スペインフランコ政権下における ファランヘ女子部の海外展開とその意義

スペインフランコ政権下における
ファランヘ女子部の海外展開とその意義:
「コーラスとダンス」の活動を中心に(1937-1977)
齊 藤 明 美
0 はじめに
0-1 問題の所在
本稿は拙稿「フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における〈創られた伝統〉
:
ファランヘ女子部〈コーラスとダンス(Coros y Danzas)〉の活動を中心に」1 の
続編である。
前回は主に、スペインフランコ体制下の管制女性団体ファランへ女子部
(Sección Femenina, SF)2 の「コーラスとダンス(Coros y Danzas, CYD)」
の国内活動に焦点を当て、民謡・民族舞踊の収集・普及・保存を通して、彼女
らがどのように「新スペイン国家」の文化政策の一角を担ったのか、その歴史
的意義を検討した。SFは第二次大戦終了まで、ナチス・ドイツ女性団と交流
1
齊藤明美「フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」:ファラ
ンヘ女子部〈コーラスとダンス(Coros y Danzas)
〉の活動を中心に」
、
『駒澤大学総
合教育研究部紀要』第8号、2014年、325頁‐354頁。
2
S F 研 究 の 代 表 例 と し て、GALLEGO MÉNDEZ, María Teresa. Mujer, Falange y
Franquismo. Madrid: Taurus, 1983;FERNÁNDEZ SUÁREZ, Crónica de la Sección
Femenina y su tiempo. Madrid: Asociación Nueva Andadura, 1993; RICHMOND, Kathleen,
Las Mujeres en el fascismo español -La Sección Femenina de la Falange,1934-1959‐,
Madrid, Alianza, 2004; SÁNCHEZ LÓPEZ, Rosario, Entre la importancia y la irrelevancia:
Sección Femenina de la República a la Transición, Murcia: Consejería de Educación y
Cultura, Servicio de Publicaciones, 2007等がある。
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齊 藤 明 美
を図り、女子教育や国民統合の為の民謡・民族舞踊の活用例を学びつつ、SF
の活動にコーラス・ダンスグループの結成、民謡の収集・保存・出版や全国コ
ンクール開催を導入した。
フランコ体制にとって
「文化」
とは、1935年エルネスト・ヒメネス・カバジェー
ロが『国家と文化』で示したとおり、
「国家に奉仕する《道具》」としての政治
的役割が強かった3。なかでも民謡は、内戦後、
「勝者」と「敗者」に分断され
たスペイン国民を祖国愛の名の下に一致団結させるための最適なツールとして
奨励されたが、その中核となったのがSFであった。彼女らの活動は、娯楽や
芸術という枠組みを超え、女性の教化や愛国心の涵養のみではなく、SFやフ
ランコ体制のイデオロギー宣伝媒体としての役目も果たし、フランコ体制の文
化政策においても重要な役割を担ったことが前回確認された。
今回は視点を国外に移し、SFの対外交流が開始された1937年からSF解散
の1977年までの40年にわたる「コーラスとダンス」を中心としたファランヘ女
子部の海外活動の展開とその実態を明らかにし、フランコ政権の外交戦略にお
けるSFの果たした役割を考察することを主な目的とする。
0-2 先行研究と利用史料の紹介
まずコーラスとダンスの海外活動に関する研究史について簡潔に整理、紹介
したい。CYDが本格化にスペイン現代女性史のテーマとして扱われ始めたの
は2000年以降であり、現時点(2014年秋)における研究の蓄積は必ずしも多い
とは言えない。だがフランコ政権下の文化の政治利用やその中でのファランヘ
女子部の役割を考察する過程において、CYDの海外での活動を無視すること
はできず、
今後のSFの海外事業に関する研究の広がりと深化が期待されよう。
このテーマがSF研究論文に初めて現れたのは、1990年代中旬から後半で
3
齊藤明美「スペインフランコ体制初期における音楽政策の成立とその展開:奨励と
規制(1936-1951)」
『外国語論集』駒澤大学総合教育研究部第1・第2部門 第17号、
2014年、111頁。
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スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
新
た
な
あり、ルイス・スアレス・フェルナンデス監修SF元会員グル―プ「ヌエバ・
道
の
り
ア ンダドゥーラ(Asociación Nueva Andadura)」(1993)、マリーアーリン・バ
ラチナ(1998)
、エストレージャ・カセーロ(2000)等がその代表である。
1993年 刊 行 の『 S F 年 代 記 と そ の 時 代( 以 下、 年 代 記 )
(Crónica de la
』は歴史家スアレスの監修の下、元SF会員有
Sección Femenina y su tiempo)
志により編纂された 500 頁を超す年代記であるが、文字通り「SFによるSF
史」であるといえよう。当事者が執筆、編集したことから記述の客観性が若干
危惧されるが、この本が刊行された1990年前半では多くのSF内部史料への一
般研究者のアクセスが制限されていたこともあり、当時の有益な情報源の一つ
となった。
この『年代記』の第二部第六章「南十字星まで踊りながら Bailando hasta la
Cruz del Sur」では、それまで語られることの少なかった「コーラスとダンス」
の中南米、欧州公演の様子が詳細に紹介された。
『年代記』という性質上、その
内容は単なる出来事の羅列に終始しており歴史研究書としてはいささか物足り
ないが、このテーマに関して30頁近くの独立した章が設けられた事は、CYD
の海外遠征が元SF会員にとって強い印象を残したことの表れと考えられる。
バラチナの1998年論文「SFコーラスとダンスについてのノート(19381952)4」 は1938年から1952年までのCYDの歩みを簡潔にまとめた研究ノート
である。CYDの海外遠征についてはCYD活動全体の一部として言及される
のみだが、CYDの時期区分を提案したことはバラチナ論文の特筆できる点で
あるといえよう。1939年のメディナ内戦戦勝祝賀会から1942年の第一回CYD
全国大会を「スタート期(1939-1942)
」
、1942年からスペインの国際舞台復帰
がほぼ整った1952年までを「発展期(1942-1952)」と区分し、特にイギリスの
フォークローレ国際大会参加をきっかけに初遠征を果たした1947年から1952年
までを「海外進出(proyección hacia el exterior)期」とした。CYD海外公演
4
BARRACHINA, Marie-Aline, “Notas sobre los Coros y Danzas de la Sección Femenina
(1938-1952)” en J. Carbonell i Guberna(ed.), Els Orígens de les Associacions Corals a
Espanya(S.XIX-XX), Barcelona ; Oikos-tau, 1998, pp. 109-118.
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齊 藤 明 美
の開始を、その後のSF全体の海外活動の発展の契機とし、その重要性を主張
した。さらにバラチナはCYDをスペイン語圏諸国と欧米諸国への「
(国際舞
ディスクレート
台からの撤退以来)初の控えめな使節団」と呼び、それによりSFは文化交流
の担い手として、新たな使命を負ったとした5。バラチナ自身も「派遣事業の
重要性とその実像に迫るためにも予算書や報告書等の一次史料に基づいたさら
なる検討が必要である」と述べているように、CYDの海外派遣について扱っ
たのはわずか3頁のみで、しかも1960年代以降については言及されておらず文
字通り「研究ノート」の域を脱していない 6。
カセーロ・エストレージャ著『フランコと踊ったスペイン、ファランへ女子
部のコーラスとダンス』
(2000年)は初の本格的な「コーラスとダンス」研究
書であり、後続研究者にとっての必読書となっている。カセーロは時代区分に
ついて、第一回南米ツアーが行われた1948年から1962年を「(CYDの)基礎期」
とし、前出のバラチナ同様、CYD海外遠征をフランコ体制の「外交使節団」
と位置づけた7。さらに反ファシズム国家や共和国派スペイン亡命人を多数保
護する国においてもCYDが歓迎された点、CYDの国外での政治的・芸術的
成功がフランコ体制内でのSF全体の評価の向上や予算獲得にプラスとなった
点などの新たな視点を提示したが、具体的な海外活動については断片的に触れ
られているのみである。
ファランヘ女子部「コーラスとダンス」の外交活動が個別の研究対象となっ
たのは、2000年代中盤からであった。現在、ベアトリス・マルティネス・フレ
スノ(2010)
(2014)
、
アントニオ・モラント(2008)
、
ピラール・アマドール(2003)、
マリア・ラモス・ロサーノ(2011)
、バネッサ・テサ―ダ(2014)等の研究が
ある8。本稿においても上記研究の整理、分析を行うが、以下簡単に各論文の
5
ibidem.,p.114.
6
ibidem.,p.115.
7
CASERO, op.cit., p.51.
8
TESSADA.Vanessa, “Fronteras de la Comunidad Hispánica de Naciones. El aporte de la
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スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
ポイントを紹介する。
フレスノはフランコ体制期の音楽と政治の関係を長年のテーマとしている
が、近年、ファランヘ女子部の海外音楽交流にも関心を寄せている。これまで
1937年から1943年までのSF枢軸友好国との音楽、ダンス交流についての論文
(2010)と、1948年のCYDアルゼンチン海外遠征に関する論文(2014)2本
を発表している。2010年論文は、1943年ドイツの形勢が悪化するまでのSFと
独・伊・ポルトガル管制女性団体の相互訪問に関心を寄せ、SFがどのように
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la Mujer de la Universidad de Alicante, Nº. 2, 2003, pp. 101-120.
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枢軸国から音楽やダンスを用いた国威発揚、女子教育のノウハウを学び、それ
を応用したのか、当時のSF雑誌の記事を参考に分析したものである。モラン
ト(2008)も、SFとドイツの友好関係について、1938年から1943年まで計六
回行われたファランヘ女子部全国代表ピラール・プリモ・デ・リベラの独訪問
を軸に、SFの対枢軸国外交について詳細に分析している。
第二次大戦後のSFの海外戦略に関しては、1948年の第一回CYDアルゼン
チンツアーを対象としたフレスノ(2014)の論文が詳しい。フレスノはツアー
実現までの経緯、現地での行程とその評判、SF代表や在アルゼンチン大使の
連携やそれぞれの思惑を当時の書簡などを用い検討し、CYDの外交舞台にお
けるフランコの宣伝プロパガンダとしての役割や文化の「道具化 ( インストゥ
ルメンタリサシオン )」について考察した。
またテサーダ(2014)は第二次世界大戦後のイスパニア圏へのファランヘ女
子部海外事業とその意義に関して、1940年代末のCYD海外公演以降の展開に
ついても視野に入れた最初の研究といえよう。1951年のイスパノアメリカ・
フィリピン国際女性会議、海外交流奨学金制度や各国のスペイン文化サークル
の活動等の多様な取り組みを紹介、分析し、フランコの「イスバニダー共同体」
構想実現のためにSFが果たした役割について考証した。
CYDのプロパガンダ効果に注目したのは、アマドール(2003)とロサー
ノ(2013)であった。 アマドールはCYDの中南米ツアーを題材とした映画
『Ronda Española』(ラディスラオ・ヴァホダ監督1952年)を分析し、女性ダン
サーや民族舞踊・民謡が具現化したフランコ体制のプロパガンダの各要素を検
討した。またスペインにテレビが普及する60年代以前の映像ニュースは、NO
DOと呼ばれた映画ニュース(Noticiarios y Documentales Cinematgráficos)が
唯一であり、全ての映画館において上映前に15分ほどのニュースダイジェスト
を流すことが義務付けられていた。SFや「コーラスとダンス」も頻繁に取り
上げられたという。ロサーノ(2013)は1943年から1953年のNODOにおける
SF像について詳細に分析し、CYDに関する映像が占める割合の多さを指摘
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スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
し「コーラスとダンス」の宣伝媒体としての姿を明らかにした。
先行研究の議論を吟味し、さらに考察を深めるために以下の一次史料を利用
する。
(国民運動、
Movimiento Nacional (España) Delegación Nacional de la Sección Femenina 女子部)
-Concentración nacional de las Falanges femeninas en honor del Caudillo y del Ejército
『総統と軍を祝勝するためのメ
español Medina del Campo 30-5-1939. Madrid. 1939.(
ディナ・デ・カンポ全国集会』)
-Canciones y danzas en España (9ed.), Madrid. FET y de las J.O.N.S. Sección
Femenina,1965.(『スペインの歌とダンス』)
FET y de las J.O.N.S. Sección Femenina(ファランヘ女子部)
『ファランヘ女
-Sección femenina de Falange Española Tradicionalista y de las J.O.N.S .(
子部』)s.f.(刊行日付なし9)
(『総会記録年報:1937、
- Crónica de los Consejos : años 1937, 1938 y 1939.
1938、1939』)
Madrid, 1939?10
- Crónica de los consejos : años 1940, 1941, 1942 : (libro segundo).『総会記録年報:1940、
1941、1942』)Madrid,1942?11
- Labor realizada en 1948,(『1948年度活動報告書』)Madrid,1949.
-Historia y Misión,(『歴史と使命』)1951.
)1953.
-Alcance y acción de la Sección Femenina,(『SFの到達と活動』
Archivo de folklore de la Sección Femenina (Biblioteca Nacional de España, Departamento
de Música)12
ファランヘ女子部フォルクローレアーカイブ(スペイン国立図書館 音楽課所蔵)
9
内容から 1939年直後の刊行と予想される。
10
スペイン国会図書館の目録に「1939年?」と掲載されている。
11
スペイン国会図書館の目録に「1942年?」と掲載されている。
12
SF内部文書は1999年までSF会員同窓会「ヌエバ・アンダドゥーラ(新たな道
のり)
(Asociación Nueva Andadura)が管理していたが、同窓会解散を受けCYDの
活動を含む民謡や民族舞踊関連資料はスペイン国立図書館音楽課に、それ以外は王立
- 123 -
齊 藤 明 美
0-3 本稿の目的と構成
本稿では次の問題点を考察することを目的とする。
1)ファランヘ女子部およびCYDの海外活動の目的とその実践。 コーラスとダンスはフランコの「文化大使」であったと様々な研究書に書か
れているがその実態はあまり明らかにされていない。1937年から1977年までの
40年間のSFおよびコーラスとダンスの海外活動がどのような目的に基づき組
織、展開されていったのか、またその実態と到達点について、先行研究及び、
SF全国総会年報や活動記録等のSF関係一次史料を用いて考察する。
2)SFにとって海外活動はどのように認識されていたのか。 ピラールSF代表やメンバーにとって、CYDやSFの海外事業はどのよう
な意味を持っていたのか。またその認識は時代とともに変化したのか。それら
について1940年代から1970年代のSF関連資料およびスペイン国立図書館所蔵
CYD史料に基づき考察する。ピラールに関しては、上記の史料の他、演説、
書簡集(1950年)や晩年出版された回顧録(1985年)等も参照する13。
上記二点について、第一期:枢軸国との交流(1937年~1943年)
(第1章 )、
第二期:CYDのスペイン語圏への派遣(1948‐1951)
(第2章)
、第三期:
1951年以降のSF海外活動の展開と変容(第3章)と3つの時期に分けて論じ、
フランコ体制の対外政策におけるSFの果たした役割について検討する。
歴史アカデミー(Real Academia de la Historia)へ寄贈された。1977年のSF解散時
にCYD関係者によって作成された「引き継ぎ文書」を2013年の音楽課訪問時に目
にする機会を得た。1977年時点のSF会員によるCYD活動の到達点および今後の
展開についての考えを読み取れる興味深い史料である。(BNE,M.SEC.FEM./Archivo
Documental “Nueva Andadura” temas de folklore, carpeta (1), (2)1977)
13
PRIMO DE RIVERA, Pilar, Discursos circulares escritos, Madrid : Afrodisio Aguado: FET
y de las J.O.N.S. Sección Femenina,1950; PRIMO DE RIVERA, Pilar, Recuerdos de una
vida, Madrid : Dyrsa, 1983.
- 124 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
1 枢軸国との交流(1937‐1943)
1-1 背景
この章では1937年からドイツの敗戦が明確となった1943年までの期間のSF
の海外活動の展開とその意義について考察する。まず当時のスペインを取り巻
く国際情勢とフランコの対外政策及びFET(Falange Española Tradicionalista
y de las JONS)14 の海外支部設立について概観したい。
スペイン内戦中の独伊によるフランコ反乱軍への援助はよく知られている
が、両国とFETの前身のファランヘ党との関係は内戦以前から築き上げられ
てきた。ムッソリーニとヒトラーの影響を強く受けたピラールの兄のホセ・ア
ントニオ・プリモ・デ・リベラがファシズムの系譜であるファランヘ党を設立
したのは1933年10月であった。その2年3カ月後の1936年1月1日、イタリア
のミラノにてホセ・アントニオの命を受けた学生グループによるファランヘ党
海外支部(Falange Exterior)第一号の誕生が枢軸国での基盤形成の始まりとなっ
た。
同年7月にスペイン内戦が勃発すると、外国に居住するフランコ反乱軍の支
持者から衣服、
生活必需品などの救援物資が党宛てに届き始めた。1936年10月、
その管理を目的とし、在外スペイン人が多い中南米やイタリア、ドイツ、フラ
ンスなどの欧州を中心とした組織的な海外支部設立が決定された。1937年4月
の政党統合令を受け、ファランヘ党は王党派JONSと合併しFETに生まれ
変わったことから、ファランヘ海外支部はFET管轄下に置かれた。それによ
り海外サービス部長もフェリペ・ヒメネスからホセ・デ・カスターニョへ変更
14
新ファランへ党のこと。SFは、1934年7月プリモ・デ・リベラの息子のホセ・
アントニオをリーダーとするファシスト政党の旧ファランへ党の女子部として創設。
SF代表は党首の妹のピラールが任命された。1936年の共和政府によるホセ・アン
トニオ党首処刑後、1937年4月にフランコは「政党統合令」を発布、旧ファランへ
と王党派 JONS が合併され、「新ファランへ党(FET y de las JONS)
」となりフランコ
は自ら党首に就任、以後「国民運動 Movimiento Nacional」の動員組織としての役目
を担った。
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となった。その後も枢軸国や中南米にてFET海外支部の組織下が急速に進ん
だが、次第にその活動目的も内戦開始直後のフランコ側への支援物資の受入れ
供給から、フランコの対外プロパガンダ政策の拠点としての役割に変容して
いった15。
次にファランヘ女子部の海外拠点について紹介する。SFも本体のFETと
同様、内戦が終了するまでの間にラテンアメリカの主要国、独、伊、ポルトガ
ルなどに拠点を置くことに成功した。
スペイン内戦中の1937年11月にSFの中央組織内に初めて海外サービス中央
代表部局が設置されたが16、その活動は当時のSF史料にも詳しく取りあげら
れている。ここでは、内戦終了までの海外サービス部局の動向について、当時
のSF大会年報等を参考にしながら紹介する。
1938年1月に開催されたSF全国総会の『年報』にて海外サービス部に関す
る4ページの特集が組まれ、新部局発足直後の活動の様子、組織構成やその目
的などが大きく取り上げられた17。以下、この史料をもとに内戦中の海外サー
ビス部の状況について述べたい。1936年のスペイン内戦勃発以後、SF宛てに
も祖国愛に目覚めた多くの在外スペイン人コミュニティーから沢山の援助物資
や募金が送られてきた。ピラールはその好意に感謝するとともに、在外スペイ
ン女性達の熱意をフランコの国民運動(movimiento)の下に統合するために、
マリア・ホセファ・ビニャマタスを部代表に任命しSF海外サービス部を発足
させた18。SFの母体であるFET海外サービス部の方針に従い、海外のFE
T拠点の一つとして「一つの偉大で自由な」ファランヘの目指す国家サンジカ
15
GONZÁLEZ CALLEJA, Eduardo, “El servicio exterior de Falange y la política exterior
del primer franquismo:consideraciones previas para su estudio”, Hispania, LlV 1, núm.186
, 1994, pp.279-307.
16
SF, Sección femenina, op.cit, p.200.
17
FET y de las J.O.N.S. Sección Femenina, Crónica de los Consejos : años 1937, 1938 y
1939, Madrid, 1939?, pp.47-50.
18
ibidem.p.47.
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スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
リズムの普及と祖国愛の涵養、さらには女性同士の相互扶助の促進のために在
外スペイン人女性を「女性の家」の下に組織することが目的とされた19。また
海外におけるスペインへの理解を深めるために、文化研修旅行の企画も担当し
た20。
これらの課題に取り組む為、部内に人事課、通信課、プロパガンダ課、経理課、
情報課の5つの下部組織が置かれた。人事課は海外支部会員名簿の管理、通信
課は書簡の執筆とその管理、経理課は募金の管理、プロパガンダ課はSF出版
物・雑誌の海外への送付、情報課は各海外支部の活動報告の管理を担った21。
内戦中に関わらず、SF海外支部の組織化は中南米やドイツ、イタリアを中
心に急ピッチで進められた。1938年の同史料によると、当時まで中南米15カ国
(アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、パラグアイ、ボリビア、ペルー、ブラジル、
ベネズエラ、パナマ、グアテマラ、コスタリカ、エルサルバドル、キューバ、
プエルトリコ、ドミニカ共和国)とアメリカ、ドイツ、イタリアの計 18 カ国
にSF海外支部が置かれた22。
内戦直後の別のSF史料によると、1939年の時点で7カ国増の25の国と地域
にSF海外支部と合計5000人の会員が存在していたとされ、活発な海外展開の
様子が伺える。海外拠点の大半は、旧スペイン植民地の中南米諸国17カ国(上
記の15カ国にコロンビア、メキシコが追加)であったが、欧米諸国(ドイツ、
イギリス、イタリア、ポルトガル)
、アメリカ合衆国、フィリピン、タンジェ、
仏領モロッコにも存在した。その中で地方支部を有したのは、アルゼンチン(16
支部)
、
キューバ(5)
、
チリ(3)
、
パラグアイ(4)、パナマ(2)、プエルトリコ(2)、
ドイツ(2)、イタリア(5)であり、これらの地域においてSF支部の活動が
19
ibidem.p.50.
20
ibidem.p.47.
21
ibidem.pp.47-48.
22
ibidem.p.48.
23
Movimiento Nacional SF, Concentración nacional...op.cit.,1939, p.26. フ レ ス ノ は 海
- 127 -
齊 藤 明 美
より活発であったことが読み取れる23。
1939年の内戦終了を受け、SF海外サービス部の使命にも変化がみられた。 『ファランヘ女子部』という1939年に発刊されたSFの記念誌によると、その
目的は戦時下の支援物資の管理などの緊急時管理体制からフランコ体制下の
「平和時」における活動の平常化へと変容した。17歳から35歳までの未婚女性
を対象とした社会奉仕活動(Servicios Sociales)の在外スペイン人女性への徹
底化がその一例として挙げられている24。
1-2 ドイツとの交流(1937-1943)
1)スペイン内戦終了まで(1937-1939)
SFの海外サービス部の使命の一つとして海外の女性団体訪問や文化交流を
目的とした海外研修旅行の企画が数えられたが、1937年から1943年までの主な
訪問先は、歴史、文化的にスペインと関係が深かった中南米諸国ではなく、政
治的な関わりが強かった独・伊・ポルトガルなどの枢軸国であった25。すでに
外支部数について次の史料を紹介している。王立歴史アカデミー所蔵 Relación de las
Delegaciones de la S.F. en el extranjero, con detalle de las fechas de fundación y actuaciones
キューバ、
ウルグアイ、
パナマ、
realizadas (ANA Carpeta 24, doc2) 1937年:アルゼンチン、
フィリピン、パラグアイ、1938年:イタリア、ポルトガル、ドイツ、1938~39 年:ボ
リビア、ブラジル、コスタリカ、チリ、エルサルバドル、エクアドル、グアテマラ、
メキシコ、ペルー、ドミニカ共和国、ベネズエラ、中国、アメリカ合衆国、ベルギー
に支部が設置された。(cit. in: MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, p.361.)
24
SF, Sección femenina.op.cit., p.200.
1930‐1940年代中盤におけるイタリア、ドイツ、スペイン女性史の比較研究は豊
富 に 存 在 す る。JIMÉNEZ, Encarnación. “La mujer en el franquismo. Doctrina y acción
25
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española, una sombra de destino en lo universal. Trayectoria histórica de la Sección Femenina
de Falange (1934-1977). Murcia: Universidad de Murcia, 1990; RINCÓN, Fernanda del.
“Mujeres azules en la Guerra Civil" Estudis d’ Història Comtemporània del País Valencià,
nº 7, Universitat de Valencia, 1986, pp.45-66.
- 128 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
1938年の時点でこれらの三カ国にはSF現地支部も発足しており(伊3月、ポ
4月、独5月)
、交流の土壌は十分整っていたといえよう26。
これまでこの3カ国への正確な訪問時期や回数については明確な数字は出さ
れていないが、リッチモンド(2003)によると、1938年から1942年までのSFの
枢軸国への渡航は16回実施され、内13回はドイツが訪問先であったとされる
27
。また訪問団の構成員は主にSF中央幹部や幹部候補生であったが、SF全
国代表ピラールも自らこれらの「友好国」3国を訪問し、各国女性団体指導者
の他、ヒトラー、ムッソリーニやサラサールとの面会も行って海外交流への積
極的な姿勢を見せた。
これらの独伊ポへのSF訪問団派遣の実現のためには、フランコと枢軸国と
の良好な外交関係が必要不可欠であった。1936年の内戦勃発後、イタリアとド
イツはフランコ派を支援、翌年4月にはドイツコンドル軍団によるゲルニカ空
爆が行われた。フランコは1939年に日独伊防共協定に参加を決め、ソ連を共通
の敵として枢軸国との結束を強めた。また1939年3月西独相互協定を結び、ド
イツとフランコ派スペインは軍事、政治だけでなく経済・文化面での連携も深
めることとなる。
スアレス監修の『SF年代記』によると、SFの独・伊への最初の研修旅行
は1937年にナチス・ドイツとイタリア・ファシスト党によるSF会員への招待
から始まったとされる。そこには「独には戦争孤児の女子が、伊にはイタリア
語を理解できる会員が派遣された」と記されているものの派遣期間や具体的な
活動については触れられていない28。
26
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, p.360.
RICHIMONDO, op.cit., p.69. フレスノ(2010)も独、イタリア、ポルトガルに少なく
とも16回、一方、モラントはドイツに16回派遣としている MARTÍNEZ DEL FRESNO,
27
op.cit., 2010, p.357; MORANT, op.cit, p.2.
28
SÚAREZ, op.cit.,p.65.
- 129 -
齊 藤 明 美
活動内容の詳細が明らかになっている最初の研修は、1937年夏のカルメン・
ウェルナー(後のSF中央組織の文化・研修部長)と幹部数名によるナチス・
ドイツ女子団(Bund Deutscher Mädel in der Hitlerjugend、以下BDM)幹部養
成学校への招待旅行であった。フレスノ(2010)はSF機関紙『Y』1938年3
月号のウェルナーによる「ドイツからの手紙」を紹介した。この記事によると、
ウェルナーらはBDM主催(ベルリン)の音楽ウイーク閉会式で披露されたド
イツ団員による演奏と踊りに舌を巻き、ドイツ団員の清潔感、品行方正、団結
心、身体能力を絶賛したという。さらにはドイツを手本にして、スペイン女性
の愛国心の涵養や良妻賢母教育を促進するため、合唱や舞踊、体操などをSF
の活動へ導入することを提案した。ただしドイツ方式を丸ごと模倣するのでは
なく、カトリックの教えなどスペインの特殊性に十分配慮する必要性があるこ
とを強調した29。またフレスノ(2010)は、
『Y』1938年2月号の「イタリア、
ドイツでのSF会員達の動向(Camisas azules en Italia y Alemania)
」という記
事に掲載された「独・伊・西の女性達の友好が深まり3国は固い絆で結ばれた」
という招待旅行に参加したSF海外サービス部長ビニャマタのコメントも紹介
し、枢軸国の女性団体との良好な交流の様子を示した 30。
これらのドイツ研修は、SF内部の組織構成や事業の計画に大きな影響を及
ぼした。独女性団体を見本とし、全国代表(Delegación Nacional)をピラミッ
トの頂点に置く垂直型の中央・県・地方組織体系の確立と、管理、出版・プロ
パガンダなどの専門部局の設置がなされた31。活動内容に関しても、独女子団
を参考とし、様々な試みが実施された。文化部(1938年設置)による音楽やダ
ンス活動の導入がその一例である。文化部音楽課の下、音楽インストラクター
の養成(1938年)やコーラス・ダンスグループの結成、全国大会の開催(1942
年)
、民謡の収集、保存、普及活動などが実施された。ピラール代表も 1939年
29
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, pp.363-364.
30
ibidem. p.263.
31
RICHIMONDO, op.cit.,p.72に西独女性団体の組織の相関図(1937年と1941年度)が
掲載されている。
- 130 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
第3回SF全国総会の演説にて国家統一のための三要素の一つとして「国家サ
ンディカディズム」と「地域」と共に「音楽」を挙げ、
「各地域の民謡が全国
民によって知られ歌われた時、人々の共通理解が深まる。
」と愛国心の発揚や
国家統合のための「音楽」の政治的社会的意義に注目した32。一方、体育課に
おいては、健全な肉体と精神を鍛えるためにマスゲーム、器械体操、ホッケー、
ハンドボール、バスケットボールなどが行われた33。また内戦直後、バジャド
リード県支部長のメルセデス・サンス・バチジェールはマルティネス・デ・ベ
ドヤと共にナチス・ドイツの「冬季貧民救済事業」を参考とし、戦火の下、戦
争孤児のための無料食堂を開き社会扶助活動の土台を築いた34。
このようにSFはドイツ女子団と密接な関係を築き、良き「お手本」として
組織運営や活動実践などを学んだ35。その前提条件として両団体間の友好関係
が必要不可欠だが、ピラールSF代表自身も1943年までに計六回渡独している
ことからドイツに強い親近感を抱いていたことがうかがわれる36。
なかでも 1938年4月のピラールSF代表の初渡独の実現は、その後の両女
性団体の友好確立に向けて大きな一歩となった。それはナチス・ドイツの「全
国女性指導者」ゲルトルート・ショルツ = クリンクによる公式招聘であり、主
に2つのドイツ女性団体
(国家社会主義女性連盟NSFとドイツ女子団BDM)
32
齊藤明美「フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」(前掲書) 336頁。
33
S F 体 育 教 育 に 関 し て は 以 下 を 参 照。MANRIQUE ARRIBAS, Juan Carlos, Las
profesoras de Educación Física en la Sección Femenina segobiana, Argentina: Miño y
Dávila, 2010; ZAGALAZ SÁNCHEZ,María Luisa “La educación física femenina durante el
franquismo. La sección femenina”Apunts, 65, 2001, pp.6-16 ; ARAQUE HONTANGAS,
Natividad, “La educación física comoo moldeador del cuerpo y de la mente en el Instituto
Femenino de Enseñanza Media Isabel la Católica de Madrid (1939-1984)”, Cuadernos
Unimetanos 21, 2010, pp.9-20.
34
社会扶助(Auxilio Social)とサンスに関しては次を参照。CENARRO, Ángela, La
Sonrisa de Falange, Auxilio Social en la guerra civil y en la posguerra, Barcelona:Crítica,
2006.
35
SF, Sección femenina.op.cit, p.200 .
36
MORANT, op.cit,p.2; MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, pp.366-367.
- 131 -
齊 藤 明 美
の見学が目的とされた。この研修旅行にはSF海外サービス部長ビニャマタや
FET幹部のハビエル・コンデらも同行した。
ピラール一行の現地での行動を詳細に紹介したモラント (2008) とフレスノ
(2010) によると、BDMの各施設・活動(家庭科学校、幹部養成学校、看護
師寄宿舎、作業現場、体操、水泳の実演、音楽コンサート)などの純粋な視察・
見学のみでなく、政府主要機関の訪問、首脳陣との意見交換やヒトラーとの面
会も組まれ、非常に充実した内容であったという37。またハンブルグではFE
Tドイツ支部代表やスペイン領事、ベルリンではスペイン大使などによる歓迎
も受けた。ヒトラーとの会見はピラールにとって大きな印象を残し、晩年の回
顧録にもフランコ将軍から預かったトレド産の剣をヒトラーに贈呈したことが
記録されている。また『SF全国総会年報 1937,1938,1939』にもピラールが
剣を手渡すシーンの写真が掲載されている38。
初めてのドイツ滞在を終えたピラールのBDMの印象は非常に好意的であっ
た。フレスノは雑誌『Y』1938年5月号の「ドイツのピラール・プリモ・デ・
リベラ」という匿名記事にて「文化、技術、芸術、スポーツ全ての分野におい
て各センター、大学、学校施設などを含むすべてのナチス女性団体はSFを熱
烈に歓迎してくれた」とし「ピラール一団の渡独は西独友好の重要なシンボル
となった。
」というSFの感想を紹介した。
帰国後、その経験がSFの活動の中で効果的に生かされたこともありドイツ
研修は継続的に実施された。1939年にはSF幹部19人が家庭学校の設立運営を
学ぶために3カ月間独に滞在し、SF県支部長50名もナチスの余暇組織「歓喜
力行団」の儀式を観覧した39。
もちろん同時期に、イタリアGIL(イタリアリットーリオ青年団 Gioventú
やポルトガル女子団
Italiana del Littorio)
(MPF Mocidade Portuguesa Feminina)
への訪問もなされた40。
37
MORANT, op.cit,p. 2.
38
SF, Crónica de los Consejos : años 1937, 1938 y 1939, op.cit., p.50.
39
RICHIMONDO, op.cit., pp.69-70.
- 132 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
イタリア研修に関しては、SFの内部資料に1939年までにイタリア一回、ド
イツ三回の海外研修が行われたと記載されている41。またフレスノによると、
1938年11月にピラールはカルメン・ウェルナー等と共にローマ訪問を行った
42
。『ファランヘ女子部』の「イタリアにスペイン登場」という記事では、伊
女性団体のピラール一行に対する熱烈な歓迎ぶりがファシスト党「女性ファッ
シ」幹部等との散策の写真と共に紹介された43。ピラールはムッソリーニとの
会見も果たしたが、その時受けた強烈な印象を回顧録に残している44。またポ
ルトガルにも1938年4月のピラール初渡独の際の経由地として立ち寄り、リス
ボン、エストリル、シントラを訪問し在住スペイン人との交流を深めた45。そ
の後の1939年8月には、約 180 名のSF会員がリスボンのMPFに研修の為に
派遣された 46。
イタリアとポルトガルは伝統的なカトリック国でありまたラテン語圏である
ことから、文化・教育・心性・信仰面において、ドイツと比べてよりSFとの
親和性は大きく、吸収するべきことも多かった。ドイツからは組織体系や社会
奉仕活動の仕組みなどを学んだとしたら、イタリアからは、農村女性の教育
(Massaie Rurali 農村主婦団)や乳幼児と母親の健康向上(ONMI 全国母子保護
事業団)、民族芸術の余暇への組織化(ドーポラヴォーロ 余暇事業団)など
を取り入れた47。
40
ビクトリア・デ・グラツィア(著)、高橋進他(訳)『柔らかいファシズム』有斐
閣、1989年、山手 昌樹「ファシスト党と女性 -女性ファッシ研究序説」紀尾井史学
(25), 1-11, BALLESTEROS GARCÍA, Rosa María, El movimiento feminista portugués: del
despertar republicano a la exclusión salazarista (1909-1947), Universidad de Málaga (UMA),
2001.
41
SF, Sección femenina.op.cit., p.200.
42
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, p. 374 SÚAREZ, op.cit.,p.65 では1938年10月
となっている。
43
SF, Sección femenina.op.cit., p.282.
44
PRIMO DE RIVERA, op.cit., 1983, pp. 210-211.
45
“Pilar Primo de Rivera en Alemania” Y, 4 ,1938 (cit.in: MARTÍNEZ DEL FRESNO,
op.cit., 2010, p.382.)
46
MUÑOZ,Esmeralda “Jóvenes y fascismo en Portugal”. Jóvenes y dictaduras de
Entreguerras. Editorial Milenio, 2007, p.131.
- 133 -
齊 藤 明 美
SFは招待旅行のお返しとして、独伊ポ3カ国の女性団体をスペインに招き
SF施設等を案内するなど、枢軸国の女性の相互交流の深化が図られた。1938
年4月のピラール初渡独の後、同年10月にはBDM指導者のユッタ・リュディ
ガー(Jutta Rüdiger)一団を公式招待した。その様子は『ファランヘ女子部』
の「ドイツ女子団のスペイン滞在」という特集で紹介され、サラマンカ、マド
リード、セビリア、マラガ、ブルゴス訪問の様子が詳細にレポートされている。
サラマンカでは、ピラールSF代表を始めFET幹部、市長、独大使館による
レセプションやファランヘ少女団による両国国家の合唱が披露され、また独研
修旅行の際に知り合った団員の再会を喜ぶ姿も見受けられた。マドリードでは、
内戦まっただ中の村々に立ち寄り、戦火で使用不能となったSFの共同洗濯所
を見学した。SFマドリード地方支部の音楽隊による歓迎も受け、マドリード
を経つ前に、BDM代表のユッタは現地SF会員のもてなしへの感謝の気持ち
を感動のあまり言葉にできず、その代わりに固い握手を交わしたという。マラ
ガではSF幹部養成学校の訪問、ブルゴスでは公式交換会が催されたが、有名
ギター奏者のレヒーノ・デ・ラ・マサによるファリャやアルベニスの楽曲も披
露された48。『SF全国総会年報 1937,1938,1939』にもドイツ女性団体のブル
ゴス訪問時の記念写真が掲載されている49。
またSFの公的儀式においても枢軸国友好国の参席は欠かせないものとなっ
た。その代表として1939年5月のメディナ・デル・カンポ戦勝祝賀会へのドイ
ツ・イタリア女性団体の出席が挙げられる。この会はフランコの内戦勝利への
功績を讃えるためにSFが企画したものであり、当日、フランコからSF全会
員に向けて「全スペイン女性の教化機関」としての任務が言い渡されたことか
ら、SFにとって新たな時代の幕開けを意味した50。
47
RICHIMONDO,op.cit.,p. 69; GALLEGO, op.cit., pp.113-131.
48
SF, Sección femenina.op.cit., p.284.
49
SF, Crónica de los Consejos : años 1937, 1938 y 1939, op.cit., p.49.
50
SF, Historia y Misión, op.cit., p.23.
- 134 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
この式典はファシズムとカトリックが融合した性格を有し、フランコとピ
ラールの演説の他、野外ミサ、会員によるコーラス、体操演技、民族舞踊も披
露された。なかでも各地域の会員によるフランコへのフルーツなどの特産品の
贈呈式は、イタリア研修時のムッソリーニ訪問の際、ファシスト党女性団体の
農業主婦団(Massaie Rurali)から同様の歓迎を受けたことからヒントを得た
という51。またカスティージャの民謡の他、セビリアのセビジャーナスや、ガ
リシアのガイタやバスク音楽、アラゴンのホタなど、各地の民族衣装をまとっ
た団員によるダンスも披露され、SFのコーラス・ダンスグループの記念すべ
き「お披露目」の日となった52。
2)
「コーラスとダンス」ドイツツアーへ(1941-43)
内戦終了までSFは独をはじめとする枢軸国の女性団体と良好な関係を築き
上げてきたが、1939年9月の独ポーランド侵攻による第二次世界大戦勃発は、
これまでのSF海外交流の方針に大きな変化をもたらした。内戦後の国内疲弊
を抱えていたスペインは、
1939年8月の独ソ不可侵条約締結への反感も重なり、
ドイツ側に参戦せず中立を宣言した53。その後のドイツの快進撃やイタリアの
参戦から、スペインは 1940年6月「非交戦国」となり、以後フランコはスペ
イン参戦の条件としてジブラルタル回復と仏領モロッコ領有を要求するなどド
イツとの駆け引きが過熱、両国関係は緊張化した54。
51
ORTIZ, Carmen “Forclore, tipismo y política. Los trajes regionales de la Sección
Femenina de Falange” Gazeta de Antropología, 2012, 28(3) http://www.gazeta-antropologia.
es/wp-content/uploads/GA-28-3-01-CarmenOrtiz1.pdf イタリアの民族行事、祭事、衣装
の復活と収穫祭については、デ・グラツィア『柔らかいファシズム』
(前掲書)
、
1989年、
338頁-348頁を参照。
52
SF, Sección femenina.op.cit, p.142.
内戦終結後から1940年代末までのフランコ体制「形成期」の特徴として、武藤祥
は次の4点を挙げている。①「勝者」と「敗者」の分断と、後者に対する苛烈は弾圧・政
治的暴力、②個人としてのフランコへの権威・権力の集中、③アウタルキー/介入主
義政策、④国民の組織化・政治的動員。武藤祥『「戦時」から「成長」へ 1950年代に
おけるフランコ体制の政治的変容』立教大学出版会、2014年、13頁。
53
- 135 -
齊 藤 明 美
フランコ体制の管制女性団体であったSFもその影響を受け、枢軸国の女性
団体と距離を取ることとなった。モラントによると 1939年9月から1941年1
月までのSFの独への訪問の記録は残っていないという55。そして 1941年2月
のSF幹部グループによる独冬季国際スポーツ大会への参列が、独女性団体と
の交流再開の第一歩となった。同年4月30日には独BDM幹部養成学校一団
(校長1名、成績優秀者12名、BDM幹部数名)の7週間の西訪問が実現し、
一行は全国各地のSF施設にて様々な講習会や行事に参加、現地のSF会員に
よる歌やダンスの歓迎を受けたり、マドリードではピラール代表との面会も果
たしたりした56。
両国の女性団体交流の再開に弾みをつけたのは、1941年6月のドイツソ連侵
攻であった。反共産主義を掲げていたフランコは枢軸国側勝利の暁の際の自国
への見返を期待し、1941年7月「青の師団」と呼ばれるスペイン人義勇兵をソ
連戦線に送り出した。当初1万 5000 人の義勇兵が戦地に送り込まれたが、ファ
ランヘ女子部も食糧、衣服、薬品などの支援物資の調達や送付、そして計6回
に渡る従軍看護婦の派遣(1941年8月~1943年8月、計84名)を行い、ドイツ
軍に間接的に協力した57。
ピラールの2回目のドイツ訪問は、独ソ侵攻後の1941年8月19日から9月19
日の3週間であった。モラントによると、
ピラールは渡独直前の8月12日、ユッ
タBDM代表宛てに「敬愛するドイツ団体の会員らと友好を深める機会となる
このドイツ訪問をとても楽しみにしている。
」と書簡を送った58。これはこの
訪問が一度疎遠になった両国関係の修復という重要な意味を含んでいたことの
54
関 哲行、中塚次郎、立石博高 (編)『世界歴史大系 スペイン史〈2〉近現代・地
域からの視座』山川出版社、2008年、158頁‐162頁 参照。
55
MORANT, op.cit,p. 3.
56
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, pp.390-392.
57
SÚAREZ, op.cit., pp.140-141.
58
20 Carta de Pilar Primo de Rivera a Jutta Rüdiger (12.VIII.1941), ANA, Serie Azul,
Carpeta 108A. Real Academia de la Historia (RAH), Madrid.(cit.in: MORANT, op.cit.p.4.)
- 136 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
表れであろう。
ピラール一行はベルリンにて戦地に向かう直前のスペイン義勇兵、SF看護
婦と面会しエールを送った。またユッタやゲルトルートらのナチス女性幹部等
との再会を果たし、両国の絆を再確認した。さらに14カ国の枢軸友好国が集っ
たヒトラーユーゲント夏期国際集会への主賓参列、幹部養成学校見学など、精
力的にスケジュールをこなした59。帰国後、ピラールはSF雑誌『メディナ』
28号にて「SFとBDMの絆がより一層固く結ばれた。
」とドイツ側の熱烈な
歓迎への感謝と感激の意を示した60。翌年9月14日から同月18日までピラール
は枢軸国勝利後の「新ヨーロッパ」の方向性の議論の場である「第一回ヨーロッ
パ青年会議」出席のためウィ-ンへ渡り、独伊の女性リーダーと共に「若者と
家庭」部会にて意見を交換、最終日の演説の中では次回大会への参加の意志を
明らかにした61。
・1942年ドイツ遠征
このような「雪解け」の兆しの中、1942年、ヒトラー・ユーゲントの招待を
受ける形で「コーラスとダンス」の初の海外遠征が実現した。この派遣は独西
女性団体間の交流活性化というSF本来の目的だけではなく、ソ連戦線で戦う
ドイツ兵士や「青の師団」義勇兵に向けた音楽とダンス公演でもってドイツを
応援しようという政治的使命も内包していたことが特徴である。この派遣は
1937年に開始されたファランヘ女子部とドイツ、イタリア、ポルトガルなどの
「友好国」の管制女性団体との交流史の一つの到達点といえよう。
派遣チームはサラマンカ、レリダ、ポンテベドラの3グループの20代前半の
女性33名から構成された。プロのダンサーは一人としておらず、全員普段はS
F地方支部の一職員として熱心に努めを果たし、自由時間を利用して歌や踊り
の活動に携わっていたアマチュアであった。
59
MORANT, op.cit.p.4.
60
SF, Medina 28, 28-9-8,1941(cit.in: MORANT, op.cit.,p. 4.)
61
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, p.400; MORANT, op.cit., p.6.
- 137 -
齊 藤 明 美
彼女等は渡航直前の9月初旬にマドリード郊外で合宿を張り、歌とダンスの
専門家の下で練習を重ねた。プログラムの内容も、遠い異国の戦地で戦うスペ
イン人兵士を勇気づけるために民謡を中心に構成され、最終的に宗教歌4曲、
各地の民謡16曲、独西両国の国歌と讃歌7曲、サラマンカの踊り3曲、カタルー
ニャ、バスクの踊り各3曲が選ばれた。3週間の派遣期間中、メンバーは出身
地の民族衣装を身に着け戦地に向かう「青の師団」や医療施設への巡回公演だ
けでなくドイツ各地のスペイン人労働者が多く働く工場にも出向き、歌や踊り
を披露して大好評を得たという62。
このCYDの派遣でSFとドイツ女性団体との交流も正常化したかに思われ
たが、
「蜜月」は長くは続かなかった。1943年2月のスターリングランドのド
イツ軍撤退や同年 9 月のイタリア無条件降伏から枢軸国側の敗北が現実味を帯
び、フランコの対外政策が親枢軸国から連合国との関係強化へと方針転換した
ことが深く影響した。連合国の圧力の下、
フランコは1943年10月に再び「中立」
を宣言、「青の師団」も同時期に撤退が決まった。
フランコの外交方針転換を受け、SFと枢軸国との関係もピラールの1943年
7月の6度目のドイツ訪問を最後に終息へ向かった。モラントによると1944年
のSF雑誌『メディナ』1月号にてSFの今後の海外サービス部の事業に関す
る記事が寄せられたが、ドイツやイタリアについては一言も触れらなかったと
いう63。このようにその後しばらくの間、SF内部ではこれまでのドイツやイ
タリアとの交流が「存在しなかったこと」として言及が意図的に避けられるこ
ととなった。
62
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2010, pp.396-399 参照。
63
MORANT, op.cit., pp.7-8.
- 138 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
2 「コーラスとダンス」のスペイン語圏への派遣(1948-1951)
2-1 背景 この章では、主に第二次大戦後のスペインの国際連合追放からアウタルキー
を経て国際舞台に復帰する 1950 年代後半までの時代のCYDの活動に注目す
る。この時期は海外に対するイメージアップを狙い対外宣伝が重要視された時
であった。本題に入る前に当時の政治と外交状況について整理したい。
内戦から1943年までの間、フランコ政権はドイツ・イタリアなどの枢軸国を
お手本にし「新国家」建設を目指していた。政府の構成員の大半はFETが占
め、労働憲章、垂直組合、国家持ち株会社INIの設立、プロパガンダ教化な
どが実施された。しかしドイツ敗退が濃厚になった1943年を境に、フランコは
脱ファシズムを図ることになる。政府の構成もFETからカトリック勢力へ比
重が移り、国家カトリック主義の下、スペイン国民を統合しようとした。また
連合国の勝利直前の1945年7月には外務大臣に熱心なカトリック教主義者で元
アクシオン・カトリカ代表マルティン・アルターホを据え、カトリック諸国の
後ろ盾を期待した。さらに反共産主義を唱えることで第二次大戦後の生き残り
を狙った。
しかしポツダム宣言後の世界情勢において反ファシズムが主流となったこと
から、枢軸国を支援したスペインに対し、1946年国連第二回総会にて大使館の
引き上げと国連機関からの排除が決められ、フランコ政権は国際的に孤立する
に至った64。
・枢軸国から中南米外交へ:
「イスパニダー(スペイン精神)」
このような厳しい状況の中、スペイン外交のターゲットは枢軸国から中南米
へと変化したのは自然のことであろう。中南米へのアプローチは第二次大戦後
に急に開始されたのではなく、それ以前から準備が整えられていた。
64
内戦後の外交関係については楠 貞義、 戸門 一衛、 ラモン タマメス、深沢 安博
『スペイン現代史―模索と挑戦の120年』大修館書店、1999年、215頁‐233頁を参照。
- 139 -
齊 藤 明 美
ここで中南米外交のキーワードとなった「イスパニダー(スペイン精神)
」
について簡単に説明したい。
「イスパニダー」は98年世代の哲学者ウナムーノ
により「言語に基づくイスパノ・アメリカ共同体」という意味で初めて使用さ
れた用語のことである。だが実際は 1931年12月国家カトリック主義を提唱し
た『アクシオン・エスパニョーラ』第一号への伝統主義者ラミーロ・デ・マエ
ストゥの「イスパニダー」の寄稿により、
「スペイン人によるカトリック布教
の恩恵をうけたアメリカ大陸の人々やポルトガルを含むイベリア人の精神共同
体」という解釈が一般的となり第二共和制時に広く普及された65。
ファランヘ党首ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラもマエストゥの「ス
ペイン黄金世紀、カトリック教、スペイン帝国の歴史」を基盤とする「イスパ
ニダー」の考えに共感し、ファランヘ党教義「27カ条綱領」の第三条にスペイ
ンのスペイン語圏における精神的支柱の役割とスペイン語圏の文化、経済、権
力を統合するスペインの帝国主義の使命を盛り込んだが、そこにファランヘの
帝国主義に基づいた拡張主義を読み取ることができる66。
このホセ・アントニオらファランヘ主義者等が抱いた中南米旧植民地への拡
65
立石博高「帝国の記憶とスペインの国民国家」松本彰・立石編
『国民国家と帝国』山
川出版社 2005年 188頁‐213頁、前掲書『世界歴史大系 スペイン史
〈2〉
』165頁‐166頁。
66
フランコのナショナリズムとイスパニダーとの関係について、中塚次郎は以下の
ようにまとめている。
「(フランコ)独裁の主張するナショナリズムはファランヘと伝統的保守主義を引
き継いだ、復古的でカトリック的なものであった。「一つにして、偉大で自由なスペ
イン」に集約されるその思想は、「イスパニダー・スペイン精神」と結びついていた。
その考え方によれば、カトリック両王がイスパニダーを体現し、カトリックに基づ
いてスペインを統一し、新大陸発見とそこでの布教という「偉大」な事業を開始して、
神が与えた「帝国的使命」を実現した。しかし、18世紀以降に外国から流入した啓蒙
思想、自由主義、フリーメイソン、共産主義によってイスパニダーは失われた。地
域ナショナリズムもスペインの統一を脅かすゆえに、反スペイン的である。フラン
コの使命はイスパニダーの回復と、外からの影響をうけない「自由」なスペインの実
現である、というのである。」(前掲書『世界歴史大系 スペイン史
〈2〉
』165頁-166頁)
67
TESSADA, op.cit.,p.3.
- 140 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
張主義としての「イスパニダー」は、内戦から第二次大戦中盤までスペインの
対外政策の理論として優勢であったとテサーダは述べている67。例えば1940年
代前半には中南米におけるスペインの優位性の裏付けとして、ホセ・アントニ
オの「スペインは神から与えられた《帝国的使命(vocación imperial)》におい
て、言語(lenguas)
、民族 (razas)、人民 (pueblos) を一つに統合することが正
当化される」という考えが広く利用された68。また1930年代中旬のFET、S
F中南米海外支部の設置や1940年11月イスパニダー(スペイン精神)評議会 (Consejo de la Hispanidad)の設立などもその一例である。イスパニダー評議会
は外務大臣で親独派のセラーノ・スニェールによりディオニシオ・リドルエホ、
アントニオ・トバールらファランヘ若手知識人を中心に発足し、文化を媒介と
した中南米におけるスペイン精神の拡大が目指された69。
1940年代前半の対外関係は、スニェールが外相を務めたこともありFET陣
営が主流を占めたが、1941 年 12 月の日米開戦の影響を受け、中南米でのFE
Tの活動は次第に低下した。多くのラテンアメリカ諸国は北米に追従し反ファ
シズムを表明、FETはナチス・ドイツ、イタリアファシスト党と同様にその
活動が禁止された。また1942年にはリオデジャネイロの汎アメリカ会議にて北
米の圧力を受けたブラジル、メキシコなど中南米大部分の国々が連合国側で参
戦を決定、FET中南米海外支部はより厳しい局面に陥った。そしてFETや
「イスパニダー」は「ファシズム」と同義語とみなされバッシングの対象となっ
た。一部は「表看板」を変更するなど水面下で活動を継続しようとしたがその
努力もむなしく第二次大戦終了時までにFET海外支部は全面的に閉鎖される
に至った70。
68
“Vocación imperial” Pueblo, 12 de octubre de 1940. (cit.in.Barbeito Díez,Mercedes, “El
Consejo de la Hispanidad” Espacio, tiempo y forma. Serie V, Historia contemporánea, Nº 2,
1989 , p.113.
69
GONZÁLEZ CALLEJA, Eduardo, op.cit.,p.299.
70
ibidem. p.302.
- 141 -
齊 藤 明 美
1940年代半ばの国際情勢の変化に対応するためフランコは脱ファシズムを図
り、FETからカトリック勢力へと政治の中枢が移行したことは先に述べた通
りであるが、この「イスパニダー(スペイン精神)
」のコンセプトは後のフラ
ンコ独裁期にも、国家カトリック主義とともに「新国家」の精神的支柱として
引き続き使用された。
このように第二次世界大戦後の「イスパニダー」の中南米における展開は、
以前のスペイン帝国設立という直接的で「戦闘的」な性質から、文化プロパガ
ンダを媒介としたソフトなものに変化した71。1945年イスパニダー評議会も「ス
ペイン語圏文化協会 Instituto de Cultura Hispánica(ICH)」に生まれ変わり、
文化人、芸術家、ジャーナリスト、大学教授、宗教家等の招聘、中南米におけ
るスペイン文化研究拠点の設立、専門雑誌の編集と発行、文化講演会開催等の
文化交流を媒介としてスペイン語とカトリックという共通基盤を持つ中南米諸
国との外交正常化を目指した72。
2-2 CYD海外派遣の全体像
連合国の勝利で終結した第二次世界大戦は、これまで枢軸国寄りであったフ
ランコの外交政策にとって大きな転換点となった。ファランヘ女子部の海外活
動の方針にも変化は見られたのだろうか。
前述の通り、FET本体の海外支部は北米の圧力によって閉鎖に追い込まれ
たが、一方、女子部の海外支部はその活動が継続された。リッチモンドやサン
チェスは、その理由の一つとして、SF海外支部の活動が来賓応対や行事参列
など政治的に「無害」なものであり、政府にとってあえて閉鎖する必要性が見
つからなかったことをあげた73。SF中央組織内の海外サービス部も同様に健
在で、引き続きSFの海外渉外管轄機関の役割を担った。『1948年活動報告書』
71
DELGADO GÓMEZ-ESCALONILLA,Lorenzo, “La política latinoamericana de España
en el siglo XX” Ayer, Revista de Historia Contemporánea, No. 49, La política exterior de
España en el siglo xx , 2003, pp. 121-160.
72
ibidem. p.144.
73
RICHIMONDO, op.cit., p.148; SÁNCHEZ, op.cit., 2007, p.170.
- 142 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
の海外サービス部の部分を見ると、ワシの胴体が地球儀になっている同部局の
シンボルマークが掲載されており、その胴体には「もっと先へ(Plus Ultra)
」
という文字が入ったタスキが掛けられている。このモットーは元々カルロス1
世のものであったが、その後も「新大陸」を目指す冒険家を勇気づける言葉と
してよく使われていた。これは海外サービス部に対する旧植民地スペイン語圏
の文化を媒体とした「再征服」への期待の表れともいえよう74。
ここで第二次世界大戦後のCYD海外遠征の展開について概観したい。
前述の通り、1945年の連合国の勝利以降、国際的な反ファシズムの潮流に呼
応し、これまでフランコ側の中核を担ってきたFET勢力は衰退、それに代わ
りカトリック勢力が台頭した。SFはFETの下部組織であったことからその
存続が危ぶまれたが、フランコ体制の管制女性団体として主に女子教育と社会
奉仕の役割を果たすことでフランコ体制内での生き残りを図った。外交面では、
1940年代半ばより国の外交政策が親枢軸国から親米、中南米へと転換したこと
を受け、外務省やスペイン語圏文化協会(ICH)と連携を図りながら中南米
諸国との外交正常化への貢献を試みた。具体的には「コーラスとダンス」を中
南米や欧州に派遣、政治家が門前払いになるような場所にも入り込み、文化交
流をベースに祖国の外交の「おぜん立て」に協力した。
CYD海外派遣数やその行き先はまだ完全に把握されていないが、手元のS
F年次報告や先行研究によると、フランコの外交政策において優先度の高い中
南米、欧州、北米、中東が主な渡航先として選ばれていたことが読み取れる。
一方、スペイン語圏諸国への急接近と反比例し、SFは枢軸国と距離を置い
た。第二次世界大戦後のSF史料においても、1942年のドイツCYD遠征の記
述を避けようとする傾向が伺われたのは注目すべきである。例えば1953年SF
編集の『到達と活動(Alcance y Acción)
』では、CYD海外遠征に関して1947
年のイギリス遠征を「初の海外派遣」と位置付けており、1942年の独遠征につ
74
SF. Labor realizada en 1948, op.cit.,p.11.
- 143 -
齊 藤 明 美
いては言及されなかった75。ここにも戦前の枢軸国との交流を押し隠し、中南
米や欧州との交流を優先しようするSFの意図が読み取れる。1977年SF解散
直後のCYD史料『フォルクローレのテーマ(2)
』
(Temas de Folklore (2))
でも同様の傾向が見られ、
「CYD概略史」の章では、CYD海外派遣の始ま
りは1942年とされたものの、派遣先はドイツと明記されていない。一方同史料
の「対外関係」の章では1948年の中南米ツアーが第一回目と記述されている
76
。この文書に文責者名は明記されておらず同一人物による記述がどうかは確
認出来ないが、時代と国際状況の変化に伴いSFの「独アレルギー」はだいぶ
薄まったものの、枢軸国や中南米に対する思いにもSFの中で個人差があった
ことが推測される。
表1 コーラスとダンスの主な海外遠征(1942年‐1975年)
派遣先 (派遣チーム)
1942年・ドイツ 青の師団慰問公演(サラマンカ、レリダ、ポンテベドラ)
中 断
1947年・イギリス フォルクロ―レ国際大会出場(セビリア、サンセバスチャン)
1948年・第1回 アルゼンチン、ブラジル・ポルトガル遠征(5月~6月)
(ビーゴ、
オビエドなど11グループ)
・イギリス2回目 フォルクローレ大会出場(フェロール、セゴビア、コル
ドバ)
1949年・イギリス3回目 同大会出場のため(バレンシア ログローニョ、
カセレス)
・フランス(ビアリッツの祭り参加)(マラガ、ビーゴ)
・スイス(ローザンヌの祭参加)(バルセロナ、ラコルーニャ、ジェクラ(ム
ルシア)、カディス)
・フランス(アメリー・レ・バンの祭り参加)(セビリア)
・イタリア(ベネチアの祭り参加)(サラゴサ、サラマンカ)
・第2回スペイン語圏遠征(5月20日~)(訪問国注参照77)(ポンテペドラ、
コルドバなど10グループ)
1950年・カリフォルニア(北米)公演(8月)(マラガ、ビーゴ、サラゴサ)
・欧州中東ツアー(12月~)(ギリシャ、エジプト、トルコ、レバノン、ヘル
サレム)(グラナダ、サンセバスチァンなど7グループ)
・ローマ(巡礼)(シッチェス、ウエルバなど5グループ)
・モロッコ(カサブランカの祭り参加)(カディス、テトゥアン)
・ポルトガルの祭り参加(バダホス、ウエスカ)
1951年・第1回ヨーロッパツアー(4月)(仏(4月6日から11日)
、ベルギー(4
月14日)、伊(ローマ)へ)(ビルバオ、カセレスなど8グループ)
・イタリア(バリの祭り参加)カルレト(バレンシア)
・タンジェの祭り(カディス、マラガ、マドリード)
- 144 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
1952年・第2回ヨーロッパツアー:英、仏、ベルギー、オランダ、独へ(テルエル、
フェロールなど10グループ)
2月15日イギリスへ(200人9グループ)
・フランス(ニースの祭参加)(トレド)
・スイス(スペイン週間参加)(マラガ、パンプロ―ナ)
・ベルギー(ブリュッセル)(サンセバスチァン)
1953年 北米ツアー(6月)(ニューヨーク、オハイオ、ロス、シアトル、ダラス、フィ
ラデルフィア)21グループ
1954年 キューバ(1月) 赤道ギネア
1955年 ベルギー・オランダ(5月)
1956年 キューバ
1962年 ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ訪問
1963年 メキシコの商業見本市イベント参加(10月)(NODO 1086A番 196310-28日号)
1964年 ニューヨークの国際見本市でサルダ―ナ(カタルーニャ地方の踊り)を踊る (6月)(NODO 1121C番 1964-06-29日号)
1965年 ニューヨークイスパノアメリカ祭の行進とマンハッタン区ランドールズ島地
区での公演(7月)(サンセバスチャンとマラガ行列に参加)
(NODO 1175
C番 1965-07-12日号) ニューヨーク万博スペインパビリオン参加(フェロール、セゴビア)
(NODO 1175A 1965-07-12)
1966年 パリ、モスクワ、ワルシャワ、プラハ訪問
1968年 プエルトリコ、ベネズエラ、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、
サルバドール訪問
北米訪問(4月)
1972年 ワルシャワ、ドルトムント訪問
1975年 フランス訪問
出 典:SF, Alcance y Acción, op.cit., pp.69-73; SÚAREZ,op.cit., TESSADA.op.cit., TVE の
Nodo ホームページ78 を参考に作成
表2 「コーラスとダンス」の派遣国一覧(1964年12月31日まで)
欧州
独、アンドラ、オーストリア、ベルギー、デンマーク、仏、ギリシャ、オラン
ダ、英、アイルランド、伊、ラトビア、ルクセンブルグ、ポルトガル、スイス
中南米 アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、キューバ、チリ、エクアドル、ハイチ、
メキシコ、パナマ、ペルー、ドミニカ共和国、ウルグアイ、ベネズエラ
北米
合衆国、カナダ
アフリカ アルジェ、エジプト、赤道ギネア、モロッコ
中東
レバノン、トルコ、パレスチナ
出典:SF, Canciones y Danzas de España,op.cit.,1965
75
SF, Alcance y Acción, op.cit., p.69.
- 145 -
齊 藤 明 美
2-3 第一回アルゼンチンツアー(1948)
第二次大戦後初のCYD海外派遣は1947年のイギリス「フォルクローレ国際
大会」への参加であったが、政治的外交的な意味でも翌年の南米ツアーは以後
の海外展開における重要な布石となった。
この1948年南米ツアーに関してはこれまでもCYDの海外活動の代表例とし
て様々な研究者に取り上げられたが、いずれも断片的なものであった。しかし
2014年フレスノ論文によってその詳細がより明らかになった。
ここでは主にフレスノ(2014)の研究成果を参考に、1948年ツアーについて
簡単に紹介したい。 ツアーの背景としてアルゼンチンとの友好関係が挙げられる。当時のスペイ
ン国内状況は内戦後の貧困と重ね、1946年の国連排斥勧告の影響で外交的経済
的にも窮地に追い込まれていた。その中で国交を継続したアルゼンチンとスペ
インは1946年に通商協定を結び、以後同国から食糧を輸入することでフランコ
は危機的な状況を回避することができた。また1947年6月にはペロン大統領の
妻エバ・ペロンが訪西、その際にSFの施設を訪問、マドリードのマジョール
広場ではCYDによる歓迎の民族舞踊が披露された。フレスノはCYDを大変
気に入ったエバ・ペロンが翌年のアルゼンチン派遣のアイデアを提供したと考
えている79。以後、ピラールは在アルゼンチン大使ホセ・マリア・アレイサや
外務省、船舶会社等の協力を得ながら南米渡航計画実現を目指し、晴れて1948
年4月17日にアルゼンチンに向けて約 150 名からなる使節団を派遣することと
なった。メンバーは三週間の船旅の後、ブエノスアイレスに同年5月10日に到
着、現地メディアの宣伝協力もあり、港は出迎えの人で賑わった。以後、6月
76
BNE,M.SEC.FEM./ Archivo Documental “Nueva Andadura” temas de folklore, (2)1977.
1) Breve historia de los coros y danzas, p.4. 6) relaciones con el extranjero, p.1.
77
1949年中南米ツアー訪問国:ペルー、チリ、エクアドル、パナマ、コロンビア、
ベネズエラ、ドミニカ共和国、ハイチ、プエルトリコ(SF, Alcance y acción, op.cit. p.71.)
78
現在スペイン国営放送のサイトにて NODO を視聴することが可能である。
http://www.rtve.es/filmoteca/no-do/
79
MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2014, p.247.
- 146 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
10日にブラジルに向かうまでの約2カ月間、団員は現地に滞在し、劇場公演の
他、エバ・ペロン主催のチャリティー事業参加、病院訪問や各地のスペイン
人クラブにも足を運んだ。また派遣に先立って現地でのフランコ体制に対する
反感を最小限に抑える為に、スペイン大使アレイサから団体の呼称について
「ファランヘ女子部」を外し「スペインのコーラスとダンス(Coros yDanzas de
」への変更のアドバイスを受け、
団員はSFの一員としてではなく「ス
España)
ペイン文化の伝道師」として振舞うことが求められた80。ツアーパンフレット
にも「150人の心の大使(Embajada Espiritual)」と記載され、政治的使命より
も民謡が持つ伝統的な情感が強調された81。このような政治色を払しょくする
努力の甲斐もあり、
公演は全体的に大きな混乱もなく好意的に受け入れられた。
だが一部の共産主義新聞はCYDの本来の使命に気付き、嫌悪感を示した。例
えば HOLA紙1948年5月10日号は「望まれない訪問。スペインのコーラスとダ
ンスグループはファランヘの大使という政治的な目的を隠し持っている」とい
うタイトルのコラムを掲載しCYDを批判した82。この共産紙の主張通り、C
YDは6月3日スペイン大使館主催のレセプションに参加し歌と踊りを披露、
しっかりと「政治的」な任務も果たした。そこには北米を含むアメリカ大陸の
国の他、欧州各国、エジプト、イラン、トルコ大使が一堂に会し、CYDは十
分に「親善大使」としての本領を発揮したという。ツアーにはファランヘ派の
ガルシア・セラーノ記者が同行し、現地の記事をスペインメディアへ送ってい
たが、
CYDの活躍を「1910年のイサベル二世訪問以来の歓迎」「国際連合(大
使館公演に参加した各国大使を指して)スペインの娘達に敬意を捧げる」など
と大々的に宣伝した83。
2-4 SF代表ピラール・プリモ・デ・リベラの思惑
このように第一回目の南米ツアーは成功裏に終わり、CYDの「文化大使」
80
Ibidem., p.256.
81
Ibidem., p.251.
82
Ibidem., p.257.
83
Ibidem., p.253.
- 147 -
齊 藤 明 美
としての実力が証明された。以後、翌年にもピラールSF代表自ら参加した中
南米ツアーが企画され、ペルー、チリ、コロンビア、ドミニカ共和国など中南
米諸国を訪れた。
このスペイン語圏での「親善大使」としてのCYDの可能性にいち早く注目
したのは他でもないピラールSF代表であり、彼女の尽力なしでは海外ツアー
の実現は難しかったと推測される。フレスノによると、ピラールは戦後直後の
国際社会での孤立にも屈せず、SFの海外関係を継続する意思を持ち、欧州、
中南米へのCYD派遣について第二次大戦後直後から外務省に打診していた。
1945年12月11日付の外務省への書簡では「海外での我々(スペイン人)に抱い
ている嫌悪感を少しずつ緩和していき、また(歌と踊りを)楽しみながらスペ
インについて知ってもらうため」とCYD派遣の理由を述べている84。
1948年4月17日、スペイン南西の港街カディス出港直前の第一回アルゼンチ
ンツアー一団にピラールは「あなた達はアルゼンチンへの文化使節としてフラ
ンコから選ばれたのです。
(中略)アルゼンチン人のスペインへの関心を呼び
覚まし、彼の地に住むスペイン人に遠い祖国の伝統を伝えること。あなた達は
この重大な使命を託されたのです。
」という門出の言葉を贈り、団員一人一人
に「文化大使」としての誇りと責任を持つことを求めた85。また1949年第13回
SF全国総会の基調演説にて、ピラールは冒頭で第一回アルゼンチンツアーに
触れ、唯物論に反対し同じ宗教・文化・言語を持つスペイン語圏の国々交流の
重要さ、またそれはホセ・アントニオが目指した普遍的な存在における運命共
同体(la Unidad de destino en lo universal)の実現につながることを説いた。ま
た、アルゼンチンの歓迎に感謝するとともに、海外ツアー継続の希望を表明し
た。ピラールはホセ・アントニオの「帝国」主義の思想を保ちながらフランコ
の反共産主義、親カトリック、イスパニダーの考えに沿う形でCYDを中南米
文化交流政策の一角に位置付けようとした86。
84
AMAR R 2743/67(cit.in: MARTÍNEZ DEL FRESNO, op.cit., 2014, p. 245.)
85
PRIMO DE RIVERA, Pilar, Discursos., op.cit.,p.237.
ibidem., pp.107-108.SF の 祖 国(Patria) と 帝 国(mperio) の 概 念 に 関 し て は
SÁNCHEZ,op.cit., 2007, pp.100-109 を参照。
86
- 148 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
またピラールは「一体性(統一性)としての音楽」という文章の中でも、
「異
なるもの結び付け、また時には悲しみと時には喜びと共に我々の人生の歩みを
思い出させてくれるもの。
」と音楽の特性を述べ、特に歌(canción)を「(ラテン)
アメリカ人もスペイン人も同じ言語で歌うことから一番身近で、我々の心を一
つにしてくれる最良なもの」として注目した。そして「アメリカ人もスペイン
人もお互いのことをよく知り親善を深めるためにも同じ歌を一緒に歌うことが
大切である。」とスペインと中南米の「イスパニダー」精神の共有のための音
楽(特に歌)の有効性を示した87。
1950年代に入っても、
CYD海外ツアーはSF内で重要な位置を占め続けた。
1953年『到達と活動 (Alcance y Acción)』ではSF活動の主要な5つの活動の
一つとして海外事業が取り上げられた( 1 社会奉仕、教育 2 衛生、公共サー
ビス 3 国家モニュメントの復元 4 農村移動教室 5 海外事業)88。同史料
は海外事業の意義として「スペインに対する嫌悪感が我が国への知識不足が要
因の一つとなっているので(海外での)スペインの認知度を上げることが重要。
だがその反感は根深いので直ちに払拭することは難しいが、どこでも笑顔で接
することが大切」とし、その目的を達成するためにも「コーラスとダンス」の
海外派遣を海外事業の優先事項とした89。また活動対象を「FET党内内部だ
けでなく、我々に反感を持つ人々を含む全ての人に向け、また次世代の若者の
気持ちにコミットしたい。
」と述べ、党という枠を超えて祖国に貢献する意欲
をアピールした90。また『歴史と使命』でもベネチアのサンマルコス広場にて
たくさんの聴衆が見守る中、アラゴン民謡ホタを華麗に踊るサラゴサチームの
写真が掲載され、
CYD海外公演はスペイン民謡の「最良のプロパガンダ(mejor
87
ibidem. pp.229-230.
88
SF, Alcance y Acción,op.cit., p.7.
2)奨学金給付、
3)サー
ibidem, p.8. 海外サービス部の活動として 1)CYD海外派遣、
クル活動での文化交流、4)第一回イスパノ女性会議開催とイスパノ・フィリピン文
89
化サークルの結成、5)夏期国際合宿、国際会議への SF の参加、6)パンフレット配
布 を挙げている。
90
SF, Alcance y acción, op.cit.,p. 3.
- 149 -
齊 藤 明 美
」と紹介されている91。このようにSFはCYD海外ツアーの有効
propaganda)
性を自覚し、第二次世界大戦後、脱ファシズムを図ったフランコ体制内での生
き残り策として自らの「文化外交師団」としての存在意義をアピールした。
2-5 CYDツアーの管轄部署
CYD海外ツアー企画の中心となったのは海外サービス部92 であったが、他
部門との連携協力も不可欠であった。初の中南米ツアーが組まれた1948年度の
『SF活動報告書(Labor realizada en 1948)
』によると、文化部とプロパガンダ
部の活動報告に海外ツアーに関する事業が挙げられており、この二つの部署の
海外遠征への関与が読み取れる。同史料によるとプロパガンダ部出版課にて現
地で使用する大判ポスター5000枚、小型ポスター5000枚、公演プログラム2万
枚、チラシ10万枚が、ラジオ課ではアルゼンチンとブラジルからの特別中継放
送が準備されたことが分かる。映画課も映画ニュースNODOへSFに関する
6本のニュース制作に協力したが、うち2つがCYDについてであった93。特
に1948年8月2日分(291b)の「アルゼンチンとスペイン」ではCYDのア
ルゼンチン到着直後、民族衣装で船上から手を振る団員を歓迎する様子、在ア
ルゼンチン大使とエバ・ペロン大統領夫人のレセプション、スペインへの帰国
の様子などが紹介されている94。
『1948年度SF活動報告書』の文化部の事業欄に、1947年にスランゴスレン
国際コンクール(イギリス)に3グループ(セゴビア、コルドバ、フェロール
(コルーニャ)33名、1948年に第一回南米ツアーへ11グループ(ビルバオ、オ
ビエド、コルーニャ、ビーゴ、ログローニョ、サラゴサ、カセレス、レリダ、
91
SF, Historia y misión,op.cit., p.79.
92
1948年度のその他の海外サービス部の活動は ①ラ・モタ幹部校への外国来賓同伴
3 回、②寄宿舎、学校への外国人同伴 6 回、③映画セッション 8 回 ④ SF文化サーク
ルでの海外招待講演3回 ⑤パンフ、書籍、写真、歌集の海外発送2930部、⑥ SF 雑
誌(コンシグナ、バサール)の海外発送67部、⑦外国人向けラ・モタ幹部校コース
奨学金(1948年度 9 件、次年度申請7件)
(SF, Labor realizada en 1948, op.cit.,1949, p.11.)
93
SF, Labor realizada en 1948, op.cit., pp.19-20.
94
http://www.rtve.es/filmoteca/no-do/not-291/1465450/
- 150 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
マラガ、セビリア、テネリフェ)134 名が派遣されたという記録がある。文化
部はもともと国内のコーラスとダンスの運営母体であることから、海外に派遣
される団員の育成・選抜も担当し海外遠征の土台づくりに協力したと考えられ
る95。国内では1942年から全国コンクールが開催され、コーラス部門、ダンス
部門、ミックス(コーラスとダンス)部門の3部門にて地方予選を勝ち抜いた
チームがしのぎを削った。
全国大会は1942年から1976年の間に計20回実施され、
参加者数も年々増加した。1943年の第二回大会の参加者は、コーラス 203 グルー
プ(5075名)
、
ダンス114グループ(1368名)
、
ミックス部門53グループ(1024名)
合計7467名であったが、1940年代後半から1960年前半にかけ3万名へ、全盛期
の1950年代後半には4万5千名に迫る勢いであった96。
またCYD内部の活動においても海外交流は大きな位置を占めていた。スペ
イン国立図書館所蔵SFフォークロ―レ関係文書の「CYD組織図事業一覧表」
によると「研究とプログラム」
(Estudio y programación)の三本柱として「研究」
「海外関係」「フェスティバル関係」が掲げられていた。
「海外関係」に関して
はグループの派遣や外国グループの招聘、海外との情報交換(運営企画、刊行
物、研究等)が、
「フェスティバル関係」では国外の国際フェスティバルへの
参加援助(宿泊、交通手段含む)や国内でのフェスティバルの企画運営などが
目標として設定されており、海外交流を積極的に推し進めようとするCYDの
意気込みが読みとれる97。
以上のことからも、CYD海外遠征事業は海外サービス部のみでなくプロパ
ガンダ部や文化部など複数の部署の密接な連携の下に運営され、SF全体が一
95
SF, Labor realizada en 1948, op.cit.,pp.24-28. では1948年度の大会にはコーラスグルー
プ283チーム(7339名)、ダンスグループ337チーム(5307名)が参加と記述されてい
るが BNE 上記史料 “Estadística de los concursos de coros y danzas” はコーラスグルー
プ490(12358名)ダンスグループ671(9829名)と数字が食い違っている。
96
(BNE, M.SEC.FEM./ Archivo Documental “Nueva Andadura” temas de folklore (2)
1977、1)Breve historia de los coros y danzas, “Estadística de los concursos de coros y
danzas” n.pag.(大会参加者数:1948年23360名、1949年30106名、1953/54年37549名、
1957/58年44500名(最多)、1961/62年41.899名、1968/69年37246名、
1975/76年23832名)
97
BNE, M.SEC.FEM./ Archivo Documental “Nueva Andadura” temas de folklore(2) 1977,
1) Breve historia de los Coros y Danzas. “Organigrama”n.pag.
- 151 -
齊 藤 明 美
丸となって海外派遣に取り組んでいたことが理解できる。
3 1951年以降のSF海外活動の展開と変容(1951‐1977)
1948年と49年の2回の中南米ツアーは大成功をおさめ、CYDはフランコ政
権の「文化外交使節団」として確固とした地位を確立した。スアレスも1948年
から1950年末までの3年という短い間に4回の大規模なツアーを成し遂げた
ことは、CYDの「外交大使」としての任務の成功を意味すると述べている98。
それらの交流の中で形成された中南米諸国との繋がりは、1950年代以降のSF
の新たな海外交流活動の展開(大会、文化サークル、奨学金など)へと結びつ
くこととなった。
1951年SF『歴史と使命』によると、当時の海外サービス部の活動は、パン
フレット、出版物送付やSF会員の海外渡航の企画等の「海外向けのSF活動
の宣伝」と、奨学金、スペインへの渡航援助、SF関連施設への海外訪問者の
同行などの「海外からの訪問対応」と2種類に分類されており、また、夏期国
際合宿の企画、SF指導者養成学校への外国人留学生奨学金、ICHや外務省
文化関係総局(Direccion general de Relaciones culturales)との連携強化も目標
として挙げられていた。さらに部局内には 1)スペイン語圏担当、2)その他
の地域担当、3)国際会議の企画・参加、国外文化サークル活動の企画と運営
担当という3つの課が設置され、
「コーラスとダンス」派遣以外にもSFの海
外活動が広がりを見せたことが読み取れる99。
3-1 スペイン語圏・フィリピン女性大会(1951)
テサーダは1951年のスペイン語圏・フィリピン女性大会の開催を、SFの
スペイン語圏の女性統合の具現化のための大きな分岐点として位置付けた100。
『歴史と使命』でもこの大会について5頁という海外サービス部の割り当て枚
98
SÚAREZ.,op.cit.,p.229.
99
SF, Historia y misión,op.cit.,p.163.
100
TESSADA, op.cit., p.4.
- 152 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
数の大半に紙面を割いており、当時いかにこの会議が重要視されていたかが伺
える。
『歴史と使命』によると、1951年が「アメリカ大陸発見と新大陸の西洋文化
への加入」の立役者であるイサベルとフェルナンドのカトリック両王とコロン
ブスの生誕 500 年であることに因んで、スペインとスペイン語圏諸国のさらな
る交流を祈願し、カトリックとイスパニダーの理念を共有する旧植民地の女性
団体がスペインに一堂に会する目的のもとにこの大会は企画されたという101。
そこでは祝典のために形式的に集うのではなく、『大スペイン語圏家族』を構
成する各国の出席者が親睦を深め、それぞれの抱える問題点、仕事、業務や心
配事に関する情報交換、相互扶助が可能な関係構築のための規範を提示するこ
とが期待された。またピラールは、1950年末にこれまでのCYD海外ツアーの
フランコ体制への外交貢献を認められ、スペイン語圏文化協会(ICH)の正
委員に任命され、中央政府の中南米文化外交政策の諮問機関との直接のパイプ
を持つにいたった。
ICHの協力の下、スペイン語圏・フィリピン女性大会は開催され、479名
が参加した102。そこでは5つの分科会(1宗教、モラル、家庭と女性 2高等
教育、職業、体育教育、家庭教育と女性 3政治、社会共同体、法と女性 4
戦争と女性 5スペイン語圏の女性問題)に分かれ、スペイン語圏の女性が抱
える問題点についての討論がなされた。またその模様はNODO映画ニュース
1951年6月4日(439B)でも取り上げられ広く宣伝された。
テサーダによると「大会決議文」として、
「スペイン語圏における共通の理
想の女性像」が以下のようにまとめられた。
a) 純潔、処女性、母性の本質的価値の公正な認識 b) 婚姻解消への反対
101
SF, Historia y misión, op.cit., p.164.
参加国:アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、コロンビア、キューバ、チリ、エ
クアドル、ハイチ、フィリピン、プエルトリコ、サルバドール、パラグアイ、ウル
グアイ、ペルー、ベネズエラ、スペイン (SF, Alcance y acción, p.79)
102
- 153 -
齊 藤 明 美
c) 女性の使命、責任、家庭内での序列についての明確な自覚
d) 家庭の義務への愛とそれを果たす能力
e) 我々の文化の現実的価値に対する確固とした信念とその否定に対抗し堅
守する強靭さと決意103
a) から d) の項目は、従来のカトリック伝統主義に基づく「良妻賢母」「家
庭の天使」像であるが、e) は「イスパニダー(スペイン精神)」の擁護者とし
ての「スペイン語圏の女性」の役割を明確に表している。テサーダはこの1951
年の大会にて、SFはこれまでの「コーラスとダンス」という単発の「外交使
節団」派遣のみでなく、カトリックと「イスパニダー」を上手に融合し「スペ
イン語圏理想の女性像」という理論化に成功したとした。
3-2 文化サークルと奨学金
1951年の大会にてスペイン語圏における「イスパニダー」と「理想の女性像」
の普及を目的とし、ICHとSFの協力の下、現地での活動を担う文化サーク
ルが設置されることが決定された。この新サークルは聖女テレサともにSFの
シンボルとなったカトリック女王イサベル(Isabel la Catórica)の名が付けら
れた。
1952年には アルゼンチン(ブエノスアイレス、トクマン、コルドバ)、ボリ
ビア(ラパス、スクレ)
、チリ(サンティアゴ)
、ペルー(リマ)、エクアドル(モ
ンテビデオ)5カ国8か所にてサークルが誕生した104。そこでは主にスペイン
の歴史、文学、美術に関する講義や陶芸、コンサート、講演会が企画された。
1966年には上記の国にコロンビア、コスタリカ、ウルグアイ、メキシコを合わ
せた9カ国24か所へ増加、中でもアルゼンチンは 7 か所と活発であった105。チ
リでも農村女性向け学校や陶芸・彫刻クラスが開かれた106。
103
“Conclusiones del I Congreso Femenino Hispanoamericano y de las Filipinas”, pp.7 y
19, AGA, Delegación Nacional de la SF, (3)95 Caja 5818 (cit.in:TESSADA, op.cit. p.4.)
104
SF, Alcance y acción, op.cit., p.79.
105
TESSADA.op.cit., p.6.
- 154 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
また国内外の優秀な女性をリクルートし、将来の両国の仲介者を養成するた
めに海外研修目的の奨学金2種類(スペイン行きとスペイン語圏行き)も設け
られた。海外からは主に中南米からの18歳から30歳までの女性がSF幹部養成
学校などSF研修施設へ5カ月間派遣された。彼女等はSF会員と同じ寄宿舎
で寝起きし、SFの組織運営の他、一般教養(スペイン史、地理、文学)
、家
庭科、宗教、政治、体育、音楽、コーラスとダンスについて学んだ。テサ―ダ
によると、1948年から1973年まで842名の奨学生を受け入れたという107。一方、
スペインから海外への奨学生はSFの会員から構成され、現地で研鑚を積むと
いうよりは衛生指導や体育教育などのSFのノウハウを海外の関連施設に伝え
る役割を担った。
表3 海外研修奨学金 渡航先と人数(1947-1952)
海外からスペインへ
スペインから海外へ
1947 アルゼンチン1
1947
1948 コロンビア1、チリ3、メキシコ2 1948
エクアドル3 (計9名)
1949 アルゼンチン6、コロンビア1、チ 1949 北米6名(オクラホマ、ケンタッ
リ1、エクアドル2、メキシコ2 キー、ニューヨーク、イリノイ、デ
(計12名)
トロイト、ワシントン)
1950 アルゼンチン5、コロンビア5、エ 1950 アルゼンチン1名(体育・ダンス教
クアドル1、ボリビア2、カナダ1、
育インストラクター)
チリ2、メキシコ(計19名)
1951 オーストリア2、ボリビア9、エク 1951 チリ1名(地域衛生委員)
エクア
アドル1、コロンビア4、レバノン
ドル(体育・ダンス教育インストラ
1、アルゼンチン4 (計 21名)
クター)
1952 アルゼンチン10、コロンビア5、チ 1952 チリ1名(地域衛生委員)
エクア
リ8、フィリピン2、メキシコ3(計
ドル(体育ダンス) コロンビア 3
28名)
(体育ダンス)
コロンビア(家庭学
校長 ) コロンビア1(医師兼ボコ
タ体育学校長)
、コロンビア1(教
員(人文学士)
出典:SF de FET y de las JONS, Alcance y Acción, 1953, p.75
その他に夏季休暇を利用して中南米や欧州の女性団体の代表者を招いた国際
合宿も企画された。共同生活を通して様々な国の女性達との国際交流を図るこ
106
SÚAREZ, op.cit.,p.356.
107
Ibidem., p.6.
- 155 -
齊 藤 明 美
とを目的とし、1951年のバスク州ギプスコアにて初回の合宿が行われ、11カ国
から49名が参加した(フランス、イギリス、レバノン、エクアドル、メキシコ、
コロンビア、チリ、アルゼンチン、ボリビア、オーストリア、ルーマニア)
。
1952年はバルセロナで開催され、15カ国より107名が出席した108。
SF施設への海外来訪者数は1947年度が24回に対し、1951年62回、1952年
度65回へ、外国への印刷物の送付数も 1947年度1394件が1951年6236、1952年
7640件へといずれも増加し、1951年の大会を挟んで人的、物的交流が促進され
たことが伺える109。
3-3 外交正常化以降のCYDの海外活動
第二次世界大戦後の1946年にスペインは国連から排斥されたが、戦後の東西
冷戦構造が幸いし欧州での「共産主義の防波堤」の役割を西側から期待された。
そして北米や欧州を中心とする反共産主義陣営のスペインに対する態度も次第
に軟化し、1950年11月国連排斥決議の解除、1952年11月ユネスコ加盟が実現し
た。また1953年にはアメリカ合衆国と基地協定・軍事援助協定が結ばれたこと
によりスペインは西側陣営の仲間入りを果たした。そして1955年12月にはスペ
インの国連加盟が実現し、1950年代半ばには国際舞台への復活を叶えた。
この流れを受け1950年代に入ると、CYDの海外活動もこれまでの中南米向
けのイスパニダー精神普及の為の「外交使節団」という役割が次第に薄れ、派
遣国やその目的も多角化し、より文化的、商業的なものへと変化した。
また1950年のギリシャ、エジプト、トルコ、レバノン、ヘルサレム、モロッ
コなどのアフリカや中東諸国への訪問、1951年、1952年のヨーロッパツアー、
1953年の赤道ギネア訪問、1954年56年のキューバ訪問などと、これまで足を向
けなかった国々にも出かけるようになった。特に1953年の北米ツアーはCYD
を気に入った北米の経営者と契約を交わした商業的な性質のものであった。当
時、アメリカへファシズム団体の入国が禁止されていたが、ニューヨークのが
108
SF, Alcance y acción, op.cit., p.83.
109
Ibidem., p.85.
- 156 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
ん撲滅チャリティーやサンフランシスコでのスペイン民俗物産展での「余興」
と銘打ち、CYD計10グループ66名は問題なく北米に渡ることができた110。カ
セーロ(2000)はSFの米国の入管宛ての書類の写真を掲載し、CYDがFE
T党の下部組織である事実を隠し、
「スペインで一番のダンス・歌・音楽のア
マチュアグループ」と名乗り、民間のイベント参加による文化交流が入国の目
的であることを主張したことを紹介している。サンフランシスコなど一部の都
市で反ファシズム団体からの抗議は受けたものの、北米ツアーは全体的に好評
であった111。1953年6月4日のニューヨーク・タイムズ紙ではカーネギーホー
ルのCYD公演に観客から称賛が与えられたことが伝えられている112。もちろ
ん全ての公演が成功裡に終わったわけではなく、1951年の欧州ツアーでは共和
派スペイン人亡命者が多く在住するパリやベルギーにて新聞の冷たい反応の
他、会場で罵声を浴びたり、学生団体等による妨害を受けたりした113。
スアレスによると、1954年1月の第17回全国総会にてCYDのさらなる発展
の為には海外公演よりも本来の国内の民謡・民族舞踊の収集・保存・普及活動
を優先する必要があると呼びかけがなされ、1950年代中盤あたりからこれまで
右肩上がりであったCYD海外ツアーも一段落ついたという114。1950年後半か
ら1960年代前半においては手元の史料、先行研究を見ても、CYDの海外派遣
は行われたという記述はみつからなかった。だが映画ニュース NODO ホーム
ページの検索結果によると 1963年から1965年にかけて定期的に北米、メキシ
コに渡っていたことが分かった。いずれも国際見本市や万国博覧会スペインパ
ビリオンへの参加が主目的であり、CYD派遣の性質も以前の純粋な外交目的
から文化・商業的なものへと変容したといえよう。
またCYDは海外での公演以外に、海外要人の来西に伴う歓迎レセプション
等の場にて演技を披露することも多かった。1947年のエバ・ペロンアルゼンチ
110
111
SÚAREZ., op.cit., pp238-239.
CASERO, op.cit., p.52.(写真掲載ページ 同書画像資料部分 p.8)
112
SF, Canciones y danzas, op.cit.,1965, n.pag.
113
SÚAREZ., op.cit., p.231.
114
Ibidem., pp.239-240.
- 157 -
齊 藤 明 美
ン大統領夫人をはじめ、1949年のヨルダン王のアブドゥッラー1世のマラガで
のレセプション、1951年グリフィス北米大使歓迎式などに「フランコの文化宣
伝大使」として参加し主賓を歌と踊りでもてなした115。
このような実際の公演活動以外にも、CYDは国際組織への加入や役職任命
という形でも国外フォルクローレ界での存在感を強めていった。1977年作成の
CYD史料「海外との関係」は「我々CYDの名はフォルクローレ界全体に知
られ、また高い評価を得ている。そして世界中の国々と緊密な関係を保ってい
る。」とし、その裏付けとして国際団体へ参加が挙げられている116。
表 4 CYDの国際団体への参加
年
1951年 世界初の国際フォルクローレ組織に加入
1959年 同国際組織の執行委員会の一員となる。マリアホセファ・サンペラーヨSF
委員副議長に任命。
1961年 仏、ベルギー、西、伊、ポルトガル、ポーランド、ハンガリーの 7 カ国、フォ
ルクローレフェスティバル国際組織委員会(C.I.O.F.F)結成
1977年 スペイン、トルコと共に CIOFF の副議長国に任命される
出 典:BNE,M.SEC.FEM./ Archivo Documental “Nueva Andadura”,temas de folklore(2)
1977, 6) relaciones con el extranjero,p.2.
1977年のCYD史料においてもCYDの活動は「
(CYDは)これまでただ
一つのグループも人としての振る舞いにおいても文化的側面においても失敗を
せず、正統な伝統文化の象徴の模範となった。よって(CYD)の名声は非常
に高く重要なものとなった。
」とポジティブに評価され、そこには1977年10月
時点のSF会員らの自負が伺える117。
115
SÁNCHEZ, op.cit., 2007, p.169.
116
BNE, M.SEC.FEM./ Archivo Documental “Nueva Andadura” temas de folklore(2)
1977, 6) relaciones con el extranjero, p.2.
民族音楽以外のSFの国際団体の加盟として、ユネスコ、国際家族連盟、国際社
会福祉委員会、国際少年と女性の体育教育とスポーツ連合、国際青少年演劇連盟、ヨー
ロッパ農業連合などがある。(SÚAREZ, op.cit., p.527.)
117
BNE, M.SEC.FEM./ Archivo “Nueva Andadura” temas de folklore (2) 1977, 6) Breve
Historia de los Coros y Danzas, p.5
- 158 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
また1993年にスアレスの監修の下、元SF会員有志により編纂された『SF
年代記』においても、CYDについて「30年以上の活動を通して、SFは教育
界にダンスに代表されるリズム、音楽、伝統文化を導入することに成功した。
そして外国においても
(スペインの持つ)
民族的な豊かさを紹介した。
(中略)
(S
F解散後でも)たとえ名前が変わろうとも「コーラスとダンス」の活動はこれ
からも不滅であろう。
」と記されている118。
4 おわりに
本稿では1934年から1977年までのファランヘ女子部の海外事業の変遷と、
フランコ体制の体外政策の枠組みの中でのSFの使命と役割について、主に
「コーラスとダンス」の活動を軸に考察してきた。史料的制約と先行研究の少
なさから明解な結論を導くには至らなかったが、今回確認できた点は以下のと
おりである。
まずCYDを軸としたファランヘ女子部の海外活動の特色について述べる。
SFの海外事業は国内事業と同様に積極的に展開されていた。特に1940年代中
盤から後半にかけてスペインが国際舞台で孤立し、公式な外交活動も停滞して
いた期間において、SFはより積極的にCYDの中南米ツアーを中心とし精力
的に活動していたことは非常に興味深い。またCYDの主な派遣先は時代と共
に変化し、第二次世界大戦期までは枢軸国、それ以後は中南米、欧米となった。
しかし外交関係の希薄であったアジア(フィリピンを除く)圏やオセアニア諸
国への派遣は確認されず、CYDの活動における政治的ファクターの大きさが
伺える。また、時代や国際情勢の変化、中央政府の要請などに臨機応変に対応
する形で、その都度フランコ体制やSFに最も適切な目的や手段、交流相手国
を選択するなど随所でSFの優れた状況判断力が確認できた。
118
SÚAREZ, op.cit., p.472.
- 159 -
齊 藤 明 美
以上を踏まえ、SFおよびCYDの海外活動の展開は次の3つの時期に区分
できると考えられる。
第一期は1937年から1943年までのドイツを中心とする枢軸国との交流の時期
である。ファランヘ女子部本体の内部組織確立期と重なったことから、
「友好
国」との親善を深めるという目的以上に、幹部候補生の独団体での研修が重要
視され、組織運営や女子教育等の新しい技術や制度を学びその成果をSFの活
動に応用することが求められた。その結果「コーラスとダンス」をはじめ、社
会奉仕、体育教育などの様々な活動が枢軸国から導入され、次第にSFは管制
女性団体としての形を整えていった。また初めて「コーラスとダンス」が海外
へ派遣されたのもこの時期であり、1942年に「青の師団」慰問のため団員33名
がドイツを訪問しその政治的な役目を果たした。
第二期は第二次大戦後のスペインの国際舞台孤立の時期と重なる1940年代中
盤から1951年までである。枢軸国の敗北と北米を中心とする反ファシズムの風
潮から、フランコ外交は「イスパニダー(スペイン精神)」、カトリック教、反
共産主義をスローガンとした。SFは中央政府の方針に従い、交流先を枢軸国
から旧植民地のスペイン語圏諸国へ、また主な交流手段もSF幹部団の研修旅
行から「コーラスとダンス」の海外公演へと移行した。当時の中南米への外交
アプローチは、外交官や政治家を仲介とする直接的なものよりも文化交流を媒
介とした間接的な方法が奨励されていたが、その中でCYDはSFやFETの
枠組みを超え、文字通りフランコ政権の「文化外交使節団」となった。
第三期はスペイン語圏女性会議が開催された1951年以降の多角化の時代であ
る。1951 年の国際会議は1948年から開始された中南米ツアーから生まれたが、
ピラールSF代表はその決議文にて、スペイン語圏全体が共有するカトリック
の教えとスペイン精神に基づいた「スペイン語圏の理想の女性像」を提示した。
「イスパニダー」と伝統的な「良妻賢母思想」を融合した「女性像」を打ち出
すことにより、国内やスペイン語圏におけるSFの女性教化団体としての存在
意義を示すことが目的であった。この時期はスペインの国際舞台への復帰も進
- 160 -
スペインフランコ政権下におけるファランヘ女子部の海外展開とその意義
んだことから、SFの海外活動の内容も従来のCYD派遣以外にも、現地文化
サークルの開催、奨学金、講演会、相互訪問などと多様化が進んだ。またCY
Dの訪問国も北米、
ヨーロッパ、
中東、
アフリカなどへ広がり、派遣目的もニュー
ヨーク万博スペインパビリオン参加やヨーロッパでの商業的な興業活動などと
多岐にわたり、次第に政治的なカラーも薄まった。それとともにCYDは国際
フォルクローレ連盟への加盟や国際大会への参加を通して自らの存在をアピー
ルし続けた。
さてSFの会員にとって海外活動はどのように認識されていたのか。1937年
から1977年の40年間に渡るSF史料を概観した結果、一貫して自らの活動に対
して肯定的、容認的な意見が多かったと言える。それは自分達からフランコ体
制の「親善大使」
「外交使節団」と名乗りあげることによって政権内の居場所
を確保しようとするある種の戦略の表れでといえよう。SFにとって一連のC
YDの海外派遣事業は、
「スペイン伝統文化の伝道師」や「外交使節団」とし
てフランコ体制内での生き残り策の一つに数えられていたからだ。本稿の研究
対象はSFの海外事業展開であったが、それを精査するなかで終始一貫してS
F代表の存在が際立っていた。SFの意向を吟味することはそのままピラール
の意見を考察することに繋がることをあらためて実感した。それは裏返すとピ
ラールがリーダーとしてSFの活動を思いのままに操っていたことの表れとい
えよう。
今までも「枢軸国の敗戦後FET本体の存在感が希薄になる中、SFはなぜ
最後まで管制女性団体として存続することができたのか。
」という問いが数々
の研究者によって立てられてきた。1977年にSFが消滅する40年以上の間一人
で代表を務めてきたピラールは、統率力の高さやカリスマ性などのトップとし
て必要不可欠な資質を満たしていた。しかし多くの研究者はピラールの政治的
な手腕やその家柄(独裁者プリモ・デ・リベラの娘、ファランヘ党首ホセ・ア
ントニオの妹)をSFの組織としての「長寿」の大きな理由としたが、彼女の
具体的な力量については多くは語られてこなかった。
- 161 -
齊 藤 明 美
本論を通して、対外政策におけるピラールの政治家・リーダーとしての才腕
は次のように特徴づけられる。1)時代や政府の要請に柔軟に対応した状況判
断力。2)ホセ・アントニオが提唱したファランヘの考えと管制女性団体とし
ての立場や「イスパニダー(スペイン精神)
」を上手に融合しSFの存在意義
を確立した理論家としての才能。3)外務省、ICH、在外スペイン大使など
の外部の関係部署とうまく連携・協働した協調性。4)渡独や南米ツアーへ自
ら率先して同行する熱意と行動力。もちろんこれらの資質は、対外活動に限定
されずSF全体の活動においても同様に見られると予想される。今回、SF全
国代表ピラールの働きに注目することによりSFの長命の要因の一端を垣間見
ることができた。
最後にフランコ体制の外交政策におけるSFの果たした役割についてである
が、今回は時間的、史料的制約もありSFやCYDの海外活動の問題を「何を
やったか」に限定して考察するに留まり、海外プロパガンダの性質・使命、つ
まり「何がどのように伝えられたか」という点に関して十分に検討することが
できなかった。関連史料、文献を読み進めていくなかでCYDの海外活動に関
する映像媒体(NODO、映画)やSF内外の雑誌や新聞記事など多様な媒体
を確認することが出来たが、そのなかで、CYDの海外派遣などの実際の活動
よりも、メディアによるプロパガンダの効果の方が大きかったのではないかと
いう疑問を抱いた。フランコ対外政策の中のSFの位置づけを考察する上で、
このプロパガンダの果たした役割を無視することはできない。
「コーラスとダ
ンスの国外の活動はどのように伝えられたのか。メッセージの受け手は誰が想
定され、どのような効果が期待されたのか。フランコ体制のプロパガンダ政策
におけるファランヘ女子部やCYDの位置づけとは」などの新たな問いが立て
られたが、その検討は次の機会に譲ることとする。
- 162 -