茨城県有形文化財に登録、東漸寺、 2015 年 1 月 23 日(金)読売新聞茨城版より 県教育委員会は 22 日、取手市の東漸寺観音堂と山門である。東漸寺観音堂は寛文7年(1667)に建てられ、か やぶき形の銅板ぶき。中には彫刻や漆、金箔が施された宮殿を有している。山門は元禄3年(1690)に建てられ、 かやぶき屋根が特徴です。いずれも、17 世紀後半の寺院建築の様子がわかる建物として重要という。 寺田の相馬霊場第 69 番法海寺跡地の地蔵堂にありました寝釈迦像が、2014 年6月より東漸寺へ移りました。 菊池幽芳(きくち ゆうほう、明治 3 年 10 月 27 日(1870/12/18)~1947 年 7 月 21 日)、小説家、本名菊池清。大阪毎日新聞社取締役を歴任。 常陸国水戸長者町に生まれる、弟は英文学者の戸沢正保。 明治 21 年(1888)茨城県尋常中学校(現、茨城県立水戸第一高等学校)を卒 業、同県北相馬郡取手の取手高等小学校(現、市立取手小学校)の教師と なる。明治 24 年(1891)染物屋の杉浦玉枝 17 歳と婚約、小学校を退職、 毎日新聞社に入社し大阪へ赴任時しばしの別れを三世堂で惜しんだ。 同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌『大阪文 藝』を創刊する。 明治 25 年『大阪文藝』誌上に、小説『鴬宿梅』を発表デビューする。 明治 30 年(1897)、同社の文芸部主任に就任、自らの勤務先である『大 阪毎日新聞』に、1899 年~1900 年明治 32 年(1899)~同 33 年に『己が 罪』を連載して、名声高まる。 明治 36 年(1903)、同紙に『乳姉妹』を連載。 「家庭小説」というジャンルを確立、第一人者となる。 社会部長、学芸部長、副主幹を歴任、 大正 13 年(1924)、同社の取締役に就任。 大正 15 年、同職を辞職、相談役に就任。 昭和 22 年(1947)7 月 21 日、兵庫県武庫郡本山村(現、神戸市東灘区) の自宅で死去。満 76 歳没。 『白蓮紅蓮』上・下、大阪毎日新聞社、1922 年発刊 相馬霊場を巡る会資料 を 受 け た 。 そ の 後 、 こ の 辺 は 中 原 と 言 は れ 、 そ の 通 の 地 に 建 立 さ れ 、 大 鹿 村 に 結 城 、 水 海 道 に 次 ぐ 弘 経 寺 が 年 徳 川 康 公 か ら 御 朱 印 三 十 年 石 こ 二 . 大 鹿 山 弘 経 寺 / 相 馬 霊 場 八 十 二 番 あ る よ う だ が 詳 し い こ と は 不 明 で あ る 。 1414 り に 白 山 権 現 神 社 が あ っ た が 、 荒 廃 し て し ま っ た . 1592 弘 経 寺 の 守 護 で あ る こ と か ら 境 内 に 移 設 し た . そ こ は 、 宅 地 用 地 の 中 の 一 角 が 公 園 用 に 空 地 に な っ て い そ こ に 大 鹿 氏 の 名 馬 城 鹿 を 埋 め た 言 わ れ て い た . 今 の 田 ん ぽ の 中 に 丸 く こ ん も り し た 塚 が あ っ た . 五 、 鹿 塚 ( し し づ か ) 宅 地 造 成 前 は 、 利 根 川 近 く こ ん ぴ ら 様 は 、 緩 や か な 坂 を 下 り て 右 側 こ 少 し 上 明 治 41 年 側 高 神 社 を 合 併 。 ご 祭 神 、 大 物 主 命 、 安 永 8 年 ( り 通 し に し て 常 磐 線 を 通 し 、 上 に 四 ッ 谷 橋 を 渡 し た 取 手 か ら 白 山 前 へ の 道 は 、 四 ッ 谷 と い う 鞍 部 を 切 三 . 琴 平 神 社 こ ん び ら 様 ま た は 金 刀 ) 、 比 羅 神 社 あ 長 「 り た る 禅 花 、 . 「 。 寺 立 そ 花 へ 山 こ 立 持 に に 山 っ は は 」 て 饅 大 と い 頭 鹿 い っ み 太 う た た 郎 所 」 い 左 が 五 な 衛 あ 輪 形 門 り 塔 の の 大 を 石 墓 き 指 こ が な し ろ あ も て が っ み い あ と じ る っ い の よ た う 木 う ん 。 が あ で で 1 / 12 一 . 駅 西 口 ( 治 助 坂 ・ 四 つ 谷 橋 ) 参 道 に 入 る . 組 の 3 部 落 ( 名 位 ) を 総 称 し て 大 鹿 村 と 呼 ん で い 大 鹿 村 落 の 散 策 ( 白 山 前 、 新 町 ) 刀 比 羅 神 社 の 鳥 居 を 通 り 、 競 輪 場 へ の 道 路 を 横 切 り た 仲 間 台 妙 見 組 、 新 町 高 台 の 南 端 に 位 置 す る 添 弁 天 時 間 も か か ら な い コ ー ス で す が 。 と 昔 を し の ん で 歩 い て み た い と 思 う 、 と 言 っ て も 二 と 呼 ば れ 時 期 も あ っ た と い う 。 こ の 大 鹿 を ゆ っ く り 取 手 の 名 の 由 来 で あ る 、 大 鹿 の 砦 か ら 鳥 手 、 取 手 宿 合 併 以 前 ま で 大 鹿 村 又 は 大 鹿 と 言 わ れ て い ま し た 。 田 ・ 稲 に 接 続 す る 街 道 白 山 前 商 店 街 に で て 、 琴 平 金 境 内 の 西 側 の 坂 道 を 下 り す ぐ 上 が る と 取 手 か ら 寺 二 番 、 鐘 楼 門 や 英 霊 観 音 な ど が 緑 で 囲 ま れ て 居 る 。 経 過 が 石 碑 に 記 さ れ て あ る . 境 内 に は 相 馬 霊 場 八 十 弘 経 寺 は 昭 和 22 年 焼 失 し そ の 後 再 建 さ れ て い る . 妙 見 組 ( 競 輪 場 付 近 ) 、 キ ャ ノ ン の 高 台 の 南 端 に あ っ そ れ を 囲 む よ う に 、 北 側 に 高 台 が 続 い て い る 北 口 近 で あ る . は 宅 地 造 成 で 崩 さ れ 、 跡 か た も な い . 県 信 交 差 点 付 ま っ た 高 台 で 北 の 背 後 以 外 は 見 通 し が よ い 所 だ . 今 取 手 市 取 手 、 白 山 、 新 町 地 区 の 一 部 は 明 治 18 年 の 白 山 神 社 祭 神 、 素 盞 鳴 命 、 天 正 18 年 取 手 の 大 鹿 村 相 馬 霊 場 巡 る 会 先 達 根 本 凡 か ら 、 こ の 地 を 白 山 前 と 呼 ん だ . (1591) る . 新 町 五 の 五 で 家 庭 菜 園 が あ る 場 所 。 っ た と こ ろ . 何 本 か の 松 の 木 が 残 っ て い る . 隣 接 し 道 路 だ っ た . こ の 部 分 は 佐 倉 街 道 と 呼 び 取 手 か ら 守 ( 六 、 弁 天 ス ポ ッ ト パ ー ク て 、 こ こ に は 大 鹿 山 長 禅 寺 の 寺 用 地 で 有 り 、 相 馬 八 谷 に 通 じ る 道 だ っ た . 県 学 生 寮 の 憐 の 米 穀 事 務 所 付 ) 集 団 移 動 す る 前 の 添 弁 天 組 が 住 ん で い た あ た り で 、 年 頃 、 長 禅 寺 観 音 堂 を 大 鹿 城 と 同 十 八 霊 場 の 番 外 札 所 な ど が あ る . 近 に 一 里 塚 が あ っ た こ と が そ れ を 立 証 し て い る . ( 今 は 高 台 の 最 南 端 を 崩 し て 、 都 市 計 画 道 路 が で き て こ こ の 地 に ま た 、 昭 和 30 年 代 ま で は 、 駅 西 口 は な い が 、 こ の 70 い る が 、 堤 防 ( 以 前 か ら の 大 鹿 材 の 水 田 を 守 っ た 堤 様 に 織 部 時 平 に よ っ て 建 立 さ れ た と 言 わ れ て い る . 付 近 の 谷 津 は 6 号 線 国 道 付 近 ま で 入 り 込 ん で 、 駅 前 ) 防 を 大 利 根 橋 ま で 昭 和 30 年 頃 延 長 し た ) と 道 路 の 間 こ の 辺 を 花 輪 と 呼 ん で い た . ( こ の 近 く の 大 鹿 原 の 説 ロ ー タ リ ー 辺 り は 湿 地 帯 で 、 宇 田 川 ガ ソ リ ン タ ン ク 、 ( ( 以 前 は 取 手 か ら 稲 村 に 行 く 道 だ っ た 部 分 ) に ベ ン も あ る ) 成 島 牛 乳 屋 な ど が あ っ た 程 度 で あ っ た . 1779 チ を 配 し た 小 公 園 が で き 、 簡 単 な 説 明 が 石 碑 に な っ 白 山 や 井 野 台 へ の メ イ ン ロ ー ド で あ る 治 助 坂 は 、 1230 1560 て い る . 駅 西 口 が 出 来 る 前 は 、 自 動 車 だ け し か 通 ら な い 寂 し ) 1220 に 平 側 昔 四 建 が 大 の は こ . 立 鹿 土 競 ん 大 し 城 地 馬 ぴ 鹿 た は を 場 ら 城 . 年 、 削 ) 様 跡 頃 平 っ を か 付 、 将 た 南 ら 近 門 年 大 の 部 下 坂 / 頃 鹿 末 分 し を 利 、 村 裔 に 競 戻 根 大 輪 っ 川 小 の 文 一 で 鹿 場 て を 間 万 あ 城 の 、 望 城 町 る が 高 競 む 主 を 大 あ 台 輪 一 領 鹿 っ の 場 色 し 左 た 南 駐 宮 て 衛 . 端 車 の 場 内 高 門 坂 ( 政 台 織 の そ 長 南 部 西 の の 端 時 い 道 で あ っ た . 「 治 助 」 さ ん が 自 殺 し た 所 と い わ れ が 頃 創 建 。 そ の 城 跡 は 、 利 根 川 谷 津 の 入 江 状 と な っ た 少 し 奥 奇 襲 に あ い 敗 北 し 、 大 鹿 氏 は 滅 亡 し た . と の 交 通 の 交 差 点 で あ っ た . が 開 通 す る ま で 続 い た . ま さ に 陸 上 輸 送 と 水 上 輸 送 利 根 の 河 原 は 、 野 口 雨 情 の 様 の 前 の 利 根 川 を 渡 船 事 業 が 、 昭 和 5 年 に 大 利 根 橋 倉 庫 が 並 ん だ . 大 鹿 村 も - そ れ 以 来 年 間 あ た ご に な っ た . 川 と 常 磐 線 鉄 橋 と 国 道 の 橋 梁 の 見 晴 ら し の 良 い 位 置 し た . 今 は 、 国 道 上 の 木 も な い 風 通 し の い い 、 利 根 縦 断 す る こ と に な り 、 昭 和 37 年 に あ り 、 く ら い 北 側 に 後 退 移 設 ) . 国 道 6 号 線 バ イ パ ス を 石 引 地 区 を 年 間 近 く に 3 度 し か 改 修 さ れ な か っ た . 石 碑 ( 根 本 久 弥 ) が 石 引 墓 地 の 一 角 に あ る . 今 は 急 ト と し て 薦 め る . ま た 大 鹿 部 落 の 経 過 を 説 明 を し た 桜 、 夏 は 蝉 し ぐ れ 、 秋 は く れ な い ( 紅 ) 。 村 へ タ イ ム ト リ ッ プ し た よ う な 空 間 が 広 が る 。 春 は る 、 小 さ な 林 だ が 駅 前 の 繁 華 街 の 中 に 一 瞬 だ が 取 手 緩 や か な 坂 を 下 る と 目 の 前 に 取 手 駅 の ホ ー ム が 見 え 横 切 り 向 か い の 細 い 道 を 進 み 一 つ 目 の 十 字 路 を 右 に 見 る の も よ い . 階 段 を 登 り 石 引 墓 地 内 を 国 道 沿 い に な 階 段 に な っ た 石 引 坂 を 下 り 、 利 根 川 河 川 敷 に 出 て ら 高 瀬 船 の 帆 が 見 え た と い わ れ た . 河 岸 に は 土 蔵 の 利 根 川 の 土 手 の 高 さ は 、 今 ほ ど 高 く な く 、 家 の 中 か 等 が 盛 ん だ っ た . 形 成 し て い て 、 旅 籠 屋 、 食 べ 物 屋 、 船 大 工 、 干 魚 屋 の 往 来 が 繁 栄 し て 、 取 手 宿 は 本 陣 を 中 心 に 宿 場 町 を の 頃 ) か ら で 、 東 北 地 方 や 水 戸 藩 な ど の 産 物 や 人 々 取 手 を 通 る よ う に な っ た の は 年 頃 ( 徳 川 光 圀 江 戸 中 期 の 利 根 川 の 改 修 工 事 に よ り 、 水 戸 街 道 が 十 一 、 大 鹿 ・ 取 手 の ま ち 2 / 12 そ の 愛 宕 神 社 は 、 利 根 川 を 見 渡 せ る 高 台 南 端 の 中 腹 石 引 の 高 台 に 愛 宕 神 社 を 創 建 し た . っ た . 中 腹 は 、 利 根 川 と 富 士 山 を 望 め る 景 観 ス ポ ッ 暗 い 坂 で 山 の 上 に あ る 先 祖 の 墓 や 畑 に 通 じ る 坂 道 だ 住 増 利 そ さ え 根 し せ 、 川 て ら 渡 を れ 船 往 た 場 来 . ( の す 近 る 年 く 人 、 に も 大 鹿 年 公 、 村 頃 用 大 の ) 伝 名 馬 は 3 役 じ 部 と め 落 し 多 の て く 総 強 の 鎮 制 通 守 的 行 と に 人 し 移 が て あ る が 、 昔 は 石 引 坂 と い っ て 両 側 が 木 で 囲 ま れ た 薄 日 本 農 業 新 聞 独 身 寮 跡 の 南 側 斜 面 は 、 今 で も 坂 が 九 . 石 引 き 坂 、 東 急 百 貨 店 の 裏 手 の 一 角 に あ り ま す 。 っ る と た 工 い 常 . 場 わ 盤 ( れ 線 内 る 鉄 務 利 橋 省 根 と 東 川 今 京 か の 土 ら 国 木 の 道 出 入 橋 張 江 と 所 が の 取 あ 間 手 り に 機 浚 今 械 渫 は 工 船 な 場 を き ) 修 ド が 理 ッ あ す ク 取 手 を 通 る 水 戸 街 道 が 整 備 さ れ つ つ あ り 、 や が て 場 が 無 秩 序 に 配 置 さ れ 高 台 地 形 の 様 相 を 変 え た . 湿 地 帯 を 中 心 に 茅 場 と 魚 取 り 場 で あ っ た . 練 習 場 で あ る が 、 世 界 大 戦 前 後 は 水 泳 場 、 河 川 敷 は 務 な ど を や っ て い た . ( 年 頃 か ら ) 、 傾 斜 林 と 畑 だ っ た こ の 辺 は 、 今 は 道 路 、 建 物 と 鞋 車 上 新 町 の 利 根 川 の 河 川 敷 は 今 は ゴ ル フ の コ ー ス と 大 鹿 村 の 3 部 落 を 大 鹿 宿 と 言 い 、 利 根 川 の 渡 川 役 明 治 41 年 水 神 社 を 合 併 。 ご 祭 神 、 過 遇 突 知 命 、 元 禄 十 年 七 . 愛 宕 神 社 ( あ た ご 様 ) 相 馬 第 霊 場 ) 、 八 十 七 番 (1697 取 手 と 大 鹿 と の 境 界 は 長 禅 寺 階 段 か ら 利 根 川 を 望 め 坂 の 途 中 の 一 軒 家 は 昔 か ら あ っ た の だ ろ う か 。 八 、 新 町 の 高 台 を 一 望 。 国 連 6 号 線 は 利 根 川 を 渡 っ 1670 十 、 利 根 の 河 原 の む か し て 、 旧 水 戸 街 道 ( 6 号 国 道 ) と 別 れ 、 南 北 に 真 っ 直 1680 「 船 頭 小 唄 」 や 高 村 光 太 郎 の 「 利 根 川 原 の 美 し さ は 250 空 間 の 美 で あ る 」 と 歌 わ れ た . ぐ 坂 を 上 る . ( 今 の 新 大 利 根 橋 は 、 旧 橋 上 流 二 十 米 位 1680 西 口 か ら 坂 を 上 り ( 昭 に , 昭 和 47 年 下 側 と 49 年 に 両 面 開 通 ) 1697 一 方 、 ふ れ あ い 道 路 は 200 る 部 分 で あ る . 和 32 ) , 国 道 と 交 差 し 、 ま た 切 り 通 し を 下 り て 県 信 (1962 旧 愛 后 神 社 か ら 真 っ 直 ぐ 利 根 川 に 渡 し に 行 く 道 が 交 差 点 に 出 て 、 利 根 川 と 並 行 し て 市 内 東 西 に 新 設 さ 100m あ っ た . そ の 途 中 に 小 川 に 掛 け た 橋 が ( い ま の ゴ ル れ た . ( 昭 和 62 ) と こ ろ で 、 30 年 余 前 ま で は 、 愛 宕 JR 神 社 の 裏 山 を 北 に 行 く と 白 山 前 の 県 消 費 者 セ ン タ ー 台 に 移 り 、 生 活 に 大 き な 変 化 が で て き た . 高 台 は 、 あ い 道 路 の 建 設 に よ り 、 低 地 に 住 ん で い た 人 達 が 高 上 新 町 は こ の 国 道 バ イ パ ス と 都 市 計 画 道 路 と ふ れ 船 が 利 根 丸 と い う 新 造 船 で あ っ た . 御 幸 の 際 の 渡 っ た 橋 で あ り 、 ま た 、 そ の と き の 渡 し こ の 橋 は 、 明 治 天 皇 が 明 治 17 年 に 女 化 原 大 演 習 に 道 に 寸 断 さ れ な が ら 残 っ て い る . に 通 じ る 、 馬 車 が 通 る 位 の 道 路 が あ っ た . 今 で も 国 初 橋 と 言 わ れ て 歌 に も う た わ れ た . フ 練 習 場 、 国 道 橋 梁 付 近 、 ゴ ル フ 場 の 柳 の 付 近 ) 、 君 取 手 か ら 大 師 霊 場 を 巡 る に は 、 交 通 手 段 の 無 い 時 代 で 四 国 霊 場 が 最 も 盛 ん に な っ た 時 期 は 、 戦 国 の 乱 世 が 終 覚 光 音 大 禅 師 の 建 立 し た 新 四 国 相 馬 霊 場 八 十 八 ヶ 所 と 正 面 に 観 音 堂 ( 別 名 さ ざ え 堂 、 百 観 音 ) 、 右 側 に 観 六 十 三 段 の 石 階 段 を 上 が り 、 鐘 楼 の 下 を 直 進 す る 十 二 、 大 鹿 山 長 禅 寺 こ と だ . 以 上 、 資 料 提 供 、 江 戸 時 代 の お 遍 路 さ ん 読 経 す る 勤 行 の 声 の み 残 る 。 あ と こ そ 鐘 の 勤 行 ご ん ぎ ょ う の こ え 御 詠 歌 、 宵 の ま の た え 降 る 霜 の 消 え ぬ れ ば 移 し 寺 、 香 川 県 青 峰 山 根 香 寺 ね ご ろ じ ご 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 。 浄 土 宗 鎮 西 派 徳 川 家 御 朱 印 寺 ) 和 讃 訳 、 此 の 根 香 寺 は 高 い 山 に 在 る の で 宵 の う ち に 降 っ 食 店 や 劇 場 な ど が あ っ た . ( た 霜 が 消 え る と 、 も う 人 里 離 れ た 山 の 上 で は 鐘 を 打 っ て ) 3 / 12 娑 婆 し ゃ ば 世 界 、 煩 悩 業 苦 の 吾 々 は 長 夜 の 眠 り 醒 ま た 、 戦 後 に な っ て も 坂 道 の 桜 道 、 バ ラ ッ ク の 商 ( め な け れ ば 哀 れ な る か な 塵 の 人 々 。 店 街 、 協 同 病 院 な ど が あ っ た . 台 宿 、 井 野 へ の 坂 道 は 、 水 海 道 方 面 か ら く る 馬 車 の 停 留 所 や 輸 送 屋 や 飲 常 磐 線 や 常 総 線 ( 大 正 2 ) が 開 通 し て 、 駅 周 辺 に 第 八 十 お お 二 し 番 か さ ん せ い し ょ う い ん ぐ ぎ ょ う じ 。 は 坂 を 登 っ て 行 っ た . 打 始 う ち は 、 じ 取 め 手 市 白 山 の 大 鹿 山 清 浄 院 弘 経 寺 ) 大 鹿 山 清 浄 院 弘 経 寺 は 昭 和 20 年 代 後 半 に 歩 行 用 道 路 が で き た . ) 水 海 道 飯 沼 、 結 城 の 各 弘 経 寺 と と も に 関 東 の 三 弘 今 の 取 手 駅 東 口 の 改 札 口 は 、 今 回 区 画 整 理 を し た 舎 は ホ ー ム と 同 じ 高 さ に な っ て い て 、 駅 に 行 く と き ( 経 寺 と 呼 ば れ て い る 。 東 口 一 帯 の 高 さ と 同 一 で 、 昔 の 高 さ に 戻 っ た と い う ( 開 山 は 浄 土 宗 を 中 興 し た 第 七 祖 聖 冏 し ょ う げ 、 い 飯 ) の 弟 子 良 肇 り ょ う じ ょ う が 応 永 二 十 一 年 「 沼 の 弘 経 寺 の 分 け 寺 と し て 、 当 初 人 家 も な い 山 中 に ( 草 庵 を 設 け た の が 始 ま り と 云 い ま す 。 ) 弘 経 寺 は 、 戦 国 時 代 は 大 鹿 城 主 の 菩 提 寺 で し た 。 ( 大 鹿 太 郎 左 衛 門 は 、 小 文 間 の 一 色 宮 内 に 襲 撃 さ れ (1414) た 時 に 、 弘 経 寺 の 娘 で あ っ た 奥 方 を 弘 経 寺 に 逃 が し 年 1 月 」 た と 云 わ れ て い ま す 。 ( の 大 総 年 山 ) と 右 し 側 て は 霊 大 場 黒 1 天 堂 番 、 と 本 88 堂 番 、 と さ 5 ら 番 に 行 が く あ と る 、 . ) (1590) 徳 川 家 康 が 当 地 に 遊 後 に 、 一 時 無 住 の 時 代 が あ っ た と い わ れ て い る 弘 り 、 庶 民 の 生 活 に に ゆ と り が 生 じ た 江 戸 時 代 に な っ て か ら 小 林 一 茶 の 句 碑 「 下 総 の 四 国 巡 り や 閑 古 鳥 」 や 高 村 ( 経 寺 で す が 、 天 正 十 八 年 だ と 云 わ れ て い ま す 。 光 太 郎 直 筆 の 「 芋 銭 先 生 景 慕 之 稗 」 な ど が あ り 、 な 2002 す か ら 2 ~ 3 ヶ 月 は 要 し た よ う で す 。 だ ら か な 階 段 を 下 り る と 大 師 通 り に 下 り る . 1763 十 三 、 駅 東 口 ( 昔 の 取 手 駅 付 近 ) こ の 辺 は 入 谷 と い う 湿 地 帯 だ っ た が 、 常 磐 線 が 開 光 音 禅 師 の 地 と 民 家 が 守 る 札 所 通 ( 明 治 29 年 ) す る た め に 、 駅 付 近 は 盛 土 し て 、 駅 新 四 国 相 馬 霊 場 巡 り ) さ れ て い ま す が 平 成 9 年 の 墓 所 改 修 と 調 査 で 結 髪 が ケ 淵 し ん け い か さ ね が ふ ち 」 で 有 名 な 「 羽 生 村 の し 飯 た 沼 。 弘 経 寺 近 く に 、 三 遊 亭 円 朝 の 怪 談 噺 「 真 景 累 角 輪 蔵 経 蔵 が 回 転 す る が あ り ま す 。 な の で お 勧 め し ま す 。 お 累 の 墓 は 目 黒 の さ ん ま で 有 ら 鬼 怒 川 の 累 ヶ 淵 を ハ イ キ ン グ す る 丁 度 よ い コ ー ス お 累 る い 」 の 墓 が 残 る 法 蔵 寺 が あ り 、 水 海 道 駅 か ) 名 な 、 祐 天 寺 に も あ り ま す 。 飯 沼 弘 経 寺 の 境 内 に は 、 一 切 経 典 の 書 庫 で あ る 八 ( 発 見 さ れ ま し た 。 ま た 、 飯 沼 と 結 城 の 弘 経 寺 は 、 関 東 十 八 檀 林 だ ん ) ) 号 脇 、 井 野 野 中 の 諏 訪 宮 、 り ん の 内 の 一 寺 で も あ り ま す 。 ( 、 国 道 十 一 石 の 御 朱 印 を 授 か り 、 以 来 御 朱 印 寺 と し て の 格 ( 第 八 十 三 番 294 ( ご 祭 神 、 諏 訪 大 明 神 。 江 戸 時 代 初 期 に 定 め ら れ た 関 東 に お け る 浄 土 宗 の 十 学 式 一 し 更 を 年 ょ に 備 う 、 え よ 弘 、 経 堂 、 り 寺 宇 下 ょ 歴 の 総 う 代 規 国 が 住 模 千 く 職 も 葉 、 の 拡 氏 天 中 大 重 文 か さ 臣 十 ら れ 高 八 学 た 城 年 徳 そ 胤 兼 う 吉 備 で 三 な す 男 ~ 照 。 上 寛 誉 人 永 了 ぐ れ て い る 事 や 人 の 僧 で あ っ た た め 、 特 に 境 内 外 三 猟 の 際 、 案 内 を し た 住 職 の 宣 誉 上 人 が 有 徳 徳 行 の す ( ) ご 本 尊 、 聖 観 世 音 菩 薩 、 僧 侶 の 養 成 機 関 ・ 学 問 所 を い う 。 は 、 徳 川 家 の 菩 提 寺 で あ る 芝 増 上 寺 の 住 職 に 上 任 さ ) ( 移 し 寺 、 香 川 県 神 毫 山 し ん ご う さ ん 一 宮 寺 江 戸 時 代 に は 浄 土 宗 の 僧 侶 の 養 成 に つ い て は 、 こ れ て い ま し た 。 ( の 18 ヵ 寺 に 限 ら れ て い ま し た 。 現 在 も 家 康 を は じ め と す る 十 一 代 の 徳 川 家 御 朱 印 (1549) が 保 存 さ れ て お り 、 た い へ ん 貴 重 な も の で す 。 ) 武 蔵 国 : 増 上 寺 港 区 、 伝 通 院 文 京 区 、 ) 御 詠 歌 、 さ ぬ き 一 宮 の 御 前 に あ お ぎ き て 山 門 の 脇 に 、 白 山 大 権 現 の 祠 が あ り ま す 。 ( ) 4 / 12 ( 神 の 心 を 誰 れ か し ら ゆ う 霊 巌 寺 江 東 区 、 霊 山 寺 墨 田 区 、 ) 和 讃 訳 、 御 四 國 霊 場 第 八 十 三 番 、 一 の 宮 の 御 本 尊 は 、 「 白 山 通 り 」 は 、 今 で は 少 々 寂 し く な っ て し ま い ( ) 聖 観 世 音 菩 薩 に て 、 弘 法 大 師 様 の 御 作 で あ り ま す 。 ) ) 御 詠 歌 の 意 味 は 、 一 の 宮 の 本 地 は 阿 弥 陀 如 来 様 で す 。 ( ( ) ) 其 の 彌 陀 の 御 前 に 来 て 誰 か 其 の 神 様 の 御 心 が 分 か ら う 幡 随 院 小 金 井 市 、 蓮 馨 寺 川 越 市 、 ) ( ) ( ぞ 、 只 一 心 に 彌 陀 の 名 号 を 唱 え な さ え 、 百 事 は 夢 と 悟 っ ま し が 、 地 名 の 由 来 に な っ て い ま す 。 ( ( ) ) て 浮 世 の 謎 を 晴 ら す が 良 い 。 口 で 言 う 事 は 最 も 易 い が 先 ず 行 っ て 見 な さ え 、 彌 陀 の ( ( ( 勝 願 寺 鴻 巣 市 、 大 善 寺 八 王 子 市 、 ) 御 前 に と 云 う 事 で す 。 浄 国 寺 岩 槻 区 ( 井 野 の 昌 松 寺 に も 八 十 三 番 が あ り ま す 。 江 戸 時 代 に 相 模 国 : 光 明 寺 鎌 倉 市 ) 村 人 と 共 に お 寺 が 移 っ た た め 、 2 ケ 所 に な っ て し ま 大 巌 寺 千 葉 市 、 弘 経 寺 常 総 市 下 総 国 : 弘 経 寺 結 城 市 、 東 漸 寺 松 戸 市 、 ( い ま し た 。 ど ち ら の 83 番 本 物 か ? 年 4 月 12 日 に 、 飯 沼 弘 経 寺 本 堂 の 落 慶 式 が 上 野 国 : 大 光 院 太 田 市 、 善 導 寺 館 林 市 ) 人 気 で は 、 こ ち ら の 札 所 の よ う で し た 。 常 陸 国 : 常 福 寺 那 珂 市 、 大 念 寺 稲 敷 市 ( 白 山 に 建 立 さ れ た 諏 訪 山 昌 松 寺 は 、 江 戸 時 代 に 井 執 り 行 な わ れ ま し た 、 江 戸 時 代 か ら の 姿 で 残 っ て い ) 野 台 へ 移 っ た 先 が 、 現 在 の 井 野 台 の 相 馬 霊 場 第 23 番 た 本 堂 は 荒 れ 果 て て し ま い 、 雨 漏 り が 酷 い た め 新 築 ( 薬 師 堂 が あ る 井 野 台 北 坪 集 会 所 で す 、 だ が 昌 松 寺 は さ れ 完 成 の 記 念 式 典 が と り 行 な わ れ ま し た 。 ) 更 に 翌 日 13 日 は 水 海 道 の 恒 例 行 事 「 千 姫 祭 り 」 が ます。 か つ て は 白 山 商 店 街 の 中 程 に 白 山 神 社 と し て 祀 ら ( 行 わ れ 、 千 姫 の 御 廟 が あ る 弘 経 寺 か ら 水 海 道 市 内 ま 浄土宗の宗紋 は 「月影杏葉:つき かげぎょよう」だ が、弘経寺は徳川 家の「三つ葉葵」 を寺紋としてい 2008 で の 行 列 歩 行 は 、 天 気 に 恵 ま れ 大 勢 の 人 で 賑 わ い ま 年 の 相 馬 霊 場 巡 り に 於 い て は 、 檀 家 で 歌 手 の れ て 居 り 、 金 刀 比 羅 神 社 と 共 に 人 気 が 高 く 多 く の 参 ) 天 樹 院 弘 経 寺 に は 、 拝 者 を 招 い て 賑 わ っ て い ま し た 。 ) ( じ ゅ き ざ ん ペ ギ ー 葉 山 さ ん に 境 内 で お 会 い し て い ま す 。 ( 水 海 道 飯 沼 の 寿 亀 山 (1634) ) 徳 川 幕 府 二 代 将 軍 秀 忠 の 長 女 の 千 姫 こ と 天 樹 院 の 廟 2006 ( 所 び ょ う し ょ が あ り 結 髪 の 一 部 が 壺 に 収 め ら れ て い ま す 。 天 樹 院 は 遺 言 に よ り 文 京 区 の 伝 通 院 に 埋 葬 取 手 の 金 刀 比 羅 神 社 は 、 安 永 八 年 利 根 川 の び て 繁 栄 し ま し た 。 の 町 と し て 近 隣 に 名 を 響 か せ 、 宿 場 全 体 が 活 気 を 帯 観 覚 光 音 の 活 躍 も あ り 、 当 時 の 取 手 宿 は 大 師 信 仰 く 、 姿 を 失 っ て い く 定 め と な る の で す ね 。 い な く な っ た お 寺 や 御 堂 は 、 建 物 を 守 る こ と も 難 し 組 織 が 衰 退 し て し ま っ た こ と に よ り 、 訪 れ る 人 達 の の 功 績 を 残 し ま し た 。 改 装 し た り 、 新 四 国 相 馬 霊 場 を 開 設 す る な ど 、 数 々 ま た 、 荒 廃 し た 長 禅 寺 の 観 音 堂 を 「 さ ざ え 堂 」 に 5 / 12 札 所 を 維 持 す る 組 織 の 中 枢 で あ っ た 「 講 」 と い う た と 伝 え ら れ て い ま す 。 で し た が 見 る 事 が 出 来 ま し た 。 な が ら 巡 り 、 貧 者 へ の 施 し や 病 者 へ の 救 い を 行 な っ 相 馬 霊 場 の 、 衰 退 し て い こ う と し て い る 姿 を 偶 然 下 総 国 相 馬 郡 の 取 手 宿 や 我 孫 子 の 村 を 、 経 文 を 唱 え の 朽 果 て 荒 廃 し た 姿 は 、 年 秋 解 体 さ れ ま し た 。 出 家 し て 観 覚 光 音 と な っ た 源 六 以 下 、 光 音 ) は 、 大 師 霊 場 の 佇 ま い の 保 存 は 良 い の で す が 、 弥 陀 堂 と な り ま し た 。 松 寺 は 、 阿 弥 陀 三 尊 が 本 尊 で あ る こ と 、 つ ま り 井 野 井 野 台 の 薬 師 堂 が 昌 松 寺 跡 で あ る の に 、 現 在 の 昌 瘡 濱 磯 か 風 さ の 神 吹 様 く の 時 阿 気 弥 清 陀 し さ 。 ん の 弥 陀 堂 は 、 お 隠 れ し た 。 て 夜 な 夜 な 出 ず る 月 の よ う で あ ろ う と 云 う 事 で す 。 海 明 瞭 で あ る 空 行 く 月 の さ や け さ に 、 我 が 心 の 闇 も は れ 御 詠 歌 の 意 味 は 、 御 來 迎 の 阿 弥 陀 如 来 の 御 光 は 、 圓 満 は 家 も 商 い も 全 て 妻 子 に 譲 り 、 出 家 し て 和 尚 の 弟 子 六 は 長 禅 寺 の 幻 堂 和 尚 と 親 し く な り 、 神 仏 に 帰 依 す 人 々 か ら 慕 わ れ た と い わ れ て い ま す 。 そ ん な 折 、 源 商 い の 傍 ら 取 手 宿 の 繁 栄 の 為 に 尽 く し 、 多 く の る 念 が 強 く な り ま す 。 そ し て 宝 暦 十 年 ) 、 源 六 た 話 し を さ れ ま し た 。 だ が 、 住 職 は 「 医 王 院 」 と い う 院 号 に 疑 問 を 抱 い 内 に あ る 札 所 が 本 来 の 83 番 で す 」 と 説 明 さ れ ま し た 。 如 来 で 行 基 菩 薩 の 御 作 。 亦 開 基 で あ り ま す 。 三 軒 の 店 を 構 え る ほ ど 、 繁 盛 さ せ て い ま し た 。 昌 松 寺 の 住 職 に 話 を 伺 い ま し た 、 当 然 と し て 「 境 現 在 、 83 番 と 共 に 井 野 へ と 移 っ て い ま す 。 和 御 讃 四 訳 國 、 霊 場 第 五 十 三 番 、 圓 明 寺 の 御 本 尊 は 、 阿 弥 陀 や が て 源 六 は 、 取 手 宿 内 で 穀 物 商 伊 勢 屋 ) を 営 み 、 ( 交 通 安 全 を 祈 願 し て 観 覚 光 音 禅 師 が 、 四 国 讃 岐 の 琴 弥 陀 堂 の 阿 弥 陀 如 来 像 は 「 か さ の 神 様 」 と い っ て 台 か ら 井 野 に 移 っ た 時 に 、 薬 師 如 来 を 置 い て 来 た と (1760 平 神 社 か ら 勧 請 し た と 伝 わ っ て お り ま す 。 瘡 神 様 、 ま た は 瘡 蓋 神 と 云 わ れ 、 お で き や 梅 毒 を い う こ と で し た 。 ) 治 す 神 様 だ っ た そ う で す 。 光 た た 住 訪 と 台 そ 。 身 職 山 取 勘 に す れ 内 に 白 手 ぐ 昌 る が の た 山 市 り 松 と 檀 史 ま 寺 相 者 い 家 が し か の す が 馬 や 札 て ら 民 、 移 霊 当 所 、 井 族 し っ 場 時 を 23 野 編 か た 第 の 元 番 台 で し 時 83 人 の と に は 事 に 番 々 白 83 移 、 態 、 に の 山 番 し 逸 は 札 於 共 へ の た 話 も 所 い 感 戻 二 時 と っ を て を し つ 、 し と 置 も 受 た の 寺 て 深 い 、 け 、 霊 を 、 刻 て 白 、 と 場 受 昌 で き 山 白 あ に け 松 し た か 山 り 反 継 寺 た の ら の ま 感 い が 。 で 井 札 し し だ 諏 は 野 ( 光 音 は 晩 年 、 金 刀 比 羅 神 社 に 草 庵 を 建 て 隠 居 し 、 取 手 市 史 民 族 編 よ り 所 に 賛 同 者 が 増 え る こ と と な り 、 今 に 至 る 。 と あ り ( 大 師 の 利 益 く む 水 不 足 に 悩 む 住 人 に 光 音 井 戸 を 掘 削 し ま し た 。 天 明 音 元 堂 年 、 金 刀 比 九 羅 月 琴 創 平 立 、 神 祭 社 神 境 、 内 大 。 物 主 命 。 ま し た 。 2011 ) う れ し き 」 と 碑 が 残 っ て い ま す 。 こ こ で 言 う 三 「 三 神 の 威 徳 の 水 の ま す 井 よ り 長 禅 寺 が 供 持 す る 所 で あ り 、 土 地 所 有 主 は 現 在 に 白 山 の 83 番 札 所 に は 、 誰 が 寄 贈 す る の か 、 垂 れ 幕 (1779) ( ぞ ( ) 神 と は 、 五 穀 守 護 の 稚 産 霊 神 わ く む す ひ の か み 、 於 い て も 長 禅 寺 で あ る 。 や た す き 、 納 め 札 が 貼 ら れ 、 お 遍 路 さ ん が 訪 れ て い ) ( 倉 稲 魂 神 う か の み た ま の か み 、 保 食 神 う け も ち の 相 馬 霊 場 と 観 覚 光 音 禅 師 、 弥 陀 堂 跡 地 る 様 子 が 残 っ て い ま す 。 ( ) か み の 神 で す 。 相 馬 霊 場 創 始 者 観 覚 光 音 禅 師 ( 伊 勢 屋 源 六 ) 第 五 十 三 番 (1781) 1711 年 ) は 、 信 州 佐 久 海 尻 の 出 身 で 、 16 才 の 頃 年 江 ~ ご 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 、 御 堂 廃 墟 と と も に 消 滅 。 ) 1783 江 戸 時 代 中 期 の 人 物 で あ る 伊 勢 屋 源 六 ( 移 し 寺 、 愛 媛 県 須 賀 山 円 明 寺 ( て り そ う か げ は よ な よ な の 月 御 詠 歌 、 ら い ご う の み だ の ひ か り の 円 明 寺 戸 伊 勢 屋 に 奉 公 し ま し た 。 「 蠑 螺 堂 と い ふ の は ど う い ふ 譯 わ け な の で す か 」 「 あ れ は 蠑 螺 堂 よ ・ ・ ・ 、 」 居 り ま せ う 、 」 辞 世 の 句 、 享 年 七 十 三 で し た 。 行 く と も 知 ら ず も と 天 明 三 年 (1783) 6 / 12 「 中 が 丁 度 蠑 螺 の 殻 の 様 に な っ て 居 て 、 ぐ る ぐ る 廻 と し て 、 更 に 明 治 維 新 政 府 で 朝 廷 権 力 が 復 活 「 日 々 に 運 び 歩 み の 後 消 え て 十 月 十 七 日 光 音 禅 師 は 天 命 を 全 う 、 明 治 創 「 八 境 長 建 社 年 内 禅 時 寺 は 寺 の 境 奉 の 境 内 還 新 内 外 、 を 町 は 区 第 免 移 「 画 二 れ 転 祭 取 次 た 後 典 調 上 。 、 法 規 知 ど 創 要 則 令 う 建 ニ 」 し 地 必 通 て 大 需 達 か 鹿 ノ 。 ・ 山 場 ・ 長 所 ? 禅 」 寺 明 治 転 寺 四 分 身 院 年 離 の の 令 激 荒 が 増 廃 発 。 ・ 、 せ 廃 社 ら 合 寺 れ 廃 上 る 寺 知 。 ・ 令 廃 排 と 仏 仏 相 毀 、 ま 釈 僧 っ 運 侶 て 動 の 、 が 神 余 起 官 波 き は る 。 「 そ の 森 の 間 に 小 さ な 塔 の や う な も の ゝ 先 が 見 え て デ ル に し た も の ・ ・ と 断 わ っ た 上 で 、 恋 人 雪 路 と の 見 え ま す ね 。 」 「 高 宮 さ ん 、 こ の 向 ひ の 方 に 、 こ ん も り し た 小 山 が な っ て い る 。 】 惜 別 の 記 念 に 、 馬 で 大 鹿 山 の 蠑 螺 堂 を 目 指 す 設 定 と (1871) る と 、 自 然 に 上 へ 行 け る や な つ て い る か ら よ 、 」 の す み か へ 」 (1875) 「 そ れ で は 階 段 が 螺 旋 形 に 頂 上 ま で と い て 居 る の で そ 旧 か 、 明 つ 江 治 長 て 戸 二 禅 時 十 取 代 四 寺 手 か 年 の 競 ら 頃 三 輪 の 、 場 三 廃 世 が 世 寺 堂 あ 堂 で は る あ ど あ 栄 っ 螺 た 堂 た う り 長 な は で 禅 っ 大 し 寺 鹿 た の た 山 。 蜘 の 或 蛛 か い 堂 。 は こ ) す ね ・ ・ ・ 、 」 明 治 24 く に 年 ぐ よ り り 抜 辛 け う 、 た じ 取 と て 手 思 、 に わ 上 在 れ 知 住 る 令 し 。 の 過 て 酷 い な た 法 、 の 菊 目 池 を 幽 芳 の ) 自 叙 伝 「 蠑 螺 堂 の 落 日 」 、 私 小 説 「 白 蓮 紅 蓮 」 の 小 説 ( て あ る で せ う 、 ざ ぁ ー と 文 に 、 明 治 二 十 四 年 頃 は 創 建 地 大 鹿 山 長 禅 寺 境 内 に 大 鹿 原 と い わ れ 、 雑 木 が 生 い 茂 る 深 山 で 、 大 鹿 左 衛 ( 「 よ く 多 寶 塔 た ほ う と う 三 世 堂 が 建 っ て い た 記 述 が あ る 。 門 の 居 館 大 鹿 城 が あ っ た と さ れ る 旧 跡 の 地 で し た 。 (1891) あ ん な 形 よ 。 一 寸 こ の 邊 あ た り の 名 物 な ん で す け )ツ 五 六 年 上 つ た 事 あ り ま せ ん ど も 、 誰 も 構 は な く な っ た も ん で す か ら 、 も う 随 分 承 平 将 元 門 年 没 後 、 御 、 厨 将 三 門 郎 勅 吉 願 秀 所 が と 守 し 本 て 尊 長 十 禅 一 寺 面 創 観 建 音 、 ((931) 荒 果 て ゝ 居 る 筈 よ 。 私 ( け ど ・ ・ ・ 、 」 ) 「 何 で も 私 な ど の 知 ら な い 昔 に は お 寺 が あ っ た の よ 。 小 説 『 白 蓮 紅 蓮 ( し ろ ~ は す べ に 茨 は 城 県 、 す ) 北 』 相 菊 池 幽 芳 、 自 叙 伝 『 蠑 螺 堂 の 落 日 』 、 ( 今 は 堂 守 の 住 む 小 さ な 庵 室 の や う な も の が あ る ば か ( り だ わ 、 」 二 人 は す ぐ 小 山 の 下 に つ い た 。 明 治 3 年 10 月 27 日 (1870/12/18 1947/7/21) そ れ は 併 し 小 山 と い ふ よ り は 、 丘 と い ふ 方 が 適 し て 小 説 家 、 本 名 菊 池 清 、 明 治 21 年 (1888) 居 る 位 で ・ ・ ・ こ の 山 の 正 面 に は 、 一 間 幅 ほ ど の 、 馬 郡 取 手 高 等 小 学 校 ( 現 在 の 取 手 市 立 取 手 小 学 校 ) ) 草 だ ら け に な っ た 参 詣 道 が つ い て 居 て そ の 両 側 に は の 教 師 と な り 、 3 年 後 隣 家 の 杉 本 玉 枝 17 歳 と 婚 約 ( た ・ ・ ・ 幽 芳 が 大 阪 赴 任 の 為 三 世 堂 で し ば し の 別 れ を 誓 い 、 入 仏 導 師 役 先 住 の 幻 堂 、 願 主 は 新 四 国 相 馬 霊 場 ((1693) ) 白 蓮 紅 蓮 か ら ・ ・ 文 中 の ※ 印 は 注 釈 で す 。 大 阪 毎 日 新 聞 社 へ 、 後 に 取 締 役 を 歴 任 し た 。 開 基 の 光 音 が 勤 め る ( 取 手 市 史 ) 宝 元 暦 禄 西 で 三 十 新 六 奉 国 ん 層 三 町 年 納 秩 ) 構 年 に ( 父 再 造 強 伝 坂 建 ( 制 承 東 な 三 移 、 ) 各 る 匝 、 転 長 々 殿 堂 住 す 禅 の 宇 形 職 ( 寺 百 に 式 春 取 は 観 本 ) 翁 手 創 音 尊 の の 市 建 を 十 殿 代 史 の 三 一 宇 、 ) 地 壇 面 、 大 に 観 白 鹿 配 音 嗣 山 構 、 殿 か 安 は ら 置 く す し 。 (1763) ( ま た 、 同 じ タ イ ト ル の 劇 画 や 春 本 が あ る が 、 作 者 が >>>>>>>>>>>>>> 違 い 全 く 関 連 あ り ま 本 せ 文 ん 。 櫻 の 古 木 や 、 松 な ど が 歯 の ぬ け た よ う に 生 え て 居 (1779) 寛 安 政 永 二 し 八 年 て 年 琴 平 社 、 金 、 大 刀 大 風 比 鹿 で 羅 山 白 神 の 嗣 社 長 殿 禅 百 を 寺 観 設 境 音 営 内 が ( に 破 琴 供 壊 平 持 社 所 由 と 緒 ) (1790) (1801) (1868) 明 享 治 和 元 宝 元 年 暦 年 の 白 嗣 、 殿 、 神 の 三 道 古 世 と 材 堂 仏 が 再 教 再 建 の 利 、 分 用 堂 離 さ 宇 を れ 棟 図 た 札 る 。 の 神 銘 仏 文 に 【 も ※ の 蠑 は 螺 白 知 堂 蓮 ら と 紅 ぬ い 蓮 が ふ に 、 ・ 建 描 ・ 築 い ・ 物 た ・ に つ 蠑 い 螺 て 堂 は は 、 、 私 こ は の 外 蠑 の 螺 土 堂 地 を の モ 年 は 、 じ つ は 、 上 知 令 で 家 政 が 苦 し い 古 社 寺 の 体 制 菊 池 幽 芳 が こ の 作 品 を 書 い た 明 治 二 十 四 年 と い う 光 明 寺 は 現 在 、 桑 原 一 一 三 三 に 移 っ て い ま す 。 ラ を 聞 く 事 が で き ま す 。 に は 絶 好 で す 、 風 が 吹 け ば 自 然 の 竹 林 の オ ー ケ ス ト 猛 暑 日 の 竹 林 は と て も 静 か で 涼 し く て 一 休 み す る す 。 現 在 は あ り ま せ ん 。 ュ メ タ リ ー も の そ の も の で あ る 。 光 明 寺 の 本 堂 の 一 角 に 薬 王 寺 の 遺 影 を 残 し た そ う で こ れ は ま さ に 今 日 の 新 聞 ・ テ レ ビ 雑 誌 な ぼ の ド キ ま し た が 、 寺 の 檀 家 で あ っ た 人 達 は 、 井 野 へ 移 っ た じ み 出 て 居 る 文 節 で あ る 。 第 40 番 薬 王 寺 は 度 重 な る 火 災 に よ り 廃 寺 と な り 塵 埃 塗 れ じ ん あ い ま み レ に な つ て 居 て 、 入 口 近 く 、 の が 安 置 さ れ 、 そ の 前 に は 色 の あ せ た 作 り 花 な ど が あ り 、 下 は 石 畳 に な つ て 、 奥 に 阿 彌 陀 様 の や う な も も の ら し く 、 な か な か 頑 丈 な 材 木 で 組 み 立 て ら れ て 傾 い た 柱 と て も な く 、 建 築 當 時 は 相 當 に 念 を 入 れ た 何 よ り も 廃 寺 跡 の 三 世 堂 に 対 す る 菊 池 の 記 者 魂 が に も な く な っ て い る ・ ・ ・ 》 の じ つ に 克 明 な 描 写 は 、 り 、 残 っ て 居 る も の も 手 足 が 缺 け 、 箔 が 剥 、 見 る 影 さ な 無 細 工 な 佛 様 が 取 つ け ら れ て あ る の が 半 は 失 な と く に 、 《 二 人 は す げ 小 山 の 下 に つ い た ( 中 略 ) 小 堂 の 前 に 來 て 見 る と 、 見 か け た ほ ど に 荒 れ て も 居 ず 、 勅 で も あ っ た の だ ろ う 。 か の や う に 、 剥 落 し て 了 つ て ・ ・ ・ 裏 を 返 せ ば そ れ は 新 聞 記 者 と し て の 己 に 対 す る 戒 や 、 赤 や そ ん な 色 が 、 も う 何 百 年 の 風 雨 に 曝 さ れ た い 込 ん で く る も の が あ っ た の で は な い か 。 つ 居 た に 山 て 石 段 直 そ 蠑 た て 。 草 門 そ 段 が 線 の 螺 。 ・ 隨 が と の を つ に 参 堂 ・ 分 生 螺 正 上 い 、 詣 は ・ 庵 え 蠑 面 り て 大 道 垂 す 室 、 堂 の 盡 い 分 か 木 べ や 柱 と 突 つ る 並 ら や て 、 の 三 當 く の び 頂 廂 が 蠑 傾 角 り ス で の 上 あ わ の な 荒 螺 き 形 ど 寥 堂 か を つ し る る 古 の そ の け な き て ・ く び 外 の 周 て し あ 山 ・ な た 部 も 圍 居 て た 門 ・ つ 山 に の に る 居 リ を ・ た 門 塗 ゝ は 小 る に 潜 、 の つ や 草 さ 地 蠑 る 凸 と た う な な 點 螺 と 凹 こ 胡 な ど 庵 に 堂 廣 だ ろ 粉 光 が 室 萱 が 場 ら ま や 景 生 が 葺 あ が け で 、 で え あ 屋 つ あ の 、 青 あ て つ 根 た つ 石 一 。 ) 保 護 と 維 持 の た め 全 国 社 寺 に 対 し 、 古 寺 社 の 修 繕 ・ 手 垢 ず れ に 禿 ち よ ろ け と な つ た お 賓 髄 頭 廬 様 ( ぴ ん ( 維 持 の 実 行 が 確 実 な 社 寺 ・ 団 体 へ の 勧 奨 の 名 目 で 見 づ る ) が あ つ た ・ ・ ・ ) 舞 金 が 支 給 さ れ る こ と に な り 、 『 古 社 寺 保 存 費 下 付 取 こ の 階 段 ( 螺 旋 形 ) の 壁 の 方 に は 、 三 萬 三 千 體 あ ( ) る と い ふ 、 小 さ な 無 細 工 な 佛 様 が 取 つ け ら れ て あ る が ぷ ん ぷ ん と 漂 い 、 発 揚 し 、 菊 池 の 精 神 に 食 ま 十 八 和 御 移 井 し 一 昭 幡 讃 詠 し 野 た 日 和 様 訳 歌 寺 の 。 に 八 を 、 、 、 集 年 拝 現 光 こ 愛 落 再 め 世 明 の 媛 の 建 ば で 寺 世 県 弓 八 で 、 は に 府 即 矢 、 軒 寄 ち の は 頭 西 が 進 阿 道 弓 山 向 供 者 弥 を 来 矢 栄 か 花 は 陀 護 世 を 福 い や 東 様 る は 守 寺 の 供 京 を 八 人 る 、 山 膳 八 拝 幡 を 八 中 を 十 む 大 救 幡 に 当 八 と 菩 う な あ 番 度 同 薩 弥 り り で 会 じ で 陀 ま 行 。 で あ 仏 し っ 毎 あ る た て 月 る か ら 。 い 二 、 7 / 12 が 絶 え 、 等 閑 に さ れ な が ら も 、 先 人 先 哲 の 澄 明 な 蠑 螺 堂 を 訪 ね て い る の は 、 時 勢 に 取 り 残 さ れ 、 人 手 ご 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 第 五 十 七 番 、 阿 弥 陀 堂 と 霊 場 は 個 人 所 有 、 る 通 り 、 こ の 町 で 教 鞭 を と っ て い る 間 に 何 回 と な く つ ま り 、 菊 池 幽 芳 は 『 蠑 螺 堂 の 落 日 』 に 書 い て い で 無 料 公 開 さ れ て い た の で コ ピ ー を 入 手 済 で す 。 け だ っ た の で は な い か 。 ま た 、 白 蓮 紅 蓮 は 一 部 頁 欠 け は あ る も の の 、 NET キ リ ン ビ ー ル 取 手 事 業 所 の 東 側 に 位 置 す る 。 の が 半 は 失 な り 、 残 っ て 居 る も の も 手 足 が 缺 け 、 箔 Esprit 無 量 山 宝 憧 院 ほ う し ょ う い ん 光 明 寺 、 真 言 宗 豊 が 剥 、 見 る 影 も な く な つ て 居 る ・ ・ ・ ) 調 書 』 な る 制 度 が 内 務 省 社 寺 局 扱 い で 下 達 さ れ た 年 ( 原 文 の ま ま 転 載 引 用 ) と 活 写 し て い る 。 ( で も あ る 。 <<<<<<<<<<<<<<<<< 【 編 集 者 の 記 述 】 こ の 描 写 で は 、 金 刀 比 羅 神 社 境 内 ( で は な く 現 長 禅 寺 境 内 に 酷 似 し て い る 。 ま た 、 宝 暦 ち 、 報 道 ス タ イ ル で 発 信 す る こ と を 編 み 出 し た 先 駆 い る が 、 そ の フ ィ ル ム は 残 っ て い な い 。 茶 の 間 ・ 衆 人 に 伝 達 す る ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 手 法 、 即 白 蓮 紅 蓮 は 、 無 声 映 画 時 代 に 映 画 は 大 ヒ ッ ト し て 現 場 を 見 る こ と の で き な い 不 特 定 多 数 の 読 者 ・ お 布 へ と 受 け 継 が れ て い く の で し た 。 某 HP よ り 金 刀 比 羅 神 社 の 蜘 蛛 堂 説 は 信 じ が た い 。 事 項 標 準 」 を 定 め 、 同 三 十 年 の 「 古 社 寺 保 存 法 」 公 年 間 以 前 の 蜘 蛛 堂 の 存 在 を 立 証 す る 歴 史 は な い の で そ し て こ の 後 、 同 二 十 八 年 内 務 省 は 「 古 社 寺 調 査 の 宝 珠 を 船 で 送 っ た が 、 志 度 の 浦 で 龍 神 に 奪 わ れ て 共 に 仕 え た が 、 天 正 十 年 山 崎 の 一 戦 で 秀 吉 に 願 藤 四 唐 し 原 志 国 の た 不 度 の 高 。 比 寺 志 等 に 度 宗 が は 寺 皇 亡 「 に 帝 父 海 つ の 鎌 女 い 妃 足 の て で の 墓 あ 供 」 っ が 養 あ た に る 妹 奈 。 は 良 天 そ 興 智 の 福 天 菩 提 寺 皇 建 の に 立 こ と を ろ 三 発 、 つ 8 / 12 の 三 男 神 戸 信 孝 に 家 老 染 野 民 部 取 手 本 陣 の 先 祖 と 『 山 崎 主 水 も ん ど の 卑 』 の 要 旨 、 主 水 は 織 田 信 長 に 大 師 講 の 男 女 が 念 仏 を 唱 え た と い う 。 地 さ れ ま し た が 古 い 樹 木 と 石 柱 は 残 さ れ て い ま す 。 し た 。 銅 版 葺 屋 根 に リ ニ ュ ー ア ル さ れ 、 堂 前 庭 も 整 か つ て は 旅 坊 主 と い わ れ た 僧 が 住 み 三 月 二 十 一 日 平 成 15 年 、 境 内 が 整 備 さ れ 大 師 堂 が 新 し く な り ま 実 は 劇 中 に 登 場 す る 、 酌 婦 の お 蔦 が 茂 兵 衛 に 声 を く の を 云 う た の で す 。 れ ま し た 。 で あ る 、 駒 形 茂 兵 衛 の 像 が 祀 ら れ て い ま す 。 定 し て 、 煩 悩 の 迷 霧 を 退 散 し て 散 り 々 ば ら 々 か え り 行 昭 和 四 十 年 頃 観 音 堂 の 改 築 の 際 、 古 文 書 が 発 見 さ 小 説 家 、 劇 作 家 作 の 戯 曲 『 一 本 刀 土 俵 入 』 の 主 人 公 に 、 特 別 に 別 室 を 設 け て い た 様 で し た ~ 。 昭 和 38 年 、 境 内 に 、 長 谷 川 伸 明 治 17 年 本 尊 の 地 蔵 菩 薩 を 拝 み 、 来 世 の 引 導 頼 み 置 き 大 安 心 決 だ の で 御 詠 歌 の 意 味 は 、 諸 人 が 此 の 寺 へ 御 詣 り を し て 御 和 讃 訳 、 歌 に 「 泰 山 寺 」 と あ る は 寺 の 名 で 、 退 散 し と 読 ん 花 の 蕾 に 化 生 し て 宿 ら う と 、 万 事 佛 陀 に 献 げ て 居 る 。 宿 床 に 御 通 夜 し て 祈 り の 声 に 身 を 委 ね 紫 雲 に 打 ち 乗 り 野 宿 し て 木 の 根 に 手 を 枕 、 法 の 風 吹 く 時 を 待 ち つ つ 、 御 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 。 移 転 時 に は 、 稲 の 檀 家 の 為 来 世 の い ん ど う た の み 置 き つ つ ば 煩 悩 が 起 こ る 。 そ の 後 天 文 20 年 桑 原 に 檀 家 と 共 に 移 転 し た 。 御 詠 歌 、 み な 人 の ま い り て や が て 泰 山 寺 四 國 詣 り に 出 る 時 は 、 同 行 二 人 の 笠 を か け て 宿 を 選 べ 山 派 、 元 土 浦 市 法 泉 寺 末 、 建 治 二 年 (1276) し ま っ た 。 反 旗 を 奮 い 滅 ぼ さ れ た 。 か け た 、 我 孫 子 屋 は 取 手 の 茶 屋 旅 籠 で し た 。 (1552) 兄 の 不 比 等 は あ き ら め き れ ず 、 姿 を 変 え て 志 度 の 主 水 は 、 武 蔵 国 で 同 士 大 鹿 太 郎 左 衛 門 と 共 に 下 総 路 銭 が 無 く 途 方 に く れ て い た 茂 兵 衛 を 、 元 気 づ け (1884) 浦 へ 渡 り 、 土 地 の 海 女 と 夫 婦 に な り 一 子 、 房 前 ふ さ 国 に 落 ち 、 大 鹿 村 と 稲 村 の 郷 士 ご う し 、 江 戸 時 代 に た お 蔦 は 、 数 年 後 に 横 綱 に は な れ ず 、 取 手 に 戻 っ た ( ま え を も う け る 。 あ っ た 階 級 の 一 つ で 武 士 の 一 種 、 名 字 帯 刀 み ょ う じ 、 毘 沙 門 堂 と 霊 場 は 個 人 所 有 、 茂 兵 衛 に 、 や く ざ 者 か ら 助 け ら れ る と い う 、 人 情 時 ) や が て 海 女 は 観 世 音 に 祈 願 し て 、 夫 と 子 の た め に た い と う 、 苗 字 を 公 称 し 打 刀 と 脇 差 の 二 本 の 刀 を 腰 代 劇 で し た 。 ) 命 を 捨 て て 龍 神 か ら 宝 珠 を と り か え す 。 に 帯 び ら れ る を 許 さ れ て い た 。 家 系 も は っ き り し て 第 八 十 番 ( 不 比 等 は 海 辺 の 近 く に 海 女 の 墓 と 小 堂 を た て 「 志 い る も の が 多 か っ た 。 ご 本 尊 、 毘 沙 門 天 。 ) 度 道 場 」 と 名 付 け た 。 後 に 房 前 が 寺 名 を 志 度 寺 に 改 山 崎 主 水 戒 名 、 宗 休 同 意 居 士 よ り 十 四 代 後 に 地 移 し 寺 、 愛 媛 県 白 牛 山 國 分 寺 、 ( め た と 云 わ れ て い る 。 、 稲 観 音 堂 と 霊 場 は 個 人 所 有 、 蔵 堂 内 へ 小 野 山 崎 家 の 碑 を 建 て 追 善 供 養 し た 、 と あ 詣 れ る 人 を 助 け ま し ま せ 御 詠 歌 、 国 を 分 け 野 山 を し の ぎ 寺 々 に (1583) ま た 、 境 内 に は め ず ら し い 、 脱 衣 婆 堂 が あ る 。 り ま す 。 和 讃 訳 、 諸 國 を 分 け 経 め ぐ り 野 や 山 を し の ぎ 越 え 難 行 ( 第 八 十 六 番 の 後 、 先 祖 が 毘 沙 門 天 を 背 負 苦 行 し て 寺 々 へ 、 参 拝 す る 人 々 を 摂 取 不 捨 の 悲 願 を 垂 ( ご 本 尊 、 十 一 面 観 音 れ て 助 け て 下 さ い ) 御 詠 歌 、 い ざ さ ら ば 今 宵 は こ こ に 志 度 の 寺 関 ヶ 原 の 合 戦 ( 移 し 寺 、 香 川 県 補 陀 落 山 志 度 寺 、 、 霊 場 は 個 人 所 有 、 っ て こ こ に 土 着 し た と い う 。 ) 屋 号 を 武 左 衛 門 と 言 う そ う で す 。 ) 大 師 堂 の 中 に 、 錦 の 札 が 貼 っ て あ り ま し た 。 ( 祈 り の 声 を 耳 に 触 れ つ つ 第 五 十 六 番 (1600) ご 本 尊 、 地 蔵 菩 薩 、 地 蔵 堂 は な い 稲 に 創 立 、 移 し 寺 、 愛 媛 県 金 輪 山 泰 山 寺 、 和 讃 訳 、 人 間 は 心 持 ち が 肝 要 で あ る 。 を つ け る だ け が 薬 王 寺 の 複 雑 な 歴 史 を み て き た の 境 内 の 無 患 子 む く ろ じ 、 羽 根 突 き の 羽 の 珠 に な る 実 を 廃 棄 し て い る 。 御 詠 歌 、 な む 薬 師 諸 病 悉 除 の 願 こ め て ま せ ん 年 。 現 在 、 薬 王 寺 の 存 在 を 証 明 す る 事 実 の 石 塔 と て も 賑 わ っ て い た そ う で す が そ の 面 影 は 現 在 あ り 中 し て 数 多 い 、 昔 は お 遍 路 さ ん の 宿 も あ っ て 春 先 は た 光 井 天 も の 和 御 移 稲 。 明 薬 村 台 寺 咲 浮 讃 詠 し 村 寺 王 尋 宗 は き 世 訳 歌 寺 山 に 寺 常 の 、 此 に 、 、 、 連 移 は 小 僧 寺 の 住 我 心 愛 竹 さ 二 学 が 子 世 み 願 媛 等 な 浮 や 県 院 れ 度 校 師 屋 の 御 苦 が 、 た に 稲 と で を ら 互 世 自 平 守 こ お 渡 分 な 逃 心 い の 在 城 の り る 教 っ 谷 れ 願 も が の 山 辺 、 火 場 て の 住 成 信 れ 春 観 り 薬 災 と 教 西 む 就 心 て に 自 竹 王 の な え 林 の し を 住 花 在 林 寺 為 り て 寺 は 自 起 む 咲 寺 こ が の 、 ま い の 、 安 在 し や き 、 多 寺 焼 し ま 末 楽 を て け て い 名 失 た し 寺 で 得 菩 だ 、 は に 。 た で あ て 提 も 又 消 よ 。 あ る 心 を の 。 札 滅 り 後 っ に 得 た 所 し 桑 に た 春 れ が ま 原 稲 め の ば 集 花 此 し の 戸 、 和 讃 訳 、 薬 師 如 来 十 二 の 御 誓 願 中 、 諸 病 悉 除 の 御 願 い 移 し 寺 、 高 知 県 赤 亀 し ゃ き 山 延 光 寺 、 ご 本 尊 、 薬 師 如 来 第 三 十 屋 号 九 を 番 と 言 う 。 う 名 が 出 て く る 、 稲 城 主 、 高 井 十 郎 の 家 臣 で あ っ た の 記 御 納 さ さ 朱 経 れ て 印 帳 た 山 と 寺 崎 宝 は 社 庄 印 、 名 兵 を 寺 と 衛 押 院 日 の し に 付 巡 て 参 か 礼 い 詣 ら と た し 知 遍 だ 写 る 路 く 経 こ の 帳 を と 行 を 奉 が 程 言 納 で は い し き 、 ま た ま 納 す 際 す 経 。 に 。 帳 そ に 来 す る 信 仰 で す 。 に 三 十 三 の お 姿 に 変 化 す る と 説 か れ て い る こ と に 由 で 菩 と す 薩 奈 西 。 を 良 国 ご と 法 本 滋 観 華 尊 賀 音 経 と と 巡 礼 に す 兵 と 観 る 庫 は 音 寺 と 、 菩 院 岐 現 薩 、 阜 在 が 三 県 の 人 十 の 京 ゞ 三 二 都 を か 府 と お 所 五 大 救 を 県 阪 い 、 に 府 に 巡 あ 、 な る る 和 る も 観 歌 時 の 音 山 八 か 所 お 遍 路 の 旅 に 出 て い ま し た 。 山 崎 庄 兵 衛 は 、 西 国 三 十 三 観 音 霊 場 巡 礼 と 四 国 八 十 江 戸 時 代 の 四 国 さ い ご く 観 音 霊 場 巡 礼 と 稲 村 の 山 崎 庄 兵 衛 、 ) 詣 る わ が 身 を 助 け ま し ま せ 「 吉 朗 次 」 稲 村 の 海 老 原 総 本 家 で す 。 、 薬 師 堂 、 霊 場 は 個 人 所 有 で ( 明 和 五 年 ( (1768) 」 ) ) 四 国 し こ く お 遍 路 の 旅 ( ) の 四 月 か ら 七 月 に か け て 、 稲 村 の 9 / 12 雁 金 山 の 合 戦 に 「 稲 村 の 陣 屋 よ り 蛯 原 但 馬 」 と い 城 山 、 五 十 七 番 辺 り 。 馬 場 山 、 現 在 の 地 図 上 に 山 の よ う な 地 形 跡 が な い 。 い る 。 延 喜 11 年 負 っ て き た 、 と い う 鐘 が あ り 国 重 要 文 化 財 と な っ て (911) は 実 に 頼 も し き 人 と 生 ま れ て は 、 業 病 難 病 に 罹 る 程 此 の 海 老 原 の 姓 は 、 昭 和 の 初 期 頃 「 蛯 原 」 を 縁 起 の 良 ( 世 の 苦 患 は 無 い 、 ど う か 諸 病 を 除 け て 下 さ る よ う 一 心 こ い 「 海 老 」 に 変 え る 家 が 多 く あ っ た よ う で す 。 「 め て 自 他 共 に 御 願 い を 致 し ま す 、 戦 時 中 こ の 薬 師 堂 は 、 疎 開 し て き た 人 達 が 暮 ら し と 年 号 が 刻 ま れ て い た 。 あ っ た と 言 う ? あ る 。 境 内 に 住 ん で い た と い う 赤 亀 が 、 竜 宮 か ら 背 古 戸 城 、 江 戸 川 学 園 の ふ れ あ い 道 路 辺 り に 城 郭 が 延 光 寺 は 土 佐 国 と 伊 予 国 の 境 に 位 置 す る 宿 毛 市 に 城 の 台 、 現 在 五 十 六 番 の 辺 り 。 四 国 移 し 延 光 寺 に つ い て ご 本 尊 、 薬 師 瑠 璃 光 如 来 第 四 十 番 、 稲 村 山 連 竹 院 薬 王 寺 廃 寺 ) 、 ( 、 薬 師 堂 堂 も 本 尊 も な い 、 ) は 個 人 所 有 だ が 放 棄 し て い る 。 で し ょ う 。 2003 第 三 十 霊 五 場 番 ( ご 本 尊 、 薬 師 如 来 ) 移 し 寺 、 高 知 の 医 王 山 清 瀧 寺 、 ( 御 詠 歌 、 澄 む 水 を 汲 め ば 心 の 清 瀧 寺 号 と し て 一 部 あ る 。 城 の 内 、 現 在 三 十 五 番 の 辺 り 。 で 佛 実 和 稲 あ に に 讃 に る 捧 美 訳 は 。 げ し 、 た い 清 城 な 景 澄 の ら 色 の 名 ば で 水 の 我 あ が つ が る 羽 く 心 、 衣 地 の 清 岩 波 清 瀧 の 名 ら 寺 に 花 が 当 か の た 散 残 さ 澄 る っ は ん っ て 岩 て 言 だ 波 の い う 水 の 羽 た に を 花 衣 、 言 汲 が 現 え み 咲 在 ざ 取 き も る り 散 事 御 る 屋 、 が 、 明 治 13 年 10 月 陸 軍 二 万 分 一 地 図 に あ り ま し た 。 す 、 取 手 市 野 々 井 と 柏 市 土 谷 津 の 渡 し 舟 「 野 の 渡 し 」 墓 地 か ら 利 根 川 対 岸 の 柏 市 布 施 と 土 谷 津 が 望 め ま な ど を 、 毎 年 交 代 で 行 っ て い た そ う で す 。 が あ り 、 お 膳 や 御 供 物 の お 供 え 、 お 遍 路 さ ん の 接 待 又 、 昭 和 時 代 迄 は 大 師 堂 の 世 話 役 と し て 会 番 制 度 て い た そ う で 、 か な り 大 き な お 堂 で あ っ た そ う で す 。 5 月 23 日 に 二 十 三 番 札 所 の 摂 津 国 中 山 寺 に 参 詣 巡 礼 に 入 り ま す 。 音 一 番 札 所 の 那 智 札 所 実 方 院 に 詣 で 、 以 後 西 国 観 音 そ し て 江 戸 を 出 て か ら 23 日 目 の 四 月 晦 日 、 西 国 観 ず 訪 れ た 様 で す 。 旅 の 帰 り 道 で も あ る の で つ い で に 巡 礼 が 無 事 終 わ ろ う と し て い る 、 お 礼 参 り と し て 必 て い ま し た 。 次 い で 23 日 に は 伊 勢 神 宮 内 宮 と 朝 熊 岳 に 参 詣 し の 清 浄 光 寺 遊 行 寺 ) す る と 瀬 戸 内 海 を 渡 り 四 国 に 入 り ま す 、 こ こ か ら は ( 四 国 お 遍 路 と な り ま す 。 ) ま 西 お す 一 に の ま 27 す 国 遍 。 番 十 向 切 り 四 日 。 観 路 7 藤 七 か 幡 、 国 音 は 月 井 番 い 寺 八 お に 二 満 13 寺 妙 ま か 十 遍 は 十 願 日 か 照 し ら 八 路 西 七 成 、 ら 寺 た は 番 は 国 番 就 七 は 、 。 逆 の 七 三 か と 十 ほ 十 さ 大 十 十 ら な 七 ぼ 六 打 窪 八 三 り 番 再 順 ち 寺 番 番 番 、 観 び 番 で ま 札 札 の 西 7 所 通 音 で 所 美 逆 は の 月 の り 寺 国 濃 順 順 讃 観 16 讃 に を 国 音 日 岐 札 参 で に 岐 華 詣 霊 所 、 廻 国 の 国 厳 し 場 を 一 り 郷 播 道 寺 巡 磨 隆 廻 た 番 、 照 に 後 礼 っ の 次 寺 寺 国 参 は に て で 霊 に か 円 詣 戻 教 四 い 、 山 十 ら し 十 り ま 国 寺 番 始 寺 、 、 ( 西 国 巡 礼 も 満 願 成 就 を 迎 え ま す 。 ) な か で き る こ と で は あ り ま せ ん で し た 。 江 戸 を 出 て か ら 百 十 二 日 目 で し た 。 ( 以 後 取 手 に 戻 る ま で の 足 取 り は 不 明 で す 。 に 、 12 日 に は 三 島 大 社 に 参 詣 し 、 道 を 西 に 上 り 、 十 日 に は 、 時 宗 の 総 本 山 で あ る 藤 沢 四 月 八 日 に は 江 戸 の 寛 永 寺 と 浅 草 寺 に 参 詣 し 、 東 海 っ た と 言 え ま す 。 仰 心 に 加 え て あ る 程 度 の 経 済 力 が あ っ た の で 可 能 だ 納 経 帳 に よ れ ば 、 稲 村 出 立 の 日 は わ か り ま せ ん が 、 当 時 こ れ だ け の 巡 礼 と 遍 路 の 旅 に 出 る こ と は 、 な か と し て 使 わ れ て い ま し た 。 明 治 時 代 、 稲 戸 井 村 尋 常 小 学 校 野 の 井 校 の 仮 校 舎 来 立 像 で あ り 、 待 合 所 に 祀 ら れ て い ま す 。 し か け 大 師 」 が あ っ た と い う 、 昭 和 の 時 代 は 薬 師 如 女 僧 の 創 建 と 聞 く 、 小 堂 の 脇 に 小 さ な 大 師 堂 「 こ 楽 に 行 く の を 待 つ の み で あ る 。 よ 々 此 の 世 を 出 立 し た う え は 阿 弥 陀 如 来 の 御 誓 い の 極 現 世 で は 、 大 慈 大 悲 の 観 世 音 菩 薩 の お 恵 み に 縋 り 、 い 伊 豫 菅 の 山 地 で も あ り ま す 。 和 讃 訳 、 歌 に 「 す が う さ ん 」 と 詠 ん で あ る は 、 此 の 山 里 に つ い に は み だ の ち か い を ぞ 待 つ 御 詠 歌 、 い ま の 世 は 大 悲 の め ぐ み 管 井 山 移 し 寺 、 愛 媛 県 菅 生 山 大 宝 寺 、 ご 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 10 / 12 第 四 十 四 番 、 大 野 山 教 王 院 西 光 寺 、 創 建 不 明 。 坂 東 観 音 巡 り で は 善 光 寺 と 北 向 観 音 を 訪 れ ま す 。 現 在 で も 、 こ の 風 習 は 残 っ て お り 、 秩 父 、 四 国 、 寄 っ て し ま お う と い う こ と で す ね 。 に つ い て は 、 関 東 や 東 北 地 方 の 旅 で は 信 州 善 光 寺 を 江 戸 時 代 の 四 国 三 十 三 観 音 や 四 国 八 十 八 札 所 巡 り 百 十 二 日 目 以 降 の 旅 に つ い て 補 足 。 稲 村 山 崎 家 伝 古 文 書 山 崎 家 は 稲 村 で 村 役 人 を 務 め る 家 で し た の で 、 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 西 光 寺 を 訪 れ た 時 の 様 子 を 記 し た 小 林 一 茶 の 日 記 信 以 来 か ら の 棟 札 が 残 言 い 換 え れ ば 苦 は 楽 の 種 。 に 白 布 が 張 ら れ 竹 の 柄 杓 ひ し ゃ く が 置 か れ る 、 白 り の 多 い 田 圃 の あ ぜ 道 に 青 竹 四 本 が 立 て ら れ そ の 上 流 産 や 産 後 の 肥 立 ち が 悪 く 幼 く し て 死 す と 、 人 通 養 老 二 年 長 束 三 兄 弟 が 加 賀 国 の 白 山 神 社 を る 世 界 を 逃 れ れ ば 逃 れ る 程 、 真 見 の 佛 陀 で あ る へ 御 詣 り し て 心 の 垢 を す す ぎ 、 此 の 迷 へ 11 / 12 は 、 白 露 な の か 、 否 や 一 の 宮 で あ る と 敬 う 歌 で 此 の 一 の 宮 和 讃 訳 、 今 日 晴 れ 渡 る 五 月 雨 に 湧 き ま し 出 ず る 玉 の 井 し ら つ ぼ な る や 一 の 宮 か わ 御 詠 歌 、 さ み だ れ の あ と に い で た る 玉 の 井 は 移 し 寺 、 愛 媛 県 天 養 山 宝 寿 寺 、 ご 本 尊 、 白 山 姫 命 と 十 一 面 観 世 音 菩 薩 、 第 六 十 二 番 り 、 や が て は 往 生 浄 土 の 楽 し み が 現 れ て い る 。 の 花 が 咲 き 、 心 の 苦 し み 消 え 果 て て 福 壽 無 量 の 身 と ぞ な 貧 し き 暮 ら し を し た け れ ど 今 は 佛 法 に 帰 依 し て 心 に 法 を 云 う た の で 、 此 の 現 世 に 憂 い 、 辛 い 、 ひ も じ い 、 不 幸 な 上 で 、 御 詠 歌 の 意 味 は 、 遊 び の 道 と 云 う は 此 の 現 世 の 事 仰 ぎ 見 る 姿 は 、 愛 ら し く 一 度 見 る と 忘 れ ら れ な い 。 子 立 像 は 有 名 で 、 つ ぶ ら な 瞳 で 小 首 を か し げ て 空 を い る 。 更 に 運 慶 の 息 子 湛 慶 た ん け い 作 の 善 膩 師 童 師 如 来 と 脇 侍 の 日 光 ・ 月 光 菩 薩 は 運 慶 作 と 言 わ れ て 、 白 山 神 社 、 善 膩 師 童 子 は 、 毘 沙 門 天 と 吉 祥 天 の 子 で す 。 ょ う 、 相 馬 や 信 州 の 風 習 で し た 。 小 林 一 茶 「 七 番 日 記 」 よ り 、 流 れ 灌 頂 な が れ か ん ち ( 勧 請 し て 創 建 、 享 保 12 年 で へ 迎 中 り 創 守 す 帰 え 供 ま ポ 当 建 長 谷 。 そ た 出 す ッ 初 永 福 う 。 さ 。 ク は 禄 寺 の 」 そ れ 鐘 リ 白 二 は 西 と の た 楼 観 山 年 、 林 延 な 後 が の 音 神 寺 喜 、 り 、 の 社 鐘 64 山 鉄 は 他 の 二 長 世 梨 と 安 に 別 承 年 福 の 寺 の し 永 、 当 応 義 に 善 て 五 呆 寺 上 鳳 戻 住 溶 年 け で 人 守 上 っ 寺 か 除 あ に 谷 人 に さ て け っ よ の 、 渡 れ き 不 た っ 西 俳 た っ る の 動 。 て 林 号 開 寺 鐘 た 直 も 堂 鶴 山 末 で が 前 の 、 老 。 寺 あ 、 「 に で 鐘 か る 元 終 、 楼 と く そ の 戦 戦 が し ろ う 寺 を 時 あ て 紙 に く る ま れ た 髪 毛 と 櫛 等 が 別 の 青 竹 の 白 布 に 置 か ) さ れ て お り 、 神 社 の 改 装 や 屋 根 の 葺 替 え 修 復 の 歴 史 れ 、 塔 婆 が 立 つ 。 ( を 知 る 貴 重 な 資 料 と な り ま し た 。 う は 、 俳 人 小 林 一 茶 の 師 匠 で し た 、 鶴 老 は 晩 年 隠 居 旅 人 は 柄 杓 で 田 の 水 を 白 布 に 掛 け る 事 に よ り 白 布 ) ㎝ の 土 塁 こ の 神 社 に は 、 本 能 寺 城 の 城 跡 の 言 い 伝 え が 残 っ と し て 余 生 を 送 っ た 居 で あ り ま す 。 は 褐 色 に 変 わ り 、 色 が 変 わ り 百 日 以 上 経 過 し て い れ ) て い る 、 境 内 を 囲 む よ う に 高 さ 50 ㎝ ~ 天 保 四 年 三 月 十 三 日 没 、 お 墓 は 西 林 寺 に あ り ま す 。 茶 つ み 唄 一 茶 ば 、 そ の 霊 は 浮 か ば れ る と 信 じ ら れ て い ま し た 。 (902) 「 筆 子 の 碑 」 不 動 堂 の 脇 に あ る 。 し ご き 棄 て て も し ね 道 八 ナ た ば を 幡 一 ム 。 な 間 を 茶 ア ら 違 訪 が ミ な え れ 、 ダ く 、 た 文 な 西 時 化 ナ り 林 、 八 ム 、 寺 守 年 ア 流 へ 谷 三 ミ れ 行 の 月 ダ 灌 く 西 二 ブ 頂 為 林 十 と に に 寺 二 こ 出 田 か 日 き 会 圃 ら 頃 茶 う の 布 に 哉 こ あ 川 西 と ぜ へ 光 に 道 の 寺 な を 途 と り 行 中 惣 ま か で 代 (1559) 筆 子 と は 勉 強 を 教 え た 師 匠 先 生 に 対 す る 感 謝 の 木 曽 山 や (1775) が 廻 っ て い て 、 本 能 寺 と は 、 堀 之 内 の 転 訛 し た も の 、 野 の 井 の ぽ っ く り 観 音 、 「 晴 れ 、 野 々 井 村 西 林 寺 に よ り て 聞 ・ ・ 」 伝 々 に 、 (718) と 考 え ら れ て い ま す 。 取 手 市 史 よ り 添 え ら れ て い ま す 。 (1727) 又 、 こ の 神 社 に は 神 主 が い な い た め 、 週 一 度 の 境 念 で 建 立 さ れ ま し た 、 女 生 徒 か ら の も の で す 。 第 三 十 三 番 170 内 掃 除 が 会 番 に よ っ て 行 わ れ て い ま し た 。 長 福 寺 の 寺 小 屋 は 、 西 林 寺 の 僧 侶 が 師 匠 と な り 多 青 野 山 不 動 院 長 福 寺 、 住 職 は 法 要 時 の み 来 寺 。 ( く の 生 徒 を 育 て た の で し ょ う 、 千 葉 県 柏 や 守 谷 、 藤 ) 本 殿 の 彫 刻 は 会 番 に 頼 む と 見 せ て く れ る 、 女 性 は 代 の 広 範 囲 に わ た り 多 く の 生 徒 が 集 ま っ て き た よ う ご 本 尊 、 阿 弥 陀 如 来 ( 「 駄 目 」 と い っ て い た が 現 在 で は 表 向 き の 様 で す 。 移 し 寺 、 高 知 県 高 福 山 雪 渓 寺 、 ) で す 。 寺 小 屋 は 「 野 の 渡 し 」 の 近 く に あ っ た 様 で す 。 四 国 の 雪 渓 寺 に つ い て 本 殿 の 壁 に は 中 国 の 二 十 四 孝 の 彩 色 の 彫 刻 が 3 面 の ち の 楽 し み 有 明 の 月 御 詠 歌 、 旅 の 道 う え し も 今 は 高 福 寺 ) あ り ま す 。 和 讃 訳 、 雪 蹊 寺 の 御 本 尊 は 薬 師 如 来 」 に て 、 弘 法 大 師 様 ( 雪 渓 寺 に は 薬 師 三 尊 が 祀 ら れ て い る 、 御 本 尊 の 薬 の 御 作 で あ り 、 開 基 で あ り ま す 。 ( 歌 に 「 高 福 寺 」 と あ る は 、 寺 の 山 号 を 幸 福 と 云 い な し た 武 士 の 流 鏑 馬 や ぶ さ め の 騎 射 き し ゃ に た い し ( ) て 農 民 が 的 を 弓 矢 で 射 て そ の 年 の 豊 饒 ほ う じ ょ う ) 「 を 以 野 奉 占 下 々 社 う 、 井 」 歩 の の 射 オ 字 ぶ 年 ビ も し の シ あ ゃ 野 ャ て の は ら に 井 、 れ 由 白 女 る 来 山 性 。 す る 神 禁 と 社 制 で の 云 の 御 わ 体 祭 れ 験 り て よ で い り し ま 。 た す 。 。 ) 子 宝 授 受 祈 願 の 祭 が 始 ま る 。 「 魚 篩 ふ る い 」 と い ( う 古 式 を 簡 素 化 さ れ た 方 式 に 変 わ っ て い ま す 。 ( 2 つ の 部 落 毎 に 行 わ れ 、 同 じ 事 を 2 回 行 う 事 に な ) る 。 子 供 は 「 酒 膳 」 を 持 ち 背 後 の 男 と 一 緒 に 、 神 官 ( の 前 で 酒 膳 か ら お み き を 注 ぐ 。 利 根 川 流 域 で 盛 ん に 行 わ れ る 二 十 日 正 月 の 農 耕 神 事 。 お び し ゃ 、 オ ピ シ ャ 、 オ ブ シ ャ と 云 わ れ 、 と く に で 静 か に 厳 か に 行 わ れ ま す 。 れ て い ま す 、 夏 の 祭 り に 比 べ る と 、 派 手 で な く 質 素 毎 年 、 一 月 の 第 3 日 曜 日 に 、 オ ビ シ ャ 祭 事 が 行 わ お び し ゃ 取 材 ノ ー ト く が お が 「 さ 境 の 祭 ズ ッ 感 お 打 止 矢 る 的 可 神 神 飾 日 と ぎ 本 内 こ よ で ー ク 3 じ 互 う ち ど め ら れ て い る 。 り 」 本 殿 右 側 西 が 祀 ら れ て い る 。 」 本 殿 左 側 東 、 同 じ く 左 側 奧 に は 月 天 が っ て ん 殿 の 後 ろ の 右 側 奧 に 日 天 に っ て ん 本 来 は 「 う で 行 わ れ ま す 。 に そ れ ぞ れ 分 離 独 立 し て い る 。 イ リ と ズ も イ 言 H う そ が の 男 も の の 勃 」 起 を シ 露 ャ 骨 ッ に ク 表 リ す 、 女 男 の だ 快 け 感 の 、 島 神 社 、 青 龍 神 社 、 鷲 神 社 、 白 山 神 社 を 合 祀 し て い 第 六 神 社 、 同 44 年 に 浅 間 神 社 、 大 正 2 年 と れ ま し た 。 明 治 五 年 に 村 社 に 列 し 、 明 治 41 年 (1908) る 。 尚 、 大 正 2 年 に 合 祀 さ れ た 4 社 は 、 昭 和 22 年 回 繰 り 返 さ れ る 掛 け 声 の 意 味 は 、 「 ボ ッ コ リ ム (1872) 12 / 12 境 内 の 社 殿 は 、 明 治 以 降 2 度 に 渡 り 焼 失 し て お り 、 の 男 の 子 へ の 日 本 古 来 の 性 教 育 に 通 じ る 掛 け 声 (1913) 台 宿 の 不 動 堂 第 四 番 、 相 馬 霊 場 御 朱 印 現 在 の 社 殿 は 平 成 に 再 建 さ れ て い ま す 。 う で し た 。 (1947) 別 当 は 、 守 谷 の 西 福 寺 が 勤 め て い ま し た 。 の 後 、 五 穀 豊 穣 の 行 事 で 「 鳥 討 ち 、 鳥 お い 」 が ( 天 月 天 共 に 、 各 部 落 か ら 持 ち 寄 っ た 「 鳥 の 的 井 」 ) 官 は 、 弓 矢 で 的 を 射 ぬ く の だ が 、 魚 ふ る い で の ( 酒 で 酔 い 、 手 元 が 定 ま ら ず 、 矢 が 当 た ら な い の ) 笑 し く 、 大 笑 い と な る 。 ) を 射 ぬ く と 、 天 空 に 向 け て 矢 を う ち 、 落 下 し て ( 矢 を 、 村 中 の 人 々 が 競 っ て 取 り 合 い ま す 。 ) 立 寄 り ま せ ん を 手 中 に し た 部 落 は 、 そ の 年 は 豊 饒 と な る 。 ( 惣 代 八 幡 神 社 、 相 馬 霊 場 の 御 朱 印 は 、 一 部 が 残 っ て い る 程 度 で 神 官 は 2 つ の 部 落 の 酒 膳 か ら お み き を 受 け そ れ ぞ ) 全 て を 揃 え る こ と は 出 来 ま せ ん 。 れ の お み き を 黒 椀 の 中 に 混 ぜ 会 わ せ そ れ を 飲 み 干 し ( 京 都 の 石 清 水 八 幡 宮 か ら 創 守 立 谷 。 町 の ま す 。 神 官 が 両 手 を 広 げ る と 一 斉 に 「 ボ ッ ク リ シ ャ 2006 ご 祭 神 、 村 社 、 誉 田 別 命 、 大 同 2 年 ッ ク リ ズ ー イ ズ イ 」 と 掛 け 声 が か か り 同 時 に 子 供 は ) 2015 年 5 月 24 日 新 四 国 相 馬 霊 場 八 十 八 ヶ 所 を 巡 り 大 同 2 年 ゆ っ く り と 3 、 4 歩 後 ず さ り し 再 び 「 ボ ッ ク リ シ ャ ( 2015 年 6 月 6 日 一 部 訂 正 ご 参 加 あ り が と う ご ざ い ま し た 。 西 林 寺 二 世 寛 海 が 勧 請 し た の が 始 ま り と さ れ て い る 。 ッ ク リ ズ ー イ ズ イ 」 で 神 官 の 前 に 戻 っ て く る 。 ) 又 、 平 将 門 の 崇 敬 を う け た と 語 り 継 が れ て い る 。 同 じ 行 為 を 3 回 繰 り か え さ れ た 後 、 左 右 の 子 供 が ( の ち に は 守 谷 城 主 相 馬 家 の 氏 神 と し て 祀 ら れ た 。 入 れ 替 わ り そ れ ぞ れ の 子 供 は 相 手 の 部 落 の 参 加 者 に ) 『 寛 文 朱 印 留 』 に よ る と 「 八 幡 宮 領 」 と し て 「 五 石 」 酒 を 振 る 舞 い 、 終 わ る 。 ( 2 人 の 子 供 か ら 受 け た 、 そ れ ぞ れ の お み き を 黒 椀 (807) に 移 し て 混 ぜ る と い う 行 為 の 意 味 と 最 後 の 子 供 が 相 (807) 手 の 部 落 の 参 加 者 に お み き を 振 る 舞 う と い う 行 為 に 、 に 鹿 に い の 部 落 へ の 好 意 的 交 換 と 和 合 を 願 っ た も の を の 朱 印 地 を 賜 わ っ て い る 。 コース地図1 コース地図2 コース説明 取手駅(WC)-白山の弘経寺-諏訪宮-53 番 金刀比羅神社-取手市役所(WC)-稲村の 57 番 80 番-56 番-稲観音-稲集会場-35 番-39 番 寺田の惣代八幡-野々井の西光寺-ぽっくり観音 野々井白山神社-常総線ゆめみ野駅 常総線ゆめみ野駅解散、午後 12 時 30 分頃になる予定です。 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会 ホームページ:http://88souma.com 2015/05/24 ©
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