駒澤大学勤務時代を中心に ― 天職・大学教職五十四年の回想 ― プロローグ 大久保 治 男 昭和九年(一九三四)五月、私は東京市小石川区で誕生した。「孟母三遷」という言葉があるが、自宅の近くに は学校が多く、東京高等師範学校(現在の筑波大)東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)東京師範竹早 校(現在の東京学芸大学)日本女子大学、東洋大学、拓殖大学も歩いて少しの所にあり、東京大学や早稲田大学も 自転車で十分一寸の所にある。正に現在の文京区、高等教育のメッカのエリアに我が家があったと云える。 私の母親は今で云う「教育ママゴン」であったのか、遊びは幼稚園頃には「学校ごっこ」を勧めるので、年下の 五一 從兄弟や近所の子が遊びに来ると(広い庭で遊ぶのをがまんして)床の間の上を教壇にして黒板まで置いて、先生 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 役をいつもやっていた。テストや通信簿まで渡して悦にいっていたものである。 372 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) ― 昭和十六年四月(その年の十二月、大東亜戦争 手術を受けた。 ― 太平洋戦争 五二 が勃発)私は運よく、東京高等師範学校付属国 現在では出来 帰宅後の復習では先生より厳しい母の授業? も に よ る 大 空 襲 が 始 って い た 国 民 B29 その二日後の夜が三月十日の池袋を含む「東京大空襲」であり、病院周辺、池袋一帯も 死ぬと直観し、院長の制止をふりきり、火の海の中を逃げて下された。炎の瀧の下をくぐり、燒夷弾の直撃を受け しめきあっていた。手術後二日、付添っていた父が私を抱いて(母と弟、妹は既に彦根に疎開)そこに居ては燒け 落す燒夷弾による大火災の海、病院周辺にも猛火がせまった。一階ホールに集められた百二十名位の入院患者がひ の雨あられ の様に B29 受け始めていた早々、三月初めの大雪の日、私は盲腸炎を発症、先生方にタンカに乘せられ電車で池袋病院に入院、 昭和二十年になってすぐに私達は西武線(当時は武蔵野線)保谷にある東京高師の施設で集団で軍事科学教育を 学兵器を発明すべき教育を受ける恐ろしい軍国主義国家の組織の一つであったのである。 母親は私も選ばれたことを喜こんでいたが、今思えば軍国主義教育のナチスの優秀な少年隊を模したもので将来科 年生の(各クラス三~五番迄の男子生徒・陸士・海兵へは無試験で進学) 「エリート集団の卵」のクラスが作られた。 学校四年生の終り頃、軍部と文部省の意向で「科学組」なるものが東京と広島の高等師範付属で創設され四、 五、六 昭和十九年秋頃、戦況も日本軍 の劣勢、玉砕も続き、帝都東京も頻繁に米 あった。しかし週末には必らず豊島園やデパートの遊園施設へつれて行ってリラックスさせてくれたのが嬉しかった。 ないことだが当時の付属では教育熱心の親として許されていた ― 三の母親は小学校二年迄、毎日子供といっしょに登校、教室の後ろで総ての授業を参観していた。 ― 民学校(現在の筑波大学付属小学校、その前は東京教育大学付属小学校と謂う)に入学することができた。母と二、 371 火だるまになる人の断末魔の叫び声を聞き、火に燒えながら炎の旋風で空に舞い上る馬や大八車の地獄絵を見なが ら 、 抱 いて い る 毛 布 に 火 が 付 く と 防 火 用 水 に ド ブ ン と 私 な り つ け て 父 は 逃 げ て 下 さ り 近 く の 防 空 壕 に た ど り つ き 、 正に奇跡の九死の一生で生きのびた。因みに百二十名の入院患者中、生存者はたったの四名、他は総て眞黒けの燒 け死体となって病院のホールで固っていたのである。 手術直後、動き廻された私は腸閉塞と腹膜炎を起していた。父の知人・海軍少將の方に賴み目黒の海軍共済病院 に入院することができた。 (東大病院等は医薬品も無く手術もできない状況) 海軍の病院なので院長は病院内でも短剣をつけていたし、担当医師も軍服の上に白衣を着けていた。地下壕を改 装した手術室で手術を受ける(全身麻酔も内視鏡も無い時代)腸閉塞の手術は何回も失敗、腹は張り、通じはしな いので汚物は逆流し口から出る塗炭の苦しみであった。何と十日の内に三回もの大手術(盲腸よりは五回目)小学 四年生の体力の限界を超え、三回目の手術中には、心臓は七、 八分完全に停止、死亡と医師達も黙礼したそうである。 然し手術に立合っていた父の懇願、たまたま親類の医師(軍医)も手術に加わっていたので私の心臓に二、三十本 の強心剤の注射をしてくれて、奇跡が起った! 心臓が再び鼓動して私は九死いや十死に一生を得たのである。 その間私は「臨死体験」 をしていた。 手術されている自分を天井に浮いて冷静に見ている自分もあった。「浮遊現象」 花の咲く野原をふわりと進んで行った後、眞黒なトンネルの中を突進すると、急に広々とした河川敷に出てその前 に、ねずみ色の大河、左から右へゆっくり流れている。音も風も全く無い色も総て灰色、しかし何となく薄明りで ある。静寂そのもの、 「無」の世界、然し、気分は経験した事の無い爽快さ(実は腹を切られて痛い苦しいのだが 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五三 それも全く無い)この大河こそ「三途の河」であった。この大河を橋もボートも無いのでどうして渡るのか考えて 370 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) ― 五四 この時死んでいた いた。対岸にはチカ〳〵とあかりが拡がり「おいで」と呼んでいる様だ。その時、大音響と光り(父や医師の叫び まり意識していなかった。 た。学校の雑誌や新聞の編集委員長や高三の学芸会では「安珍・清姫物語」の僧侶役迄やっていて、大学受験はあ ム ル ー ム 委 員を づ ー と や って いて 出 席 簿や ク ラ ス の 連 絡 等 先 生 に 代 って 雑 用を や っ た ので よ く 教 官 室 に 出 入 り し り集られた先生方の前で私は社会科の発表に指名され教卓で堂々とスピーチしたものである。付属高校の時はホー 付属中学の時(この時は東京教育大学と校名変更)は新教育体制実施の為に先生方の研修がよく行われ、全国よ 東京の全体は燒け野原、風呂屋の煙突と土倉がやたらと遠く迄たくさん見えた。 た)バラックのベニヤ板の校舎で付属中、高の授業を受けた。 民服か軍服、軍靴の方が多かった。学校も付属の中、高、大学は燒け(小学校は燒け残り中高の行事もよく行われ 主主義への大転換、アメリカの占領下、学校での授業も教科書の軍国主義的な内容のところは墨ぬり、先生方も国 昭和二十一年四月、東京高師付属小学校の六年生に復学した。敗戦後の未曽有の我が国の苦難や軍国主義より民 の残りは彦根の小学校へ通った) 人がぶらさがっている、列車でイスの下に横になって十五、六時間かかって母の葬儀に行くこととなった。 (五年生 失調で死亡、この時父と私は腸閉塞の再発を恐れ腸の一部を出したまま彦根に参った。八月敗戦した直後の外に迄 五月二十五日の大空襲で我が家は全燒! 六月、四才のかわいい弟は疎開先の彦根で死亡、母も十月肺病と栄養 ら私は全く存在しない ― 声であった)に我に帰った私は腹の痛みに苦しんだ。生き返ったのである。奇蹟! 復活! 369 昭和二十八年四月、宮内省管轄の官学であった「学習院」が私学へ移った年、先生方の推めもあって、八名が学 大学の学生の為の研究室。百二十名志望で四名合格 ― の試験に合格して自分 習院大学へ入学した。私は政経学部で勉強し始めたが、 「 弁 護 士 に な れ よ 」 と 云 う 父 の 希 望 も あ り 翌 年、 中 央 大 学 法学部へ転学した。 ― 入学後すぐ「法学会研究室」 だけのデスクが与えられ朝八時から夜十時頃迄背の高さほどになる法律の基本書を赤線を引き引き読破していた。 講義を聴きに行く以外は研究室に居た。先輩方も教授になられた方が多く、後に学部長、学長になられた方も居ら れた。この研究室での三年生の春、伝統ある、最高裁判所推戴の旧制大学法学部を中心とする「関東学生法学連盟」 の法律討論会に中大代表として早稲田の大隈講堂で出場、運良く優勝できた。いただいた長官賞のカップは重かっ た。その年の秋、京大での全国大会へ出場の準備をしていた頃、思いもかけず腸閉塞が再び起り、その時は順天堂 医大病院で外科の日本一の福田部長に手術していただき、平和で医学の進歩もしてきていたので、完全に治り、そ れ以来六十年近く、何一つ病気もせず健康でいられたのは有難いことであり、戦時中の空襲下での手術の失敗はや はり私も戦争被害者であったのかもしれない。 健康第一を考え、また、私の父の生家は江戸時代、徳川家康祖父の時代より旗本であり彦根藩創設以降、目付家 老をして以来井伊藩主の側近を勤めた代々であった関係より、幕末は井伊大老側役であり、桜田事変以降に井伊直 弼公が十七才より三十二才迄、茶道、歌道、禅を中心に文化人修養時代の藩の公館「埋木舎」を各種功績(直弼お 子様直憲公の御養育、天守閣の保存、藩公文書五万点位を隠密裏に保存等)により藩庁より曽祖父・大久保小膳が 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五五 拝領した縁で、明治四年より代々大久保家で守る「埋木舎」や古文書、大久保家所有の史料約二万点の将来の後継 368 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五六 者として私が適していると父等の考えにより、健康上もあり、激烈な司法試験受験勉強はやめ、のんびりと着実に こととなる。 このような経歴を積んだ私は大学教員への就職を強く志望するようになっていた。そしてこの目標は達せられる 一年半「山梨県における近代公教育制度の成立」の研究に通う) 近くの研究室に通うようになった。 ( 昭 和 四 十 二 年 四 月 よ り は 山 梨 県 よ り 派 遣 さ れ た、 公 立 大 学 研 修 員 と し て 再 び 政史が研究したかったので昭和三十五年四月より二年間、私は東大教育学部教育行政学科研究生として本郷・赤門 実務法学中心の中大大学院では「日本法制史」の科目が当時は博士課程には開設されていなかったので、教育行 し上げる処である。 まとまると大学の機関誌「法学新報」に発表させていただく幸運に恵まれ力をつけることが出来、先生方に感謝申 ず、 修士二年頃より四、 五年に渡って、 三人の教授と私とで研究会を作っていただき毎週古文書の解読を御指導賜り、 史を中心に深く勉強した。特に江戸時代を中心に研究しようとしたので古文書を徹底して読めるようにせねばなら 担当の隈崎渡博士に師事することとなる。今迄の勉強とは異なり、基礎法、法制史や法思想史、日本史や日本文化 昭和三十三年四月、中央大学大学院法学研究科修士課程に入学、指導教授には一高、東大御出身の日本法制史御 研究を積み上げていく大学教授への道へ父の助言で変更し、大学院へ進むこととなった。 367 第一章 山梨の大学教員時代 一 昭和三十六年四月、より、東京教育大学付属の先生が理事をされていた関係で、山梨学院の短大法経科が一年先 に四年制法学部を開設する予定と聴き、私はまず短大の専任講師となることが出来、一年間は古屋学長・理事長の お伴をして度々、文部省(当時)大学設置申請の部署へ多くの書類を持って参上する様になり、東京と甲府の往来 の時代のスタートとなった。 (このことが後に、私は多くの大学創設に関与する良き経験となる)昭和三十七年四 月よりめでたく四年制大学法学部が創設され、私は法制史、刑法、刑事政策等の授業を即刻担当する専任講師とな り(翌年より助教授)その講義の準備に大多忙となったが、幸い私は幼少の頃より先生役が大好きだったので大学 での講義も大好きで、楽しく出来て学生の受けも良く大学教職スタートとしては眞にラッキーであった。 開学記念として山梨県立の市民ホールで私は「江戸時代における処刑展」を明大刑事博物館から借用した刑具や 絵画等を中心に開催し、中高生徒や警察官、市民が多勢見学に訪れたことも良き思い出であった。開学後は学生募 もした。北海道では北大の試験会場に大雪の為、予定者が来られず学長と待ちくたび 集に各教授方も全国を分担して飛び廻った。私は北海道と沖縄の高校が担当で、パスポート、ドル、車右側走行の 復 帰 前 の 沖 縄 へ 行 って 開学当初は施設も貧弱で冬の夜裸電球六つの小さな寒い教室で三人の演習をしていた折り、学長にもったいない れた頃、旭川より雪だるまの様な眞白になった受験生が来てくれて感激したりもした。 P R 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五七 と云われ教卓の上の二つの裸電球だけつけて授業したこともあった。よい天気の秋、ぶどう畑の眞中に座って六、 366 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五八 七名のゼミ生相手に刑法の理論を云い合ったこと等、教育は施設も大事だが、私の教師駈け出しの頃の情熱と学生 ― 一審判決と同じ できた。 P R )や県政百年史の法関係の編纂専門委員、県警察史 更に加えて昭和四十六年四月より昭和六十三年三月迄は国立の山梨大学でも教育学部、工学部で「法学」の講義 ビにもよく出て新らしい県立大の名も 務も多くなり多忙の中にも公に奉仕するという生き甲斐も感じた三十才台であった。その頃は地元新聞や地元テレ の編纂専門委員、県庁職員研修所の行政法の講義や県消費センターの講師等多く委嘱され、大学の他に県関係の公 停、仲裁と不当労働行為に対する命令 ― の所長として毎週、県民の相談に三教官で当った。また山梨県地方労働委員会公益委員(労働問題のあっせん、調 の使命として県民や県の役にもたたなくてはならない事となり、大学に無料法律・教育・家事相談所が開設されそ のため学生募集の心配も無く、研究にも打ち込めるとも考えていたが、法学の専門の教官は私一人なので、県立大 少なく中大卒の法学の私と一橋大卒の経済学の二人であった。女子短大なので花やかなキャンパスであり、公立大 先生、他の先生方も師範学校、教育大系が多く、国文、幼教、家政の三学科でスタートした。社会科学系の教官は となった。学長は元教育大教授(文部省視学官)の花井重次先生、家政学科長は元お茶の水女子大教授の茂木シイ 計画があり私も法学等担当の助教授として、そちらに呼ばれ文部省の開学認可のおりた翌年四月より赴任すること 二 家内の実家は山梨の旧家で県知事や県教育長とも昵懇の間柄であったので、昭和四十年頃から県立の短大を創る の純朴さが映画の一シーンのようになつかしく思い出される。 365 を担当した。 甲府にある国・公・私の三大学総てで教えたことになり「人は石垣人は城」の信玄公の家訓の如く、学生や県民 とのコミュニィケーションを重視しつつ「生き甲斐」を感ずる。大学の教師生活のスタートであった。(山梨学院 大五年、山梨県立大八年の専任) 第二章 駒澤大学法学部教授時代 一 昭和四十九年。十三年間甲府の三大学を教えたり県の公務で多忙であり、 片道中央線で二時間以上かけての通勤、 また公舎で二、三泊の所謂二重生活にそろそろグロッキーになってきた折り、昭和四十八年秋頃、雨宮先生(山梨 学院大で共に教壇に立ち、出身大も同じ、岳父と山梨の関係で特に親しくされていた間柄)より「駒澤大学法学部 では、法律学科・政治学科共学生の入学定数が増員された関係で学部の教授の数を七名程増員せねばならないので 日本法制史の隈崎先生もあと一年で御退職だから是非山梨より東京へ来ていただきたい」というお話しが急拠あっ た。隈崎先生は私の指導教授であり(中大の定年後駒大へ移られていた)駒大は旧制よりの伝統大学である。キャ ンパスの世田谷は旧彦根藩の飛地(約二万石)であり、何よりも法学部の日本法制史の講座の担当になれるので喜 んでお引き受けすることとした。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 五九 四月よりの専任教員の増員で来られた方は、政治学科では中川先生(元国連大使、 出身大学・東大)宇都宮先生(京 364 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六〇 大)であり、法律学科では、憲法の西先生(早大)商法の荒木先生(早大)民法の青山先生(明大)刑法の松村先 大会等の話しもまとまり、 サークル的雰囲気で駒大へ移ったばかりの私も気楽に新任大学へとけ込むことができた。 日ばかりをゼミ指導日に決めた覚えがある。その日は多勢のゼミ生が集まり、すぐに、コンパ、ゼミ旅行、ソフト 導を受けにゼミ生はよく集った。当時、研究室は青山先生と二人の入室だったので先生に迷惑のかからない毎週二 ゼミ生も定員がすぐ集まり法制史のテーマ別発表準備も順調で、気さくな私の性格から研究室に気楽に相談・指 があった。 第三金曜は毎月教授会であった。さすが法学部、いかめしい雰囲気の教授方がだまって座っておられると威圧感 隈崎先生(御病気中)の「日本法制史」の代講も始まった。専門の科目なので自ら力が入り受講生も多かった。 静かに聴いてくれた。 十七日の初講義は「法学概論」であった。大教室に三百人位の学生がびっしり居て、マイクを使っての講義に皆 中心に献花や香がたかれ、読経や仏教音楽が流れその厳粛さ、学生や父母の数の多さに驚愕した。 教職員の方々もキャンパスの雰囲気が山梨の大学とは全く異なり重量感があった。式典は講堂正面の仏像御三体を 四月五日、大学会館での辞令交付式の後、十日は入学式であった。さすが旧制大学以来の大学、建物も学生数も 下さい」という趣旨の御挨拶をされたことの印象が残っている。 良く「諸先生が来ていただいて法学部も強化されました。それに出身大学もバランスが良く相協力してがんばって 当時の法学部長は政治学の松山先生で新聞記者や国会議員秘書も経験された巾広い明朗な方で雨宮先生とも仲が 生(中大)それに日本法制史の大久保(中大)の七名であった。 363 夕方より親しい先生方と一パイやってもすぐ自宅に帰れることは、東京勤務になっての醍醐味であった。 八月二十七日より三日間、永平寺(曹洞宗大本山)で新任教員を含む三十名位の研修会がありそれに参加した。 永平寺の大伽藍に圧倒された。朝四時に起床、一日中座禅に又座禅、時折りの御説教、食事も質素なものをだまっ て食べる。入浴も短時間沈黙でさっと出る。夜は大部屋一ぱいに敷かれた布団、夏の夜、暑いので松山学部長といっ しょに法学部の先生方と庭に出てしばらく涼んでだべっていた。 ( 翌 日 に え ら い お 坊 様 か ら こ の 行 動 は 注 意 され て しまった)自由の無い三日間、足の痛くなる座禅、当初は反抗的心だったのが三日目はすっきりと「無」の境地に なれたのは不思議であった。解放? された後、学部長と法学部から参加した先生方と黒部ダム辺りの観光をして 帰京したのは楽しい思い出であった。 この年は未だ山梨県地労委公益委員であったので十一月は津・四日市ゼンソクの地の視察もあった。 昭和五十年。二年目の駒大の教職生活は快適にもう慣れていた。この年は五月と十一月に国鉄ストがあり(私鉄 とのゼネストもあり)いくつかの大学では未だ学園紛争の残っていた処もあって、世間は騒然とした日もあった。 七月、突然に、私に「学生部副部長」に就任して下さいとの学部長よりのお話しにびっくりした。学生部長は柿 本教授(先生とも山梨学院大学時代でいっしょ)なのでお引受けした。学生部長室の副部長席に戻ると夕方より何 回かピィピィと笛の音がして二十人前後の青いヘルメットをかぶった全学連の学生達が学生部長室に入り込んでき て学生部長と副部長の私をとり囲み何かよくわからない大演説をした後「駒大大学祭の予算を削った事」に対し元 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六一 へ戻せと要求していた。深夜迄缶詰になったことも度々ある。全学連の一派だそうである。柿本部長が居られない 362 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六二 時は私一人で対応、心細くなった。応答は注意して行った。駒大でも一時学生運動がはげしく、ロックアウトもし 昭和五十一年。 T V この年はロッキード事件のニュースで騒がしかった。 の N H K 駒大の方を応援した。七月、ゼミの夏合宿を初めて野尻湖の駒大の施設で三日間行ないゼミ生も大喜こびであった。 五月、東都大学野球、駒大対中大の試合が で中継されていた。さすが東京の大学、勤務している ゼミ活動は益々盛んになり、警視庁や明大刑事博物館の見学、上野、浅草辺りの史跡探訪等もとり入れられた。 わぬ遠く迄講義に飛んだ。大変立派なキャンパスであった。 九月、刑法の集中講義が北海道・岩見沢の教養部で行なわれるので馬屋原教授の代りに急拠私が行く事になり思 あったことは申す迄もない。 持寺は東京の近く、修了した夜は学部長と数名の法学部の先生方と東京駅近くで盛大の「精進落し」の一パイ会が 八月の末、三日間は総持寺の研修会にも参加した。去年、永平寺の経験のある私はスムースに研修を終えた。総 の団体であった。 ス、ギリシャ等二週間のヨーロッパツアーは実に良き思い出である。三十名前後の学生の参加と五、六名の教職員 八月の前半は毎年駒大が行っているヨーロッパツアーの副団長で参加した。イギリス、ドイツ、イタリー、スイ と仙台、松島、中尊寺等を研修旅行したことは楽しかった。 たそうで、キャンパスの周りの塀や正門の鉄扉が異常に高いことも判った。部長といっしょに十月には父母会役員 361 岩見沢の駒大教養学部の集中講義に今年も伺った。八月、例年の駒大ヨーロッパツアーには今年は二回目に参加、 三十名前後の参加者の団長として責任があったが英、仏、独、伊、スペイン、ギリシャとヨーロッパの多くの国の 史跡や観光スポット等を巡り「百聞は一見にしかず」の成果があった。十一月十日は天皇在位五十周年記念で大学 も午前中だけであった。 昭和五十二年 渋谷から駒大までは東急の急行バスで通っていたが、混んだり、道路渋滞の時は大変であった。しかしこの年に 東急・田園都市線の地下鉄が開通した。新しい長い連結の車輌、渋谷から三つ目の駅「駒沢大学」下車。わずか五、 六分で着く。夢の様で通勤も軽やかになる。雨宮先生から伺った話。始めの地下鉄の予定駅が西武ストア近くにあ る為從前のバスストップより遠くに移動した処に作られた。学生達と東急本社迄デモにも行って裁判所にも駅の位 置の変更を訴えた。その結果、予定駅の位置は新たな処に移動するが駅名を「駒沢公園」から「駒沢大学」に変更 効 果 も 絶 大で あ することで妥結したとのことである。今思えば、駅より大学迄歩く距離が少々遠くても駅名が「駒沢大学」になっ た こ と は 何 よ り の 勝 利 だ っ た と 思 う 。 毎 日 何 万 人 も の 乘 客 が 「 駒 沢 大 学 」 の 駅 名 を 見 る ので ○ 隈崎先生御退職後、学部は私が、大学院は東大教授の石井良助先生(法制史学会々長・文化勲章も受賞)が御担 稲田」慶大は「三田」である。 ○ ろう。「明大前」「東大前」ぐらいしか地下鉄、電車の駅名は思いうかばない(バス停には多くあるが)早大は「早 P R 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六三 当であった。私も院生と共に受講させていただいたり、史料研究等は私の研究室へ来られて御指導賜った。夕方に 360 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六四 なると私の車で大田区の石井先生の御自宅迄お送りしたことも度々あり、車中でのお話しを拝聴していると大変な 二十名募集に百名前後志願するようになり選抜面接も二、三日に分け、嬉しい悲鳴をあげた。 の如く優勝)ゼミ卒の就職先も有名企業や教員、公務員になる者もいて他ゼミより良く、ゼミの入室試験も毎年、 宿、秋の史跡探訪、年末の盛大?な忘年会、こ の年は永平寺杯ゼミ対抗ソフトボール大会で 初優勝(その後例年 大久保ゼミのチョンマゲ迄つけた江戸の裁判の発表が雑誌に紹介された。春の大学セミナーハウス、夏の野尻湖合 ば十名ぐらいのゼミ生も指導や発表準備も出来、常時活気に満ちていた。各大学のユニィクゼミ紹介で駒大の時は フロアーの一室だった。自宅から持ってきた本、研究費で求めた本で本棚はすぐにびっしりと並んだ。無理をすれ 究室としては両面に本棚もびっしりあり、景色も良く、明るくて申し分無かった。私は五三一号室、五階の法学部 五月、新築中の研究棟が完成した。「五研」である。各先生一室づつ入居出来、スペースも広く、大学の文系研 昭和五十三年 県庁職員研修所の講義や区役所等での講演も時折り頼まれていた。 ていた。(永平寺杯争奪試合) 春は八王子の大学セミナーハウス、夏は野尻湖の寮、秋は史跡探訪、ゼミ連合のソフト大会には常に優勝か入賞し ゼミ活動も益々活発になり、視聴覚教材や演劇迄導入して主に江戸時代の法制の研究の発表が班毎に競われた。 来遊にもなられた。 勉強になることもあった。十一月には石井先生御夫妻で文京区の私宅まで大久保家所蔵文書を御覧になりがてら御 359 この年は、高文堂文庫本で江戸の刑法の代表的史料「公事方御定書」の解説本を発刊、大学院数校で使われた。 日本法史学の大学院博士課程の授業は毎週、石井良助博士が新しい私の研究室で講義をしていただくようになり、 私も拝聴でき御指導も受けることも多くなった。夏には私も一編纂専門委員として執筆していた 「山梨県政百年史」 も完成、県知事も出席、甲府のホテルで祝賀会も行なわれた。 因みに、十月に私も父母会主務幹事や評議員もしていた「学習院」の百年祭が記念会館で挙行され、昭和天皇・ 皇后の両陛下、皇太子殿下、常陸宮様方各御皇族の御臨席の折り、院長始め学習院首脳の方と共に父母会役員方も 正門でお迎え申し上げたことは生涯の名誉な思い出となっている。 二 駒大法学部に赴任してより五年分を毎年に付順次回想してきたが相当の量になるので、 「二」では昭和五十四年よ り昭和六十三年までの十年間に付、 主な事柄に付いてのみ記し、 例年行っているようなことは省略していく事とする。 昭和五十四年、駒大へ勤めてから五年を経過すると法学部や大学の様子もだいぶ判ってきた七月に、教職員組合 の法学部よりの執行委員に私と寺崎先生(公募第一号で就任された日本政治史の先生。後に慶大教授に転出、現在 は武蔵野大学学長)がなった。さらに私は、近藤経営学部教授の後を継いで執行委員長に選出された。書記長は経 済学部の山縣先生であった。労使の問題は六年間、山梨県労働委員会公益委員をやっていたので第三者的には経験 があるが、労働者側よりの要求は少し異なる。ボーナスや賃上げ交渉の時は深夜迄事務局長(理事長は高令の為早 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六五 退が多かった)と団交を激しくやりあった。駒大の賃金は当時はトップのレベルでボーナス、賃上げの結果を他大 358 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六六 学の組合は注視していてよく電話がかかってきた。またその時期は駒大本館の新築の計画が実行段階であり、教職 デ ー と し て 緊 張 し た の も そ の 頃 で あ っ た。 (七月の組合の総 X 出演することもあった。研究や史料解読については毎号の様に駒大法学や政治学の紀要に載せ T V させていただいていたが、右の様な法制史的内容の短編は月に三、四本書いている頃でその材料を上手に探すのに つ いて 何 回 か しても評価された。(この他、「法の苑」や新人物往来社の「歴史読本」にも度々載せられ、刑事裁判や江戸文化に を解説した。 「 戸 籍 時 報 」 は 毎 月 刊 行 の 全 国 の 法 務 局 や 法 律 実 務 家 対 象 の 雑 誌で 五 年 間 好 評 連 載 さ れ 、 法 文 化 史 と であったので、昭和五十九年四月よりは日本加除出版の「戸籍時報」でも江戸の法制、裁判事例と現行法との対比 主として民事法制を現代法と比較しつつ具体的にやさしく連載するようになり、これは、二年半もつづいた。好評 状もうけた。時間があることは有難いことで、その年の前辺りから秋田書店の「歴史と旅」の月刊誌に江戸時代の である。古文書の解読も重要であり、墨筆にもあこがれ、自らもこの年に書道芸術院にも通って「書道師範」の免 となり、久々でアカデミックな雰囲気で日本法制史の特に近世刑事法や仕置例の研究に集中した。頭のリニュアル 昭和五十六年度は法学部教授会の御承認を得て私は東大法学部研究員として公費在外研究、国内留学に行くこと 会で一年間の成果を総括して次期執行委員にバトンタッチできた。) との待遇格差を無くすようにしようと決り、実行を た。翌年四月には組合執行委員会の四日間の湯河原での合宿があり、北海道教養部教職員にも組合の班を作り東京 教学施設を、事務室は地下に変更になったがその周りの土を掘り拡げ、採光、通風を確保し、実質上は一階的にし が現在の本館である。記憶にあるのは、地下の駐車場には排気ガスが出るので反対。一階玄関正面にはシンボル的 員、学生の重要な環境条件にもなるので、その設計や施設については団交で相当にやり合い、何とか終結を見たの 357 苦労していたこともあった。 昭和五十八年も毎年一月五日はゼミ生が文京区の自宅へ集まり新年会をやった。卒業生を含め年々ゼミ生の数は 増えて行き、結婚の仲人も何組かしているのでそのお子様も来られ(孫みたいで)お正月は大にぎわいであった。 夜まで宴会がつづいた。料理を作り接待してくれた家内に感謝大であるが、ゼミ生達は今でも「教授の家」で新年 会をやった楽しい思い出を語ってくれる。 この頃は新年会に集まる人は五、六十名から百人近くまで増えてきた。(平 成元年、家内の大病の後は中止) 昭和五十八年より私は大学院教授に昇格して指導教授・隈崎博士→東大教授・石井良助博士の「法史学」の講座 を引続くこととなった。名誉なことであり責任重大であった。 長男忠治の同級生 ― が学習院高等科の歴史研究会の旅行で岡崎先生御 この頃は非常勤を含め数大学で教えていて学年末の法学や法制史の答案の採点は二千枚を越えて一月末は目や頭 がおかしくなった。 ― 三月には礼宮様(現在の秋篠宮様) ― 引率で友人と共に湖国へ来られ彦根でまず私の本宅「埋木舎」(井伊直弼が十五年間文武両道を修業した公館 国特別史跡)に御尊来御説明も申し上げた。御昼食もとられた。その後彦根城を御見学。 この年の春から長男・忠治がカリフォルニア州立大学へ留学中のこともあり、夏休みに家族全員で一ヶ月半カナ ダよりアメリカ西部・東部の主な都市を巡った。西部はカナダ国境からメキシコ国境まで家族全員で、東部はボス 六七 トンからマイアミ迄、日大の茂野先生と息子と三人で一週間ドライブした。二四〇〇マイル、約三九〇〇キロ、本 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 州と九州をぐるりと一周した距離に近い。 356 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六八 昭和五十九年三月、私は胸の圧迫感があり東京女子医大で検査の結果「肥大型心筋症」と診断されショックでは ― 個人所有の為、 私も二千二百万支出 )実行することとなっ 一月十七日、新年号の早々、私は法学部長(理事にもなる)に選出された。法律学科主任・雨宮教授。二部法律 平成元年。一月七日、昭和天皇は崩御され、新年号は「平成」となる。 三 して勤められることの第一条件だと思う。 の後もずーっと健康であることは何より有難いことである。家族全員が健康で無事過ごしていることが大学へ安心 昭和六十三年二月、家内が突如「クモ膜下出血」で東京女子医大病院に入院、手術の結果も良く健康体に復帰そ の中を通って夏休みが終ってしまった思い出がある。 執行部が続いた。この年の八月、中大講師でもあった私は通教の夏スクーリングも引き受けさせられ八王子迄猛暑 例年通り活動している。昭和六十二年四月より斉藤法学部長に代られた時は法律学科主任、全学教授会委員として 昭和六十一年四月、天皇在位六十周年記念式典があった。十一月には大島三原山大爆発の年、私はゼミを中心に 昭和六十年四月、小林法学部長の時、二部法律学科主任として私は執行部入りをした。 た。 「不幸転じて福となす」ラッキーのことであった。 全部の解体修復を五年がかりで(予算二億二千万 ― の南棟が(建築後三百年位経つ)近江地方の大雪で全壊した。これが契機で文化庁は国特別史跡でもある「埋木舎」 あったが投薬等の対応でその後は今日迄三十年も元気でいられることは有難い極みである。同じ月、 本宅、「埋木舎」 355 学科主任・西教授。政治学科主任・竹花教授。教務部委員・荒木教授。の構成で法学部執行部が構成され二年間の 任期を完うすべき決意で四月よりスタートした。この月、大久保ゼミ十五周年記念パーティーがワシントンホテル で行なわれ、ゼミ生、ゼミ卒業生達も法学部長就任を祝ってくれた。 法学部長になった春頃より何か一つ記念に残したい事を考えていた私は、最高裁判所推戴の主に各旧制大学法学 部以来の「関東学生法学連盟」 (略して関法連)が長い歴史があり法学部学生どうしの法理論の発表の競う場であり、 各大学法学部生の相互親睦のすばらしい伝統的組織があることを知っていた。私自身も中大法学部の四年間、関法 連の委員であり、自らも法律討論会に中大代表で出場(会場は早大大隈講堂)優勝し、最高裁長官賞を頂いた思い 出がある。 駒大法学部においても大久保ゼミ生が中心となり、法学部や大学の御了承を得て(連盟加盟費も必要の為)中大 当時の加盟大学は早大、慶大、明大、中大、日大、専大と一橋大であった。 ― 私の研究室が 関法連委員の指導もうけて、その秋頃入会出来、初回の法律討論会に参加・出場出来た事は何よりの成果で嬉しい ― 極みであった。 駒大の連絡先になっていたが、その後は西教授にバトンタッチ以来、ずーっと今日迄続いている。 十二月、駒沢大学と交流協定を結んでいた、オーストラリアの名門・クインズランド大学より二十名位の学生達 が約二ヶ月の短期留学に来日した。日本語や日本文化や史跡等をめぐるスケジュールが用意されていた。しかし、 滞在するホームスティー先が用意されなければならない。先生方のお宅や大学近隣のお宅でお子様も英語の勉強に なるということで数は揃った。(一人専用の一室が用意されなければならない)私も、この年の秋に文京区の自宅 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 六九 を木造家屋から三階建レンガ張りの鉄筋コンクリート造りに新築したばかりであり、 幸い部屋数もあるのでホーム・ 354 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七〇 ステーを引き受けた。カイリーさんという女子学生で、ベッド、勉強机もあり、陽当りの良い庭にも面し居心持良 世紀のニーズに合った新学部は四学部ほどで定員は八百人~千人(総定員ほぼ四千人ほど)第二キャンパスは本校 二キャンパスの候補地やその買収財源等を委員総出で夏休みも返上して深夜迄も十数回委員会を開いた。 「二十一 員会」(座長・近藤教授)であり、各委員会は概ね平成四年三月頃迄に「答申」 (案)を出すこととなった。私は第 長・ 大 久 保 教 授 ) 第 二 は 「 本 校 キ ャ ン パ ス 問 題 専 門 委 員 会 」 (座長・飯岡教授)第三は「北海道教養部問題専門委 また各プロジェクトチームも作られ「答申案」を作ることになった。第一は「第二キャンパス問題専門委員会」 (座 の各部長等約四十名で 組織された。「長期計画委員会」は効率よく活動できるために「常任委員会」が設置され、 ので、学長、副学長、理事長推薦委員、各学部長、各学部より選出された委員各一名、教育四役、事務局長、事務 四教授であった。この委員会は駒大の将来的ビジョンや長期に渡る具体的実施基本計画策定の重要な委員会である 学長より大学の長期計画委員に理事長の推薦委員に指名された旨ご連絡を受けた。大久保の他近藤、三幣、川本の 平成三年は四月より法学部長は無事任務は完了し、大学院法学研究科委員長に引き続き選ばれた。この他、平井 年度は新潟と高崎を担当。次年度は高松と高知を担当しご熱心な父母の方々と交流した。 学部長達は分担して全国各地で開かれる駒大父母会懇談会に大学を代表して参加することになっていた。私は初 ての短期留学生のホームステーを引き受けるようになった。 内の実家にも訪問、歓待も受け日本のお正月気分を味わってもらった。それから四年程毎年、年末から正月にかけ 話をしてくれた。浅草や上野の博物館、鎌倉につれて行ったり、お正月は娘の和服、美しい振袖を着せて目黒の家 い部屋と云っていた。昼は大学へ行くが朝・晩は家族と共に食事もして正に娘が一人増えたようで、家内もよく世 353 から一時間以内の田園都市線沿線とする。新設学部のスタッフは現在の教職員を最大限活用し、新採用は極力押え る。新学部の開校は平成七年を目途とする。財源は全額自己資産、現在の教学に影響のあるものは避け大学の資産 を売却の他借財で賄う」 という概ね内容の答申を用意はしたが、 常任委員会とも打合せも行い慎重審議した結果、「売 却可能な全校地を処分し田園都市沿線に新たな土地を取得(所謂、横浜第二キャンパス)し平成七年度に新学部を 開設することは文部省との対応も含めて困難である」との中間答申の主文を理事長に提出したのである。 この中間答申により新学部や第二キャンパスはデッドロックに乗りあげたが三ヶ月後に「苫小牧市学部設置調査 専門委員会」が急拠追加設置された。これは從前より苫小牧市が広大な土地と五十億円以上の財政援助をして駒大 の誘致を熱望していたからであった。この特別委員会メンバーは、平井学長、上坂副学長、大久保、渡辺、近藤、 この委員会が元となって発展し苫小牧駒沢大学の公私協力大学の開学となっていくが、これは苫小牧駒大の処 大石各教授と北海道教養部の三島教授の七名であった。 ― ― で詳述する 十月末より大久保ゼミは日本文化の源流の中国の文化、史跡を見学・研究しようということになり中国旅行に出発 した。北京、杭州、無錫、上海、香港であった。参加者は大喜びで「百聞は一見にしかず」と中国文化や史跡巡りの この研修は大いに効果を挙げ、毎年、海外研修を行うこととなった。訪問地は年によって右の他に南京、大連、天津、 蘇州、青島、秦皇島等組わせが異なるが平成八年迄毎年実行され六年間はゼミ生を引率して中国を訪問している。 七一 ある年は北京大の日本語学科の学生十五名位と学食で交流会があり「北国の春」を日本語で美しく歌って歓迎し 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) てくれた時は感激した。 352 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七二 年末は例年のクインズランド大生のホームスティーがあるが、ステー先の御家族に全く何の御礼も出来ない大学 ― が食費の補助をお出ししたことがあった。云い出した私が初代の会長を短期間ついた。 ているので私自身猛勉強の連続であった。 この親善協会は今日迄 で始まり、七月よりは自己点検評価委員会の活動も始まり、全学教授会の時は毎回、私が詳しく説明することとなっ 研究棟も管轄その責任の重大さに身がひきしまる。通常と異なりその年の六月より新カリキュラムの研究が各学部 平成五年四月より阿部学長になると私は教務部長に任ぜられた。教務部は大学教学関係の要の部署、職員も多く して、南欧の風土や史跡を堪能した。 この年の末、長男がスペインのナバーラ大学へ留学しているので家族全員でフランス、イタリー、スペインに旅 で合計五千点以上になり、史料の保存と斯界の研究に大いに貢献していることとなった。 た。從前、東大法学部近代法政史料センターでも千点近く大久保家文書のマイクロフィルム化が行なわれていたの 平成四年頃より五年間、毎年、彦根城博物館史料部より、私の所蔵の約二万点の先祖伝来の古文書の調査が始まっ 味のあるレベルの高い方々の訪問は絶えない。 学者が入館した。二十年以上経た今日は一万人一寸の入場者に減っているが、しかし、井伊直弼や茶道や歴史に興 し祝賀会を三月末開き、文化庁、県、市の担当者も参加された。四月よりは一般公開もされ、その年は三万人の見 この年、雪害倒壊以来、五年をかけて全面解体修復していた彦根城趾内の本宅「埋木舎」 (国特別史跡)も完工 続いている。大学も種々予算をつけるようになったのである ― の 予 算で あ っ た ので 有 志で 、 「 駒 大 国 際 親 善 協 会 」 を 創 立 し 学 長 始 め 諸 先 生 の 浄 財で 各 御 家 庭 に わ ず かで は あ っ た 351 十一月にはオーストラリアのブリスベン市にある州立グリフィス大学と駒大との「学生交換協定」の調印式に「学 長代理」として教務部長である私と坂本国際センター所長が伺ってグリフィス大学側のウエッブ副学長、ブルーク ス国際センター長とがそれぞれ署名責任者として無事調印を完了した。グリフィス大学はブリスベン市の南西丘陵 地帯に広大なキャンパスを持ち環境研究学部他六学部四十二学科、学生総数一六〇〇〇名を擁する名門総合大学で あり現地へ伺って実感した。 六月には皇太子殿下と雅子様の御結婚のおめでたい年でもあった。 私は右の他、法制史学会の監事に選出された。また、ゼミでは新築間もない房総・富浦の駒大セミナーハウ ス で夏合宿が始まった。中国研修旅行は北京、桂林、上海で実施、古文書調査、保存、各雑誌の連載執筆、何回かの 出演等多忙の職務を楽しんでこなしていた。ロータリークラブに入会したのもこの年であった。 遠慮してきた頃であった。 「苫小牧駒沢大学」設置、初代学長就任。それ以降に関する記述は第三章に詳述する。 う、平井学長より云われていたので次第にその方の準備や実地調査等が多忙になってきて法学部の方の校務等は御 の立場がいよいよ新大学の実現可能性が出てきたことに伴い、私はその「設置準備委員会」の中心的委員になるよ 平成八年頃より、前述の「長期計画委員会」より発展していった「苫小牧市学部設置調査専門委員会」の方の委員 平成七年~九年も法学部教授として例年通りの教育・研究活動は勿論熱心に行っていたことは申すまでもないが、 福沢諭吉先生創設の伝統ある銀座の「交詢社」にも会員(社員という)として選定され登録できたのも嬉しかった。 平 成 七 年 は 私 は 山 梨 県 地 労 委 公 益 委 員 で あ っ た の で 労 働 委 員 会 発 足 五 十 周 年 記 念 に 当 り 知 事 よ り 表 彰 を 受 け た。 T V 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七三 平成十年三月十一日、五時半より大学会館三階で法学部の先生方がほとんど全員お集まりいただき、私の苫小牧 350 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七四 駒大の学長赴任と福田先生の早大への御転勤、それに長い間、法学部の事務に居られた高橋さんの送別会が開かれ ある。時あたかも苫小牧市制五十周年のお祝いの年でもあったのである。 であった新大学「苫小牧駒澤大学」が開学した。胆振・日高地域での初めての四年制の公私協力大学のスタートで ンターチェンジを二つも有する正に北海道の表玄関、苫小牧市に十七万市民の二十年に渡る四年制大学誘致の悲願 平成十年四月、北海道・千歳空港に近く、製紙・石油・自動車等の工業都市・国際港湾都市・道央高速道路のイ 一 第三章 苫小牧駒沢大学の創設 面的バックアップのお陰である! いただいた花束がジーンと来て目が潤みよく見えなかった。勿論これら思いきり勤められたのは家内や子供達の全 月の教授宅での新年会……これら総てに心より感謝する駒大法学部時代! 本当に有難うございました。送別会で 年行く中国への研修旅行、ソフトボール大会の優勝の連続、春、秋の合宿、各班で競っての研究発表、コンパ、正 物である。思い出多い駒沢大学のキャンパス、広大な駒沢公園をゼミ生達と歩きながらディベートもしたこと。毎 保ゼミを巣立って行った約五百人の学生さんは人物も良く、がんばりやで各方面で活躍中で将来が楽しみの私の宝 た。本当に立派な大学法学部であり、すばらしい先生方や私の講義を聴いて下さった何万人の学生さん、特に大久 た。私は二十四年間、法学部でお世話になった思い出が走馬燈の様に写った。各先生と思い出話し等して盃を重ね 349 「苫小牧駒澤大学」 (以下苫駒大という)の誕生は三つの大きな「力」の合作であったと云える。 第一は、苫小牧市民の二十年に渡る四年制大学誘致運動である。その中心は「苫小牧大学誘致期成会」で十二万 人もの署名を集めて市民の駒澤大学誘致の「嘆願書」の提出。鳥越市長(当時)の施政にに基く莫大な市の財政援 助(五十億円と十五ヘクタールの土地提供)しかも、一私大に地方税を増額されさえした。市議会の全議員一致で 苫駒大開学の支援を議決された等種々の御協力に対し、苫駒大創立にとっては忘れてはならない御恩であり「公私 協力大学」「市民立大学」の使命をいつまでも忘れてはならない。これが第一の「力」である。 第二は昭和四十年に既に開学して いる「駒澤大学苫小牧短期大学」 (こ れ も 美 園 の 校 地 は 市 の 提 供 に よ る 誘 致 ) の三十余年に渡る苫小牧市における高等教育の実績があり、平成五年一月に、駒大の楢山大典理事長の「四年制大 学の苫小牧への新規の進出は断念。しかし短大の改組転換による四年制創設は今後協議する」との市への公式回答 を受け、平成六年十一月「駒大苫小牧短大改組転換委員会」(委員長・嶺金治学長)が発足、駒大本部への要望書 を提出し、七年六月には短大教授会においても英文科、国文科の四大への改組転換が決議されたのであった。この ような短大の四大志向への真摯な御努力が第二の「力」である。 第三は、東京の駒澤大学における長年に渡る流れ(後述する)の中で、蔵山理事長、奈良学長、雨宮副学長(次 の学長)のリードによる組織的な開学への意思形成の決定とその後の「苫駒大設置準備室」(委員長・大久保法学 部教授)の実践力と文部省に対する設置の申請手続の交渉の実行力等が第三の力である。 こ の三つの 「力」 が正に一体化し、 昇華した瞬間にのみエネルギーが爆発して苫駒大の創設の花が開いたのである。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七五 ここで、第三の駒澤大学での苫駒大創立への流れや学内状況等について長年かかわってきた。私の軌跡を中心に 348 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七六 述べさせていただくこととする。私の半世紀余の大学人としての生涯の中で駒大時代に強い努力をした思い出であ は大久保(苫小牧担当)近藤(岩見沢担当)の両教授が入り、短期間で十数回の委員会開催で十一月「中間報告」 れた。その委員は平井学長、上坂副学長、渡辺事務局長、中西苫小牧短大学長ら実行力ある首脳の方々と専門委員 平成四年四月、平井俊栄学長の時代「常任理事会苫小牧駒澤大学設置検討部会」が一歩前進、実現方向で設置さ 制学部を駒大が苫小牧で開設」等々大活字がおどり市民の方々の大学誘致の熱望が伝わってくる。 私達が市との交渉や現地候補地の視察等を行う度に地元紙は「大学誘致に希望の光」 「駒大学内に専門委」 「四年 任命された。 員会」が急拠追加され、從前いくつかの大学新設に関与してノウハウを熟知している大久保委員が専門委員として ている「苫小牧市」の四大誘致にシフトを変更、長期計画委員会の専門部会として「苫小牧市学部設置調査専門委 これに代わる新らしい大学の発展策として前々より駒大へ熱いエールを送りつづけ財政支援、土地提供を申し出 の計画は種々の条件で実現困難である」との理事長の決定を見たことは前述した通りである。 既存の教学に直接関係のない施設の売却等で財源を作り平成七年度に開学することの「中間答申」 が出されたが、「こ の座長に私・大久保法学部教授が就任、横浜の第二候補地のいずれかに四学部位の新キャンパスを創設する計画が 期計画委員会委員」に任命され、 その委員会は三部門で編成されていたが第一の「第二キャンパス問題検討委員会」 平成三年四月、私は法学部長を終了し、同大学院研究科委員長になった頃、当時の平井学長より理事会推薦の「長 苫駒大の創立の経緯は十数年来の苦難の道を経ての誕生であった。 り、大学や苫小牧市に些かの貢献が出来た嬉しい記録だからである。 347 (案)が成文化されるに至った。「從来の短大の美園キャンパスで新たに四大を創り、地元に合った学部を創設する。 設置に付ては市の財政支援を得る」等であった。 然し、突如、平成五年一月、楢山大典理事長方が苫小牧・鳥越市長を訪問「苫小牧駒大の開校は断念する。その 代わり、既存の駒大苫小牧短大を「改組転換」して四年制大学の実現を目指したい」と正式に伝えた。鳥越市長や 市民の期待が大きかっただけに市長は「誠に残念だが引き続き協議を進め早急に実現してほしい」と述べられ、苫 小牧の大学誘致は事実上振り出しに戻った。私達委員達も何回も深夜迄委員会を開き、現地調査も行ない市と折衝 の努力も無になるかと思いがっかりした。地元新聞も悲観論が大勢を占めた。 二 平成六年十一月、苫小牧短大は、国文科・英文科(各入学定員五十名)を廃止し、食物栄養科(定員二百名の内 五十名を新大学へ振替)の定員減で四年制大学(定員二百名)の国際文化学部を創設すべく前述の如く「苫小牧短 大改組転換委員会」を設立し鋭意会議を開催の結果、平成七年の五月、学校法人・駒澤大学理事会に「改組転換の 基本構想」が示され、六月、苫短大教授会でも全員一致四年制大学への改組転換が議決されたのである。 東京の駒大本部の方も前述の如く執行部は蔵山理事長、奈良学長、雨宮副学長の新体制になっておられ、組織的 にも各教授会、各部署や全学教授会の意向もふまいつつ、再び苫小牧に四大を創設されるべく再稼動のカジをとら れたのである。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七七 七月、駒大が苫短大の改組転換のスタイルで四年制大学開設の意向がある旨、苫小牧市へ文書で表明。十一月に 346 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七八 は、駒大が四年制大学の設置構想を発表、市に六十億円以上の財政支援を要請するに至る迄進行した。 大変喜ばれたのであった。 の慶祝をトップニュースとして伝え、胆振・日高地区で初めての公私協力の四年制大学創設に市民・道民の方々も 八月六日は、苫小牧市役所において、蔵山光堂理事長と鳥越市長の協定書の調印式が挙行され、地元各新聞はそ ニュータウンに開学、初代学長は大久保治男法学部・大学院教授とすることが総て承認議決されたのである。 七月二十五日の駒大理事会においても原案通り可決され、苫小牧駒澤大学国際文化学部(定員二百名)錦岡の るものである。 あったことは、二十年来の市民の悲願が実現する感激の一瞬を共有しようとされた市長の気持に心より敬意を表す である。鳥越市長より東京の蔵山理事長、奈良学長宅へ夜の九時三十八分、市議会で可決された即刻に電話連絡が (一期、五十億円、二期、三億円、約十五ヘクタール(約五万坪)の土地の無償譲渡と貸与)案件が決議されたの 七月二十三日、苫小牧市の臨時市議会において議員全員一致をもって苫小牧駒澤大学へ原案通り財政援助を行う 予定等が決定されたのである。 学部教授)とその委員の構成員。さらに同設置申請準備(寄付行為変更)の委員会構成員と今後の開学へ向けての 四月二十四日の学校法人・駒澤大学理事会において、「苫小牧駒澤大学設置準備委員会」(委員長・大久保治男法 双方の大学内に開設することを決定した。 四月八日、駒大常任理事会においても「苫小牧駒澤大学設置準備委員会」および「設置準備室」を東京と苫小牧 平成八年の一月には苫小牧市側も早速に庁舎内に「大学誘致推進準備室」を開設、 駒大に全面協力を約束された。 345 苫駒大の創立の経緯は十数年来の苦難の道ではあったが、ここでめでたく開学が総て決定されたことは長年これ に 携 わ って き た 私 に と って も 嬉 し い こ と で あ る が 、 「 よ し 北 海 道 苫 小 牧 の 大 地 」で 駒 大 の す ば ら し い ニ ュ ー キ ャ ン パスを創らねばならないという重大な責務(男のロマン)を感じ、身の引締まる思いであった。 三 理事長と市長の協定書調印の翌日(八月七日)、設置準備委員長たる私は早速に担当の職員の方と共に文部省(当 時)企画課へ新大学設置に付あいさつと相談に行く。また、行政課にも伺う。 大久保委員長は水を得た魚のように開学へ向ってのフル稼働が始まった。この後も月に二、三回のペースで文部 省企画課(カリキュラムや教員審査)と行政課(寄付行為変更や財政)参りは熱心に続くのである。 の マ ー チ ン 校 長や マ ッ セ イ 大 学 首 脳 と も 会 談 して、 苫 小 牧 に 四 大 が 開 学 後 の 八月十三日~二十一日には何と早々にニュージーランドまで海外出張。 苫小牧市との姉妹都市のネピア市を訪問。 アラン・ディク市長と会談、 十月の七回目の苫小牧行では地元高校十三校、市長は勿論市役所各部長、胆振・日高の町長、道庁教育長、地元 フを文京区の自宅へお呼びして慰労し、共に一段落したことを喜び合った感激の夜であった。 できたのである。その夜は苫小牧より書類提出に上京された。清水教授、石川、中川、佐々木、横山の北海道スタッ 九月二十六日は、熱心な文部省通いや莫大な申請書類作成も急ピッチで完了。文部省企画課への申請書類を提出 海外研修、交換留学生協定、苫駒大の現地ドミィトリィに迄会談している。(申請書類にも必要) E I T 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 七九 各マス・コミにもあいさつ廻りと協力を要請している。十一月初旬、例年の通り中国研修旅行の大久保ゼミでの海 344 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八〇 外旅行の帰路、苫小牧市のこれも姉妹都市の中国・秦皇島市政府を訪問。李外事弁の長と会談、留学生受け入れの 省企画課へ申請書類提出、問題点無く即刻受理されたのであった。 五月十五日は私は秦皇島東京事務所を訪問、申所長と留学生受け入れについて会談。そして、六月十一日、文部 れ御接待もした。 講堂壁画に私のロータリーでの友人・能仲画伯が無償にて大作を御寄贈賜る等の打合せの為、文京区の拙宅に来ら 四月六日、来日中のニュージーランド・マッセイ大学・パーカー氏が交流協定について。四月二十二日には新築 谷本関西外大学長の三名であった。これらの結果、文部省より「苫駒大建設審査合格」の通知を受け前進した。 関係のヒアリング。同じく奈良学長と大久保学長予定者が出席。審査委員側は塚田立大学長、中川聖心女子大学長、 されるため出席。審査委員側は鳥居慶大学長、 島田文教大学長、 広末北大学長の三名であった。翌日は文部省 「行政課」 正月明けの一月二十二日、文部省「企画課」関係のヒアリング、奈良学長と大久保苫駒大学長予定者よりの聴取 久保委員長と嶺短大学長が出席、市側は市長、議長、大学誘致期成会長等が参列盛大に行なわれた。感無量であった。 錦岡の新キャンパス「地鎮式」が駒大側、桜井総長、奈良学長、渡辺事務局長、雨宮副学長、池野総務部長それに大 一月十三日、私は正月早々鳥越市長を表敬訪問、いよ〳〵あと一年後は開学へと共に激励し合った。一月十四日は 者は緊張の連続でもあった。 平成九年は苫駒大開学へあと一年のカウントダウンに入ったが、文部省の実地調査もありラストスパートと関係 よいよ建物建設にも着工される。(設計は久米設計) 予備接渉を自弁して行っている。十二月二十日、新大学の建設業者は東急建設と地元の中心的数業者と決定されい 343 七月十二日、 大学中庭に建てる、 シンボルオブジェの製作の打合せを行ったが、予算が無いのでデザインは私自身、 素人で行うこととした。種々考案して、公私協力は二つの輪、行学一如は組み合っている二つの歯車(世界にはば たく羽を持ち風により方向変更)、信誠敬愛は四つのベルをさげ午前九時、正午、 午后三時と六時に異った音楽がキャ ンパス内に響く仕組を考え、選曲も行った。自分乍ら専門家でも無いのによくやったと思った。このシンボルオブ ジェは今日でも校舎群の拡がる中庭の中央に堂々と立ち苫駒大の発展を見守っているのである。 夏休み明け、新校舎建設も急ピッチで工事が進んでいる騒然とした雰囲気の中の九月二十六日、文部省企画課の 実地調査が行なわれた。主査・青柳東大副学長、副査・国分日本芸術文化振興会理事長で駒大側は蔵山理事長、雨 宮副学長、大久保学長予定者等であった。 十月一日、めでたく「上棟式」が挙行、市長始め市首脳、駒大理事長始め法人首脳の方々。私は新大学の概要を 出席の皆様に御説明した。 十月二十三日、今度は文部省行政課の実地調査。主査・大南立命館大総長、松田聖和学園大学長であった。 十月二十八日には文部省企画課へ最終の書類を提出。十一月初旬には学長予定者である私が直接に近隣の四町に は大学設立を応援して下さったので、白老、鵡川、追分、早来の町長方に御礼のごあいさつと、近隣の高校長にホ テルへ集っていただき教育懇談会を開くことも行った。完成間近い大学の現地見学も多くなってきた。 十二月十二日、夕方五時、文部省より苫小牧駒大の正式に設置認可の電話をいただいた!翌朝の地元の各新聞や マスコミは一斉に認可新大学名を発表、初代学長のことや就任の専任教授名やカリキュラムの特色等も報じていた。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八一 私も地元新聞に紹介されたり、 インタビューを受けた。私は十六日には早くも苫小牧への単身での引越準備に入った。 342 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八二 十二月十九日。文部省へ「設置認可証」を受領に行く。奈良学長と大久保設置準備委員長(準備が終え、初代学 苫駒大は苫小牧市の西部・錦岡のニュータウンの文教住宅地域に建設された。樽前山と太平洋を両手に展望でき 学」の概要をご説明したい。 その前に大変な努力で完成、開学に漕ぎつけた、二十年来の市民の悲願でもあった公私協力大の「苫小牧駒澤大 に年表的に項目のみ記述して本稿題目の私の一タームにする。 記録も多く残っている。執筆頁数の関係もあり、この四年間は初代学長、大久保の職務上の行動記録を中心に簡単 躍した時期である。開学後は大学全体で進行して行ったので、多くの教職員、学生、市民の方々も熟知することで 平成十年度より十三年度までは苫小牧駒澤大学が開学して完成年度までの四年間であり、私が初代学長として活 四 した回数八回、滞在二十日間、平成九年中は十三回、滞在四十一日間になる熱烈な開学準備であった。 因みに、私は東京の本館に設けられた設置準備委員長室には常時、さらに平成八年中に東京と苫小牧と空路往復 目的を達したので東京・苫小牧共に平成十年一月末辺りでその活動を完了して閉鎖された。 「設置準備委員会」も二年間で約五十回開催されて終了。「設置準備室」も本当に良くがんばっていただいた。その てきた私としては何か運命的なものさえ感じ、感無量、感激で一ぱいであった。 七年余りに渡る苫小牧市に「公私協力大学」を新設するという当初の目標はここで達成された。一貫して関与し 長に就任予定)の歓びは言葉に表せないものであった。 341 る雄大な長方形の市提供の十五ヘクタール(約五万坪)の平地に建設された。広い道路、隣りは公園や防潮林が広 型に美しい がり環境は抜群。市営バスが一日に当初は百二十本も正門内に入ってくる交通も至便。駐車場も八百台分用意され た広大な広さ。 建設一期工事は、本部棟、講義・研究棟、図書館情報センター棟、福利・厚生棟、体育武道館等が 重点にし、他は割愛することとした。 市長と共に学長も同道。公開講座や各公的委員としての協力等枚挙に暇が無いが本稿では苫小牧大創設関連の処を 化クラブ活動。地元と大学の交流協力。特に市との協力。市の行事等ボランティア参加。市との姉妹都市訪問時は 学部のカリキュラムの特色。アイヌ文化研究所や研究活動。国際交流。国際協定大学。学生スポーツの活躍。文 者は初年度は約三千名に及んだ) パスであり、贅沢な施設であった。 (建設予定の都立大、西武文理大学大学関係者、各役所関係者、市民等の見学 等スポーツ屋外施設目的七万四千平方メートル、総工費約七十五億円で、一学部の新設大学としては理想的キャン 設され、総面積約一万七千平方メートルにもなる。他に「野球場」 「サッカー場」 「陸上グラウンド」 「テニスコート」 他、 「ゲストハウス」(茶室、和室、宿泊施設)「国際センター」「大講堂」 「坐禅室」 「クラブハウス」等が一気に建 造りは全体として中世ヨーロッパの城と超モダンさを兼ね備えたすばらしいアカデミックな雰囲気であった。この シンボルオブジェ(デザインは前述の如く私)のある中庭を中心に連続して整然と建てられ、澁い茶色系のレンガ H 八三 平成十年一月、私は苫小牧へ引越、駅近くの街中のライオンズマンション(学長公舎)で王子製紙の煙が絶えず 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 流れていたが、海も遠望できる処であった。 340 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八四 四月より東京の駒大学長は山梨時代よりの親友。雨宮眞也法学部教授が選任されておられ、私の苫駒大学長時代 部の創設や北海道六大学野球加盟等の活躍も始った。 十月には大学祭(苫駒祭)国際フェスティバル、日本語コンクール等大学行事も順調で学生のクラブ活動や運動 されかかげられ除幕式が行なわれた。 十月一日には私のロータリーの友人・能仲画伯制作の駒大建学の精神の入っている哲人の壁画が講堂入口に寄贈 以上が出席された。 七月二十五日には苫駒大の「開学式典」が仏式で伊藤譲爾理事長の導師の下、盛大に挙行され地元各界名士百名 と長年に渡る御努力に心より謝辞を述べ「解散式」で終了した。 六月十二日、長年お力添いただいていた「大学誘致期成会」の総会が新大学で行なわれ、学長のキャンパス説明 と「日本文化論」を担当) よる式典であった。文部省教員資格審査に合格された各優秀な先生方の熱心な授業が開始された。 (私は「社会と法」 四月三日よりオリエンテーション、四月九日、第一回目の入学式。晴れて一期生二百八十八名の堂々たる仏式に 三井物産アメリカ・カナダの社長・前三井物産常勤監査役)と清水学事課長と光吉事務長の協力スタッフであった。 保学長、嶺学部長(前短大学長)、佐々木不可止図書館情報センター長(前北大教授) 、斉藤七朗国際センター長(元 より採用の全教職員に辞令交付の伝達を行い、初代学長としての所信表明を行った。スタートの大学執行部は大久 四月一日、東京本部で苫駒大学長の辞令を理事長より交付され、二日には新らしい苫駒大会議室に於て、初年度 に大変御力添下されたのも幸甚であった。 339 尚、九月八日には文部省へ「教職課程」の申請書も提出された。 尚、三月にはロンドン大とのインターネット授業に苫駒大も参加。学長メッセージ映像も写った。五月には佐々 木先生の留学先、ノルウェー大のダークセン夫妻、十一月にはポールスミス大のスーザンテホン女史も来学。中国 との大学の交流の他に国際性も始動した。 因みに、十年中、東京本部との会議・打合せ等で 私は二十二回(四十四フラ イト)飛んで いた。こ の年は延べ 訪問。キャンパス内の「駒澤ドミィトリィー」 二ヶ月半位しか自宅に帰れず、他は日曜も長期休暇も無く苫小牧に在住して新大学の基礎作りに奮闘していた一年 であった。 平成十一年。 一月十一日~二十日。ニュージランドの姉妹都市ネピアの のオープンセレモニィーに学長、国際センター長で出席。 マッセイ大学にも訪問、認定書の協議。 ― 命され新大学が地元に期待されているので、大いに役立つこととする。 三月二十九日。文部省、教職課程認可(英語、社会、公民の資格とれる) れること多し ― 他の先生方も市や町の委員に委嘱さ 三月十二日。大学の隣の白老町情報公開審査会委員に町長より任命さる。十一月には白老町環境審議会委員にも任 E I T 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八五 四月七日。井桁早大教授(教大付属の後輩)方来学。早大のインターネットの将来、北海道より沖縄迄見られるこ 338 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) との一大学の施設となる。 も学長として行う。 P R 頼され三百人以上を相手に熱く語った。 「空港周辺の活性化について」のテーマであった。 ― この年、東京と二十一往復、四十二フライト 四〇〇〇人) 四月十四日、 ネピア市の N Z 八六 地区大会に於いて パネラーとして 苫駒大の紹介や 教育問題を講演する。 (約 国際部長ピーターウイルキンソン先生来学。 I M E I T 三 月 六 日。 札 幌 で の ロ ー タ リ ー 一月二十九日。管内特定郵便局長研修会で講演(約三〇〇人) 平成十二年。 ― 十二月十七日には、苫駒大と同時に開学した千歳科学技術大学の学長と私の二名で共同講演を近隣市町村主催で依 苫小牧との姉妹都市秦皇島では同市の燕山大学の学長を市長と訪問。交流協定締結の協議した。 十月十日~十七日。苫小牧市の公式訪問団員として市長、議長らと共に中国の瀋陽、秦皇島、西安、上海を訪問。 九月二十四・五両日は日本、韓国、台湾の民法学者と裁判官が出席の「三国民法会議」が苫駒大で開催されもした。 六月、市民の要望、公私協力大であるので、多くの市民大学講座も開かれるようになる。 ベントの講師を依頼され、新大学の 五月になると曹洞宗総合研究センターフォラム(約六五〇名)ライオネスフォーラム(約二〇〇〇名)のビッグイ 五月十八日。大学基準協会評議員会へ出席(東京) 337 四月二十四日、韓国・ハンリン大学より交流協定の件で担当教授来学。 五月十八日~二十日、 大分で開学した立命館大学アジア太平洋大学( ルに驚く。 )の開学式典に出席。その国際的スケー 生が軍隊の様に直立不動、一斉にマス・ゲーム等華やかさもあり驚き入った。 九月八日~十二日。中国・秦皇島市を公式訪問、燕山大学八十周年記念式典に招待され出席する。七、八百人の学 とって眞に名誉なことであり忘れられない思い出となった。これも北海道の大学のお陰であったろう。 議員の次に「大久保苫小牧駒澤大学学長殿に敬礼!」と五、六百人の隊員より栄誉礼を受けたハプニングは私に 八月二十日、恵庭の自衛隊第七師団四十五周年記念式典にめずらしい大学人として参列した折り、地元選出の国会 任理事会にて新学科と大学院修士課程の設置を早速に説明に行くというスピード実践力であった。 六月五日は私は苫駒大の更なる発展のために文部省に新学科設置の件につき相談に行き(以降十回位)十三日は常 し上げると大変お慶びであった。 お近いのに大変お元気で三十分ほど種々御質問を受けたり、私の母方親類筋の鈴木大拙先生との私の思い出を申 五月二十六日、福井の大本山「永平寺」にて宮崎貫首様に新大学の創設と初代学長就任を御報告、拝謁する。百才 帰路、苫駒大創設時の蔵山理事長の大分「松屋寺」を表敬訪問する。 A P U 駒大での開催を申し出、道内二十八大学学長参加で盛会で新キャンパスは好評であった。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八七 され情報交換や親睦をはかっていた。私は平成十年、開学より参加していたが、まだ三年目なのに新設早々の苫 十月二十日。北海道では国公私大の区別なく全大学が仲よく「全道国公私大学長会議」が毎年各大学当番制で開催 336 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 八八 校 長と も 会 い 楽 し い 十月二十一日~二十九日。市長と市民代表らニュージランドのネピア市を公式訪問。学長も市長より指命され参加、 ア ボ リ ジ の 民 俗 舞 踊 で 歓 迎 を 受 け 市 議 会 や 市 庁 舎 ア ラ ン デ ィ ッ ク 市 長 案 内で 訪 問 や 思い出となった。 E I T 大連外国語大学でも学長以下首脳と懇談、三大学共、交流基本協定の調印式まで出来たことは新設間もない小規 公式訪問している。即ち、韓国・ハンリン大学で学長以下首脳と懇談。中国・清華大学では学長以下首脳と懇談、 五月十四日~十八日、苫駒大学長として世界でも有名な三大学の学長さん方と大学交流の会談のために私は海外へ 四月、市教育委員会の教育指導研修会場にもなった。 三月二十八日、理事会で新学科並びに大学院修士課程の新設の承認があった。 二月十六日、文部省へ新学科の適合申請を行い、三月二十八日はその審査に合格した。 た。受験者は五〇八名であった。 一月二十日、二十一日、苫駒大が胆振・日高地区の「センター試験」の会場となって、第一回目の試験が行なわれ 平成十三年 本年は東京と十七往復、三十四フライト 尚、本年度から私は苫小牧市の文化財保護審議委員や公営企業等審議会委員にも任命されていた。 なってきた。公私協力大学の使命であろう。 会が本学で開催され公的な集会・研修やトーフルの試験場など地域のセンターとして大学施設が使われるように 十一月十五日はキャンパス内に「坐禅堂」が落成した。十一月には、市内高校長会議や胆振管内中学校教職員研修 335 模な苫駒大に対しては異例のことであって、私の熱意が些か伝わったのかもしれない。 本年度で新設の苫駒大も四年間の実績を看る「完成年度」の文部省の実地調査が行なわれるので全学挙げてその 実体を確認し各書類等を整備したのである。 六月五日、文部省「行政課」による完成年度の実地調査はすべて合格した。主査・黒田金沢工大学長、副査・守屋 公認会計士であった。 六月二十九日、文部省「企画課」の完成年度の実地調査もすべて合格であった。 以上、七、 八年の準備期間、新設後の四年間も総て順調に推移し、駒大本部は勿論、苫小牧市の全面的バックアッ プにて市民二十年来悲願の地元大学がみごとに完成したのであった。入学学生もこの四年間は総て定員をオーバー し、留学生も次第に増えてきた初代学長の責任は十分果たせたと安堵したものであった。 私はこの四年間、市長はじめ苫小牧市民にお世話になり、私も四年間居住し、苫小牧ロータリーにも入会してい たこともあって、地元の優良企業の社長さん方、マス・コミの方々、地元の各学校の校長さん方とも本当に親しく お付合いもできた。私個人としても地元に何か恩返しがしたいとも考え九月一日より末日迄「文化人・井伊直弼特 別展」を市の二十一世紀記念事業、本学完成年度記念として大久保学長コレクションを本宅の彦根「埋木舎」より 運搬、提供協力して、市立博物館で盛大に展示したのであった。(入館者も連日多く、市博物館始ってより二番目 に多い入館者数だと館の方より聞いた) 八九 十二月四日、池野理事長、大谷副学長と私、初代学長が揃って鳥越市長の処へ大学完成を報告に行く。すべてが順 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 調にて完成した。 334 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 本年東京と十七往復、三十四フライト す。 九〇 苫小牧市長 鳥越忠行 公印 』 平成一四年三月一五日 ここに開設にあたっての功績をたたえるとともに本市の教育文化への大きな貢献に対し深く感謝の意を表しま 力され、さらに初代学長として行学一如の方針のもと新しい時代にふさわしい高等教育の実践に努められました。 あなたは苫小牧市民の大きな願いであった四年制大学苫小牧駒澤大学の開学にあたり開設準備委員長としてご尽 大久保治男様 『 感謝状 報われるのであり実に感慨無量である。 鳥越市長よりその折り私に渡された「感謝状」こそ本章のまとめに相応しく、長年の公私協力大学創設の苦労が グランドホテルニュー王子で盛大に行なわれた。 市長であった。大学がお世話になった市内各界名士、近隣町代表、市民代表、大学の関係者等約二〇〇名が出席、 三月十一日。 「苫小牧駒澤大学完成年度祝賀並びに大久保初代学長感謝の夕べ」が開催された。発起人代表は鳥越 平成十四年 333 三月二十日。第一回の卒業式。市長、議長、地元財界代表等列席の下で挙行された。 大久保初代学長より「卒業証書」を手渡す。(私にとっては最初で最後の) 地元新聞は卒業式の様子と共に「ヒゲの学長完成年度で東京へ去る。御苦労さま!」 「 ヒ ゲ の 学 長 のこ と は 苫 小 ― 本年三月まで東京都五往復十フライト。大学完成迄、総計百五往復、二百十フライト 牧市民は忘れない」…… ― 第四章 武蔵野学院・四年制大学と大学院︵博士前期・後期︶の創設 一 「苫小牧駒澤大学」の創設計画から設置準備、開学へ、さらに初代学長と実質的責任者として七、 八年間も関って き た 私 は 、 そ の 完 成 年 度 を 迎 え て 一 大 目 標 を 完 徹 さ せ 、 駒 澤 大 学 や 苫 小 牧 市 に 貢 献で き た 喜 び で 満 足で あ っ た が 、 いささかグロッキーにもなっていたので、平成十四年度は充電の時期とも考え、一年間苫駒大教授会の承認を得て、 大久保家伝来の多くの当該史料はマイクロ化。写真版化、寄託中 ― 北海道へ飛ん 東大法学部近代法政史料センターや市立彦根城博物館史料部において「彦根藩・大久保家文書」の研究を久々で重 ― 点的に行うこととなった。 で行くことも無くなり、文京区の自宅や彦根・ 「 埋 木 舎 」 の 本 宅 の 書 院で 史 料 整 理 な ど の ん び り と 始 め た 早 々 、 私 の昭和六十一年より長年、理事をやっていた「武蔵野学院」の理事長高橋暢雄先生より「本学院は短大があるが、 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九一 これをベースに四年制大学や大学院を開設する計画があるので、駒大を退職されて是非共私にその開設委員長、担 332 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 当理事になっていただきたい」との懇願があった。 九二 生と奥様が我が家へ遊びに来られ「近くに引っ越して来たんだよ、よろしく。君は大学の先生だよな。武蔵野短大 任等多忙でお互いにごぶさたしていたが、駒大法学部執行部をやっていた頃の昭和六十一年のお正月突然に一彦先 海道の郊外施設も含め)急速に立派になり、生徒数も飛躍的に増えた時代である。私共は大学卒業後は私が山梨赴 武蔵野学院は高橋家の代々オーナー理事長であり校長も就任していた。一彦先生の時代は学校施設も(箱根・北 選抜生同士であった。小・中・高時代、特に戦中、戦後の大混乱期の思い出はつきないがここでは割愛する。 校(現在の筑波大付属小)に入学した六才からの同級生であり、しかも、プロローグでも書いた様に「科学組」の この四代目の「高橋一彦」先生こそ私の竹馬の友であった。昭和十六年四月、共に東京高等師範学校付属国民学 昭和四十四年に一男先生よりそのお子様一彦先生に校長が変られた。 が校長就任、終戦後生徒数も増え施設も次第に立派なものとなる。 昭和二十年の大空襲で校舎は全焼。昭和二十三年、新学制による「武蔵野中学・高等学校と改称。高橋一男先生 (昭和八年で逝去の後、再びとき先生復帰) 学校を移転。「武蔵野高等女学校」 と校名変更。校長もとき先生の御夫君、 公立学校長であった興惣先生に変られた。 九年には「大橋家政女子校」設立。創立者は高橋とき先生である。大正十一年には早くも現在地の北区西ヶ原に女 明治四十五年(大正元年)東京市日本橋区浜町に「大橋幼稚園」が開園(隅田川の新大橋に因んでの名付)大正 「武蔵野学院」は平成二十四年に創立百周年を迎えた(中野サンプラザホールで式典開催)伝統ある学校である。 ここで「武蔵野学院」のこと、私との関係を少し述べさせていただきたい。 331 でも法学と家族関係の講義を頼むよ。それに付属以来の友人だ。理事もお願いだ」と云われた。 (文京区千石、お 互い家は歩いて三分位)申し出を承知したことは当然。それからは旧交が復活した。 平成元年、私が法学部長に選ばれた頃、一彦理事長が来宅されて「幼児教育学科一つじゃもったいない施設だ。 国際教養学科を増設したい。貴兄はいくつかの大学新設に関係した経験もあるから武蔵野でも頼むよ」 と云われて、 私を「学科増設準備担当理事」にされ、そのカリキュラムや教員人事を任された。準備も順調に進み平成三年四月 よりは武蔵野短期大学国際教養学科が設立された。狭山の短大キャンパスも新校舎、赤い二階建てバス、英国風電 話ボックス、モダンな学生食堂等充実し一見外国風になり国際的雰囲気になった。私のアドバイスで中・高の制服 も森英恵さんのデザインによるモダンなものに変更されたのもその頃であった。 話は変わるが、私が苫小牧に行っていた平成十一年の十二月末、帰京した折り、短大へ新任の先生を紹介に文京 区の高橋邸に伺った帰り、一彦先生は「貴兄が創った苫小牧の駒大もうまく行っているようで何よりだな。遠い北 海道の任期が終ったら次は武蔵野へ来て、短大の国際教養学科を四年制大学へしてくれないか。更に将来は大学院 もいっしょに創りたいね。何卒よろしく頼むよ」と云われ、 いつもは玄関迄なのにその日は門の外迄出てこられ五、 六軒先を私がまがる迄手を振っておられた。その翌朝は私が苫小牧に戻った一週間後、十二月早々一彦先生は心臓 停止で他界されてしまったのである。六十五才のまだ〳〵の年令だった。訃報の知らせを聞いた時は全く信ぜられ なかった。一週間前の門前迄見送ってくれた言葉が私に対する遺言のようにもいつまでも残ったのである。御葬儀 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九三 の後、理事長は御令息の暢雄先生に引継がれたのであった。ここで話しは最初に戻っていただきたい。 330 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 二 九四 見つけて探求していけるよう、本学では特に「異文化理解」 「ビジネス理解」 「人間理解」の三つの柱を設けてカリ ながら、中心に自分自身の「アイデンティティー」を描き出していく。この座標軸に、あなたなりの「テーマ」を 文化に生きる人々の世界「グローバル・国際」 。自分を取り巻く四方の「他者」とのコミュニケーション力を養い 年者・幼児」ヨコに同世代を取ると、一方に大学を卒業したあなたが飛び込む「大人の社会」、反対側に異なる言語、 には『あなたを中心に、世代という観点から座標軸をタテに取ってみると、上には「高齢者・社会的弱者」下に「若 「国際コミュニケーション学部」とは何か。「他者理解」を目標にかかげる武蔵野学院大学の開学時のパンフレット ゼミは校務多忙の為辞退した。 大学の基礎作りに再びがんばることとなった。授業も担当し「現代社会と法」「日本文化論」「日本事情」であり、 成十六年四月、めでたく開学することができた。私は申請の責任上も初代学部長と更に副学長の重責にも就き、新 でもあったので設立趣旨、カリキュラム、担当教員、施設も従前よりので十分余裕があってスムースに遂行し、平 苫小牧駒大の申請の時と同じく武蔵野学院大学国際コミュニィケーション学部の新設は短大国際教養学科の改組 本編は駒澤大学関係 (苫小牧駒澤大学を含む) を中心に執筆しているので武蔵野学院関係は簡単に記すこととする。 因みに、平成十五年五月には「駒澤大学名誉教授」の称号を授与された。 ていた定年前に依願退職し、武蔵野学院の「大学設置担当理事」「設置準備委員長」に就任した。 を四年制大学、さらに、大学院迄創って発展させよう」と決意して、駒澤大学法学部に戻ることは止め、数年残っ 親友高橋一彦先生の遺言? 御令息暢雄先生の熱き武蔵野の発展計画に心打たれた私は「よし、武蔵野学院短大 329 キュラムを用意しています』と記されている。 学部が開設された勢いに乗ってその上に大学院修士課程(博士前期課程)を創ろうということが決まり、引続き 私が担当理事、設置準備委員長となり文科省大学設置相談室との接渉に毎月の様に出向いていたのである。 グローバリゼーションやボーダレス進展著しい現代社会において国際感覚を備え、国際舞台で活躍しうる教養・ 知識・行動力を有し、コミュニケーション能力を持つ人材を育てるべく、教育・研究活動を展開すべき大学院の創 立を目標に、カリキュラムの特色は、国や空間を越えたコミュニィケーションのために必要な基本的な語学、情報 処 理 能 力 の 修 得を 目 指す 「 ツ ー ル 」 。企業、経営、メディアにおけるコミュニケーションなど諸分野の応用スキル 獲 得を 目 指す。 「人間コミュニケーション」さらに日本文化、政治、経済、世界諸地域の社会、文化、歴史等につ いて理解を深める「前提理解」の三者をバランスよく融合的に修められるようデザインされている。 大学院の新設は専任教授をそろえるのが大変なのであるが、私は永年の友人の先生方も多いので御協力くださっ たことは有難いことであった。特に駒大時代の定年後のお仲間が加わっていただけたのは嬉しかった。元経営学部 長であった近藤禎夫先生が企業・経営コミュニィケーション。元経済学部長であった澁谷隆一先生に日本経済特殊 研究さらに友人の谷光忠彦先生(明海大名誉教授)に日本語特殊研究。苫駒大時代よりの室本弘道先生に情報処理 特殊研究、大連外大より劉金釗先生、関東学院大教授の折橋徹彦先生、他に短大学部時代よりの昇格の梅田、林、佐々 木各教授の先生方で総ての方が文科省の大学教員資格審査をパスした。私は日本文化特殊研究担当と初代研究科長 を引受けた。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九五 平成十九年四月、武蔵野学院大学大学院国際コミュニケーション研究科修士課程の誕生であった。院生も社会人、 328 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九六 留学生も含め、定員に満ちた。研究テーマも幅広く、駒大法学研究科を教えていた頃と比較してユニィークなもの 平成二十一年五月九日、私の七十五才の誕生日に深沢の駒大キャンパス内にある大ホール(元・三越デパートの ンライズ出版・近江文庫) 平成二十年は二冊の本の出版をした。即ち、「江戸の刑罰と拷問」(講談社文庫) 「文化人・井伊直弼と埋木舎」 (サ 平成十九年には彦根築城四〇〇年記念で、何回か私が井伊直弼に関する講演を行った。 調査に伺うようになり毎年夏休み返上で「報告書」を書く多忙さも加わった。 この年より私大協の「大学評価委員」に選任され、毎年、一大学(四、五人の委員のチーム・リーダーとして審査・ 平成十七年十二月には台湾の銘伝大学と交流協定を締結した。 平成十六年九月には大連外大四十周年記念式典に公式招待で出席した。 義した。学長がパオで歓迎会をやって下された。 平成十五年三月にはフフホトにある内モンゴル師範大学から「客座教授」の称号もいただいた。日本文化論を講 誉市民」の称号を授与された。 (従前は平山郁夫画伯や中野好子女優さんら数名) 元の燕山大学との交流協定や両市の港湾関係中心の市民の盛んな交流等の貢献に対し私に秦皇島人民政府より「栄 平成十四年八月に苫駒大学長として苫小牧市の姉妹都市・中国、秦皇島市との間で多くの留学生の受け入れや地 係する主な事柄のみ一寸述べさせていただきたい。 ここで学部や大学院修士課程の設置関係以外の平成十四年から平成二十一年まで(博士後期課程開設)の私の関 が多く、面くらうものもあった。 327 迎賓館)に於て「大久保治男教授・大学教職五十周年記念祝賀会」が二百名ほどお集りいただき盛大に行なわれた。 私との関係のある駒大始め各大学の先生方、現職の武蔵野学院大学関係の先生方、大学院や大学ゼミの教え子さ ん方、さらに、ロータリーや中大学員会(文京白門会、学外大学教授白門会等)藤裔会、出版社関係、東京教育大 付属の同級生有志の友人ら私と御縁や交流のあった皆々様が一堂に会して、私の半世紀にもなる教職員生活にエー ルを送り、思い出話しに花を咲かせていただき我が人生で至福の一時であった。家族や親類の人達にも出席しても らったことも嬉しかった。 この記念祝賀会に合わせて、私と御縁のあった方、親しくさせていただいた約八十名以上の方々から思い出話し 等のご玉稿も寄せていただいた。 「記念随筆集・一期一会」も八千代出版より発刊していただき私の生涯の宝物となっ た。 (出席の皆々様にも贈呈された)この記念随筆集は発刊の一年前より刊行委員会が出来て原稿募集や諸準備をし てくださったのである。委員長は茂野教授(元山梨学院大学法学部長) 、委員は高嶋准教授(苫駒大) 、工藤准教授 (日大) 、川端講師(東邦音大) (当時)と八千代出版編集部の方々であった。その後も随筆集のお一人お一人の文章 を何回も読み、その方々との思い出を回想することが楽しい一時となっている。本当に有難いパーティーであった。 三 武蔵野学院時代も四年制大学と大学院修士課程を創設していよいよラストステージとなってきた。大学院博士後 期課程の開設である。これにはさすが難関であり、 学部完成の一年前倒しで修士課程が認可されたこととは異なり、 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九七 修士課程完成後、文科省に対しても二年の空白(ご相談には毎年連続して度々伺ってはいたが)の後、平成二十三 326 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九八 年四月より大学院博士後期課程がめでたくスタートすることとなった。博士後期課程開設には何と云っても博士号 されておられた方で「日中の茶文化の研究」で両国の比較文化を深くされ、御自身が学界初めての発見されたこと 博士後期課程に入学してこられた第一号の院生は慶應義塾大学を薬学、文学、法学と三学部を優秀な成績で卒業 先生方も林教授、室本教授、渡辺教授、等多才であった。(平成二十五年現在) された先生方であった。少々高齢者が多いこともあったが文科省も認可した。この他、兼担で博士課程を御担当の 教授方が「マル合」審査にパスした。元々大学院教授の方が多く前任の大学では学部長、研究科長、副学長等もな 幸い、①には本多周爾教授、②には坂詰力治教授、汪玉林教授、佐々木隆教授、③には大久保研究科長、劉金釗 認可されない高いハードルであった。 科目、③社会・文化研究科目の三フィールドに分け、各分野少くともマル合教授が専任で各一名づつ居られないと や社会の比較よりスタートさせようとするものであった。そして①コミュニケーション関連研究科目、②言語研究 深める為に他の大学院と一味違う高いレベルのものにしようとして設立された。そしてその焦点をまず日中の文化 使し、国境を越え多様化した価値観や文化・文明の違いを乗り越え、他国の人々と交流し共生の理念と相互理解を 国際感覚を備え、国際舞台で活躍できる、高度な教養・知識・行動力を有し言語等コミュニィケーション力を駆 ケーションの角度から日中両国を研究する「日中コミュニィケーション専攻」を設置するものであった。 博士後期課程では修士課程の国際コミュニィケーション専攻を更に深く特化し、わが国で 初めて のコミュニィ 揃わなければならないのである。 が出せる実績のある所謂「マル合」の教授が厳しい文科省の大学設置審議会の教員資格審査にパスして基準人数が 325 もとり入れながらすばらしい博士論文を書きあげられ、完成年度のこの平成二十六年三月に「博士(国際コミュニィ ケーション)」の学位第一号を取得された。因みに指導教授は私であった。 平成二十四年六月には武蔵野学院創立百周年記念式典が盛大に挙行されたことは前述したが、その時迄に武蔵野 学院では学部、大学院修士、博士後期両課程が開学していて、幼稚園、中、高、短大と小学校以外、すべての学校 が揃い、特に博士後期課程は埼玉県西部を地元とするものは唯一であることは眞に嬉しく誇りに思うのである。 武蔵野学院における私の使命も総て成功裏に完結した。武蔵野学院に移ってからいつの間にか十一年も経ってい た。平成二十六年三月、博士号の第一号が卒業すると共に私の長年に渡る大学・大学院教授生活も卒業することと なった。 高橋学長・理事長は長年の武蔵野学院に対する私の貢献に対して、平成二十六年一月十一日(私共夫婦の五十二 年目の結婚記念日でもある)に「大久保教授最終講義」の時間とその後の学食でのパーティーを特別の御高配で開 催下された。講義のテーマは「大学教授半世紀」であった。武蔵野学院大、短大の各先生方、学部・大学院の学生 さん方、駒大大久保ゼミの卒業生有志の方、それに五十周年の時にもお祝いに来て下された多くの御縁のある方々、 地元・狭山の歴史同好会で私の公開講座を聴いて下された市民の方々等学食一ぱいの賑わいになった。それに家族 全員、甲府より娘婿高野孫左衛門氏(山梨県教育委員長等)迄馳せ参じてくれた。内孫二人より「おじいちゃま長 い間大学の先生ごくろう様」と花束を贈られた時は胸が一ぱいになった。皆々様に対し本当に有難く、心より幾重 にも感謝申し上げたところである。 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 九九 因みに、一時間半の最終講義はその後何回にも渡って地元のケーブルテレビにも放映され、私の長い間の高等教 324 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 育従事にエールがおくられた。 最後にそれを記し第四章の〆とする。 稱号記 一〇〇 した功績は誠に顕著なものがあります。よって御退職にあたり深く敬意と感謝の意を込め本学院より「武蔵野学 学部長、初代研究科長、併せて平成十六年以来副学長の重責を果され本学院の飛躍的発展に多大の貢献をされま て文部科学省の大学設置の担当部署との交渉に携わり、いずれもその目的を達成して、自らも教授は勿論、初代 士課程。平成二十三年には大学院博士後期課程の開設にあたり、その担当理事(開設準備委員長)となり主とし 成三年には短期大学国際教養学科。平成十六年には大学国際コミュニケーション学部。平成十九年には大学院修 あなたは昭和六十一年四月より学校法人・武蔵野学院の理事・評議員を二十八年に渡り勤められ、その間、平 大久保 治 男 殿 高橋学長は私に卒業証書ならぬ「名誉学長」の「称号記」をその折り渡して下された。 育に対し燃えつづけている。 平成二十六年三月末日を以って退職した。もう八十才になる高齢者になっていたが、気持はまだ若く心は高等教 より感謝又感謝であった。 半世紀、正確には五十四年間の私の大学教授生活のフィナーレとしては正にすばらしい最終講義となり感動し心 323 院大学名誉学長」の称号を授与します。 エピローグ 平成二十六年四月一日 学校法人・武蔵野学院理事長 武蔵野学院大学学長 高 橋 暢 雄 公 印 私の大学教職の五十四年間について述べさせていただいた。専任大学は山梨学院大学(六年間)山梨県立女子短 期大学・現山梨県立大学(八年間)駒澤大学法学部(二十四年間)苫小牧駒澤大学(五年間)武蔵野学院大学(十一 年間)の五大学で勤務させていただいた。駒澤大学は四百年の歴史のある伝統校であるが、それ以外の四大学は総 て創立された新大学で、文部省(後に文科省)の教員資格審査にも合格して、チャターメンバーの新任教員として 赴任していたことになる。新大学の創設は総て大変の苦労があったが、文科省より設置認可の許可が決った時の感 激と嬉しさはそれぞれ格別のものがあった。創立第一回の新入生がキャンパスにあふれ、 (一年生しか居ない)教 職員も動き出した興奮と満足感は言葉に現わせないすばらしいものがあった。 プロローグでも述べたように、私は幼少の頃から「学校ごっこ」の先生役が大好きであった。「三つ子の魂百ま 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 一〇一 で」と云うのか、小学校から高校まで「高等師範」学校の雰囲気で教育を受け人格形成ができたのであろうか。大 322 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 一〇二 学で教えること、講義をすることが大好きであった。若々しい多勢の学生の前で、 「日本法制史」や「日本文化論」 以外、非常勤の講座も常に担当している年度も多かった。 帝京大学法学部「刑法・教育行財政) 山梨大学教育学部「法学特講」 山梨学院大学法学部「法史学」刑法等 上智大学法学部「日本法制史」 (昭 ~ ) (昭 ~ ) (昭 ~ ) (昭 ~ ) (昭 、 ) 次に非常勤大学を列記する。カッコ内は就任の年度である。 創価大学法学部「法制史」 国士舘大学法学部「日本法制史」 中央大学法学部「法史学」 (昭 ~平 ) (昭 ~平元) 4 ) 16 50 49 62 42 40 13 8 (平 ~ ) (平 15 62 60 48 47 46 40 39 10 (平元~平 川村学園女子大学文・教育学部「法史学」 駒大大学院法学研究科「法史学特講」 他に三短大でも「法学」「家族関係」 ~ ) 大学で講義することが私の楽しみ、生き甲斐であり、趣味に近いものだったかもしれない。したがって専任大学 につけさせる様、興味をわかせるように工夫して講義を大声で半世紀以上してきたのである。 一時間半の講義には飽きさせない様に、アクセントや抑揚をつけ、時には視聴覚教材も使いつつ何か専門知識を身 について自分の研究した事、得た知識など、なるべく具体的に事例や関連事項等も多くまじえ、やさしく、楽しく 321 どこの大学でも特色や伝統があり施設も立派で眞面目な学生が熱心に聴いてくれた。マイナーな科目なのに二百 人~三百人位の受講生が常に聴講して いた。駒大法学部などは選択科目なのに法律学科、政治学科両方で 履修が でき三、四百人以上毎年受講して大教室が常に満員であった。学期末の法制史の試験の採点は数大学の分合わせて 千五百名分前後の時もあり、年末よりお正月も無い時もあった。 五十四年間の受講生の数は(公開講座等を含める)何と約七万人前後となり自分でも驚きその責任の重さに感じ 入っている昨今である。 大学の教授の職務は第一は自分の研究を更に深めていくこと。第二は学生にしっかり講義し指導し立派な社会人 として世に送り出すことが主に云われているが、第三に大学の運営や行政にも責任を分担して参画することであろ う。五十四年間の大学教職生活を振り返ってみると、私は第一は必ずしも十分でなかったかもしれない。江戸幕府 刑法等の研究より、先祖(彦根藩重役)の関係から莫大な貴重な資料を保存してきた家なので、「彦根藩・大久保 家文書」を整理・保存し斯界の研究に役立てるように東大近代法政史料センターや彦根市立博物館史料部等に公に することで研究に役立たせることに力点がおかれた。昨今は「文化人・井伊直弼」や「埋木舎」の研究で種々論文 発表・講演等は行っているがまだまだである。余生は力点をここに置かなければならないだろう。第三の点につい ては十分活躍させていただき思い残すことはない。学科長、学部長、大学院長、学長、それに理事、評議員等経験 一〇三 し大学の自己点検や他大学の大学評価委員等もさせていただいて大学行政に付いては経験が多く大学にも些かの貢 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 献もしてきたと思う。 320 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 一〇四 これに加えて私の場合は前述の四つの専任大学の創設、他に非常勤としてではあるが大学学部等の創設に参加し と して 続 い て い て 大 学 冬 D N A 出演等では埋木舎が大きなウェイトを占めていることは申すまでもない。 T V 私の五十四年間の大学教職生活の中で右の五つのフィールドにおいてそれぞれがんばってきたつもりである。人 掲載、 第五については少々右に述べた以外は本稿では残念乍ら割愛するが、私の大学での研究内容、各講演会、各雑誌 リークラブ会員としても社会奉仕をしてきた。 ローカルのエリアではあったがその地域の方々に奉仕してきたつもりである。これに加えて私は長年、国際ロータ 員、文化財審議会委員、環境審議会委員、県史、市史、県警察史等の編纂専門委員、地元テレビ番組審議会委員等々、 第四については五十四年間に実に多くの公的委員として社会へ奉仕してきた。主なものだけでも、地労委公益委 た文武両道修練の藩公館「埋木舎」(国特別史跡)彦根城跡内の保存、公開事業がある。 献・奉仕と第五に明治四年以来大久保家で死守してきた茶道、歌道、禅など文化人・井伊直弼が十五年居住してき 以上、三つのことを大学人は一般的には行っているのであるが、私の場合は例外かもしれないが、第四に社会貢 ない。大変に時代錯誤のことを申して恐縮であった。御容赦願いたい。 の時代に「先鋒」として活躍、新藩ならぬ新大学を創り後陣にまかせるという武士道? の血が騒いだのかもしれ という。藩の法令第一号は大久保新右衛門尉藤原忠正であった。この血が私にも も家康の命令で目付家老の先鋒として石田三成の居城跡に新たに藩を創り、御養育してきた井伊直政をお迎えした 大久保家の先祖は徳川家康の祖父の時代よりの旗本、特に強力な「先鋒隊」のリーダーであった。彦根藩創設の時 たものに帝京大教育学部、創価大法学部、川村女子大文学部等の新設があり当初「法制史」等を何年か教えていた。 319 生に悔いは無い。 最後に私の「教育観」について少し述べさしていただいて本稿を終りたく思う。 最近の教育は受験競争の受験技術的競育が跋扈し、友人も競争相手で友情は育たない。先生方は生徒を脅かして 4 4 教える脅育になり、生徒は恐怖を感じる恐育となり全体的に狂育となっていると昔講演会で聴いたことがある。私 4 4 4 4 4 教育は共育、協育であり、享育、楽しくなければならない。将来は教育を受けたすべての人はオンリーワンのすば て切磋琢磨しなければならないと信じている。駒澤大学の建学の精神「信・誠・敬・愛」こそ教育の根幹であろう。 はそれよりも教育は教師と学生が共に協力しあって人格を高揚させ知識を豊富なものとし信頼し合って愛情を以っ 4 4 4 4 4 4 た。心より幾重にも感謝申し上げてもまだ不足であろう。 無事退職できたのも、 私と「ご交流」 「御縁」のあった総ての方々との「御陰」と「お力添」があったればこそであっ 世紀考え実践してきたつもりである。そして日々学生に対し感動、感激、感謝を交流し合うことである。此の度、 は自らの人格を磨き、信頼され、愛情を以って、専門の学問を楽しく理解させて伝道していく聖職ではないかと半 人と接して上手に交流(コミュニィケーション)して人を育てることが大事であると云われている。要するに教師 うものは心映えが大事である」 と申された。心映えとはいろんな知識も勿論大事だけれどもそれ以上に学生に接し、 江戸時代、細井平州先生は「教師というものは信頼されなければならぬ」と申され、横井小楠先生は「教師とい な気持で半世紀学生に接し、教え育てて来たつもりである。 らしい個性を持ち、花開き、実をつけ、大きく飛躍して行かねばならない。百人は百色の花、美しい。私はこの様 4 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) 一〇五 最後に、私の五十四年の教職が続けられたのも家内の内助の功、子供達や孫達、婿や嫁の応援や心の憩いを与え 318 天職・大学教職五十四年の回想(大久保) てくれ、明日の活力と希望の原動力になった家族が居てくれたことは申す迄も無い。 ないよう一層の精進をいたす所存でございます。 一〇六 き妻共に皇居に参上し 天皇陛下に拝謁の栄を賜り感激の極みでございました。今後もこの栄誉に恥じることの 運営・創設等の高等教育に対する貢献により「端宝中緩章」を賜り、十一月十日、文科大臣より伝達を受け引き続 (追記)平成二十六年秋の叙勲にて「苫駒大初代学長」等長年に渡る大学教育・研究や学長はじめ多くの大学行政・ 担当の先生方御苦労さまです。学部長先生始め諸先生方御機嫌よろしう。 (平成二十六年八月十日) 詳述させていただき後世にまで諸出来事のいささかの云い伝えもできたことを心より感謝申し上げます。編集御 になりましたが私の教職五十四年間の総括、記録にもなり、その中で二十四年間の駒大と五年間の苫駒大時代を 法学部五十周年記念誌に名誉教授の私にまで原稿依頼をくださり、大変うれしく感謝申し上げます。少々長文 を心よりお祝い申し上げます。歴代の先生方の御努力、卒業生、在校生の御奮闘に敬意を表します。 此の度、駒澤大学法学部が設立以来五十周年のめでたき節目を迎えられ益々御隆盛になられておられますこと 祝詞と謝辞 であって正に「天職」であったことを誇りに思う。 六才の「学校ごっこ」から始まって、八十才の「大学院教授」を終了するに当って私は本当に学校・大学が好き 317
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