には神がいる。

たまたま
【熊野街道】
ごぼう
和歌山から、紀伊の国の東岸部を通り、
す
さ
み
たいじ
海南、湯浅、御坊、田辺を経て、
周参見、串本、太地、那智勝浦、
新宮に至る道である。この道は大辺路と呼ばれ、
同じ熊野街道だが、山沿いを通る道は中辺路と呼ばれ、
「枯木灘」と称される厳しい気候の海岸線を通る。
途中の田辺、新宮が各道の合流地点となっている。
偶然 には神がいる。熊野街道・中辺路の旅。
第三十五回
倒れる方向は 360 度。かなり低い
確 率 で あ る に も か か わ ら ず、 ビ ー バ ー
あたってしまったというわけだ。
雄大な流れを生みだし、そこに聖な
作った。いつのまにか生まれた川が
巨大な岩が山肌を滑り落ち、そし
て止まった。突然、莫大な量の水が
木が倒れる時に、運悪く自分にぶち
メール)という記事を見つけた。記
は 直 撃 を 受 け 死 ん だ。 偶 然 と は 怖 い も
る中洲を育んだ。
岩肌を突き破り、そこに荘厳な滝を
事には、小さい電柱ぐらいの太さの
の で あ る。 偶 然 と は、 神 に よ っ て も た
神 倉 神 社( 熊 野 速 玉 大 社 摂 社 )、 那
智 の 滝、 そ し て、 熊 野 三 山 の 総 本 山、
あ る 日、 ネ ッ ト の 片 隅 で、「 自 分
で切り倒した木に押しつぶされて死
木に胴体を押しつぶされたビーバー
ら さ れ る も の。 こ れ こ そ が ア ニ ミ ズ ム
んだビーバーを発見」
( デ イ リ ー・
の写真が付けられていた。ビーバー
彼女はハバロフスク出身。
各地に住んだ後、
日本の役人であるご主人とともに
この地に渡ってきたという。
ここ十津川村はご主人の出身地。
都会からは遠いけれど、
安全で気持ちのいい
田舎の生活が大好きだと語る。
都市には都市の、
「奥」には「奥」の
すごい美女がいる。
熊野街道を田辺から紀伊半島の海岸
沿いに走り(大辺路)、南紀白浜、太地、
を西の山間部へと上っていった。
る を 得 な か っ た。 わ た し は、 熊 野 川
これだからニッポンの街道はおもしろい。
日 程 の 関 係 も あ り、 神 倉 神 社 の 上 か
今回は奈良県十津川村に住むロシア系美女の登場である。
桝谷リディヤさん
ま す た に り で ぃ や
は 木 に 自 慢 の 歯 を 立 て 削 り 倒 す が、 (原始信仰)の源である。
熊 野 本 宮 神 社 な ど、 熊 野 に は い く つ も
こ に 神 の 存 在 を 感 じ た。 人 々 は 神 に 畏
那智勝浦などを巡り、新宮へとたどり
ら街を見下ろしただけで先を急がざ
れを抱き、神の存在の証を空間と大地
着 い た。 こ の 様 子 は 連 載 の 第 三 十 二 回
の「偶然」が生まれ、古代の人々はそ
に印した。やがて、この原始信仰はわ
新宮から本宮へと向かう道は中辺
路と呼ばれ、国道の所々から、いわ
た し た ち の 建 国 の「 祖 先 信 仰 」 と 融 合
(熊野街道・南紀編)で触れた。
きる。熊野本宮大社のある地区の南
ゆる「熊野古道」へと行くことがで
し、さらなる深みと安寧を生みだした。
作 家・ 中 上 健 次 の 故 郷 で も あ る 新
宮でゆっくり時を過ごしたかったが、
んな観念が交錯する街。
串本
これが熊野信仰である。
取材協力・榊本モータース
(十津川村)
を指す。閉塞感と開放感。そ
大辺路
新宮から熊野川
を上っていくと
いくつもの湯場
がある。湯の峰
温泉は4世紀か
ら存在すると言
われている。
熊野の「まち」といえば新宮
十津川村にある玉置神
社は熊野三山の奥の宮
と呼ばれる。
Squid Squid Photo
写真
新宮
那智
太地
田辺
中
辺路
御坊
本宮
紀伊
湯浅
大和
和歌山
海南
るかのようだった。
熊野本宮大社は熊野信仰の総本山
で あ る。 こ こ に 来 る 前 に は、 ど ん な
に神秘的なところだろうと思ってい
た。 だ が、 社 自 体 は、 わ た し に と っ
ては、拍子抜けするものだった。
現在の社は丘の上にこじんまりと
立ち、度重なる大水害で被害を受け
ながらも、本殿自体は難を逃れてい
る。 今 回 の 訪 問 時 に も、2011
年の紀伊半島大水害の傷跡が境内の
「仙人風呂」として多くの温泉客に
がある。神殿があった熊野川の中洲
少 し 離 れ た 場 所 に、( 明 治 時 代 の
大 水 害 前 ま で あ っ た ) 元 の 社「 跡 」
いたるところに残されていた。
側には湯の峰温泉、川湯温泉などの
開放する。この「催し」は江戸時代
して残されている。
に位置する場所が整備され、広場と
温泉場がある。
川湯温泉で静かな一泊を過ごした後、
にはじまったとされている。
ろうと向きを変えた。そして、ふと
決めた冬の間、
川の一部を堰き止め、
露天の浴場を設置している。期間を
それぞれ趣向を凝らし、川面近くに
川湯温泉は川底を掘ると温泉が湧
き出すのが特長だ。川沿いの宿屋は
十津川村で美女に出会った。ロシ
アから渡ってきた美女だった。都市
た よ う な、 そ ん な 足 取 り が 聞 こ え て く
を歩く、神への畏怖と快感が入り混じっ
け だ が、 古 代 の 人 々 の、 長 く 険 し い 道
道 で あ る。 ほ ん の 一 部 を 歩 い て い る だ
美 女 と は な に か と、 幾 度 と な く 自 問 自
たしかに、わたしもこの連載の途上で、
感じない。わたしは、早々に立ち去
な空間が広がるだけで、とくに何も
感じられるかとも期待したが、静謐
はないが、なにか絶対的な神秘性が
熊野本宮大社まで歩いた。熊野古道は、
わたしはとぼとぼとその跡地へと
向った。今流行のパワースポットで
足を止め、思った。そこに神がいる
に は 都 市 の 美 女 が い て、「 奥 」 に は
答 し て み た も の だ。 だ が、 そ ん な 答 え
し た。 街 道 と い う 道 標 は あ っ た も の
の 街 道 を 巡 り、 各 地 で 美 女 に お 会 い
野 編 に 至 る ま で、 約 三 年 に 渡 り 全 国
今回で、
「街道の美女」は終了であ
る。 第 一 回 の 高 知 編 か ら 始 ま り、 熊
ては幸運だったと改めて思う。
大汗をかいていたけれど、今となっ
多 く の 美 女 を 撮 影 さ せ て も ら っ た。
の だ。 フ ァ イ ン ダ ー を 覗 き な が ら、
さまざまな色と光が交錯する静かなる
のではない。そこで認識し、神を思
「 奥 」 の 美 女 が い る。 だ か ら、 ニ ッ
なぞ簡単に出るものではない。
に 揺 り 動 か す 言 葉 な の か も し れ な い。
い、感じるのだ。神などは人間と邂
ポンの街道はおもしろい。
総勢 人。全員が間違いなく美女
であった。美女とは思い、感じるも
本 宮 か ら 熊 野 街 道 を 北 へ は ず れ、 十
津 川 村 へ と 行 っ た。 十 津 川 村 は そ の 地
美 女 と の 出 会 い、 そ の す べ て は 偶 然
理 的 条 件 と 歴 史 的 経 緯 か ら、 時 の 政 府
独立国のような気風を保っている。
の産物であった。
また、次の旅に出ようと思う。
それは記録される。
すべてのことは起こりうる。そして、
に 免 租 さ れ て い た 過 去 が あ り、 ま る で
37
の、天候、季節のめぐり合わせ、旅程、
誕生、死、成長、萎縮、営み、自
然 の 変 異、 そ し て、 美 女 と の 遭 遇。
ぎて、おかしくなった。
そう思うと、なんだかあたりまえす
逅 で き る ほ ど 簡 単 な 存 在 じ ゃ な い。
なさない、
かなり辺鄙な場所である。
わ た し は 川 湯 温 泉 に 宿 を と っ た。
この時代にスマホなどはさして用を
熊野三山へと通じる熊野古道は2004年に世界遺産に登録された。
「美女」などという呼称は、もしかす
る と 曖 昧 で、 見 る 人 の 気 持 ち を 不 必 要
(写真上)新宮にある神倉神社
は熊野速玉神社の摂社。急峻な
崖の上に建てられているため、
見たこともないほどの急勾配の
石段を登って参詣する。(写真
中)熊野那智の滝。自然に絶対
的な価値を認めた古代人の息吹
が伝わってくるようだ。(写真
下)熊野本宮大社は明治時代の
水害により、現在の地に移転し
た。社があった熊野川の中洲に
あたる場所には現在も静謐な空
間が残されている。