NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年1879年 Author(s) 藤田, 暁男 Citation 研究年報, (15), pp.19-49; 1974 Issue Date 1974-09-30 URL http://hdl.handle.net/10069/26405 Right This document is downloaded at: 2015-05-02T17:31:59Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 19 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年―1879年 イギリス資本主義経済の変動と植民地 インドの鉄道建設 1844年―1879年 藤 田 暁 男 (1} はしがき ② イギリス綿業資本と旧元利保証制鉄道会社 (3)インド政庁財政と政府鉄道の展開 ㈲ 結びにかえて一「自由貿易帝国主義」論争とインド鉄道建設 (1)はしがき 19世紀イギリス資本主義の歴史的発展において,植民地インドの経済的役割の主な点は, 端的に,最も確実な商品市場,原料の供給地,資本輸出先であった,と云うことができ よう。そして,それらの要因の確実さは,アメリカやヨーロッパと異り,イギリス帝国の 強力な植民地経済政策によって獲得されたものであった。その植民地政策は,どのような 動因によって,どのような形態でなされ,どのように変転していったのであろうか。本稿 は,その問題を,その政策の基軸とみなされている鉄道建設政策から考察してみようとす るものである。むろん,その問題の全てを鉄道建設政策の考察のみによって明らかにしう るわけではないが,鉄道建設が,市場開拓,原料獲得,資本輸出のどの要因にも密接にか かわるかなめ石的存在であることを考えれば,それはこの問題の解明にとって極めて有効 な対象とみなしうるであろう。この考察において特に注意を払った点は,イギリスの産業 循環,イギリス資本家の要求,イギリス本国政府とインド政府の態度,といった諸事象と インド鉄道建設との関係である。そして,そこには,資本主義社会の展開の典型とみなさ れている時代において,自由競争下での資本主義社会の発展(より具体化された形におい ては産業循環)と国家の経済における役割,および非資本主義的地域の役割をどのような 関連において,考えるべきかという理論的関心が伏在している。 わが国における19世紀インド鉄道建設史にかんする重要な業績は,松井透,牧野博,角 (注ユ) 山栄の諸氏によって発表されている。それらはいずれも,ほゴ鉄道建設史第一期(旧元利 保証制鉄道建設期)の1860年代までを中心とする考察であるが,それぞれ独自の史料と論 点を持って居り,本稿も多くの示唆を得ている。 私の見ることのできた限られた範囲の外国文献の中で,重要と思われるものは,C. P. (注2) Tiwari, N. Sanya1, R.Dutt, D. Thorner, W. J. Macphersonの諸氏のものである。 殊に,全インド鉄道会議会長(1921年)Tiwari氏の著作は,その序文に云うように,イン 20 ド人による最初の本格的なインド鉄道史研究書であり,一次資料を豊富に使った内容のあ る労作である。また,Calcutta大学交通論講師(1930年)Sanya1氏の著作(London大 学博士論文)は,やはり豊富な一次資料に依拠して,詳細でかつ整理されたモノグラフで ある。本稿もこの二二に依るところ大きい。 注(1)松井透「イギリス帝国主義とインド社会一鉄道建設を焦点にして一」『世界歴史』22,岩波講 座(1969年) 牧野博「イギリスの対インド鉄道投資一1849−1868年一」『経済学論叢』 (同志社大学)第 19巻第14号(1970年) 角山栄「『自由帝国主義』時代におけるインド・ルートおよびインド鉄道建設とイギリス資 本」『経済理論』(和歌山大学)第126号(1972年) ・ (2)C.P. Tiwari, The Indian Railways :Their Historical, Economical and Ad− ministrative Aspects.(Almer 1921) N.Sanya1, Development of Indian Railways (University of Calclltta l930) R.Dutt, The Economic History of India in the Victorian Age(Routledge& Kegan Paul lst ed.19Q3,1906, rep.1950) Daniel Thorner,‘‘Great Britain and the Development of India’s Railways” ノ。π撒αZo∫Ecoηωπゴ。 H∫5オorツ, XI(Fall l951) W.J. Macpherson,“lnvestment in Indian Railways l845−75”Tん6 Ecoηo而。 H∫5≠orッR6窃θω, Second Series, Vo1.㎎ (19S5) ② イギリス綿業資本と旧元利保証制鉄道会社 イギリスはインドにおいて,18世紀末より,主として政治力と領域の拡大および軍事的 支配の要請から,道路建設に力を注いでおり,1840年代には約3万マイル建設されたとい う。この道路に沿って馬に引かせる軌道がMadrasに現われたのは30年代初めであり, 30年代後半に鉄道建設にかんする政治的,経済的,技術的な様々な観点からの論議もインド (注1) で始まるのである。同じ頃,イギリスは既に「鉄道時代」が開幕しており,フランス,ド イツ,ベルギー,アメリカ,ロシア等でも鉄道建設が開始され,イギリス,フランス,ア (注2) メリカでは蒸気力による鉄道が出現していた。 インドにおいて,本格的な鉄道建設計画が出現するのは1840年代初めであり,1844年は The East Indian Railwayの設立者Mr. M. StephensonがCalcuttaから西北辺境地 域へ向う路線計画をBenga1政府へ提示した年であった。その他Bombayなどでも様々 な形での計画が東インド会社(The East India Cornpany)や地方行政当局へ出され, (注3) 40年代半ば頃から,それらインド支配機構の中にも鉄道熱が高まっていったのである。 これらの動きは,1845年10月次降,実験的鉄道計画の具体化のため東インド会社により インドへ送り込まれた技術者Mr. F. W. Simmsの活動開始と共に具体的な姿をとり始 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 21 めた。東インド会社は,Mr. Simmsの46年の「覚書」に示されているように,イギリス 政府のインド監督局(Board of Contro1)へ土地の無償三三,無税など多くの援助を要請 しながら,会社の運営については,鉄道会社が自主的に行う形を提示していた。また,東 インド会社取締役会が特に強く要請していたことは,資金を集めるために不可欠の手段と して,出資者に対するイギリス政府の一定の利子保証であった。しかし,インド監督局は, 政府経営でない会社形態での鉄道建設については認める方向へ動いたが,高率の利子保証 制度には強い異議を唱え,東インド会社と真向うから対立し,建設計画は容易に進展しな (注4) かったのである。このような計画の停滞に強力な圧力を直接に加えたのは,当時のイギリ (注5) スの政治,経済に大きな主導性を確保していたイギリス綿業資本であったが,今少し広い 視野からイギリスの圧力をみておくことにしよう。 1840年代前半のイギリス経済は,アヘン戦争(1840∼42年)で得た最恵国待遇などの利権 を踏台に,中国市場への輸出拡大とその他のアジア市場の拡大によって,綿業に主導され た活況を呈していた。この綿業の好調を基礎に,既に30年代の第一回の鉄道ブーム以後投 資対象としての有利性,安全性を獲得しつつあった鉄道会社への期待が膨脹し,44∼46年 に第二回の一大鉄道ブームが出現する。このような好況を1847年の恐慌に向わしめたもの は,次の諸要因であった。(1)アジア市場への輸出の鈍化,②アメリカの綿花不作を主な原 因とする原綿価格の高騰,(3>45∼46年の激しい凶作による穀物価格の高騰と穀物輸入投機 が47年置伶予想により崩壊したこと,(4)鉄道株投機が鉄道認可に必要な政府供托金納入の (注6) ための追加払込の困難を契機に崩壊へ向つたこと。 このような状況の中で,アメリカ綿花に原綿の約80%を依存(付表3)していた綿業資 本は,綿花供給の安定,特に価格安定のための追加的供給源としてインドの開発を本格的 に開始するのである。そのフ。ログラムは,1848年2月Lancashireを主軸とするイギリス 綿業資本の要求によって設置され,その先頭に立っていたJ.Brightを委員長に据えた 「インド綿作調査特別委員会(Select Committee on the Growth of Cotton in India)」 の報告書において提示された。このようなインド綿花の開発は,当時の綿業の動揺に決定 的影響力を持っていた原綿価格を安定化させるという,一つの「恐慌対策」の意味を持つ (注7) ていたのである。そしてインド内陸運輸手段の開発,特に鉄道建設は,そのプログラムの 重要な柱であった。 さらに,綿業資本のインド鉄道建設の要求は,単に原綿供給源の開発にとどまるもので はなく,綿製品輸出総額の約去を占めるインド市場が,40年代後半停滞していることに対す (注8) る対策でもあった。インドの民衆に真に必要なものはむしろ灌概のための運河であったが, イギリスの資本家はインド内陸へより早く大量に生産物をばらまくために鉄道建設を優先 (注9) したのである。このように,インド鉄道建設は,ユ9世紀後半のイギリスのインド支配の第 一の経済的動機とも云うべき原料と市場の開拓に不可分の形で登場したことが留意されね ばならない。 22 さらにまた,前述したイギリスの鉄道ブームと恐慌におけるその崩壊は,インド鉄道建 設の本格的開始を促がすものであった。というのは,鉄道ブームはイギリスの中産階級投 資家に鉄道株への志向を強めさせ,その崩壊は対外投資への意欲を高めたと考えられるか らである。加えて同じ頃,ヨーロッパ大陸への投資も,その政治的混乱の故に減少しつつ (注10) あった。また,後述するように,1850年代以後の本格的なインド鉄道建設の土台を築いた Lord Dalhousieの次のよう・な事情にも注意したい。彼は,1840年代半ばの鉄道ブーム;期 に商務長官(Pres.of Bord of Trade)として投機的拡大を鉄道局を通して抑制し,政府 介入のもとで実質的な鉄道拡大政策を展開しようとしたが,自由放任主義者の反対で果せ なかった。彼は,その「鉄道マニア」としての志向をインドにおいて現実化させるのであ (注11) る。この,1848年インド総督(the Govemor−General of India)着任後の事情は,1840年 代のイギリスの鉄道ブームがインド鉄道建設に直接的な影響を与えていることを象徴的に 物語っている。 さて,以上のような1840年代後半におけるイギリス資本のインド監督局への圧力によっ て,監督局はしぶしぶ,利子保証の条件を出資に対し5%に,その継続期限を25年にそれぞ れ引き上げて,計画は実現にふみ出した。こうして,1849年The East Indian Railway Co.(The East India Co.の小会社)とThe Great India Peninsula Railway Co.が設 立され,後者が1853年4月BombayとThana間20.5マイルに,インド最初の鉄道を開 (注ユ2) 通させたのである。 更に,1848年1.月Lord D alhousieの総7督着任によって,インド鉄道建設は,藩王国併 合政策の強行と共に,単なる植民地特権会社の事業としてでなく,政府の植民地政策の重 要な一環としての展開を始める。Lord Dalhousieは,1850年に鉄道政策に関する基本方 針の要点を明らかにするが,更に整理して,1853年「覚書」を提示している。そこで示さ れた鉄道建設の目的はほゴ次のようなものであった。 α)インド帝国のあらゆる地点に対して,軍事的即応力を著るしく高めること。 ② イギリスの資本と企業をインドへ運ぶこと。 (3) 「現在の見通しが立たない」状態のインドに商業的,社会的有用性を作りあげること。特に次 の点に注意しつつ一 (a}インドの大きな輸送路に溢れて処理できないような生産物を運鍛すること。 (b》イギリスがその工場のために声高に要求して来た綿花の生産を増大させること。 (c) 「インドの最も遠方の市場に」そして「我々の開拓線を超えて」,ヨーロッパの商品を広く 送り込むこと。 (注ユ3) (d)世界の各地から生産物を求めて来た船のひしめく港へ,内陸から生産物を運び出すこと。 Lord Dalhousieは,このような鉄道政策を西洋世界で起ったような社会改善と類似の (注14) 進歩をもたらすものとみていたが,それがいかにイギリス支配者の独善的な考え方であり, イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 23 むしろ,イギリス資本の強い要求を担ったものであったかは,その後の展開がよく示して いる。この点で特に注意すべき点は,この方針には,インドあ産業と民衆の貧困の中につ つ走る巨大な鉄道が,インド経済の再生産にどのようにかかわり,ひいては,鉄道企業の 再生産,運営維持,定着がどれほど可能であるか,といった配慮が殆んどなされていない ということである。インドの実態を無視し,インド経済の再生産や鉄道企業の再生産を度 噛外視した,植民地支配者の全く独善的な方針であった。 このことは,この方針の具体的な表現である,政府と鉄道会社との間に交わされた「契 約」内容にも示されている。この「契約」は,1849年に主要な内容歩作られ,以後59年ま でこの前例に沿って会社設立が行われた。この「契約」を認める法のもとに設立された鉄 道会社が,いわゆる旧元利保証制鉄道会社(01d Guaranteed Railway Co.)であり, 1860年代にこの会社制が一旦停止され,80年代に再導入されるといった,あまぐるしい変 転をみせたインド鉄道史上最初の鉄道建設・運営主体の形態であった。そして,その「契 約」内容はほぼ以下のようなものであった。 (1)政府(直接にはインド行政当局)は全ての鉄道に土地を準備し,99年間地代をとらない。 (2)鉄道会社は資本を全額払込まねばならない。それに対し政府はLondonにおいて年々支払われ る5%の利子を保証する。 (3)鉄道会社は,ロンドンのそして一部インドの国庫に資本を支払うべきこと,そして,政府は,鉄 道設営目的のためにイギリスとインドで要求される貨幣を融通すべきこと,貨幣の全額は1ルピー 一1シリンダーQペンスの交換率で支払われ,引き出されること。 (4}イギリス人資本家のインド鉄道投資をすすめるため,インド政府は,インドの納税者が負担する ことになる確かな財政的義務を約束すること。 ⑤ 鉄道会社の諸業務は,政府の指揮,統制のもとにあるべきこと。 (6)鉄道によって出された純利益は経営費用(working expenses)を差引き後,まず最初に政府に よって支払われた保証利子の弁済にふりむけること。その場合,1ルピー一1シリング10ペンスの 固定交換率で計算される。いかなる余剰利益(surp!us profits)もこの利子にふりあてられた後 は,全て諸会社で自由に使いうるものとなる。 (7)政府の郵便は無料で運び,政府職員の運賃などには特権を与える義務を負うこと,即ち ㈲ 官職にあるものは2等料金で1等に, (b}軍人やヨーロッパ技術者は拝撃料金で2等に, (c)他のものは最底料金で乗ることができ, (d}貨物の運搬の場合も,食料品や設備は最低の料金とする。 1 (8)鉄道会社が一般に鉄道の使用を弱るす場合は,政府の認可した期問,料金,運賃であるべきこと。 ⑨ 99年間の期限終了時には,鉄道と不動産は全ての負債から解放されて政府の財産となる。そして, 鉄道会社は政府に売却されることになり,政府は,全ての機関車,貨車その他の可動的な財,機械, 鉄道施設を審査人(referees)によって評価された価額で買入することを義務ずけられる。 (1① 最:初25年或は次の50年間の期限後,政府は鉄道を買収する権利を持つ。その場合,当該会社の全 24 ての証券や株式の価額への支払いは,買収日の前3年間のロンドンの平均市場価値によって計算さ れる。 (11)諸会社は,また,鉄道線が少くとも3ケ月間稼働した後は,政府に鉄道を譲渡し,棄権する権利 (注15) を持つ。 後の展開との関連でこの「契約」の次のような特色に注意を向けておきたい。一つは, イギリス資本の投資条件が法外な有利さで設定された点についてである。争点となった保 証利子率5%は,当時のイギリス資本にとってアメリカへの投資などに比べれば最高の条 件ではなかったが,イギリス国内鉄道会社の配当率が下る傾向を持っていたG847年普通 (注16) 株7%,保証・優先株lL8%,1852年普通株3%,保証・優先株5.4%)事情を考えれば, 極めて好条件であったと考えられる。また,インドの悪条件のもとでの利益実現の可能性 からみれば,全く法外な率であったことはその後の状況が示している。 』二つは,鉄道会社の損失が当初から予定され,政府によるその損失負担があらかじあ制 度化された点である。保証利子は政府によってまず立て替えられ,もし鉄道会社が立ちい かなくなった時は政府がしかるべき値で買収に乗り出すという形で,イギリス資本の利益 は政府の負担において確保されることが制度化されたのである。後に述べるように,イン ド財政の支出項目は,公共事業支出項目の中に巨額の鉄道保証利子支払いの項目をこの時 以来持つことになる。ここで特に注意しておくべき点は,旧元利保証制鉄道会社という企業 形態或は鉄道政策は,インドにおける原料と市場のルートの早急な建設と投下された資本 の利益を確保するという,イギリス資本の当面の要求を優先し,その会社の採算,いわば (注17) 企業の再生産は一応度外視されていたという事である 三つは,インドの経済および民衆の利益は軽んじられたばかりでなく,上記のような施 策はインドの民衆の租税負担,主として地税一地代,アヘン収入,塩収入によって支えられ (注18) た点である。46頁の図1に示されているように,ユ849年以降インド財政の収入は急上昇し, 54年より支出の増大と共に更に著しい増大をみせている。57年以後の急激な支出の増大は, 云うまでもなく「大反乱(the Mutiny)」 (セポイの反乱)対策によるものであるが, Lord Dalhousieの藩王国併合,軍事力増強,鉄道や電信の拡充,イギリスのための自由 貿易の推進,等を独善的な方法で強行する政策は,それまで蓄積された民衆の不満を一層 高め,分散的だった暴動を全面的な形にするのに大きな影響を与え,「大反乱」勃発の一 誘因をなしている。鉄道建設が,民衆の負担増大と民衆間の伝達手段の拡大の二面におい (注19) て,この誘因としての少からぬ役割を果たした事に注意を払っておきたい。 上に述べて来たように,インド監督局はインドの鉄道会社の不可欠の構成要素であった が,それは必ずしも監督局の会社に対するリーダーシップが存在したことを意味しなかっ た。「実際は,鉄道会社はインド政庁のうまみのない決定に対して,Whiteha11のイギリス 政府に反対の訴えをすることができたのであり,また,:LondonのCityにおける彼等の 25 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 インド鉄道地図(1882年) Pe awa「 ◎一一 P しほわむ ノ 田薫靴 し ノ O轟L、 ひ}・・ダ枷lta” ’・、 !〆 Moradabod DELH量 ◎・、、 1 ぜ.h「‘ Agra Luckn8w Ajmer ≠ ロた 。。w叩。・・、 ’ ,’,’ 繭置顎K。t・ee Darjeeling _’ ◎ご一一一r.噺王 Hahabad Bena「e5 JhanSl Palanpur oo Gya I Ujjain 命 亀・d。「e u Ahmedabad Baroda 1 Jabbaporo 、H ムし ロアア 孟研Rノ》 B ゆが}e κhandWa ’匁っ Nagpom 誰鵡・ WarOra 80MBAY V Dhond ゆaO Sho』pur いりdO了 8 ゆ / Gooty G・a一、 シ’ぬ薪 も y m Bangalorg 開 通 線 り一。。一一一 嚼ン中 Beypore XXXXXXkX インダス蒸気フロティラ MADRAS Mysore IV P 一 Eas亡Indian Ry. n εasセern Bengal Ry. Calcu雛a & So吐h Eastern Ry. ni w Pondicherry V Cuddalore 幡 Madras Ry. Great Indian Penmsula Ry. Bombay Baroda and Central India Ry. Scinde Ry. Negapatam ㎎ x Tinn6velly 1868年までに開通した 旧保証制鉄道会社線 I Punjab & Delhi Ry Indus Steam Flot111a Great S川them of India Ry. uticorin N.Sanyal, OP. clt., P.3ユ, P.112より R.Dutt, op. cit, p 212, p 373より 亀 (注20) 本拠と共に,一大勢力を構成していった」ことに留意しなければならない。 こうして,旧元利保証制鉄道会社による建設と開通が進められていくのであるが,この 旧元利保証制鉄道会社と呼ばれるものは表1の10社である。 (また上記の鉄道地図も参照 されたい。)そのうち幹線鉄道を中心とする4社と綿花地帯との関係を簡単に記しておこ う。 26 表ユ旧元利保証制鉄道会社 i認可と A瓜 社 名 ・.G一・㎞d㎞㎞融1 2. East Indian … ! 1 3.M。d,a, ..■ 1 契約の N 第一着工 部分の開 ハの年 開通マイ 1858 1855 5. Scinde Punjab and Delhi. 1855 6. Eastern Benga1 … 1858 553 875 141 937 1353 147 2. 2.19,643 95 447 678 185 1. 1.29,572 185 305 78 1. 1.86,582 150 408 266 1. 1.66,470 110 114 45 2. 2.08,035 V9 P68 Q10 28 28 27 69 630 19 80 430 2,156 4,017 2,041 ,60年2月 ● ● ● 61年5月 曾 o o (62年4月62年9月61年7月 ::: V. Great Southern of Irldia. 1859 @ ern. 9. Oudh _ 1867 10. Carnatic … 1870 計 … . , ・ 62年1月 ・ o . o ・ ・ ・ ・ 9 コスト(ルビ コス 障摩可 * [) 1868 1941 53年4月 1849 54年8月 1852 56年7月 1880 1880年夏で1 マイル当りの }イ 1863 1849 4. Bornbay Baroda and @ Central India. 8. Calcutta and Sollth East− i1868年終1りに建設 ノレ ● ● 9 乙 400 1. 1.95,945 2.37,137 2. ・ ・ ● 一 9.10については,30∼31頁のような特別な事情があった。 N.Sanyal, op. cit, p.35 *のみ,C. P. Tiwari, oP.cit, P.217. 1. The East Indian Railway Co.。 Calcu七taを中心に,止e Uni士ed Provinces(連合州)の綿花地帯の中心Cownpore,更に Delhiへ向う幹線やその周辺の支線。 2. The Great Indian Peninsula Railway Co.. Bombayを中心に二方向へのびる幹線。一方は,インド最大の綿花地帯Berar地方,更に,Na− gpurへ向う線。他方は, Bombay Presidency(ボンベイ管区)南の綿花地帯中心地Sholapur へ向う線。 3.The Madras Railway Co. Madrasを中心に,南下して綿花地帯を通りCoinbatoreへ至る幹線。 4.The Bombay Baroda and Central Indian Railway Co. Bombayを中心に, Kathiawar地方の綿花地帯へ接続するため北上し, Ahmedabadへ向う幹 (注21) 線 これらの路線は,インドにおける大商業港Bombay, Calcutta, Madrasを起点に,綿 花地帯や軍事的重要地帯にのび,原綿や食糧,嗜好品などを港へ運び,同時にイギリス商 (注22) 品を内陸市場へ運ぶ,いわば「港市志向性」の構造を持っていたのである。 また,鉄道の型をきめる軌間(gauge)は,イギリスや他の洗進諸国の標準4’8垂”よ り大きい5/6”(広軌)が採用された。それは,インド特有の強風対策上のバランスとエ ンジンの余力をつけるという理由が示されていたが,経済的にはより大きな負担と機材の イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 2ワ イギリス従属を意味していた。また,後の狭軌採用への政策転換は一層インド鉄道の混乱 (注23) と負担増を促進しイギリスへの機材等の従属を強めるのである。 このような形で,1850年代の鉄道建設と開通が進められていくのであるが,それはイギ リスの資本家を満足させるような速さでは進行しなかった。そうした状況のもとで出現す る1857年のイギリスの恐慌と「大反乱」は,それ以後の鉄道建設の早急な拡充をイギリス 資本に要求させることになるのである。 1840年代末から50年代前半に,資本主義はイギリスのみでなく,ヨーロッパ,アメリカ などの諸国でも,鉄道業,綿工業,鉄工業,石炭業などを基軸として,離陸を開始しつつ あった。その発展を基礎として世界の貿易は急速に増大し,イギリスの輸出もアメリカ向 けを中心に急上昇していた。カルフォルニア(1848∼49年)やオーストラリヤ(1851年) の金鉱発見はそれらの状況を一層促進せしめるもめであった。そのような好況を,1854年 以降の後退をステップとして57年の恐慌に向わしめた諸要因は,イギリスに限って云えば, 次のようなものである。(1)イギリスの当時の主導産業綿工業は,54年以来の国内および先 進国市場充溢による不振を続けていたが,加えて,世界的綿花需要の拡大による原綿の不 足と価格騰貴,更に,増大しつつあったアジア市場,とりわけインド市場拡大の「大反 (注24) / 乱」による頓挫(付表1),これらが一層綿工業を窮地へ追込んだ。この状況を直ちに崩 壊に直結させなかったのは信用の膨脹であった。(2)イギリスの信用制度に多かれ少かれ依 存していたアメリカにおける鉄道投機,土地投機,海外商業投機の崩壊にはじまる信用恐 慌(1857年9月)は,イギリス,次いで,既に好況末;期の不安定な状態にあったヨーロッ パへ波及した。(3)アメリカの恐慌の波及によるイギリスの信用崩壊(57年ll月)は,イギ (注25) リスの産業恐慌を一気に顕在化させ,主要商品の価格を暴落させた。 この1857年のイギリスの恐慌は,40年代後半と同じように,イギリス綿業資本による原 料と市場のための鉄道建設推進の要求を再び噴出させるが,これと前後して勃発する「大 反乱」も,インド民衆の支配の徹底という点から,鉄道建設推進へ影響を与えるのである。 セポイの反乱にはじまるインド全土での民衆の反乱は1857年6月から58年末頃まで続く のであるが,これを契機に,それまでの東インド会社取締役会とインド監督局とのいわゆ る二重統治機構は,5$年8月の「インド統治改善法the Act for the Better Government of India」によって,ヴィクトリア女王の直接支配の統治機構に一本化された。即ち,イ ンド担当国務大臣(the Secretary of State for India)一インド省が設けられ,同時に 15名からなる在ロンドンインド参事会(the Council of India)一女王指名による8名, 東インド会社取締役より7二一がこれを補整する制度が作られたが,国務大臣は特種な 事項以外は参事会の多数に反して事を行いうる強い権能を持っていた。また,インド総督 (注26) は副王となった。このような機構変化は必ずしもインド支配の実質的な変化を意味したわ けではなかったのであるが,鉄道建設に関連して云えば,Lord Dalhousieの個人的採血 の色彩を持っていた,それまでの鉄道政策を,女王のもとでの政府,議会のおしす\める 28 より拡充した政策として展開させる契機をなしたと云えよう。そのような状況は,以下に 述べるように議会の委員会を通しての鉄道建設推進の要求に示されると共に,ロンドン での鉄道会社重役会とインド大臣との直接的接衝により,しばしばインド政庁の意見と勧 (注27) 告に反して会社優先の政策を強行しようとする事態を生み出していくのである。 Manchester商工会議所と「綿花供給協会Cotton SupPly Association」は,1857年の 恐慌による企業困難の加重に対する重要な対応策として,「大反乱」の最中であるにも拘 らず,インド鉄道建設推進の要求を再び強力に開始する。彼等を主力とするイギリスの資 本家,商人の要請によって,1857−58年,「インド鉄道建設の遅れの原因を究明する下院 委員会」が設けられ,その遅れは,本国より遠く離れた事業への政府監督がむつかしいこ と,「反乱」や自然的条件の困難さ等に依るものであることがあげられ,更に次の点が強調 された。鉄道建設に必要な資本への保証利子は,この巨大で冒険的な事業に貨幣を導入す るには不可欠のものであった。だから,インドの財政を莫大な支出から守るためには,政 府の鉄道経営への充分な監督が要求される。それは株式保有者自身の利益にもなること (注28) である,と。このような表明は,元利保証制による鉄道政策の議会による確認を意味し, インド財政の窮迫(図1を参照)にも拘らず,その後のこの形での鉄道建設推進を方向づ 表2 インドの鉄道投資 一門元利保証制鉄道会社一 けるものであった。 £ 糧道会社の資本畑 こうした状況の中で1858年秋,「綿花供給協 会」は,インドの運河や道路そして鉄道建設な 1850−51 *175,156 どの建設費用として20万ポンドの国債発行を提 51−52 351,323 案し,最初のインド大臣:Lord Stanleyはこれ 52−53 53−54 427,560 670,649 を実現しようと計る。しかし,インド政庁はこ 54−55 1,730,156 れを拒否したのである。それは,主として, 55−56 56−57 57−58 3,366,411 58−59 5,492,108 3,5=L5,100 3,423,068 「大反乱」のような緊急事態が起きているた め,そのような特定の限られた目的に国債発行 (注29) を限定するのは困難だとみたからである。 59−60 7,171,464 1860−61 7,578,715 61−62 6,602,212 62−63 5,863,344 63−64 4,755,653 設は促進されねばならなかった。そのために 64−65 4,122,240 は,結局,従来の元利保証制による資本導入よ 65−66 5,636,866 66−67 7,297,703 しかし,「大反乱」後の秩序維持とイギリス 綿業資本の執拗な要求に対応するため,鉄道建 り外に途はなかったのである。1859∼61年のイ ギリスからの鉄道投資は急増した。 (表2) *1850∼51年までの累計 Third Report of the Royal Co− Lancashireなどの綿業資本は,この鉄道建設 mmission ApPointed to Inquire into に圧力をかげながら,自らこれに投資するには the Depression of Trade and In− dustry,Appendix B, Statement F, by India Office,1885. PP.387∼8. 5%の保証利子では妙味がないとみていた。こ れに投資した人々は,主に堅実で安全性を重ん 29 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 じる中産階級投資家,即ち,未亡人,弁護士,牧師,未婚夫人,銀行家,退役軍人達や銀 (注30) 行,保険会社であった。 このような元利保証制鉄道の投資と建設の増加は,インド政庁財政の保証利子負担の増 加に直結していた。産業の未発達と民衆の貧困という条件のもとで,しかも,輸送量拡大の ために料金を引き下げるといった方策に鉄道会社が抵抗する状況では,鉄道会社の純利益 が5%の利子をこえて上昇するどころか,付表2に示されているように,巨額の赤字の累積 が常態であった。また,利益計算が半年毎に行われたため,例えば,前半期に費用を少な くして保証利子をこえる会社利益分を稔出して取得し,後期に費用部分を集中して保証利 (注31) 子と赤字補填を政庁にゆだねるような放漫経営が行われていたのである。 さらに,前述した「契約」に定められた固定為替レート1ルピー一1シリング10ペンス は,1856年以降変動レートの年平均が2シリング代(表3)になったため,保証利子支払 や借入返済をインドに割高にし,保証利子率はインド通貨では10%近くにさえなったので (注32) ある。こうして,保証利子制は幾重にもイギリス資本の利益追求に利用され,そこに生み 表3 ルピーとポンドの為替レート 出された鉄道会社の赤字 睡鞠レー■ S. 1849∼50 50∼51 51∼52} 52∼53i 53∼54 54∼55 年平均レート d. S. d. 10・500 ユ855∼56 2 2 0・250 56∼57 2 1・125 2 0・125 57∼58 2 G。625 1 11・875 58∼60 「反乱」のため停止 0・125 60 61 1 11・867 11・125 61∼62 1 11・920 ユ 2 ]. 0・125 は,インド政庁財政から の融資で埋められていた ため,投資の増加は財政 負担の増加に直結してい (注33) たのである。 当時のインド大臣Sir Third Report of the Royal Comrnission, op. cit, Charles Woodは,1860 pp.387∼8。 ∼61年における保証制鉄 道の拡大をインド財政を一層危機におとしいれるという理由で認めなかった。新設会社に (注34) ついては非保証制とし,代わりに補助金を出す政策を採用した。この形で後述する二つの会 社が出現する。このようなインド政庁の財政改善の動きは,インド総督Lord Canning の1859年の関税引上げ政策の導入,インド総督参事会財務委員J.Wilsonの1860年の所 得税導入,関税引上げ等のインド税制改革の形で本格的に展開された。CanningやWood, Wilsonがイギリス綿業資本から激しく非難されたことは云うまでもない。殊に,アメリ カ南北戦争に伴うイギリス綿業の困難はインド綿花への要求を一層激しいものにして行き, (注35) この圧力によって上記の政策路線は大きく後退し,1862年4月関税引下げが実現する。し かし,インド鉄道建設については,以下に述べるように,綿業資本の要求はインド大臣と インド政府の強い抵抗にあい,容易に進展しなかったのである。 アメリカ南北戦争(1861∼65年)に伴う綿花飢僅と市場の急激な収縮は,イギリスに 「綿業恐慌(61∼63年)」をひきおこし,イギリス綿業資本のインド綿花と市場の要求に新 たな切迫さを加えた。この「綿業恐慌」はほぼ次のような諸要因によってひきおこされた。 30 (1)1860年の綿業を中心とする好況は,海外市場の好調,殊にインド市場の拡大に依るとこ ろ大きかったが(表1),60年をピークとして61年には既に市場充溢による輸出停滞の段 階に入っていた。(2)その61年に南北戦争が勃発し,アメリカへの輸出(全体の約13%)が 激減する(61年のモリル関税の影響もあった)と共に,アメリカへ80%も依存していた原 綿(付表3)の価格が2倍以上に急騰した。③この原綿価格の高騰は,綿業の利潤減少と綿 製品価格高騰によるインド市場をはじめとする全ての市場の停滞を招き,綿業を恐慌へ導 いた。(4)更に,綿花への投機が上記の状況を促進した。しかし,綿業以外の産業の打撃は ヨーロッパ市場の拡大等によって小さく,産業全体としては64年のピークに向って循環の 上昇過程の状況を呈する。(5)しかし,綿花を中心とする輸入急増に伴う銀貨流出防止のた め64年に:England銀行は公定歩合を引上げる。これの産業への影響はアメリカへの輸出 が回復し始めたこともあって軽いものであったが,景気の上昇を挫折させ66年恐慌への一 (注35) つのステップをなした点は見逃せない。 この「綿業恐慌」のインド鉄道建設への影響はどのようなものであったろうか。南北戦 争勃発の直前の1861年1月に,Manchester商工会議所は,再びアメリカへの大きな原綿 依存の危険性と持続の困難さを表明し,他の商工会議所や議会関係者の参加を求めた会議 を開いてインド開発促進の一大キャンペーンを開始する。このよな運動を背景に,Man− chester商工会議所会頭はインド大臣Woodに,インドの交通機関の未開発が,港への原 綿輸送を阻んでいること,唯一の対策は早急な鉄道建設であり,これは個人企業では不可 能であるから,政府融資を3千万ポンドから4千万ポンドへ増額することなどを要請して いる。しかし,Sir Woodはインド財政の破産同様の状態と既に多額の融資が行われてい るという理由でこの提案やその他類似の要請を受け容れようとはしなかった。そして,原 綿対策の力点は私的企業のリードによる当面の原綿栽培の拡充,原綿の質的向上を政府が 援助することに置かれ,鉄道建設や運河のような金のかかる長期開発事業は除外される形 で進められたのである。Manchester綿花供給協会を拠点とする綿業資本は,その程度の 対策では満足せず,土地所有制の改善を含むより抜本的対策を政府に要求し続けた。だが, Sir Woodは,自由放任主義の原理を拠に原綿価格が上昇すれば自からインド綿花生産量 は上昇すると主張して,綿業資本の圧力に抵抗し,輸送手段の改善への政府の積極的な関 (注36) 与は抑制されたのである。とは云え,63年には彼の弾劾さえ主張し始めたLancashireの 圧力をかわすため,綿花地域と港を結ぶ道路と運河(Godavari河の開発による中央イン (注37) ド綿花地帯へのルートが重視されたが,結局中途で挫折する。)の開発に力が注がれた。 こうして,綿業資本の強い圧力にも拘らず,1867年までは旧元利保証制鉄道会社の新設は なかったのである。 ただ,非保証制の次の二つの鉄道会社が認可され,補助金が融資された。 1.The工ndian Branch Railway Co.1862年認可, 20年間年1,000ルピーの補助金。その他鉄橋への援助。 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 31 軌間4’で,NalhatiからMurshidabadまで27マイルを1863年12月までに建設。 Cawnporeか らLucknowまで64年より建設。 2.The Indian Tramway Co.1864年認可,1マイル当り年125ルピーの補助金。 軌間3/6”で,ArkonamからConjeeveramまで18量マイル,64∼66年忌建設。 しかし,これらは政府保証のない資金を充分に集めることが出来ず成功しなかった。結 局,この試みは放棄され,1は1867年忌The Oudh and Rohilkhand Railway Co.,2 は70年にThe Carnatic Railway Co.(74年にThe Great Southern Indian Railway Co. に吸収された。)とい.うそれぞれ元利保証制会社に変わるのである。が,以前の保証制会 社への単なる逆戻りでなく,後者の保証制利子率は3%に下げられ,また,費用を節約す るため軌間が狭軌(4’8垂”以下)になっている。上記の非保証制の試み以後の一連の状況 (注38) は,旧元利保証制鉄道会社から次の形態への過渡的状況とみることができよう。 このように,1860年代は,鉄道会社の新設は少かったが,既設保証制鉄道会社の鉄道建 設続行のための投資(表1および表2)とそれによって累積するインド政庁の財政負担 (注39) (付表2)はますます大きくなっていった。 また,1860∼61年のNorth Western Provinces,65∼66年のOsrissa, Benga1,Madras (注40) などでの深刻な食糧飢謹は,その救済支出によって一層財政を悪化させた。尤も,飢謹対 策をすみやかにかつ抜本的に展開するには既に財政と行政組織の状況はあまりにも破局的 な状況にあった。また,この食糧飢謹は従来の悪い自然条件即ち凶作による食糧不足とは 違った性質の,イギリス帝国の直接支配による資本主義的な植民地政策に起因する部分の 比重を高めつつあったことに注意すべきである。つまり,市場,商業の発達,鉄道や道路 を主力とする交通手段の発達により,地方の穀物の基本的な部分が吸い上げられ輸出にま わされると共に,多くの食糧農地が綿花栽培に転化され,食糧価格は年々上昇していった。 更に,商人の投機的な在庫保持がこの事態を促進し,重層的な土地所有が要求する地代に 苦しむ民衆の上にこの食糧価格上昇がのしかかり飢饅においつめ,その範囲も拡大してい (注41) つたのである。鉄道建設は,飢鯉救済を一つの政策目標に掲げ,飢鯉時にその役割を果た したことも事実であるが,イギリスの利益を優先し,インドの実態を無視した交通手段の いびつな建設の在り方は,インド民衆にははるかに負担の方が大きく,二重,三重に植民 地的荒廃をひきおこす要因となったのである。 注(1}N.Sanya1,0P. cit, PP.3∼4. ・ ② 角山栄「19世紀イギリスの資本輸出と各国における鉄道建設一1つの序論的考察一」『経済 理論』 (和歌山大学)第127∼131合併号(1972年)98∼99頁。 (3)N.Sanyal, op. cit, pp.4∼9,牧野博前掲論文,97頁,角山栄前掲論文17∼18頁。 (4)C.P. Tiwari, oP・. cit, PP.205∼7. (5)P.Harnetty, Imeperialism and Free Trade::Lancashire and India in the mid一 32 nineteenth century(Manchester University Press 1972)pp.77∼8. (6)これらの点について詳しくは,藤川昌弘「1847年恐慌」『恐慌史研究』鈴木鴻一郎編(日本評 三社1973年)第二部。M. Tugan−Baranovsky, Studien zur Theoie und Geshichte der Handelskrisen in England(Gustav Fischer 1901)SS.103∼120.三宅義夫『マルク ス・エンゲルス,イギリス恐慌史論』上巻(大月書店ユ974年)第一編。 (7)吉岡昭彦編著『イギリス資本主義の確立』(御茶の水書房1968)U6∼119頁。 (8)K.Marx,“The East India Company−lts history and results”NθωY(派DαfJツ 丁訪観ε(July.11,1853)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』9(大月書店1962年)148∼9 頁。 (g) R.Dutt, op. cit, p.174. (1① C.K. Hobson, The Export of Capital.(Corlstable.1914)P.118. (11)J.H. Clapham, An Ecorlomic H:istory of Modern Bri七ain, The Early Railway Age l820∼1850.(Cambridge U. P.1st. ed.1926,1959)PP.421∼3. (12 C.P. Tiwari, oP. cit. P.1. ㈲ C。P. Tiwari, op. ci七. pp.2Q9∼10. qのW.J. Macpherso11,0P. cit, P.177. ㈲ C.P. Tiwari, oP. cit. PP.211∼2.4のみD. Thorner, oP. cit. P.390. (1③S.Broadbridge, Studies in Railway. Expansion and the Capital Market in England 1825∼1873(Frank Cass 1970)pp.68∼9. (1のWJ. Macpherson, oP. ci七, P.182. ⑬ 1853年時のインド財政の「純収入総額の約5分の3は地税収入であり,7分のユがアヘン収入, 9分の1強が塩収入である。この三つの財源を合わせると,総収入の85%に達する。」K.Marx, “The war quetion−Doings of Parliament−India”エ〉伽yoブ々Dα吻7r∫ろ観e(Allg. 5,1853)邦訳前掲書9,209頁。この時代のインドの租税とインド民衆の困窮との関係について は,MarxのNεωyo漉DαfZッTr伽πθにおける多くのインド関係論説の迫力ある指摘を参照 されたい。特に「インドの租税」(マルクス・レーニン主義研究所でつけた表題)(July 23, ユ857)「インドにおける拷問について」(同)(Sep.17,1587)など。また,総合的な見地か ら生き生きと歴史を伝えている,松井透稿『インド史』山本達郎編(山川出版社1960年)第四 章参照のこと。 (1㊥G.S. Chhabra, Advanced Study in the History of Modem India Vo1.∬(1813 ∼1920)(Sharanjit.1962)PP.161∼2.「Lord Dalhousieの帝国主義的,攻撃的なインドで の諸政策がなかったならば,1857年の反乱は起きなかったであろうという意見に同意するのは困 難だが,彼がこの国に来なかったならば,その反乱はかなりの時期遅れたであろうということは 全く疑う余地のないことである。」ibid. P.162. ⑳ D.Thorner, oP. cit, P.391. (21)牧野博前掲論文に行届いた叙述がある。主要綿花地帯は,The Imperial Gazetteer of India, The Indian Empire, Vo1.皿Economic(Oxford 1907)pp.44∼5.を参考とした。 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 33 ⑫2)松井透前掲論文192頁。 (23)当初の計画での軌間は,418壱”であったが,当時急速な発展をみせていたイギリスのGreat Western Railwayは7’であった。そこで,どちらを採用すべきかが問題になったのである。イ ンド監督局の技術顧問W.Simonsは,機関車エンジンに余力ができることや強風対策として 横振れを少なくできる等の点から5’6”を採用した。東インド会社取締役会もこの意見であったが, :Lord Dalhousieは,6!を提案していた。結局,取締役会の意見に落着き,5’6”がインド鉄道 の標準的軌間となった。しかし,イギリス,ヨーロッパの軌間に比しての車輪径よりインドのそれ は小さいため力のロスは22.5%にもなり,技術的にも経済的にもこの軌問はインドにとっては損 失であったと云われている。C. P.Tiwari, op. cit.pp.69∼71. ⑳ 1857年のインド商品輸入は前年に比べて増大している。しかし,これは「反乱」鎮圧軍用の羊 毛製品,機械製品の増大によるものと考えられ,綿糸,綿製品は激減した。 ㈲ 1857年恐慌は資本主義史上はじめて真に世界的性格を持った恐慌として知られているが,詳細 については,松浦克己「産業循環の過程1850∼61年」r恐慌史研究』前掲書 第三部,三宅義夫 前掲書 第二編,特に253∼318頁。 (2θR.Dut七, op. cit, p.229.松井透,前掲書233頁。 佗7)C.P. Tiwari, oP. cit, P.100. ㈱ R.Dutt, oP. cit, P.177。 (2g P. Harnetty, oP. cit, P.61. (3①P.Harnetty. oP. cit, P.61. W.J. Macpherson。 oP. cit, P.181. (31)C.P. Tiwari, op. cit, p.230. 働K.C. Srinivasan, The Law and Theory of Railway Freight Rates(Madras 1928) P.102,C. P. Tiwari, oP. cit, P.296. (33}C.P. Tiwari, op. cit, PP.213∼14. (34)C.P. Tiwari, op. cit, p.214. (35)K.Marx,“The Bri七ish cotton trade”N脚yor々Z)α∫ZツTr∫6観θ(Oct.14,1861). “Bri七ish Commerce”ibid.(:Nov.23,1861)“Zur Baumwollkrise”Die Presse,(Feb. 8,1962).邦訳前掲『全集』15299∼302頁,335∼40頁,439∼41頁。Das Kapita1, Bd. I SS.457∼g, SS.477∼g SS.599∼602. Bd.皿SS.138∼9.邦訳前掲『全集』23a, 566∼9頁,593∼5頁.25a,162∼3頁 〔3③ P.Harnetty, op. cit, pp.38∼51. (37) P.H:arnetty, op. cit, pp.63∼フ7. (3別 C.P. Tiwari, op. cit, p.214∼6, (鋤 角山栄前掲論文32∼33頁。 (40}B.M. Bhatia, Famines in India 1860∼1965(Asia Pllblishing Ho1ユse 1963)PP.59∼ 70.The Imperial Gajetteer of India, oP. cit, P.369. (41)B.M. Bhatia, oP. cit, PP.9∼工0. 34 (3) インド政庁財政と政府鉄道の発展 前節でふれたように,旧元利保証制鉄道会社による鉄道建i設の進展は,1860年半ばには, 様々な点から障害を顕在化しつつあった。インド政庁財政への負担はますます増大しつつ あったし,また,保証制鉄道会社の経営もますます困難の度を増しつつあった。開通した 路線からの運賃収入ののびは,高運賃とイギリス綿業資本への優遇などで極めて鈍く,利 子支払を越えることは容易でなかった。また,たとえ利益が上昇し始めても保証利子が先 (注1) 取されたためその会社の株価に反映せず,企業努力のモメントは大いに削がれた。こうし て,鉄道会社は,母国よりはるかに高給で雇われたイギリス人社員やその他のヨーロッパ 人社員と出資者に奉仕するだけの機関となりつつあり,私的企業としての活力を失い始め ていた。60年代に入り路線の開通は増加していったが,66∼67年以前に純利益率が保証利 子率5%を越えた会社は一つもなく,インド鉄道全体をとった純利益率は,54年一〇.22%, (注2) 59年一L31%,64年一L98%,69年一3.05%であった。従って,財政負担の軽減どころか, 融資回収の見込みも立たず,財政への依存を高める悪循環を累積する一方であったため, インド政庁もこの制度による将来の実際的見通しを立てることができなくなっていったの である。 1866年春,イギリスでは,南北戦争終結以後急激に増加したアメリカへの商品と資本の 輸出を主導とする好況が,Overend and Gurneyの支払い停止を契機に,1866年恐慌へ 向いつつあった。これによる打撃は,鉄鋼業や造船業等で大きく,綿業は輸出に支えられ て動揺は少なかったが,69年には逆に綿業で多くの破産が出現し,重工業は回復に向うと いった状況であった。しかし,1860年代後半のイギリスは,「綿業恐慌」による綿業の大 きな打撃からの回復基調とヨーロッパへの輸出増加によって,70年代初めの繁栄局面まで (注3) 概して全産業において好調であった。 この状況は,イギリスのインドへの経済的かかわり方にどのような影響を与えたであろ うか。1862年にイギリスのインドへの原綿輸入依存は75%にも達したが,南北戦争終結後 再び良質のアメリカ原綿の輸入は増加を続け,付表3のように,70年にインドからの輸入 は26%,70年代末には12%まで下降している。また,イギリスからインドへの輸出は,付 表4のように,66年恐慌から不況局面にかけて上昇し,69年のスエズ運河開通にも拘らず, 67年をピークにイギリスの景気上昇に伴って下降し,総輸出の中のインドの割合も減少し ている。前節でも述べたように,60年代前半まで,イギリスとインドとの間には,イギリ スの恐慌から不況局面には,「恐慌対策」の性質さえ持っていたインドからの原綿輸入割 合が増大し,同時に,インドへの輸出も増大する,好況局面へ進むに従ってその割合は減 少し,輸出も減少するというパターンが看取された。しかし,66年恐慌時以降,殊に70年 代に入ると,原綿輸入における上記のような関係は顕著ではなくなり,輸出においては尚 上記の関係がみられる形への変化が看取される。云いかえれば,イギリス資本のインド原 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 35 綿への関心の相対的減少一一応のインド原綿供給態勢の確立を前提として一の傾向と, 恐慌から不況局面での市場としての関心の一層の増大とが,60年忌後半以降にはみられる のである。70年代初めの好況まで,原綿,市場共にインドのウェイトは減少し,インド鉄道建 設や関税撤廃の要求へのイギリス資本の強い圧力も,1873年の大型恐慌とそれに続く「大 (注4) 不況(Great Depression)」の開始までは目立っ形では現われなかったのである。 以下に述べる1860年代末から70年代のインド鉄道建設は,イギリスの植民地の枠内での インド経済の漸次的発展そのものの要求とそこにより大きな植民地乱訴益一市場と利子の 配当(インドからみればいわゆる「富の流出(Drain)」)一を見出そうとするイギリスの要求 によって,財政と鉄道経営を改善しうる,そしてより安い運賃政策の可能な政府鉄道(State Railway)による進展が計られることになる。 1867年12月,前節で述べた非保証制鉄道会社が失敗し再び保証制会社に転換される際, インド政庁は,その契約内容に異議を唱え,その時の鉄道政策全般にかんしてインド大臣 に厳しい意見書を提示した。それは,保証の範囲と条件に厳しい制限が必要なこと,政庁 が保証利子をこえる利益を先取する必要があること,会社職員が政庁のより直接的な統制 下に入るべきこと,イギリス人の個別資本を多量にインド鉄道会社に導入することは政府 (注5) に政治的な危険と混乱を持ち込むことになる,といった内容であった。そして,その意見 書に付加されたインド政庁参事会のSir E. C. Stuart Willarnsの覚書きは,他国の政 府鉄道を検討し,インドにおいて政府の直接的agencyによって鉄道を建設する新たな (注6) 政策の明確な提案を含んでいたのである。しかし,時のインド大臣Sir Stafford North− coteは,その考え方には全ての鉄道会社が反対であり,また,資金をイギリス資本市場 に求めざるをえない限り現状は動かし難いと考えた。こうして,本国政府とインド政庁と (注7) の間に鉄道政策にかんする論争が展開されたのである。 ユ868年末,第一次Gladstone自由党内閣の成立に伴ってDuke of Argy11が新しいイ ンド大臣に就任し,インド総督にLord Mayoが着任して,事態は変化し始めた。この変 化に大きな影響を与えたのは,前総督Lord Lawrenceとその関係者が残していったイン ド鉄道の政庁による直接的建設の必要性を説いた長い覚書であった。それには,これまで 述べて来たような保証制鉄道会社による血道政策の欠陥が指摘され,加えて,次のような 主張が述べられていた。(1)インド政庁は,保証制鉄道会社よりはるかに安上りかつ有効に, 充分自からの力で鉄道を建設し運営する力を持っており,資金を借りる力もそれらの会社 よりも大きくなりつつある。②鉄道網の拡大は,年々の純費用を200万ポンド以内の収入 で償いうるようにおさえ,政庁が負担しうる限りで認める。㈲鉄道建設の基準を修正して, より実際的で,安上りの狭軌に転換すべきである。(4>インド大臣のインド鉄道にかんする 直接的な関与は,イギリスにおいて遂行せざるをえない業務に限ってなさるべきであり, 本国政府ゐ干渉はインド政庁の監督に原則として限るべきである。(5)インド政庁は,他の 公共事業と同じく,その経営と財政にかんしても責任を持つようにすべきである。このよ 36 うな覚書の考えは,Lord Mayoに全面的に受け容れられ,これをベースに,インド政庁 は,69年5月,本国政府に対し政府の直接的な活動による鉄道建設への政策転換を明確な (注8) 形で提示したのである。 69年フ月,インド大臣Duke of ArgyUは,この返事において,新た鉄道政策が積極 的に採用されうることを表明し,直ちに,インド政庁によるLahre−Rawa1−Pindi路線の 建設が認められた。ここに,インド鉄道建設史上の第二段階,政府鉄道期が開始された。 政府の責任で鉄道建設を行うということになると,そのための組織整備が急務であった。 政府鉄道の顧問技師が新たに任命され,その下に新たに雇われた多くの技術者も含めた監 督技師(Superintending Engineer)が,適当に区割された路線企画毎に配置された。同 時に,財務管理担当の代理財政統制官(Deputy Controller)が各路線毎に配置され,それ を経理局長が統括する,といった組織整備がなされていった。更に,74年には,公共事 業局(Public Works Departlnent)の中で鉄道部(Raiユway Branch)が独立し,政府 鉄道部長(State Railway Directorate)のもとで(いくつかの例外はあったが)政府鉄 (注9) 道の建設が本格的に進行していった。 しかし,これらの政府鉄道の開通後の運営形態については,民間鉄道資本家への妥協策 として,利益を実現しそうな路線の運営については政庁の監督下に民間会社に委託される 形がとられ,軍事路線や採算のとれない路線は政庁直営の形をとるといった様々な運営形 (注10) 態が出現する。このような政府鉄道の様々な形態を分類すると次のようになる。 (a)諸会社によって利益をあげえないとして放棄され,政庁によって買収され,引継がれたもの。 ㈲ 政庁によって建設され運営されたもの。 (c)政庁が諸会社から買収したが,運営のために諸会社が賃借りしたもの。 (d)政庁によって建設されたが,運営成績が良好になった後朝会社が賃借りしたもの。 (e>諸会社のagencyを通して建設,運営されたもの。 これらの鉄道建設の型を規定する軌間にかんしインド政府はLord Lawrenceの意見 に従って負担の小さい狭軌説であったが,技術者や本国政府およびイギリス資本家層は賛 同しなかった。この軌間の混乱は,政府鉄道をも様々な植民地支配者の利害によって無秩 序なものにせしめたことを示す代表的事柄と云えるかもしれない。インド政庁は,妥協案 として,路線を二つに分類し,幹線は広軌標準軌聞を採用し,生産的地域でない方面の二 次的路線は狭軌を採用するという提案を示すのであるが,後者の地域に属するが軍事的に 重要な地域,特にIndus ValleyとPunjab:Nothernの路線については「軌間の戦い (“battle of the gauge”)」 (71∼74年)と呼ばれた抗争さえ起こり,紛糾するのである。 結局,インド政庁は,これらの路線にも狭軌(metre gaugeと呼ばれる3’3書’”軌間)の 採用を強行するのであるが,これに対する本国政府内外の反対の声と,同時にヨーロッパ イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 3ワ の国際情勢,殊にロシアの南下政策の脅威は,インド北西部国境地帯の国防要求を,イギ リス本国ばかりでなく,インド政庁にも高めて行った。こうして,74年には,Indus Valley とPunj3b Nothernの路線の残余の建設分については広軌(5’6”)が採用されるといっ (注ll) た状況であった。主な政府鉄道は表4(鉄道地図も参照)の如くである。 運営については,料金引下げと商品分類別差別運賃の単純化がはかられた。この施策は, イギリス資本の運搬費軽減の要求,インド国内産業発展に伴う商品交換の拡大からする要 請,物と人の大量運搬による経営内容の向上の要請,更に,固辞時の救済物資の運搬費用 の軽減などの要請,等々に応えるために強力に実施された。特に保証制鉄道建設の時期に 比して特徴的なことは,ヨーロッパ市場へのインド小麦の安価での供給の要請であった。 1877年頃までには,地方の重要商品,特に,穀物,seeds,’石炭,米,上等の鉄道輸送の (注12) 低料金政策はほぼ全ての路線で採用されていった。 政府鉄道は,先述したような様々な運輸手段としての課題を果たすために,利益の実現を 優先させることはできなかったが,表1,表4の1マイル当り費用を比べればわかるよう に,建設費を大巾に軽減し,財政負担を抑制して鉄道建設を進めることを可能ならしめ た。殊に新たな建設許可が停止され,既存契約分の建設と運営を続けていた旧元利保証 表4インド政府鉄道 1880年’まで 営 業主 体 5/6” 1875 〃 〃 1878 〃 〃 1878 〃 〃 1. Punjab Northern 帝 国 政 府 2. Indus−Valley&Kandahar 3. Sindhia 4. Patri 5. Dhond−Manmad 〃 6. Rajplltana−Malwa Patna−Gaya NOfthern Bengal Tirhut … Dildarnagar−Gazipore Mllttra.Hathras.Achnera… 〃 Cawnpore−Farukkabad Wardah Coal Nagpore−Chhatisgarh Rangoon−1rrawaddy 〃 16. Nizam’s State Indian State 17. Bhavnagar−Gondaユ 〃 18. Mysore … 〃 19. Gaekwar’s State 20. Darjeeling Himalayan 7. 8. 9. 10. ll。 12. 13. 14 15. 1881年 軌 聞 開通年 までの の1マイル 当り費用 開通 (ルピー罫 Benga1州政府 〃 〃 N.W. 州 政府 〃 Centra1州政府 〃 Burma 政 府 (藩王国) 1873 1878 マイル 355 653 1.78,13 75 22 1.22,585 146 71,756 Metre 1873 1,116 62,989 5!6” 1879 1877 1874 57 56,508 Metre 254 80,796 85 12 53 86 46 98 62,821 〃 ノノ 5,6” 1880 Metre 1875 !ノ 1880 5!6” 1874 Metre ’1880 〃 1877 5/6” 1874 161 121 Metre 1880 192 ∠ノ 1881 〃 2’6” 1873 Private Company 21 1880 58 60 49 N.Sanyal op. cit, p.116 *のみC.P. Tiwari, oP. cit. PP.217∼218. 1.06,099 60,480 37,523 36,196 1.11,156 57,315 76,443 38 制鉄道会社への政庁の介入が強まり,濫費を規制して,政庁財政負担を抑制する波及効果が あらわれ,付表2のように,77∼78年には,保証制鉄道会社に後にも先にも唯一の小額黒字 (注13) さえ出現した。しかし,表5にみられる 表5 インド政府鉄道の損失と収益 Rs. ように,政府鉄道の開通前当は軌道に 1収刈支上騰1;1 1868∼69 のるまでは赤字続きであり,保証制会 4.ユ0 一 4.10 81 76 38 3.88 − 3.07 5.22 6.85 − 4.46 72∼73 73∼74 1.65 11.30 − 9.65 3.99 22.35 − 18.36 1870年代初めの政府鉄道移行期に現 74∼75 75∼76 13.10 37.05 − 23.95 われた大きな財政負担に対し,71年か 29.28 60.35 − 31.07 76∼77 77∼78 78∼79 38.07 81.67 1.09.18 _50.9引 97.68 i 1。65.39 一 67.71 79∼80 2.72.64 1 2.53.38 1880∼81 ト 6.52.20 6.07.80 7.26.71 6.49。49 7.24.77 1 6.92.47 +19・261 +44・401 +77・221 士32・30i 7.04.50 +1・39・651 いかなる事業も「特別な」公共事業の 1 部類を付け加えてはならない。そして, 69∼70 70∼71 71∼72 81∼82 82∼83 83∼84 58・21 8・44・・5 P P − 6.47 −43.6。1 社の損失による財政負担もかなりの額 で続いており,政庁財政は改善されつ つあるとは云えなかったのである。 ら74年代にかけての「インド財政委員 会Select Committee on lndian Fina− nce」は対策を協議し,74年それを受け て時のインド大臣Lord Sahsburyは 次の三つの基本方針を出した。(1)今後, C.P. Tiwari, op. cit Appendix 7,より あらゆる資本支出の利子が回収され 表6 インドの鉄道投資と公共事業投資 £ 勝護鹸縫瀞1隊有理如21灌鼠紙支出3隣撃魏4 1867∼68 602,462 68∼69 69∼70 1870∼71 1,370,613 2,599,614 743,862 2,695.465 !,167,810 449,372 718,438 3,776,270 71∼72 1,628,474 644,620 983,854 2,496,728 72∼73 2,184,569 1,4].3,649 770,920 477,245 73∼74 3,553,307 2,354,625 1,198,682 693,053 74∼75 4,249,571 3,014,180 1,235,391 1,087,911 75∼76 4,270,629 3,165,184 1,IO5,445 950,806 76∼77 3,800,284 2,865,861 943,423 715,459 77∼78 4,791,052 3,984,968 806,084 1,323,984 78∼79 4,381,898 3,327,888 794,654 1,012,623 79∼80 ].3,095,192 2,680,493 598,837 349,590 1880∼81 9,297,233 434,760 81∼82 82∼83 3,952,031 842,435 4,665,112 L460,111 83∼84 4,020,135 2,337,126 84∼85 5,732,400 2,617,400 1,4,表2に同じ 2,3, R.Dutt, oP. cit, P.362 7,120,081 3,867,927 4,742,851 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 ユ844年∼1879年 39 る見込みがなければ建設中のいかなる事業も融資によって建設を続行してはならない。② 飢謹対策事業はその年の収入によって遂行されうるものである。しかし,それで不充分で あれば借入に頼ることもできる。(3>イギリスの本国費の増大には良策はないが,全ての 融資はインドで行われるべきである。インド政庁はこの方針によって拘束され,政策遂行 のためには増税に追い込まれることを懸念して反対したが,この方針は強行されたのであ (注14) る。 確かに,表6にみられるように,77年までは公共事業支出は抑制されたが,再び大巾に 拡大されていったのであり,そこには,以下に述べるように,70年代後半のインドに次々 と重ねて起こる社会問題に対しイギリスが自らの帝国主義政策のペースで対応して行く事 態があったのである。 1870年初頭の未曽有の世界的好況の直後,イギリスを先発とする先進資本主義国は,73 年の世界的恐慌の打撃を受け,引続き「大不況(73∼96年)」と呼ばれる価格と利潤率の (注15) 長期下落を特色とする停滞の時代に入っていく。この状況に対し,イギリスの諸資本は, 先進資本主義国への輸出停滞をインドを中心とする植民地市場によって補う形で対応する のである(付表4参照)。殊に,綿業資本は,74年より再びインド関税撤廃運動を開始し, 70年代末には大部分の綿布関税免除を実現して82年の輸入関税撤廃へのステップを作り出 (注16) して行った。 イギリスが「大不況」へ入りつつあった70年代後半,インドではあいついで大飢饅が起 っていた。73∼74年にBengal, Bihar, Bundelkhandで,76年にBengalで,76∼78年 にはMadras, Bombay, Mysore, Hyderabad等で(これは19世紀に入ってそれまでに ない大飢饅であった),77∼78年にNorth Western Provinces, Kashimir, Punjabで, (注17) それぞれ飢鰹が起きている。この飢謹対策のため財政支出は否応奉く拡大していったこと は云うまでもない。 また,70年から始まる銀価格の低落は,インドの人々にとっては必ずしも直接的な損失 を意味しなかったが,インド政庁にとっては財政負担の一層の増大を意味した。何故なら, インド政庁は多額の本国費を金で納めなければならず,銀価格の下落に伴うルピーの下落 (注18) は,以前より金送金に多額のルピーを必要としたからである。更に,当時のインド大臣 Marquis of Salisburyとインド総督Lord Lyttonによる,女王のインド皇帝宣言一イ ンド帝国の成立(77年)や第二次アフガン戦争(78∼80年)などに代表される「保守党の (注19) 冒険」といわれた帝国強化・強硬外交路線のもとでのインド植民地政策は,多くの財政負 担をインドに課したのである。 このような財政負担増大の状況にもかかわらず,政府鉄道への支出は74年より急増し, 77年を除いて79年まで年々高い水準にあった(表6)。これは既に述べて来たように,穀 物輸出の推進や国内産業の育成,市場の拡大,着払対策,帝国強化・国防政:策にとって, 公共事業,特に鉄道は根幹をなするものという政策観が支配であったことによっている。 40 76年以後,何度も鉄道を含む公共事業支出限度を年250万ポンドに抑える方針が出されな がら,79∼80年までその支出は一度も350万ポンドを下廻らず,平均400万ポンド以上であ った。これら公共事業の拡充のたあには,他の支出節約や増税さえ考えられ,78∼79年に は飢鯉救済のための公債を減少させる目的で線溶保険基金(the Famine Insurance Fund) が設けられ,このために増税さえなされたが,ここから少からぬ資金が鉄道建設に流れた (注20) のである。 二二救済のためには食糧増産につながる灌概支出に公共事業支出の重点を置くべきであ るという声は,イギリスでもインドでも決して少くなかった。例えば,Lord Lawrence はそのことを強調した一人であったが,イギリス人の関心をこれに向けさせることが出来 ず,むしろ,彼の総督時代に鉄道は二三よりはるかに急速に増大した。また,K:averi およびGodavari運河建設技師Sir Arthur Cottonもその一人であった。彼の大運河計 画を78年初頭のManchesterの大会合でJohn Brightが支持したが,一般に理解は得ら (注21) れない状態であった。こうして,表6にも示されているように,灌瀧支出は75年をピーク に低下していき,鉄道重視政策の方向は,その後も変えられることなく続けられたのであ (注22) る。 1870年代に入り,インド政庁財政の鉄道建設負担を援助する役割の一端を担ったものに, 州政府鉄道(Provincial State Railway)と藩王国政府鉄道(lndian State〔Native〕 Railway)がある。表4の7から14の路線が前者であり,16から19が後者である。70年代 に入って州政府の鉄道建設意欲が高まるに伴って,政庁はその経営に明確な方針を持たね ばならなくなるが,78年,政庁はインド大臣に,州政府への鉄道にかんする財政責任の委任 と州政府の融資力の向上をはかる提案を出したのであった。インド大臣は,インド人土地 所有者や資本家にインドの資源の開発に興味を持たせる政策としてこれに同意し,州政府 は州特殊債券(Provincial debenture)の発行を許るされて,81年までには865マイル余 (注23) の州政府鉄道を建設したのである。また,藩王国政府鉄道については,70年に,政庁が Hyderabadのthe NizamとIndoreのthe Holka1よりその地域の路線への財政援助 を取り付けたときより本格的な展開が始まるが,多くは政庁による建設と運営に資金を提 (注24) 供して利子と超過利益の分配に預かるといった形のものであった。 1870年代には,その他の形態の鉄道も若干建設されたが,全体からみれば重要度は小さ (注25) いので省略する。 1878年1月,飢謹の公共事業の進展に与える影響についての検討が,特別委員会に要請 されたが,彼等は,18回の会合を行ったにもかかわらず,まとまった意見を提出するとこ ろまで至らなかったため,79年2,月,Lord George Ilamiltonを委員長とする委員会に 再度検討が要請されたのである。6回の会合を経て出された報告書による勧告(79年7月 24日)の重要な点は次のようなものであった。第一に,種々の政府鉄道の建設費用は予算 をこえるときは,一律に借入れでまかなわれる構造になっていたが,それを,利子を負わ イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1789年 41 ないで政庁予算に組み込まれる部門一飢鯉保険基金鉄道,国境鉄道,その他の保護鉄道 と,借入金の利子を負いうる,従って政庁予算に組み込まれない部門一「生産的」 或は「商業的」鉄道一とに分離すること。第二に,後者の部門(他の公共事業も同じく) の新しい建設については,その収益が建設時を含む一切の利子に等しい場合のみ「生産 的」であるとみなされ,上記の意味で「生産的」な公共事業の公債は,インドの永久的 或は一般的公債とは別に切り離されると共に,収益が得られる範囲にその増大が限られる こと,などであった。報告書は,このような施策によって,財政負担は軽減され,公共事 業の収入も順調にのびるならば,保証なしで,地方行政体や民間個別資本家が事業にのり (注26) 出しうるようになるであろう,といった見通しまで述べている。レかし,このような方針 は,そのままの形ではなく,イギリス資本に利用される形で具体的には展開していくので ある。 一 置 その状況は,The East Railwayの政庁による買収交渉が始められた1877年に既に進行 し始めていた。その交渉の際,インド大臣Lord Salisburyは,鉄道の建設と運営を政府 agencyよりむしろ会社にまかせる方が適当であるという方針を出し,それを受けた財 務委員Sir Richard Stracheyによって,買収された後も運営は会社が行うことが内々に (注27) 約束されていたのである。80年代以降,イギリス資本の要求に沿って,政府鉄道形態の政 策は再び会社形態の鉄道政策へ転換していく。この転換は,イギリス資本主義の「大不 況」対策と関連しており,いわゆる「新帝国主義」の植民地政策への転換であった。この 点は稿を改めて検討しなければならない。 注(1)C.P. Tiwari, op. cit. pp.224∼4. (2)W.J. Macpherson, oP. cit. P.181, N. Sanya1,0P. cit, P.47. (3)エリ・ア・メンデリソン『恐慌の理論と歴史』飯田外訳2.(青木書店1960年)564∼78頁。 W.G. H:offmann, British Industry,1700∼1950, Translated by H:enderson, Chaloner(New York l955)ApPendix of Diagrams, P. Q, Y, Cc. (4)関税については,吉岡昭彦「大不況;期のイギリス綿業資本とインド輸入関税の撤廃」『市民社 会の経済構造』高橋,安藤,近藤編。(岩波書店1972年)220頁。 (5) N.Sarlya1,0P. cit, P.71. (6}C。P. Tiwari, oP. cit, P.247. (7) N.Sanya1,0P. cit, PP.72∼3. (8)N.Sanya1,0P. cit, PP.74∼6. C. P. Tiwari, oP. cit, PP.249∼52. (g)C.P. Tiwari, op. cit, pp.252∼5.:N. Sanyal, op. cit, pp.107∼9. (1① C.P. Tiwari, oP. cit, P.257. (11)N.Sanyal,oP. cit, PP.90∼4, C. P. Tiwari, oP. cit, P.255. (1助 N.Sanya1,0p. cit, pp.98∼103. (1鋤 C.P. Tiwari, oP. cit, P.259. 42 α4)N.Sanyal, oP. cit, PP.80∼81, C. P. Tiwari, oP. cit, P.263. ㈲ 拙稿「産業構造,産業循環の変容の歴史と論理一『大不況』の出現過程を中心に一」『再生産 と産業循環』高木幸二郎編(ミネルヴァ書房 1973)皿,第3節。 (1③吉岡照彦前掲論文220∼239頁。 ㈲B.M. Bhatia, op. cit, pp.82∼101. (1④ R.Dutt, op. cit, p.578. qg吉岡昭彦,前掲論文233頁,なお,政治的側面の概要については,石井摩耶子「イギリス植民 地支配の史的分析一インドの場合一」r植民地社会の変容と国際関係』山田秀雄編著 (アジア 経済研究所1969年)第三章,ユ45∼8頁。 2① N.Sanyal, op. cit, pp.81∼84. C. P. Tiwari, op. cit, p.265. (2エ}R.Dutt, oP. cit, PP.360∼3. ⑫B.M●Bhatia, op. cit, pp.197∼200. (2鋤 N.Sanya1,0P. cit, PP.85∼6. ②1) N.Sanyal, op. cit, p.87. ㈱ 例えば.藩王国政府による元利保証制鉄道:会社(1874∼1884),CalcuttaとBombayの港 湾トラストによる鉄道建設,そして,ビルマなど外国地域における政府鉄道や旧元利保証制鉄道 会社(1879)などがある。C. P. Tiwari, op. cit, pp.18∼20. ⑳ C.P. Tiwari, op. cit, pp.264∼7. (2の C.P. Tiwari, oP. cit, P.296. (4)結びにかえて一「自由貿易帝国主義」論争とインド鉄道建設 (注1) 「自由貿易帝国主義」論争のきっかけを作った周知のJ.GallagherとR. Robinson の共同論文において,ヴィクトリア中期の対インド諸政策は,その自由放任を特色とする といわれる時代においても,ヴィクトリア後期と同じ程度帝国主義は激烈な形で展開した という通説批判の主張の,極めて重要な論拠となっている。彼等は次のように主張する。 「インド帝国は伝統的な帝国主義の説明の最も明白なギャップをつきつけている。『均等 の時代(“period of indifference”)』といわれるその歴史上の一時期は,戦いと併合で満た されている。」更に,保証制鉄道建設に力点をおいて次のように云う。 「インドでは,イギリス支配の全ての時期を通して,課税の形態と阿片や塩といった重 要生産物の独占の形態を一方的におしつけるために行政権力を使うことができた。更に, 19世紀末のいわゆる帝国主義膨脹の諸特徴は,インドでは,Leninが経済的帝国主義時代 の開幕;期と信じた時(1880年)よりはるか前に展開した。イギリス産業によって要求された 行政による直接的な生産物育成,イギリス輸出を助けるための諸関税に対する行政の施策, 内陸開発のための高いしかも保証された利子率での鉄道建設一それら全ての直接的な政 策的統制の術策は,いわゆる自由放任の時代にそぐわないと思われる諸方法で行われた。 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 43 更に,それらは,特に鉄道融資に関して,民間伝承的な素朴な個人主義に沿って行われる ことは殆んどなかった。あるイギリス人官吏(L.Jenks……藤田)が書いたように, 『全ての貨幣はイギリス資本家が出した。彼はインドの財政収入で5%の利子が保証され さえずれば,彼が貸した資金がHooghly河に投げ込まれようと,煉瓦やモルタルに変ろ (注2) うと彼にとってはどうでもよいことだった。』」 彼等の主張には,LeninやJ.:Hobsonが1880年以前の帝国主義的動向を無視している (注3) 、 かのように云う誇張もあるが,資本主義の自由主義時代といわれる時;期の国家の積極的な 活動の問題,資本主義社会の構成要件を世界のひろがりにおいてとらえる問題,ひいては, 様々な帝国主義の形態をどのように整理し,1880年以降の帝国主義論をどのような形でよ り豊かな内容のものにしていくか,等の重要な開拓すべき問題を含んでいることは確であ る。 しかし,19世紀を通して,帝国主義の性質とその政策に何等大きな変化がないという主 張は疑問と云わざるをえない。D. C. Plattは,彼等の主張を批判し,ヴィクトリア後期 に政策の質的な革命があったことを主張して次のように云っている。「1880年以降の政策 の革命(revolution)は,イギリス通商と投資の機会を不変のまま維持することが,政府 の責任にかんする全く新しい理念一即ち,通商上,金融上の利益における収益と効果の 諸領域にかんし先取権を持った併合地と完全な境界画定を含む一つの理念一に依存する ことを容認したことであったξ」だがPlattは,この質的な変革を強調するあまり, 「イ ギリス商業上,金融上の対外政策の支配的特徴は,非干渉と自由放任であり,帝国主義は, 非公式なもの(informal)も公式なもの(forma1)も,自由放任から期待されるべき結果 (注4) 的な事柄であった。」といっている点などは,その時代の国家の経済への介入の評価が不 充分であるように思われる。彼のその主張および批判は,主としてイギリス帝国のinfor− ma1な部分,ラテン・アメリカや中国についての考察に依ってなされているが, forma1 な部分(このような分類はGallagherとRobinsonのものである)の代表であるインドに かんして,彼はいささか勇み足をしている。それは,インドでの国家主導による強力な政 策は例外的場合のように表現し,Manchester Schoo1は確かにインドの公共事業や元利 保証制を支持したが,それを他へ及ぼそうとはしなかったし,インドは既にイギリスに拘 束されていた。だから,CobdenやBrightは,帝国的膨脹にどんなに理論的には反対し なければならないとしても,実際的にはインドから手を引くことは混乱を招くだけである (注5) と考えざるをえなかったのだ,と註で述べている点である。 この点は,Gallagher, Robinsonを支持するP. Hamettyによって批判された。彼 は云う。インドは単に一つの継承的な帝国であっただけではなく,膨脹はイギリスの1846 年自由貿易の勝利の後で続いたのである。また,歴史的に帝国の態度を考えるに際して, インドを除いて考えるのは不可能であり,インドが例外的と云うなら,アイルランドやそ (注6) の他の植民地もある程度まで例外的だと云うことになる,とつめ寄っている。この批判は 44 説得的である。Plattも,最近の論文では,殆んどインドをとりあげず,もっぱらinfor− ma1な部分,ラテン・アメリカ,レヴァント(the Levant),中国の考察に依って再三 (注7) 判を展開している。 ところで,インドにかんする「自由貿易帝国主義」の主張は,Harnettyが最も充実し ており,多くの鋭い指摘を含んでいる。しかし,GallagherとRobinsonの場合と同じく, 1880年以前と以後との大きな変化を否定し,その大きな変化の支持者の見解を自由放任主 義,自由貿易主義への信頼が軸になっているとみなして議論する。従って,自由主義時代 とみなされたヴィクトリア中期,せいぜい70年代初めまでの対インド政策が,いかに反自 由主義的であり,国家主導による他民族支配の政策であり,即ち,帝国主義的であったか という議論の運びになっている。インド鉄道建設についても,60年代までの元利保証制鉄 道の国家主導的側面が帝国主義と関連づけてとりあげられており,GallgaherとRobinson の視野の限界を引き継いでいる。つまり,そこには,国家の役割を充分考慮した上で,そ の役割の性質,政策の性質の80年代以降の帝国主義とそれ以前との違いを論じる視角が入 る余地は与えられていないのである。 インドの鉄道建設とイギリス帝国主義との関係の本格的な論議は,イギリスの「大不 況」とインド鉄道建設,より具体的には80年代以降の変形された保証制会社の再導入(イ ンド鉄道建設史第三期)の検討をまたねばならないが,その問題について,旧元利保証制 鉄道から政府鉄道(第三;期)へのインド鉄道政策の変化は一つの示唆を与えている。旧元 利保証制鉄道は政府鉄道に比べるとイギリス資本家,殊にイギリス綿業資本の圧力にゆさ ぶられ,徹底的に利用され,政府,殊にインド政庁の主導性は極めて限られたものであっ た点に特色がある。しかも,しばしば強調したように,鉄道会社の採算は初めから無視さ れうる機構を持っていたのであり,非組織的で持続的力のない,全ての面で放漫を許容す る構造を持っていた。このことは,イギリスの産業循環,殊に恐慌,不況時に関連してイ ンド植民地政策の強化策が出現している点にも示されている。これは,イギリス資本主義 の自由主義の自己中心的な性質の植民地におけるあらわれと云えるであろう。 政府鉄道は,上記の破産型の機構を国家の干渉力の強化によって補修し,鉄道を再生産 しつつ拡大する形へ転換し,そのことが結局,例えばLord Lawre11叩の政策路線が目 指したような,より「安価な政府」一財政負担の軽減を実現する,という意図をもって登 場した。保証制鉄道に比してインド政庁の主導力は強まったが,利益を生みうる路線の運営 は会社が担当するという妥協的な形態に示されるように,放漫経営を徹底的に排除し,抜本 的な財政負担軽減を実現するには不充分な態勢であり,放漫を抑制する機構でしがなかっ たのである。そればかりが,政府鉄道政策は,保守党への政変と共に当初の「安価な政府」 への志向を失い,Lord Lytton等の帝国強化・強硬外交政策の有力な手段として利用さ れていくのである。しかし,その政策は,一応政府鉄道の形態でインド政庁が鉄道自らの 再生産の可能な条件を作り出すことによって,80年代以降政府主導の鉄道建設に加えて, イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 ユ844年∼1879年 45 び変形され再た保証制会社の導入をはかり,イギリスの「大不況」対策の重要な一環と (注8) して要請された,強力な植民地鉄道拡大政策の展開への道を拓いたのであった。 注(1)この論争のこれまでの主要な論点については,矢口孝次郎編著『イギリス帝国経済史の研究』 (東洋経済新報社 1974年)第二章(矢口孝次郎) (2)J。Gallagher and R. Robinson,‘‘The Ilnperialism of Free Trade”TんθE60ηo痂。 H説。プツRεηガθω,Second Series, Vo1. V1, No.1(1953)PP.4∼5. (3)1880年以前の帝国主義について,レーニンには,例えば次のような指摘がある。・「イギリスの 特殊性は,すでに19世紀の中葉にさえ,帝国主義の少くとも二つの最大の特徴がこの国に存在し ていたということにある。それはe広大な植民地と,(⇒独占利潤(世界市場における独占的地位 、 の結果として)である。」「帝国主義と社会主義の分裂」邦訳『レーニン全集』第23巻(大月 書店)119頁。 J.H:obsonもこの点に充分注意を払っている。例えば,lmperialism, a Study (George AUen£Unwin 1936)pp.286∼304. r帝国主義論』矢内原忠雄訳(岩波書店)下212∼233頁。 また,Hobsonは80年以前の「旧帝国主義」を商業的膨脹によって特徴づけ,80年以後の「新帝 国主義」の特徴を,(1)いくつかの帝国主義国の激しい競争,(2)金融・投資的利益の商業的利益に 対する優位,としている。ibid. p.304前掲訳書234頁。 (4)D.C. Platt,“The Imperialism of Free Trade:Some Reservation”TんθE60πo漉6 1五∫加ry R8η琵ω, Vol. XXI,(1968)pp.305∼3Q6. (5) D.C. Platt, oP. cit, P.296. (6)P.Harnetty, oP. cit, P.4. (7)D.C. Plat七,“Fur七her Objections to an“Imperialism of Free Trade”,1830∼60.” TんθE60ηo痂σH魏orツR6η’θ測, Vol. XXVI, No.1(1973)。 (8)拙稿「イギリスの「大不況」 (1873年∼96年)に対する諸資本家の対外的対策構想一『商工業 不況調査委員会報告書』 (1886年)を申心に一」『経営と経済』 (長崎大学)Vo1.51∼4, No. ユ26(19フ2年). 46 インドの財政 図 1 (1,000£) 60,QOO ア 1 55,000 ノ ノ 〆’・の、/ 50,000 〉 / 逐プ 総支出 , ‘ へ,バノ 45,000 / v / 40,000 /\総収入 1 戸 噂 35,000 1 ’ ,4 ♂ 30,000 ! イ む ノ / 「● 4_型〆 ・!庁 25,000 メ ノ 50 55 60 65 70 75 (会計年) イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 4ワ 付表1インドの輸入 £ 入 綿糸・綿製品 1850∼51 11,558,789 4,681,690 20,666 51∼52 12,240,490 6,161,913 .14,337 52∼53 10,070,863 4,797,933 26,457 53∼54 11,122,659 5,739,438 52,788 54∼55 12,742,671 6,677,342 126,303 55∼56 13,943,494 6,362,279 435,512 56∼57 14,194,587 6,133,327 244,433 57∼58 15,277,629 5,726,618 465,453 58∼59 21,728,579 9,803,143 587,566 59∼60 24,265,140 11,698,928 871,531 1860∼61 23,493,716 11,058,l18 870,251 61∼62 22,320,432 10,245,400 553,883 62∼63 22,632,384 9,630,530 506,518 63∼64 27,145,590 11,945,663 585,516 64∼65 28,150,923 13,227,325 554,156 65∼66 29,599,228 13,810,358 586,182 66∼67 29,038,715 15,096,806 601,740 67∼68 35,705,783 17,698,267 1,057,861 68∼69 35,990,142 18,852,485 793,183 69∼70 32,927,520 16,271,216 555,742 1870∼71 34,469,1].9 19,044,869 447,543 71∼72 32,091,850 17,483,333 405,835 72∼73 31,874,625 17.234.249 517,316 73∼74 33,819,828 17,784,625 1,002,347 74∼75 36,222,113 19,421,340 1,185,943 75∼76 38,891,656 19,244,981 1,391,667 76∼77 37,440,631 18,725,233 882,373 年 総1 輸 R.D1ユtt, op. cit. p.160,161,343,345より 機 械 48 付表2 付表3 インド旧保証制鉄道会社の損失 イギリスの原綿輸入 Rs, 年々の損失 年4%利子を 原綿輸入総量 含む損失累計 Lbs.000/s インドか アメリカ らの輸入 からの輸 割合 入割合 % 1850∼51 2.39,953 3.0,841 工850 663,577 18 74 51∼52 6.71,030 7.03,105 1 757,380 16 79 52∼53 8.89,058 16.20,287 2 929,782 9 82 53∼54 ユユ.70,948 28.56,046 3 895,279 20 74 54∼55 1O.79,561 40.49,849 4 887,333 14 81 55∼56 42.57,574 84.69,417 5 891,751 16 76 56∼57 64.00,180 1.52.08,374 6 1,023,886 18 76 57∼58 78.94,060 2.37.10,769 7 969,319 26 68 1,034,342 13 81 1,225,989 16 78 1,390,939 15 80 1,256,985 29 65 58∼59 1.03.36,589 3.49.95,789 8 59∼60 1.51.48,036 5.15.43,657 9 60 % 1860∼61 1.63.33,140 6.99.38,543 61∼62 1,90.51,351 9.17.87,436 62∼63 1.97.12,301 11.51.71,234 2 523,973 75 3 63∼64 2.06.67,738 14.04.45,821 3 669,583 65 1 64∼65 2.07,75,013 16.68.38,667 4 893,305 56 2 65∼66 3:L.61,624 17.66.73,838 5 977,978 45 14 66∼67 1.21.49,234 19,58.90,026 6 1,377,129 45 38 67∼68 1.66.93,616 22.04.18,794 7 1,266,537 39 42 68∼69 1.90.53,187 24.82.90,733 學 1,328,084 37 43’ 69∼70 1.61.85,827 27.44.08,189 9. 1,220,310 39 38 1870∼71 1.81.Ol.283 30.38.85,799 70 1,339,367 26 54 71∼72 1.61.36,231 33.21.77,462 1 1,778,190 24 58 72∼73 2.21.91,500 36,76.56,060 2 1,408,837 31 44 73∼74 1.53.46,646 39.77.08,948 3 1,527,596 24 55 74∼75 1.33.77,114 42.69.94,420 4 1,556,864 26 56 75∼76 1.27.34,724 45.68.08,920 5 1,492,351 26 56 76∼77 88.02,ユユ0 48.38.83,386 6 1,487,859 19 63 77∼78 一 41,50,498 49.90.88,223 7 1,355,281 14 67 78∼79 1.53.47,669 53.43.99,420 8 1,340,380 12 77 79∼8G ユ.64.28,586 57.22.03,982 9 1,469,358 12 74 1880∼81 ユ.40.86,611 60.91.78,752 80 =L,628,665 13 75 C.P. Tiwari, op. cit。 ApPendix 3 Aより ]. W.Page, Commerce and Industry柴柴 Statistical Tables.(London l919) No.48, No.58より 49 イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年∼1879年 付表4 アメ リカ 21 5 17 6 22 7 8 9 21.6 millior1 £ ドイツ % 1854 イ ギ リ ス の 輸 出 フランス % 9 9.3 3 オラ 塔_ % % 3.1 5.2 帝国三二 63 i% 64.9 イ 9 ンド オースト 堰@リア @ 菅 % % 9.3 12.4 植民地計 34 % 35.1 全 体 97 10 6 69 10 27 96 12 6 83 11 33 116 19 13 6 85 12 37 122 !4 13 5 77 17 40 117 5 84 1 22 11 79 20 130 46 1855−9 19 1860 22 13 5 92 17 44 136 =L 9 13 9 83 16 42 125 2 14 13 9 82 15 42 124 3 15 13 9 96 20 51 147 4 17 15 8 109 20 51 160 !6.4 12 13 10.2 6 4.7 92 68.5 14 12.1 8.4 37 46 31.5 ll6 138 1860−4 15 1865 21 18 9 118 18 48 166 6 28 16 12 135 20 54 189 7 22 20 12 131 22 50 181 8 21 23 ll 129 21 50 179 9 25 23 11 142 18 48 190 ll 131 10.9 9.4 8 4.8 5.8 4.3 66.6 18 13.0 8.0 33.4 1865−9 24 1870 28 20 12 148 19 52 200 1 34 27 18 172 18 51 223 2 41 32 17 196 18 60 256 3 34 27 17 189 21 66 255 4 28 25 16 168 24 72 12.9 20 1870−4 33 1875 22 23 6 17 7 16 8 9 1875−9 14.1 26 11.1 工1.1 16 6.1 6.8 5.3 6.0 175 15 152 20 16 136 20 ユ4 15 19 20 19 18 9.0 20 10.0 72.4 74.4 20 10.9 20 24i 6.9 6.0 50 60 27.6 181 235 23 65 201 129 25 70 199 15 127 23 66 193 15 131 22 61 192 5.1 135 66.9 23 11.3 9.1 67 100 100 240 223 7.5 100 125.6 71 15 % 100 33.1 202 100 100 Statistical Tables and Charts relating to British and Foreign Tra(!e and Industry (1854−1908)(1909)pp.34∼44より * ニュージーランドを含む
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