茨城県有形文化財に登録、東漸寺、 - 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会

茨城県有形文化財に登録、東漸寺、
2015 年 1 月 23 日(金)読売新聞茨城版より
県教育委員会は 22 日、取手市の東漸寺観音堂と山門である。東漸寺観音堂は寛文7年(1667)に建てられ、か
やぶき形の銅板ぶき。中には彫刻や漆、金箔が施された宮殿を有している。山門は元禄3年(1690)に建てられ、
かやぶき屋根が特徴です。いずれも、17 世紀後半の寺院建築の様子がわかる建物として重要という。
寺田の相馬霊場第 69 番法海寺跡地の地蔵堂にありました寝釈迦像が、2014 年6月より東漸寺へ移りました。
菊池幽芳(きくち ゆうほう、明治 3 年 10 月 27 日(1870/12/18)~1947
年 7 月 21 日)、小説家、本名菊池清。大阪毎日新聞社取締役を歴任。
常陸国水戸長者町に生まれる、弟は英文学者の戸沢正保。
明治 21 年(1888)茨城県尋常中学校(現、茨城県立水戸第一高等学校)を卒
業、同県北相馬郡取手の取手高等小学校(現、市立取手小学校)の教師と
なる。明治 24 年(1891)染物屋の杉浦玉枝 17 歳と婚約、小学校を退職、
毎日新聞社に入社し大阪へ赴任時しばしの別れを三世堂で惜しんだ。
同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌『大阪文
藝』を創刊する。
明治 25 年『大阪文藝』誌上に、小説『鴬宿梅』を発表デビューする。
明治 30 年(1897)、同社の文芸部主任に就任、自らの勤務先である『大
阪毎日新聞』に、1899 年~1900 年明治 32 年(1899)~同 33 年に『己が
罪』を連載して、名声高まる。
明治 36 年(1903)、同紙に『乳姉妹』を連載。
「家庭小説」というジャンルを確立、第一人者となる。
社会部長、学芸部長、副主幹を歴任、
大正 13 年(1924)、同社の取締役に就任。
大正 15 年、同職を辞職、相談役に就任。
昭和 22 年(1947)7 月 21 日、兵庫県武庫郡本山村(現、神戸市東灘区)
の自宅で死去。満 76 歳没。
『白蓮紅蓮』上・下、大阪毎日新聞社、1922 年発刊
相馬霊場を巡る会資料
を
受
け
た
。
そ
の
後
、
こ
の
辺
は
中
原
と
言
は
れ
、
そ
の
通
の
地
に
建
立
さ
れ
、
大
鹿
村
に
結
城
、
水
海
道
に
次
ぐ
弘
経
寺
が
年
徳
川
康
公
か
ら
御
朱
印
三
十 年
石 こ
二
.
大
鹿
山
弘
経
寺
/
相
馬
霊
場
八
十
二
番
あ
る
よ
う
だ
が
詳
し
い
こ
と
は
不
明
で
あ
る
。
1414
り
に
白
山
権
現
神
社
が
あ
っ
た
が
、
荒
廃
し
て
し
ま
っ
た
.
1592
弘
経
寺
の
守
護
で
あ
る
こ
と
か
ら
境
内
に
移
設
し
た
.
そ
こ
は
、
宅
地
用
地
の
中
の
一
角
が
公
園
用
に
空
地
に
な
っ
て
い
そ
こ
に
大
鹿
氏
の
名
馬
城
鹿
を
埋
め
た
言
わ
れ
て
い
た
.
今
の
田
ん
ぽ
の
中
に
丸
く
こ
ん
も
り
し
た
塚
が
あ
っ
た
.
五
、
鹿
塚
(
し
し
づ
か
)
宅
地
造
成
前
は
、
利
根
川
近
く
こ
ん
ぴ
ら
様
は
、
緩
や
か
な
坂
を
下
り
て
右
側
こ
少
し
上
明
治
41
年
側
高
神
社
を
合
併
。
ご
祭
神
、
大
物
主
命
、
安
永
8
年
(
り
通
し
に
し
て
常
磐
線
を
通
し
、
上
に
四
ッ
谷
橋
を
渡
し
た
取
手
か
ら
白
山
前
へ
の
道
は
、
四
ッ
谷
と
い
う
鞍
部
を
切
三
.
琴
平
神
社
こ
ん
び
ら
様
ま
た
は
金
刀
)
、 比
羅
神
社
あ 長 「 り た
る 禅 花 、 .
「
。 寺 立 そ 花
へ 山 こ 立
持 に に 山
っ は は 」
て 饅 大 と
い 頭 鹿 い
っ み 太 う
た た 郎 所
」 い 左 が
五 な 衛 あ
輪 形 門 り
塔 の の 大
を 石 墓 き
指 こ が な
し ろ あ も
て が っ み
い あ と じ
る っ い の
よ た う 木
う ん 。 が
あ
で で
1 / 12
一
.
駅
西
口
(
治
助
坂
・
四
つ
谷
橋
)
参
道
に
入
る
.
組
の
3
部
落
(
名
位
)
を
総
称
し
て
大
鹿
村
と
呼
ん
で
い
大
鹿
村
落
の
散
策
(
白
山
前
、
新
町
)
刀
比
羅
神
社
の
鳥
居
を
通
り
、
競
輪
場
へ
の
道
路
を
横
切
り
た
仲
間
台
妙
見
組
、
新
町
高
台
の
南
端
に
位
置
す
る
添
弁
天
時
間
も
か
か
ら
な
い
コ
ー
ス
で
す
が
。
と
昔
を
し
の
ん
で
歩
い
て
み
た
い
と
思
う
、
と
言
っ
て
も
二
と
呼
ば
れ
時
期
も
あ
っ
た
と
い
う
。
こ
の
大
鹿
を
ゆ
っ
く
り
取
手
の
名
の
由
来
で
あ
る
、
大
鹿
の
砦
か
ら
鳥
手
、
取
手
宿
合
併
以
前
ま
で
大
鹿
村
又
は
大
鹿
と
言
わ
れ
て
い
ま
し
た
。
田
・
稲
に
接
続
す
る
街
道
白
山
前
商
店
街
に
で
て
、
琴
平
金
境
内
の
西
側
の
坂
道
を
下
り
す
ぐ
上
が
る
と
取
手
か
ら
寺
二
番
、
鐘
楼
門
や
英
霊
観
音
な
ど
が
緑
で
囲
ま
れ
て
居
る
。
経
過
が
石
碑
に
記
さ
れ
て
あ
る
.
境
内
に
は
相
馬
霊
場
八
十
弘
経
寺
は
昭
和
22
年
焼
失
し
そ
の
後
再
建
さ
れ
て
い
る
.
妙
見
組
(
競
輪
場
付
近
)
、
キ
ャ
ノ
ン
の
高
台
の
南
端
に
あ
っ
そ
れ
を
囲
む
よ
う
に
、
北
側
に
高
台
が
続
い
て
い
る
北
口
近
で
あ
る
.
は
宅
地
造
成
で
崩
さ
れ
、
跡
か
た
も
な
い
.
県
信
交
差
点
付
ま
っ
た
高
台
で
北
の
背
後
以
外
は
見
通
し
が
よ
い
所
だ
.
今
取
手
市
取
手
、
白
山
、
新
町
地
区
の
一
部
は
明
治
18
年
の
白
山
神
社
祭
神
、
素
盞
鳴
命
、
天
正
18
年
取
手
の
大
鹿
村
相
馬
霊
場
巡
る
会
先
達
根
本
凡
か
ら
、
こ
の
地
を
白
山
前
と
呼
ん
だ
.
(1591)
る
.
新
町
五
の
五
で
家
庭
菜
園
が
あ
る
場
所
。
っ
た
と
こ
ろ
.
何
本
か
の
松
の
木
が
残
っ
て
い
る
.
隣
接
し
道
路
だ
っ
た
.
こ
の
部
分
は
佐
倉
街
道
と
呼
び
取
手
か
ら
守
(
六
、
弁
天
ス
ポ
ッ
ト
パ
ー
ク
て
、
こ
こ
に
は
大
鹿
山
長
禅
寺
の
寺
用
地
で
有
り
、
相
馬
八
谷
に
通
じ
る
道
だ
っ
た
.
県
学
生
寮
の
憐
の
米
穀
事
務
所
付
)
集
団
移
動
す
る
前
の
添
弁
天
組
が
住
ん
で
い
た
あ
た
り
で
、
年
頃
、
長
禅
寺
観
音
堂
を
大
鹿
城
と
同
十
八
霊
場
の
番
外
札
所
な
ど
が
あ
る
.
近
に
一
里
塚
が
あ
っ
た
こ
と
が
そ
れ
を
立
証
し
て
い
る
.
(
今
は
高
台
の
最
南
端
を
崩
し
て
、
都
市
計
画
道
路
が
で
き
て
こ
こ
の
地
に
ま
た
、
昭
和
30
年
代
ま
で
は
、
駅
西
口
は
な
い
が
、
こ
の
70
い
る
が
、
堤
防
(
以
前
か
ら
の
大
鹿
材
の
水
田
を
守
っ
た
堤
様
に
織
部
時
平
に
よ
っ
て
建
立
さ
れ
た
と
言
わ
れ
て
い
る
.
付
近
の
谷
津
は
6
号
線
国
道
付
近
ま
で
入
り
込
ん
で
、
駅
前
)
防
を
大
利
根
橋
ま
で
昭
和
30
年
頃
延
長
し
た
)
と
道
路
の
間
こ
の
辺
を
花
輪
と
呼
ん
で
い
た
.
(
こ
の
近
く
の
大
鹿
原
の
説
ロ
ー
タ
リ
ー
辺
り
は
湿
地
帯
で
、
宇
田
川
ガ
ソ
リ
ン
タ
ン
ク
、
(
(
以
前
は
取
手
か
ら
稲
村
に
行
く
道
だ
っ
た
部
分
)
に
ベ
ン
も
あ
る
)
成
島
牛
乳
屋
な
ど
が
あ
っ
た
程
度
で
あ
っ
た
.
1779
チ
を
配
し
た
小
公
園
が
で
き
、
簡
単
な
説
明
が
石
碑
に
な
っ
白
山
や
井
野
台
へ
の
メ
イ
ン
ロ
ー
ド
で
あ
る
治
助
坂
は
、
1230
1560
て
い
る
.
駅
西
口
が
出
来
る
前
は
、
自
動
車
だ
け
し
か
通
ら
な
い
寂
し
)
1220
に 平
側 昔
四
建 が 大 の は こ .
立
鹿 土 競 ん 大
し
城 地 馬 ぴ 鹿
た
は を 場 ら 城
. 年 、 削 ) 様 跡
頃 平 っ を か 付
、 将 た 南 ら 近
門
年 大 の 部 下 坂 /
頃 鹿 末 分 し を 利
、 村 裔 に 競 戻 根
大 輪 っ 川
小 の
文 一 で 鹿 場 て を
間 万 あ 城 の 、 望
城 町 る が 高 競 む
主 を 大 あ 台 輪
一 領 鹿 っ の 場
色 し 左 た 南 駐
宮 て 衛 . 端 車
の 場
内 高 門
坂 (
政 台 織
の そ
長 南 部
西 の
の 端 時
い
道
で
あ
っ
た
.
「
治
助
」
さ
ん
が
自
殺
し
た
所
と
い
わ
れ
が
頃
創
建
。
そ
の
城
跡
は
、
利
根
川
谷
津
の
入
江
状
と
な
っ
た
少
し
奥
奇
襲
に
あ
い
敗
北
し
、
大
鹿
氏
は
滅
亡
し
た
.
と
の
交
通
の
交
差
点
で
あ
っ
た
.
が
開
通
す
る
ま
で
続
い
た
.
ま
さ
に
陸
上
輸
送
と
水
上
輸
送
利
根
の
河
原
は
、
野
口
雨
情
の
様
の
前
の
利
根
川
を
渡
船
事
業
が
、
昭
和
5
年
に
大
利
根
橋
倉
庫
が
並
ん
だ
.
大
鹿
村
も
-
そ
れ
以
来
年
間
あ
た
ご
に
な
っ
た
.
川
と
常
磐
線
鉄
橋
と
国
道
の
橋
梁
の
見
晴
ら
し
の
良
い
位
置
し
た
.
今
は
、
国
道
上
の
木
も
な
い
風
通
し
の
い
い
、
利
根
縦
断
す
る
こ
と
に
な
り
、
昭
和
37
年
に
あ
り
、
く
ら
い
北
側
に
後
退
移
設
)
.
国
道
6
号
線
バ
イ
パ
ス
を
石
引
地
区
を
年
間
近
く
に
3
度
し
か
改
修
さ
れ
な
か
っ
た
.
石
碑
(
根
本
久
弥
)
が
石
引
墓
地
の
一
角
に
あ
る
.
今
は
急
ト
と
し
て
薦
め
る
.
ま
た
大
鹿
部
落
の
経
過
を
説
明
を
し
た
桜
、
夏
は
蝉
し
ぐ
れ
、
秋
は
く
れ
な
い
(
紅
)
。
村
へ
タ
イ
ム
ト
リ
ッ
プ
し
た
よ
う
な
空
間
が
広
が
る
。
春
は
る
、
小
さ
な
林
だ
が
駅
前
の
繁
華
街
の
中
に
一
瞬
だ
が
取
手
緩
や
か
な
坂
を
下
る
と
目
の
前
に
取
手
駅
の
ホ
ー
ム
が
見
え
横
切
り
向
か
い
の
細
い
道
を
進
み
一
つ
目
の
十
字
路
を
右
に
見
る
の
も
よ
い
.
階
段
を
登
り
石
引
墓
地
内
を
国
道
沿
い
に
な
階
段
に
な
っ
た
石
引
坂
を
下
り
、
利
根
川
河
川
敷
に
出
て
ら
高
瀬
船
の
帆
が
見
え
た
と
い
わ
れ
た
.
河
岸
に
は
土
蔵
の
利
根
川
の
土
手
の
高
さ
は
、
今
ほ
ど
高
く
な
く
、
家
の
中
か
等
が
盛
ん
だ
っ
た
.
形
成
し
て
い
て
、
旅
籠
屋
、
食
べ
物
屋
、
船
大
工
、
干
魚
屋
の
往
来
が
繁
栄
し
て
、
取
手
宿
は
本
陣
を
中
心
に
宿
場
町
を
の
頃
)
か
ら
で
、
東
北
地
方
や
水
戸
藩
な
ど
の
産
物
や
人
々
取
手
を
通
る
よ
う
に
な
っ
た
の
は
年
頃
(
徳
川
光
圀
江
戸
中
期
の
利
根
川
の
改
修
工
事
に
よ
り
、
水
戸
街
道
が
十
一
、
大
鹿
・
取
手
の
ま
ち
2 / 12
そ
の
愛
宕
神
社
は
、
利
根
川
を
見
渡
せ
る
高
台
南
端
の
中
腹
石
引
の
高
台
に
愛
宕
神
社
を
創
建
し
た
.
っ
た
.
中
腹
は
、
利
根
川
と
富
士
山
を
望
め
る
景
観
ス
ポ
ッ
暗
い
坂
で
山
の
上
に
あ
る
先
祖
の
墓
や
畑
に
通
じ
る
坂
道
だ
住 増 利
そ さ え 根
し せ 、 川
て ら 渡 を
れ 船 往
た 場 来
.
( の す
近 る
年
く 人
、
に も
大
鹿 年 公 、
村 頃 用 大
の ) 伝 名
馬 は
3
役 じ
部
と め
落
し 多
の
て く
総
強 の
鎮
制 通
守
的 行
と
に 人
し
移 が
て
あ
る
が
、
昔
は
石
引
坂
と
い
っ
て
両
側
が
木
で
囲
ま
れ
た
薄
日
本
農
業
新
聞
独
身
寮
跡
の
南
側
斜
面
は
、
今
で
も
坂
が
九
.
石
引
き
坂
、
東
急
百
貨
店
の
裏
手
の
一
角
に
あ
り
ま
す
。
っ る と
た 工 い 常
. 場 わ 盤
( れ 線
内 る 鉄
務 利 橋
省 根 と
東 川 今
京 か の
土 ら 国
木 の 道
出 入 橋
張 江 と
所 が の
取 あ 間
手 り に
機 浚 今
械 渫 は
工 船 な
場 を き
) 修 ド
が 理 ッ
あ す ク
取
手
を
通
る
水
戸
街
道
が
整
備
さ
れ
つ
つ
あ
り
、
や
が
て
場
が
無
秩
序
に
配
置
さ
れ
高
台
地
形
の
様
相
を
変
え
た
.
湿
地
帯
を
中
心
に
茅
場
と
魚
取
り
場
で
あ
っ
た
.
練
習
場
で
あ
る
が
、
世
界
大
戦
前
後
は
水
泳
場
、
河
川
敷
は
務
な
ど
を
や
っ
て
い
た
.
(
年
頃
か
ら
)
、
傾
斜
林
と
畑
だ
っ
た
こ
の
辺
は
、
今
は
道
路
、
建
物
と
鞋
車
上
新
町
の
利
根
川
の
河
川
敷
は
今
は
ゴ
ル
フ
の
コ
ー
ス
と
大
鹿
村
の
3
部
落
を
大
鹿
宿
と
言
い
、
利
根
川
の
渡
川
役
明
治
41
年
水
神
社
を
合
併
。
ご
祭
神
、
過
遇
突
知
命
、
元
禄
十
年
七
.
愛
宕
神
社
(
あ
た
ご
様
)
相
馬
第
霊
場
)
、 八
十
七
番
(1697
取
手
と
大
鹿
と
の
境
界
は
長
禅
寺
階
段
か
ら
利
根
川
を
望
め
坂
の
途
中
の
一
軒
家
は
昔
か
ら
あ
っ
た
の
だ
ろ
う
か
。
八
、
新
町
の
高
台
を
一
望
。
国
連
6
号
線
は
利
根
川
を
渡
っ
1670
十
、
利
根
の
河
原
の
む
か
し
て
、
旧
水
戸
街
道
(
6
号
国
道
)
と
別
れ
、
南
北
に
真
っ
直
1680
「
船
頭
小
唄
」
や
高
村
光
太
郎
の
「
利
根
川
原
の
美
し
さ
は
250
空
間
の
美
で
あ
る
」
と
歌
わ
れ
た
.
ぐ
坂
を
上
る
.
(
今
の
新
大
利
根
橋
は
、
旧
橋
上
流
二
十
米
位
1680
西
口
か
ら
坂
を
上
り
(
昭
に
,
昭
和
47
年
下
側
と
49
年
に
両
面
開
通
)
1697
一
方
、
ふ
れ
あ
い
道
路
は
200
る
部
分
で
あ
る
.
和
32
)
,
国
道
と
交
差
し
、
ま
た
切
り
通
し
を
下
り
て
県
信
(1962
旧
愛
后
神
社
か
ら
真
っ
直
ぐ
利
根
川
に
渡
し
に
行
く
道
が
交
差
点
に
出
て
、
利
根
川
と
並
行
し
て
市
内
東
西
に
新
設
さ
100m
あ
っ
た
.
そ
の
途
中
に
小
川
に
掛
け
た
橋
が
(
い
ま
の
ゴ
ル
れ
た
.
(
昭
和
62
)
と
こ
ろ
で
、
30
年
余
前
ま
で
は
、
愛
宕
JR
神
社
の
裏
山
を
北
に
行
く
と
白
山
前
の
県
消
費
者
セ
ン
タ
ー
台
に
移
り
、
生
活
に
大
き
な
変
化
が
で
て
き
た
.
高
台
は
、
あ
い
道
路
の
建
設
に
よ
り
、
低
地
に
住
ん
で
い
た
人
達
が
高
上
新
町
は
こ
の
国
道
バ
イ
パ
ス
と
都
市
計
画
道
路
と
ふ
れ
船
が
利
根
丸
と
い
う
新
造
船
で
あ
っ
た
.
御
幸
の
際
の
渡
っ
た
橋
で
あ
り
、
ま
た
、
そ
の
と
き
の
渡
し
こ
の
橋
は
、
明
治
天
皇
が
明
治
17
年
に
女
化
原
大
演
習
に
道
に
寸
断
さ
れ
な
が
ら
残
っ
て
い
る
.
に
通
じ
る
、
馬
車
が
通
る
位
の
道
路
が
あ
っ
た
.
今
で
も
国
初
橋
と
言
わ
れ
て
歌
に
も
う
た
わ
れ
た
.
フ
練
習
場
、
国
道
橋
梁
付
近
、
ゴ
ル
フ
場
の
柳
の
付
近
)
、
君
取
手
か
ら
大
師
霊
場
を
巡
る
に
は
、
交
通
手
段
の
無
い
時
代
で
四
国
霊
場
が
最
も
盛
ん
に
な
っ
た
時
期
は
、
戦
国
の
乱
世
が
終
覚
光
音
大
禅
師
の
建
立
し
た
新
四
国
相
馬
霊
場
八
十
八
ヶ
所
と
正
面
に
観
音
堂
(
別
名
さ
ざ
え
堂
、
百
観
音
)
、
右
側
に
観
六
十
三
段
の
石
階
段
を
上
が
り
、
鐘
楼
の
下
を
直
進
す
る
十
二
、
大
鹿
山
長
禅
寺
こ
と
だ
.
以
上
、
資
料
提
供
、
江
戸
時
代
の
お
遍
路
さ
ん
読
経
す
る
勤
行
の
声
の
み
残
る
。
あ
と
こ
そ
鐘
の
勤
行
ご
ん
ぎ
ょ
う
の
こ
え
御
詠
歌
、
宵
の
ま
の
た
え
降
る
霜
の
消
え
ぬ
れ
ば
移
し
寺
、
香
川
県
青
峰
山
根
香
寺
ね
ご
ろ
じ
ご
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
。
浄
土
宗
鎮
西
派
徳
川
家
御
朱
印
寺
)
和
讃
訳
、
此
の
根
香
寺
は
高
い
山
に
在
る
の
で
宵
の
う
ち
に
降
っ
食
店
や
劇
場
な
ど
が
あ
っ
た
.
(
た
霜
が
消
え
る
と
、
も
う
人
里
離
れ
た
山
の
上
で
は
鐘
を
打
っ
て
)
3 / 12
娑
婆
し
ゃ
ば
世
界
、
煩
悩
業
苦
の
吾
々
は
長
夜
の
眠
り
醒
ま
た
、
戦
後
に
な
っ
て
も
坂
道
の
桜
道
、
バ
ラ
ッ
ク
の
商
(
め
な
け
れ
ば
哀
れ
な
る
か
な
塵
の
人
々
。
店
街
、
協
同
病
院
な
ど
が
あ
っ
た
.
台
宿
、
井
野
へ
の
坂
道
は
、
水
海
道
方
面
か
ら
く
る
馬
車
の
停
留
所
や
輸
送
屋
や
飲
常
磐
線
や
常
総
線
(
大
正
2
)
が
開
通
し
て
、
駅
周
辺
に
第
八
十
お
お 二
し 番
か
さ
ん
せ
い
し
ょ
う
い
ん
ぐ
ぎ
ょ
う
じ
。
は
坂
を
登
っ
て
行
っ
た
.
打
始
う
ち
は
、 じ
取 め
手
市
白
山
の
大
鹿
山
清
浄
院
弘
経
寺
)
大
鹿
山
清
浄
院
弘
経
寺
は
昭
和
20
年
代
後
半
に
歩
行
用
道
路
が
で
き
た
.
)
水
海
道
飯
沼
、
結
城
の
各
弘
経
寺
と
と
も
に
関
東
の
三
弘
今
の
取
手
駅
東
口
の
改
札
口
は
、
今
回
区
画
整
理
を
し
た
舎
は
ホ
ー
ム
と
同
じ
高
さ
に
な
っ
て
い
て
、
駅
に
行
く
と
き
(
経
寺
と
呼
ば
れ
て
い
る
。
東
口
一
帯
の
高
さ
と
同
一
で
、
昔
の
高
さ
に
戻
っ
た
と
い
う
(
開
山
は
浄
土
宗
を
中
興
し
た
第
七
祖
聖
冏
し
ょ
う
げ
、 い
飯
)
の
弟
子
良
肇
り
ょ
う
じ
ょ
う
が
応
永
二
十
一
年
「
沼
の
弘
経
寺
の
分
け
寺
と
し
て
、
当
初
人
家
も
な
い
山
中
に
(
草
庵
を
設
け
た
の
が
始
ま
り
と
云
い
ま
す
。
)
弘
経
寺
は
、
戦
国
時
代
は
大
鹿
城
主
の
菩
提
寺
で
し
た
。
(
大
鹿
太
郎
左
衛
門
は
、
小
文
間
の
一
色
宮
内
に
襲
撃
さ
れ
(1414)
た
時
に
、
弘
経
寺
の
娘
で
あ
っ
た
奥
方
を
弘
経
寺
に
逃
が
し
年
1
月
」
た
と
云
わ
れ
て
い
ま
す
。
( の
大
総
年 山
) と
右 し
側 て
は 霊
大 場
黒 1
天
堂 番
、 と
本 88
堂 番
、 と
さ 5
ら 番
に
行 が
く あ
と る
、 .
)
(1590)
徳
川
家
康
が
当
地
に
遊
後
に
、
一
時
無
住
の
時
代
が
あ
っ
た
と
い
わ
れ
て
い
る
弘
り
、
庶
民
の
生
活
に
に
ゆ
と
り
が
生
じ
た
江
戸
時
代
に
な
っ
て
か
ら
小
林
一
茶
の
句
碑
「
下
総
の
四
国
巡
り
や
閑
古
鳥
」
や
高
村
(
経
寺
で
す
が
、
天
正
十
八
年
だ
と
云
わ
れ
て
い
ま
す
。
光
太
郎
直
筆
の
「
芋
銭
先
生
景
慕
之
稗
」
な
ど
が
あ
り
、
な
2002
す
か
ら
2
~
3
ヶ
月
は
要
し
た
よ
う
で
す
。
だ
ら
か
な
階
段
を
下
り
る
と
大
師
通
り
に
下
り
る
.
1763
十
三
、
駅
東
口
(
昔
の
取
手
駅
付
近
)
こ
の
辺
は
入
谷
と
い
う
湿
地
帯
だ
っ
た
が
、
常
磐
線
が
開
光
音
禅
師
の
地
と
民
家
が
守
る
札
所
通
(
明
治
29
年
)
す
る
た
め
に
、
駅
付
近
は
盛
土
し
て
、
駅
新
四
国
相
馬
霊
場
巡
り
)
さ
れ
て
い
ま
す
が
平
成
9
年
の
墓
所
改
修
と
調
査
で
結
髪
が
ケ
淵
し
ん
け
い
か
さ
ね
が
ふ
ち
」
で
有
名
な
「
羽
生
村
の
し
飯 た
沼 。
弘
経
寺
近
く
に
、
三
遊
亭
円
朝
の
怪
談
噺
「
真
景
累
角
輪
蔵
経
蔵
が
回
転
す
る
が
あ
り
ま
す
。
な
の
で
お
勧
め
し
ま
す
。
お
累
の
墓
は
目
黒
の
さ
ん
ま
で
有
ら
鬼
怒
川
の
累
ヶ
淵
を
ハ
イ
キ
ン
グ
す
る
丁
度
よ
い
コ
ー
ス
お
累
る
い
」
の
墓
が
残
る
法
蔵
寺
が
あ
り
、
水
海
道
駅
か
)
名
な
、
祐
天
寺
に
も
あ
り
ま
す
。
飯
沼
弘
経
寺
の
境
内
に
は
、
一
切
経
典
の
書
庫
で
あ
る
八
(
発
見
さ
れ
ま
し
た
。
ま
た
、
飯
沼
と
結
城
の
弘
経
寺
は
、
関
東
十
八
檀
林
だ
ん
)
)
号
脇
、
井
野
野
中
の
諏
訪
宮
、
り
ん
の
内
の
一
寺
で
も
あ
り
ま
す
。
(
、
国
道
十
一
石
の
御
朱
印
を
授
か
り
、
以
来
御
朱
印
寺
と
し
て
の
格
(
第
八
十
三
番
294
(
ご
祭
神
、
諏
訪
大
明
神
。
江
戸
時
代
初
期
に
定
め
ら
れ
た
関
東
に
お
け
る
浄
土
宗
の
十 学
式
一 し 更 を
年 ょ に 備
う 、 え
よ 弘 、
経 堂
、 り 寺 宇
下 ょ 歴 の
総 う 代 規
国 が 住 模
千 く 職 も
葉 、 の 拡
氏 天 中 大
重 文 か さ
臣 十 ら れ
高 八 学 た
城 年 徳 そ
胤
兼 う
吉
備 で
三
な す
男 ~ 照 。
上 寛 誉
人 永 了
ぐ
れ
て
い
る
事
や
人
の
僧
で
あ
っ
た
た
め
、
特
に
境
内
外
三
猟
の
際
、
案
内
を
し
た
住
職
の
宣
誉
上
人
が
有
徳
徳
行
の
す
(
)
ご
本
尊
、
聖
観
世
音
菩
薩
、
僧
侶
の
養
成
機
関
・
学
問
所
を
い
う
。
は
、
徳
川
家
の
菩
提
寺
で
あ
る
芝
増
上
寺
の
住
職
に
上
任
さ
)
(
移
し
寺
、
香
川
県
神
毫
山
し
ん
ご
う
さ
ん
一
宮
寺
江
戸
時
代
に
は
浄
土
宗
の
僧
侶
の
養
成
に
つ
い
て
は
、
こ
れ
て
い
ま
し
た
。
(
の
18
ヵ
寺
に
限
ら
れ
て
い
ま
し
た
。
現
在
も
家
康
を
は
じ
め
と
す
る
十
一
代
の
徳
川
家
御
朱
印
(1549)
が
保
存
さ
れ
て
お
り
、
た
い
へ
ん
貴
重
な
も
の
で
す
。
)
武
蔵
国
:
増
上
寺
港
区
、
伝
通
院
文
京
区
、
)
御
詠
歌
、
さ
ぬ
き
一
宮
の
御
前
に
あ
お
ぎ
き
て
山
門
の
脇
に
、
白
山
大
権
現
の
祠
が
あ
り
ま
す
。
(
)
4 / 12
(
神
の
心
を
誰
れ
か
し
ら
ゆ
う
霊
巌
寺
江
東
区
、
霊
山
寺
墨
田
区
、
)
和
讃
訳
、
御
四
國
霊
場
第
八
十
三
番
、
一
の
宮
の
御
本
尊
は
、
「
白
山
通
り
」
は
、
今
で
は
少
々
寂
し
く
な
っ
て
し
ま
い
(
)
聖
観
世
音
菩
薩
に
て
、
弘
法
大
師
様
の
御
作
で
あ
り
ま
す
。
)
)
御
詠
歌
の
意
味
は
、
一
の
宮
の
本
地
は
阿
弥
陀
如
来
様
で
す
。
(
(
)
)
其
の
彌
陀
の
御
前
に
来
て
誰
か
其
の
神
様
の
御
心
が
分
か
ら
う
幡
随
院
小
金
井
市
、
蓮
馨
寺
川
越
市
、
)
(
)
(
ぞ
、
只
一
心
に
彌
陀
の
名
号
を
唱
え
な
さ
え
、
百
事
は
夢
と
悟
っ
ま
し
が
、
地
名
の
由
来
に
な
っ
て
い
ま
す
。
(
(
)
)
て
浮
世
の
謎
を
晴
ら
す
が
良
い
。
口
で
言
う
事
は
最
も
易
い
が
先
ず
行
っ
て
見
な
さ
え
、
彌
陀
の
(
(
(
勝
願
寺
鴻
巣
市
、
大
善
寺
八
王
子
市
、
)
御
前
に
と
云
う
事
で
す
。
浄
国
寺
岩
槻
区
(
井
野
の
昌
松
寺
に
も
八
十
三
番
が
あ
り
ま
す
。
江
戸
時
代
に
相
模
国
:
光
明
寺
鎌
倉
市
)
村
人
と
共
に
お
寺
が
移
っ
た
た
め
、
2
ケ
所
に
な
っ
て
し
ま
大
巌
寺
千
葉
市
、
弘
経
寺
常
総
市
下
総
国
:
弘
経
寺
結
城
市
、
東
漸
寺
松
戸
市
、
(
い
ま
し
た
。
ど
ち
ら
の
83
番
本
物
か
?
年
4
月
12
日
に
、
飯
沼
弘
経
寺
本
堂
の
落
慶
式
が
上
野
国
:
大
光
院
太
田
市
、
善
導
寺
館
林
市
)
人
気
で
は
、
こ
ち
ら
の
札
所
の
よ
う
で
し
た
。
常
陸
国
:
常
福
寺
那
珂
市
、
大
念
寺
稲
敷
市
(
白
山
に
建
立
さ
れ
た
諏
訪
山
昌
松
寺
は
、
江
戸
時
代
に
井
執
り
行
な
わ
れ
ま
し
た
、
江
戸
時
代
か
ら
の
姿
で
残
っ
て
い
)
野
台
へ
移
っ
た
先
が
、
現
在
の
井
野
台
の
相
馬
霊
場
第
23
番
た
本
堂
は
荒
れ
果
て
て
し
ま
い
、
雨
漏
り
が
酷
い
た
め
新
築
(
薬
師
堂
が
あ
る
井
野
台
北
坪
集
会
所
で
す
、
だ
が
昌
松
寺
は
さ
れ
完
成
の
記
念
式
典
が
と
り
行
な
わ
れ
ま
し
た
。
)
更
に
翌
日
13
日
は
水
海
道
の
恒
例
行
事
「
千
姫
祭
り
」
が
ます。
か
つ
て
は
白
山
商
店
街
の
中
程
に
白
山
神
社
と
し
て
祀
ら
(
行
わ
れ
、
千
姫
の
御
廟
が
あ
る
弘
経
寺
か
ら
水
海
道
市
内
ま
浄土宗の宗紋 は
「月影杏葉:つき
かげぎょよう」だ
が、弘経寺は徳川
家の「三つ葉葵」
を寺紋としてい
2008
で
の
行
列
歩
行
は
、
天
気
に
恵
ま
れ
大
勢
の
人
で
賑
わ
い
ま
年
の
相
馬
霊
場
巡
り
に
於
い
て
は
、
檀
家
で
歌
手
の
れ
て
居
り
、
金
刀
比
羅
神
社
と
共
に
人
気
が
高
く
多
く
の
参
)
天
樹
院
弘
経
寺
に
は
、
拝
者
を
招
い
て
賑
わ
っ
て
い
ま
し
た
。
)
(
じ
ゅ
き
ざ
ん
ペ
ギ
ー
葉
山
さ
ん
に
境
内
で
お
会
い
し
て
い
ま
す
。
(
水
海
道
飯
沼
の
寿
亀
山
(1634)
)
徳
川
幕
府
二
代
将
軍
秀
忠
の
長
女
の
千
姫
こ
と
天
樹
院
の
廟
2006
(
所
び
ょ
う
し
ょ
が
あ
り
結
髪
の
一
部
が
壺
に
収
め
ら
れ
て
い
ま
す
。
天
樹
院
は
遺
言
に
よ
り
文
京
区
の
伝
通
院
に
埋
葬
取
手
の
金
刀
比
羅
神
社
は
、
安
永
八
年
利
根
川
の
び
て
繁
栄
し
ま
し
た
。
の
町
と
し
て
近
隣
に
名
を
響
か
せ
、
宿
場
全
体
が
活
気
を
帯
観
覚
光
音
の
活
躍
も
あ
り
、
当
時
の
取
手
宿
は
大
師
信
仰
く
、
姿
を
失
っ
て
い
く
定
め
と
な
る
の
で
す
ね
。
い
な
く
な
っ
た
お
寺
や
御
堂
は
、
建
物
を
守
る
こ
と
も
難
し
組
織
が
衰
退
し
て
し
ま
っ
た
こ
と
に
よ
り
、
訪
れ
る
人
達
の
の
功
績
を
残
し
ま
し
た
。
改
装
し
た
り
、
新
四
国
相
馬
霊
場
を
開
設
す
る
な
ど
、
数
々
ま
た
、
荒
廃
し
た
長
禅
寺
の
観
音
堂
を
「
さ
ざ
え
堂
」
に
5 / 12
札
所
を
維
持
す
る
組
織
の
中
枢
で
あ
っ
た
「
講
」
と
い
う
た
と
伝
え
ら
れ
て
い
ま
す
。
で
し
た
が
見
る
事
が
出
来
ま
し
た
。
な
が
ら
巡
り
、
貧
者
へ
の
施
し
や
病
者
へ
の
救
い
を
行
な
っ
相
馬
霊
場
の
、
衰
退
し
て
い
こ
う
と
し
て
い
る
姿
を
偶
然
下
総
国
相
馬
郡
の
取
手
宿
や
我
孫
子
の
村
を
、
経
文
を
唱
え
の
朽
果
て
荒
廃
し
た
姿
は
、
年
秋
解
体
さ
れ
ま
し
た
。
出
家
し
て
観
覚
光
音
と
な
っ
た
源
六
以
下
、
光
音
)
は
、
大
師
霊
場
の
佇
ま
い
の
保
存
は
良
い
の
で
す
が
、
弥
陀
堂
と
な
り
ま
し
た
。
松
寺
は
、
阿
弥
陀
三
尊
が
本
尊
で
あ
る
こ
と
、
つ
ま
り
井
野
井
野
台
の
薬
師
堂
が
昌
松
寺
跡
で
あ
る
の
に
、
現
在
の
昌
瘡 濱
磯
か 風
さ の
神 吹
様 く
の 時
阿 気
弥 清
陀 し
さ 。
ん
の
弥
陀
堂
は
、
お
隠
れ
し
た
。
て
夜
な
夜
な
出
ず
る
月
の
よ
う
で
あ
ろ
う
と
云
う
事
で
す
。
海
明
瞭
で
あ
る
空
行
く
月
の
さ
や
け
さ
に
、
我
が
心
の
闇
も
は
れ
御
詠
歌
の
意
味
は
、
御
來
迎
の
阿
弥
陀
如
来
の
御
光
は
、
圓
満
は
家
も
商
い
も
全
て
妻
子
に
譲
り
、
出
家
し
て
和
尚
の
弟
子
六
は
長
禅
寺
の
幻
堂
和
尚
と
親
し
く
な
り
、
神
仏
に
帰
依
す
人
々
か
ら
慕
わ
れ
た
と
い
わ
れ
て
い
ま
す
。
そ
ん
な
折
、
源
商
い
の
傍
ら
取
手
宿
の
繁
栄
の
為
に
尽
く
し
、
多
く
の
る
念
が
強
く
な
り
ま
す
。
そ
し
て
宝
暦
十
年
)
、
源
六
た
話
し
を
さ
れ
ま
し
た
。
だ
が
、
住
職
は
「
医
王
院
」
と
い
う
院
号
に
疑
問
を
抱
い
内
に
あ
る
札
所
が
本
来
の
83
番
で
す
」
と
説
明
さ
れ
ま
し
た
。
如
来
で
行
基
菩
薩
の
御
作
。
亦
開
基
で
あ
り
ま
す
。
三
軒
の
店
を
構
え
る
ほ
ど
、
繁
盛
さ
せ
て
い
ま
し
た
。
昌
松
寺
の
住
職
に
話
を
伺
い
ま
し
た
、
当
然
と
し
て
「
境
現
在
、
83
番
と
共
に
井
野
へ
と
移
っ
て
い
ま
す
。
和
御 讃
四 訳
國 、
霊
場
第
五
十
三
番
、
圓
明
寺
の
御
本
尊
は
、
阿
弥
陀
や
が
て
源
六
は
、
取
手
宿
内
で
穀
物
商
伊
勢
屋
)
を
営
み
、
(
交
通
安
全
を
祈
願
し
て
観
覚
光
音
禅
師
が
、
四
国
讃
岐
の
琴
弥
陀
堂
の
阿
弥
陀
如
来
像
は
「
か
さ
の
神
様
」
と
い
っ
て
台
か
ら
井
野
に
移
っ
た
時
に
、
薬
師
如
来
を
置
い
て
来
た
と
(1760
平
神
社
か
ら
勧
請
し
た
と
伝
わ
っ
て
お
り
ま
す
。
瘡
神
様
、
ま
た
は
瘡
蓋
神
と
云
わ
れ
、
お
で
き
や
梅
毒
を
い
う
こ
と
で
し
た
。
)
治
す
神
様
だ
っ
た
そ
う
で
す
。
光
た た 住 訪
と 台
そ 。 身 職 山 取 勘 に す
れ
内 に 白 手 ぐ 昌 る
が
の た 山 市 り 松 と
檀
史 ま 寺 相
者 い
家
が し か の す が 馬
や
札 て ら 民 、 移 霊
当
所 、 井 族 し っ 場
時
を 23 野 編 か た 第
の
元 番 台 で し 時 83
人
の と に は 事 に 番
々
白 83 移 、 態 、 に
の
山 番 し 逸 は 札 於
共
へ の た 話 も 所 い
感
戻 二 時 と っ を て
を
し つ 、 し と 置 も
受
た の 寺 て 深 い 、
け
、 霊 を 、 刻 て 白
、
と 場 受 昌 で き 山
白
あ に け 松 し た か
山
り 反 継 寺 た の ら
の
ま 感 い が 。 で 井
札
し し だ 諏
は 野
(
光
音
は
晩
年
、
金
刀
比
羅
神
社
に
草
庵
を
建
て
隠
居
し
、
取
手
市
史
民
族
編
よ
り
所
に
賛
同
者
が
増
え
る
こ
と
と
な
り
、
今
に
至
る
。
と
あ
り
(
大
師
の
利
益
く
む
水
不
足
に
悩
む
住
人
に
光
音
井
戸
を
掘
削
し
ま
し
た
。
天
明 音
元 堂
年 、
金
刀
比
九 羅
月 琴
創 平
立
、 神
祭 社
神 境
、 内
大 。
物
主
命
。
ま
し
た
。
2011
)
う
れ
し
き
」
と
碑
が
残
っ
て
い
ま
す
。
こ
こ
で
言
う
三
「
三
神
の
威
徳
の
水
の
ま
す
井
よ
り
長
禅
寺
が
供
持
す
る
所
で
あ
り
、
土
地
所
有
主
は
現
在
に
白
山
の
83
番
札
所
に
は
、
誰
が
寄
贈
す
る
の
か
、
垂
れ
幕
(1779)
(
ぞ
(
)
神
と
は
、
五
穀
守
護
の
稚
産
霊
神
わ
く
む
す
ひ
の
か
み
、
於
い
て
も
長
禅
寺
で
あ
る
。
や
た
す
き
、
納
め
札
が
貼
ら
れ
、
お
遍
路
さ
ん
が
訪
れ
て
い
)
(
倉
稲
魂
神
う
か
の
み
た
ま
の
か
み
、
保
食
神
う
け
も
ち
の
相
馬
霊
場
と
観
覚
光
音
禅
師
、
弥
陀
堂
跡
地
る
様
子
が
残
っ
て
い
ま
す
。
(
)
か
み
の
神
で
す
。
相
馬
霊
場
創
始
者
観
覚
光
音
禅
師
(
伊
勢
屋
源
六
)
第
五
十
三
番
(1781)
1711
年
)
は
、
信
州
佐
久
海
尻
の
出
身
で
、
16
才
の
頃 年
江 ~
ご
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
、
御
堂
廃
墟
と
と
も
に
消
滅
。
)
1783
江
戸
時
代
中
期
の
人
物
で
あ
る
伊
勢
屋
源
六
(
移
し
寺
、
愛
媛
県
須
賀
山
円
明
寺
(
て
り
そ
う
か
げ
は
よ
な
よ
な
の
月
御
詠
歌
、
ら
い
ご
う
の
み
だ
の
ひ
か
り
の
円
明
寺
戸
伊
勢
屋
に
奉
公
し
ま
し
た
。
「
蠑
螺
堂
と
い
ふ
の
は
ど
う
い
ふ
譯
わ
け
な
の
で
す
か
」
「
あ
れ
は
蠑
螺
堂
よ
・
・
・
、
」
居
り
ま
せ
う
、
」
辞
世
の
句
、
享
年
七
十
三
で
し
た
。
行
く
と
も
知
ら
ず
も
と
天
明
三
年
(1783)
6 / 12
「
中
が
丁
度
蠑
螺
の
殻
の
様
に
な
っ
て
居
て
、
ぐ
る
ぐ
る
廻
と
し
て
、
更
に
明
治
維
新
政
府
で
朝
廷
権
力
が
復
活
「
日
々
に
運
び
歩
み
の
後
消
え
て
十
月
十
七
日
光
音
禅
師
は
天
命
を
全
う
、
明
治
創 「 八 境 長
建 社 年 内 禅
時 寺
は 寺
の 境
奉 の
境 内
還 新
内 外 、 を 町
は 区 第 免 移
「 画 二 れ 転
祭 取 次 た 後
典 調 上 。 、
法 規 知 ど 創
要 則 令 う 建
ニ 」
し 地
必 通
て 大
需 達
か 鹿
ノ 。
・ 山
場
・ 長
所
? 禅
」
寺
明
治
転 寺 四 分
身 院 年 離
の の
令
激 荒
が
増 廃
発
。 ・ 、 せ
廃 社 ら
合 寺 れ
廃 上 る
寺 知 。
・ 令 廃
排 と 仏
仏 相 毀
、 ま 釈
僧 っ 運
侶 て 動
の 、 が
神 余 起
官 波 き
は る
。
「
そ
の
森
の
間
に
小
さ
な
塔
の
や
う
な
も
の
ゝ
先
が
見
え
て
デ
ル
に
し
た
も
の
・
・
と
断
わ
っ
た
上
で
、
恋
人
雪
路
と
の
見
え
ま
す
ね
。
」
「
高
宮
さ
ん
、
こ
の
向
ひ
の
方
に
、
こ
ん
も
り
し
た
小
山
が
な
っ
て
い
る
。
】
惜
別
の
記
念
に
、
馬
で
大
鹿
山
の
蠑
螺
堂
を
目
指
す
設
定
と
(1871)
る
と
、
自
然
に
上
へ
行
け
る
や
な
つ
て
い
る
か
ら
よ
、
」
の
す
み
か
へ
」
(1875)
「
そ
れ
で
は
階
段
が
螺
旋
形
に
頂
上
ま
で
と
い
て
居
る
の
で
そ
旧
か 、 明
つ 江 治 長
て 戸 二 禅
時 十
取 代 四 寺
手 か 年 の
競 ら 頃 三
輪 の 、
場 三 廃 世
が 世 寺 堂
あ 堂 で は
る
あ ど
あ 栄 っ
螺
た 堂 た う
り
長 な
は で 禅 っ
大 し 寺
鹿 た の た
山 。 蜘 の
或
蛛 か
い
堂 。
は
こ
)
す
ね
・
・
・
、
」
明
治
24 く に
年 ぐ よ
り り
抜 辛
け う
、 た じ
取 と て
手 思 、
に わ 上
在 れ 知
住 る 令
し 。 の
過
て
酷
い
な
た
法
、
の
菊
目
池
を
幽
芳
の
)
自
叙
伝
「
蠑
螺
堂
の
落
日
」
、
私
小
説
「
白
蓮
紅
蓮
」
の
小
説
(
て
あ
る
で
せ
う
、
ざ
ぁ
ー
と
文
に
、
明
治
二
十
四
年
頃
は
創
建
地
大
鹿
山
長
禅
寺
境
内
に
大
鹿
原
と
い
わ
れ
、
雑
木
が
生
い
茂
る
深
山
で
、
大
鹿
左
衛
(
「
よ
く
多
寶
塔
た
ほ
う
と
う
三
世
堂
が
建
っ
て
い
た
記
述
が
あ
る
。
門
の
居
館
大
鹿
城
が
あ
っ
た
と
さ
れ
る
旧
跡
の
地
で
し
た
。
(1891)
あ
ん
な
形
よ
。
一
寸
こ
の
邊
あ
た
り
の
名
物
な
ん
で
す
け
)ツ
五
六
年
上
つ
た
事
あ
り
ま
せ
ん
ど
も
、
誰
も
構
は
な
く
な
っ
た
も
ん
で
す
か
ら
、
も
う
随
分
承
平
将 元
門 年
没
後
、
御 、
厨 将
三 門
郎 勅
吉 願
秀 所
が と
守 し
本 て
尊 長
十 禅
一 寺
面 創
観 建
音 、
((931)
荒
果
て
ゝ
居
る
筈
よ
。
私
(
け
ど
・
・
・
、
」
)
「
何
で
も
私
な
ど
の
知
ら
な
い
昔
に
は
お
寺
が
あ
っ
た
の
よ
。
小
説
『
白
蓮
紅
蓮
(
し
ろ
~ は
す
べ
に
茨
は
城
県 、 す
)
北
』
相
菊
池
幽
芳
、
自
叙
伝
『
蠑
螺
堂
の
落
日
』
、
(
今
は
堂
守
の
住
む
小
さ
な
庵
室
の
や
う
な
も
の
が
あ
る
ば
か
(
り
だ
わ
、
」
二
人
は
す
ぐ
小
山
の
下
に
つ
い
た
。
明
治
3
年
10
月
27
日
(1870/12/18 1947/7/21)
そ
れ
は
併
し
小
山
と
い
ふ
よ
り
は
、
丘
と
い
ふ
方
が
適
し
て
小
説
家
、
本
名
菊
池
清
、
明
治
21
年
(1888)
居
る
位
で
・
・
・
こ
の
山
の
正
面
に
は
、
一
間
幅
ほ
ど
の
、
馬
郡
取
手
高
等
小
学
校
(
現
在
の
取
手
市
立
取
手
小
学
校
)
)
草
だ
ら
け
に
な
っ
た
参
詣
道
が
つ
い
て
居
て
そ
の
両
側
に
は
の
教
師
と
な
り
、
3
年
後
隣
家
の
杉
本
玉
枝
17
歳
と
婚
約
(
た
・
・
・
幽
芳
が
大
阪
赴
任
の
為
三
世
堂
で
し
ば
し
の
別
れ
を
誓
い
、
入
仏
導
師
役
先
住
の
幻
堂
、
願
主
は
新
四
国
相
馬
霊
場
((1693)
)
白
蓮
紅
蓮
か
ら
・
・
文
中
の
※
印
は
注
釈
で
す
。
大
阪
毎
日
新
聞
社
へ
、
後
に
取
締
役
を
歴
任
し
た
。
開
基
の
光
音
が
勤
め
る
(
取
手
市
史
)
宝
元
暦
禄
西 で 三 十 新 六 奉
国 ん 層 三 町 年 納
秩 ) 構 年 に
(
父 再 造
強
伝
坂 建 (
制
承
東 な 三
移 、 )
各 る 匝 、 転 長
々 殿 堂 住 す 禅
の 宇 形 職 ( 寺
百 に 式 春 取 は
観 本 ) 翁 手 創
音 尊 の の 市 建
を 十 殿 代 史 の
三 一 宇 、 ) 地
壇 面 、
大
に 観 白
鹿
配 音 嗣
山
構 、 殿
か
安
は
ら
置
く
す
し
。
(1763)
(
ま
た
、
同
じ
タ
イ
ト
ル
の
劇
画
や
春
本
が
あ
る
が
、
作
者
が
>>>>>>>>>>>>>>
違
い
全
く
関
連
あ
り
ま
本 せ
文 ん
。
櫻
の
古
木
や
、
松
な
ど
が
歯
の
ぬ
け
た
よ
う
に
生
え
て
居
(1779)
寛
安
政
永
二 し 八
年 て 年
琴
平
社
、 金 、
大 刀 大
風 比 鹿
で 羅 山
白 神 の
嗣 社 長
殿
禅
百 を 寺
観 設 境
音 営 内
が ( に
破 琴 供
壊 平 持
社 所
由 と
緒
)
(1790)
(1801)
(1868)
明
享
治
和
元 宝 元
年 暦 年
の
白
嗣
、 殿 、
神 の 三
道 古 世
と 材 堂
仏 が 再
教 再 建
の 利 、
分 用 堂
離 さ 宇
を れ 棟
図 た 札
る 。 の
神
銘
仏
文
に
【 も
※ の 蠑
は 螺
白 知 堂
蓮 ら と
紅 ぬ い
蓮 が ふ
に 、
・ 建
描 ・ 築
い ・ 物
た ・ に
つ
蠑
い
螺
て
堂
は
は
、
、
私
こ
は
の
外
蠑
の
螺
土
堂
地
を
の
モ
年
は
、
じ
つ
は
、
上
知
令
で
家
政
が
苦
し
い
古
社
寺
の
体
制
菊
池
幽
芳
が
こ
の
作
品
を
書
い
た
明
治
二
十
四
年
と
い
う
光
明
寺
は
現
在
、
桑
原
一
一
三
三
に
移
っ
て
い
ま
す
。
ラ
を
聞
く
事
が
で
き
ま
す
。
に
は
絶
好
で
す
、
風
が
吹
け
ば
自
然
の
竹
林
の
オ
ー
ケ
ス
ト
猛
暑
日
の
竹
林
は
と
て
も
静
か
で
涼
し
く
て
一
休
み
す
る
す
。
現
在
は
あ
り
ま
せ
ん
。
ュ
メ
タ
リ
ー
も
の
そ
の
も
の
で
あ
る
。
光
明
寺
の
本
堂
の
一
角
に
薬
王
寺
の
遺
影
を
残
し
た
そ
う
で
こ
れ
は
ま
さ
に
今
日
の
新
聞
・
テ
レ
ビ
雑
誌
な
ぼ
の
ド
キ
ま
し
た
が
、
寺
の
檀
家
で
あ
っ
た
人
達
は
、
井
野
へ
移
っ
た
じ
み
出
て
居
る
文
節
で
あ
る
。
第
40
番
薬
王
寺
は
度
重
な
る
火
災
に
よ
り
廃
寺
と
な
り
塵
埃
塗
れ
じ
ん
あ
い
ま
み
レ
に
な
つ
て
居
て
、
入
口
近
く
、
の
が
安
置
さ
れ
、
そ
の
前
に
は
色
の
あ
せ
た
作
り
花
な
ど
が
あ
り
、
下
は
石
畳
に
な
つ
て
、
奥
に
阿
彌
陀
様
の
や
う
な
も
も
の
ら
し
く
、
な
か
な
か
頑
丈
な
材
木
で
組
み
立
て
ら
れ
て
傾
い
た
柱
と
て
も
な
く
、
建
築
當
時
は
相
當
に
念
を
入
れ
た
何
よ
り
も
廃
寺
跡
の
三
世
堂
に
対
す
る
菊
池
の
記
者
魂
が
に
も
な
く
な
っ
て
い
る
・
・
・
》
の
じ
つ
に
克
明
な
描
写
は
、
り
、
残
っ
て
居
る
も
の
も
手
足
が
缺
け
、
箔
が
剥
、
見
る
影
さ
な
無
細
工
な
佛
様
が
取
つ
け
ら
れ
て
あ
る
の
が
半
は
失
な
と
く
に
、
《
二
人
は
す
げ
小
山
の
下
に
つ
い
た
(
中
略
)
小
堂
の
前
に
來
て
見
る
と
、
見
か
け
た
ほ
ど
に
荒
れ
て
も
居
ず
、
勅
で
も
あ
っ
た
の
だ
ろ
う
。
か
の
や
う
に
、
剥
落
し
て
了
つ
て
・
・
・
裏
を
返
せ
ば
そ
れ
は
新
聞
記
者
と
し
て
の
己
に
対
す
る
戒
や
、
赤
や
そ
ん
な
色
が
、
も
う
何
百
年
の
風
雨
に
曝
さ
れ
た
い
込
ん
で
く
る
も
の
が
あ
っ
た
の
で
は
な
い
か
。
つ 居 た に 山 て 石 段 直 そ
蠑 た て 。 草 門 そ 段 が 線 の
螺 。 ・ 隨 が と の を つ に 参
堂
・ 分 生 螺 正 上 い 、 詣
は
・ 庵 え 蠑 面 り て 大 道
垂
す 室 、 堂 の 盡 い 分 か
木
べ や 柱 と 突 つ る 並 ら
や
て 、 の 三 當 く の び 頂
廂
が 蠑 傾 角 り ス で の 上
あ わ の
な
荒 螺 き 形
ど
寥 堂 か を つ し る る 古
の
そ の け な き て ・ く び
外
の 周 て し あ 山 ・ な た
部
も 圍 居 て た 門 ・ つ 山
に
の に る 居 リ を ・ た 門
塗
ゝ は 小 る に 潜
、 の
つ
や 草 さ 地 蠑 る
凸 と
た
う な な 點 螺 と
凹 こ
胡
な ど 庵 に 堂 廣
だ ろ
粉
光 が 室 萱 が 場
ら ま
や
景 生 が 葺 あ が
け で
、
で え あ 屋 つ あ
の 、
青
あ て つ 根 た つ
石 一
。
)
保
護
と
維
持
の
た
め
全
国
社
寺
に
対
し
、
古
寺
社
の
修
繕
・
手
垢
ず
れ
に
禿
ち
よ
ろ
け
と
な
つ
た
お
賓
髄
頭
廬
様
(
ぴ
ん
(
維
持
の
実
行
が
確
実
な
社
寺
・
団
体
へ
の
勧
奨
の
名
目
で
見
づ
る
)
が
あ
つ
た
・
・
・
)
舞
金
が
支
給
さ
れ
る
こ
と
に
な
り
、
『
古
社
寺
保
存
費
下
付
取
こ
の
階
段
(
螺
旋
形
)
の
壁
の
方
に
は
、
三
萬
三
千
體
あ
(
)
る
と
い
ふ
、
小
さ
な
無
細
工
な
佛
様
が
取
つ
け
ら
れ
て
あ
る
が
ぷ
ん
ぷ
ん
と
漂
い
、
発
揚
し
、
菊
池
の
精
神
に
食
ま 十
八 和
御 移
井 し 一 昭 幡 讃
詠 し
野 た 日 和 様 訳
歌 寺
の 。 に 八 を 、
、 、
集 年 拝 現
光
こ 愛
落 再 め 世
明
の 媛
の 建 ば で
寺
世 県
弓
八 で 、
は
に 府
即 矢
、
軒 寄 ち の
は 頭
西
が 進 阿 道
弓 山
向
供 者 弥 を 来 矢 栄
か
花 は 陀 護 世 を 福
い
や 東 様 る は 守 寺
の
供 京 を 八 人 る 、
山
膳 八 拝 幡 を 八
中
を 十 む 大 救 幡
に
当 八 と 菩 う な
あ
番 度 同 薩 弥 り
り
で 会 じ で 陀
ま
行 。 で あ 仏
し
っ 毎 あ る
た
て 月 る か
ら
。
い 二
、
7 / 12
が
絶
え
、
等
閑
に
さ
れ
な
が
ら
も
、
先
人
先
哲
の
澄
明
な
蠑
螺
堂
を
訪
ね
て
い
る
の
は
、
時
勢
に
取
り
残
さ
れ
、
人
手
ご
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
第
五
十
七
番
、
阿
弥
陀
堂
と
霊
場
は
個
人
所
有
、
る
通
り
、
こ
の
町
で
教
鞭
を
と
っ
て
い
る
間
に
何
回
と
な
く
つ
ま
り
、
菊
池
幽
芳
は
『
蠑
螺
堂
の
落
日
』
に
書
い
て
い
で
無
料
公
開
さ
れ
て
い
た
の
で
コ
ピ
ー
を
入
手
済
で
す
。
け
だ
っ
た
の
で
は
な
い
か
。
ま
た
、
白
蓮
紅
蓮
は
一
部
頁
欠
け
は
あ
る
も
の
の
、
NET
キ
リ
ン
ビ
ー
ル
取
手
事
業
所
の
東
側
に
位
置
す
る
。
の
が
半
は
失
な
り
、
残
っ
て
居
る
も
の
も
手
足
が
缺
け
、
箔
Esprit
無
量
山
宝
憧
院
ほ
う
し
ょ
う
い
ん
光
明
寺
、
真
言
宗
豊
が
剥
、
見
る
影
も
な
く
な
つ
て
居
る
・
・
・
)
調
書
』
な
る
制
度
が
内
務
省
社
寺
局
扱
い
で
下
達
さ
れ
た
年
(
原
文
の
ま
ま
転
載
引
用
)
と
活
写
し
て
い
る
。
(
で
も
あ
る
。
<<<<<<<<<<<<<<<<<
【
編
集
者
の
記
述
】
こ
の
描
写
で
は
、
金
刀
比
羅
神
社
境
内
(
で
は
な
く
現
長
禅
寺
境
内
に
酷
似
し
て
い
る
。
ま
た
、
宝
暦
ち
、
報
道
ス
タ
イ
ル
で
発
信
す
る
こ
と
を
編
み
出
し
た
先
駆
い
る
が
、
そ
の
フ
ィ
ル
ム
は
残
っ
て
い
な
い
。
茶
の
間
・
衆
人
に
伝
達
す
る
ジ
ャ
ー
ナ
リ
ズ
ム
の
手
法
、
即
白
蓮
紅
蓮
は
、
無
声
映
画
時
代
に
映
画
は
大
ヒ
ッ
ト
し
て
現
場
を
見
る
こ
と
の
で
き
な
い
不
特
定
多
数
の
読
者
・
お
布
へ
と
受
け
継
が
れ
て
い
く
の
で
し
た
。
某
HP
よ
り
金
刀
比
羅
神
社
の
蜘
蛛
堂
説
は
信
じ
が
た
い
。
事
項
標
準
」
を
定
め
、
同
三
十
年
の
「
古
社
寺
保
存
法
」
公
年
間
以
前
の
蜘
蛛
堂
の
存
在
を
立
証
す
る
歴
史
は
な
い
の
で
そ
し
て
こ
の
後
、
同
二
十
八
年
内
務
省
は
「
古
社
寺
調
査
の
宝
珠
を
船
で
送
っ
た
が
、
志
度
の
浦
で
龍
神
に
奪
わ
れ
て
共
に
仕
え
た
が
、
天
正
十
年
山
崎
の
一
戦
で
秀
吉
に
願 藤
四
唐 し 原 志 国
の た 不 度 の
高 。 比 寺 志
等 に 度
宗
が は 寺
皇
亡 「 に
帝
父 海 つ
の
鎌 女 い
妃
足 の て
で
の 墓
あ
供 」
っ
が
養 あ
た
に る
妹
奈 。
は
良 天
そ
興 智
の
福 天
菩
提
寺 皇
建 の
に
立 こ
と
を ろ
三
発 、
つ
8 / 12
の
三
男
神
戸
信
孝
に
家
老
染
野
民
部
取
手
本
陣
の
先
祖
と
『
山
崎
主
水
も
ん
ど
の
卑
』
の
要
旨
、
主
水
は
織
田
信
長
に
大
師
講
の
男
女
が
念
仏
を
唱
え
た
と
い
う
。
地
さ
れ
ま
し
た
が
古
い
樹
木
と
石
柱
は
残
さ
れ
て
い
ま
す
。
し
た
。
銅
版
葺
屋
根
に
リ
ニ
ュ
ー
ア
ル
さ
れ
、
堂
前
庭
も
整
か
つ
て
は
旅
坊
主
と
い
わ
れ
た
僧
が
住
み
三
月
二
十
一
日
平
成
15
年
、
境
内
が
整
備
さ
れ
大
師
堂
が
新
し
く
な
り
ま
実
は
劇
中
に
登
場
す
る
、
酌
婦
の
お
蔦
が
茂
兵
衛
に
声
を
く
の
を
云
う
た
の
で
す
。
れ
ま
し
た
。
で
あ
る
、
駒
形
茂
兵
衛
の
像
が
祀
ら
れ
て
い
ま
す
。
定
し
て
、
煩
悩
の
迷
霧
を
退
散
し
て
散
り
々
ば
ら
々
か
え
り
行
昭
和
四
十
年
頃
観
音
堂
の
改
築
の
際
、
古
文
書
が
発
見
さ
小
説
家
、
劇
作
家
作
の
戯
曲
『
一
本
刀
土
俵
入
』
の
主
人
公
に
、
特
別
に
別
室
を
設
け
て
い
た
様
で
し
た
~ 。
昭
和
38
年
、
境
内
に
、
長
谷
川
伸
明
治
17
年
本
尊
の
地
蔵
菩
薩
を
拝
み
、
来
世
の
引
導
頼
み
置
き
大
安
心
決
だ
の
で
御
詠
歌
の
意
味
は
、
諸
人
が
此
の
寺
へ
御
詣
り
を
し
て
御
和
讃
訳
、
歌
に
「
泰
山
寺
」
と
あ
る
は
寺
の
名
で
、
退
散
し
と
読
ん
花
の
蕾
に
化
生
し
て
宿
ら
う
と
、
万
事
佛
陀
に
献
げ
て
居
る
。
宿
床
に
御
通
夜
し
て
祈
り
の
声
に
身
を
委
ね
紫
雲
に
打
ち
乗
り
野
宿
し
て
木
の
根
に
手
を
枕
、
法
の
風
吹
く
時
を
待
ち
つ
つ
、
御
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
。
移
転
時
に
は
、
稲
の
檀
家
の
為
来
世
の
い
ん
ど
う
た
の
み
置
き
つ
つ
ば
煩
悩
が
起
こ
る
。
そ
の
後
天
文
20
年
桑
原
に
檀
家
と
共
に
移
転
し
た
。
御
詠
歌
、
み
な
人
の
ま
い
り
て
や
が
て
泰
山
寺
四
國
詣
り
に
出
る
時
は
、
同
行
二
人
の
笠
を
か
け
て
宿
を
選
べ
山
派
、
元
土
浦
市
法
泉
寺
末
、
建
治
二
年
(1276)
し
ま
っ
た
。
反
旗
を
奮
い
滅
ぼ
さ
れ
た
。
か
け
た
、
我
孫
子
屋
は
取
手
の
茶
屋
旅
籠
で
し
た
。
(1552)
兄
の
不
比
等
は
あ
き
ら
め
き
れ
ず
、
姿
を
変
え
て
志
度
の
主
水
は
、
武
蔵
国
で
同
士
大
鹿
太
郎
左
衛
門
と
共
に
下
総
路
銭
が
無
く
途
方
に
く
れ
て
い
た
茂
兵
衛
を
、
元
気
づ
け
(1884)
浦
へ
渡
り
、
土
地
の
海
女
と
夫
婦
に
な
り
一
子
、
房
前
ふ
さ
国
に
落
ち
、
大
鹿
村
と
稲
村
の
郷
士
ご
う
し
、
江
戸
時
代
に
た
お
蔦
は
、
数
年
後
に
横
綱
に
は
な
れ
ず
、
取
手
に
戻
っ
た
(
ま
え
を
も
う
け
る
。
あ
っ
た
階
級
の
一
つ
で
武
士
の
一
種
、
名
字
帯
刀
み
ょ
う
じ
、
毘
沙
門
堂
と
霊
場
は
個
人
所
有
、
茂
兵
衛
に
、
や
く
ざ
者
か
ら
助
け
ら
れ
る
と
い
う
、
人
情
時
)
や
が
て
海
女
は
観
世
音
に
祈
願
し
て
、
夫
と
子
の
た
め
に
た
い
と
う
、
苗
字
を
公
称
し
打
刀
と
脇
差
の
二
本
の
刀
を
腰
代
劇
で
し
た
。
)
命
を
捨
て
て
龍
神
か
ら
宝
珠
を
と
り
か
え
す
。
に
帯
び
ら
れ
る
を
許
さ
れ
て
い
た
。
家
系
も
は
っ
き
り
し
て
第
八
十
番
(
不
比
等
は
海
辺
の
近
く
に
海
女
の
墓
と
小
堂
を
た
て
「
志
い
る
も
の
が
多
か
っ
た
。
ご
本
尊
、
毘
沙
門
天
。
)
度
道
場
」
と
名
付
け
た
。
後
に
房
前
が
寺
名
を
志
度
寺
に
改
山
崎
主
水
戒
名
、
宗
休
同
意
居
士
よ
り
十
四
代
後
に
地
移
し
寺
、
愛
媛
県
白
牛
山
國
分
寺
、
(
め
た
と
云
わ
れ
て
い
る
。
、
稲
観
音
堂
と
霊
場
は
個
人
所
有
、
蔵
堂
内
へ
小
野
山
崎
家
の
碑
を
建
て
追
善
供
養
し
た
、
と
あ
詣
れ
る
人
を
助
け
ま
し
ま
せ
御
詠
歌
、
国
を
分
け
野
山
を
し
の
ぎ
寺
々
に
(1583)
ま
た
、
境
内
に
は
め
ず
ら
し
い
、
脱
衣
婆
堂
が
あ
る
。
り
ま
す
。
和
讃
訳
、
諸
國
を
分
け
経
め
ぐ
り
野
や
山
を
し
の
ぎ
越
え
難
行
(
第
八
十
六
番
の
後
、
先
祖
が
毘
沙
門
天
を
背
負
苦
行
し
て
寺
々
へ
、
参
拝
す
る
人
々
を
摂
取
不
捨
の
悲
願
を
垂
(
ご
本
尊
、
十
一
面
観
音
れ
て
助
け
て
下
さ
い
)
御
詠
歌
、
い
ざ
さ
ら
ば
今
宵
は
こ
こ
に
志
度
の
寺
関
ヶ
原
の
合
戦
(
移
し
寺
、
香
川
県
補
陀
落
山
志
度
寺
、
、
霊
場
は
個
人
所
有
、
っ
て
こ
こ
に
土
着
し
た
と
い
う
。
)
屋
号
を
武
左
衛
門
と
言
う
そ
う
で
す
。
)
大
師
堂
の
中
に
、
錦
の
札
が
貼
っ
て
あ
り
ま
し
た
。
(
祈
り
の
声
を
耳
に
触
れ
つ
つ
第
五
十
六
番
(1600)
ご
本
尊
、
地
蔵
菩
薩
、
地
蔵
堂
は
な
い
稲
に
創
立
、
移
し
寺
、
愛
媛
県
金
輪
山
泰
山
寺
、
和
讃
訳
、
人
間
は
心
持
ち
が
肝
要
で
あ
る
。
を
つ
け
る
だ
け
が
薬
王
寺
の
複
雑
な
歴
史
を
み
て
き
た
の
境
内
の
無
患
子
む
く
ろ
じ
、
羽
根
突
き
の
羽
の
珠
に
な
る
実
を
廃
棄
し
て
い
る
。
御
詠
歌
、
な
む
薬
師
諸
病
悉
除
の
願
こ
め
て
ま
せ
ん
年 。
現
在
、
薬
王
寺
の
存
在
を
証
明
す
る
事
実
の
石
塔
と
て
も
賑
わ
っ
て
い
た
そ
う
で
す
が
そ
の
面
影
は
現
在
あ
り
中
し
て
数
多
い
、
昔
は
お
遍
路
さ
ん
の
宿
も
あ
っ
て
春
先
は
た 光
井 天
も の 和
御 移
稲 。 明 薬 村 台 寺 咲 浮 讃
詠 し
村
寺 王 尋 宗 は き 世 訳
歌 寺
山
に 寺 常 の 、 此 に 、
、 、
連
移 は 小 僧 寺 の 住 我
心 愛
竹
さ 二 学 が 子 世 み
願 媛
等
な
浮 や 県
院
れ 度 校 師 屋 の
御
苦
が
、
た に 稲 と で を ら 互 世 自 平
守
こ
お 渡 分 な
逃 心 い の 在 城
の
り る 教 っ 谷 れ 願 も が の 山
辺
、 火 場 て の 住 成 信 れ 春 観
り
薬 災 と 教 西 む 就 心 て に 自
竹
王 の な え 林 の し を 住 花 在
林
寺 為 り て 寺 は 自 起 む 咲 寺
こ
が
の 、 ま い の 、
安 在 し や き 、
多
寺 焼 し ま 末 楽 を て け て
い
名 失 た し 寺 で 得 菩 だ
、
は に 。 た で あ て 提 も
又
消 よ
。 あ る 心 を の
。
札
滅 り
後 っ
に 得
た
所
し 桑
に た
春 れ
が
ま 原
稲 め
の ば
集
花 此
し の
戸 、
和
讃
訳
、
薬
師
如
来
十
二
の
御
誓
願
中
、
諸
病
悉
除
の
御
願
い
移
し
寺
、
高
知
県
赤
亀
し
ゃ
き
山
延
光
寺
、
ご
本
尊
、
薬
師
如
来
第
三
十
屋
号 九
を 番
と
言
う
。
う
名
が
出
て
く
る
、
稲
城
主
、
高
井
十
郎
の
家
臣
で
あ
っ
た
の
記
御 納 さ さ
朱 経 れ て
印 帳 た 山
と 寺 崎
宝 は 社 庄
印 、 名 兵
を 寺 と 衛
押 院 日 の
し に 付 巡
て 参 か 礼
い 詣 ら と
た し 知 遍
だ 写 る 路
く 経 こ の
帳 を と 行
を 奉 が 程
言 納 で は
い し き 、
ま た ま 納
す 際 す 経
。 に 。 帳
そ
に
来
す
る
信
仰
で
す
。
に
三
十
三
の
お
姿
に
変
化
す
る
と
説
か
れ
て
い
る
こ
と
に
由
で 菩 と
す 薩 奈 西
。 を 良 国
ご と
法 本 滋 観
華 尊 賀 音
経 と と 巡
礼
に す 兵 と
観 る 庫 は
音 寺 と 、
菩 院 岐 現
薩 、 阜 在
が 三 県 の
人 十 の 京
ゞ 三 二 都
を か 府 と
お 所 五 大
救 を 県 阪
い 、 に 府
に 巡 あ 、
な る る 和
る も 観 歌
時 の 音 山
八
か
所
お
遍
路
の
旅
に
出
て
い
ま
し
た
。
山
崎
庄
兵
衛
は
、
西
国
三
十
三
観
音
霊
場
巡
礼
と
四
国
八
十
江
戸
時
代
の
四
国
さ
い
ご
く
観
音
霊
場
巡
礼
と
稲
村
の
山
崎
庄
兵
衛
、
)
詣
る
わ
が
身
を
助
け
ま
し
ま
せ
「
吉
朗
次
」
稲
村
の
海
老
原
総
本
家
で
す
。
、
薬
師
堂
、
霊
場
は
個
人
所
有
で
(
明
和
五
年
(
(1768)
」
)
)
四
国
し
こ
く
お
遍
路
の
旅
(
)
の
四
月
か
ら
七
月
に
か
け
て
、
稲
村
の
9 / 12
雁
金
山
の
合
戦
に
「
稲
村
の
陣
屋
よ
り
蛯
原
但
馬
」
と
い
城
山
、
五
十
七
番
辺
り
。
馬
場
山
、
現
在
の
地
図
上
に
山
の
よ
う
な
地
形
跡
が
な
い
。
い
る
。
延
喜
11
年
負
っ
て
き
た
、
と
い
う
鐘
が
あ
り
国
重
要
文
化
財
と
な
っ
て
(911)
は
実
に
頼
も
し
き
人
と
生
ま
れ
て
は
、
業
病
難
病
に
罹
る
程
此
の
海
老
原
の
姓
は
、
昭
和
の
初
期
頃
「
蛯
原
」
を
縁
起
の
良
(
世
の
苦
患
は
無
い
、
ど
う
か
諸
病
を
除
け
て
下
さ
る
よ
う
一
心
こ
い
「
海
老
」
に
変
え
る
家
が
多
く
あ
っ
た
よ
う
で
す
。
「
め
て
自
他
共
に
御
願
い
を
致
し
ま
す
、
戦
時
中
こ
の
薬
師
堂
は
、
疎
開
し
て
き
た
人
達
が
暮
ら
し
と
年
号
が
刻
ま
れ
て
い
た
。
あ
っ
た
と
言
う
?
あ
る
。
境
内
に
住
ん
で
い
た
と
い
う
赤
亀
が
、
竜
宮
か
ら
背
古
戸
城
、
江
戸
川
学
園
の
ふ
れ
あ
い
道
路
辺
り
に
城
郭
が
延
光
寺
は
土
佐
国
と
伊
予
国
の
境
に
位
置
す
る
宿
毛
市
に
城
の
台
、
現
在
五
十
六
番
の
辺
り
。
四
国
移
し
延
光
寺
に
つ
い
て
ご
本
尊
、
薬
師
瑠
璃
光
如
来
第
四
十
番
、
稲
村
山
連
竹
院
薬
王
寺
廃
寺
)
、
(
、
薬
師
堂
堂
も
本
尊
も
な
い
、
)
は
個
人
所
有
だ
が
放
棄
し
て
い
る
。
で
し
ょ
う
。
2003
第
三
十
霊 五
場 番
(
ご
本
尊
、
薬
師
如
来
)
移
し
寺
、
高
知
の
医
王
山
清
瀧
寺
、
(
御
詠
歌
、
澄
む
水
を
汲
め
ば
心
の
清
瀧
寺
号
と
し
て
一
部
あ
る
。
城
の
内
、
現
在
三
十
五
番
の
辺
り
。
で 佛 実 和
稲 あ に に 讃
に る 捧 美 訳
は 。 げ し 、
た い 清
城
な 景 澄
の
ら 色 の
名
ば で 水
の
我 あ が
つ
が る 羽
く
心 、 衣
地
の 清 岩 波
清 瀧
の
名
ら 寺 に
花
が
当
か の た 散
残
さ 澄
る
っ
は ん っ
て 岩
て
言 だ 波 の
い
う 水 の 羽
た
に を 花 衣
、
言 汲 が
現
え み 咲
在
ざ 取 き
も
る り 散
事 御 る
屋
、
が
、
明
治
13
年
10
月
陸
軍
二
万
分
一
地
図
に
あ
り
ま
し
た
。
す
、
取
手
市
野
々
井
と
柏
市
土
谷
津
の
渡
し
舟
「
野
の
渡
し
」
墓
地
か
ら
利
根
川
対
岸
の
柏
市
布
施
と
土
谷
津
が
望
め
ま
な
ど
を
、
毎
年
交
代
で
行
っ
て
い
た
そ
う
で
す
。
が
あ
り
、
お
膳
や
御
供
物
の
お
供
え
、
お
遍
路
さ
ん
の
接
待
又
、
昭
和
時
代
迄
は
大
師
堂
の
世
話
役
と
し
て
会
番
制
度
て
い
た
そ
う
で
、
か
な
り
大
き
な
お
堂
で
あ
っ
た
そ
う
で
す
。
5
月
23
日
に
二
十
三
番
札
所
の
摂
津
国
中
山
寺
に
参
詣
巡
礼
に
入
り
ま
す
。
音
一
番
札
所
の
那
智
札
所
実
方
院
に
詣
で
、
以
後
西
国
観
音
そ
し
て
江
戸
を
出
て
か
ら
23
日
目
の
四
月
晦
日
、
西
国
観
ず
訪
れ
た
様
で
す
。
旅
の
帰
り
道
で
も
あ
る
の
で
つ
い
で
に
巡
礼
が
無
事
終
わ
ろ
う
と
し
て
い
る
、
お
礼
参
り
と
し
て
必
て
い
ま
し
た
。
次
い
で
23
日
に
は
伊
勢
神
宮
内
宮
と
朝
熊
岳
に
参
詣
し
の
清
浄
光
寺
遊
行
寺
)
す
る
と
瀬
戸
内
海
を
渡
り
四
国
に
入
り
ま
す
、
こ
こ
か
ら
は
(
四
国
お
遍
路
と
な
り
ま
す
。
)
ま 西 お す 一
に の ま
27 す 国 遍 。 番 十 向 切 り 四
日 。 観 路 7 藤 七 か 幡 、 国
音 は 月 井 番 い 寺 八 お
に
二 満 13 寺 妙 ま か 十 遍
は
十 願 日 か 照 し ら 八 路
西
七 成 、 ら 寺 た は 番 は
国
番 就 七 は 、 。 逆 の 七
三
か と 十 ほ 十
さ 大 十
十
ら な 七 ぼ 六
打 窪 八
三
り
番
再
順
ち 寺 番
番
番
、
観
び
番
で ま 札
札
の
西 7 所 通 音
で 所
美
逆 は の
月 の り 寺
国
濃
順 順 讃
観 16 讃 に を
国
音 日 岐 札 参
で に 岐
華
詣
霊
所
、 廻 国
の
国
厳
し
場
を
一 り 郷
播
道
寺
巡 磨 隆 廻 た
番 、 照
に
後
礼
っ
の 次 寺
寺
国
参
は
に
て
で
霊 に か
円
詣
戻 教 四 い 、
山 十 ら
し
十
り
ま
国
寺 番 始
寺
、
、
(
西
国
巡
礼
も
満
願
成
就
を
迎
え
ま
す
。
)
な
か
で
き
る
こ
と
で
は
あ
り
ま
せ
ん
で
し
た
。
江
戸
を
出
て
か
ら
百
十
二
日
目
で
し
た
。
(
以
後
取
手
に
戻
る
ま
で
の
足
取
り
は
不
明
で
す
。
に
、
12
日
に
は
三
島
大
社
に
参
詣
し
、
道
を
西
に
上
り
、
十
日
に
は
、
時
宗
の
総
本
山
で
あ
る
藤
沢
四
月
八
日
に
は
江
戸
の
寛
永
寺
と
浅
草
寺
に
参
詣
し
、
東
海
っ
た
と
言
え
ま
す
。
仰
心
に
加
え
て
あ
る
程
度
の
経
済
力
が
あ
っ
た
の
で
可
能
だ
納
経
帳
に
よ
れ
ば
、
稲
村
出
立
の
日
は
わ
か
り
ま
せ
ん
が
、
当
時
こ
れ
だ
け
の
巡
礼
と
遍
路
の
旅
に
出
る
こ
と
は
、
な
か
と
し
て
使
わ
れ
て
い
ま
し
た
。
明
治
時
代
、
稲
戸
井
村
尋
常
小
学
校
野
の
井
校
の
仮
校
舎
来
立
像
で
あ
り
、
待
合
所
に
祀
ら
れ
て
い
ま
す
。
し
か
け
大
師
」
が
あ
っ
た
と
い
う
、
昭
和
の
時
代
は
薬
師
如
女
僧
の
創
建
と
聞
く
、
小
堂
の
脇
に
小
さ
な
大
師
堂
「
こ
楽
に
行
く
の
を
待
つ
の
み
で
あ
る
。
よ
々
此
の
世
を
出
立
し
た
う
え
は
阿
弥
陀
如
来
の
御
誓
い
の
極
現
世
で
は
、
大
慈
大
悲
の
観
世
音
菩
薩
の
お
恵
み
に
縋
り
、
い
伊
豫
菅
の
山
地
で
も
あ
り
ま
す
。
和
讃
訳
、
歌
に
「
す
が
う
さ
ん
」
と
詠
ん
で
あ
る
は
、
此
の
山
里
に
つ
い
に
は
み
だ
の
ち
か
い
を
ぞ
待
つ
御
詠
歌
、
い
ま
の
世
は
大
悲
の
め
ぐ
み
管
井
山
移
し
寺
、
愛
媛
県
菅
生
山
大
宝
寺
、
ご
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
10 / 12
第
四
十
四
番
、
大
野
山
教
王
院
西
光
寺
、
創
建
不
明
。
坂
東
観
音
巡
り
で
は
善
光
寺
と
北
向
観
音
を
訪
れ
ま
す
。
現
在
で
も
、
こ
の
風
習
は
残
っ
て
お
り
、
秩
父
、
四
国
、
寄
っ
て
し
ま
お
う
と
い
う
こ
と
で
す
ね
。
に
つ
い
て
は
、
関
東
や
東
北
地
方
の
旅
で
は
信
州
善
光
寺
を
江
戸
時
代
の
四
国
三
十
三
観
音
や
四
国
八
十
八
札
所
巡
り
百
十
二
日
目
以
降
の
旅
に
つ
い
て
補
足
。
稲
村
山
崎
家
伝
古
文
書
山
崎
家
は
稲
村
で
村
役
人
を
務
め
る
家
で
し
た
の
で
、
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
西
光
寺
を
訪
れ
た
時
の
様
子
を
記
し
た
小
林
一
茶
の
日
記
信
以
来
か
ら
の
棟
札
が
残
言
い
換
え
れ
ば
苦
は
楽
の
種
。
に
白
布
が
張
ら
れ
竹
の
柄
杓
ひ
し
ゃ
く
が
置
か
れ
る
、
白
り
の
多
い
田
圃
の
あ
ぜ
道
に
青
竹
四
本
が
立
て
ら
れ
そ
の
上
流
産
や
産
後
の
肥
立
ち
が
悪
く
幼
く
し
て
死
す
と
、
人
通
養
老
二
年
長
束
三
兄
弟
が
加
賀
国
の
白
山
神
社
を
る
世
界
を
逃
れ
れ
ば
逃
れ
る
程
、
真
見
の
佛
陀
で
あ
る
へ
御
詣
り
し
て
心
の
垢
を
す
す
ぎ
、
此
の
迷
へ
11 / 12
は
、
白
露
な
の
か
、
否
や
一
の
宮
で
あ
る
と
敬
う
歌
で
此
の
一
の
宮
和
讃
訳
、
今
日
晴
れ
渡
る
五
月
雨
に
湧
き
ま
し
出
ず
る
玉
の
井
し
ら
つ
ぼ
な
る
や
一
の
宮
か
わ
御
詠
歌
、
さ
み
だ
れ
の
あ
と
に
い
で
た
る
玉
の
井
は
移
し
寺
、
愛
媛
県
天
養
山
宝
寿
寺
、
ご
本
尊
、
白
山
姫
命
と
十
一
面
観
世
音
菩
薩
、
第
六
十
二
番
り
、
や
が
て
は
往
生
浄
土
の
楽
し
み
が
現
れ
て
い
る
。
の
花
が
咲
き
、
心
の
苦
し
み
消
え
果
て
て
福
壽
無
量
の
身
と
ぞ
な
貧
し
き
暮
ら
し
を
し
た
け
れ
ど
今
は
佛
法
に
帰
依
し
て
心
に
法
を
云
う
た
の
で
、
此
の
現
世
に
憂
い
、
辛
い
、
ひ
も
じ
い
、
不
幸
な
上
で
、
御
詠
歌
の
意
味
は
、
遊
び
の
道
と
云
う
は
此
の
現
世
の
事
仰
ぎ
見
る
姿
は
、
愛
ら
し
く
一
度
見
る
と
忘
れ
ら
れ
な
い
。
子
立
像
は
有
名
で
、
つ
ぶ
ら
な
瞳
で
小
首
を
か
し
げ
て
空
を
い
る
。
更
に
運
慶
の
息
子
湛
慶
た
ん
け
い
作
の
善
膩
師
童
師
如
来
と
脇
侍
の
日
光
・
月
光
菩
薩
は
運
慶
作
と
言
わ
れ
て
、
白
山
神
社
、
善
膩
師
童
子
は
、
毘
沙
門
天
と
吉
祥
天
の
子
で
す
。
ょ
う
、
相
馬
や
信
州
の
風
習
で
し
た
。
小
林
一
茶
「
七
番
日
記
」
よ
り
、
流
れ
灌
頂
な
が
れ
か
ん
ち
(
勧
請
し
て
創
建
、
享
保
12
年
で へ 迎 中 り
創
守 す 帰 え 供 ま ポ 当 建 長
谷 。 そ た 出 す ッ 初 永 福
う 。 さ 。 ク は 禄 寺
の
」 そ れ 鐘 リ 白 二 は
西
と の た 楼 観 山 年 、
林
延
な 後 が の 音 神
寺
喜
、
り
、
の
社
鐘
64
山 鉄 は 他 の
二
長
世
梨 と 安 に 別 承 年
福
の
寺 の し 永 、 当 応
義
に 善 て 五 呆 寺 上
鳳
戻 住 溶 年 け で 人 守
上
っ 寺 か
除 あ に 谷
人
に さ
て
け っ よ の
、
渡 れ
き
不 た っ 西
俳
た っ る の 動 。 て 林
号
開 寺
鐘 た 直 も 堂
鶴
山 末
で が 前 の 、
老
。 寺
あ 、
「 に で 鐘
か
る 元 終 、 楼
と
く
そ の 戦 戦 が
し
ろ
う 寺 を 時 あ
て
紙
に
く
る
ま
れ
た
髪
毛
と
櫛
等
が
別
の
青
竹
の
白
布
に
置
か
)
さ
れ
て
お
り
、
神
社
の
改
装
や
屋
根
の
葺
替
え
修
復
の
歴
史
れ
、
塔
婆
が
立
つ
。
(
を
知
る
貴
重
な
資
料
と
な
り
ま
し
た
。
う
は
、
俳
人
小
林
一
茶
の
師
匠
で
し
た
、
鶴
老
は
晩
年
隠
居
旅
人
は
柄
杓
で
田
の
水
を
白
布
に
掛
け
る
事
に
よ
り
白
布
)
㎝
の
土
塁
こ
の
神
社
に
は
、
本
能
寺
城
の
城
跡
の
言
い
伝
え
が
残
っ
と
し
て
余
生
を
送
っ
た
居
で
あ
り
ま
す
。
は
褐
色
に
変
わ
り
、
色
が
変
わ
り
百
日
以
上
経
過
し
て
い
れ
)
て
い
る
、
境
内
を
囲
む
よ
う
に
高
さ
50
㎝
~
天
保
四
年
三
月
十
三
日
没
、
お
墓
は
西
林
寺
に
あ
り
ま
す
。
茶
つ
み
唄
一
茶
ば
、
そ
の
霊
は
浮
か
ば
れ
る
と
信
じ
ら
れ
て
い
ま
し
た
。
(902)
「
筆
子
の
碑
」
不
動
堂
の
脇
に
あ
る
。
し
ご
き
棄
て
て
も
し ね 道 八
ナ た ば を 幡 一
ム 。 な 間 を 茶
ア
ら 違 訪 が
ミ
な え れ 、
ダ
く 、 た 文
な 西 時 化
ナ
り 林 、 八
ム
、 寺 守 年
ア
流 へ 谷 三
ミ
れ 行 の 月
ダ
灌 く 西 二
ブ
頂 為 林 十
と
に に 寺 二
こ
出 田 か 日
き
会 圃 ら 頃
茶
う の 布 に
哉
こ あ 川 西
と ぜ へ 光
に 道 の 寺
な を 途 と
り 行 中 惣
ま か で 代
(1559)
筆
子
と
は
勉
強
を
教
え
た
師
匠
先
生
に
対
す
る
感
謝
の
木
曽
山
や
(1775)
が
廻
っ
て
い
て
、
本
能
寺
と
は
、
堀
之
内
の
転
訛
し
た
も
の
、
野
の
井
の
ぽ
っ
く
り
観
音
、
「
晴
れ
、
野
々
井
村
西
林
寺
に
よ
り
て
聞
・
・
」
伝
々
に
、
(718)
と
考
え
ら
れ
て
い
ま
す
。
取
手
市
史
よ
り
添
え
ら
れ
て
い
ま
す
。
(1727)
又
、
こ
の
神
社
に
は
神
主
が
い
な
い
た
め
、
週
一
度
の
境
念
で
建
立
さ
れ
ま
し
た
、
女
生
徒
か
ら
の
も
の
で
す
。
第
三
十
三
番
170
内
掃
除
が
会
番
に
よ
っ
て
行
わ
れ
て
い
ま
し
た
。
長
福
寺
の
寺
小
屋
は
、
西
林
寺
の
僧
侶
が
師
匠
と
な
り
多
青
野
山
不
動
院
長
福
寺
、
住
職
は
法
要
時
の
み
来
寺
。
(
く
の
生
徒
を
育
て
た
の
で
し
ょ
う
、
千
葉
県
柏
や
守
谷
、
藤
)
本
殿
の
彫
刻
は
会
番
に
頼
む
と
見
せ
て
く
れ
る
、
女
性
は
代
の
広
範
囲
に
わ
た
り
多
く
の
生
徒
が
集
ま
っ
て
き
た
よ
う
ご
本
尊
、
阿
弥
陀
如
来
(
「
駄
目
」
と
い
っ
て
い
た
が
現
在
で
は
表
向
き
の
様
で
す
。
移
し
寺
、
高
知
県
高
福
山
雪
渓
寺
、
)
で
す
。
寺
小
屋
は
「
野
の
渡
し
」
の
近
く
に
あ
っ
た
様
で
す
。
四
国
の
雪
渓
寺
に
つ
い
て
本
殿
の
壁
に
は
中
国
の
二
十
四
孝
の
彩
色
の
彫
刻
が
3
面
の
ち
の
楽
し
み
有
明
の
月
御
詠
歌
、
旅
の
道
う
え
し
も
今
は
高
福
寺
)
あ
り
ま
す
。
和
讃
訳
、
雪
蹊
寺
の
御
本
尊
は
薬
師
如
来
」
に
て
、
弘
法
大
師
様
(
雪
渓
寺
に
は
薬
師
三
尊
が
祀
ら
れ
て
い
る
、
御
本
尊
の
薬
の
御
作
で
あ
り
、
開
基
で
あ
り
ま
す
。
(
歌
に
「
高
福
寺
」
と
あ
る
は
、
寺
の
山
号
を
幸
福
と
云
い
な
し
た
武
士
の
流
鏑
馬
や
ぶ
さ
め
の
騎
射
き
し
ゃ
に
た
い
し
(
)
て
農
民
が
的
を
弓
矢
で
射
て
そ
の
年
の
豊
饒
ほ
う
じ
ょ
う
)
「 を
以 野 奉 占
下 々 社 う
、 井 」 歩
の の 射
オ 字
ぶ
年 ビ も し
の シ あ ゃ
野 ャ て
の は ら に
井 、 れ 由
白 女 る 来
山 性 。 す
る
神 禁
と
社 制
で の
云
の 御
わ
体 祭
れ
験 り
て
よ で
い
り し
ま
。 た
す
。
。
)
子
宝
授
受
祈
願
の
祭
が
始
ま
る
。
「
魚
篩
ふ
る
い
」
と
い
(
う
古
式
を
簡
素
化
さ
れ
た
方
式
に
変
わ
っ
て
い
ま
す
。
(
2
つ
の
部
落
毎
に
行
わ
れ
、
同
じ
事
を
2
回
行
う
事
に
な
)
る
。
子
供
は
「
酒
膳
」
を
持
ち
背
後
の
男
と
一
緒
に
、
神
官
(
の
前
で
酒
膳
か
ら
お
み
き
を
注
ぐ
。
利
根
川
流
域
で
盛
ん
に
行
わ
れ
る
二
十
日
正
月
の
農
耕
神
事
。
お
び
し
ゃ
、
オ
ピ
シ
ャ
、
オ
ブ
シ
ャ
と
云
わ
れ
、
と
く
に
で
静
か
に
厳
か
に
行
わ
れ
ま
す
。
れ
て
い
ま
す
、
夏
の
祭
り
に
比
べ
る
と
、
派
手
で
な
く
質
素
毎
年
、
一
月
の
第
3
日
曜
日
に
、
オ
ビ
シ
ャ
祭
事
が
行
わ
お
び
し
ゃ
取
材
ノ
ー
ト
く
が お
が
「 さ
境
の 祭 ズ ッ
感 お
打
止 矢 る 的 可 神 神 飾 日 と ぎ 本 内 こ よ で ー ク 3 じ 互
う
ち
ど
め
ら
れ
て
い
る
。
り
」
本
殿
右
側
西
が
祀
ら
れ
て
い
る
。
」
本
殿
左
側
東
、
同
じ
く
左
側
奧
に
は
月
天
が
っ
て
ん
殿
の
後
ろ
の
右
側
奧
に
日
天
に
っ
て
ん
本
来
は
「
う
で
行
わ
れ
ま
す
。
に
そ
れ
ぞ
れ
分
離
独
立
し
て
い
る
。
イ リ
と
ズ も
イ 言
H う
そ が
の 男
も の
の 勃
」 起
を シ
露 ャ
骨 ッ
に ク
表 リ
す
、 女
男 の
だ 快
け 感
の 、
島
神
社
、
青
龍
神
社
、
鷲
神
社
、
白
山
神
社
を
合
祀
し
て
い
第
六
神
社
、
同
44
年
に
浅
間
神
社
、
大
正
2
年
と
れ
ま
し
た
。
明
治
五
年
に
村
社
に
列
し
、
明
治
41
年
(1908)
る
。
尚
、
大
正
2
年
に
合
祀
さ
れ
た
4
社
は
、
昭
和
22
年
回
繰
り
返
さ
れ
る
掛
け
声
の
意
味
は
、
「
ボ
ッ
コ
リ
ム
(1872)
12 / 12
境
内
の
社
殿
は
、
明
治
以
降
2
度
に
渡
り
焼
失
し
て
お
り
、
の
男
の
子
へ
の
日
本
古
来
の
性
教
育
に
通
じ
る
掛
け
声
(1913)
台
宿
の
不
動
堂
第
四
番
、
相
馬
霊
場
御
朱
印
現
在
の
社
殿
は
平
成
に
再
建
さ
れ
て
い
ま
す
。
う
で
し
た
。
(1947)
別
当
は
、
守
谷
の
西
福
寺
が
勤
め
て
い
ま
し
た
。
の
後
、
五
穀
豊
穣
の
行
事
で
「
鳥
討
ち
、
鳥
お
い
」
が
(
天
月
天
共
に
、
各
部
落
か
ら
持
ち
寄
っ
た
「
鳥
の
的
井
」
)
官
は
、
弓
矢
で
的
を
射
ぬ
く
の
だ
が
、
魚
ふ
る
い
で
の
(
酒
で
酔
い
、
手
元
が
定
ま
ら
ず
、
矢
が
当
た
ら
な
い
の
)
笑
し
く
、
大
笑
い
と
な
る
。
)
を
射
ぬ
く
と
、
天
空
に
向
け
て
矢
を
う
ち
、
落
下
し
て
(
矢
を
、
村
中
の
人
々
が
競
っ
て
取
り
合
い
ま
す
。
)
立
寄
り
ま
せ
ん
を
手
中
に
し
た
部
落
は
、
そ
の
年
は
豊
饒
と
な
る
。
(
惣
代
八
幡
神
社
、
相
馬
霊
場
の
御
朱
印
は
、
一
部
が
残
っ
て
い
る
程
度
で
神
官
は
2
つ
の
部
落
の
酒
膳
か
ら
お
み
き
を
受
け
そ
れ
ぞ
)
全
て
を
揃
え
る
こ
と
は
出
来
ま
せ
ん
。
れ
の
お
み
き
を
黒
椀
の
中
に
混
ぜ
会
わ
せ
そ
れ
を
飲
み
干
し
(
京
都
の
石
清
水
八
幡
宮
か
ら 創
守 立
谷 。
町
の
ま
す
。
神
官
が
両
手
を
広
げ
る
と
一
斉
に
「
ボ
ッ
ク
リ
シ
ャ
2006
ご
祭
神
、
村
社
、
誉
田
別
命
、
大
同
2
年
ッ
ク
リ
ズ
ー
イ
ズ
イ
」
と
掛
け
声
が
か
か
り
同
時
に
子
供
は
)
2015
年
5
月
24
日
新
四
国
相
馬
霊
場
八
十
八
ヶ
所
を
巡
り
大
同
2
年
ゆ
っ
く
り
と
3
、
4
歩
後
ず
さ
り
し
再
び
「
ボ
ッ
ク
リ
シ
ャ
(
2015
年
6
月
6
日
一
部
訂
正
ご
参
加
あ
り
が
と
う
ご
ざ
い
ま
し
た
。
西
林
寺
二
世
寛
海
が
勧
請
し
た
の
が
始
ま
り
と
さ
れ
て
い
る
。
ッ
ク
リ
ズ
ー
イ
ズ
イ
」
で
神
官
の
前
に
戻
っ
て
く
る
。
)
又
、
平
将
門
の
崇
敬
を
う
け
た
と
語
り
継
が
れ
て
い
る
。
同
じ
行
為
を
3
回
繰
り
か
え
さ
れ
た
後
、
左
右
の
子
供
が
(
の
ち
に
は
守
谷
城
主
相
馬
家
の
氏
神
と
し
て
祀
ら
れ
た
。
入
れ
替
わ
り
そ
れ
ぞ
れ
の
子
供
は
相
手
の
部
落
の
参
加
者
に
)
『
寛
文
朱
印
留
』
に
よ
る
と
「
八
幡
宮
領
」
と
し
て
「
五
石
」
酒
を
振
る
舞
い
、
終
わ
る
。
(
2
人
の
子
供
か
ら
受
け
た
、
そ
れ
ぞ
れ
の
お
み
き
を
黒
椀
(807)
に
移
し
て
混
ぜ
る
と
い
う
行
為
の
意
味
と
最
後
の
子
供
が
相
(807)
手
の
部
落
の
参
加
者
に
お
み
き
を
振
る
舞
う
と
い
う
行
為
に
、
に
鹿 に
い
の
部
落
へ
の
好
意
的
交
換
と
和
合
を
願
っ
た
も
の
を
の
朱
印
地
を
賜
わ
っ
て
い
る
。
コース地図1
コース地図2
コース説明
取手駅(WC)-白山の弘経寺-諏訪宮-53 番
金刀比羅神社-取手市役所(WC)-稲村の 57 番
80 番-56 番-稲観音-稲集会場-35 番-39 番
寺田の惣代八幡-野々井の西光寺-ぽっくり観音
野々井白山神社-常総線ゆめみ野駅
常総線ゆめみ野駅解散、午後 12 時 30 分頃になる予定です。
新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会 ホームページ:http://88souma.com 2015/05/24
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