄い。後香わ御示教下さ
れt望月信亨博士小野玄妙氏に謝意な表Lま†。
ヽ
91丁
緒
日
猶太宗数思想史上のコヘレツ︵Q。he訂th︶
﹁
野
眞
澄
宗教上の信念は之を其内容に就いて批判すれば、賓に多面多様であつて、同じ宗教に属する倍徒
と雄ども其の懐ける信念の間には自ら高低深浅の別あること零壊も菅ならざるは云ふまでもない。
されど之を其形式に就いて概観すれば信仰の個債も比較的に少なくもあり、亦割合単純でもある。
例へば猶太致の如きは経典を有してより以凍彼此三千年程の長き月日を経過して居るのでぁるが、
極めて単純なる信念によトて支配されて凍たのである。即ち紳を以て天地の本源︵之を象徴的詩的
想像の言を以てすれば﹁天地の創造者﹂と云ふのである︶であアリ、人類の統治者であると信じて凍た
のである。又滑太致エ♭澄適したる基督一致とても略ば同様で今0。然るに形式的には極めて単純な
る信念も之を信奉する信徒の宗教的荘厳の深凍如何によ♭て其間に莫大の差別を凍たす事になるの
である。彼の天地創造の如き神話も幼稚にして素朴なる信徒よ♭之を列すれば宛も大工が家屋を建
築したり、幼女が人形を辞へ氾むする時のやうにも解辞されやうが、哲畢者よち之を列すれば前の
拾太宗教思想史上¢コヘレツ
91S
狛犬宗軟思想史上のコヘレツ
九〓
崖能を主張するの結果偶然的事攣ぜ全然否定する絶対〓冗諭の如くにも解され氾事もあるまいし
更に天地に遠隔する醐恩に戚激して止まざるアタグステヌースの如き宗教家−㌻り之を列すれば、濁
行諭︵mOnergi昌之を日本風に到り易く辞せば﹁他力観﹂とするも宜しからうと思ふ︶の象徴的表
現と観られぬ事もあるまい。そこで宗教上の信仰は形式的表現のみにては其偏偵知何を批判し待
のである。賓に個人の深刻なる膿瘍や時代の慶蓮と云ふ鉾墟の中に投入せしめて後に残るべき純
に比すべき信念こそ贋く萬民によりて嘆美せらるペき性質を具備して居るのであると云はねばぢ
ぬ。沿太の有醐論は概して倫理的でふアワ亦欒天的であつた■。是は云ふまでもなく狩太敢及び
脱化せる基替歌の主流である。されど狛太にも地主洗に封抗して互角の戦を点したと云ふ程では
いのであるけれども、之と頗る趣を異にして綻んば正統的狩太故に恐怖の念を懐かせなかったに
ても其の単純なる宥和諭を主張するに於いて数内の畢者をして十分用心せしむるに足る程の警告
奥へた所の支流がある。而して三レツは就中最も顕著なる例の一である。滑太の宗致思想が概し
て倫理的で奨天的であるのに劉して、コヘレツの思想は必ずしも非倫理的であるとは云へぬにし
も.明かに快菓諭的H已昌を許であり、厭世的であごる。前者の態度が概して積極的進整的なるに対
して後者のは滑極的であり、否定的であり、少なくとも静止的である。而かも此の如き異彩を放−て
るコヘレツは滑太敦の聖経Cpロ○口中にも立源に其位置を保井して居るので今Q。従って基督散骨は
91シ
滑太致の傍流を九春にしたのであつたからコヘレツをも難なく垂書の中に容れて居る。之に由りて
観ても滑太政と基督数とは欒天敵一鮎張ぅで脇目も振らすに育造突貫したものでない革も之を察す
べきである。そこでコヘレツの根本思想は果して如何なる着であるか.又彼の文が如何にして滑太
政経典中に編入せらる∼に至ったのであるかと云ふやうな問を出して研究して見やぅと云ふのが此
文の趣旨でぁる。
二、コヘレツは果して何人存アワや
コヘソツは勿論著者の本名ではなく、著者が便宜上仮名を設けて文を作ったまでの事である。此
語の意義は果して何であるか、精々判明を映いて居る。此語が希伯凍の与l︵Q已−已即ち﹁集る﹂の
意︶を語根とするであらうと云ふ鮎に就いては畢著聞に異論はないのであるけれども、如何なる
径路を経由して現存するが如きコヘレツの形憩を装ふに至ったのでぁるか判明せぬのである。希膿
ヽ
の七十人評︵Sept声品int︶は之を√至とう苛↓甘︵エクレジア骨員︶と耕し、ヒエロネムス︵ロerO月日仁且
の拉典謬は之一でCOロCiOロ旨rとし、ルターの稲造詳は之一ぜ︰ワ岩巳g巧とし、英王ゼー〆スの欽定謬は
之一どpr琶︸lerと耕して覇澤と一致し、支部詳は之を﹁侍道者﹂と辞し、更に書物を指して云ふ場合
には之を﹁侍道之書﹂としたのである。云ふまでもなく日本評は支那評を倣ふたものである。勿論
狛犬宗教思想史上のコヘレツ
920
強大宗教思想史上のコへVツ
〇〇〇
〇〇〇〇
九日
語畢著聞に全部一致して居るのではないけれども、此語が集合に何等かの厨係あると云ふ鮎に就い
0000000
ては路ぼ疑がないと云って宜しからう。勿論少数の率者は之を以て集合に関係すると云ふのではな
0000000
000◎◎00
くして、之は琴盲を蒐集したと云ふ意義であるとも云ふが、而して侍道之書十二章九簡に於て﹁ま
00
た侍造者は智憲あるが故に恒に知識を民に致へた♭。彼は心をもちひて尋ね究め、許多の琴盲を作
れら﹂とぁるより推せば、此故には鄭重なる考察に位ひする戒鮎もない事はあるまいが書物全能の
傾向よら推せば少々牽強附曾の嫌はあると思ふ。然らばコヘレツの意義は果して何であるかと云へ
ば是は集骨の管理者若くは集骨の教師と云ふ程の意でめらうかと思ふ。之を侍遺著と辞しても或は
説教者と焉して見ても是では少々熱心があγり過ぎると思ふ。コヘレツは悟っては居るが熱狂着では
ない。若し自記に賛同する人あれば勿論悦ぶであらうが、彼には決して自ら進んで自説を宣侍した
であると若僧すべきであらう。彼は智者の一人であつて専ら事物の理を
hl 又は改宗者を作らんとするが如き意気込は露程もないやうに思はれる。故に之を集合の教師即
ち希膿の所謂監e誌訂
明にせんと苦心するのであるが決して人の情熱に訴へんとする慾念は之を持た氾のである。何故著
者は昔時の拾太宗敦界に遍く通用したらし﹁祭司﹂若くは﹁預言者﹂の名一で用ゐぎりしか、其理由
は今日と捏了りては之を究め難いのであるが、蓋し著者の宗敷軌若くは人生観は昔時世に行はれた♭
し正統派の思想とは著しく相違して居ったのであつたから、自ら祭司とも又は預言者とも云はすし
て﹂昔時に於て誰も用ゐざらしコヘレツと云ふ一稀奇妙なる名辞を附したのではぁるまいか。兎に
角に著者は狩太の侍承的宗教家でⅥないが、集合に出席せる人々に詳々として教育を点し得る程の
信念と技備とを有して居ると云太白信カの豊国なる﹁智者﹂である事だけは明白である。
然らばコヘリツは果して何人であるか。傭温之書生篇を通じて何度にも本名は現はれて居らぬけ
れども、著者は狩太国王ソロニモンであると云ふ積トで隼を執って居る事は明である。そこで著者は
⑳
■ ●
慧ぁるが故に恒に知識を民に数へたト、彼は心をもちひて尋ね究め、許多の麓言を作れり﹂︵十二幸
王世上第二章以下に記載せるソロ.モシ王の生活欺憩にのみ普て依るのであると云はねばならぬ。加
に書いてあるゴヘレツの生活胱憩即ち宮殿を追善し妻妾を擁し歓楽を極めたる豪者の生活癒すは列
がなひのであるけれども、南朝ならば執れの王にでも該曹せぬ事はないやうであるが事賓上、第二章
一章十三簡にコ・ヘレツなる仮想人物をして﹁我コヘレツはヱ〝サレムにありてイモフエルの王たり
l
き﹂と云はしめて居る。﹁エルサレムにあゎてイスラエルの王﹂と云へば北朝の諸王には勿論此資格
之
◎0‖d
〇〇〇
九節︶とあるに敬して明であるが、一億ツ:ニ妄点て智憲の元剋と超す狩太の侍詭は何時頃より
始ったのであるか、吾人は之を知う得ないけれども、是も列王記上玉章一二節に於てヤプエー紳ツ
鱒−ニ;に智慧を牌ふセと紀載せるを取れば、其侍設の除程古いものであつて、停邁之書の著作せら
諷大京敢思想史上¢コ︵Vツ
肥
暮大鳥♯
丸太
れた頃には薯ねく射土人何に相乗せられ光る話なるは明である。そこで著者は自らブ.サモン王に成
った語らで自己の人生観を述べ絆せの条巷巣華の尭常なるを瞳哀して、﹁凍かその食ふところ.そ伊
し・曾似て健くも人生を達観し、晩年に至らて世の無常を茄威し、一種の悟うに蓮し落に職侮餞を怒
四海の音を一身に集め権勢四隣を威臆し、有らん限みの款斐を蓋したる後ち元凍天資賢明の士なち
的痕迩は何度にもないのである。夫は兎に舟として世間一般には智慧の本家本元たるツー毒ソ王が
作であるとせられたので争○。されどツワモソが王位を貞ちて獲ち閑日月を迂つセと云ふやうな史
﹁我コヘレクはエルサレムにあうてイモフエ〆の王なちきLとあるエち推して、ツⅤモソ王差位後の
たと云∫¢であるから、是はツーモソ王の晩年の作でなければならぬと飼せられ.殊に一章十二筍
頃書いたのであるかと云へば、琴一章にある記事は明かに浮世の条章を嘗め重して其無常を斎戒し
そこで一般に本書はツ∇モソ王の著作なちと息はるゝに空つ死のである。然らばツー竜ソ王が何時
+
かと患はれるが、公版者は更に﹁ダビデの子エルサレムの王Lと云ふ句を之に附加したのであらう。
本書の標塩は元戎鹿西蜃見したらし原本には単に﹁コへyクの言Lとのみ記してあつたのであらう
く明であるから、億這之書の各版者は多分ツー毛ソ王親ら之を書はしセと勇断したのであらうが、
が如しLと云はしめて居るのである。原始著者がコへyクを似てブ廿二モソ王に擬Lたる挙が此の如
軟斐を極むる与︼ろに於て我に優る者あらんやL︵二章二五箇︶されど是も﹁曹な峯にして見を♯ふる
●
膠
め.以て青年を警醒したのでぁると列断せられたのである。
本人でない人が無理に本人に成った浸らで自己の心中を告白しで見た所で何虔にか美恵理
せすには居らぬ。停這之書には左の二鮎に於て著しく斯る無理が露光して居るので有る。即
Ⅲ〓毒草の記遽は王者の心理就農に相臆しいからして、之をツー毛ソの蛾偉発と看傲しても
て不釣合でもないやうであるが二二章以下の記事は如何にも王者の自白であるとは判断し寿
あも。例へば八章二簡に﹁璽一日ふ王の合を守るぺしLとか、同四簡には﹁王の言語には撥カあか、点
れば誰か之に汝何を超すやと云ふことを得んLとか、或は国章〓ニ筍には﹁安くして賢き量子は老
て急にして諌を納れぎる王に怠るLとか、或は十章二〇簡には﹁汝心の中にて王たる眉を乱ふ勿れ,
また整室にても富者を諷ふ勿れ、天峯の島その考を偉へ、羽翼ゐる暮その事を布くべければなちL
と云ふが如きIミ王者自らの言ふべき語ではなくLて如何にも位置の低さ着が王者に暫して下せる
放列的訓戒であると看傲すべきである。殊に一〇章二〇簡の如きは権力ぁる王者が施行する
発の陰険なるを認ふたのであると看仮すべきであらう其竺垂以下に於て或は司法官の那曲︵≡章
一天筍︶を争じたち、或は権勢家の下鼓民を虐待するを憤bたら︵何章一節以下︸貧者の虐邁せら
るゝのに同情す●○あたか︵玉章人丸帯留︶は如何にしても統治者たる王の鹿野よち割む出せる判断
ではなくして.被治者たる野人の親鈷に映じたる列断であると云ふべきである。更に
鶉太宗軟風曇た上¢コヘシ’
○餌
狛犬宗教思想史上¢コへVツ
九八
拘王者の位置にありて記鎖せ♭と思はるゝ一二南章に於てさへも、ツワ竜ソ自ら云ったとしては
如何にも不釣合であると観るべきは一章一六簡及び二幸七簡と九簡とに於て反覆して現はるゝ一都
の警句即ち﹁我よら先にヱルサしムに居♭し凡ての人﹂とて其人々の複数でなければな㌻ぬ意義を
蕨せる言を用ゐた事である。弦にては明にソロモソ以前に王として滑太に君障せし人々を指したの
であると観ねばなるまい。然るにソロモソ以前の滑太王と云へば、ツーp王とソロニモソの父ダビデ
王と僅かに二人あるのみでぁる。而してエルサレムを首都と莫めたのはツーロに非すしてダビデ王
であるから、ツーモソ以前にヱルナレムに居りて天下を治めた人と云へばツーp王は之に輿らす唯
ダビデ一人あるのみである。故に若し促♭に著者がソロモソだとすれば﹁我よう先にrルナレムに
居bし凡ての人﹂などと云はすして、単に﹁我が父王﹂と云へば夫で十分であらう。是は本人なら
ぎる人が偶々本人に成り済まして筆を執れば自然と知らず識らぎる間に本人の正健が現はる∼に至
る次第を示すに外ならぬと云ふべきでぁる。
H虎○
そこで今日に於ては極めtて保守的なる畢老を除いては本書を以てソ℡二モソ王の作であると列じて
居る批評家は殆ど一人も居らぬのである。彼の相通のルターや和蘭のフゴー・グロシアス
曾Oti宏の如きさへ既に四百年以前の普に於てソロモソ王を本書の著者でないと判断し化のである。
イズラ
ネヘモア
今日とたアサては希伯凍語草衰等は本書の文健を以て歴代志略や以士嘲書や月希未亜記と同時代に虜
9j格
すべき文であつて、ソロニモソ時代の文でない事を熟知して居るのであるから.之をツワモソの著作
なりなど云ふ事は誰も之を問題にせぬこと滑ほ我執に於て経でも現代文を似て鎌倉時代の作である
などゝ牽強の議論を点さぬやう捏了ものである。
然らばコヘレツと云ふ文名を設けて停這之書を著はせる人は何人であらうか。是は多分永蓮に列
明を成ら得ぬ性質を帝ペる問でなからうか。然れど喜入は著者の性質と著作の年代位は略ば之を推
定することが出来るのである。若しコヘレツの性質と年代とが判明となれば樅ひ著者が何人である.
レ■ツ町性質
か之を突止め得氾にしても吾人はコヘソツの滑太宗敦思想史上に於ける位置を列するに於て格別の
ヘ
困難一ピ感じないのである。
三、コ
狩太の侍箪は傍注之書を以てツ℡二モンの作である.と看倣したのである。而してクルグム︵ぎづm
◎◎
一 アラム語謬の香約物語︶もクルムツド︵辞すud滑太敢の嘗約註梓︶もべシク︵P乳一i夢スリヤ語謬
の垂書︶.も此停訣を認容して居る。而して執れも之を以でソ℡二モソ王の晩年に成灯るものであると
看僻して居る。勿論ツワ竜ソが之を書いたと想像するは無理でろるけれども、本書が老熟せる﹁密
着﹂の文であると云ふ事だけは疑へぬと云ふ。
*大京獣恩遭史上¢コヘV’
描
貴大宗♯恩義史上¢−二γ’
一〇〇
先づ第一に老農な畠大家の文であると看供すべき理由を逓ぶれば.停蕊之書に載せて居るやうな
種々建多の事柄を甚験する事は如何にしても.青少年の能くすべき庸ではない主玄はねばならぬ。
例へば発何程財貨を貯ふるとも死する時は﹁その雰苦によむて得ねる者を宅厘も己が手に取むて携
へ行くことを得す.母の胎よら出で謹むし如くまた社債にて陰膚に疑らねばならぬL︵玉章十五箇︶
旦玄ふが如きlち青少年にも列明なる事であるから敢て老人の経験に侯つの要なしとするも、﹁貨財
甘せば之を食工者も肯すなり.その併有圭は唯日に之を看るのみ.その外に何の轟かあらんL︵玉章
十一旬︶と云ふが如き.或は﹁紳富と財と貴きと一ぎ人に奥へて其心に嘉ふ者を一件も之に故くるこ
となからしめ拾ひ乍らも、前また其の人に之を食ふことを得しめ鈴はすして、他人の之を食ふことら
りLと云ふが如さ︵六章二簡︶、或は券苦して互萬の富を蔑むも、死せば之を愚者に嗣がしめねばなら
nやうになるかも知れぬLと嘆息する如き︵二幸一入、一九簡︶は、中年以後に蓮せすしては容易く生
じ得の心痙現象ではあるまいか。或は﹁貧き人の智蓋−よ薮戒めらるゝLとか︵九章一大帝︶、或は﹁迅
速なる者走ることに勝つに非す、強者戟字に勝つに罪す、脅慧き者食物を麓盲に非す.明哲の人財
茸を得るに罪す、知悉の人息殿を得るに罪す云々L︵九章一一簡︶と断言するが如き、或は﹁点なる
着古き位に置かれ、貴き者卑き庭に坐る。我また僕なる者馬に乗む、王廣なる寿が億の如き地の上
を歩むを観たらL︵一〇牽大帝︶と物語る有磋は如何にしても盛衰の甚だtき浮鹿の質就を目撃せる
老年の威愚でぁるとしか息はれす。而して著者iヘリヅが好女子を散々に蹴む落して﹁我悟れbl
わなあみ 寿人の英心羅と鋼の如く、美事葛の如くなる宕は是れ死よもも背き着な已親よ我英数を知4ん
として二に算へて・つひに曲事を悟る。我がなほ尋ねて得ぎる者は是なら。我千人の中
の男子を待たれども、其の救の中には一個の女子をも得ぎるな︶L︵七章二六箇よち二八領主で︶と
乱ふあたむは・如何にしてもコヘレクが第三者の位置に立って女子を枕詞したるに軽罪
は親しく自己の家庭に起りし悲劇七嘗め和音の年数を経て填ちに貞せる同属簸ではなか
に彼が﹁弦に人あら唯濁らにて伴侶もなく、子もなく、兄弟もなし。然るに其の芳書は
く、英日は富に飽くことなし。彼ま元言はす鳴呼我−ま誰が虐めに穿するや,何とて物は心を重しま
せざるやと。是も亦重々して券カの苦しき者なち。二人竺人に怠る其はその芳書の虐め
得ればなむ。即ちその鉄鋼る時には﹂箇の人そり伴侶を扶け超こすべしっ然れど払身に
る者は憐れなる哉云々﹂︵四章入簡より一〇簡に至る︶の旬は是れ正し■くコへyクが妻に棄てられ、
老いて嗣子なく、富めども其財産を遺すべき人とてもなく其身偶々病む事あるか又は及
うな辛があつても一身を託するに足るべき近親者なき自己の境遇を描ける者に非すや。
場末宗教思想史上¢コへレク
是まで述べた斯に披うても三;の老人なる事は略ば之を暮知するに難くはなからうが、食後
とせば彼は如何にしても老年であつ平と劉せねばならない。
027
凋
卦大京敦思想史上¢コヘップ
一〇二
に如何にしても老人ならすば云へ氾と断言の出水る一事がある。コヘリツは屡々自己の曲折繁盲多
年の経験に照らして人生の無常なるを説き、最後に結論として一一章九節より一二章入簡に於て老
年になれば何人でも憶カが衰へて死ぬばかトであるから、精力旺盛なる少壮期七於て快楽歓喜の生
活を普ぬよと懇切に敷詰して居るのである。此の如きは宗数家の教訓としては随分突飛に癌ゆるの
で是は新人の企でもあるが如きに思はれるが、予は諸家の説を考記したる結果として彼が落に此結
論に達しセのであるとよ♭外に列新し待ぬのを如何ともする辛が出水ぬのでかる。吾人が此結論め
昔香如何一ぜ列するに嘗りて先づ考へねばならぬ事は.一二章一節の前竿即ち川﹁汝の少き日に汝の
造まを記せよ﹂と閂一筋の伎竿より八節に至るまでの文との間に存する思想上の聯絡である。・近代
の批評畢者は執れも閏に現はれる文を以て之を象徴的に解すペきものであると云ふ鮎と又共産に現
はれたる個々の事柄即ち﹁日﹂とか﹁月﹂とか﹁家を守る者﹂とか、﹁カぁる人﹂とか﹁門﹂とか﹁巴旦
杏﹂とか﹁蛙﹂とかは果して何に該管するのであるか、之を萬人の同意し得るやうに解する事は鎗樋
田難であるにしても、是は曹な身健の生理機官を指すのであつて、年の邁むと共に憧カが衰へて遂に
死するに至るべき状態を娩曲に描いたのであるに蓮ひないと列する鮎とに於ては骨な一致したる意
見を懐いて居るのである。換言すれば掃ガ衰へ果てたる壊になつてからでは如何に後偲しても致方
なき故に、精力の旺盛なる時代即ち﹁少き日に汝の造まを記せよ﹂とコヘレツが世の青年等に対して
000 諭したのである。老年になれば記憶力が衰へるから青年時代に造物事官記せよと云ふのなら、如何
にも筋道の通った忠告とも聞けるが、偉力や生理機能が減退するから青年時代に造物まを記
云ふのでは研か縫な戚じを輿へぬであらうか。殊に川と何との問には思想上の聯絡あるのみ
鞘と一一章九蘭以下の文、即ち﹁少き者よ、汝の少き時に快楽を点せ、汝の少き日に汝の心
め、汝の心の道に歩み汝の目に見る所を点せよ﹂との間にも聯絡がある嘗である。此一一章
如何に考へても草庵歌声d完日。Ei告若しくは快築詭H已。ni告乃至浪漫主義R。m昌許訂日又ほ自
然ま義宅邑已已isゴーの気分を濯はせて居る。斯の如き気分を捕へ凍りで直ちに之を造物まを記憶せよ
と云ふやうな殿粛なる気分と一鼓さす事は、如何にも不自然である。そこでグレッツ︵瞥安静一は共著コ
ヘレト︵一入七一年出版︶に於て是は官rp︵造物ま︶に非すして、泉︵B。r︶であつたのが後世の畢者
G●空つke−1、♪タブト謬已H呂pt、チエーネーJ・声C訂苫e等の畢着である。
によ♭て造物主︵出彗︶に訂正せられたのでぁらうと云ふ説を唱へた。而して此のグレッツの詮に和
したるはピッケル
泉の原語︵哲ユを造物真野rPに︶慶する虐めには単に希伯凍のA−epF一字を加入すれば宜しいの・で
あるから是は極めて備虚な葛字上の業でぁる。然らば泉とは果して如何なる意義を有するか
¢◎ ば、是は筏言玉章十五節以下にある﹁汝おのれの水溜より水を飲み、おのれの泉より
猫太宗敢思想史上¢コ二︻︶ツ
め、汝の洗を外に溢れしめ、汝の河の水を衛に洗れしむペけんや。之を自己に鋳せしめ、他
929
狛太宗歌風想史上のコヘレツ
一〇四
と謬せる希伯凍原語は謬rである。故に
いたのでは仁いっ彼は堅く一要塞義を保守して唯自分の妻と楽しく世を造れと云ふのである
敢て制慾的献身や英雄的犠牲をま張する程の革もなかったのであるけれども、決して浮斐放
ものとも思はなかったらうがさりとて格別劣等でぁるとも思って居らなかったのであらう。
は超越的であろとかと判断するのではないが、コヘレツ自身と経とも自己の人生観を以て前
るかと云ふ疑問である。勿論吾人とても彼の道徳観一ざ以て敢て高邁であろとか脱俗的でウ0とか又
凍たので精々異様の威仁きを得ぬのは、此の如き快攣驚喜轟せ一⋮ヘレツの道徳観が低級ぢ
う。今や我々は﹁造物ま﹂を妻の意に解すべきであると若僧さねばならぬ論理上の必要に迫
ふる原因となるのであるから、妻を以て歓喜と幸福とを窟らすべき源泉であると看倣したの
倣すは蓋し穏皆の解得であらう。拾大のやうに沙咲に隣接して水に乏しき固に於ては泉は歓
から、﹁造物主﹂は﹁泉﹂を訂正したものであつて、泉は妻の雅語︵字p−岩mi告︶若くは隠語でぁると看
に於て精力据進の襲剤として使用せられて居ったとはクルムツド書にも記載して居るとの事
於て日本評にて﹁噂欲﹂とせる希伯凍語はPbi顎。n已l即ち木犀草の賓であつて∵此賓は狩太人の間
侍道之喜一二幸一節の﹁泉﹂は妻と云ふ意であると列すべきであらう。殊に侍道之書一二章
らして解すペきである。現に壁一一芸章十五節に﹁水溜﹂
て汝と倍に之に輿らしむること勿れ。汝の如巌如新郎レ即断卵少如断宗を警云々﹂の文に照
930
g31
進んで之を攻草せねばならぬ程の事もなからう。況んや彼は快欒のみを説くに非やして券働の必要
をもま張して居るのであるから∵積極的に誹試せらるべき程の理由はないと思ふて居ったのであら
ぅ。そこで彼は九章七節以下に於て﹁汝往きて喜悦をもて汝のバンを食ひ、楽しき心をもて汝の酒
ら○
を飲め。其鳩紳久しく汝の行男を嘉納し給へばな♭。汝の衣服を常に白からしめよ、汝の頸に膏を
◎◎◎◎◎∂◎000く
絶えしむる勿れ。日の下に汝が賜はる此の汝の重なる生命の日の間汝その愛する妻と備に喜びて度
生せ。汝の重なる生命の日の間然かせよ。是は汝が世にめりて安くる分、汝が日の下に働ける労苦
によbて得る著作了ク。凡て汝の手に堪ふる事はカを渇くして之を焉せ。其は汝の往かんとする所の
陰府には工作も計謀も知識も智慧もあることなければ行了り﹂と詭諭して居る。重責するに十二章に
於ける結論は今七草に述べたる趣旨を一骨強く露骨に述べたものに過ぎない。そこで滑太の正統派
を代表するバリサイ汲の尊者が多分英俊鋒を少々鈍ぶらさうとて野r︵泉︶を出OrÅ造物主︶と訂正
したのであらう。此改窺は追撃者の心配を浪せしめたには蓮ひあるまいけれども、原文の諭腋を曖
昧ならしめたる罪は免かれまいと思ふ.。
議論は少しく横道に入ったやうであるが、段々年老ゆれば精力減退して死するのみでぁるから少
批時代に妻と備に歓楽せよなど∼は老人ならぬ者が如何で人々に説諭し得るであらうか。
以上述べたる外に吾人はコヘレツを以て老人の気分を示して居ると列せねばならぬ心理的現象の
狛犬宗教息想史上¢コヘレツ
93:王
■大京秋思想豆上¢コへVツ
ー〇六
存するを看過し得られぬのである。博邁之書の中心問題は何と云っても善悪應報問題︵術語で云へ
ばTF監i唱直辞せば﹁紳義観﹂︶である。或は之を紳の徳政問題とも云へるであらう1然るに菩患
應報問題は紀元前第六世紀のヱレミヤ時代よ♭隆んに論じられたのである。即ち耶利未丑記〓一章
一節以下に於て﹁悪人の途の昌へ、障れる者のみな頑なるは何故ぞや。汝彼等を植えたり、彼等放
つき成長して賃を結べり。其口は汝に近けとも、其心は汝に速かる云々﹂とあるに欲して之を知る
べきである。而して此問題は改新時代に入りて頗る峻烈とな♭、造に約官記に至りて其絶頂鮎に達
し賓に光超萬女の概あるを取るのである。今熟ち約古記々者の心理作用とコヘレツの夫とを比較す
るに前者は気概衝天の勢あり約盲は猶大数の正統論者と堂々の戦陣を張りて一歩も退かす、熱心其
身き焼き壷さんばかろである。然るにコヘレツは極めて沈着であつて何庭にも熱気は存して屠ら萬
やうである。約古記は熱烈なる男見が憤慨の除らに筆を執ったのであると思はれるが、コヘレゾは
冷静であつて泰然自若として宅も勒せす、秋花月光を眺めて静寂弘閑なる天地を観て居るやうな趣
きを哀して居るのであつて、約盲記は青年若くは壮年の気分を現はして居るが、コヘレツは老年の
気分を邁域なく螢挿して居る。勿論コヘレツとても世の不遇なる老に同情し.虚政家の歴制に憤慨
したのであらう。而して其痕迩は本書中一二個藤に散在して居るが、如何せん彼の憤慨は腹の中に
て抑へ附け草案憤であり.彼の怒は噛み殺し光る忍辱である。斯の如きは老人でなければ経験し難
き心理現象であると云へやうと思はれる。而して此老人は自ら高く留って居る身分ぁる人であるや
ぅに判断せらる∼のである。是は廃二章に於て有らゆる快菓を嘗め鼓したる稜ち、其の峯虚なるを
戚じたと述ぶる卦より斯くは思はれるのである。そこで♪タブト数授謬u−H昌ptは彼を以てサド
カイ派の嘗着であつたらうと断定したのである。バクブナが革着であると論じたま要の理由は一二
3
償わ
にメルトン
G彗唱A弓昌こ㌢rぎn氏の評に倣へて斯くは耕し先のであると︶云って居るが、在
︵此節の意義に就いては畢者問に種々の意見あγヮて一敦せす。日本評は精々穏曹を映く嫌あ丁り。予は
葬られて安息に入れるあり。彼等は志しかゎしが故に市中を巡りて解法せられたる事すらあゎき﹂
エルサレム神殿に参詣もしたのセあらう。而して又八草十節に於て﹁我見しに窓人の空所より運ば
ーなる語は一同も出て居らぬのである︶に参詣する時の心得を述ぶる所あるよ♭推せば、コヘリツも
評に﹁エホバの室﹂とあるは全然凝詳である。侍邁之書には全篇を通じて狩太図画の名耕たるヤプエ
したりし人であらうと云ふ革も自然に推論せられるのであるが、彼が玉章一節に於て﹁紳の室﹂︵日本
あつたとすれば彼は祭司長や祭司のl昧徒煮であつたと云ふペきであるから、首都ヱルナレムに任
事であると思はれるのである。著し彼にしてバクブトの想像したるが如く果してサドタイ況の人で
曹否を批判する事は姑く之を差軽へるが、之をサドカイ次の如き貴族であらうと判じたのは普然の
単に於ける記事を以て生理機能の衰易を記述したのであらうと解したが虐めであるが、今其判断の
OJ
◆ 9
狛犬宗敢思想史上¢コ︵レツ
934
猶太宗教思想史上のコヘレツ
ー〇八
に﹁空所﹂と云ふは勿論エルサレムの醐殿を指すのであ♭、﹁市﹂とはエルサレムを指すに違ひはぁる
まひから.コヘレツがヱ〝サレムにあbたる出家事を目撃せる滑太人である事は疑ないのである。
従ってコヘソツの人生観は純然たる狩太人の産物であると云へるのである。
コヘレツが老人であγり且つ身分ある上品の人であつたらう主石ふ事は此の位にして止める事にし、
更に彼は﹁智者﹂の一囲に属した人であつたと看倣すべき理由は彼が本書全篇を通じて智悪を説く
∂◎00000 ので判明であるのみならす、本書の奥書に於て﹁コヘレツは智慧あるが故に云々﹂︵十二章九簡︶と
澄明せられて居るによ♭ても明である。然らば﹁智者﹂とは果して何であるか、之を二号一口せねばな
らぬ。蓋し﹁智者﹂とは猶太宗敦史上に一種特色ある人士なるが放である。
四、智者ごは何ぞや
狩太の宗教界を大別すれば祭司の勢力範囲と預言者の勢力範囲との二と属す事が出来る。祭司は
滑大の宗致制度を代表したる宗教界の吏僚でぁる。制度は其種類の如何を問はば概して過去に於け
る歴史的偏偲を表現するのでぁるから、制度の代表者は一般に保守的思想をま張するやうに成り易
いものである。又吏僚は何時も衆多の人々を如何にして治めんかとて苦心して居るのであるから、
衆多の人々に共通に曹て飲まるペき規則や方法を考察して居るが食めに、其思想は形式的に流れ易
く、勒もすれば賃借を詳かにし個人の事情を洞察せんとする同情心に放くる所めり易きに至
の免かれぬ所であると云へやうと思ふ。即ち其の思想傾向は保守的で、其の観察戒鮎は形式
って人に接する場合には普通に温容カが放い居ると云へば.宗教家の資質としては随分映鮎が多い
と云はねばならぬ。されど執れの図に於ても制度化したる精紳界の職業宗教家の大多数は斯
類型に思すべき人々であると想はれるので一のる。斬る人が致界に勢力を得るに至れば宗教
調剤し、散剤たる蛋気は死して致界皆な化石し、宛も屍憶や骸骨の展観場の如くに成ち果つ
る。然るに預言者は之に反し、憂国の念深く、敬紳愛民の精紳己が胸奥に燃え、之を抑へん
ゆる髄はす、止むに止まれぬ至誠の心覆して詑放となつたのである。一倍預言者ほ其性質に
司と異なり、元非宗教を以て巳が職業でぁると心得えて居っ死のではない。或はアモスの如
より身を起して紳の正義を説き、或は十ザヤの如く門地高き政治家にして機に臨みて或は王
或は候伯を諭し∵或は民を叱咤し、世を警醒したのである。固より多くの預言者中にはヱレ
如く祭司の子克♭、或はエゼキルの如く自ら祭司たりし人もなきにあらねど、囁菜宗教家を
んじて居った薯とては殆んど一人もなかったと云はねばならぬ。数多き祭司等が秩序井然と
狛犬貰敢思想史上のコヘレツ
啓螢せんが虐めに説教を試み、己が身に寝る∼ばかりの霊気を似て直ちに婁の潜める衆多の民心に
脛幽玄なる議式典破を執行せんとて余念なかぅしに反し、少数なる預言者等は概して民衆の
935
g36
槍太宗軟思想史上のコヘレク
一︼○
接覇せんと苦心したのである。されば祭司は概して其思想傾向が保守的ならしに対して預言者は概
ね猫創的の思想を懐ける警世家と捏了り、政令の改革家となつたのである。故に狩太国民が紀元前第
六世紀に至って巳比倫の食めに英国家組織を破壊されてよ♭以凍、亡国民の悲しさ皆局よ♭言翰の
自由を楽座せらる1の不幸に障らければ、薪る場合に際して其憂国的至情を現さんとせば勢ひ説教
は之を用ゐるに由なく、止むを待す象徴的表現法を慣ら、嘗喩を用ゐざるを待ぬ次第であつて荘に
所謂教示文単なる宕︵Ap害−yp且、即ち箇約書に牒うては岨仁理蓄の如き、亦新約書にま?りては約翰
献示教の如き形式を装ふた文挙が生れ出で死のである。故に若し暇♭に狩太囲が滅亡せなかったと
したならば謎や寓言にど充ち満てる黙示文畢が螢逢せなかったのに達はなからう。而して此の預言
者の系統より多くの狗太宗数界の明星たる人物が起ったのである。彼のバブタスマのヨ♪ネの如き
は賓に此椎の偉人であつた。︰而して宗教界に新紀元を開始せるキリストの如きも大煙の骨組に於て
は預言者型の特色を著しく費拝した人であると云はねばならぬ。
璽一己者型の宗教家の事は此位にして止め、更に祭司型の人物蓉展凌は如何に打アりしや、之を考察
する事とする。祭司型の人物は之を大別すれば印儀式鵡典を司とる老と閂樺法及び道徳をま要の問
題と点す老との二種に分類するを得るのでみる。而して紀元前第六世紀に至りて拾太国家が横波し
て以葬、猫大民族は他国と隔離せる弧燭的生活を点すを得す変る変る巴比倫、彼斯、希独、スタヤ、
9:汀
挟及、羅将等の成化を安くるに至♭たれば閂に属する者造に分れて回教太の律法及び道徳を考察の
ま題と点す者と㈲特殊の民族や時代や方庭に限らる∼ことなくして遍ねく諸因民間に永久に通用し
符らるべき律法及び道徳の理法を考察するを以て己が任務であると心得へたる者との二雇となつた
のである。何型の人物は所謂サドカイ汲の率ゐたる﹁祭司﹂であつて、何型の人物は所謂﹁畢者﹂に
して専はら誓約書の訓帯解秤を大事と心得たる人々である。囲型の人は所謂﹁智者﹂であつて時の
古今を問はす、方庭の東商を諭せす、皮膚の色の具白如何に狗はらす常に普遍の道徳的理法と虞世
の原則とを考暮するを以て己が薬みと点したる人々.所謂滑太の暫草書とも耕すペき﹁智者﹂であ
る。而してコヘレクは泡とに此の智者の類型に属せる人物なのであるそこで智者には愛国心が重く
映如して居ったと云ふ詳でもなからうけれども、彼等は如何に考へても国民的精醐を露骨に螢表す
ヨ﹂ノ
る事を好まなかったと云はねばならぬ。智者の所産たる彼の智慧文革の楷色著しき歳言、約盲記、
辞篇の数々︵例へば八、一九二一九、三七、四九、七三、九q九二、一〇三、一〇四、一〇七、〓ニ九、
ヨナ
一四七等の諸篇︶及び侍温之書、又経外書︵A苫Ory冨p︶にてはシラクの子イエスの智慧別名醇Ole乳・
邑己ソロモソの智慧等には愛同約精細の見るべきものなきは
族の産土紳なるヤプエーの名は一同も用ゐられす.亦滑太民族の自負して止まぎトしイモフエルの
名辞滝本文中に用ゐられるを見ぬのである。此連中は常に成惜よわも理性を令室し、団氏姓よむも
●大素数▲ii上¢’︿サ’
938
事至芸恩遇史上¢コヘγ’
一一〓
人類のあ理公温を重大親したるを以て能く同胞の虚構を映し易き狩太民族の固醸なる習慣であると
列せねばならぬやうな割鹿とが安息日足守とか什一視とか偶像破毀の如きに至♭ては殆んど之一でロ
筍くも意義の幽玄なる嘗喩を見ることあ
らば真心は之を離れぎるべし。彼は深玄なる文僻の秘奥を探う、玄妙なる嘗喩に清適するを力む
其の思を疑らすべし。斬る人は名高き人々の言を守ト∴
﹁されど至高老の律法に真心を寄せ.之を念するに篤き者は諸々の古人の智憲を探くら、預言に
箭を以てした。
醇八U−乳邑iee第三九章一等よぅ一一節に至るまでの文に於て著者は智者を措くに曹らて左の如き言
らう。是は誰にても一度智慧文畢に属する文書を譲過せば明である。シラクの子イエスの智慧即ち
りやと尋ぬれば、蓋し唯一神教と一婦ま我と倫理生活とを以て主要の成分と看催したと云へるで参
きである。然らば﹁智者﹂等が認めて以て人類の公理公道であると判じたる原理は果して執れに在
の最も著しき例は基督と略ぼ時代を同ふせるアレキチンドリヤの寧者ヒヰワンに於て之を見るべ
ったのである。構って希聴の暫畢思想を畢ぶが如きは是れ普然の業であると看催したのである。ぞ
すべき原理ならんには、樅ひ是が外囲に寮生したるにもせよ、之を認容するに於て竜も蹟躇せなか
問題と属さなかったのである。之に反して事布くも道理上人間の屈むべき道ぢるか或は萬人の遵奉
外にせす、又猶太民族に特有打了りLメジャの降臨の如き、或は肉健の廼生の如き思想は之を殆んど
▲■
9:玲
ベし。斬る人は能く偉人の間に奉仕し、候伯の前に現はれ、諸国を歴遊し.人々の間に存する書と
惑とに精通すべし。彼は幼少にして其心を己の造まなるヤプエーに寄せ、至高者の御前に新を捧
げ、口を開きて所願し、己の罪の虐めに哀藤すべし。若し至大のヤプエー嘉みし給はゞ彼は叡智
の婁に充され、賢明なる言辟を述べ、其の新藤の中にヤダニ一に感謝する所ぁるべし。ヤプエー
は彼の密謀と英知識とを導き給はん。而して彼は隠微の真に瞑想する所あるべし。彼は己が畢べ
る所を宣揚し、ヤプエーの契約の律法を己が発光と翁すべし。多くの人は彼の叡智を詔揚して.
世の終るまで之を抹附する事なかるべく、彼の名は決して忘れらるゝ事なく萬世に侍はるべし。
諸の国民は彼の智慧を宣揚し、曾衆は彼を解読して措かさるべし。若し彼死することぁらば千茂
人に優♭て其名草は大なるべし、彼若し生きなば英名は益々按大せん﹂︵日野評︶
彼の狩太畢の泰斗フランツ・デー′ツチ守P巳せdi訂邑l氏が智者を許して狗太人の出Fm呂訂t︵文
茹復奥浜に属する理と美との理想を嘆美せる畢宕を指す︶であると云ったのは蓋し曹を待たる識者
の許債であると観るべきであらう。
コヘレツは薪る智者の一園に属したる思想家であるとすれば、彼が衛太宗数思想界のま流と看倣
すべき﹁預言者﹂の如くに憂国の気概若しからす、叉民衆を率ゐて進まんとする購帥的横路を有せす
阻喪せる元気を蘇生せしむべき程の雄大なる希望に乏しきは明であるのみならす、些々たる僻句に
輪大京数息鵡よ上¢コヘシク
940
義太宗敷島急呈上¢コヘレ’
一︼b
拘泥する﹁畢者﹂に比すれば其立論が邁かに自由であT,、更に儀虐習慣に囚は㌃ゝ祭司よらも腸閉
なるは之を疑ふ事が出水ぬ。賓にごヘレツは滑太思想界の自由論着であゎ、其の所論に於て往々左
傾的色彩を帝ぶる痕跡を遺せる事ほ竜も之を香み得ぬのである。﹁智者﹂の長盛は地方的国防の偏見
に囚は弟す、其の思想の博大にして判断の公平なる鮎に有す。若し狙太の宗敦思想界に於て﹁智者﹂
の戚化によりて成れる自白博大の気絶が甘かったならば、後年に至りて国教的束縛を股離せる世界
的基督致は或酔生起し得なかったかも知れない。されど強て彼等に有ら易き知慮を描摘せば憂国約
束慨と宗教的熱心と紳に射する威謝の念の具憶化すペきむに於て精々薄窮なるの怯みある事であ
ろ。吾人は賓にコヘレクに於て其著しきに気附かぬ繹に行かぬのであると断言せぎるを待ぬのを邁
慌とする。
漠明求法の紀年に裁いて
∴
を
本
文
三
郎
枝漢の明帝が花金人を夢み、侍毅以で併となし、帝乃ち事情秦景等をして其法を求めしめ、備経
四十二帝拝びに其徒摩靡法蘭を得たといふことは、苛くも傭致を畢ぶと香とを問はす、今や之を知
決明求浅¢紀年に就いて
0 哀帝の元寺元年に素意憲︹貴慮の誤︺が大月氏囲に浮屠経を口授せられたことを詮き、之に次ぎ後
たことや、銀幕の大夏に使し始めて傍に身毒固あゎ、又其地に浮屠の敦なることを掃いたことや、
侍ふ明帝夢に金人を見て云々といふのみであ♭、貌音符老志にも先つ湊武元狩中体屠王の金人を獲
用すべき歴史には何れも其年代を記してない。後漢書西域侍には天竺のことを説き、之に次ぎ世に
・ざ記するを以て見れば、先つ確賃なる革質であつたと見倣さなければならぬ。所が此等の比較的
宏の後漠記︵巻十︶や胡書滞老志︵春吉十eや乃至司馬温灸の資冶通鑑︵春日十五︶等には明らかに之
菰の凌漢書本紀には厨はれて居ないやうであるが、西域侍には之を載也︵同等巷首十八、天竺囲條下︶衷
らざるものはない。此侍詭は件数関係の典籍にほ言ふを侯たす、支那の正史にも之を載する。勿論
941
決明求法の紀車に就いて
〓六
孝明帝聴金人を夢む等といひ、其何年の事賃か少しも明らかでない。後漢記は明帝永卒十三年の健
○
下にl其年の十二月楚王英謀反の記事と関連L−楚王英の奉僻事蹟や.悌敦の大意を述べ、之に亜
ぐに初帝夢に金人を見云々といふ。安治通鑑も略之と同様で、永卒八年の健下、楚王英が黄維白執
○ を畢じて其罪を脱はんことを諦ふたごとの記銘に関連し、初帝西域に蹄ぁらと問き等といひー
求法の苓を叙してある。斯く藻明求法の記事は永年八年又は十三年の健下に載せられてラQが、こ
れが其事件温生の年代でないことはいふ迄もない、而して初とか後とかいふだけであるから−幾年
のことか殆んど捕捉する研がないのである。研が傭敢闘係の典籍には多く其年代が明記せられてー
る。が其記す所の年代は、又区々として一致せす、亙らに其要領を得ないのである。果して其何れ
を以て眞とすべきか、滞た何れも単に後人の想像によつて怒足せられた、倍するに足らざるものと
沸教関係の典滑の中でも染仔停や出三薮記集等は何れも明帝求法の事質を述べてあるが其年代に
ではあるが、支部偶数侍凍の歴史上、また一の重要なる事項たるを失はぬのである。
此時は備致の公に支那に侍はつた初とも耕すべきであるから、其年代の研究の如き.事は極めて小
倍水の初とはいはれないが、兎に角明帝が救命を以て備経並びに伶侶を聴したとすれば、少くとも
沸教の支部に入来ったのは勿論明帝時代に始まつたのではないから、明帝の求法を以て支那偽数
なすべきであきフか。是れが余輩の此小倉に於て聯か研究せんと欲する所である。
942
就いては少しも説き及ばぬ。例ほ借前は其出三寂記集撃一の叙に於て、﹁逮義明威夢、張寮
西於夷氏垂経四十二幸﹂とい骨、又同四十二章経の下にも、﹁右一部凡一巻、渡孝明帝夢見
詔遭▲使者張琴羽林中郎搭乗景、到南国こ等といひ、共に明帝が張窓等を邁はしたものとな
宕は漢の武帝の時の人であり、明常に立つこと約二盲除年である、之と同一の誤は老子化胡
顕はれ、甑梵の笑道諭にも其妄を耕じてある。付紡が如何にして斯かる混同をなしたか甚だ
あるが、或は化胡経の侍ふる所を不注意にも其倭探ったものではなからうか。
後世の単著は概して耶帝の夢の年を以て永年七年とし、使者鯨蓮の年を以て永年十年とな
あるが、是れは障の歴代三寄託や唐の開元帝政銀等によつたに過ぎない。而して其他の書に
は、明帝の夢針以て永年三年とするあり、四年とするあり、又七年とす牟ものもあら。又使
靡等と共に支那に蓮恋った年を以て七年とするありー八年とするあゎ、或は十八年とするも
其外昔時況遺せられた使者の教をも、多くは十八人とするが、中には十四人とするのもあら
遣の目的地み㌢も天竺とするあり、大月氏とするあり、天竺及び月氏とするあり、甚だしき
するものすらぁり。使者の数の如きは必らゃしも此に間置とするに足らぬ、又月氏といひ天
ふも、雷時民間地理的脅讃の故乏よ♭して殆んど同二し考へて居た結果であ−らうと思はれる。而し
決明求法の妃年に就いて
て天竺及び月氏とぁるのは、此二様の記銀の存する靡から之を併せ取ったに過ぎす、合街と
943
○亜
漢明求法¢紀年lこ就いて
二入
に至っては園丁ナり倍するに足らぎるのである。普時の支那人が合衛なる一同の存すること知れる誓
もないのみならす、比較的舌代の書には何れも天竺又は大月氏図となすを以て見てむ、又張纂も嘗
名
容易に之を知う得るのである。
書
同
七年
三牛
1
1
l
使者況
遣ら年
同
永平七年
栗本内晶柑論
回
苧遺品
歴代三賀艶︵令四︶
使者好
朝¢年
永平十八年
年
永平十年
十
陣綬圃馳︵怨こ
七
三
三
年
年
十
十
年
年
十晶
法苑殊妹︵懸十二︶
中
七島
七
田晶
網 元 輿令こ
♯代温載︵●五︶
悌払統穐︵●三十五︶
七島
■■ll
内 典 繰︵怨こ
七年
.
弘明集
邁諭
明帝夢
見の年
舌殊係数関係の典籍に於て、如何様に明希求法の年代が記述せられて居るかは.左の表によつて
〓
明帝も亦天竺か月氏囲にさへ行けば、沸教の経典や館侶は容易に得らることヽ信じたに相違ない。
ては月氏に至ら天竺浮屠のことを聞き.景慮も同じく月氏囲に於て俳経を授かったのであるから、
_−
94占
八年苧品関
俳法金洛篇
三
大鳥蝕
前衷を一見すれば明帝の夢見の年を以て三年となすものと七年となすものとの二設最も多く、唯
歴代通我が四年となすのが狗♭他と異なる所でふγり、使者路朝の年代によつては十年設が最も多く、
化朝霞の十八年となすと歴代通載の七年となすのが、他と殊なる鮎である。然しながら此等の問題
は決して多数を以て是捏アワと定むペきではない。又法本内侍や老子化胡経の共に偽作若くは債荘な
るは疑ない事賓であるが、抜本園内侍は道宣の偽造論衡︵巷甲︶や康弘明集︵巷一︶等にも奉げてある
から、遅くも障唐以前のものであることは疑ない。而して康弘明集には道畳も﹁有人疑此侍造出、
本無角力之事﹂といひ、彼は之を以て賓諒となすと断定して居ろが、此疑問は寧ろ正しく,恐らく
六朝前後併進二敦評論の甚しき時代の作であらうかと思ふ。其作者も勿論明らかならぬが、現存す
る書としては可なゎに古く、叉併進雨着角カの事は固よ少後人の捏造に係るのでぁるが、明希求傭
のことは秋竜革質を改作すべき必要のない事であるから、此鮎に於ては寧ろ舌代の侍詑を欲するに
足るものかとも考へられる。但法本内借の明帝の夢見の永中三年といふのも明本には十三年となす
ともいふ。而して偽造二敦角カのことにて十四年とする朗を以て見れば、或は古本内借は十三年と
なつて居たのではなからうか、然らぎれば何が故に特に十四年に洋室の角カのことを配するに至っ
たか殆んど其理由を得るに苦しまなければならぬのである。
渓明求法¢紀年に就いて
946
漢明求法の妃年l=就いて
士一〇
次に老子化胡経も償経ではあるが、高借侍︵竺最速停︶や内典銀︵慧︶や偽造諭衝︵丁︶沸正論︵慧︶
等によれば、沙円畠遽と同侍祭酒王符と云ふものぁり︵一に基盈といふ︶、毎に畠建と法を論じ其邪正
を許す、浮琴虚せられたので、彼隕りて自ら忍びず、乃ち西域備にこ託して二化胡脛を作り以て備
を誼ひ、蓬に世に行はるゝに至ったといふ。白蓮は晋の窓前時代の人であるから、此書は恐らく西
暦紀元後二百年末か三宮年代の初に顕はれたものと推測せらる。が備剋統紀︵巻三十大、晋成帝成璽ハ年
の條下︶の如設には、化胡犀の文は本と一巻であつたが、其徒概して十一幕となし第一幕には厨賓王
を化するを説き、第二巻には倶薩薙に外道一ぜ降伏するを、第三巷には維衛胡王を化する一ピ、第
は厨賓王の兄弟七人一で化するを、第五巷には胡王を化するを串き、常備語を倫萌し妄りに自ら安
したといふ。此には第玉谷に至る迄の内容を奉げてあるが、其他の笹には如何なる事を設けるかは
明らかならぬ。近時煙燈出土の経典中には孝子西昇化胡経序説第一なるものと寿子化胡握第十打て
ものがある。而して第一巷は惣統一切法門と解し、太上老君が彪々に樽々説法し、又弟子戸書をし
て中天竺に入り傭と打アり生れしめたことを述べる、是れは厨賓王を化したといふ第一幕ではなく
変らに整別に附姦したものであらう。而して第十巷には始め老君が何庭に生れては如何なることを
なしたかといふ摘要を奉げ、之に次ぎ聖書哀歌五首、太上皇老君哀歌七首、老君十六舜詞なるもの
を掲げてある、これは化胡経金袋の阿藤のやうである。而して此十六鼻の中第十一襲以後が印度
947
出世したこと1な♭、十三襲が厨賀にあト、十四縫には金︹合力︺街にあ♭、十五舜には成案胡固、第
十六哀には蒲林にある時のこと∼克す。統紀の禰註に運ぶる五聾は此にいふ十一麹から十五慶に相
督するものかとも思はれるが果して然るや正確には到らぬ。而して王符の初めて造った違の何れの
部分なるか鴇明らかではない、笑道諭に引︿所の文も現存する残映には発見せられない。従って笑
道諭に引く研も果して王符自身の文か彼に其徒の増益する研か、今胡言し得ないが、此等の償霞も晋
から六朝の頃に至る閤に成れるものかと推定せらる∼のでぁる。而して低荘とはいふものの傭梨湛
水の年代の如き昔時侍説の民間に行はる∼ものもあつたでめらう。殊に之を暮夏なすペき必要のな
いとでぁるから、これは後鹿隋唐以後の侍詭よLソヰb一骨信用すべき侶億あるものとも考へられる。
斯く考へ凍れば明帝夢見の年を以て七年となすのは、化胡綻若くは之と同一資料から侍は♭二二
年余は恐らく抜本内傾が本とな巨、之から起ったに外なら氾と推測せらるのである。而して謬荘園
記が三年に夢み、七年に使者を派遣したとするのは、此両説を折申し成れる想像説に過ぎない。元
凍夢見の三年詭は社家からあつたが特に使者派遣の年を記したものは未だ嘗てないのである。僻ほ
金湯蕾には三年に夢み六年に使者が月氏に摩鷹法蘭に遭ったといふのも、古家の侍詭には軟毛見ざ
る所で全然倍するに足らざるのである。此書に於ては詳細に年代を芯劃し、三年に夢み十年に酪朝
したといふ臍唐以凍の侍設により、其問に使者の月氏に居つ光年と騒朝の年とを挿入し、而して十
漢明求法め紀年に就いて
948
漢明求津の紀年に就い.く
〓≡
年に法蘭が凍たとなしたので、任意に二年つ∼の期間を此に置いた迄である。歴代通我が四年とな
すのは甚だ怪しむべきであるが、是れは周書異記なるものによつたものといふ。周番兵記の何時何
人によつて作られたかは到らぬが、智昇の績偽造諭衝にも引いてあるから唐以前に存Lた俗書であ
らうと思ふ。通載︵雲︶に引く所によれば周の昭王二十四年甲寅博諸“御に四月八日、卒由一の時、
暴風忽ちに起♭宮殿人合成悉く震動し硬玉色の光太徴を貫き四方亜く青紅色を呈した。王太史蘇由
に問ふ、是れ何の群ぞやと。由封へて日.く西方垂人あつて生る、後一千年整数此上に破及せんと。
00 王石に解して之を記せしめ埋めて南郊天詞の前にあ♭。年を以て之を計るに今辛酉に寧三千一十
年打了り、王︹明帝︺の夢みる所必らす是れかと。よつて帝は使をして彿法を求めしといふので偽る。
で此に辛酉とあるが、之を明帝在位の間に求むれば永年四年より外にはない。是れが通載の四年辛
酉の設を取った所以である。然し此侍説に於ける事賓の虚構はいふ迄もなく年代の計算亦全く解す
べからざるものである。元来甲賞の歳から辛酉に至る迄は八年である。で今借りに帖王の甲貫から
十六回を経た次の甲景の歳は九六一年であるから、英幸酉は九六人年でなければならぬ。叉変らに
一同次の千手とすれば.十七同を経た次の甲賞は一〇二一年でぁるから、其の辛酉は一〇二八年で
なければならぬ。如何にして一千一十年の教を得べきであらう。此鮎から見ても此侍訣は全然信す
るに足らざるものといはなければならぬ。通我が斯かる設を取ったとは甚だ奇怪のことである。
949
三
明帝が果して何年に夢を鬼平Jしても傭敦史上には直接何等の閑係を有せないことであるが、使
者蹄朝の年代に至っては之と大に趣を異にする。而して使者蹄朝の年は永卒十年とするのが一般の
通論といつても書い位である。侃歴代通我と金宙篇とが相異設を侍ふるが、金缶篇に関しては既に
︼言したから今は説かぬ、。通載の説く所は甚だ陵昧である、同書睨帝甲子︵七年︶の催下にはいふ、
脛竺法如二三敲、蒋‘優墳玉算四追白郎像井四十二車型宿等奉迎而師事路奏。
他の侍記によれば萎惰等の使者は座席等と月氏に遇ひ共に蹄朝したことになつて居る。で此に惜
等奉迎して洛に還るといふのも、情等二三発と共に締ったらしくも解滞せらるゝが、次の低下を見
るとそうではないらしい。同書次の戊辰︵十一年︶の條下には、
歌流瓦土手二月三十日、情義蒜翠二沙門毒手洛陽︼
とある。して見れば摩贋等が洛陽に充たのは永卒の十一年であるらしい。然らば七年に奉迎して終
に締るといふのは、情等支那からの使庸一行のみであつたと解せなければならぬ。而して所謂奉迎
とは単に彿像鍾典だけのことであつたと思はれる。然らば十一年に三蔵を迎えたのは何踵のことで
あつたか、若しこれが月氏観であつたとすれば、賓惜等は七年に月氏に至ら共時には傭像や経典の
みを持して蹄b、再び十一年に月氏に行ったものか、若くは十一年の時は摩脛等だけ畢猶に支部に
漢明求法の紀年lこ抗いて
9封)
漢明求法の紀卑lこ放いて
一±匹
凍ト、萎情等は之を郊外にでも迎え、洛陽に入ったものとでも解さなければなをぬ?が辞角月氏迄
迎に行き、何の必要あつて斯く別々に支郵に凍たのであらうか。特に親書澤老志には﹁野草融中琴
惰博士約手寮長撃使添天竺夢浮屠遺範頑乃輿沙円読靡腐竺法蘭−寛蓮︼蕗陽Lと明言t∵高何倍に
も摩騰の條下には、﹁惜等於y彼遇兎摩野乃要撃渓地l﹂といふ。、勿論竺法蘭の條には﹁時葵情鱒至彼㌦
国蘭輿靡野英軍造化謹相随両家.曾彼畢徒留礎、蘭乃間行而萱﹂といひ、法蘭だけは少して後くれ
凍たといふ読もあるが、摩腸に至ってほ薬情等一行と共に支那に凍たことは事賓疑ふべき除他のな
いものゝやうである。而して仮令ひ法蘭が多少鐙くれ来たとしても.七年と十一年とでは除♭に其
問の時日が長池ぎるやうにも思はれる。而してヌ斯かる侍設は舌殊の典籍には・未だ見ざる所でろる。
何に由って通我が斯く異説を塞ぐるに至
は化朝霞に侍ふる明帝夢見の年を以て此に充たのではなからうかと思ふ。夢見の年に三年と七年と
の二詭ぁる研から、三年を周書異記により四年となし、七専一で支部の使者二行錨朝の年となすので
あらう。而して十年が従来使者蹄朝の年と侍へられて居るのであるが、⊥夢見の毎に一年を後くらし
たが眉め、十年にも一年を後くらし、之を十一年の條下に架け烏もの呈苧環由て考へ凍れば通哉︰4
に四年といふも七年と小ふも婿た十一年といふ阜智信するに足らぜるのである。而して明代に成∴︻
れヶ金湯斎が夢見から法蘭の凍朝迄を四期に区分し、一々之に年代一ざ充つるに至ったのも、亦通載
に基づき.吏らに一骨之を人名的に発展せしめたものたる亦殆んど疑一曾容れない。
然らば十年説は如何。後世の畢者は多く此詭を取るが、十年詮は現存する所では隋の歴代三
から始まら㍉決Lて舌代のものではない。前にも三一口した如く後漢書でも後注記でも魂書繹志でも、
一も其年代を明記しないのでぁる、而して化胡経には十八年と今Q。≡賓記は何に由つて之を十年
となしたか、.全く其据♭所ないものといはなければならぬ。或は隋代坊間行はる∼俗書に斯かる記
事がぁつたのかも知れぬが何れにしても是れは容易に吾人の信すべからぎるものである。一
抑も永年の初年に於ては、西域地方は漠に朝貢せす、漢より西域に至る交通路は殆んど全く
した時代でぁる。後漢書西城備にはいふ、
王葬夢位、舷哀憐王苗レ是西域怨叛、典蒔寧送裾、並復役亀飼奴有攻免税璽刻、諸国不レ撃
郡準光武以,天下和定、末蓮如襲意不レ許一之、骨勿奴衰弱、謬車王軍学減諦軍資苑之後、送電相汝伐、⋮:永卒中米産力夢
諸学共冠一河内郡堅城円実閉.十六年明帝力争橋帥元征−1勿奴転諒青琴些翠査禾都尉︻以屯甲迷夢西城享直話国営淳子入
侍、再城白海六十五戒、乃筏鶏葛.明年始軍都茄戊巳校尉六安治邁鑑撃二十七参照︶
漢明乗法の妃年に就いて
其徒者を加ふれば、恐らく之に数倍するであらう︶耗へす漠に冠せんとする西域諸国を通じ、月氏
ぢ、人をして出入せしめなかつたのでぁる。此時に皆り公然の使節として約二十人のものが、︵之に
るが、是れは王券建国元年のことである。爾凍西域諸国と渓との交通亮絶し、巷間すら僻は門
即ち前疲末王葬が位を恭してから、西域諸図王の好を降したので、彼等は怒って漠と絶し甘の
951
漢明求法の配車に就いて
漢明永平七年甲子歳旦書現高方義明帝夢前人1、⋮由帝野草喪賽撃究▲河涼1、⋮壷㌻水平十入年一方蓮。
〓一六
し、何等の無理もなく解辞し待らる∼のでぁる。僻は先遣論には化胡鮭の此文を引き、張胡を以て
に其年即ち十八年を似て支那に蹄凍ったものと信する。斯く考へれば線べて月経の事賓と能く粥和
し、翌十七年に萎情事十八人を迭り、彼等は其年又は翌年月氏囲に達し、此に摩鹿等に遭ひ、直ち
要もないが、永年十六年に始めて西域への交通路が開けたにより、帝は直ちlこ傍注を彼に求めんと
馬ではなからうかと思ふ。即ち明帝の夢みたのは何年であるか到ら氾、又斯かることを詮索する必
年以後のことゝも解辞すれば事賓に於て差支ないやうである。が余輩は寧ろ此七年とは十七年の裸
らぎるのである。しかし是れも七年には唯明帝が夢一で見たゞけで.使者の派遣せられたのは、十六
のことであつて、秋竜怪しむペき鮎はない。但七年に使者が支部を馨したとするのは甚だ解すペか
漠よ♭西域への交通路が開けたのであるから、十八年に瑛よトの使者が走り凍ったのは固より曹然
ろ事賓に邁應するの−ではなからうかと思ふ。前引用する所によつて見ても、永年の十六年には既に
の記事の存するは固よら否定すべからざるのであるが、其十人年に使者が透水ったといふのは、寧
といふもの、使者の名を張案と誤ら、合衛に至り経を葛凍れ♭となすが如き.多少の誤謬や、誇大
000
し待ペからぎるものと断言して美文ない。此く考へ凍れば化胡霞に、
若くは印度に至らんとすることは到底倍すべからぎるのである。此粘からしても十年詑は到底成立
952
粥3
其使者となしたことに就いては、甚しく其妄を絆じてみるが、其年代に関しては三一口も駁する所
ないのも、吾人の大に注意を要する鮎である。帥ち反面から之をいへば芙道論の著者耽鷲も、此年
代を雇怒して居たものとも考へられる。乾鸞は北周の天和五年に此書を作ったのであるが、遅くも
六朝時代に・は十人年詭が一般に行はれて居たのではなからうか。又思ふに其使者派遣の年を七年
するのは、笑邁裔に引用せられて後誤寄せられたので原化胡終には十七年とあつたのではなからう
か、点らぎれば吾人は芙道論著者の或利なる批判の滴ら此に免れ得たるを寧ろ怪しむのである。而
して偶.十七年の十を誤脱し七年となしたが虐め、歴代三賓記以後の諸経悠亦嘗此誤を承け、七年詭
を生じたのでなからうか。若し泉して然らとせば使者紆朝の十年説なるものも、或は十人年の八の
字を誤奪したか、或は紆朝を十人年とすれば使者泥道の七年との間除らに長時間の経過すること∼
なるので、故意に十年としたのではなからうか。何れにしても十年読は革質上不可能であるのみな
らす、青侍にも未だ存せない所であり、取㌃に足らぎるのである。
四
何は明帝求法の年代を研究するに普り、余輩の此に考へ置かなければならぬのは、明哲求法と楚
王其の奉傭との時代前後の関係である。是れ亦青木の歴史には何れも陵昧となり、時には前後を顛
倒しで居るやうに思はる∼のである。
漢明求法の紀年lこ銑いて
954
漢明求法の紀年に就いて
一二八
抑も後産光武帝の子に楚王英あト、建武十五年に封せられ楚公となり同十七年昏を進められ王と
なつ陀。彼は晩年に篤く沸教を信じたのでー後漢書楚王英侍︵巷七十二︶には次の如くいふ。
英少時野面埜東姦蚕客道東吏革︼糞老畢ハ多重屠賓娘祭祀岩永午︺八年詔合−︻天下死罪曹入け緩照可英革融中︼今−奉■苛練白故三十
匹↓詣t面相白託寧衰輔︰過富農攻、軟£盲犬異孝三迭嫌声以夢憩琴南相似阿、詔報日、楚王諦一重老之微音︰争一浮屠之仁詞︰館野
三月、典一所発一昔、何嫌何疑、命レ有邑悔寄道ハ選一廣以野面滞塞桑門之盛頗可
楚王英が如何なる儀惑を以て彿を祭りたるかは明らかならぬが、兎に角潔藩三月云々といふのは、
悌政所謂三長藩のことであるから、此期間断肉をなして居たものと思はる。又此に伊蒲塞とは即ち
優等塞のことであ♭、桑門の沙門たるは言ふ迄もない。而して英侍には彼頒罪のことを以て永年八
年となし、彼漠記︵巷十︶兼観渓記︵巷七︶乃至安治通鑑︵巷四十五︶等にも皆之を以て八年とt、同
一の記事を載する。して見れば遅くも永年八年には既に楚玉英の倍数を信じて居たことは疑ない。
のみならす同侍によれば楚王英は永年十三年方士と金亀玉偽を作り、文字を刻したが焉め、彼は筒
音を造作し逆謀ありと告げられ、有司之を課すべきを奏したが、帝は嘗てよら英を愛して居たので、
之を課するに忍びす、英を摩し、之を丹陽理解に移した。翌十四年英は丹陽に至り自殺したのであ
る。若し今明帝の求法を以て永年十八年とすれば.楚王英の倣数倍仰は明帝の求法以前十年のこと
であつて、明帝の法を求め摩騰等渡凍の結果ではなく、之と全然無関係の事賓であつたことは疑ひ
を容れない。而して十人年には彼既に死して四年を過ぎて居るのでぁる。仮令ひ文明希求法の年を
965
十年としても.之に先つこと二年
永年八卒院に悌致を信じたりとすれば、其前後の園係は依然と
して同じである。勿論永年八年腐非の命に就いては多少の疑がないでもない。後漢書明帝本紀を見
るに、明常在位の年間臆罪の令が三度顕はれて居る。其最部は光武帝崩じ明帝即位の年の十二月で
あ♭、﹁天下亡命、殊死以下聴待購論−死罪入級二十匹⋮⋮・兵事象費l詔書到、先自告老年入′頗﹂とあ
り、次には永年十二年二月で、亡命自己凍死由下填ち死罪−練四十匹⋮⋮︰犯レ罪声螢撃詔書到日、自菅老
年入一府﹂といひ、同十八年の條下にも1詔日其令,天下亡命自;殊死已下原.死罪▲練三十匹圭⋮・吏人魂y罪
費螢一詔書到、白骨老年入レ頗﹂とある。些二同の購罪命は大髄相似たものであるが、唯暁罪の練の数
量に於て多少の相違があるのみである。即ち第一岡の時は死罪者の・購ふ放は二十匹といふもの、第
二同には四十匹となり、・而して第三同堰二十匹︵以下各差めるはいふ迄もない︶と・のる。而して同書
楚王英将には永年八年に頗罪扱が顔はれたとぁるに開はらす、本紀には八年の催下に其記事がない。
即ち楚王英購非の事は果して入年とすべきか、丼た十八年とすべきか。若し十八年とすれば明帝求
法以後のこと∼見るも差支ないやうにも思はれる。Lかし八年に頗罪を乞ふたことは、後漢書楚王
英侍を始め、壊注記の重安沿道鑑皆一致する所であり、・且つ十四年には彼既に死して居るのである
から、英の原罪は十人年には有り得ないのである。十五年の令によケて英が頗罪を請ふたと仮定す
るも同棲でぁる。若し本紀の記事をして異なりと仮定せば、彼は即位後第一同の令によつたものと
漢明求法の紀年に就いて
9甜
漢明乗法の妃申に就いて
しなければならぬ。若し第l岡の令によるとすれば、永年八年に至る遷には除♭に時間が経過して
居るのみならす、第一同の命によれば死罪を頗ふには糠二十匹となる。然るに後産記には楚王英は
黄練二十五匹、自執五匹以て其怒を購はんと請ふたとあぁ。是れ計三十匹であるから、本紀のいふ
所によれば永年十八年の令によるものといはなければならぬ。勿静東軌漢記には責綾三十五匹、白
軌五匹を拳法したとあるが、些二十五匹は恐らく二十五匹の誤寓であらうと考ふるが、若し之里二
十五匹とすれば、計四十匹であるから是れは永年十五年の令によるとしなければならぬ。後漢書や
通鑑には其の遮った嫌執の量を記してないが、後漢記の記事も泌らす揖も研がぁつたのであらうと
息ふ。であるから若し此等の記事を倍すべしとすれば.十八年か十五年の何れかでなくてはならぬ
が、何れにしても串貰不可解である。是れに由って見れば本紀の十人年の記事は全然誤で、八年と
いふのが正普でなけれはならぬ。恐らく入年の命を十八年と誤為したものがあつたので、之を十八
年の俵下に繋げたものと推測せらるゝのである。
既に楚王英頗罪が永年八年のことであるとし、従って彼の係数信仰は遅べも八年以前であつ平−
とが確賓でぁつたとすれば、永年十八年︵仮令ひ又之を似て十年としても︶明帝の求法以後其道に
入ったものでないことも明かである。然るに落盤︵巷四十五︶には永年八年の傭下楚王英原罪の尊貴
を説き、之に次ぎ﹁初重野西域有細其名日″傍﹂といq之より使を天竺に遺し、其霹奥沙門を得た
別汀
るを乾き.それから沸教の如何なるものたるを解し、終らに、
於一足中国始偉▲井野耳一美形最高王公貴人、燭楚王美最先好一之。
といふ。此には﹁初め﹂といひ、﹁是に於で中国始めて美術を侍ふ﹂といひ、夏らに楚王英最も先き
に之を好むといふを以で見れば、楚王英の信仰は明帝の法を求めた以後の㌧︶とであTヮ、明帝は永平
八年以前既に座像を得たもの∼やうに解辞しなければならぬ、がこれは全然事貰の前後を顛倒した
ものといはなければならぬ。しかしながら司馬温あの此簸れる叙述は、後漢書や後漢記の曖昧な記
事から水たものであらうと思ふ。後漢書西域停︵巷首十八。天竺固の僚下︶や後漢記に就いては前に
も二言したが、前者にあつては明帝の法を天竺に求めたことを説き、之に次ぎ、
逮於毎回面象形像衰。楚王英始信▲首筋亭周囲レ此頗有毒東学書
といふ。此に楚王英始めて其術を倍すとあるのは明帝求法の前か彼か、記事甚だ陵昧であるが明帝
が天竺に人を遣はし彿の造法お〃・問ひ、之−てりして中国の陶像が作られセとし、之に次ぎ尭王英始め
■
て信じたとめるを以て見れば、之を明前の求法以後の事と解するのは寧ろ曹然ではなからうか、特
に此には一も其年代を顔はさないのであるから.著者の本意はそうでなかつ克としても、通鑑の文
の如くに之を解するのは必らゃしも理由ないことではない。後漠記の文も殆んど之と異ならぬ。で
後世支部の単著は︻般に斯く解辞して居たものと息はれる。彼の政事辞老志の如きは後産由盲固七
慎明求沈の紀年lこ放いて
968
漢明乗法の妃年に就いて
く明帝求法の事箕から俳致の大要を述べ、之に次ぎ.
〇〇
漢章帝時、楚王美音名工浮屠期成可
といひ、然る後前に述べた購罪の話を載して屠る。此に章帝とあるのは明らかに誤でみ乙。明帝は
永年十八年に崩じ、章帝之に代はり立ったのであるから、章常時代楚王英の在世すべき筈はないの
である。併し斯の如き誤の生じたのも、或は後漢書等の記事の陵昧にして、楚王英奉彿の明希求法
の後と解せられたが焉めではなからうかと思ふ。
●
序lこいふ道宜の廣弘明集に引く組苔梓老志にほ、楚王其の叙事ほ全部之み削除・してある。或に産れ事実の按倒な知りtるが食
めか、或托叉直接北塊の俳敦に園係光きが食めなるか列らわ。
以上余輩の略述する所によれば、法本内侍等に設けるが如く明帝が永年十二年に白馬寺にあらて
設藩行進したらといふも、同十四年には五嶽の邁士と共通カを角せトといふも、曹事賓有♭待べか
らぎるは言ふを侯たぬ、唯是れ一場の小説たるに過ぎないのである。彿剋統紀︵筆二十五︶にはいふ、
劾渾名養を按んするにいふ、唐の温士ダ文操の謂く、法本内借は産什門人の造と。これ勅語名義奥
の準こに出て居る詭でめるが、唐の侍設であるとすれば精信用を置くに足るものであらう。勅語名
義や.統紀の著者は之を似て明帝の金人を夢みたることや、道家焚脛のことの、悉く虚偽なるを逓
べんとする食め温士の捏造しセ設であるといつて居るが、吾人は寧ろ造士の設の何等か破る所ぁる
のではなからうかと思ふ。何れにしても楚王其の併数倍仰は明帝以前のこと
哀帝元年真底望ものが大月氏眉に於て口授を受けたと言はる∼沸教璧ハの、その如何誉種類Ⅵ
ものであつたかは固より到らぬが、次第に侍母君くは樽寄せられ、楚王の之
受講した老荘の思想より俳敢に帝人七たものと信すべきであらう0而して楚王英は明帝と最も親密
なる関係にぁつたことは、後漠書の英将にも﹁璧宍明帝︺太子た♭し時よら
し.太子特に之を親愛す、位に郎くに及び激賞賜を安く﹂とぁるに一1も知るを得るのである。明帝
と楚王との陳係の如きであつたから・明帝も楚王よ堅其生前係数に就き多少
夢に乾し其法を求むるに至ったのではなからうか。又促命ひ夢のことが事貰
舎人・晶て直ちに浮居であると判じたるは何等か多少其思想が侍はつて居な
る。此鮎よら考へれば法苑珠林や傍観統紀に、貴慮︵本文には憲に誤る︶め盛を口授せられ蓬卜恋
ってより.﹁昔時稀斎戒を行はぎるものあト︹といふのも必らすしも亦全然後世露楠の諒ともなすべ
きではなからう。而して親書渾老志に﹁中土之を開き未だ之一ぜ信了せざるた7り﹂といふものは寧ろ
漢明串法の紀年にこ就いて
是れ一般政令の信仰に就いて論じたので、大僅からいへば之を信せなかった
楷志者の之を畢ぶものもなかったとは断言し得ない。而して楚王其の如きは
志老の一人であ・つたので、明帝求法の動機も或は彼の信仰に本づかざるな
g59
郎○
天熱員弁及び其蜃連
天然崇拝及び其螢達
−日本各地の温泉紳赴の原型ごして1
クーlヒト
藤
〓ニ凹
立
智
六年、温泉碑文︶と云はれセ伊汲の﹁妙槍﹂ぁる
る日月照於上而不私、細井出於下無不給︵法典
献するに至って居ることは、自然の順序だと思
はれる、換言すれば、彼の伊濠国風土記に見ゆ
に紳塞の不可思議カを怒めて.之れに紳嗣を奉
不思議カが龍ったものと、考へた如きは、此通例
日本は火山国で、随って各地に温泉が湧出し
で代
ぁ、
る。否彼等素撲な頭脳には、此場合温泉そ
てぉる、そこで、その大音﹁草木威儀言語﹂時
のものが直ちに醐掠でぁつたかも知れぬ。さぅ
即ち﹁串間之堤根、未乃立知事能可岐稟﹂の時
へ仏ら、こ1に宗致畢者の所謂初歩の天然農挿が
代に翻れば、所謂古代日本人のアニミスチック
成、
♭立つのである。温泉が人の疾病一ぎ笹癒する
な信念は、涌き準つる冷温二泉に御室を怒めて
ものである所から、蓬に大和民族の痢話である
此に朴兼的な温泉醐敢が各地に生れて凍るのも
記紀の大己貴所や少貴名紳と云ふ巫嘗の痢舐と
自然の勢たと思はれる。今此事賓が古文献に表
結附く前に、早く既に天然涌出の温泉そのもの
はれた一例としては、出薯玉造の温泉に就て、
出書風土記が意宇部の傭に、 †デュ丁,
島部神戸、⋮⋮・川連出琴⋮⋮一躍則形容端正、
日紳湯也︵標注古風土記の一四︶
再浴則萬病悉除、自首至今無不得歯.故俗人
00
とムT,て、その所謂醐湯として、温泉に紳婁の
961
琴丁六
﹁御井﹂であるの併の式後の温泉だとか、有馬のしてをるが、是等山間の小部落には、夫々温泉
神社の小飼が存してをつて、大正、昭和の今日迄
温泉だとか、出雲玉造温泉だとか
舌代から早く文明の開けてをつた土地の温泉の 伺その部落の尊信を博して一号つ。例之臨原の頑
丁ラ
祭神が、大己貴紳少名紳となってをるのを見る 渡声、門前、舌町、睦′蕩、新陽等何れも、音名
小飼を建てゝ、その場所その場所の温泉の赫を
し︵特撰頑名牒、一五一、六四三、入00︶、それ
が更に係数化しては、薬師と融合されてをるこ 祀ってをる。昔もさうであつたし、今日も亦さ
うである。古今少しも違ってをらぬ。今日そこ
とは勿論だか︵栗田寛著醐祀志料附考
〓ニ五
の五七〇︶それ等の温泉紳が、か∼る天孫民族
へ行って。その昔禽小飼の御祭紳はと聞けば、 ユセシ
の神話に現はれてをる紳砥也傭敦の備蓄経であ 何れも嘗只ユセン横︵=湯泉様︶と答へるのみで
るとせられない以前に於ては、夫々各地方々々 ある。決Lて大己貴所でも青ければ、少貴名癖
の温泉に、夫々各地方温泉の所謂 甥mnつn lニCと
iも答へない。蓋し彼等土民の目には、単に温
なるものが耽られてをつたのだと思はれる。今 泉の紳そのものに外ならないのである、マフし
この経路を昨夏は蝮原の温泉に沐浴中、本夏は てその神社が、村政でもなければ、郷敢でも無
本飽嶺の温泉に遊んでをる問に於て、静に考察 く、某温泉部落の人が、私に祭ってをる私敢に 丁ラ
外ならないのでぁる。塵脱の一番奥の薪湯の法
した所、目草した所と、多年文献上1㌻り得た資
一
料と一ぞ封照して、誇披立てゝ、見たいと思った泉舶鮎などに至れば、橙道教十階、中々堂々た
る崩放でぁるけれども、決しも村政でも郷放で
のが此小論文である。
先づ姓渓数里各所の温泉部落には、夫々固有 も無いとの事である。その祭耕の如き、大己貴
縄特にして、その性質を異にしてをる温泉を有 所や少貴名紳でないことは勿論、全く温泉の中
声節点繹及び其響遽
粥3
一主六
の場合も矢張その本源に潮れば.渇泉そのもⅥ
天然集拝見び其誉蓮
に認めた翠ぢる湯の紳霊に外ならないのであ
∼紳窒の信仰に外h仏らなかつたと思ふ。それは
︵成型︶でノのると考へる、然るに堕原からほど速
之れが、日本各地の温泉神政のプロ▲トクイブ
をる天然崇祥に外ならない。卑見一で以てすれば、
らない、等しくアニミズムの信念の上に出奔て
は何千年の苛も文明の今日もたいして違って居
する天然崇拝に外ならないのである。その信仰
自然に接解して、そこから得てをつた温泉に射
が、其の大昔一卜翻って見れば是又失張天然崇拝
とに内務省の特撰紳名搬なせではなつてゐる
の朝廷と関係がゐ♭、時々位など一で授けられた
関係上、今日では大己貴少彦名の二紳と云ふこ
陸奥玉造の温泉両社の如きも有名で、早く京師
もの∼和室祭祀に外㌍﹀らへ仏かったと思はれる。
様に、又姪浜各所の温泉軸赴の楼に、温泉その
僻現に今白骨津の東山温泉に存する蕩泉痢赴の
ユセン
る。それは太古アニミスチックな、又朴素的に
からぬ那須の温泉に合†ると、之れは普から徐程
止、花泉洗河、其色血菜、加以画境谷塞、石
陸奥国号
の温泉神政に外へ与らへ㌧い事は、頗日本後紀の記
事からでも能く分かる、則ちその仁明紀に日く、
に、位階を奉られて一でるばかりで無く、中家物
其祭前は内務省の特撰紳名牒にも大己貴命少産
名命と出てをト清和天皇の貞貌五年と十一年
崩折同憂作新沼、沸馨如雷、如此奇怪.不可
能く知れ渡り、有名になつて一ピつたものと見え、
語や顔中盛衰記で御なじみの那須輿一の扇の的
膠計、併仰国司、二鎮謝炎異。人巷六、︶
蓬にいつの間にか大己貴、少彦名の二伸に習合
早くから大和民族の所帯穆設の影響を受けて、
炎異﹂で国司が其事に臭かつてをるのでも分か
ことは、前引照文の最後に在る.■﹁仇仰国司鏡謝
而て之れが段々京師の方面と交渉七重ぬて親元
玉造賽温泉、石神雷壁振、登校不
で有名な、ゆせん大明紳である。そこで之れは
されて仕舞ったものと思はれる。然し那須圃政
るが、仁明天皇の東和十年九月庚寅には、
奉授陸奥⋮⋮無位玉造温泉紳⋮・∴徒五位下︵績
日本鎮紀、二ニ.国史大系三の三田三頁︶
とあるにもて分かる。斯くして各地方々々の神
あをと同様で、みるが、延書式、∴紳各帳、豊後嘩
︵国史大系、十三の四∵一四︶り筑波山の男女二紳は
三七四︶
後記紀の伊弊諾伊藤男女二前に融合合外されt
任舞ったのでみるL同校の径路故知上告皿泉政
が次第に記紀所帯の紳砥と融合 敵は辿ってをると思ふ。︵特撰醐名喝
曇祥でJのつたと思ふ。それは伯者の大山が其
箱根両社の成立の如きも、元はあの駒岳の山嶽
武H2men−篤i
して行き、蓬に温泉の紳ならば大牢巫皆の神大
出自鉢大御岳であつたのと同様であると思ふ。
己貴紳少彦名所に同化されて行くのでふ∵る。之
を他の場合で例記すれば、常陸の筑波山が、そ
︵出雲風土記、栗田寛、標注古風土記の七頁︶箱
根駒岳が早︿から沸教思想の影響に由って彩色
され、箱根権現として現はれたものが、今日で
は記紀の所々である壇々杵奇、彦火々出見令、
木花暁耶姫食の三社を奉祀してぁる。如上は何
れもその炭化の経路を同じうし、筑波山でも箱
根でも常初は常山嶽崇拝の自然数に淵源してを
の昔は故栗田寛博士も、
=の桑研か滞舟二鱒三言蒜苛・し筑波男の神式波女ゆ紳ミ
正史にぁるな見る.へL︵標注常陸風土記︶
と云ひ、清和天皇の点観十二年八月二十八日の
毛も記紀の紳々に附託習合されてをらないので
天然発弾及び其蜃蓮
︼三七
る。これは恰も支部の山嶽崇拝の一例でぁる泰
とある、それは九州別府の坊主地獄山温泉又は
ホチホノ
山崇拝が、・後ちに泰山府君を生んだのと同二様
火山崇拝が延書式には単に火男火東和放であつ
て、翠ハ仏る地方々々の火山巣好況泉崇拝に止ト∴の趣がある。箱根の場合では、駒岳の山嶽崇拝
から出費して、一方では箱根権現の大赦と成bl
波女郎従同位上︵三代賓倣、一入。︶−
授常陸四位上筑波男紳正円位下、徒四位下筑
健に、
g83
天然崇拝及び英数蓮
捌 他方では現今の箱根町、畑宿、須婁の地方に於
ける駒形神社として残り、更に今日では、その
各駒形紳敢の祭醐を天之御中主軸と侍ふるに至
ったのである。是れ叉各地方の天然崇拝が記紀
所載の赫々と結付く経路を能く示してをると思
ふ。之を今陸奥の駒形醐放と対照して考へると
其経路が髄く窺はれるのである。則ち陸中の源
澤郡水澤町の図解小敵駒形醐敢の成立に裁て、
特撰紳名牒︵四七三︶は左の如く云ふ。日く
今按、敵将祭神大股紳と云ふは由なし、軌迩
〓ニ入
費してをることを述べてをるのである。矧や又
陸前団栗原郡栗駒村大字沼倉の駒形根の醐赴に
至れば、特撰紳名牒は、益その起源が山嶽崇拝の
自然数期に在ったこと一ぞ物語ってをる、臼く
今琴 赴侍木股紳に日本式令を配祭すと云ふ
木股紳疑はし、日本武舎は東征の時経歴し玉
へることあるに園て祭りたるならん、山を前
審菅栄めて、社殿の設無し云々︵四七こ
と。此記事は駒形根神赴の起源が山嶽の天然崇
拝に在ったことを能く吾人.に数へて呉れるもの
開塾志栗駒山勘形御社土人之空前駒山と云
であると思ふ。
ふ、山嶽いとさがしく、西は仙北、末は栗原
又彼の諸国の大国魂紳の生成も亦同様でぁつ
磐井の高山に跨る、絶頂を大日嶽と云ひ英次
て、初は各地各様の大国魂紳が存してをつたの
を駒形圭司竿腹に神岡あり、神馬赴と云、晩
であるが、凌ちに大和大国魂を始として、出婁
夏に至て宿雲消えす、其残雪の妖自ら奔馬の
の優勢を犬歯魂耐に融合坂一されて仕舞ったの
勢をなし、首尾耳立脚蹄の形を具ふ、故に駒
である、この事も亦既に故栗田博士も逓ペてを
形の稗ぁらと云ふ、されば駒形は山の名にて.
る楼〇
であ
〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 ら
〇れ〇
〇るが、その詳細は、此所では問庖
和名に非す、駒形にます山の耐なるべし
外でぁるから特に略して置く。
、箱根温泉の場合はどうかと云ふに、産喝宮
此記事は陸中の駒形紳赴も、山嶽崇輝に源を
.
タ▼ノ 下措辞、何れも熊野櫛現を錬成してを
碑つ
名て
牒、
が、出羽団西田川郡湯田川の郷赴由豆佐
一見温泉とは無閲係の如く見えるが、この熊乃
野頁神政に閲して輿へてをる記事からも、能く
は、山の軸の倍仰とも関係は有らうが、こゝで
追擬することが出魂る。日く
はどうも、ユヤの意味から凍てをる様に見える。
ユ乃
†東沖赴
由豆佐
今按、注進状に、祭神溝咋姫命とし、考記事
熊野︵湯や︶即ち温泉に外ならないと思ふ。即ち
伊豆三島の紳にます申
云ふは信がたし.さ
此熊野樟現の敢も元は温泉紳放であつたと思は を添て、由豆佐要所の由豆は伊豆に由あ7り、
れる。それは箱根山中各温泉部落に属してをつ 溝咋姫命は、事代ま前の嫡后にで、事代まは
タ▼ノ
た温泉の紳の祭祀に外ならないと考へる、−
命少彦名命三紳の御名を唱ふる例打7りと云
ユ十 日本では中音以凍熊野と書いて熊野と軍曹
せ豆佐頁醐は、いかなる頑ならんと思ふ
らさ
ば由
た例は、謡曲を初めとして粕普存してをる例で に、古書に赦さなければ、定めては云がたけ
れど、其前官の成嗣に申すに由豆賓紳、大巳貴
あると云ふことも牢記Lて罪く可き事賓であ
る。−要するに箱根山中の鹿湯、宮下、清澤の
〓ニ九
各温泉部落の熊野梯現は、各地方の温泉の潮で ひ、前赴のます地を湯田川と云ひ、其村は金
あつて、それは、捜原に於ては、門前、舌町、 峯山と云ふ山の西南の麓にして、温泉其山よ
頑渡月、薪湯等に在る温泉醐赴の祭神に外なら b馨して、此所に涌出る由なるは、大己貴少
ないのである。それが箱根では紳併混合の頂、 貴名二紳の温泉を如し玉ふ御功業を助けます
いつか熊野権現となり、祭神は記紀沖話の紳、 姫神にますを以て、軸名に由豆佐賓紳とは稀
須佐之男令とされでをるのではあるまいか。姑 へ奉れるならん、由豆は湯出にて、温泉の我
く記して後の考を待たう。如上の経路は、特撰 と聞ゆれば、香戟のま∼に稀へ奉りてあるべ
天然兵挿及び其蜃蓮
966
天然発祥及び共益謹
きなり。︵四八一頁︶
斯くして、各地方々々の天然崇拝であつた温
泉の紳は、温泉鷹治の線を以て、大己真綿少産
名紳に融合せられ、更に三島の構咋姫命を、こ
こに取り入れんとする有接が、如上の引照文か
ら能く分かると同時に、特撰碑名牒の正直なる
一因0
夫れ菅山⋮⋮・由ち伊豆山大権現⋮⋮:又走路大
而して更に此傾向は日本の信仰界が沸教影響
を受け入れた後に於ては、温泉の功カは翠に肉
林の疾病治癒に止らす、精神の汚垢を洗ひ辞め
る蛋の泉とな♭、心洗ふ清泉となつて現はれて
凍てをる。彼の伊豆山温泉の信仰が偶数化した
場合の如きその一例で一のる。元同温泉神政の別
雷職足湯山般若院の路線起なるものを謹むに、
如上の方面が能く云ひ鱒はされてをる、日く
ふ。僻此鮎を明にせんが食めに他の一例を加へ
霊泉
権現とも事故す⋮⋮・・八大の幽学ぎ開洞し裏の
編纂者が、その原型を自然崇拝の渦泉の神主認
めてをる鮎は、特に注目す可き事賓であると恩
るが、それは湯殿山硝敢の信仰であつて、その
役小角⋮⋮・・菅山へ凍傷するに.⋮・・⋮不思議に
宿癖を癒す、⋮⋮:文武天皇御字三年に、
成立全く上記由豆佐乃男前赴の信仰と同一経路
も海面に一個の金文浮ぶ英文に日く、
六根清浄
を辿ってをると思ふ。苫田来任博士の地名静香
沐浴罪城
︵下、四四六人︶は左の如く敢へてをる、日く
大恋心水
・⋮::役小角猫鈷杵を以て大地を敲けば、混々
整羽黒修験の徒・⋮⋮湯殿山を開く⋮⋮︰田川郡由豆佐の無
紳垢
⋮ 霞湯
・⋮同産ミな†可L、即ち熟泉湧出の奇岩に就きて之年祭慮
霊泉大に湧出す、今の伊豆山撒泉即ち是なり。
常識措きて間l‡す・して可花り︶
†、殿屋七丁し︵近時大巳貴少彦名前の祝わるほ、解法者の
積て山の加Tし。
風土将軍干⋮⋮深遠に熱湯の湧出るあり、是わ洪殿権以
現て
の共闘の油息を知る可きでぁる。
夜前き†、夏月諸国より参詣の人、五色の常を納め、散鎖
967
麻故に於ける祀弄像塵芥凝等に論及し雨着の関
た印度数の精随を採ったものとして、西戎の嘲
倒味敦と畳茶尿
係をも論過してをるが、私はいま氏の設に従っ
行
西寂の嘲嚇数が宗数的儀殖や宗教的行事の対
て西減の鹿祥像︵R已什bi−d︶や塵茶雁に鶉て述べ、
箕
象として畳茶羅を用ひてゐることは誰も知る所
最近畢者の注目したジャケァのポロブドル︵野rO
斐
である。勿論点茶鹿は我国に於ても多く作られ
て宗教的儀廼の対象として、食費せられたので
甲
あるが、西戎に於ては、其の闊の係数が秘密放
出ud弓︶に就ても考へて見たいと思ふ。
崇挿せられたのでぁる。だから見るからに恐ろ
て所蔵を降伏せしめ、己が意の僅に騙櫨して其
的嘘罪の対象とした外にヤントラへY邑rp︶を以
タン!フ︵ぎntrp︶文単に於ては藤井像を宗教
であるために種々紳怪不可思識な、一見併致の
Lほじん しい印度数の翻なる提琴紳に範を取ったやうな
の恩寵一ど乞ひ求むることが出発るものと考へて
題邦像では触⋮いような祀拝像とともに鼻茶羅も
軸像を薄井とするかたはら、偽致特有の日本に
ゐた。つ阜チりヤソ!フを兇術景ugieの用に供し
in
︼四一
って以て一切紳砥の恩寵を乞ふ所以のものでめ
債l
にt
封b
す監
る生命︵Jiヨ︶の如くーヤソトラはよ
Hロdisc訂n 内
只u
ゐたのであつて、恰も燈火に注ぐ油の如く、
Nimmeて
r︶
も見られるやうな紳秘的鼻茶毘を崇拝してゐる
YOgP
のである。昨年チンマー氏︵Heinricb
は何百告ごr日巨d
といふ一書を著はし、印度に於て鎮世に殴達し
嘱︳致ミ里美縫
988
媚*数ミ豊美鑓
ったのである。
一日〓
無いが、此の際鰻丼せられた神像は直ちに確定
上の目的を適せしめ得ることや妻帯.健際を得
ン!フのことに及びそれが人をして地上及び天
二章には密兄︵試買trP︶の効用を説き、更にヤ
ー︵内崇・d弓g抑︶として蔚現し戒葬者の身中に入
具健的には温婆如︵9ヨ︶の兜のカータードルガ
力︵Pr首胃管keとして正成せられるがそれは
第三十三昧に入った鹿評者の心象に映じて、紳の生命
せしむることや、頭痛傷害盗難七からしめ、並
♭利益をなすと考へられてゐた。故に其の女紳
の要は﹁昇れる太陽のやうに輝き亘♭、三版を
具足し噺脅智有し、血海中の一つの舟の中にみ
故にたとへば 吋旨ppPぜ賢甲声ntrp
得せしむること、又此れによりて紳の生命力の
る紅蓮上に坐し、其の手には槍.甘應製の弓を
びに王侯の寵愛と要の愛と地上一切の権力とを
加柿︵Pa琶−pr註洛b賢p︶さへも仰ぐことが出水
である。之正しくカータードルガ一女軸の戦場
に於ける武装に外ならぬのである。
締ってゐる︵ヮ眉P喜一邑守ぎ㌢p回国掃く.可︶の
くしてヤソトラの功カにエりて其の軸の恩寵を
けれどもヤソトラは必ずしも兄術のにみ用ひ
ることを述べてゐる。故にヤソトラを重いて紳
像に兄廟するや何等それを鹿拝する所以では無
兇威するもので、重く兄術的試鼠仇OFで一のる。
より成るもの︵m呂tr害毒l
i已︶でぁる﹂とさへい
に紳を憶念せねばならない。それで﹁癖は凍児
愛児又は眞言飢こ▼ソトラ崇呂trpを唱へて心中
こともめる。たとへば前拳のクソトラに既に之
を語ってゐるが、此の際には頑を象徴的に表す
故にR巴i邑芦l苧ぎntrp︶つHH・¢にも﹁人はカリ られるも.のでは無い。祓挿︵ヨ菅︶の対象となる
時代にはヤソトラを以て藤井︵ヨ菅︶をなすペか
らす。是に際して人若しヤソトラを重かば効果
無かるべし﹂と規定してゐるのである。
故にヤソ、こフによりて紳の生命力の加持を仰
ぐことはやはり兄術的であることはいふまでも
969
はれて居るやうにマントラを諭し前を憶念する
所に紳の姿を心中に現するのであリQ。
碑定︵dl︸でlロp︶も亦マントラやヤソトラと同
様のカを有する修行、儀慮の一でぁつて心を一
墳に集注せしめて一痢を封象として之に向つて
覿行を凍らすことである。
然して氏は秘密数殊に西戎の嘲嚇敦に行はれ
て居る鼻茶羅を以て、輝定とヤソトテの関係を
訣別するものであるとし、鼻茶羅は印度に行は
れた傭数的タントラ即ち秘密敦に属するもので
正統の係数に行はれたものではなく、多く印度
敢の混婆痢崇拝に其の範を取って作製せられた
ては詳細に諭じて居るつまりLリであるが、かへっ
とを諭記してゐるが、東洋思想に練達い民とし
前足の三を拳げて其の同一性贋のものであるこ
は理解し得られないが、要するに星茶雇は、藤
茶経であるとは氏の意見であるが、たゞ之だけ
であつてこれ以上何等訣明が無いから徹底的に
踵克とヤソーラとの関係を澄明するものが鼻
ものであるといつ.てゐる。
て列すにくい設明となり終ったやうに思はれる。
定の対象として恰も一神像や一偽像が観念の対
チソヤー氏はかくの如くヤソトラ、マントラ、
ヤシトラが兇術的に用ひられでも藤井に用ひら
如く、諸紳誇彿勧請新請の役目を演じて前述の
なり得るとともに、長英羅は風致と辞せらる∼
象として三昧に入らしめるやうに藤定の対象と
鮎が
い。.而して又それは愛児︵害呂trp︶を唱へて紳を
ヤソト一㍗を効用をなすものであると云ふのでは
心中に顕現せしめるものであ了Qことは同じ
れても、やはら紳を念じ、耗想専念の中に沖の
念じたのと藤定に入って醐を念じたのとも全く
なからうか。
9抑β打rp芦mb11腎守
︼匝三
﹂P已rpといふのがある。此のクソトラの現す朗
嘲囁敦のタントラ中に
同じ心理的現象の活動であると考へて差支は無
いからヤソトラ、碑定、密兇は同一宗教的作用
を有すると考へられるであらう。
射︳歓ミ豊姦■
ノ
暮t畿ミ土きlI
望已1ジ.2k−−2
では此のカ
一回団
︵手︼︻ti︶に細管する
上の性に従って居る。かくの如︿休憩で捏輿般
若慈悲を象徴するものは印度数ではカを象徴し
に於てはヤソトラの中央に之を立てゝ鰻丼する
岩戸試買k︼一Pの銅像はC訂已ハr守許mb11巴卓上ダ已rP
合髄の紳象を以て象徴的に此の矛盾せる傭致の
陰紳を以て経費及び之に到る般若︵Pr萱P︶や其
教理を表はさんとしたのも皆然である。
の方便とLての慈悲︵吊弓u首︶を表すが皆文法
に途は無い。剰嚇故に於て、彗al−抑芸kl一pの陰陽
するが其畢茸目的は提柴に超人するに在る。而 然して、提琴紳の棲も印度致の数理の中の紳
の世界流出設を象徴的に詮したものでぁつて、
して捏柴は名色の現象界を峯じたる併に現るる
紳が世界を其の身より流出せしむる時に、
は初
賓在界本懐界であるから其の否定的表現として
めに其の創造力としてのカ︵㌣ti︶を生する。此
挙ぞ以て友接しても差支は無い。故に捏真を現
のカは紳と不帥不舵の関係にあつて、碑が娯楽
すに峯を以てするのである。然るに輪廻の世界
は之に反して有の世界であり理象の世界でぁ ︵li−ヱ の焉に洗出した世界を作ろ可僕牲ともい
ふべきものである。而して文法上の性に従って
る。此の有と峯と論理的に矛盾した概念を一物
紳像に於ても陰紳を以て茨はして居る。
象に表はすには象徴的表現の方法によるより外
抑々倍数の稔伽の行者YOgillは礎定三昧を修 作製した所の紳像である。
となし、西燕の嘲味敦では之を巴?呂0どgと耕
は印度致の数理と何等異ることは無く浪婆紳と
して峯なるもの︵膏コ誓−エの象徴であり係数的
カーリードルガ一女紳とは、係数荘典でぁるに
にの
いへば金剛身を象徴したもので、.いづれも印
拘らす、屡、現はれて居るのであるから印度教
度数の撮婆紳とカーリードルガ一女紳との合髄
惑丼倣を理解せんが虜めには、是非とも刷味数
を理解せねばならぬとは氏の見解である。 の像より舜化したもの、寧ろ範をそれにとつて
970
971
之を亦印度数的にいへば、水は梵天を象徴とし
てゐる。
然るに先きに捏柴を詮すに寧﹃以てするとい たものとも考へられる。梵天が或は大自在天
ったが、浬柴を僚現したものは偽陀であるから ︵i巾ヨrp︶となーり或は人間ともなることが出凍る
彿陀も亦垂に外ならぬ。傭陀が客であれば其の のは水が様々に鮭を捷へて然かも何等本質を章
三身亦垂でなければならぬ。故に峯を以て金剛 せぬに等しいのである。故に卵塊敦の豊茶匙に
身を表すといつたが、畢克印度数的に云へばカ 於ては団の下方に水没を示して上部には要を憲
き、水が本質を鼻せすして波や要に其の態を壁
︵唱kti︶が彿陀や此の金剛身以下の三身を詮すも
じ得ること曽現して準身のいかなる慾に挺する
のといはれるのである。金剛身︵﹂且ra⊥ハ抑yp︶は
も其の法性としての本質の鼻化なきことを象緻
的身
に詮したのである。︵口玲参照︶
化身︵nirm甘守k考p︶の二慈は法
或は法身︵d︸−賀冒女官︶ともいひ之受用身︵讐訃
bb虐守k糾yp︶
かくの如き象徴固としての嘲鰊致の畳茶屋の
より洗出したもので此の三は常備陀の三方南を
表したものであつて、悟界よりは一切は偽陀一 中央には八乗の蓮華の中央に一坐像の係空不し
切は淫楽とも観じてもよいのである。而して金 てゐる。八菓は四方︵東西南北︶及び四粧の八方
−凹五
剛身は一切時一切所に於て些の襲化なく湛然た 向を詮其の周囲の正方形の形の四方は地水火風
るものであつて例解致の虔茶雇に於てむ水を以 の四大・で詮してゐる。
て之を象徴し、水が或は波と打アり水泡とへ与ら雲以上は嘲琳教の畳茶雇の構固であるがロ綿に
となり様々に其の鰻を童へても水たるの性質を 示す通bであるから詳細の説明を略し、唯それ
座せぬやうに法身はいかに憩を襲へることも出 がヤソトラと藤定とに密接なる関係を有するこ
家ることを明瞭に示してゐるのである。而して とを記憶すれば足りるのである。
︳ヰ敢ミ貴書l
︳♯牧草量茶麓
僻此の外に嘲味故に於て此の鼻茶毘と儀蕗に
れた票数的儀虐を見なければ詮明し待ないやう
なこともぁるから、これ位にかセづけて、私は
理解しにくく賓際の商務に於て之等を以て行は
茶凍や神像や一官設明したが此等は象徴的でふTク
以上私はチソマー氏に従って西藤嘲陥敦の畳
の紳像も賂之と同じ災の光背を負うてゐる。
て作られた光背を背後に負うてゐるが西蕨の此
てゐる。而して印度故に於て混婆赫は大低炎以
客の義を示す等各儀軌として常夫々意義を表し
十二田練を象徴してゐる。文事に持っ金剛杵は
色無色の三界を僻撤してゐる。厩は十二本あアワ
顔面には三つの限を有し以て過現未の三世と愁
各左より右に線色より次第に黄色に彩られ、各
の四無量心を表す。額は青く後頭部ほ赤く顔ほ
四つふγりて、四大︵地水火風︶を表し、又慈悲喜捨
真数理を象徴的に表現した神像であるが、頭は
言せねばならぬ。そは前に述べた通b、併致の畢
併せ用ひる慧封引打F垂聾賓に就て一
g72
一匹六
ジ†バのガロブドルに裁て氏の詭明を述べやう。
ジャバのガロブドル︵詳rO出ud焉︶は一つの大
なる畳茶歴と見ることが出凍る。即ち卒面的な
鼻茶荘を立健的にしたものも見ることが出水る
のである。ボルブドルの基址は正方形では無く
ヤソトラや鼻茶蓬の中央彿像をとり囲む八真の
蓮華のある固形の周囲の正方形のやうに突出し
たものであつて然かも非常に復水なる形をなし
てゐるのである。而してボルブドルは儲蘭島に
於ける諸塔のやうに、往昔沸教の隆盛であつた
時に、登場として巡線名の足をとどめ感井供養
を怠ら無かった道場でぁつたらしいのである。
く0
氏は此の外にポロブドルの構造に裁ていろい
ろ詭明を試みてゐるが私は此等の紹介を略し、
たゞポⅤブドルと鼻茶屋との開係をのペて、そ
れが南海に於ける密教隆盛の跡を示すものとし
て重大なる意義を有することだけ附言してお
973
フ.ランスに於ける印度挙の現況
田
義
英
はフーセー︵ぎ宍−蜃︶博士、印度言語畢専門の
本
一部の例外は之を認めるとして先づ一般的に
現時彿囲印度単音の依って立てる態度が、習畢
携はらんとし漸くその位置が認められつ∼ある
博士、之に配するに、ペリオ︵穿仁i象︶、マスベロ
は勿論云々の批評があるがクールゼル︵○弓乳︶
ビジルスキ︵㌘童−ロ∽ki︶博士、暫畢の方面に於て
ブロック︵厨︼OeF︶博士、主として偶数言語畢に
畢のフィノー︵句i−邑︶博士−美術の方面に於て
的とか或は思想的とか所謂教義上の立場から印
度畢の各部門を組織しやとするよりも、掌ろ言
語畢並に譜除の背景を調査して部分的に深く資
料の究明を行はうとする傾向でぁト態度である
事は何人も首肯するところであらう。
博士を奉げねばならない。印度畢専門ではない
下日本へ出張中のシルケン・レ非︵S号邑ラビ註.︶
畢生般に亘る大立物としては言ふまで一もなく目
館、ギノー博物館等幾多の資料を有する幾多の
接間接印度拳界に交渉を有し︰外には国民国書
或は支那畢に或は西叔畢に専念するあつで、直
メコー︵出昌t︶、グルー七−︵Gr。β驚t︶諸博士が
︵已訂per〇︶、グラネー︵Gr呂且、アツタソ︵冒邑︻i−1︶
が併しこの方面で軌過してはならない人に、現
蘭書館、博物館一曾擁し−巴里を中心とする傭囲
先つ督地印度畢界の陣容を考へて見る、印度
代に於けろ比較言語畢者として欧湘畢界に雄飛
印度畢界は兎に角その陣容見るペきものがある
一回七
せるメイエー︵試駐−eオ︶博士がある.梵巴悌敏文
フ’ンスに於ける印度事¢現況
フランスに於ける印度畢の現洩
と信する。
レギ博士に裁てはこ∼に私が蛇足を加へる必
要もないと思ふが、博士が約四十年前訂TFか賢e
E七戸de
一四八
d乃00d宍戸men︷sすkF買iens dの訂せ巳乳
t訂内乱︼邑rP甥初︶−宍戸
ヽ
︰才−−iOt−−芝−.
へへIbぎkhPrie日登二呂g莞dekO仁邑︼p︶−讐P
邑igiOn仇dの
等は言ふに及ばず、その題名が比較的一般的な
et−c仇
票数、殊に沸教の方面等あらゆる部門に亘つで
d岳re−igiO−1a
ものであると思はれる論文書述、
Fp賢e−岩e
ーーHnde︶−00りP
︼1ind011C仇︶−3−●
SPCエロ語合−−S−畠野巴巨岩a肋−
訂d邑rine
どら唐風−8甲00●
d声
る。併しながら私共から考へで見る場今博士
Fptr呂S−⋮gratiundcmAm2∽d呂S−e芸reypl
らうと思ふ。今汗牛充棟も曹ならぬ博士の著述
﹃a・罵ye−−e什誓か・︵︼rPまdien︶−琵P
等にしても、明かに博士の軽度が言語畢的であ
H已Or声m−︼芸〇.
宅0訂2r−袋]Fd?哲ま訂︶−00笥●
tF2iロ∽Cript
O−巳
︻rOgr針de−、i−乙i書い∽me、−諾P
di
賀∽
つ○
仇p
r詔℃邑iゴ読▲計戒]巧已■iO宏OCつiden邑虫
る寧を詮し、
On苦meす巳emp−Oy乱in
讐s
声 P罵︷Ⅵ
.HFe舛F弓0のどri弓ritig呂di︷mcrPd−2︼−訂
Aロeienn袋i巳erip江○巳dロ甥甘e︼こ苫P
の已d訂Gra軋仇霊terβm
論文乃至細評からその幾分の一を馨げて見る。
−00¢加.
がその依って行はれた研究のま要背景が先つ言
語畢であつたと言ふ串は否定し難いところであ
射しては先つ敬意を表せすばなるまい、博士の
携はられた部門はかくの如く賓に多方面であ
畢界に貫献せられ、またせられつ1あ卑努力に
画せられてより以凍、印度の文畢、史軍営軍
eと
註S
2て
誇r毯
i訂d竺ピ呂白エle声呂gこ曽−●
iロ訣en、−00冨、を公にせられ印度畢H者
し
974
975
や最近本誌上に既に紹介された上記憶する近著
渋って居るといふ事は何人もこれを認めねばな
らぬところであらう。これは私が昨畢年度ツル
F−訂de乳−e試Onde︶−悪声
已p訂¥月守S賢邑P邑ハ到rp︶−苫ナ〓.
に教義的方面に於ては特に然♭であらう、併し
は時に多少の灘鮎も費見せらる∼であらう。殊
語の際にも得た戚じでぁる。勿論傍英に就ては
私共支那謬に親しみ得る便宜をより以上に有す
るものから見れば、博士の解滞並にその結論に
等は比較的手柔らかいものであるが、併しその
ボンヌに親しく博士の講義に会し.諸種偽典詩
を初めとし、小にしては
誓Aprp日糾d守く胃管、−己柏.
近くは
つ菅眉ti日P.首鼠抑Siddri、−諾u.
一日九
等に於てもその校訂出版乃至御謬の背景には前
その遭鮎に依って博士を責める事はそれは酷で
に奉げた詩論文に於けると同様に博士の偉大な
ある、私共は博士の厳粛なる線度に敬意を表し、
る言語畢的能力を認めすには居れない事は今更
その用意周到なる立論に傾払L、そして絹ふペ
こゝに贅言を須ゆ畠の要もなからう。以上博士
きものあらば之を補ひ、正すべきは正し.開拓す
の幾多の書評論文中から僅かに数部を奉げたに
べきは更に開拓せねば︷仏らねのが私共の責務で
過ぎぬが、それ等の内容を窺って概婚約に考へ
なくてはならない、殊に政義の方面に於てはそ
て見ると、その一般的たると特殊的たるとを諭
れは日本倍数聾者覇特の畢田であらうと思ふ。
せす、またその論文たると校訂たると耕たまた
併しこ1では唯博士の鰻度が言語畢的でみる串
その詔謬にるとを問はす、兎に角至極厳粛なぇ
を言へば足りるので除談を避ける。
言語拳約批判の線度に出で、一句も之を忽かせ メィエー博士が直接の印度単著でない事は前
にしないといふ博士の異型なる精神がその中に
にも言ったが、併し所謂廣義の印度畢を研究す
フランスlこ於ける印度畢¢現況
フヲンスに於ける印度草の現況
るために主要なる言語畢的常食を典へられつゝ
ある畢者として敬服するに何人も躊措しないで
あらう。今博士の論文内容に就て之を紹介する
の時を有せぬのが邁城であるが、これ亦幾多の
en
著書論文中砂くも廣鶉の印度学研究のために一
瞥を投するの要あらと忍むるものに、
一日d?irP2.9︶︼00冨●
S弓 ︼e故 買宗駕功霊rb呂H∽gO已乱re∽
e弓増訂−、︼冨P
F認d㌻−邑忌i已?e弓Cp訂n切︶−冒00●
一五〇
の如きもー管して差支のないものだと思ふ。各
論文通じて競って居る該悸なる比較言語学上の
立論には慾喫に偏するものがある和魂に舌代改
新と舌代印度との言語畢的関係に造詣探き博士
の観察が殆んど直接に現時偶因印度単著に大な
る稗益を奥へ畢界を賑はして居る現状は眉に羨
望の極みである。博士本畢年度の講義粗目が
粥袋2n
せe−p
dO.mOt∞︼−Oll≦岩内d呂00一
ind?2弓Op訂2
crかPtiOn
−8日gu2Sind?e弓Opかe冒e00・
ir呂iかー1日e.
mpPr訂・
F呂讐e
訂泣虫
tir訂de−、A≦紡ぎ
∽・訂ngu2肋ind?e弓Op野呂勺S︰Gr昌m乱re守
ド
in
?冒lp詳巨註OndenCmヱ⋮1コuSdeSu
ーd・
訂∞nOn扁−−岳−岩習eニnd含弓Op訂nn袋1rOヨ訂
enト軋e9−1t邑e、−¢−P
P
q戸許gment官財訂rie−1dロゴロPypd金S宅急?
江忌已臼わー一望桓
de
等であつた事もこ∼に附け加へて置いてよから
一誌○乱乳ne00ind言弓Op野口口金de∽mかtre伍−−器∽
. せすーic註On
P
.−慧戸
GrP日日pirのd亡・JJ.2日内層r希、−三戸
うと思ふ。
TrO訂gnfかre臼C岳2r︼金︵封t−一抑d2−−A扇ぎ
フィノー博士がまた言語畢中心の畢着である
事は博士の専門がまとして梵巴沸教文単に在る
等があわ、例ほ
978
に依って知らるペく、その本年度の講義題目も
︼・国眉li邑iC;d﹀i臼Serip許巳d仁
Fp
Il冨已i蒜eni−乙?弓ヨ卓−琵−・
Cpmb乱g
eあ
・ るに依っても知れる如く、印度言語畢史
等
が
の上に深奥なる顧慮を誹って居る人であり、現
ド ロP−i七宗訂lul・ep巴ieen Hnd?e−︼i臼e●
ブヲンスにこ於けろ印度拳¢親臨
Fp pl−r罵ヒOmin已eenS鯵罵りit−−害声
.苫leur
dロP弓家t
︼五−
d昌S訂一首mn畠雲d官窃、
等であり、僻は外にアブダーナ文畢をも講せら に本尊年度に於ても東洋語畢校に於て印度現代
れたが、その結果から見ても博士の言語畢中心 語を講すると同時にツルボンヌに於ては梨倶吠
ま義の線度が窺はれる。
陀を講読されたのである。一見直ちに篤畢の士
フーセ一博士は人も知る如く印度美術の方面 だと窺はれる眼光を備へた人である。その現代
に於ける一様成であ・つて 他の諸畢老の様に言語を講するに皆ってもその背景を或は地理に或
語畢中心の単著ではない様だが、併し昨年海外 は歴史に或は人類畢と言った様に深く之を求め、
出張から綜備後ツルガンヌで、バーニニの文典 堂々の陣を張ってその現代語の成立並に政務を
を謂せられたなど、一寸珍とすべきであるばか 説き殆んど應接に追なからしめる観がぁる。時
りでなく、博士も亦言語畢方面に深甚の考慮を に現代語の中に近代欺翻語殊に英語等の影響一で
加へて居られる事が、その一事に依ってすら想 受けたるものめるを螢見する時など、印度の言
像されるのであ一〇。
語として痛恨の至りとなし、拾々之を論評する
レガ博士とはその専門の上に多少の相違はあ 所などたしかに一箇熱烈なる印度言語畢着たる
るが併し同博士系統の印度畢者に私共はブロッ を想観せしむるものがめる。をの門下とも見る
ク悼士を見出すのである。博士の専門はまとし ペきルヌー︵Reロ2︶博士が徹頭徹尾印度言語学
て印度現代語であるが、併しその論文中に
史に周到なる用意・曾彿って著はした一書 こト
977
978
フヲyスlこ於ける印度草の現況
−諾P。をその師ブロック博士に捧げたるが如き、
誠に所以めトとさへ思はれるのである。
︼五二
などよ♭察すると、たしかにこの方面に於て婿
凍のぁる人だと見て差支がなからうと思ふ。ブ
るならば、ビジルスキ博士は寄ろメイニー博士
ロック博士を著しレガ博士系統の人だ圭一1日ひ得
い様だが、併し三円壮挙者として漸次その位置
の系統に近い人だと言ひ待やう。ビジルスキ博
ビジルスキ博士はブロック博士ほどの熟は無
を重からしめつ∼ある人で、博士の著評論文中
l由m℃ere弓AでkP、−諾㌢
de−−Hロd?CE莞.
HntrOduc許n=−賢decOmpPr
を講じ、ツルボンヌに於ては
訂parinir吉l官e〓認]2已ぎ邑−e辺dロ]野呂乙dぎ︶士本畢年度の講義は束洋語各校に於ては安南語
−口和〇.
Fp−おe−︼dede
の外、たしか梵文H≒でC弓iどをも試せられた
Empru已sS買¥宏e−こコd?雪ye−︼,−諾P
と聞く。現にツルガンヌに於けろ係数言語畢講
座bの
授である。
du冒且pb︰ト歪已d仁日
弓教
P、
遜色めるを免れす、又最近草せらた
peロple
等も他の詩情士の名著に比すれば固とよ▼り多少
q巨 岩Cieロ
印度塾界に直接間接交渉はあるが、併し前に
揚げた支那畢、西戎畢等関係の諸単著に就ては
−浩戸
も珍資料を扱ったものとして一寸興を惹くが、
こゝに述べる事を差し経え接い。
くとして、要するーこ=ろレ好博士を撃頭として
以上述べ凍たったところ頗る無敗乾燥な筋審
時には奇警に走らんとする傾向を有する彿国学
風の短所が見えないでもなく、その立論には覇
ほ相苦の難鮎も見受けるのである。併し若し博
士がその短所一で避けるに努めるならば、その温
現時に於ける彿封印度聾者中代表的な人々が、
に過ぎない事を残念に田心ふが、それは許して頂
厚にして言語学的背景一ぞ令室する精神の葺き鮎
979
それは要するに部分的に止ÅaLリ、一箱の組諭さ
その何れの部門に於ても兎に角印度挙を取ら扱へば帥ち数量上から観察して之Jで組托するとい
ふに際して先づ第一に言語畢をその基礎條件と
ふ碍働が自然比較的手遅れになぇといふ革も免
して居る事は何人にも想寮されやう。勿論をこ
れ難いところであろ。勿論レ昇博士初め請畢衷
には幾多諮件の背景的條伴がある串も認めねば
の部分的な餅究は之を見る串が猥雑るが、併し
ならぬが.何と言っても言語畢的智讃がその基
慮しながら、それんしtlの方面に於ける資料に珠
のがあるであらうと思はれる。現峠この方而に
S㌻・︶博士を拉致し凍らば頚上更に花を涜ゆ一〇も
礎的な中心使件になつて居る事は否定し難から
れたものとして見る事は国雄往緑である、この
ぅ。換言すれば現時に於ける傭闊印度畢は言語 に於て同とより多少の群鮎もめるであらうが
鮎
畢を中心とし基礎とした諸鎗の背景的條件を顧
併し白団の項畢グレー。ブーケソ︵ぺ乙志e=買手
き批判を加へつ∼ある時代だとも言ひ得やう。
yOg鰐.C≒.2抄Pll−ぢ.釦−1Pで・邑d訂叶−︸乙2
随って彿図現時の印度畢一般の趨勢を以て所謂
於て巴里を中心とした偽団印度畢界では僅かに
廻りくどいものだとなす非難も起るのであるが
クールゼル博士がツルボンヌで
それもー應は普然な拳だと思ふ位賓は廻トくど Hi∽註re de−Pこ㌫dO的訂indieロne●
いのであ一匂、併しその週♭くどい串が可か否か
、 r毒p弓叶辺 C已re l急 ぎ〇訂巨邑︼qP邑︼r・一e什
訂旺
それはこ∼で論じ皮くない。
e−己︼e−
︼五三
上述の様な状態から考へると、原義に於ける
等の題目を掲げて講危を蔽っては居るが、かの
印度軍の或る部門、例へばその哲学的方南とか、
Esq2莞d−ul露−1i賢i詔 d︿こぃ↑音譜8冨岩.i−1︿デ
−浩声
或は宗数寧的方面とか、乃至は偽故に於ても、
それを或は背畢的に、或は思想的に、一口に言
の著者である博士に、果して中甑玲伽丙畢汲の
フヲンスに於ける印度拳¢現況
9う0
が併し、勿論人にもよる串でぁらうが、大髄上
のに托し、除ら評判がよろしく互いのである。
義は不幸にしてその著書と同按に.他の諸畢者
や、これは頗る疑問だと思ふが、現に博士の講
関係論や、或は又大乗起信諭が理解さる∼や否
勿論それは国民性の食らしむるところだと一口
に言って結へばそれまでの事であるが、私はそ
かる畢凪が果して何物に依って醸成されたか、
料批判の畢風、その可否は今別Jして、一倍か
も待たねばならぬと言った廻りくどい一々の資
,ぐ・・完全なる組織の彼岸へ達すペく珊勒の世で
−五四
から考へて、現時に於ける彿図印度畢界の傾向
の具髄的原動力のま要螢源髄を垂として稀代の
フランスに於ける即座拳¢現況
なら超勢打てりでは或は止むを得ない現象である
畢匠ユーゼソ・ビュルヌフ︵Eugかne申告−−○乾︶に
見出し度いのである。
のかも知れない。
由是軌之、二三の小事例は之を例外として、
ビュルヌフ畢匠がその不出世の天真と不断の
らに言語邸を令重し過ぎる結果他を廟みるの連
ばならない幾多の長所もめれば、また同時に紛
之に依って印度寧研究の背景を示し、更に又直
エスクに投げられ前人未到の填を拓・き、同時に
喋たるものであつた。併し東洋単に封する錬れ
の識見と俊敏にして蛾烈なる眼光はゼソド・ア
努力とに依って開拓の手を染めた学田は質に炭
なく時には奇警な結論を誘潰するといふ短所が
接印度単に交渉してはブラーナの研究、法華経
の時代にあると言へやう。こ∼に私共の畢ばね
倖はぬでもないのである。この鮎は特に注意を
の研究、備数史の検討等に於ても亦一世を放か
概括的に考察を下す場合、傍観現時の印度畢界
は前にも言った楼に、つまり厳密なる資料批判
要すると息ふ。
さて、然らば現時に於けるか∼る畢風と言ふ
か、傾向と言ふか、即ちあらゆる部門に於てそれ
殊に印度畢の畢租として畢匠を仰ぐ所以のもの
さないものはなかったのである。傭国東洋学、
.
981
貰に串皆然に屈する。彼れ生年僅かに三十三歳、
前人未到の畢田を開拓して之を世に示した不朽
時価囲の印度単著亦彼れ畢匠の遺業を粒承し.
その遺風を朗彰し.愈々益々資料批判の手を戯
く且っ深く延ばさんとせるものであると見て何
の姜支があらうか。
偽囲現時の印度畢界の趨勢一般が、除♭に言
語畢的で廻りくどいとの非難に射し、彿固畢者
が常に﹁有年、盲五十年を待て﹂といふのを聞
くが、これは彼等の所謂負け惜しみとして開く
べきであらうか。或はヌ第二ビュルヌフの出現
を期待し熱願せる衷心よりの叫として開くペき
であらうか、之は読者の華列に法り度いと思ふ。
たゞ私共はその長所と信する所を畢び度いので
あつて、彼れ是れ諭縫しやうとするのでないか
の大傑作へへ訂.誓召pこ00∽∽、、の一鳶既によく之
研究の跡を彼れ血涙の手記幾干す頁に之を見ん
ら、こ∼らで筆を掬いた方が穏嘗であらう、乱
一度巴里図民国書館に足を運び、彼れ畢匠が
玉の名著を併せ見るに於てをや。
を費奮せしむるものがある。汲んや他の等身金
るところである、へへ訂Yぶnp、−の一宏既に後人
印度畢界の趨勢と併せ考へれば到底否定し得ぎ
殆んど偉統的に侍はつて居る事は、現時彿固の
ったにしても兎に角現時に到るまでその遺風が
を碓群に物語るものと言へやう。該者世に出で
て既に九十徐年、爾恋勿論時には強弱の差はめ
か、その苦心惨憺の跡襟を正さすして之を見る
文妄言共に多謝。
︼五五
︵フランス、サンセルマンの寓居にて︶
挙が出水ない。而して現にあ刊されて居る彼れ
の著啓とそれ等手記と一ぜ比較し.彼れが一審を
あにする慣裁に纏めるまでの研究の篠路を探ら
んか、畢匠の両日労務として現はれ、後人を策
励して止まざるものめるを愛ゆるのである。現
フランスに於けろ印度翠の現洩
9S::
新 刊 紹
新 刊
介
紹
とl与=トつ11呂−憎・
サ
⊇Hlでノ乞阜貰ハぎm・︵A
P邑−琶nP
O↓出乳・
HHくlリマJヱ盲ntP己Sng已Pヨ・︼呂㌢
首巨−ハPノIi″㌢c旨m昌雷ユ
氏ハウヰンテルニフツの門下で氏が嘗て過然ヂヤンクマ
ンガラりバーリヤ人相誇舘で賛見し㍗、需本むり帥の助言
lこより出版・し㍗もりでわ・〃、=れで印度の創lこ闘する文献
R●
が一つ唱え人卜訴に光ろ。
︼︺ぎ己弓k弓−P
已ni記説t﹃○へP︼c已tP、︼箆㌢
h㌃︶︸ハP︵ゴleC罵日i邑一転t弓e00︶
バングルカル氏の有名光る研究で一九二lニ年のカルシカ
ル講和で阿育王り柑文l二より.て其の一代の行跡ふ年代的lこ
研究乍しもりでぁろ。
ロ宣ぎJ●
︼五六
ケルケ.コールに人も知ろ北枚り発憤者、ハーゲルに出駿
モの軌⋮ミ理智ヾ−に傾倒・し主著き哲壁者がぁつ圭。彼の宗教
︺て︰れにあき上らす無限の人生を東成・し主人、腎囲にも
論に於ても亦その説異に・して捉lミれざろ研究lこ沌目†べ皐
著者ほケルケ.コールを理解ぜろ鮎に於て第一人前でわろ
もりがわる。
られる面目でぁろうー伺ほ内容に溌てlェケルケ.コールの教
ミにステファンの青菜、難解光る彼の思想の核心を捉へ衆
れる鮎ミ研究上のトピックの州架頃ほ背者によりて始めて縛
理覿を給C、次には彼の宗軟風想敬展の経路み明かlニLて
ゴールに於け一つ啓示ミ毘史、及びルタノのM綽及慰軌、信仰
罪、信仰、紳の表象及びクリスト故に於けろ紳ご人ミの闘
係に耽て述べて居ろ、最後にヘーゲル宗秋暫や及びケルケ
覿より見tろケルケゴールの教理飯石付Lて居るが注目†
べき論文でぁる。
カわーigiO−−S31C訂−Ogie・
GrueFn︶﹂く●
旨﹁邑昌−︼誓声
侶値ヾ−いふ間罵が心理撃の間規子して賞翰的に設衷ぜら
者ダウユーエンである。ロ監
Weユeユ2bnぎE5.e 邑宣・
思ふが︰れむ宗教心理の方侶に通用・した人代貸lこ本章の著
iハiclk2gP乙sd品日算許FeA已C−−22−∽⋮〓一rつ1一︸れ上のにハーリングの著作でわム.一九〓ニ年でわつ㍗寸J
¢賢e邑○ア︼詑↓.
g華l−i㌢tliつ︼12︼−N己P岩me已1昌g
g83
岩挙が帥ちそれで既lニー般心曜拳昇り縫目な惹いた著作
呂等身身嘗訂ぎ穿−亀仔ちぎ星碧:ぎ星百
でぁつ㌣。因みl︰彼は昨年夏逝つた濁退京歌心環畢の相成
ギルダンメーンご個体深い。
\︻r∼
Hく十−+︼g+宗pp・㌣夢OrO︼琵戸
’
k昔風苫Re籍臥声
吹陀文律研究者−二ヾ、りてl‡本書が重要でちろ夢は今夏云
ふまでもセい。エッダリング教授が曹て水先葦の英謂の際
用ひ㌣りも此の種の原典でぁる。何故招l‡止ハ後より正確化
本書lェかゝる傾向み有する破が概論写して物したるもの
稽々光る浣歌心喝挙り方法り批鋼み被り如く荒原に賃瞼的
rが出版Ltのである。
︼
一五七
・してゐ一心。然L機動み璃むるにl‡よい春物でわる。
圭∵bりでぁる。創見か臼的写してゐ兄い=寸ヽl‡著者が言明
情グコタ大挙のジョ七イ教授が畢生の敬称蕃ミLて物・し
芽wYO一打−、ツー発邑ll呂−1諾ヾ●
T︼一︵J勺甥ChOl〇等OrRe−直昌●
J毒.1︵C訂rle功C¢n岩手
脚謹ミ解読な附・して居る。
gPご及び冒eヨSお弓の出版がぁる。木胡にほ懇切なる
著者ほ夙ヒこ印度文撃者ヾ1、して名野高・し。先に⊇lP協︼苧
望+−可A召・謬ne竃﹂諾P
J罵訝賀−く邑−呂p訂ぎ1月P
せき.つ鼠Rptn●
原典の出版わ志・し圭ぎ草し綽冤かつ圭.=れな今度カラレ
研究lこ㌣すさはろものから近く=ヾ1は斯単に志†るものlこ
﹁賞瞼﹂耽る不日然み虎・してrH然lニ甲して居るこミわ付草し
ミつて銑に必要でぁろう。伶ほ彼めミる果敢的方法ほ所謂
内容lニいつてlェ方法論、㌧宗教的一般心理寧、密生的宗教
ておく。
心埋草、宗教的個人心理撃、病理的宗教心埋草、宗教的社
ガドラ
命心理撃︵許㌢︼顎︸Cど10昔dの︻碧冴ぎ︶及び腰用宗歓心
理勲等な取扱つて居ろ。
Calard芦︸W.
Aヨ乳巧d巳コ ︼誓声
〇七づr t訂づPik︼lan買芸巴rp
此れほ小冊子でわろが一己k︼1ぎ呂G手3雪tp
ビデヰヤンの俗語な知れる人によりて番かれtものでぁる
ミいふ布及びソ冒コP召望彗≡ジか替Pが流行・しゎ時代が非
介
常に早いものでぁるミ云ふ事ミみ論準しゎ鮎に一洩の侶憶
がぁる。
新 刊 紹
984
新 刊 紹
舛Pロe P.づ.
呈芦
介
ゴleくyPさl−腎a己0甘k−1p
t−一e
t11e
一五入
OH才r一己ロi孟邑−†ヲ露︼¢匝P.
LてL皇つt。水苔托彼の研究中の前年な、彼の友人¢
までできてゐ吾が、遂に完成ぜすLて、一九二三年に長逝
∽irJOFW00d岩穿氏が出版Lたものでわる。
本書li生写して孔雀王朝の研究でちつて、別に新︺い見
も無いが、他の此の時代の靡故に開†る研究¢、補助傍証
に安†べきものが多く載ぜられてある。印度史家¢一茂†
.へき啓でわらう。
O争
r de−旨−Ogie.
紺指数
R
StupP
声已乙er︶J∴
eオH打d︼−訂≒旨bF亡Imi
ら考・へても此審存在の意哉l‡わる。
ふ概論風の寄ほフランス脚係の文献でl‡梅めて歩いこミか
﹁紳撃研究の序論﹂写して推稗に償†る蕃でぁる。かう云
弓PriⅥ、星○已こ罵¢in−00dのHl1−き料p●
F已it雪訂Frp
出uddhP昌tl−e
す
んミJて、材料の秀典に努めて、今や殆んビ出版の蓮び−こ
OrB.邑すヨ︼Pkp 彼托生前其の任地先りJベン.コールの歴史な研究費表せ
︼iH+詑岩+冨O pp・せ02bP¥︼筈句●
mp甘打tpの一つで紀元後一六五〇年
温者liボンベイ高等法院の痛感士で且つ有名先発語草着
でぁる、本書は十二
頃の作で一入二六年及び一八七九年に二度出版●亡れ㍗が其
後久・しく掘版でぁつ圭ものでぁる。新刊lニは解読、誌及び
恩はれる。
Or
附鎖が附ぜられてあるが鞋に非常光努力わ誹って居る墳に
ゴle 巳訂
R岩m︼J●
出罵Pb鼓弓、PO8rding
Te両t.
くi㍍+−きpp・Pnd︼奴∵﹃Ft鍔丁訂日日gue、︼民声
一九二〇年和閲陀政府の出版にか1るヂヤバの卒塔婆lこ
田†るとゐ1中¢一部の共謀でぁる。
此の研究lニエ・のミヂヤバにl‡勧ゆ小乗が停lェり後紀元後
せe㌢bF白ヨi︼︵琵禦rp
托H監を旨m罫苫ヨ二誓罵本ミ封絞︺てぁる。
H舛くコH+¢¢+崇pp●吋寛ぎGe亡tFneJ、−詑声
八九世妃頓に大乗が倖束J六番lこ光る。
Or哲ロg已・
点者に本書出版に嘗つて左の如・きせ乱臣ど邑Fgだrp叉
Hisどry
試OnP−1賀√句●J●
Tbe E雪−y
g85
ゴ弓ぎ∴Eblロ諷、訂n計窃豆乳ごP書中二華
Pm訂idg夕日Piゴ巳br・、ゝdd・00芦旭食Add﹂巴∽”
ど已盲、Hざ苫lLFぎP冒Od笥n昏︼︼●P揖山
戸︼2tg:訂﹂ぎP旦二野点鼠−出会⋮
n已・噌已汝−
幹己d∽lib.︼1.は柏¢−才︼.−望︶r−巴函P
臼●崇kin版汐︷呂−宥︸ur−せib㌢
字音詳、誓k訂放せ打古君ヨr、u一P厨i部く已・p﹂已・
接謹︵せ訂rヨPrp宮古淳
宮b−−Slっp︰巨b−●〇昇増priβ訂n計臼OngO︼Pg●
A●P崇只nP且○ご○︶
鳩摩愚什ハ因um野草壱︶詔
漸備一切智徳密
dO望か訂uil︼き記? 支那詳、L
十任脛
東野併陀汲陀荘︵ヨ已dl与
A●ロ∴軍TふS︵n・且○−○引︶
大方灰併華厳疲
a
且
同Otm買dき討03︼巳brPrさ試p
只見日昌dロ等の知ら・しい茶本よりも最も
以上のテキストの中#者の意見lこ依れlて、ぎ訃−昏mbr・
ヨ・HlOem・−d邑b一声mr箪笥︵A●P−望月︶
岩gO︼空∞及び
青い香せ¢C2註監的○霊諾及びどndOn伊高木か取る
第二十二畢十地軽
後観音長流支︵リ&已2乱︶等謬
︵︼.雪見pづ苧
bビ乳Frp︶辞
同
唐箕叉難陀
︵禁k協n呂dも
井二十六章十地籍︵−一P志すづ笹訂各︷rp︶
唐戸超達磨︵琵乳訂rmP︶謬
︵論郡第十三巷︶
国許大読経︵霹部第六番p●−昌一∽崇︶
十地軽
A●D●会ぃ一票Q︵nP且000∽︶
薄
大方廣傍華厳経
A●P冒∽−巴−︵巨且○−︼芝︶
十地軽幹
.へきであり、P12ぎ本li凡傭の葛生の手lニなる㌣め本文
q山
に類似・してゐる。
一五九
る。その瞬諦ほ薙廿及び彿陀故l喝羅よりも賞叉避陀の詩語
比Lて原本に最も近く、親密に迷陪機械的に諦ぜられてゐ
以上諸種の支那郁諸本の中で戸遜豊原の詳が他の軒諸に
日本辞、1.
8
5
血
打彦ぎ凰A●臼﹁U−00⊥望︵巳よ○彗︶
最後の章︵P旨dmp︶の偏頓托最も古いも¢には軟けて
比較研究には餃り役立㌣光い。
ぁるが斬らーしい茅本にー‡存在Jて点る。然るに編者がケツ
サン敦按の厚意に依って照合†る=ミの出光圭第大根紀の 日脚りぁる鴬本の断片の凡ての牽に偽頃li省かれてぁつ
た。漏者l‡その偶噴わ本書lこ托省略Lてゐろが井光公に†
るミのこミでぁる。
叉崩者は西蔵詩、蒙古辞、支那謬、日本謬等多くの詩本
ミ梵本ミの比較研究中してゐろが試みlこその拳けられてゐ
る謎本む見るミ。
西蔵謬、︼・せ貯与●廿g苫r、の甥邑訂義肢ヨ邑●ユーen
部く○︼−ひ、P︼■ヨ丁⊥芝匝
介
柏・冒粁5.版つQ︼・u−≡●たN甲−−孟p
新 刊 紹
ヽ
986
新 刊 紹
介
大恨lこ於て西戎、蒙古の翻謬ミ甘い梵本︵CpmbridgOの彗b
及びどndOn︶寸Jの間lこ或る一致わ認める=ヾJが出光・〇が、
一方新ら・しい梵本︵冒ri用−臣mぎi倉e−9品−同atn︼呂du︶ミ
他方買ぇ難陀、戸速達摩り翻諾はそれ程明確元一致でに兄
い。覇者はモの参照︺㌣二十の例語の関係な判断†るこミ
Aiy呂g弓︶T・R・︶
一六〇
CLeuttp︼¢18P
第一巷は古典む、第二巻‘i中世わ取扱ってゐる。
∽乳一P
せrpまd㌢ローndiPく乞.−.
いふまでも互い。著者に吠陀の梵語及び古典的梵語がいか
印度文化の研究上ドラビク人種の研究の重要元るこごl工
に考媒†る=享な省い㌣本文の販序等十地摩の評究な本年
々ほ第二笹の出版な期待Lてゐるのであt乞
にクラシカルぞ、、ル語の影砕石受けtかな述べてゐ一〇。我
の出先る㍗めlこ両統、支那、蒙古評寸J梵語の章句及び=1
費行†るミいつてゐる、命編者は序文lこ於て大いに本書¢
Sperry︶W・Hし・
姐‡について論じてゐる。
RPnPde R.D.
帖−+缶¢﹃ワ吋00nP−︼琵♪
l工惑挿に際・しイ、何J付やってゐろのか、少くミも何をやつ
l訂C一it︸i;W00レhip﹂み掴み出さうミLて
超押の事賞を在碗・し、=れから、著者の所謂﹁祓秤の質感
著者圧此等の古き型l二依らす、直接に現発行lミれて居る
過ぎて、虜秤Jせ全能写して掴むに到つて居互いぼみがわl㌔
此l‡紳畢の範囲な出でない者が多い。後者は、未だ断片lニ
者の中にlミ、薇lこ入り細に入つ圭研究も少く兄いが、単発
他l‡、その部分的研究︵例へば、新、説教等︶であろ。前
む見る串が出光ろ。一に軟骨史的研究ミも云ひ舘るもの、
徒死、﹁践秤﹂む取り扱って来㍗数多与・書中に、二つり型
冒●望㌢冥々司YOr−ハー︼謁G●
A CO己︷ruetiくe.Suコ1つ当Orq︼J弓宰Pd5.ヨl夢
i已
暮ity i−−Wつr崇p・
l害p︼一Y
印度に於ける哲畢宗教の蜃士院が印度哲拳の研究の出版
HH一己チ
む企てtものゝ中の一でちつて印度哲畢ミ西洋菅撃寸1わ比
司●づ,
較研究L圭鮎lこ特徴がわる。
ROlltl一−
Epic勺焉try
l乳T〇︼●pp●柏芦Pnd lIコd昌一・pp・拍宗・
G阜少訂n呂d
川ぜるもの。
︵どさH■i倉こ¢り可−
舌先の叙事詩み通Cて、紳英雄の観念か
987
さ光けれlで叱らわ。
て居るつもり先のか。又、此等の型り如き勤行の、質際の
る
。多少誤解、し㍗鮎もぁつて我々漢詩む自由に蔑み得るも
原因及効果は如何光るものでぁろか、﹂等、ダイナ、、、ツク
のな
否現在日本に行れて居ろ部況彿敬の研究の立場から†れ
閲見な描へ来って、新・しい見方李してゆく庖lこ、著者の痢
げさほど大い・し㍗もりで圧ないが西洋人写してほか光りら
努力でぁろ、兎に角翫況併敢研究¢︼文献の培え王立ふ癒
取なうかゞふ串が出来る。
ゴーOm琵︶出d一⊇rd I・
科挙ミ宗教ヾJの衝突闘申は久Lい凄でぁろ。崩れ叩く既
−や臼U−2e司YOr打−︼民声
Re−igi昌S出訂p鼠e︼lee呂d哲ienti禁色岩e昏Od.
Wi2日g︶呂e−1ry当e︼8m
う T−1e︸・i訂。r苧≡≡00訂ge−−d邑Hist¢チ
リ︰リ︻lぺ+ほ笥づp・ト≡dき︼諾可.
本書−iパーサーの原典はも寸;り躍く出光るだけ材料な
集蒐、Lてそれな基礎ミ、して深き研究ご挽き批評寸Jみ加えて
著者lェ、科挙の力み素直に受け入れる。併・し、それかご
るこミが出光る。
明ね見出、し㍗ものもぁつ㍗。本書もかゝる企ての一つミ見
らに空しい努力lこ終ほろもりもちつた。斬ら、しい斡棺の光
出来上がれるものである。初めに兜毘思想む述べ次に成十
宗二
教、破れ叩く飯綽概念む諮って、:の萬l争わ調和ぜん
牽に渡って彿陀り停籠ミ敬囲の祁わ祝与次五牽にこ於ヾて
唱試みは過去に於て発度か企てられ㍗。その中にほ従
J歌
すろ
む論じ最後聖二絞の解説で結んでゐる1
W邑預er、冒Pト
ロieSek訂nd袋Al百日出udd−1i琶㌻
云つて宗教わ捨てろのでlこない。科拳ミ宗教lェ相汲んで、
手寸J手む琴き、進んで叩くべきものでぁる、一つの自然現
くー+岩 pp・IleEerbe︼・等︼8月−
本論文ほ彼め一ぬ的費施に於けろ彿教哲学の第四扁であ
象由∴つの見空去る、見方の相異サら科畢ミ宗教の相異
カターバットクー北伴でに異郡宗棺諭等lこよつて論じ㍗も
る。大衆部。、上座部り分渡の系統及び共立張を前停でほ、
助く可きものでぁろ。一カり理解の角にl‡必ず他方が必要
故に、科挙ミ宗敦ミ圧衝突す.へきものでほ克く、亙に相
が外れ主、ヾJ成′、。
余程論理に舵さか軟いr串かわ一〃が叉一面それだけ被れ¢
りでわろ。其の論調に於て前り既蛤彿秋の哲学的基礎より
〓ハl
でぁる。一方が破滅†るこミがある光らば、同時に他も滅
介
成井が機大され仰故に封†・〇見我が進歩・した事が丁解され
新 刊 紹
988
介
一大二
ら起るご=し之む根本的に勲へ︺て執拗光苦悩の綴ばれから
だ。評者に人間¢心の光やみが常に珠想ミ虐使ミの錯訣か
新 刊 紹
びるでわらう。此岳にT宗教軽験ミ科挙的方法﹂ミ云ふ表
ミ、しそ¢大意む一般に知らLめんミの考より詩法L㍗もの
解脱・し眞lこ自由先生括lこ進む事をあらは†のが本経であり
見の意味がぁる。
かく著者li、宗教な天上界から自然界に近く引き下ろ・し
てゐるが、然・し一方には、﹁人間がその安心立命か托†る様
る様に克つ圭のlミ勿論時代の要求でもぁそフが種々の意味
の存在l‡疑ふべからざる
であつて、近時この種併教程奥の現代的意誇が出版ぜられ
−
東
から喜ばLい傾向ミ息はれる。
井晶史氏著
彿数思想概説
披で紹介・し㍗下村春之劫氏の併数々理概論の如きこの試み
慰lこぁる番ヾュヽこればかなり困難光間痩でぁる。本意一月
C枝葉の問でも黒Lて同一銀章のものかの疑は、しい楼冗状
系統ね#って居る併敢に於てli根本軍鱒粟¢区別li勿論何
でぁる。然、し歴史も長く分渡に分派を重ねて複雑・し㌣思想
償軟風想の統一的研究托近時かセリ盛に行l‡れて来た楼
甲子証書房費免
光ぁるもの 一 靡き意味の紳
甲子証書房致行
京
舐質、﹂でぁる写して居る。此盛に苦から甲科堅き宗教の間
監、否科螢童紳塑主ゐ衝突の原因が雇ってゐろ。従つて、
=れl‡著者lこミつても難鮎でぁる。恭J更に又、雑鮎であ
ればこモ、そこに著者の哲撃の存†る虞でぁる。本省¢成
京
功不成功も此の鮎にか1てゐろ主旨ひ絆よう。
相反鏡蓋氏評者
薪澤 維摩経物語
東
む訪ふ主文殊ミの問答の問に深奥光る沸教の理解モ修行の
塾犠太子が註帝ぜられ圭三軽¢一でぁる経度軽lミ在俗の
併弟子即ち居士ミLて=の推班詩が併命lこよりて己の病魚
思想な研究†る光らlで油然写して興味が起って禿るだろう
lこ臥・し貞の疾な線ミして悟りの法わ説くのである。その放
の一成泉でぁつ㌣。
功雀ミむわらは†のが中心骨子であるがその前後ね合して
一怨の興味ぁる他意でもぁる。要†るに、推摩托正先に萱今春の著者l‡かく牧無難解¢沸教もその根本原理を明lこ
︺て紐解雛入の田円か通過J、それによつて代表的各種の
つ七大空でぁるがモれが大志悲の鎧に侭疾むわらにんて床
二越封の悟りの境界わあらli†のに通番尤ものであつ圭¢
沸教の根本思想み翫申し薮隈秘蔵磨徳政由寄豆完探らんこ
ミいび鼠理な変J併敦を艶Lまんミ†る人が此著によつて
く所托畢充の空でぁる。有名光推摩の獣耽ほその空即ち不
989
享を念鼠†るミ述べてゐあ。即ち特lこ悌敦の思想的方面に
ついて著者の研究より光る考蘇ミ批判ミむ如へtもので全
樽見辞豊丘普
虔茶屋の研究
和歌山踪
高野山大挙出版部費行
の中熱衝的に影響の著、しいものを典へtのli弘法大師の眞
沸教の日本文化史上に於けろ位置托云ふまでも稚いがそ
眞理詮、知識論及心理論にこ分ちモれえ\根本原理及思惑官
首宗密教が其の第一に居るミいつてよから、つ。眞首宗li許
想、沸教の思想健系竺二草がぁる、第二篇以後lェ彿陀笛、
憧な七常に分ち昇一常にほ沸教研究の三粁、沸教の根本思
費展、し分涯・し圭各眈ミlこついてかなり明細に軒並ぜられて
その方耐の研究者にもよい参考香ミ光る。然L著者も断つ
大でぁつ上りも偶然で互い。モ¢艮嘗の教理内容を田に袋
ゐて坪数思想の傾向み知るに手頃尤ものかミ思ふ。そ、して 際立況光接合範術である。それがわらゆる方面への影響が
てゐる通り後先用ひられ圭多くの述静む用ひてあつたりか
弘法大師¢世界観であり其¢基く所ほ大日軽食別項経光る
lミ・し㍗ものが金剛界顔蔵界両部の里美薙でぁる。これ帥ち
所俵の経典の思想でぁるものむ表示J㌣もので宇宵一切な
光り頂む傾ける併もぁり全くの初心者にli少・し六ケ敷いか
術語尤ビについては時間の許†限り記者の間に答へるミJ
もJれ光い。それミ終りに索引かつけてほしかつた。尤も
に隈つtわけで克く叉眞青線有¢ものでも光くてモの酪li
掠括したものに外叱ら克い。然︺里美轟li決して=の阿部
新生堂刊行
かミいふ軽過からその宗教的意義及影響等み研究する事は
塾術亡兄り特色ぁる眞首宗わ代表†る中心ざ冗るに至つ圭
の由束閉檜の初等な調べて最後如何にJて弘法大師め信仰
ひられtものでぁる。従つてその語の塩原所謂里美薙思想
巷与約める意又槍脚等の恵な♯ち古くから種々の方面に用
てぁる。鱒、り昔l‡主に思想方南でぁつて賛成方面¢研究
京
は香わ更ゆて費表†ろミ壌約﹂てぁる。
高柳伊三部著
ダンテ細曲序詭
東
色々七意味に於て更要元間魔王るな失圧わ。我国に於ても
︺き斧不完全光るもりであつ主。モれが今著者にょつて必
古く行代れて居圭けれ共今の著者の言の如く研究資料の芝
者着も云ふ如く﹁紳曲﹂代決Lて積み易い書でliない。此
い手引琶ミなるであらう。著者が諸家の異説み味頚Lて、
介
努めて公平な見解な蒋Jてゐる鮎l‡嬉Jい。
新 刊 紹
〓ハ三
の彿陀咄耶の大日紅疏帝、蒋迦弼恒産及慶事萩の金剛項鍾
要であつて如も今迄誰人も用ひ主事の兄い西寂静大赦軽中
香l‡ダンテの﹁紳曲﹂に閑︺て邦語で巻かれわもので最もエ
ヽ
990
新 刊 紹
介
の瑞碍のわ一小串が大正三年に初めて管見ぜられ、著者li西
独†る革十飴年lこ、してこゝlニ本番む公に†る事を待㍗も¢
戎詐の研究J望盟ねつゝ之等資料な考究・し且其他靡く審石蕗
でわるミいふ。事J隻茶滋の研究寸†しては空前ゆ着でぁる。
るもの等々か耽り︰の思想の関係範囲な靡く見てぁろ事も
項及わ死者り書中にわるホナラスの凶子が蓬郵り上に立て
興味ふ引く、本は四六倍版で需鼠版官五十一田本文五三二
束東引が五五京ぁりかなり厚い。本文み五に分ち第一鼻董
二第三li所謂両部色茶隷の詳細花柳究、第四ほ別葦部分毎
適正祝l‡里奈通り語我慢茶択‖小想の由苑及碩婚由奴等、第
ついて考掠批列・し節五里養羅飴診lニ於て里亮農に賛歌同
毀茶羅亨し印度、支那、日本等の畳茶濯′両部以外︶l切lニ
返及致連な逓.へ最後に重美綴の研究史料キ梵威漢和南欧lこ
義、六大妓也祝の史的考案、乳首陀羅尼の研究、印契の追
捗り数十補歩けてぁる。
「■■■
田
昭和二年十月廿五日印厩
右ハ︰≡菅
者
鐸厳原
右代繋守
著者
慮
印賢
輯
溺行
宗
所
究
︵愛想食萱隣︶
賢
一㈲風聞︺
宗
教
埼
研
究
費
正
符
昏
節
治
釈餌〓冒頭率ご警蜃ふ竺撃新竹二望内
妨
宗
中
本
大
印
敏
恵
厨
戯
評
疾革帯沖田岩紳保町二番鴨枚式昏談短文巴
田
宮
究
行
買京市河日露悪手町労四竃篭
研
摂昏聖二二七買看貫即蓑ハ㌍簑
敦
東京市前田匡真綿保町二軍警療革質警憲霹
人へ(醐J▲∼ヽ(J、両′佃【−−J
昭和二年十一月一日蟹行
■、こ● ̄
密行所
主ご㌻㌻言、1 /