途 中 の 破 車 の 中 で 人 違 い を し て 関 白 に 失 礼 な 態 度 を と っ て し ま い、 鴨長明「すき観」の一考察 あ り、 こ の 説 話 の 最 後 は「 す き ぬ る も の は、 す こ し を こ に も あ り け 杉 本 亜由美 一.はじめに る に や。」 と 締 め く く ら れ て い る。『 宇 治 拾 遺 物 語 』 に お い て も「 す 節信や能因の行為は常軌を逸する行為だとして「嗚呼」と表現した の蛙が歌枕で名高いということはもちろん知っていたのであろうが、 鳴 呼 と 称 す べ き や。」 と 評 し て い る。「 今 の 世 の 人 」 は 長 柄 橋 や 井 手 れたという話がある。編者の清輔はこの逸話の最後で「今の世の人、 枕で名高い井手の蛙の干からびたものを出してお互いに称賛して別 能因は歌枕で名高い長柄橋造営の時の鉋屑を出し、節信は同じく歌 節信は数奇者なり。 」とし、 「すきもの」節信が能因と初めて会った時、 とする逸話が見られる。『袋草紙』(上巻)では、「加久夜の長の帯刀 や『宇治拾遺物語』には和歌や管絃に情熱を燃やす者を「すきもの」 長明が現地に赴く姿勢が大切であると述べている章段に注目し、こ に 現 地 に 赴 く と い う 姿 勢 の こ と だ と 述 べ て い る。 本 論 に お い て は、 長 明 は『 無 名 抄 』 の 中 で「 す き 」 に つ い て、 和 歌 を 愛 す る が 故 に 和歌に関連する知識を得るためならば、どんなことがあっても実際 いものと解釈して表現した者はいないのではないか。 の 中 で そ れ ら を 表 現 し て い る の だ が、 長 明 ほ ど「 す き 」 を 純 粋 に 良 長明は純粋に「すき」を良いものと理解し解釈し、自身の著書『無名抄』 や『宇治拾遺物語』とは違った意味合いで捉えられているのである。 「すき」の意味合いは『袋草紙』や『宇治拾遺物語』から長明の『無 名抄』にかけて捉え方が変わっており、長明の「すき観」は『袋草紙』 草紙』と同様に「すき」を良い意味には捉えていない。 通清は関白の護衛に破車の簾を切り落とされてしまったという話が 「すき」という言葉にはいくつかの意味があり、時代とともに捉え 方が変化してきた。「すき」という言葉自体は奈良時代にはまだ表れ きもの」が「少し常軌を逸した行動をとる者」と表現されており、『袋 の で あ る。 ま た、『 宇 治 拾 遺 物 語 』( 巻 十 五 ― 五 ) の 説 話 に は、 源 通 (1) き」に「数奇(寄)」という漢字があてられ、院政期の歌論書『袋草紙』 ておらず、平安時代あたりから表れてきたようである。その後、「す 清 を 風 流 人 で あ り「 か ゝ る す き 者 な れ ば 」 と し、 通 清 が 花 見 に 行 く 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 −15− れらの章段の流れが長明の表現する「すき」につながっていること を用いて三首の和歌を詠んでいる。鎌倉時代後期の私撰和歌集であ からず」としてここに記している。その後、長明は「マスホノスヽキ」 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) を 確 認 し な が ら、 長 明 の 意 味 す る「 す き 」 は そ れ ま で の「 す き 」 解 る『夫木和歌抄』には、次の長明作の和歌を三首挙げて、これを 伊「 80 81 特に断りがない限り、 『無名抄』の引用文はすべて(『鴨長明全集(梅 沢本)』貴重本刊行会 二〇〇〇年)による。また、梅沢本に章段毎 の番号はないが、便宜上、久保田淳訳注『無名抄』 (角川ソフィア文庫、 二〇一三年)に拠って章段毎に番号を付した。 「マスホノスヽキ」の「すき」表現 聞かずに、雨の中を京都から摂津渡辺まで急いで行ったというもの からざらむ」と言って、「あめやめていで給へ」という周囲の制止も しくおもひ給へし事をしれる人ありときゝて、いかでかたづねにま 章段前半は、「マスホノスヽキ」という歌語に関心を寄せていた登 蓮が、その実態を知る人間の存在を知るやいなや、「としごろいぶか いみじかりけるすき物なりかし 語りしをおもひいでて、心みによめると云云 て 見 る つ い で に、 三 種 の す す き と い ふ こ と 人 の せんざいなる花の色色ひとふさづつとりならべ れば、いたづらにこもりゐたる、なぐさめがてら、 雨 な ど い ふ ば か り に は あ ら で、 は れ ま な か り け ぎ た れ ど、 よ し あ る 人 の あ た り と み え た り、 時 二見里と云云さるほどなる板屋のをかしげにす (2) み な せ る に、 い ろ い ろ の せ ん ざ い ど も さ か り 過 で あ る。 そ れ に 対 し て 長 明 は「 い み じ か り け る す き 物 な り か し 」 と 此 三 首 歌 伊 勢 記 云、 ゆ き つ き て み れ ば か し こ を 四 四 二 二 秋 ふ る す 霜 よ り 後 の き く の 色 を か ね て ま す ほ の を ば なにぞみる 四四二一 しろたへのますほの糸をくりさらしまがきにさぼす はなのをすすき 鴨長明 四四二〇 日をへつついとどますほの花すすき袂ゆたげに人ま ねくらし 勢記 の」ものとしている。 釈とは意味が違うことを考察したい。 二.『無名抄』における「すき」 28 『無名抄』で長明は五つの章段( ・ ・ ・ ・ )において「す き」ということばを用いている。以下にそれらを考察したい。なお、 17 容を長明自身が第三代目の伝承者として受け継ぎ、「みだりにとくべ −16− 16 評 し て い る。 後 半 で は、 登 蓮 が 譲 り 受 け た「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 の 内 16 る 長 明 の こ だ わ り、 そ し て、 そ れ を 聞 き あ て た 登 蓮 へ の 尊 敬 や 憧 れ 長 明 が 歌 語「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 に 関 す る 知 識 を 譲 り 受 け、 そ の 後 三 首 の 和 歌 を 詠 ん だ と い う こ と は、 歌 語「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 に 対 す た か っ た の だ ろ う が、 ま だ 訪 れ て い な い。「 和 歌 を 愛 す る 者 と し て、 づ」についても長明はもちろん現場に赴いてかえるの鳴き声を聞き 「すきとなさけ」が衰退することに求めている。後半の「井でのかは す る 人 は 少 な く な る だ ろ う と し、 そ の 理 由 を、 時 代 が 下 る に 従 っ て の 念 が 浮 か び 上 が る。 歌 語「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 を 用 い た 和 歌 は こ れ あ あ、 自 分 は ふ が い な い・・・」 と い う 長 明 の 心 の 声 が 聞 こ え て く るようである。最後の「年月をそへておとろへゆくゆへなり」には、 までに十五首程度あり、その内、三首が長明の詠んだ和歌である。 手川に立ち並んで置かれている石積みの長さを「十余丁ばかり」な に つ い て の 話 が 紹 介 さ れ る。 こ こ で、 長 明 が 用 い た 表 現 を 見 て も 井 章 段 前 半 は、「 あ る 人 」 が 井 手 の 地 に 赴 い た 際 に 土 地 の 古 老 か ら 聞 い た と い う「 ゐ で の や ま ぶ き 」 の 現 状 と「 井 で の か は づ 」 の 実 態 人のすきとなさけは年月をそへておとろへゆくゆへなり 『無名抄』で長明は上記の二章段の他、次の三章段で「すき」とい う 言 葉 を 用 い て い る が、 こ れ ら の「 す き 」 は「 和 歌 を 愛 す る 熱 い 情 ていた人はいないのだと思わせる内容ではないだろうか。 めているのである。このあたりは長明ほど純粋に「すき」を感じ取っ う の に ま だ 足 を 運 ん で い な い・・・ こ の こ と で 長 明 は 自 分 自 身 を 責 いのだという「すき」への純粋な思いや憧れが見てとれるのである。 長 明 の「 す き 」 へ の 想 い は 年 月 が 経 つ と 共 に 衰 え る、 だ か ら こ そ 尊 ど、実際に現地に赴いて確認したのかと思われる程の正確な数値を 熱をもつもの」として表現されている。 「ヰデノ山ブキ幷カワヅ」の「すき」表現 使 っ た 詳 細 な 表 現 が 見 て と れ、 長 明 は よ ほ ど こ こ へ 行 き た か っ た、 「俊頼哥ヲクヾツウタフ事」の「すき」表現 井手に行きたくて仕方がない、もしくは歌人として行くべきだと思 もしくは自分は行くべきだとある種の使命のようなものを感じてい た の で は な い か と 想 像 で き る。 後 半 で 長 明 は、 こ の 話 を「 心 に し み に 移 す こ と が で き な い ま ま に 終 わ る。 そ れ は、 一 つ 前 の 章 段「 マ ス とはなく、「井でのかはづ」に対して興味を抱いた自らの思いを実行 めたという「すき」説話である。 永 縁 が、 琵 琶 法 師 達 に い ろ い ろ な 品 物 を 与 え、 自 作 の 和 歌 を 歌 わ せ た と こ ろ、 当 時 の 人 々 は 永 縁 を「 あ り が た き す き 人 」 と い っ て ほ ありがたきすき人 て、 い み じ く お ぼ え 」 て い た の だ が、 三 年 た っ て も 井 手 を 訪 れ る こ ホ ノ ス ヽ キ 」 に あ る「 あ め も よ に い そ ぎ い で け ん に は、 た と し へ な 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 そ こ か ら、 後 世 に は 井 手 の 地 に 赴 い て も「 か は づ 」 の 声 を 聞 こ う と くなん」という登蓮の実行力とは比べものにならない差異であった。 28 −17− 17 「頼実ガスキノ事」の「すき」表現 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) 世の栄華を好まず出家し仏道に志した顕基が息子の身を案じて頼 通に託した説話であるが、ここで顕基を朝晩ずっと琵琶を弾いてい ヲカウブリテ、配所ノ月ヺ見バヤトナム願ハレケル。 る「スキ人」としている。 いみじきすき物なり にする行為となったものであるとしている。 「左衛門尉蔵人頼実はいみじきすき物なり」と紹介するこの章段の 「すき」は、頼実の和歌への強い情熱が、自らの命と秀歌を引き替え 実、 ス キ モ ノ ニ コ ソ ト 哀 ニ ア リ ガ タ ク 覚 ヘ テ、 笛 イ ソ ギ 尋 ツ ヽ 家貧テ、心スケリケル。夜昼、笛ヲ吹ヨリ外ノ事ナシ。 永秀法師、数奇ノ事(第六巻―七) すきにことよせて 送リケリ。 「業平本鳥キラルヽ事」の「すき」表現 髻 を 切 ら れ た 業 平 が、 そ れ を も と の よ う に の ば そ う と 思 い、 引 き こもっている間に、「歌枕でも見てこよう」と「すき」を口実として 貧しい生活をしている永秀は頼清から望みを聞かれても、漢竹で 作られた笛が欲しいと言うのみで、常に笛を吹き名手になったとい (中略) 東国の方へ出かけていったということである。 こ れ ら 三 章 段 に つ い て は、 前 述 の 二 章 段 に 比 べ る と「 す き 」 と い う 言 葉 に つ い て の こ だ わ り が 多 少 弱 い が、 長 明 が「 す き 」 と い う 言 う永秀を「スキモノ」としている。 時光・茂光、数奇及ブ天聴ニ事(第六巻―八) 葉を好意的に捉えていることは理解できる。 数寄ハコトニタヨリトナリヌベシ。 時 光、 茂 光 は 帝 の 御 使 い の 話 を 聞 か ず に 歌 い 続 け、 そ の 様 子 を 聞 い た 帝 は 怒 る ど こ ろ か 感 心 し た と し て、 二 人 の 行 為 を「 数 寄 」 と し 三.『発心集』における「すき」 中納言顕基、出家、籠居ノ事(第五巻―八) ている。 長明は『無名抄』だけでなく、『発心集』でも「すき」ということ ばを用いている。以下にそれらを考察する。 イ ト イ ミ ジ キ ス キ 人 ニ テ、 朝 夕 琵 琶 ヲ ヒ キ ツ ヽ、 罪 ナ ク シ テ 罪 −18− 80 81 所事(第六巻―九) 宝 日 上 人、 詠 ジ テ 和 歌 ヲ 為 行 ト 事 幷 蓮 如、 参 讃 州 崇 徳 院 ノ 御 四町ヲフキマクルアヒダニ」「治承四年ミナ月ノ比」など)がふんだ ウツリユク」「公卿ノ家十六ヤケタリ」「又治承四年卯月ノコロ」「三 詳細な数値表現(「去安元三年四月廿八日カトヨ」 「一二町ヲコエツヽ んに見られる。中でも日野山での閑居の様子である、 イミジカリケルスキ物ナリカシ。 宝日が和歌を詠じて修行をしていることとともに、蓮如の定子皇 后の御歌を冬の夜に一晩中吟詠して皇后宮の後世を弔った行為を「ス イ マ 日 野 山 ノ ヲ ク ニ ア ト ヲ カ ク シ テ ノ チ、 東 ニ 三 尺 余 ノ ヒ サ シヲサシテ、シバヲリクブルヨスガトス。南タケノスノコヲシキ、 竹 ノ ツ リ ダ ナ ヲ カ マ ヘ テ、 ク ロ キ カ ハ ゴ 三 合 ヲ ヽ ケ リ。 ス ナ ハ 東 ノ キ ハ ニ ワ ラ ビ ノ ホ ト ロ ヲ シ キ テ、 ヨ ル ノ ユ カ ト ス。 西 南 ニ ソ ノ 西 ニ ア カ ダ ナ ヲ ツ ク リ、 北 ニ ヨ セ テ 障 子 ヲ ヘ ダ テ ヽ、 阿 弥 『発心集』における「すき」表現は、主に和歌や管絃に対して一途 に 熱 狂、 熱 中 す る 精 神 を 持 つ 者 に 対 し て「 す き も の 」 と 紹 介 す る 逸 チ和哥、管絃、往生要集ゴトキノ抄物ヲイレタリ。カタハラニ琴、 キ物」としている。 話であり、『無名抄』の後半三章段にある「すき」にあるような意味 琵琶、ヲノ〳〵一張ヲタツ。イハユルヲリ琴、ツギビワ、コレ也。 陀ノ絵像ヲ安置シ、ソバニ普賢ヲカキ、マヘニ法花経ヲヽケリ。 合いと同様に表現されている。そこで長明は和歌や管絃に一途に熱 や、和歌で名高い猿丸大夫の墓への訪問部分である、 カリノイホリノアリヤウカクノ事シ。 中する姿を、やりすぎだなどとは非難せず、好意的に捉えている。 四.『方丈記』における「すき」 『無名抄』や『発心集』に「すき」という表現が見られるのに対し て、長明の代表作である『方丈記』には、この表現が見当たらない。 若 ハ 又 ア ハ ヅ ノ ハ ラ ヲ ワ ケ ツ ヽ、 セ ミ ウ タ ノ ヲ キ ナ ガ ア ト ヲ ト ブ ラ ヒ、 タ ナ カ ミ 河 ヲ ワ タ リ テ、 サ ル マ ロ マ ウ チ ギ ミ ガ ハ カ しかしながら、長明が著作するにあたり、「すき」を全く意識してい なかったとは考えにくい。歌人である長明が書いた『方丈記』が「す ヲタヅヌ。 と い う 表 現 か ら は、 長 明 の 当 時 の 生 活 の 様 子 が 容 易 に 想 像 さ れ、 長 き」ということに対して影響を受けないはずもなく、『方丈記』にお い て も 長 明 の「 す き 観 」 は 十 分 に 感 じ 取 る こ と が で き る。『 方 丈 記 』 には長明が一番に重んじている実際に現地に行かないと分からない 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 −19− ろうか。 肯定的に捉えており、それは一種の美学に近いものとはいえないだ こ れ ら『 無 名 抄 』『 発 心 集 』『 方 丈 記 』 の 表 現 を 見 て み る と、 長 明 は そ れ ま で の『 袋 草 紙 』 や『 宇 治 拾 遺 物 語 』 と は 違 っ て「 す き 」 を じとることができるのである。 歩いているところから、『方丈記』の中に長明の「すき」を充分に感 明は小さな住処に身を寄せ、心の赴くままに和歌関連の名所を訪ね さらに『源三位頼政集』三二一番歌、『林葉和歌集』一一六番歌、『禅 林瘀葉集』八六番歌詞書に登蓮が鎮西に往き来していたことを記し て伺候していた際に、忠盛に出会ったという異伝がある。 には、もと比叡山の僧で下山後、青蓮院和尚御房に芸能(歌)をもっ 阿弥陀寺に住持すると紹介されるが、彰考館文庫蔵『扶桑蒙求私注』 通りすがりの登蓮と連歌の付合をして以来、その機知を愛でて扶持 家物語』延慶本巻四に平清盛が熊野詣の途次、秋津の里に至った際、 かりかねるが、源頼政や西行とも交際があったようである。また、 『平 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) 五.長明の登蓮観 て注意すべきである。 著書にたびたび登蓮を登場させており、登蓮に対して特別な感情を ワヅ」の章段における登蓮に対する思いと一致する。長明は自らの 恵法師の歌林苑に参加していたようである。そのあたりから歌林苑 か で は な い が、 木 村 健 氏 や 紙 宏 行 氏 に よ れ ば、 登 蓮、 長 明 と も に 俊 うことになる。両者が会話を交わすことが可能であったか否かは定 一 方、 長 明 は 久 寿 二( 一 一 五 五 ) 年 か ら 建 保 四( 一 二 一 六 ) 年 頃 の 生 存 と 考 え ら れ て お り、 二 人 は お 互 い に、 同 じ 時 代 を 生 き た と い ており、安楽寺僧の立場から太宰府の天神説話を媒介した人物とし (4) し た 話 が あ り、 さ ら に、 登 蓮 は も と 筑 紫 安 楽 寺 の 僧 で、 近 年 近 江 の 長 明 の「 す き 」 を 考 え る 場 合、 長 明 が「 す き も の 」 と し て 尊 敬 し 憧れていたと思われる登蓮を無視することはできない。長明の「すき」 持ち合わせているように見受けられる。ここで長明は登蓮にどのよ きっかけになっていたとは考えられないだろうか。そのような長明 に対する思いは『無名抄』の「マスホノスヽキ」「ヰデノ山ブキ幷カ うな感情を抱いていたのかを考察したい。 と 登 蓮 の 二 人 の 関 係 性 の も と、 長 明 は 著 書『 無 名 抄 』 の 中 の「 マ ス の存在が互いを結びつけていた、もしくは長明が登蓮の存在を知る (6) ま ず、 登 蓮 に つ い て、 生 没 年 は 文 献 が 残 っ て い な い の で 正 確 な 年 を 確 定 す る こ と は 不 可 能 だ が、 辞 世 の 歌 が 寿 永 元( 一 一 八 二 ) 年 十 ホノスヽキ」 「ヰデノ山ブキ幷カワヅ」の章段や『発心集』の中の「蓮 (5) 一月に成立したと考えられる『月詣和歌集』に収められていること 花 城、 入 水 ノ 事( 第 三 巻 ― 八 )」 に 登 蓮 を 登 場 さ せ、 紹 介 し て い る。 以下に『無名抄』『発心集』の登蓮の登場する場面を引用し、考察し (3) を初出として総計十九首入集しており、家集に『登蓮法師集』がある。 か ら、 そ れ 以 前 に 没 し た と 考 え ら れ る。 勅 撰 集 に は『 詞 花 和 歌 集 』 登蓮については述べられている資料が少なく、詳細については分 −20− たい。 「マスホノスヽキ」 「マスホノスヽキ」、「ヰデノ山ブキ幷カワヅ」の章段に関しては「す き 」 表 現 で 前 述 し た が、 長 明 は「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 の 章 段 で、 雨 の 日 に わ ざ わ ざ 薄 の 話 を 聞 く た め に、 出 向 い て い っ た 登 蓮 を、 自 身 が て、いそぎいでけるを、人〴〵あやしがりて、そのゆへをとふ。 り。 物 が た り を も き ゝ さ し て、 み の う ち き、 わ ら ぐ つ さ し は き 蓮を、「かの登蓮が、あめもよにいそぎいでけんには、たとしへなく ということに触れており、長明は同じ時代を生きた先輩であろう登 ていないのであるが、登蓮は雨風をものともせず現地に赴いている 長明だからこそ、実際に井手に行きたいのに自分は行くことができ 重んじている現地に足を運ぶ姿勢を実際に実践している人物として わ た の 辺 へ ま か る な り。 と し ご ろ い ぶ か し く お も ひ 給 へ し 事 を な ん 」 と い う よ う に「 す き も の 」 と し て、 大 変 尊 敬 し 憧 れ て い た と キ幷カワヅ」の章段でも、誰よりも現地に赴くことを重視している しれる人ありときゝて、いかでかたづねにまからざらむといふ。 いうことが見てとれる表現である。『無名抄』において「すき」を表 「いみじかりけるすき物なりかし」と紹介し、次に続く「ヰデノ山ブ を ど ろ き な が ら、 さ る に て も、 あ め や め て い で 給 へ と い さ め け 現 す る の に「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 の 章 段 と「 ヰ デ ノ 山 ブ キ 幷 カ ワ ヅ 」 登 蓮 法 師 そ の な か に あ り て、 こ の 事 を き ゝ て、 こ と ば す く な に な り て、 又 と ふ こ と も な く、 あ る じ に、 み の か さ し ば し か れ ど、 い で は か な き 事 を も の 給 か な。 命 は わ れ も 人 も、 あ め の し 給 へ と い ひ け れ ば、 あ や し と お も ひ な が ら、 と り い で た り け は れ ま な ど ま つ べ き 事 か は。 何 事 も い ま し づ か に と ば か り い ひ の章段を別々に捉えることは出来ない。「マスホノスヽキ」の章段の 次に『発心集』において登蓮が登場する場面を見てみたい。 えるのである。 こには、『無名抄』において「すき」を表現する長明の編纂意図が窺 後 に は 必 ず「 ヰ デ ノ 山 ブ キ 幷 カ ワ ヅ 」 の 章 段 を 置 く べ き で あ る。 こ すてゝいにけり。いみじかりけるすき物なりかし。 「ヰデノ山ブキ幷カワヅ」 か の 登 蓮 が、 あ め も よ に い そ ぎ い で け ん に は、 た と し へ な く な ん。 こ れ を お も ふ に、 今 よ り す ゑ ざ ま の 人 は、 た と ひ お の づ 蓮花城、 からことのたよりありて、かしこにゆきのぞみたりとも、心とゞ め て き か ん と お も へ る 人 も す く な か る べ し。 人 の す き と な さ け 近キ比、蓮花城ト云、人ニ知レタル聖リ在。登蓮法師相知テ、 事ニ触テ情ヲカケツヽ過ケル程ニ、年来有テ、此聖リ云ケル様、 入水ノ事 入水ノ時後悔シテ、物怪ニ成テ来事(第三巻―八) とは、年月をそへておとろへゆくゆへなり。 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 −21− 16 17 思 ヒ 取 ラ レ タ ラ ン ニ 至 リ テ ハ、 力 ナ ク、 留 ル ニ 不 及 バ。 サ ル ベ ケ レ ド モ、 更 ニ 不 用。 思 ヒ 堅 メ タ ル 躰 ト 見 へ ケ レ バ、 カ ホ ド ニ サ ヤ ウ ノ 行 ハ、 愚 チ 極 レ ル 人 ノ ス ル 事 也 ト、 言 葉 ヲ 尽 シ テ 諫 メ ベキ事ニ非ズ。今一日也トモ念仏ノ功ヲ積ントコソ願ルベキニ、 入 水 ヲ シ テ 終 ン ト 思 ヒ 侍 ル ト、 云 フ。 登 蓮 ト 云 人、 聞 驚 テ、 有 終リ正念ニシテマカリ隠ンコト、極ル望ニテ侍ル。心ノ澄ヌル時、 今ハ年ニ副ツヽ身モ弱ク成リヌレバ、死期ノ近付ク事、不可疑。 ということを、窺い知ることができるのである。 尊敬の念を抱いていたゆえに『発心集』にも登蓮を登場させていた している「すきもの」と特別視し、 「すきもの」として完全に認めて、 明がいかに登蓮を自身が重んじている現地へ訪れるという事を実践 え て 長 明 は こ の 話 に 登 蓮 を 登 場 さ せ て い る。 こ の あ た り か ら も、 長 物 は 特 に 大 き な 意 味 を 持 た な い と 考 え る こ と が 出 来 る。 し か し、 あ 出 す た め の 導 入 話 に す ぎ な い。 そ う す る と、 前 半 の 入 水 話 の 登 場 人 て述べたかった事柄は後半部分であり、前半部分は後半部分を引き 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) キニコソ有ラメト、云テ、其用意ナドヲ力ヲ合テ沙汰シケリ。 六.顕昭の登蓮観 薄 花 薄 ま そ ほ の 糸 を く り か け て た え ず も 人 を ま ね き つ る か な( 四 『散木集註』 木集註』『袖中抄』の中で登蓮について述べている。以 顕昭は『散 (8) 下に引用する。 目したい。 けての歌僧である顕昭が登蓮に対して持っていたであろう感情に注 うに映っていたのであろうか。平安時代末期から鎌倉時代初期にか で き る。 登 蓮 と い う 人 物 は、 中 世 当 時 の 長 明 以 外 の 人 々 に は ど の よ 『 無 名 抄 』 や『 発 心 集 』 の 登 蓮 が 登 場 す る 場 面 の 文 脈 を 見 る 限 り、 長明の登蓮に対する尊敬や憧れという特別な感情を見てとることが 終 ニ 桂 河 ノ 深 キ 所 ニ 至 テ、 念 仏 高 ラ カ ニ 唱 ヘ ツ ヽ、 水 ノ 底 ニ 沈 ヌ。 其 時 キ、 聞 及 人、 市 ノ 如 ク 集 テ、 且 ハ 貴 ミ、 且 ハ 悲 ム 事 限 リ 無 シ。 登 蓮 ハ、 殊 ニ 年 来 見 馴 タ ル 物 ヲ ト 哀 ニ 覚 テ、 涙 ヲ 押 ヘテ帰ケリ。 角テ日来経ル程ニ、登蓮物ノ怪ガマシキ病ヲス。(後略) (7) この話は鎌倉時代後期に成立したとされる歴史書である『百錬抄』 の、安元二年(一一七六)八月十五日の条に、「十五日。上人十一人入水。 かである。 其中稱連華淨上人者爲發起。」と載っており、事実であることが明ら 『発心集』の「蓮花城、入水ノ事」を記した長明の登蓮への感情を探っ てみると、この章段は、前半で蓮花城の入水事件に登蓮を登場させ、 後半では仏天の護持について述べ、「心は心として浅く、仏天の護持 を た の む は、 危 ふ き 事 な り 」 と し て い る。 こ の 章 段 で 長 明 が 強 調 し −22− 眞 蘇 芳 と 云 ふ こ と を 略 な り。 承 和 菊 を 略 し て そ が 菊 と 云 ふ が ご わざとゆきてとぶらひき。 登 蓮 と い ふ 人、 そ の か み 天 王 寺 に 此 の 事 知 る 人 あ り と き ゝ て、 きたれることなし。 ま そ ほ の い と、 お ぼ つ か な し。 人 々 た づ ぬ れ ど、 た し か に い ひ 一七) たゞ俊頼計よみたれば、とてもかくてもありぬべし。非大事歟。 このまそほの糸は件等書にまたく見えず。 詞をぞ、むねと尋ね勘ふることにてあるに、 大 和 兩 物 語、 諸 家 歌 合、 神 樂、 催 馬 樂、 風 俗 等 の 詞 な ど に あ る 和 歌 の 難 義 と い ふ は、 日 本 紀、 萬 葉、 三 代 集、 諸 家 集、 伊 勢・ 糸をよりかけてまねくとぞよみたるにもやあらむ。 夫 を 糸 と い は む 事 ぞ お ぼ つ か な き に、 或 人 云、 ゐ な か の も の は まその色さらにまがねの色によるべからず。まそは苧なり。 而萬葉歌は、にふは播蘑の所名なり。然ば彼所のまそと云ふ歟。 らず。金を眞がねといふ事ぞおぼつかなき。 の 中 山 と 云 ふ 歌 に つ き て 鐡 と の み い ひ 傳 へ た り。 金 を い ふ べ か 然 ば ま そ ほ の 色 を ば 黄 色 と 可 得 意 歟。 顯 昭 云、 ま が ね ふ く き び このまがねをば眞金といひて、金篇に類聚萬葉には入れたり。 の色にいでてと讀り。 或 人 云、 黄 色 と い ひ つ べ し。 萬 葉 云、 ま が ね ふ く に ふ の ま そ ほ 似云々。 色 の 黄 ば み た る な り。 薄 の ほ は い づ る は じ め、 件 の 苧 の 色 に 相 と云ふ苧あり。 と記したのみである。 でいるが、顕昭はそのようなことはせず、 『散木集註』に「非大事歟」 ようである。長明はマスホノスヽキの歌語を用いて和歌を三首詠ん ノスヽキに関する知識を、長明とは違ってあまり重要視していない ゆえに、顕昭は登蓮が雨の中を走り出して手に入れたというマスホ ないように思われ、それは顕昭の登蓮に対する感情とも理解できる。 「マスホノスヽキ」という歌語の解釈を長明のように大切に扱ってい よ み た れ ば、 と て も か く て も あ り ぬ べ し。 非 大 事 歟 」 と し て お り、 登 蓮 が 手 に 入 れ た「 ま そ ほ 」 の 内 容 に つ い て 述 べ、 最 後 に「 俊 頼 計 に此の事知る人ありときゝて、わざとゆきてとぶらひき」と紹介し、 見 て み る と、 顕 昭 は 登 蓮 に つ い て「 登 蓮 と い ふ 人、 そ の か み 天 王 寺 顕 昭 は 長 明 よ り も 前 に 登 蓮 の 話 を 記 し た こ と に な る。 ま た、 内 容 を 『散木集註』は、顕昭が寿永二(一一八三)年十月七日に、守覚法 親王に奉ったものであるから、長明の『無名抄』よりも時期が早く、 とし。 糸をまそといふと云々。 また、顕昭は『袖中抄』における「もずの草ぐき」や「かひやがした」 薄 の ほ は 蘇 芳 色 な れ ば 如 此 よ め る な り と 云 々。 經 盛 卿 云、 ま そ 其の事まことならば薄のほの糸に似たれば、 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 −23− 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) つゝゐつのゐづゝにかけしまろがたけすぎにけらしも君見ざる 顕 昭 云、 つ ゝ ゐ つ の ゐ づ ゝ と は、 世 の 常 の 本 如 此。 而 或 証 本 を 見 給 へ し か ば、 つ ゝ ゐ づ ゝ ゐ づ ゝ と な む 書 き て 侍 し。 そ れ こ (9) で登蓮について述べている。以下に引用する。 そいはれたれ。ゐづゝといはむ料につゝゐづゝといひけるなり。 まに 又 童 蒙 抄 に つ き て、 も ず の 草 ぐ き と い ひ て は 其 事 な し。 い づ れ 「もずの草ぐき」 の 野 に て も あ り ぬ べ し。 況 も ず の み み は ら は 河 内 也。 山 代 と い つ ゝ ゐ つ の と い へ る は 心 得 ら れ ず。 是 故 に、 登 蓮 法 師 は つ ゝ ゐ へ の と あ る べ き を、 へ 文 字 つ 文 字 相 似 故 書 た が へ た る な り。 あ へる、如何。又登蓮法師この義申侍しかど、人もちゐず侍き。 し べ を さ し て た づ 鳴 き わ た る と い ふ 赤 人 が 歌 を も、 あ し づ を さ し て な ど 心 得 ぬ 女 な ど は 詠 む こ と あ り。 そ れ も 相 似 も じ な れ ば 登 蓮 法 師 云、 常 陸 國 の 風 土 記 に、 あ さ く ひ ろ き を 澤 と 云、 ふ か く せ ば き を か ひ 屋 と 云 と み え た り と 申 侍 し か ど、 彼 風 土 記 未 「かひやがした」 つ ゝ ゐ つ の と、 の 文 字 を 加 へ た る な り と い ふ 人 侍 り。 そ れ も 心 きつなどいふがごとし。さてつゝゐつといふに、文字の足らねば、 ふ べ か ら ず。 又 或 人 は、 つ ゝ ゐ と い ふ 事 に つ 文 字 を 一 つ 書 き 添 ここで顕昭は「登蓮法師この義申侍しかど、人もちゐず侍き」と、 登蓮の所説が認められていないことを指摘している。 見 ば お ぼ つ か な し。 大 様 は 人 お ど し 事 歟。 又 登 蓮 法 師 は、 か ひ 得られず。あまりに任意なる義なり。 書 き た が へ た る な り。 其 義 い は れ ず。 つ ゝ ゐ の 辺 の ゐ づ ゝ と い や と は 水 の 下 の あ な を い へ ば、 か ひ や が し た に を し ぞ な く な る こ の 話 で も 登 蓮 を「 登 蓮 法 師 は つ ゝ ゐ へ の と あ る べ き を、 へ 文 字 くるを、かたげとのぶべからず。よしなし〳〵。 ろ が 長 と い ふ な り。 桶 を ま ろ が た け と い は ゞ、 又 か み を 肩 に か か み を か た げ と い ふ な り。 此 義 心 得 ら れ ず。 ゐ つ ゝ に か け し ま へ た り。 つ と い ふ 文 字 は や す め 詞 な り。 か み つ な か つ し も つ お と 人 の 詠 た る は 僻 事 也 と 申 き。 兎 角 云 て 一 す ぢ な ら ぬ は 不 實 の 又 或 抄 物 に、 ま ろ が た け と は 水 く む 桶 な り と い へ り。 か み を かたにかくるは、かたぐといふなり。さればかのをけに寄せて、 事歟。 こ こ で も、 顕 昭 は 登 蓮 の 所 説 に つ い て「 彼 風 土 記 未 見 ば お ぼ つ か なし」「兎角云て一すぢならぬは不實の事歟」などと手厳しい表現で あり、とても登蓮を認めているようには見えない。さらに顕昭は「つゝ ゐつのゐづゝ」でも登蓮に触れている。 −24− に し て、 自 身 の 著 書 に て 紹 介 は し た も の の、 長 明 が 持 っ て い る よ う 顕 昭 も 登 蓮 と 同 時 期 に 生 存 し て い る。 顕 昭 は 登 蓮 の「 す き 」 話 を 耳 顕昭の生没年は平安時代末期から鎌倉時代初期(大治五〔一一三〇〕 年 頃 か ~ 承 元 元〔 一 二 〇 九 〕 年 頃 か ) と さ れ て お り、 長 明 と 同 様 に に対しては批判めいた表現なのである。 良 く は 思 っ て お ら ず、『 散 木 集 註 』『 袖 中 抄 』 の ど の 話 を 見 て も 登 蓮 つ文字相似故書たがへたるなり」と、文字の書き違いをしたとして よう。 までの一つの流れの中に長明の「すき観」は宿っているのだといえ て「すき」を表現している「マスホノスヽキ」 「ヰデノ山ブキ幷カワヅ」 如 実 に 表 現 し て い た 書 は『 無 名 抄 』 で あ り、 登 連 の 経 験 談 を と お し ということにこだわる姿勢こそが長明の思う「すき」であったので わ け だ が、 そ れ ら を と お し て、 長 明 が い か に 実 際 に 現 地 に 足 を 運 ぶ 登蓮に対して感じていたであろう長明とは違う想いを考察してきた 注 は な い か と い う こ と を 明 ら か に し た。 そ し て、 長 明 の「 す き 観 」 を な登蓮への尊敬の念は持ち合わせていないように思える。 顕 昭 の 兄 で あ る 清 輔 は 著 書『 袋 草 紙 』 の 中 で「 す き 」 を「 嗚 呼 」 と (1) 李 貞熹「『すき』概念の展開」(『お茶の水大学第五回日本文化 学研究会発表要旨』一九九三年六月) 顕昭の著書『散木集註』『袖中抄』に「すき」という言葉は用いら れていないので顕昭の「すき観」を探ることは難しいが、前述した、 表 現 し て い る。 顕 昭 の『 散 木 集 註 』 や『 袖 中 抄 』 の 登 蓮 に 関 す る 記 の と 考 え て い た 可 能 性 も な く は な い で あ ろ う。 と す る と、 登 蓮 の こ (2)『夫木和歌抄』(巻第一一・秋部二)(『新編国歌大観 第二巻』 述 を 考 え れ ば 顕 昭 も 清 輔 と 同 じ よ う に「 す き 」 を「 嗚 呼 」 に 近 い も とを常軌を逸した「嗚呼」と認識していた可能性も考えられるので ( 月 詣 和 歌 集・ 巻 第 二・ 二 月 〈 附 別 部 〉・ 登 蓮・ 一 一 六 )(『 新 編国歌大観 第二巻』注2書) [ 左・ 顕 昭・ 持 ] 鶉( う ず ら ) な く 遠 里 小 野 の 小 萩 原 心 八番・草花)で対戦している。 (4)『平家物語大辞典』(東京書籍 二〇一〇年) ちなみに、顕昭と登蓮は『太皇太后宮亮平経盛朝臣歌合』(第 角川書店 一九八四年) (3)「よしの山をのへの花や咲きぬらんまつをばおきてかかる白雲」 ある。 七.おわりに 『発 以上、長明の「すき観」をめぐり、『無名抄』を中心に『方丈記』 心集』の「すき観」、長明が「すきもの」登蓮に寄せる感情、そして 長 明 が い か に 歌 語「 マ ス ホ ノ ス ヽ キ 」 を「 す き 」 の 一 部 と し て 大 切 に受け止めていたか、さらに、同時代に存在した顕昭が「すきもの」 杉本亜由美 鴨長明「すき観」の一考察 −25− 成蹊人文研究 第二十三号(二〇一五) 左、小萩原をよまば、宮城野などぞ言はまほしき。右「くさ かや姫」は、日本紀に侍事にや。此紀には、伊弉諾(いざなぎ なき身も 過うかりけり [ 右・ 登 蓮 ] 秋 の 野 の 花 に 心 を 染 し よ り く さ か や 姫 も あはれとぞ思ふ の)尊(みこと)・伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)みとの まぐはひして、先ヅ國土秋津洲を生むべきに、諸國山河海を生 む、草木を生むと侍る。いはゆる木租草野姫なり。歌の心はた がはねど、「くさかや姫」と續きたる、おぼつかなし。かゝる 事は本文をたがへでこそ詠むべけれ。日本紀竟宴歌にも「年ご との春や昔のかやの姫」とこそ詠め。たゞし、かやうの事は確 かに見る所ありてぞ詠まれたらんと思ひ侍れば、をとりまさり 申がたし。 (『新編国歌大観 第五巻』角川書店 一九八七年) (5) 木 村健「終末期のすきもの登蓮法師」(『國學院雑誌』一九七六 年四月) (6) 紙 宏行「歌林苑の歌学論議―登蓮法師の逸話から―」(『文教大 学国文』二〇一〇年三月) (7)『新訂増補國史大系』(吉川弘文館 一九八四年) (8)『日本歌学大系 別巻四』(風間書房 一九八〇年) (9)『歌論歌学集成 第四巻』(三弥井書店 二〇〇〇年) −26−
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