物語版 クスクスの木の物語 ∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞∞∞ き ∞∞∞∞∞ ∞∞∞ ものがたり クスクスの木の 物 語 I ひばくしゃ しろ なみだ さんか へいわ しひょう 被爆者がひきうけた白い 涙 への賛歌 ~平和への指標~ ∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞ ∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞∞∞ 作:ひの ∞∞∞∞∞ ∞∞∞ めぐみ 08A8 1 ©ひのめぐみ A 物語版 クスクスの木の物語 A あらすじ: だ い に じ たいせん しゅうせんちょくぜん ようこ ながさき す さい むすめ く しろうず け 第二次大戦の終 戦 直 前 、陽子は長崎に住む十八才の 娘 でした。つつましやかに暮らす白水家は きょうだい し ま い すえむすめ のち げんばく ち ょ っ か ち キリシタン村にあり、陽子は八人兄 弟 姉妹 の 末 娘 でした。そこは後に原爆直下 の地となりますが、 きせきてき い のこ やけど ひばく こう いしょ う しゃかいてき せいしんてき く つ う 陽子は奇跡的 に生き残ります。しかしひどい火傷 と被爆 の後遺症 、社会的 に受ける精神的苦痛 から しんしん や ほんらい あか うしな うち む かた 心身ともに病み、本来の明るさを 失 っていきます。あらゆるものを失い、内向きの生き方をつづけ、 じぎゃ く てき おも ねんりん へ ふる しゃ か い つうねん しはい 自虐的 な思 いにむしばまれつつ、陽子は年輪 を経 ていきます。古 い社会通念 に支配 されて生きた じ き なが じょうたい たんきゅう し ん しぜんかい 時期 も長 くありましたが、ぎりぎりまで自分を追いつめた 状 態 ともちまえの 探 求 心が自然界 への どうさつりょく ながねん と え 洞察力 を深めさせていったのか、陽子の長年 の問いかけに答えが得られるときがやってきました。 いちど ぜんしん こうたい それは一度 に来たわけではありませんが、前進 してはまた後退 するような繰り返しのなかで、よう すなお どういつか つ うち か っと う やく素直にありのままの自分と同一化することができた日、陽子は積もり積もった内なる葛藤を知 の こ じぶん ざま もど らぬまに乗り越え、自分の生き様をとり戻していくのでした。 とうじょう じんぶつ 登場人物: よ う こ しろうず おおやま し ょ う わ がんねん たいしょう ねん がつ か さく し んげ つ う 陽子: 白水 陽子/ 大山 陽子。昭和元年・大正15年(1926 年)8月8日、朔(新月)の生まれ。 しろうずけ よんじょ あね あに か わ い そだ あいしょう 白水家の四女。姉や兄から可愛がられて育ち、園子と相性がよかった。 よ う き せいかく い ち ど き まも ぬ つよ つま もともと陽気な性格。一度決めたことは守り抜く強さもある。徳治の妻。 (陽子:19 才~47 才の陽子。若い陽子:20 代の陽子。老女陽子:79 才-89 才の陽子) はは 母 : 陽子の母 (白水 ちょうわ まも ひ さい トキ) ひ ば く し か ぞ く たいせつ に っぽ ん ははおや か く ん だい 46才で被爆死。家族を大切にする日本の母親。家訓の「大 び しょうじん ながさき ひと 調和」を守り日々精進していた。長崎の人。 ちょうじょ さい はりしごと りょうり と く い お と な 長女: トヨ。28才で被爆死。針仕事や料理が得意で母親代わり。大人しくしっかり者。 じ じ ょ そ の こ さい あ い そ め んどう み 次女: 園子。26才で被爆死。愛想がよく小さい子の面倒見よく、陽子を可愛がる。 さんじょ 三女: とく じ 徳治: さい て ん ば かいかつ ず の う めいせき 広子。23才で被爆死。お転婆で快活、頭脳明晰。皆を笑わせる楽しい性格。 な のか お さななじみ おっと 大山 徳治。昭和元年・大正 15 年(1926 年)7 月7日生まれ。陽子の幼馴染であり 夫 。 しゅうせんじ りょうしん すで たか い せんさい よわ き 終戦時にはキリシタンだった両親とも既に他界している。繊細、ひ弱で気がやさしい。 お ば ちち い っ さ い ちが いもうと 叔母: さつきおばちゃん。陽子の父、健之助の一歳違いの 妹 。陽子の叔母。 ここのか じ て ん さい みぼうじん い つか じ っ か きんじょ 昭和 20 年(1945 年)8 月 9 日時点で 49才。未亡人。5 月5日生まれ。陽子の実家の近所 す と う か ご ゆいいつ ど う こう じ し ん ひ ば く さ い ご に住み、原爆投下後、唯一徳治と陽子の動向を知る人。自身も被爆していたが、最後 あ しょうそく ふめい に陽子に会ってからの消息は不明。 しゅじん 主人2: く ろ か わ おんせん やど しゅじん に だ い め せんだい むすめ おっと な あと やど つ 黒川温泉宿の主人。二代目。先代の主人の 娘 の 夫 。先代が亡くなった後、宿を継ぐ。 ボランティア: さとし 智 (日本の学生) 陽子とクスクスの木を探しに行く 2 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 ボランティア: ルナ (米国から来た学生) 陽子とクスクスの木を探しに行く ボランティア: 日本の学生 オーストラリア ボランティア: 豪 州 から来た学生 ボランティア: インドネシアから来た学生 ボランティア: フィリピンから来た学生 介護士さん 主任さん 人々・人 月の精 つき ひかり せい 月の 光 の精たち クスノキの精(たち) はな 花の精(たち) みず 水の精(たち) かぜ 風の精(たち) つち 土の精(たち) 鳥(たち): 主にハト ちょう 蝶 (たち): 主にモンシロチョウ、モンキチョウ はち みつ蜂(たち) しゅじん く ろ か わ おんせん やど お ば と おえ ん かんだい き ま え 先代の主人: 黒川温泉宿の主人。叔母さつきの遠縁。寛大で気前がよい人。 よ う こ ちち しろうず け ん の すけ しょうわ ねん きょうねん さい せ ん し 陽子の父: 白水 健之助。昭和19年(1944 年)享年 49才ビルマ(現ミャンマー)で戦死。 おや いえ しんきょう じ ゆ う かんが か く ん だいちょ う わ 親がキリシタンだったが家の信教については自由という 考 え。家訓は「大調和」。 ちょうなん け んいち ば く し 長 男 : 白水 健一。昭和 19 年 26 才長崎で爆死。 じ な ん 次男: さんなん 三男: よんなん 四男: け ん じ 白水 健二。昭和 17 年 21 才ソロモン諸島で戦死。 けんぞう 白水 健三。昭和 19 年 20 才ビルマで戦死。 けんしろう が く と ばくげき 白水 健四郎。昭和 19 年 16 才、動員学徒として作業中に爆撃を受け死亡。 ふ くおか けん く る め がすり ど ん や むすめ さい け ん の すけ う ウメ: 陽子の父、健之助の母。福岡県の久留米 絣 問屋の 娘 だった。17才で健之助を産む。 ながさき はなし わ きじゅん ひょうじゅんご か * 長崎の 話 ですが、分かりやすさを基準に、標準語ベースで書かれています しめ まんねんれい * 上記「登場人物」に示す年齢は満年齢です 3 ©ひのめぐみ A 物語版 クスクスの木の物語 もくじ 目次 だい しょう 第1 章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第 10 章 第 11 章 第 12 章 第 13 章 てい き バス停 の木 しゅうげん ひ 祝 言 の日 ひ その日 かわ 川 き 木 じんかくそうしつ 人格 喪失 かいこ 解雇 さいかい 再会 しぜん 自然 かいこう 邂逅 ななじゅっかいめ ひ 七十回目のこの日 つき お月さま ありあけのつき 有明 月 4 ©ひのめぐみ A 物語版 クスクスの木の物語 だい てい 第1 章 A き バス停の木 ながさきし なつ 長崎市。夏。 あまぐも くろびか あらわ あおぞら 雨雲が去ると黒光りしながら 現 れる青空。 た なら まど はんしゃ たいようこう なんちゅう ひかり 立ち並ぶビルの窓に反射する太陽光。南 中 を過ぎた 光 。 がいろじゅ しげ は なか た のぼ だいがっしょう せみ こえ 街路樹にこんもりと茂る葉。中で大 合 唱 する蝉の声。 ど うろ ゆ げ アスファルトの道路から立ち上る湯気。 け ち しゃりょう それを蹴散らすように行きかう車 両 。 てい かたわ た 通り過ぎた車の向こう側に見えるのは、バス停とベンチ。そしてその 傍 らに立つクスノ おおえだ に ほん き と はんたいがわ えだ の すわ キ。片側の大枝を二本切り取られながらも反対側の枝をベンチに伸ばし、そこに座る人のた こ かげ つく みき したがわ めに木陰を作ろうとしているかのようです。その幹の下側にはさるのこしかけのようなキ じょう ひろ み ノコ 状 の広がりが見えています。 へいせい ねん せいれき か いめ まいとし ついとうしき 平成22年、西暦2010 年の 8 月 9 日。65回目の夏。毎年行なわれる原爆被災者の追悼式を お き の う かぞ どし も ふく 終え、昨日数え歳八十五になった陽子がこのクスノキのところへやってきました。黒い喪服 すがた つか ふる ひ ぼ うし さ じ かん き あし 姿 に使い古した日よけ帽子をかぶり、地味な雨傘を差し、時間を気にせぬ足どりでバス停 たど つ のベンチに辿り着くと、木を見上げました。それは「クスクスの木」とか「クスクスさん」 みき み めずら と小さいころから呼び親しんできた木でした。木の幹のキノコを見つけると 珍 しそうに み い こし お たた 見入り、それからゆっくりとベンチに腰を下ろし、日傘を畳むとクスノキの木陰におさまり ひといき なが ました。一息ついた陽子は、ようやくあたりを眺めまわします。 け しき まいとし いの 「あたりまえ あたりまえのよう この景色 毎年の祈り クスクスの木と な ん ど め はちがつここのか いのち せいいっぱい 何度目の 八月九日 ここにあり あなたの 命 も 精一杯 み ひろ だれ ないしょ た 見つけたの 広がるきのこ クスクスさん 誰にも内緒 立ってておくれ おも ゆ うき え と わ すな こころ 思いだす 勇気を得るまで 永遠の砂 わこうど つた くら おそ つづ 心 の「蔵」に 恐れの綴り なや 若人に 伝えたいこの あたりまえ 悩めることも しあわせのうち かぎ さ ゆ うき え いま ただそこに あなたがいること の しあわせ 鍵を差しこむ 勇気を得た今 とびら わが 扉 しょうわ ねん む ひら かた あなたに向けて 開きましょう さあ語りましょう せいれき がつ だ い に じ たいせんちゅう のち にんきょうだい し ま い よんじょ き クスクスの木と」 ばく し ん ち し 昭和20年、西暦1945 年 8月のはじめ、第二次 大 戦 中 。後に長崎の爆心地として知られる しろうず け う じゃっかん さい 村がありました。陽子もそこに白水家の八人 兄 弟 姉妹の四女として生まれた弱 冠 十八才の むすめ せ んち へいえきちゅう それぞれ しゅうせん いちねんまえ せ んし 娘 でした。父と二人の兄弟はアジアの戦地で兵 役 中 、夫々が終 戦 の一年前までに戦死しま 5 ©ひのめぐみ 物語版 A クスクスの木の物語 いちばんした おとうと どういん が く と ぐんじゅこうじょう きんろうさぎょうちゅう ばくげき な した。一番下の 弟 は動員学徒として軍需 工 場 で勤労 作 業 中 に受けた爆撃がもとで亡くな ば くし あね とつ りました。長男も長崎の軍需工場で爆死しました。三人の姉はすでに嫁いでいましたが、ど おっと ふ ざい おさななじみ わかもの そだ の家にも 夫 は不在でした。陽子と幼馴染の徳治という若者もこの村で育ちました。しかし い っ か げ つ まえ たな ばた さい しゅっせい き 徳治も一か月前の七夕には十九才になり、まもなくの出 征 が決まったところでした。この ふ たり きゅう しゅうげん いっしゅうかんご よう か さい ため二人は 急 きょ祝 言 をあげることになりました。陽子も一週間後の 8 月 8 日には十九才 と うじ は た ち ははおや なか なか とき です。当時は二人ともすでに二十歳とみなされていました。母親のお腹の中にいる時からす いのち う かんが たんじょう じ かぞ どし いっさい でに 命 が生まれていると 考 え、誕 生 時には「数え歳」で一歳と考えられていたからです。 しゅうげん 第2章 ひ 祝 言 の日 ごぜんちゅう にし うす のこ ありあけのつき えんがわ お ば 午前中、西の空に薄く残る 有 明月。陽子の家の縁側から、三人の姉と母トキ、叔母のさ しゅうげん よ うい つきが祝 言 の用意にいそがしくしているのが見えます。 ついたち あね そ のこ ひ ろこ ぜんじつ じ っか 昭和 20 年 8 月 1 日。陽子の三人の姉、長女トヨ、次女園子、三女広子は前日から実家に と こ とぼ ぶ っし ととの いろ いろ く ふ う じゅんび 泊まり込み、乏しい物資のなかでもどうにか祝言らしく 整 えようと色々工夫して準備をし せんきょく はげ ころ はいきゅう ふ そく こめ はん た ていました。戦 局 が激しくなったこの頃は配 給 の物資も不足し、お米のご飯を食べられる ひ な こ ども お とな くうふく きんろう ほ う し じょせい し っそ 日も無くなっていきました。子供も大人も空腹をかかえたまま勤労奉仕をし、女性は質素な すがた せいかつ う ちか よ うい もんぺ 姿 で生活していました。しかしこの日はハレの日だからと、打掛けまでは用意でき そ のこ いちばんじょうとう じ さん なかったものの、次女園子が、なけなしの着物の中から一番 上 等 なものを持参し、陽子に は お さんさん く ど さかずき つ み き した お ば 羽織らせたのでした。三々九度の 盃 に注ぐお神酒は、陽子がさつきおばちゃんと慕う叔母 ちょうたつ おとこで な きんじょ す お ば なこうどやく が調 達 してくれたものでした。男手の無いなか、近所に住むこの叔母と母トキが仲人役を つと けっこん ぎ と おこ 務め、陽子と徳治の結婚の儀をひそやかに執り行ないました。 き も の すがた ちょうじょ ふ たり しゅくふく 着物 姿 で座っている陽子のところに、軍服姿で徳治が現れ、長 女 トヨが二人を祝 福 し ました。 「おめでとうございます、徳治さん、陽子」 つづ じ じょ さんじょ こえ 続いて、次女園子や三女広子からも声があがります。 「おめでとう!」 「おめでとう!」 いわ こ とば さつきおばちゃんも二人にお祝いの言葉をかけました。 たび 「この度はおめでとうございます、徳治さん、陽子ちゃん」 徳治がそれに答えます。 そ のこ ひ ろこ 「ありがとうございます、さつきおばちゃん、トヨさん、園子さんも、広子さんも」 すると母が陽子に言いきかせます。 「よく徳治さんにおつかえするのだよ、陽子」 な き もの かた くち 陽子が慣れない着物の中で固くなりながら口ごもります。 「...はい。かあちゃん...あ、かあさん」 こま む 母が困ったように、徳治に向かって言います。 なに こ ねが もう 「徳治さん、まだ何もできないこんな娘ですが、どうぞよろしく...お願い申します...」 さ いご こ とば なみだごえ つ 最後のほうの母の言葉は、涙 声 で詰まっていました。 6 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 か あ じ ぶん しゅっせい み A たいせつ 「はい、お義母さん。自分はまもなく出 征 する身であります。このような自分に大切な じょう つま むか いただ まこと おも お 嬢 さんを、陽子さんを妻として迎えさせて 頂 くことは、 誠 にかたじけなく思うところ であります」 みな いっしゅん よ うこ はは まえ すす で うた へいおん 皆、一 瞬 シンとしましたが、まもなく陽子が母の前に進み出て、歌いだしました。平穏 きんじょ いっしょ そっきょう だった時、家族や近所で集まっては、よく一緒に即 興 で歌ったことを思い出したのです。 き ょう つた もう 「かあさん、今日はお伝え申します。これまでどうもありがとうございました」 こ おう 徳治も即興で呼応しました。 か あ 「お義母さん」 つづ 陽子がさらに歌を続けます。 ご おん けっ 「かあちゃん、あ、かあさん、今日までの その御恩は 決して、決して...」 まいにち うた ひ び つた 徳治と陽子が、毎日みんなで歌を歌えた日々を思い出しながら伝えます。 「これまでの 御恩は決して わすれません。 そだ いただ 育てて 頂 き はは お ば ありがとう ございます」 めがしら 母と叔母が目頭をおさえました。 広子も歌いだしました。 なに いわ 「何もない なんにもないけど 祝いましょう。 さ だ どう さ だ 差し出した 銅もハガネも 差し出した」 たいせつ むね かか ちか トヨは大切そうな何かを胸に抱えながら陽子に近づきました。 むかし 「何もない なんにもないけど その 昔 にんぎょう こうかん メリケン人 形 し ぐさ 交換したの」 わた トヨは「しーっ」という仕草をしながら人形を渡しました。陽子はびっくりしながらも だ いじ う なが わら 大事そうにそれを受けとり、眺めてからトヨに笑いかけました。 て ぬ かっぽう ぎ つ ぬ む 叔母さつきは陽子に手縫いの割烹着を渡しながら歌を継ぎます。 なに く かっぽう ぎ 「何もない なんにもないけど 縫ってみた 真っ白無垢なる 割烹着」 う と ま えみ あ 陽子はそれを受け取り、前身ごろに合わせるとにっこりします。 そ のこ 園子が続けます。 おも で え がお 「何もない なんにもないけど 思い出は 陽子の笑顔 とびきり笑顔」 徳治が陽子の手をとります。 こころ 「何もない なんにもないけど むすめ 心 あれ こころかよ 心 通えば ひゃくにんりき 百 人力さ」 すがた 母は 娘 たちの 姿 をいとおしそうに見やりながら徳治に声をかけます。 ひ おも で 「ありがたや ああ、ありがたや ありがたや 今日の日もまた 思い出になろう たから うちの 宝 じゃ 思い出は」 ひ ろこ だ 広子が思い出すように声をあげます。 とお にい くに ため 「父さんも 兄ちゃんたちも 国の為 おっと けんいち け んじ 健一、健二 たび 旅だったんだ」 む すこ 母も 夫 や息子に思いをはせます。 や くめ は ゆ とう けんぞう けんしろう 「いずこにて お役目果たし 逝かれたか 父さん、健三 健四郎まで」 てん む よ 叔母さつきも天に向かって呼びかけます。 み くだ こ すがた 「見て下され この子の 姿 見て下され 7 しゅうげん は 祝 言 の日の 晴れの姿を」 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 や A さけ 広子が歌を止め、叫びます。 とお にい 「ここにいて! いるだけでいい 父ちゃん兄ちゃん。 り っぱ や くめ 立派なお役目? いらないわ! いらないわったら いらないわ!」 いさ 母がこれを諌めました。 こ とば つつし とお にい くに つか や くめ はた 「これ、言葉を 慎 みなさい。父さんや兄さんがたはもう、お国に仕えお役目を果たされ えいれい ひ た英霊なのですよ。このような日に!」 あやま 「…ごめんなさい、かあさん」広子が 謝 りました。 ひ 第3章 その日 ごぜんちゅう くうしゅうけいほう な いっしゅん せみ がっしょう さいかい 午前中。空 襲 警報が鳴りやむと、一 瞬 シンとしていた蝉たちの声がワッと合 唱 を再開 あぜ さけ しました。何を伝えようとしているのか、畦のそこかしこからは負けじと叫ぶカエルの こえ やま は わたぐも ときどき み かく あおぞら ぼうくうごう い ぐち しめ 声。山の端をわたる綿雲、時々見え隠れする青空。縁側の向こうには防空壕の入り口。湿 く うき むな さわ った 8 月の空気が胸騒ぎを伝え、壁の柱時計は刻々と迫りくるその時にむかって針を進め ていました。 ひと てんばつ ち なみだ て 「人はいう 天罰がきた マリアさま その血の 涙 は たが手がすくうか つみぶか な 罪深き せ お じゅもん ろうごく くさり 人という名を 背負わされ 呪文の牢獄 つながれし 鎖 よ お かんのんさま お じ ひ ころも すそ 人はいう この世の終わり 観音様 御慈悲の 衣 の 裾にすがらむ うち み かみ ひかり 内を観よ 神の 光 は ひろしま しんがたばくだん て おさなご いずこより 照らされたもうか 幼子たちを」 お まち き き よ うこ 「広島に新型爆弾が落とされて町が消えたんだと」そう聞かされても、陽子たちにはそれ そうぞう わ がどんなものなのか想像もつきませんでした。陽子の家にはテレビもなく、ラジオが割れた おんせい こくみん こ ぶ くうしゅう はげ れんごうぐん 音声で国民を鼓舞していました。昭和 20 年になると空 襲 が激しさを増し、夜、連合軍の べいぐんき ていくう ひ こ う ばくおん み んか とお す しっこく やみ なか きょうふ ふ あん 米軍機が低空飛行で爆音をたてて民家の上を通り過ぎては、漆黒の闇の中に恐怖と不安を のこ と さ わる もくぞう いえ びーにじゅうく ごうおん しんどう じゅうぶんふる 残して飛び去りました。たてつけの悪い木造の家は B 2 9 の轟音による振動だけで十 分 震 ふ とん まる にぶ おも のこ え、布団の中に丸まっている陽子のはらわたにまで鈍く重い振動を残していくのでした。東 つぎつぎ 京もやられたらしい。沖縄もやられたらしい。九州の町も次々とやられていました。自分た しょういだん お や わ ちの村もいつ焼夷弾が落とされるか、焼かれてしまうか分からない。不安におののく陽子た ね ぶ そ く ひ び おく ちゅうとう かよ もの どういん が く と ぐんじゅこうじょう はたら ちは寝不足の日々を送っていました。中 等 学校に通う者は動員学徒として軍需 工 場 で 働 くに つ せ いと たけやりいっぽん てき たたか み まも くんれん き、お国のために尽くしました。生徒は、なぎなたや竹槍一本で敵と 戦 い身を守る訓練を ぶっ し こんきゅう め み すす すで ききんぞく へ い き せいぞう ため しました。物資 の 困 窮 は目 に見 えて進 み、既 に家じゅうの貴金属は兵器製造の為 として ぼっしゅう かく べいこくせい 没 収 されていきました。そんな中、長女トヨが隠して大切にしていたのが米国製のセルロ にんぎょう せんぜん じんじょう あめりか こうかん イド人 形 でした。戦前の尋 常 小学校で米国の学校と、それぞれの国の人形を交換して送り 8 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 A おく 合ったことがあったのです。トヨが陽子に贈ったのはそのときの人形でした。 しょうわ ここのか ご ぜん じ はん えんがわ びちくひん つ 昭和20 年 8 月 9 日。午前10時半。陽子は縁側でリュックに備蓄品を詰めていました。叔 しろ かっぽう ぎ なが 母さつきからもらった白い割烹着を身につけた陽子は、長女からもらった人形を眺めると、 こ じ っか あつ あね ほ せんたくもの たた それもリュックにしまい込みました。実家に集まっていた姉たちは、干した洗濯物を畳んだ いも あさぶくろ つ そ まつ ちゅうしょく よ うい はじ り、さつま芋を麻 袋 に詰めたり、粗末ながらも 昼 食 の用意を始めていました。 くせ 気持ちをほぐそうと、陽子はいつもの癖で歌いだしました。 にんぎょう 「青い目の ぱちくり人 形 くれた人 どこでどうして いらっしゃるのか」 し ごと こた トヨも、手はてきぱきと仕事をしながら応えて歌います。 き てきこく かく も ひこくみん さわ やから 「気をつけて 敵国のもの 隠し持ち 非国民かと 騒ぐ 輩 に」 と すると陽子が問いかけます。 てき てき 「敵はだれ? 人形くれた 人も敵? 敵はだれ? 人形くれた 国も敵?」 し せん こた つた 母が陽子や姉たちの視線に応えるように伝えます。 てき 「敵はだれ? ほんとの敵は 人じゃない 敵はだれ? ほんとの敵は 国じゃない」 そ のこ と こんどは園子が問いかけます。 あらそ な ぜ はじ 「 争 いは 争いは何故 始まるの? な ぜ おこ だ にく あ 争えば 何故怒り出し 憎み合う?」 つづ 母が続けます。 あらそ くろ おも く 「 争 いは? 黒き思いを 食うやから 争いは? こころ ひそ たね 心 のなかに 潜む種」 その時、広子が声をあげました。 ひとごろ へ いき ぐん だい きら ばくだん じゅう 「人殺し! 兵器も軍も 大っ嫌い! 人殺し! 爆弾に 銃 大っ嫌い!」 こた 母が歌をおさめるように応えました。 ひとごろ はは こ 「人殺し? みんなどこかの 母の子よ に もつ 人殺し? みんなどこかの 母の子よ。 」 つ さ そして母は陽子に荷物の詰まったリュックを差し出しました。 「陽子、先にこれらを防空壕に運んでおいてちょうだい」 「はい」 に もつ ぼうくうごう えんがわ 陽子は荷物をかついで防空壕に向かい、姉妹と母はお昼のしたくをするために縁側から 家の中に入りました。 じ じゅんび おこな 11時、その準備が 行 われていました。 いっぷん しゅどう とう か 11 時 1 分すぎ、それは手動で投下されました。 ふん さくれつ 11 時 2分、それは炸裂しました。 せんこう - 閃光 ちんもく - 沈黙 じひびき - - 地響を超えた地響 - ばくふう - 爆風を超えた爆風 9 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 うらかみ ち く こ うど げ ん し ばくだん さくれつ A むら 浦上地区、高度5~600 メーターほどでもう一つの原子爆弾が炸裂しました。それは村の じょうくう ひく い ち かく ばくだん はかいりょく えいきょう 上 空 のとても低い位置であったため、核爆弾の破壊力の影 響 はすさまじいものになりまし がた ず じょう た。広島にナチスのウラン型爆弾が落とされた三日後、長崎の一般市民の頭 上 に落とされ べいこく じっさい たのは米国 が開発したプルトニウム型爆弾でした。実際 の戦争で使用されてしまった かくへいき 核兵器、その最初の二つが日本に落とされたのです。そしてこれが最後の二つとされなけれ ばなりません。核エネルギーを研究することと、実際に兵器として戦争で使ってしまうこと と ふっとう は大きく違います。たとえば鉄は 1600 度ではすでに溶け、3000 度ではすでに沸騰してい ばく し ん ち じょうたい ちひょう お ん ど ど るものです。爆心地はどんな状 態 になったでしょうか。その地表温度は 4000度を超えまし ししょうしゃ まんにん り さい た。そして長崎の人口およそ 24 万人中、死傷者は 15万人を超えたのでした。このほか罹災 しゃ はっしょう びょうき かんじゃ に じ ひがいしゃ い かず し 者やその後発 症 した病気による患者、二次被害者を入れるとその数は、はかり知れません。 めいもく じんるい たい し よう む さ べ つ さつじん それはいかなる名目 であろうとも人類 が人類に対 して使用 してはならない、無差別殺人 へ いき 兵器であったのです。 おく ばくふう ふ と かべ たた き ぜつ 陽子は防空壕の奥にすさまじい爆風で吹き飛ばされ壁に叩きつけられて、しばらく気絶 きせきてき いち めい き お あ していたものの、奇跡的に一命をとりとめました。まもなく気づいた陽子は起き上がると、 くらやみ なか て さぐ そと は しも かわ 暗闇の中を手探りで外に這いだしました。 第4章 ぼうくうごう かわ 川 で む みち は だし さ まよ かっぽう ぎ まも 防空壕から出て、下の川に向かう道を、裸足で彷徨う陽子。割烹着は陽子を守るために みずか うすぐら 自 らがボロボロになったかのようでした。薄暗い世界。あちらこちらからあがる火の手。 「あ…. あ… ここはどこ? たてもの き 建物もない 木もない た な せ かい 立つものの けはいの無い 世界 と く ろこ くずおれ 溶け 黒焦げ いっしょ て さっきまで一緒だった 手が にぎ てつ かん いき さっきまで握っていた 鉄が さっきまで感じていた 息が や せ かい 焼けつくされた 世界。 生きているのは い わたしは 生きているの? わたしだけなの?」 陽子はよろよろとして、つまずきそうになりました。 すな ひと み ひとびと の こ すす われ ゆる 「砂のよう くずれゆくかな 人の身も 人々を 乗り越え進む 我を許せよ。」 とお き こえ 遠くからかすかに聞こえる人の声。 10 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 みず A くち 「水を水 ください水を ひと口でも…」 き ある ひと なが み 声に気づき、陽子は歩く人の流れを見つけました。 い ひと 「生きている 生きているんだ この人も あげるよ水を ひと口でも ひと せ かい かわ みず 人がいた まだ人がいた この世界 川にいくなら 水がくめるよ」 ちか 人の声はよりはっきりと近くに聞こえてきました。 みず くち 「水を水 ください水を ひと口でも…」 ぼうぜん ところが川の近くまで来て陽子は呆然としました。 かわ つ いき た かず し 「川に着き 息絶えるひと 数知れず ち ひ ばく かの川はどこ かの水はどこ し ま つご みず 血の川と 被爆の水と たれが知る 末期の水すら いただけぬのか かの川はどこ かの水はどこ? かの川はどこ かの水はどこ?」 第5章 き 木 いえ かえ ほんのうてき じ ぶん ほうがく ふいに家を思い出した陽子はきびすを返し、本能的に自分の家があった方角に向かいま した。 かえ みち 「帰ろうか うちに帰ろう 道なき道 かあちゃんはどこ? ねえちゃんはどこ? な まき も ここはどこ? 家はぺちゃんこ 生木燃え た なに ば しょ 立てるものの 何もない場所 と く ろこ くずおれて 溶けだし黒焦げ なにもかも だれ あんこく 誰も知らない 暗黒の世界 いっしょ さっきまで 一緒だったね かあちゃんと かあちゃんはどこ? ねえちゃんはどこ?」 た ど ふ と ね ま ころ ふと立ち止まったところで、陽子は吹き飛んで捻じ曲がったバス停が転がっているのを みき うえはんぶん や お 見つけました。さらにそのむこうには幹の上半分が焼け落ちたクスノキが立っています。ま ひ け ぬの だ火がくすぶっているのを、どうにかして消そうとしますが、水も布も無いので自分の手の お ひらでパンパンと火を押しとどめようとします。 い し 「わたしは いったい、生きているの? もしかして、死んでいるの? クスクスさん、 11 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 みき えだ ふ と あな A まっくろ おまえ、生きてるのに、燃えちゃってるの? 幹も枝も吹っ飛んじゃって。穴があいて、真黒 こ 焦げだ」 せい と こた あらわ いのち しぼ だ その時、クスノキの精たちが陽子の問いかけに応えて 現 れました。命 を絞り出すように ま き 陽子のよこで舞ってみせますが、陽子は気づきませんでした。 こころ とき かた 陽子の 心 がその時を語ります。 わたくし とき じ ぶん まっくろ こ き め 私 はこの時まで自分も真黒焦げであることに気づきませんでした。私が目にしたほと かたち うしな いちにち ちち はは きょうだい んどすべてのものが、もとの 形 を 失 っていました。そしてこの一日で私は父、母、兄 弟 し まい さと たいせつ も じ ど お て すな 姉妹のすべてを失ったことを悟りました。大切なもののすべてが文字通り私の手から、砂 くず さ となって崩れ去っていったのです。 じんかくそうしつ 人格喪失 第6章 はちがつここのか いっしゅうかん た しゅうせん おお 8 月 9 日から一 週 間 も経たないうちに終 戦 となりました。ところが多くの国民にとって つら こんらん ひ び ま う れい がい 終戦後には、いっそう辛い混乱の日々が待ち受けていたのでした。陽子も例外ではありませ ひ ばく しゅんかん や けど お んでした。被爆の瞬 間 、陽子はひどい火傷を負いましたが、それに気づいたのは大きなシ じょうたい ち ゆ つら つい ひ ばく ョック状 態 が過ぎ去ってからでした。治癒に辛く長い日々を費やしたばかりか、被爆によ ふくすう こういしょう くる や けど いじょう くる る複数の後遺症に苦しめられることにもなりました。しかし火傷や病気以上に陽子を苦し じ じつ こわ でんせんびょうかんじゃ あつか はたら ぐち めたのは、被爆したという事実でした。陽子は怖い伝 染 病 患者のように 扱 われ、働 き口を さが ひ こ さき ひとくろう しんがたばくだん 探すのも引っ越し先を見つけるのも一苦労となっていきます。長崎に新型爆弾が落とされ おおやけ ふ とうぜん と うじ たことも 公 にはしばらく伏せられていました。当然のことながら当時はほとんどの科学者 げんばくしょう かん ただ にんしき や医者でさえ、原子爆弾や原 爆 症 に関する正しい認識など持ちあわせておらず、ましてや なん やまい な ぜ おか かんが およ 陽子には自分が何の 病 に何故冒されているかなど 考 えの及ばぬことでした。 陽子の心が語ります。 む がく わたくし し じんこうてき げ んし 無学な 私 がさまざまなことを知るには長い時間がかかりました。人工的に作られた原子 げ ん し ばくだん べいこく いっ げつ た プルトニウムによる原子爆弾の実験が米国で行なわれてから一か月も経たないうちにそれ ながさき おお ゆうしゅう ず のう じんたいじっけん じつげんか が長崎に落とされていたこと、それらが多くの優 秀 な頭脳と人体実験によって実現化され とうかまえ と うじ わ へ い ちゅうかい ていたこと、原爆投下前に日本はすでに当時のソ連に和平 仲 介 を申し入れ戦争を終えよう おおやけ せんじちゅう で き ご と ご としていたらしいことなど、 公 になった戦時中の出来事を私が知るには、その後何十年も さいげつ へ に しゅるい げ ん し ばくだん う きけんせい ひ さん の歳月を経る必要がございました。二種類の原子爆弾が起こし得る危険性と悲惨さが 1945 しょうめい かく じっけん 年に広島と長崎で 証 明されても、そこで核実験を終えることになったのではなく、むしろ ご かく じっけん おどろ その後ますます多くの核実験が行われるようになってしまったことは 驚 きでございました。 に せ ん かい と うか ぐうはつてき 二千回以上の実験、いいえ、間違って投下したり爆発させてしまったという偶発的事故を おおやけ ふく かず 含めれば、そして 公 になっていない実験を含めるならば、その数いかばかりでしょうか。 ちきゅう ひ か 地上の実験が終わっても、地下の実験が続けられています。地球はその皮下に与えられる 12 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 げきつう が まん うつく し ぜん A あた 激痛を、どれほどの回数我慢されてきたのだろうかと思えば、この 美 しい自然を与えてく だ いち もう わけ つの ださっている大地に、申し訳なさが募るのでございます。 いっぽう く る め しゅうせん とき こくみん てんのう へ い か 一方、徳治は久留米で終 戦 をむかえました。この時多くの国民はラジオから天皇陛下の ぎょくおん はい しょうわ た へ いし ちょくりつ 玉 音 を拝しました。昭和20 年 8 月 15 日のことでした。徳治も他の兵士にまじって直 立 ふ どう し せい なんかい い もの おお まわ に ほ ん ご ざつおん なが 不動の姿勢で、難解な言い回しの日本語がラジオの雑音の中から流れるのを聞いていまし い み かい ほうそうしゅうりょうご じょうかん はいせん つ もく た。意味を解さぬ者も多かったので、放送 終 了 後 、上 官 が敗戦を告げました。黙している もの な 者もあればむせび泣く者もありました。 ご こころ と はな はと こきょう む とり その後、徳治の 心 は解き放たれた鳩のように故郷に向かいました。とはいえ鳥のように そら かれ ば くは せ んろ つた つづ 空を飛べぬ彼の足は、あちらこちらで爆破された鉄道の線路を伝って歩き続けました。よう こんらん なみ つ こきょう すがた か は やく混乱の波をくぐりぬけて長崎にたどり着いた彼がそこで見たものは、しかし、変わり果 おどろ ま か ぞく あ んぴ かくにん てた故郷の 姿 でした。 驚 いている間もなく、徳治は陽子とその家族の安否を確認すべく、 こころあ さが まわ ばく し ん ち す のち い み 心当たりをあちらこちら探し回りました。爆心地で過ごすということが後ほどどんな意味 も と うじ かれ し よし を持つことになるのか、当時の彼には知る由もありませんでした。 ね ま たお や こ 捻じ曲がって倒れているバス停と焼け焦げたクスノキを、徳治も見つけました。徳治はク のじゅく かた スクスの木のそばで野宿し、生きているか死んでいるか分からない木に語りかけながら、陽 もど かんが 子もここにきっと戻ってくるのではないかと 考 えるのでした。 わ ふるさと くうしゅう ありさま だ いち 「これが、我が故郷か。どの町も空 襲 でひどい有様だったが、いったいどうしたら大地 すがた う まえ たいへん はこのような 姿 になり得るのだろうか?クスクスさん、お前も大変な目にあっていたんだ ね」 とく じ せい こた かたわ あらわ 徳治が語りかけると、クスノキの精たちが、それに応えるかのように徳治の 傍 らに 現 れ ちから ふ しぼ ま き ました。そしてあるだけの 力 を振り絞って静かに舞ってみせますが、徳治は気づきません でした。 しゅうせん よっ か め ちか つ きあ て 終 戦 から 4 日目の夜、クスクスの木の近くで月明かりにぼうっと照らされている徳治を み お ば 見つけたのは叔母のさつきでした。 「徳治さん、そこにいるのは徳治さんじゃないの!」 「さつきおばちゃん!」 ぶ じ ありがた 「よく無事でいてくれたねぇ。ああ、有難い、有難い」 「おばちゃんもよく無事でしたね。陽子さんたちはどうしていますか?」 い たす おおむら きゅうごびょういん はこ い 「陽子ちゃんは生きてるよ。助かったよ。大村の救護 病 院 に運ばれたから、行っておや りなさい」 「わかりました。おばちゃん、ありがとうございます。あとの...」 「陽子ちゃんだけ、助かったよ」 「...分かりました」 「今すぐ行ってあげて」 「はい」 13 ©ひのめぐみ 物語版 A クスクスの木の物語 し あ めぐ あ あ んど ま はなし しろうずけ ようやく知り合いに巡り会えた安堵もつかの間、徳治は叔母さつきの 話 から、白水家の し まい せいぞん 母も姉妹も助からず、生存しているのは陽子のみであることを知るのでした。それからす きゅうごびょういん か や せま ゆか ぐに徳治は大村の救護 病 院 に駆けつけ、たくさんの焼けただれた人がところ狭しと床に直 よこ おな あい ひと 接横たえられているなかに、同じように焼けただれた自分の愛する人を見つけました。見 きず か らだ ふ ゆる たこともないほどに傷つけられたその身体は、どこにも触れることは許されぬように思わ みじか ていきてき は だ あさ ねむ れました。薬も治療法も無く、寝かされているだけの状態。しかし 短 く定期的に吐き出さ いき かのじょ せい ひ っし たたか つた れる息づかいは、彼女が生にむかって必死に 闘 っていることを伝えていました。浅い眠り め く つう かいほう であってもおそらくは、目ざめているときの苦痛から彼女をささやかに解放しているかも かんが お き かいふく しれない。そう 考 えると徳治は陽子を起こしてしまわぬよう気をつけました。そして回復 いの か おく しず ば はな を祈り彼女への変わらぬ思いを送ると、静かにその場を離れるのでした。 たいいん あと せいかつ な た く もと やまおく 徳治はその後、陽子が退院した後の生活を成り立たせるため、食いぶちを求めて山奥の こ うじげ んば おもむ たの ながさき はな 工事現場に 赴 くことにしました。さつきに陽子のことを頼むと、徳治は長崎を離れました。 き かん み ま し すいじょうたい さ 徳治が帰還し病院にも見舞いにきていたことを陽子が知ったのは、こん睡 状 態 から覚め あと とき おそ けんがい た後でした。しかし時遅く、徳治はすでに長崎を去っていたのでした。さつきは徳治が県外 で い わけ つた し ま に出て行った訳や、どれほど陽子のことを思っていたかを伝えようとしましたが、知らぬ間 で き ご と ふたた ねつ じ ぶん の出来事を知った陽子はショックのあまり 再 び熱にうなされてしまいました。自分のもと さ おっと や にくたい ゆか よこ か らだ は さ い しかばね を去ってしまった 夫 。焼けた肉体を床に横たえ生きる 屍 のようにそこにいるしかない自 こころ いた つら 分。 「どうしようもない、心 と身体が張り裂けそうに痛いんです。生きているのは辛いこと だれ わ わたし ひと し き ふう ですね。誰に分かるというのでしょう。こんな 私 は人知れず消えてしまいたい。 」そんな風 さけ にく こころ かくとう つづ に叫ぶ陽子の肉と 心 の格闘がさらに続いたのでした。 に ね ん あま す おんしん ふ つ う それから二年余りが過ぎましたが、徳治からは音信不通のままでした。さつきは自らも ひ ばく ごじゅうに じゅうぶん い 被爆していたにもかかわらず、数え五十二歳になる自分はもう十 分 生きたからといって、 わか つよ はげ めんどう 若い陽子に強く生きるよう励ましながら面倒をみるのでした。 じ かん いた いや ほうそく 時間は肉体の痛みも心の痛みも癒していくものですが、この時の陽子に、その時間の法則 あ まいばん あ く む い きずぐち ひろ は当てはまりませんでした。毎晩悪夢にうなされ、癒えぬ心の傷口は広がっていくばかりで した。 老女陽子の心がこの時を語ります。 ばく し ん ち い いち めい わたくし 爆心地に居たにもかかわらず一命をとりとめた 私 とさつきおばちゃんでしたが、その とく い ゆえ め とく ほう しゃせん しょうがい ちりょう 特異さ故に GHQ の目にとまり、特に若いほうの私は、放射線による障 害 の治療というより ちょうさけんきゅう ざいりょう ていきてき れんこう は調査 研 究 のための材 料 として定期的に連行されるようになりました。そこでは日本人 い しゃ たいしょ し かた どうよう じんかく け ついせきちょうさ の医者であっても対処の仕方は同様でした。陽子という人格は消され、追跡調査を受ける ひ ばく じっけん たいしょう もの あつか 被爆実験の対 象 となる「物」のようにしか 扱 われなくなっていたのです。 14 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 しょとう ま いど け んさ く つう A み 昭和 22 年、1947 年初冬、毎度の検査の苦痛におびえる私を見かねたさつきおばちゃん むら に は、とうとう私に村から逃げるように言いました。 み そか つ き てい まえ おお ふ ろ し き せ お お ば 大晦日月の夜、クスクスの木のバス停前に、大きな風呂敷つづみを背負った叔母とリュッ クを背負った陽子の姿がありました。 ふ あん 陽子が不安げにつぶやきます。 「さつきおばちゃん...」 ふ だん おな 叔母が普段と同じ声で言いました。 う ひ さく ま くら よる 「陽子ちゃん、あんたが生まれた日は朔だった。真っ暗な夜だったよ。あのピカドンの たんじょう び さく こ んや つごもり よ に 前のあんたの誕 生 日も朔だったねぇ。今夜も 晦 で真っ暗だ。夜逃げするにはちょうどい に あ い。あんたは真っ暗な夜が似合う」 はん な こ うぎ 「さつきおばちゃん!」陽子は半泣きになって叔母に抗議するかのように言いました。 やわ さと さつきはすぐに柔らかい諭すような声で伝えました。 わる さく はじ ま くら 「悪いことばかりじゃないよ。明日は朔。朔はこれからが始まりってこと。真っ暗になっ すこ あか たら、少しずつ明るくなっていくしかないの」 はん そで なみだ ふ はら ゆが くちもと かく へいせい よそお 半コートの袖で 涙 を振り払い、歪んだ口元を隠しながら陽子は平静を 装 っていました。 くまもと くろかわ おんせんやど とおえん 「いいかい、熊本の、黒川の温泉宿に行くんだよ。おばちゃんの遠縁にあたる人がやって き だいじょうぶ て がみ わた る。気のいいおじさんだから大丈夫。この手紙を渡すんだよ。ちゃんとかくまってくれるは ずだから」 「おばちゃん...」 お ば ふ ろ し き づつ の も 叔母のさつきは自分の風呂敷包みを陽子のリュックの上に乗せて持たせました。そして ま しょうめん つば いき す し せい む あ 陽子の真 正 面 に立ち、唾をのみ、息を吸ってから、きちんとした姿勢で向き合いました。 き き ょう ひ 「よく聴いておくれ。今日は昭和 22 年 11 月 12 日。この日かぎりあんたは... し きょうねんかぞ どし に じ ゅ う に おおやま よ う こ し...死んだんだ! いいね。享 年 数え歳二十二。大山陽子は今日、死にました...」 い りょうほほ こ きざ ふる りょうて お ば ひたい 言い終わるなり陽子の両 頬 を小刻みに震える両手でつつみ、叔母さつきはその 額 に自分 ひたい さ いご わか なみだ め うえ なが の 額 をあてて最後の別れをしました。叔母の 涙 が陽子の目の上をつたって流れおちました。 陽子の心が語ります。 つき で な もの し んや わたくし み おさ う こきょう 月の出もなく、自分も亡き者となった深夜、 私 はクスクスの木を見納め、生まれ故郷を きょうり 見納め、長崎の郷里を出ていきました。もう自分が消えてしまいたいなどと言っていた自分 じつげん ご せ けん の思いが、こんな形で実現してしまったのでしょうか。その後私は世間からも徳治さんから み かく も身を隠しながら生きていくことになりました。 第7章 かいこ 解雇 ご ね ん ご おも か らだ はたら 長崎を出てから五年後、重くひきつる身体でもどうにか 働 けるようになっていた陽子は、 な す こ したばたら お 名を「ヨリ子」と変えて、熊本県は黒川の温泉宿に、住み込みの下 働 きとして置いてもら 15 ©ひのめぐみ 物語版 A クスクスの木の物語 やど しゅじん さいはい つ っていました。宿の主人の采配で、仕事が終わると温泉に浸からせてもらうことができまし かげ つ きひ け いか か らだ きず い た。そのお陰か、月日の経過とともに身体の傷も少しずつ癒えていくように見えました。 陽子の心が語ります。 わす き かんが これまでずっと忘れようとしても、気がつくと 考 えているのは徳治さんのこと。どこで にく どうしていらっしゃるのか。忘れられるものではありません。けれど、徳治さんを憎んだり うら み じん おっと つか 恨んだりする気持ちは微塵もないのです。ただ、 夫 にきちんと仕えることのできない我が もう わけ ひ ばく にんげん あつか 身を申し訳なく思うばかりなのです。被爆してから、自分がまともな人間として 扱 われな さまざま ば めん わたくし おっと いことを様々な場面で思い知らされました。そのような 私 が 夫 の前に出ていくことはで めいわく しあわ わたくし ゆいいつ きないと、ただただご迷惑をかけないようにと、それが夫の 幸 せのため、 私 にできる唯一 せんさい びょうき こと かま のことでした。繊細な徳治さん。病気になっていないだろうか。私の事は構わない。でも自 の ほ か って ねが 分の夫となった人には、一年でも二年でも生き延びて欲しい...。それは勝手な願いだった いの ねが ふ あん しんぱい うらがえ かもしれません。その思いは祈りでもなく願いでもなく、私の不安と心配の裏返しだったか もしれません。 とく じ い 「徳治さん もしまだあなたは 生きてらっしゃる? ご ねん にじゅうご あれから五年 かぞえで二十五 な か い ば し ょ 名を変えて 居場所を変えて 生きてきた や けど や ま い 火傷とたたかい 原子病の数々 た す 徳治さん どれだけ耐えれば 済むのでしょう 徳治さん もしまだあなたは 生きてらっしゃる? あれから五年 かぞえで二十五 お もに さ に かく 重荷には なること避けて 逃げ隠れ にく いた 肉の痛みに む がく み こころ 心 の痛み おんな 無学の身 あわれな 女 きら もの 嫌われ者 徳治さん もしまだあなたは 生きてらっしゃる? あ あれから五年 会いたい会えない ピカドンは わたし か い 私 も変えた 生きざまも ひと 人のようには あつかわれない おも わたくしが あなたを想う はずかしさ」 とき しょうわ せいれき せんだい まえ つき むすめ 時は昭和25 年、西暦1950 年の 8 月 13 日。先代の主人が前の月に亡くなり、その 娘 の おっと つ りっしゅう ころ はげ ゆ うだ そら やま 夫 があとを継いだばかりでした。その日は立 秋 の頃の激しい夕立ちがあり、稲光が空と山 あ いま よこ おんせんやど げん かんぐち そ うじ ときどき かみなり の合間を横に走りました。陽子は温泉宿の玄関口で掃除をしていました。時々落ちる 雷 の おと と ゆ とどろ わた 音は、玄関の戸をガタガタ揺らすほどに 轟 き渡っています。 16 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 ゆうだち き のう ふ A そう じ 「ひどい夕立だこと。昨日からほとんど降りっぱなし。あらあら、いくら掃除をしても あめ はい こ お 雨が入り込んでくる。ここの掃除はひとまずこれで終わりにしましょう」 そ うじ 陽子が玄関口の掃除をし終わると、新しくなった主人が陽子を呼びました。 こ 「ヨリ子さん、ちょっとこっちへ」 「はーい、なにか」 わ るぎ すじょう し きゃく あ い て し ごと 「悪気はないんだが、あんたの素性が知れてしまったんだ。うちはお 客 相手の仕事なん れんちゅう でんせんびょう あきな でね、申し訳ないが。ほかの連 中 も、伝 染 病 になったらうちの 商 いもあがったりだってう きゅうきん たっしゃ るさいんだよ。今日までの給 金 だ。達者でな」 お 「え…? あ、はい…。あ…あの、今日まで置いていただきまして、ありがとうござい ました」 うらぐち 「ヨリ子さんよ、すまんな。裏口から、みんなに気づかれないように出ていきなさい」 「…はい…」 やど や うらぐち い か さき そ うじ 宿を辞めさせられ裏口を出る陽子でしたが、入れ替わるように、先ほど陽子が掃除をし おもてぐち たず さ かさ と ほそ ていた表 口 から訪ねて来たのがほかでもない徳治でした。差していた黒い雨傘を閉じて細 み はい たず 身の徳治が温泉宿の玄関口に入り、主人に尋ねます。 じょせい 「あのう、もしやこちらに陽子という女性がおりませんか?」 しつれい だれ 「失礼だが、おたくは誰ですか?」 もう おく おっと 「申し遅れました。自分は大山徳治といいます。 夫 であります」 「うちには、いませんよ」 しっけい 「…そうでしたか。失敬」 ひ ど し と 裏口の引き戸を閉め終わった陽子が動きを止めます。 に 「はっ、もしや。あれは徳治さんの声?…似ている」 こ うし ど かげ かさ かく ぬし 格子戸の陰から、から傘で身を隠しつつ陽子は声の主を見ようとします。 ちが や ほそ 「あの歩き方。徳治さんに違いないわ!ああ、生きていらした。あの足、痩せ細ってしま われて。雨でびちょびちょ。でもあれは徳治さんだわ。私はここよ。気づいてくれるかしら …いいえ、だめだめ! 出ていってはだめなの!」 のきした あまがさ とお さ ゆう かくにん 徳治は軒下で雨傘をひろげ、通りに向かって左右を確認しますが、陽子には気づきません。 な んど かさ かく そのまま立ち去ろうとする徳治。何度か声をかけようとするものの、から傘に隠れて陽子は 目で追うだけです。 ちが こ おう 徳治の心と陽子の心の歌が、すれ違いながらも呼応しようとします。 「陽子さん、ああ陽子さん ゆめ 夢にさえ すがた 今どこに 生きているのか、死んでいるのか な ぜ 姿 を見せぬ 何故なのか?」 「徳治さん、ああ徳治さん おゆるしを こんな陽子を ゆるしてください わ け つい 夢にさえ 出ては行けない 我が決意」 17 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 に 「陽子さん、ああ陽子さん いま な わら こえ A おぼ なぜ逃げる 覚えているかな クスクスの木を きみ 今は無い 笑いも声も 君までも」 した 「徳治さん、ああ徳治さん さち ねが お慕わしい あなたの幸を 願い願いつ こい 逃げ続け 恋しい人から 逃げ続け」 「陽子さん、ああ陽子さん き 今いずこ 君の心も 去ってしまった も とどかない ぼくの気持ちは とどかない」 つた 「徳治さん、陽子はここよ 伝えたい ここにいますと 伝えたいのよ さけ こんなにも 私の心は 叫んでいます」 わ つま な ぜ たなばた う ひこぼし 「我が妻よ、我が妻、陽子 何故なのか 七夕生まれの 彦星だのに ゆる ねん さいかい 許されぬ 年に一度の 再会さえも」 さけ 「こんなにも 私の心は 叫んでいます」 「とどかない ぼくの気持ちは とどかない」 ひび かさ み おく かさ さい ご 心の声は響きあいつつも、徳治の傘を見送ってしまう陽子の傘。徳治の最後の思いさ あまおと け あめ や え、この日の雨音はかき消してしまうのでした。雨はいつまでも止むことなく二人の心に ふ つづ 降り続けました。 第8章 よ うこ さいかい 再会 くろかわ よる ながさき つごもり はじ 陽子が黒川を去った日の夜は、長崎を去った夜と同じ 晦 でした。陽子はこの時から初 ひ とり い ば し ょ てんてん しゅうせん めて、一人で居場所と仕事を求めて転々としなければなりませんでした。終 戦 してますま こ とか すじょう はら す食べるものにも着るものにも事欠く日々。素性が知れると追い払われるということを何 く すえ ふくおか く る め がすり こ うば したばたら やと 年も繰り返した末、ようやく福岡の久留米 絣 の工場に下 働 きとして雇ってもらいまし さんじゅう な こうはん た。陽子、数え歳三 十 の時でした。ここで「ヨシ子」という名で四十代後半まで働き続け こ んき い くく まか た陽子は、根気の要る括り作業を任されるまでになっていました。 しょうわ せいれき こ うば まえにわ いっぽん ひ が ん ざくら とき もん 昭和47 年、西暦1972 年 3 月。工場の前庭には一本の彼岸 桜 が立ち、時おり吹 く風が門 そ うす に沿って並び咲くレンギョウの黄色の上に、薄いピンクの花びらを散らしていました。 ひるやす と 昼休み、食事を摂り終わった陽子はその桜の木のもとに歩いてきました。それを、福岡に そ ぼ かた はかまい かぞ ななじゅうなな ある祖母方の墓参りに来ていた叔母のさつきが見つけたのです。数えで七 十 七 になってい 18 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 しの えん く る め がすり こ うば A の たさつきは、祖母ウメを偲んで縁のある久留米 絣 の工場にも足を延ばしたところでした。 た ど しず し せん さつきは声をかけぬまま、しばらく立ち止まって陽子とおぼしき姿に静かに視線をなげか さき だれ けました。陽子が気づき視線の先に立っている人を見ると、もちろんすぐにそれが誰であ さと ふ たり おどろ こ とば るかを悟りました。二人は 驚 き、しばらくは言葉になりませんでした。 お ば ひ とめ さ あゆ よ だ あ かた りょうて 陽子と叔母さつきは人目を避けて歩み寄ると、抱き合うことなく、しかし固く固く両手を にぎ にぎ ちい ふる め 握りしめ合いました。二人が握り合うこぶしは、小さく震えていました。眼と眼をしっかり つづ なみだ なが む ごん つた 合わせ続ける二人。ここでは 涙 を流すことさえはばかられることを無言で伝えあっている し せい ただ なつ ま なざ かのようでした。ようやく姿勢を正した叔母さつきが、その懐かしい眼差しで陽子をつつみ ながら口を開きました。 いま 「あなたは今、なんて?」 「ヨシ子です」 しゅうせんご 「そう、ヨシ子...さん。これまでのこと、お伝えさせてくださいな。徳治さんは終戦後、 きゅうごびょういん さが あと い せいけい 救護 病 院 であんたを探し当てた。その後居なくなったのは、あんたとの生計を立てるため はつでんしょ みやざき かみしいば やまおく はい だったんだよ。発電所の仕事があるというんで宮崎の上椎葉の山奥に入ったまま、あんたへ れんらく で あと い ち ど きょうり もど の連絡をつけられずに二年。あんたが長崎を出た後、徳治さんは一度郷里に戻ってきたの。 し まも いっしん な もの だけど大山陽子は死んだことになっていた。あんたを守りたい一心で亡き者にしたのはこ わたし つみ の 私 だ。あああ、あああ、罪なことをしたよ。」 りょうて かお おお 陽子は両手で顔を覆いました。 ご けんがい はたら で せ んご こんらん 「徳治さんはね、その後また県外に 働 きに出たんだけど、戦後の混乱の中、三年もした からだ こわ もど ばく し ん ち まわ ら 体 を壊してまた長崎に戻ってきてしまったの。あの人も爆心地をそうとう歩き廻ったん よわ や ほそ すがた でしょう。もともとひ弱なのに。もうそれは痩せ細っちゃってね。わたしゃ、その 姿 を見 うそ とお くろかわ い たらとうとう嘘をつき通せなくなってしまった。あんたがきっと黒川で生きているだろう あ わたし って、明かしてしまったのも 私 なんだよ」 とき 「それで、あの時...」 あ 「黒川で徳治さんと会わなかったの?」 おお あたま ふ 陽子は両手で顔を覆い、 頭 を横に振るばかりでした。 とこ ふ 「徳治さんはね、あんたが生きてるかもしれないと知ったら、それまで床に伏してばかり とお さが だったのが、たいして歩けるようになって、遠くまであんたを探しに行ったんだよ。だけど やど い ご こころあ さが まわ は おり いそ 黒川の宿には居なかったといって、その後も熊本から長崎まで心当たりをずいぶん探し廻 っていたんだよ」 ば き く る め その場でかたまってしまう陽子。叔母さつきは自分が着ていた久留米がすりの羽織を急 かた からだ つた いでぬぐと、陽子の肩にかけました。さつきおばちゃんのぬくもりが 体 に伝わっていきま した。 き は おり とお かあ と んや 「これはウメさんの着ていた羽織。あんたの父さんの母さんだよ。久留米がすりの問屋の むすめ せんじちゅう し まいおうぎ た んす 娘 だった。この羽織はね、戦時中たとう紙に 舞 扇 とともに箪笥にしまわれていたもの。 きせきてき ひ だ で 奇跡的に焼けずに引き出しから出てきたものだから、これは陽子...、ヨシ.. . 、あー、あん も あ ひ あ たが、あんたが持ってておくれ。ここであんたに会えたのもウメばあちゃんのお引き合わせ かもしれないからね」 19 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 りょうて ゆびさき かた は お A かんしょく 陽子は両手の指先で肩にかけられた羽織りの感 触 をたしかめていました。 ひるやす しゅうりょう あ いず こ うば は たお じ ょ し こういん も ば もど あしおと 昼休み 終 了 の合図がすると、工場のなかで機織りの女子工員が持ち場に戻る足音や、 ろ うか いた おと 廊下の板のきしむ音が聞こえ始めました。 さ いご つた ゆる 「最後にこんなこと伝えなくちゃならないなんて。許しておくれよ、陽子ちゃん。徳治さ な み そ じ し いん んは、徳治さんはね、もう亡くなったの。数えで三十路に入ったばかりの冬にね。死因は、 げん しびょう はっ けつびょう 原子病だ。白血 病 で...!」 ふたた ま す め 再 び真っ直ぐに見つめ合う陽子と叔母の眼と眼。 どうりょう さが よ あしばや その時、同 僚 が探して「ヨシ子さーん」と呼ぶ声がしました。叔母さつきは足早にその ば さ 場を去りました。 も ば だま ふる お えつ ころ 仕事の持ち場に戻った陽子でしたが、黙って進める仕事の手は震え続け、嗚咽を殺そうと か ち 噛みしめるくちびるには血がにじんでくるのでした。 第9章 しぜん 自然 さいかい よくとし ふたた ふ ねん い ちど 叔母さつきと再会した翌年から、陽子は長崎に 再 び足を踏み入れ、年に一度クスクスの かよ な ま ば しょ 木のもとに通うことにしました。亡き夫が自分を待っていたという、その場所に。もとの な まえ あ また せん し し ゃ めいふく いの ため 名前のままで。徳治や家族、そして数多の戦死者たちの冥福を祈る為に。 ここのか かぞ どし うすきいろ ぼ うし 昭和 48 年、西暦 1973 年の 8 月 9 日。陽子数え年四十八歳。薄黄色の日よけ帽子をかぶ ひ がさ も ふ く すがた り、白い日傘をもった喪服 姿 の陽子が、再びその場所にやってきました。新しくなってい は お しげ はな せみ るベンチ。新しくなっているバス停。葉の生い茂ったクスクスの木。そこから放たれる蝉の み あ 声。陽子はクスクスの木を見上げ、声をかけました。 ば しょ 「クスクスさん! 徳治さんが、ずっと立っていらした場所。クスクスさん、もう二十年 いじょう おお ふと 以上会っていなかったのね。ここまで大きく太くなって…。私もここまで大きく太くなって しまったけど!」 ときどき あせ 陽子は時々ハンカチで汗をぬぐいます。 な せみ ほ ようちゅう さが 「よく鳴く蝉さんたちね。子供の頃にはよく土を掘り返して幼 虫 を探したものねぇ。そ つち ひ ろこ けんしろう と くい せみ まえ してまた土に戻して。広子ねえちゃんや健四郎がそういうのは得意だった。 (蝉に)お前た の ななだいまえ せ んぞ ちはどこから来たの?あの日を生き延びた七代前のご先祖さんはいたのかね?」 すわ しょうせんす はじ 陽子はベンチに座り、小扇子を取り出してあおぎ始めました。 わたし き のう な よわい こ 「 私 は昨日でいくつになったかって?もう、かあちゃんが亡くなった 齢 を越えてしまっ い たいせつ い た。こんな私が、なんで生かしてもらっているんでしょうね。大切な人たちはみんな逝って しまったのに」 は いっ てき これまで晴れたことのなかった陽子の心でしたが、クスクスさんに会った今日は、一滴の 20 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 あ んど おく みずうみ お A き ぶん 安堵のしずくが心の奥にある 湖 にぽたりと落ちたような気分でした。 郷里でどっしりと せいちょう 成 長 していたクスクスの木を見て、陽子の心は子供の頃に戻っていきました。小さい頃、 きんじょ じんじゃ まつ ぶ たい ま あね すがた け いこ 近所の神社のお祭りの舞台で舞う姉たちの 姿 を見ていたこと。母がお稽古をつけていたこ せんそうまえ ゆうしょくご ときどき さ ん び か みんよう ご お つ と。戦争前は夕食後に時々家族で讃美歌や民謡を歌ったこと。その後時代が落ち着いてから、 こ うば な かま おど かた 工場の仲間からブギウギやツィストの踊り方を教えてもらったことなどが思い出されてき よろこ ひかり と ち こころ ます。そしてウキウキとした 喜 びの 光 が再びほうぼうに飛び散って、陽子の 心 はうずう ずと踊り出したくなってきました。 ふ うた 陽子はとうとうハンカチを振りながら歌いだします。 「クスクスさん? わからないのよ どこむいて せい 生きて行ったら いいのやらやら?」 いっしょ クスノキの精が出てきて一緒に歌います。 み あ 「クスノキを 見上げてごらん クスクスクス あごをあげたら どこ見てる?」 の こ お 「いつのまに クスクスさんは 伸びてたの? 焦げくすぶって 折れていたのに」 うえ み あ こた 陽子が上を見上げながら歌うと、クスノキの精はにっこりしながら応えます。 わら い か い 「くちびるの かどをあげてよ クスクスクス 笑ってくれれば 生きた甲斐あり」 しょうせんす ふ つづ こんどは小扇子を振りながら歌い続ける陽子。 つよ よわ 「あら、うふふ クスクスさんは 強いのね わたしの心は 弱くてだめなの」 せい こた クスノキの精がそれに応えます。 つづ すがた 「強くもない 弱くもないの ただここに 立ち続けるの わたしの 姿 」 き も と ろ 陽子がどうしようもない気持ちを吐露します。 かな こ どく 「悲しいの でもどうしても 笑っちゃう まだわからない 孤独な私」 せい よ うす あか こた クスの木の精はちょっと悲しそうな様子で陽子を見ますが、すぐに明るく答えます。 いのち よ 「ひとりなの? わたしもひとり ここにいる だけど 命 が 寄ってくるのよ」 ひ がさ ふ かいかつ おど それを聞いた陽子は、日傘を振りながらだんだん快活に踊りだします。 ばち げ んき と みつ蜂も陽子のまわりを元気に飛びながら歌います。 きみ 「ぼくがいる 君がいるから ぼくがいる ぼくがいるから きみもいるのさ」 ふ うたごえ くるくると吹いていた風の精も歌声をあわせます。 は 「きみの吐く もんしろちょう す いき い ぶ かたち で 息や吸う息 息吹き立ち ぼくらの 形 も うまれ出るのさ」 もん きちょう よ 紋 白 蝶 と紋黄蝶もひらひらと陽子に寄ってきます。 21 ©ひのめぐみ 物語版 A クスクスの木の物語 なみ まか 「風の波 ま ちい ちきゅう きままに任せて 舞い生きる 小さな風でも 地球をめぐる」 かぐわ せ かい 花の精が 香 しい世界をつくりながら歌います。 ぜつぼう にんげん つた しん 「絶望を 知る人間に 伝えたい 信じきるだけ ただそれだけよ」 みず 水の精は陽子に水たまりを見せながら歌います。 みずかがみ 「水 鏡 うつ あなたのアルバム 映し出し あなたのなかから すべてつながる」 せ ちか よ ベンチの背にとまっていたハトも陽子の近くに寄ってきます。 とも しん とき 「風にのる いつも友だち 信じてる ビジョンに向かって 時をつくるよ」 うたごえ みんなが歌声をあわせました。 「クスクスクス、クスクスさんと 生きてきた むずか かる い 難 しくせず 軽くいこうよ 軽く行こ 風にのろうよ 軽く行こ クスクスクス、クスクスさんと 生きてきた むずか かる い 難 しくせず 軽くいこうよ 軽く行こ 風にのろうよ 軽く行こ」 陽子の心が語ります。 な おや おと つら そういえば、クスクスさんの名づけ親は徳治さんでした。クスクスという音は辛いとき よ はじ こ ども でも笑えるきっかけになるだろうって、そう呼び始めてくれたのかもしれません。子供の ころ 頃は徳治さんがいたずらっぽくクスクスっていうだけで、おかしくてしかたなくなっちゃ かお み あ ふ って…。こらえようとしても顔を見合わせただけでプーッと吹き出してしまう。そうする と なか わら ころ ともう止まらなくなって、しばらくお腹をかかえて笑い転げていたものでした。ようやく くさ ころ えだ は おさまりそうな頃、草の上に転がりながら見ると、クスクスさんの枝や葉っぱがゆらゆら わら ごえ 見えて。それがまたクスクスって笑ってるみたいで…(やわらかな笑い声) かいこう 第 10 章 邂逅 ろくじゅう じ だい か ひばくしゃ どうどう くち あれから六 十 年。時代は変わり、陽子が被爆者であることを堂々と口にできるようにな かぞ はちじゅう こ とし き き へいせい りました。数え年八 十 になった陽子は今年もクスクスの木のもとに来ました。平成17 年、 せいれき ここのか じ も ふ く すがた ひ がさ たた こ かげ すわ 西暦2005 年の 8 月 9 日、11時。喪服 姿 の老女が日傘を畳み、 ベンチに作られた木陰 に座 あせ ふ と けい もくとう り、汗を拭きます。時計を見、手をあわせて黙祷します。ところがその後、そのままうとう ねむ とと眠りに入ってしまいました。 陽子の心が語ります。 はじ す みずうみ 徳治さんが初めて夢に出てきました。私たちはきれいに澄んだ青い 湖 のふちに離れて 22 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 た A わか 立っていました。徳治さんは若かりし頃の姿のままでしたので、 「私だけこんなおばあ は だま む ちゃんになっちゃって、恥ずかしい」と思いました。徳治さんは黙ってこちらに向いて き も つた 立っているだけでしたが、気持ちもいきさつもこちらに伝わってきました。徳治さんも ひ ばく やはり被爆されていたのでした。 あゆ よ 徳治と陽子は、ゆっくりと歩み寄りました。 あ 「ようやく会ってくれましたね」 もう わけ ゆる 「申し訳なく思っております。許して、いただけるのでしょうか。陽子だって、陽子だっ て、お会いしたかったのでございます」 ゆる おこ 「許すだなんて、そんなこと。ぼくは怒ってもいないのに」 すがた ひ ばく こういしょう や ま い ながねん わずら もの 「こんな私の 姿 、被爆の後遺症、いくつもの原子病、長年の 患 い。私のような者には、 もったいのうございました、徳治さんは。私のような者には...」 み きょうぐう 「陽子さん、よろしいか?あなたの見かけや境 遇 がどのようになったとしても、あなた し んか さげす の真価は、真価は変わらない。あなたがどんなに自分を 蔑 んだとしても、もともと埋め込 そんげん かく かがや まれているあなたの尊厳は、隠しようもなく 輝 いているのだから」 かた わたくし ま そのようなことを男の方から言われたことはありませんでしたので、 私 は心から真っ か は だ 赤になってしまいました。恥ずかしくて声も出せなくなっていました。 ぼく き しつ じゅうぶん 「僕にはね、陽子さん。あなたのそのままの気質。それで十 分 なんだ。今でも変わらな いよ」 わたくし こ とば は もく 私 は言葉も出せずにただただ恥ずかしく、黙しておりました。 かえ 「もうしばらくすると、あなたもこちらに還ってくるのだよ」 徳治はそう言うと、生きていた時のやさしい声で歌ってくれました。 うちがわ 「内側に こころ じっそう うち まなこ どうか 心 の 実相に 内なる 眼 を にじゅうだい あらわ むけてください」 ひび そのとき二十代の陽子が 現 れて、徳治と響きあいます。 うちがわ 「内側に 心をむけて 生きました おも みずか さば せ つ 自 らを裁き 責め尽くすまで」 わら さば だれ 「思い出そう よく笑ったね クスクスと 木は裁かない 誰も責めない」 ひび 若い陽子と徳治の心が響き合います。 ないおう うちゅう 「内奥の あなたの心の 宇宙には ありがとうの海が 広がっている」 うたごえ こ おう 若い陽子が歌声を響かせ、徳治がそれに呼応します。 みずか おそ 「 自 らを 怖れ わす う とりで きず そと せ かい 砦 を 築きあげ まぶしすぎるの 外の世界は」 く み あ えが じんせい も よ う 「忘れたの? 生まれ来るころ 見せ合った 自分が描いた 人生模様」 23 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 うちがわ じっそう うち まなこ A あ 「内側で 私の心の 実相で 内なる 眼 を 開けて見るのね」 ふたたび若い陽子と徳治の心が響き合います。 ないおう 「内奥の うちゅう うみ ひろ あなたの心の 宇宙には ありがとうの海が 広がっている」 徳治がやさしく歌いかけます。 いっしょ さ んぽ ふ たり みち 「いつか一緒に 散歩しましょう 二人の道を。 」 徳治と陽子がともに響きあいます。 「いつか一緒に、散歩しましょう 二人の道を。 」 老女陽子がつぶやきます。 「…二人の道を…。あ、徳治さん…? 徳治さん…?」 かた 陽子の心が語ります。 ま いっしょ い 徳治さんの姿はあっという間に消えていました。どんなにそのまま一緒に行ってしまい て まよ つ たかったことでしょう。もし手をのばしてくれたら、迷わずその手をとって一緒に連れて行 たの ってと頼んでいたことでしょう。 め さ 八十歳の陽子が目を覚ましました。 ゆめ き き ぼう う くだ 「夢だったの 夢だったのね 消えないで 希望はどれも 打ち砕かれて あきら す じんせい せい そだ き ぼう 諦 めの 捨て人生も 生ある限り どこかで育つの かすかな希望 い こ んど あ きみ もくひょう だれ 言われたい 今度あなたに 会ったとき もっときれいに なったね君はと し ご 死後にある のろ い こころ 目 標 だなんて 誰に言う く ぐ ち し っと げ わるくち い うそ い みが かぜ 呪わない 悔やまず愚痴らず 嫉妬せず ひ うちがわ 心 の内側 磨きをかけるわ こころ さわやかな風を え がお かた とお 心 に通すわ こと は 卑下しない 悪口言わず 嘘言わず 笑顔とともに 語る言の葉 人の目を 気にするよりは しゅくしゅく 粛 々と おのれ たましい 己の 魂 す わた 澄み渡らせよ 己の魂 澄み渡らせよ」 24 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 ななじゅっかいめ 第 11 章 A ひ 七十回目のこの日 で き ご と じゅうねん さいげつ す せん ご よう か かぞ どしきゅうじゅう 夢の出来事から十 年 の歳月が過ぎました。戦後70 年目の 8 月 8 日、陽子は数え歳 九 十 たいちょう くず ねん い ちど ば しょ あし はこ になりました。ここ四~五年ほどは体 調 を崩し、年に一度の、いつもの場所に足を運ぶこ さき ごろ ろうじん か い ご し せ つ にゅうしょ とがかないませんでした。そして先頃、老人介護施設に入 所 したばかりでした。 たんじょう び そつ じゅ いわ じゅんび わか ちょくせつ 陽子の誕 生 日に卆寿を祝う準備をしていた若いボランティアたちは、陽子に 直 接どんな ほ き えんどお き プレゼントが欲しいか聴きました。プレゼントやお祝いと縁遠い陽子。聴かれたこともない しつもん と まど い つた 質問に戸惑いましたが、思いきって「クスクスの木に行ってみたい」と伝えました。 かた 陽子の心が語ります。 へいせい ねん はちがつここのか しゅっぱつ わたくし も ふ く すがた 平成27年、西暦 2015 年の 8 月 9 日。出 発 の朝、 私 はいつもの喪服 姿 に、さつきおばち いただ は おり すわ かこ ゃんから 頂 いた羽織をひざにかけ、車いすに座り、若いボランティアさん 5-6 名に囲まれ ひ かいがい がくせい すうめい わたくし ていました。この日は海外からの学生ボランティアさんも数名いらっしゃいました。 私 が ばなし さい しんがた で ん じ は き き なん クスクスの木の思い出 話 をすると、彼らは最新型の小さな電磁波機器の何とやらを使って て ばや しら だ んさ 手早く場所を調べ、私のために段差のない道やエレベーターのある駅のホームの場所まで おし せんようしゃ たの こうきょうこうつう き か ん い どう 教えてくれました。専用車など頼めぬ私は、公 共 交通機関を使って夏の長崎を移動しなけ ればならないからです。 いちにちおく はじ ひ と たんじょう び 一日遅れでしたが、初めて他人さまから自分の誕 生 日を祝ってもらいました。誕生日カ おく もの ちょうだい べいこくせい ードなんていうしゃれたものをいただき、一人一人から贈り物まで頂 戴 しました。米国製 え いご い み も じ か のハイカラな誕生日カードには英語で「おめでとう」という意味の文字が書かれていること わかもの ていねい を、若者の一人が丁寧に教えてくれました。 しゅくふく 「陽子さん、おめでとうーっ!ハッピーバースデー!」ボランティアさんみんなが祝 福 してくれました。 き ょう あ くび 「今日のおでかけに合わせて、これ、首がひんやりするネッククーラーですよ」一人の学 生ボランティアが言いました。 はちじゅうきゅうさい 「 八 十 九 才デスね。オメデトウ。ワタシカラはこのアメリカン・ドール。カワいいでし かいがい がくせい きんぱつ にんぎょう わた ょ?」海外からの学生ボランティア、ルナが金髪の人 形 を渡しました。 せつめい すると日本人学生のボランティア智がルナに説明しました。 むかし かぞ どし きゅうじゅっさい そつ じゅ いわ 「 昔 の人は数え歳で考えるから、 九 十 歳 なんだよ。それで今日、卆寿のお祝いなんだ から。さてと、これは富士山ラベルの美味しいお水。」 てぶくろ し が い せ ん たいさく オーストラリア 「コレネ、UV カットの手袋デス。紫外線対策ネ」 豪 州 から来ていたボランティアが自 てぶくろ 分で手袋をはめて陽子に見せてくれました。 ひ ぼ うし に あ 「ワタシからは日よけ帽子、似合いますヨ」インドネシアからのボランティアさんが陽子 あたま ぼ うし の の 頭 に帽子を乗っけてくれました。 はだ ししゅう 「コレはガーゼのハンカチーフ。肌にやさしいデスよ。ここはワタシが刺繍しました」フ ししゅう わた ィリピンからのボランティアさんは自分で刺繍したところを見せながら、ハンカチを渡し てくれました。 25 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 か い ご し と A だ 介護士さんが思いついたようにポシェットから小さいものを取り出しました。 くちべに わる 「陽子さん、私の口紅で悪いけど、ちょっとつけて行きませんか?」 び じん あそ 「あら、いいわね~。美人になったこと。ゆっくり遊んでらっしゃいね」これを見ていた しゅにん おく だ 主任さんが笑顔で陽子を送り出しました。 陽子の心が語ります。 ひ みつ くら つ いっぺん とど それはそれは、まるで秘密の蔵の中に積み上げてあった贈り物を一遍に届けられたかの くち べに まあたら み つつ す なお よろこ かた ような日でした。口に紅をさして、真新しいものに身を包まれている私。素直な 喜 び方を わす む じ ゃ き しゅくふく おそ 忘れていた私は、若い人たちからの無邪気なはちきれんばかりの祝 福 のエネルギーを恐る す なお ないめん し わた あか かんじょう ちょくげき 恐る、でも少しずつ素直に、内面に浸み渡らせていきました。明るく新しい感 情 の直 撃 を わたくし じょうへき くず わこうど お 受けて、 私 の心の城 壁 がやさしく崩されていくようでした。若人が押してくれる車いす ゆだ みち み こころ に身を委ね、がたがた道でもなめらかな道でも、私は身も 心 もなすがままになっていまし た。 つ は いっしゅん か んき なが どろぬま は 尽き果てそうになったときに味わう一 瞬 の歓喜のために、長い長い泥沼を這うような じんせい じ かん 人生の時間はあるのかもしれません。 がいろじゅ はな せみ こえ へ いわ ねが ひ ろば かんばん さが 街路樹から放たれる蝉の声。 「平和を願う広場」の看板近くでクスクスの木を探すボラン に めい くるま すがた ティアさん二名と 車 いすの陽子の 姿 がありました。 さとし い 智 がキョロキョロしながら言いました。 ぜったい へん 「おかしいなあー、絶対この辺にあるはずなんだけど。調べてみるよ」 ただ 「ヨーコさん、クスクスの木のありかは正しいデスか?」ルナが聞きました。 てい 「ええと、バス停 があそこで、クスクスの木がここいらにあるはずなのよ」陽子が いっしょうけんめい き おく 一生懸命、記憶をたぐりよせています。 な 「イイデスか?駅はあっち、バス停はこっち。ベンチ?無いデスね。木はあっちにも り っぱ こっちにもあるケド、どれがクスクス?立派な道しかありませんネ」 わたし せんじちゅう すがた が は 「 私 もとうとうボケちゃったのかねぇ。戦時中に 姿 の変わり果てたクスクスさんでも、 と うじ み わ 当時は見分けがついたもんだけどねぇ」 た き おく ま ちが 「もう長いこと経ちマシタから、記憶は間違っているかもシレマセンネ」 さとし 智 がつぶやきました。 わ 「んー、分かったよ」 「どうデシタか?」 いったい かいはつ こわ 「ここ一帯が、四~五年前から開発されてて、いろんなものが取り壊されちゃったらしい んだ」 わ 「そうデスか、それでは分からないネ」 くるまいす 「それじゃあ、あのクスクスさんも?」車椅子の陽子がつぶやきます。 のこ なに すこ 「うーん、どこかに残ってないかなぁ。何か少しでも手がかりになるものありませんか?」 ぼうくうごう あと はい 「あぁ…あそこ。防空壕の跡。私が入ったことのある防空壕の跡だよ、あれは。防空壕の 26 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 てき まえ A た 中からだとね、クスクスさんが、まるで敵の前に立ちはだかってくれてるように見えるのよ」 「ソレデハ、クスクスの木は、ここにあったのデスね」 陽子の心が語ります。 で ん じ は ボランティアさんは、どこにあるのか分からないくらい小さな電磁波 機器とやらで て ばや しら じょうほう うつ 手早く調べてくださっていましたが、こんどは自分の手のひらに情 報 を写し出して私に 見せながら話してくれました。 へ いわ がくしゅう し せつ 「ここに『平和を願う広場』っていうのを作って、平和学 習 用の施設にするために、こ へん の辺の古い木が切られちゃったみたいなんですよ」 さとし くるま よこ だま き お 智 がそう言い終わると、二人は 車 いすの横に黙って立ちました。陽子は、かなり気落ち よ うす している様子です。 しら 「陽子さん、ごめんね。もっとよく調べておけばよかったね」 ざんねん 「残念デスね」 つ な んじ 「…いえいえ、ここに連れてきてもらっただけでもありがたいことです。何時かしら? もく ささ もうすぐ 11 時 2 分だわ。クスクスさんの分も、一緒に黙とうを捧げましょう」 ぜんいん もく ささ 全員で黙とうを捧げます。 さとし さんめい もくとう 「黙祷終わり」 智 が言うと、三名とも黙祷を終わりました。 む すると陽子は二人のボランティアさんに向かって、言いました。 す ねが 「済まないんだけど、一つお願いをしていいかね」 き ょう かえ 「モチロン、今日は何でもおっしゃってクダサイ」ルナが返しました。 あま よる い ちど よ ひ とり い 「じゃあ甘えさせてもらいますよ。夜、もう一度ここに寄ってくださる?一人でここに居 ねが がっしょう たの てみたいの。どうぞお願いします」陽子は合 掌 して二人に頼みました。 せんやく だいじょうぶ 「ごめんなさい!先約が入ってる!ルナは大丈夫?」 ひ とり 「ノープロブレム、サトシ。ワタシ一人でダイジョーブ」 のぞ こ め ルナがにっこりして陽子を覗き込みます。陽子がその目を見て言いました。 むかし あお にんぎょう あめりか がっこう 「そういえば 昔 、あなたがくださったような青い目のお人 形 をもってたわ。米国の学校 おく き から送られてきたものだと聞きましたよ」 「ワオ!ウレシイデス」 あね に ほ ん にんぎょう くに 「姉の学校からも、日本 人 形 をあなたの国に送ったそうですよ」 き ひと 「ワタシはアメリカから来マシタけど、私のグランマ日本の人、グランパがアメリカの ひと 人デス。ワタシのパパはロシアの人。ワタシはルプツォフスクにイマシタ。それからママ り こん に か い め ひと す は離婚シマシタ。二回目のワタシのパパはドイツの人。ワタシはケールに住みマシタ。 ひ とり さび いま いっしょ く 一人になったアメリカのグランパが寂しがりマスから、今はサンディエゴで一緒に暮らし てイマス」 27 ©ひのめぐみ 物語版 A クスクスの木の物語 こくさいてき 「まぁー、国際的だわね。どこがどこやらよく分からないけど」 「えっと、アメリカも、ロシアも、ドイツも、ワタシのフルサト。それにここ、ニホン もネ」 す ば 「そうなのねえ。まぁ、それは素晴らしいこと」 さとし お ば はな 智 は去り、ルナは車いすを押し、陽子と色々話しながらその場を離れました。 べいこく き ご いちにち す 米国から来たもう一人のボランティアさん、ルナが陽子とその後一日を過ごすことにな りました。 つき 第 12 章 すずむし お月さま ね ひび よる へ いわ かんばんまえ くるま お 鈴虫の音の響く夜。 「平和を願う広場」の看板前にルナが陽子の 車 いすを押しながらやっ ひとことふたこと はな てきました。車いすをとめると、陽子と一言二言話し、ルナはそこから離れて行きました。 ちか がいとう は お り すがた て 近くに立っている街灯が、陽子の羽織 姿 を照らしていました。 すわ かたほう なみだ なが しばらくすると、じっと座っていた陽子の片方の目から 涙 がつーっと流れていきました。 で まか おさ おも つぎつぎ で もう片方の目からも涙のつぶが出てくるのに任せると、抑えていた思いが次々とあふれ出 てくるのでした。 わたし 「だけど… どうして…。どうしてですか。クスクスさん。あなたまで。また 私 は、私 な ぜ さき い き ひと い は一人ぼっちですか? 何故クスクスさんまで先に逝ってしまうの?木は人よりずっと生 きるんでしょう!? なんびゃくねん 何 百 年 だって生きるでしょう!何故… な かげ がいとう ろじょう なぜ! なぜ!」 うつ つき で 一人むせび泣く陽子の影を、街灯がアスファルトの路上に映します。 月の出を待っていた あらわ 陽子ですが、なかなか月は 現 れません。 もど しばらくすると、ルナが戻ってきました。 かえ 「ヨーコさん、もう帰りマスか?」 じ たく そ ぶ つた 陽子は帰り支度をはじめる素振りをしながら、伝えます。 つき おが 「そうね。だけど、お月さまがまだ出ていらっしゃらないの。拝ましてもらいたいわ」 み ま 「月を見たいのデスか?じゃ、もっと待っていまショーネ」 「すまないねぇ。ありがたいこと」 きんちゃく こんぺいとう のこ 陽子がごそごそと巾 着 を取り出し、中の金平糖を口にほおばります。残りを巾着ごとル うなが ナに差し出し、食べるよう 促 しました。 こんぺいとう 「ほら、これ金平糖っていうの。どうぞ」 あま 「コンペイトウ? ワォ! 甘いネ。おいしいデス! くらい へいたい も せ んち サンキュー!」 い 「あなた 位 の兵隊さんがね、これを持って戦地に行ったのよ」 じょうぶ ど て すわ ふえ おと かな はじ いちにちじゅう がいしゅつ ルナは防空壕上部の土手に座ると、笛のような音を奏で始めました。一 日 中 の外 出 でく 28 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 ね い くるま ど A て たくたになった陽子は、とうとう寝入ってしまいました。陽子は 車 いすの上で、ルナは土手 で、まどろんでいます。 かた 陽子の心が語ります。 かえ こきょう しん だれ はな 思い返せば、故郷を出てからというもの、何も信じられなくなったときでも、誰にも話せ かた つき さま まんげつ さく ない心のうちを語りかけていたのがお月様でした。とはいえ満月はまぶしすぎました。朔に う わたくし しっこく やみ つき さま えが 生まれた 私 は、漆黒の闇の向こうにいらっしゃるであろうお月様を思い描いては、話しか え ほん えが はんげつ ほそ けていたものです。子供の頃に読んだ絵本 の中に描 かれていた半月 よりも少し細 くて、 み か づ き ふと す こし 三日月よりも少し太い、私の好きなお月様。そしてそのゆりかごみたいなお月様に私は腰か き しん けている。絵本の中のように、お月様はちゃんと聞いていてくださる、そう信じていたので した。 つき ひかり せい あらわ しず ま にじゅうだい すがた 月の 光 の精たちがゆっくり 現 れると、静かに舞い始めました。そこへ二十代の 姿 の陽 や はん す あらわ ありあけのつき はんげつ ほそ 子が現れます。夜半をしばらく過ぎてからようやく 現 れた有明 月 は、半月よりも少し細め すがた ひび の、陽子の好きな月のお 姿 でした。二十代の姿の陽子が月と歌の響きあいを始めます。 つき てんばつ つみ 「お月さま あれは天罰 だったのですか 人は罪の子 だったのですか ひかり お月さま こたえておくれ つつ せつなき 光 しず 包んでおくれ 静けき光」 月の精の声がします。 こえ き きよ さば な 「わたくしに 声かけるもの さあお聴き 浄けき世界に 裁き無かりき」 ひび 月の精に心が響くまで、若い陽子は問いかけ、月は返します。 ねが かあ つ 「お月さま?… ああ、お月さま お願いよ 母ちゃんのとこ 連れてって」 いのち つな 「 命 の綱 な き けっ いのち みずから切ること 決してあたわず いただいた 命 ぜ たす ひ とり 「何故ですか 助けてくれない 何故ですか たった一人で はは と わ い 永遠に生かしめ」 くる 苦しんだとき」 な 「月は母 命の母よ あなたの母 ともに泣かずに おられましょうか」 わる ばっ 「悪い子だから 罰したの?」 だれ わ こ ばっ 「誰が我が子を 罰したかろう」 せい あらわ いっしょ 月の光の精たちが 現 れて一緒に伝えます。 う いと 「悪い子などは あるはずもなく 産みだされしは 愛しき子ばかり」 な ぜ わたし 「じゃあ何故に、なぜ、なぜ、なぜ? 死にきることも できない 私 生ききることも できない私。 」 月の光の精たちが歌いつづけます。 てん し ぜん 「こらしめは 天も自然も むね うつ いたしません 映し出すだけ 心のなかを」 て 「心のなかを?」陽子は胸に手をあてます。 29 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 はな 月の光の精と花の精が歌いかけます。 うち ひかりよ ひかり 「みずからの 心の内なる 光呼び うち ただただ 光 かがや 輝 かしめよ」 かん 「心の内なる光…」陽子が何かを感じようとしています。 月の光の精、花の精、クスノキの精がともに伝えます。 じ ゆう い し さず えいえん い ふか おも 「自由なる 意志を授けて 永遠に 生かしめんとす 深き思いを」 つみぶか こ 「罪深き…子にも…?」 かぜ つた 風の精もやってきて、ともに伝えます。 つみ いと いと ご 「罪の子は どこにもいない ダメな子も 愛しき子ばかり あなたも愛し子」 しん にんげん き 「わたくしが? 信じられない! わたくしなんか ダメな人間 だと信じ切り…」 みず かれ 水の精も彼らとともに伝えます。 お 「ダメな子は どこにも居らぬ こころ み まも う どの子とて どんな子だとて 産みだされ おどろ い わたし し すく 心 から 見守られませ 救われませよ はぐく すく 育 まれませ 救われませよ」 しかし陽子は 驚 いたように言います。 うそ 「嘘だうそ な ぜ あ てん 私 はなにも 知りません 何故こんな目に 遭わせるの 天は ただの月 あなたはどうせ しず なに ただの月 何もできない 何も知らない」 こた 月の精の声が静かにそれに応えます。 われ み まも ま ぎょう 「それでよい 我ただの月で あってもよい ただ見守りて 待つことの 行 」 わか すがた いっしゅん 若かりし 姿 の陽子は、一 瞬 はっとします。 しん さく あ つき しん 「ごめんなさい 信じぬこころ ごめんなさい 朔に有る月 信じるこころ」 つづ 月の精の声が続きます。 くらやみ 「暗闇は ひかり さ ま いっぽまえ さく しんげつ ひら まど 光 差す間の 一歩前 朔に新月 開かれゆく窓」 ふたた ひび じ ぶん こころ と こ おう 再 び陽子は月に響くまで自分の 心 に問いかけ、月と呼応します。 わ おうのう 「なにもかも 分からなかった なにもかも ただもがいては 懊悩の日々」 すく おく て 「救いたき 子に送る手を くる ふち お はねのけて 苦しみの淵に 落ちる子ばかり」 ま こ すく 「そんなこと するはずもなし どれほどに 待ち焦がれたか 救いの手をば」 ひ おも ちから き 「秘められし 思いの 力 に 気づかねば ひかり け ち まど と 光 蹴散らし 窓閉じる子ら」 うえ 陽子が上をむいて月にまっすぐ伝えます。 みずか き おくそこ 「 自 らも 気づかぬ心の 奥底に おも いま み ありし思いを 今いざ見んとす」 30 ©ひのめぐみ A 物語版 クスクスの木の物語 A こた 月の精の声が応えます。 ゆう き まえ すす みずか 「勇気もち 前に進むと み ふ け つい とき 自 らの 決意ありての 今のこの時」 めぐ た と む まんげつ 「見ぬ振りと どうどう廻りの わがおもい 断ち切り 跳びて 向かう満月」 ねむ さ かた とも き 陽子がこう言い終わると眠っていた老女陽子が目を覚まし、月が語るのを共に聴きまし た。 う い おく つづ わ こころ 「受け入れよ 送り続けし 我が光 ぜん はい 心 の膳に 受ける杯あり」 い ちど と この月からの言葉を、老女陽子が一度受け止めました。 もと うち しん が な なそ さいかい しん こと は 「求めなば 内なる真我 七十かけ 再会ありとは 真の言の葉」 む い し き かがや われ した 無意識に月にむかって目を 輝 かせて応えた老女陽子でしたが、ふと我に返ると、下をむ あたま き、 頭 をふりながらつぶやきます。 じ む だ し 「むだ死にを させられし者は いかばかり 誰も無駄には 死にたくなかろ」 ひび すると月の精の声が響きます。 ひと よ てん すく おお じ ひ とり 「人の世に 見えなきことの 多かれど むだ死になど無し どの一人にも 天は救わん どの一人をも」 せい すす そしてクスノキの精と土の精が進み出てきました。 みずか ふ ま な ひと 「 自 らの 振る舞い無くも 同じ人 か がく すい じ ゆう い し 人を人とて もてあそぶとき ゆる おな 科学の粋 自由意志とて 許されず 同じく人が それをこうむる と ち たみ すす い ひ う こ ごう こ じんるい ごう かの土地の 民進み出で 引き受けし 個の業超えて 人類の業」 かえ 月の精の声が返ってきます。 にんげん さと さが あんねい つづ み よ な 「人間の 悟らぬ性よ 安寧の 続く御代には こと無きうちは とうと なんじ 尊 きは にくたい み たま すく 汝 が肉体 差し出しつ あまたの御霊 救う学びぞ」 せい つた クスノキの精と土の精が精いっぱい伝えます。 ど だ い した 「土台下 へ いわ 平和の道を ささえつつ くつ うら ふ も なんじ せいしん 汝 が精神 せい よわい 齢 重ねて ゆ うき 靴裏で 踏まれし揉まれし その生の みじめなこと無し 勇気あれかし」 こ おう 風の精と水の精が呼応しあいながら伝えます。 「勇気ある たましい け つい 魂 もちて 進み出で 決意し時を 思い出すらむ」 ふたたび月の精の声が響きます。 ゆ うき じんるい い ん が おうほう せ お 「みなさまは 勇気をふるい 人類の 因果応報 身に背負いつつ」 31 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 とうめい A だ いち クスノキの精と土の精の透明な声が大地に響きわたります。 はらわた どうこくおうのう うら かえ 「 腸 に 慟哭懊悩 おさめつつ 恨みに恨みを 返すことせず いか 怒りに怒りを 返すことせず」 かお ふ か れん ま 花の精がよき香りを振りまきながら可憐に舞います。 よ や ひ か り てん つよ 「よすがなり この世の病みを 日花里まで 転じさせます 強き心は ありがたきかな ありがたきかな」 ちからづよ クスノキの精と土の精とともに、風の精が力 強 く出てきます。 み うち くに さ ふ んど 「身内とて 国とて引き裂き てき こころゆる 敵とみたてて おも 心 許さぬ く その思い ね んみ 死にすれば あまたの人間 憤怒の念満ち びょうそう その思いをば 食わんとす やみの病 巣 食いとめし」 クスノキの精と土の精の姿がすっくと立ったように見えました。 「土の下 何千回もの爆発音 沈黙のなかに 地球の叫び あと い け に え 一発の プルトニウム型 爆弾の 前と後にも 犠牲者の影」 うた 月の光の精、花の精、水の精がうつくしく詠います。 み たま いや すく 「見えずとも すべての御霊 われら知る 癒されませよ 救われませよ しょうめつ 気づかれず せいれい かんしゃ 消 滅 せしも われら知る 感謝とともに 救われませよ」 いちどう うた 精霊たち一同がこころ合わせて詠います。 まよ こ よい いわ ま おど 「悲しみも 迷いも今宵 かぎりにて 祝いや祝い いざ舞い踊らん」 おどろ と 若い陽子と老女陽子が 驚 くように問いかけます。 もの 「わたくしも、その地に住まう者の一人と?」 ごう せ お け つい 「わたくしも、その業を背負う決意をした者の一人と?」 さ いど わた 月の精の声が再度響き渡ります。 せ たましい 「もうご自分を責めないでください。あなたは、あなたがたは、みじめな 魂 などではな ゆ うき いどころか、勇気ある魂なのです」 ほんとう 「本当ですか?」 「本当ですか?お月さま」 ぞ うお はな ゆる こ かくぶんれつ 「そうです。そして憎悪や怨念を放つことなく赦しを超えた心は、憎悪のさらなる核分裂 おさ いっぱつ かげ ぎせいしゃ ご を抑えました。しかし一発の原子爆弾の陰にある犠牲者はあなたがたのみならず、その後も く かく じっけん にくたい いか 繰り返される核実験はこの地球の肉体をむしばんできました。それでも地球は怒りなどし ぐ こう こうむ た ない。人間が起こした愚行を人間が 蒙 る姿を涙で受けとめながら耐えていらっしゃるので すよ。 」 32 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 A お えつ 「はい….。はい…。ありがたいことでございます。ううう。 」老女陽子は嗚咽をこらえな だ いち ふ がら大地にひれ伏しました。 だいだい にく つた ゆる はんえい 「どうか代々に憎しみを伝えるのではなく、赦しを伝えてください。そして平和と繁栄の みち てん 道へと転じるよすがとなってください」 にく わたし だい お 「ああ、ありがとうございます。憎しみを伝えるのは、私 の代で終わらせます。 」若い陽 つき ひかり じ ぶん こ みずか こえ はっ 子は月の 光 のなかで、自分でありながら自分を超えたところから、自 らの声が発せられる き のを聴きました。 さ んげ かんしゃ め で な 懺悔と感謝の涙が陽子の目からあふれ出ました。若い陽子と老女陽子ともに泣き、しばら だ わ く抱き合って一つに和していきました。 つき ひかり せい い ず ただ おと あらわ ま 月の 光 の精たちが居住まいを正しました。すると月の精が音もなく空に姿を 現 し、舞い 始めるのでした。 と わ た びじ いってん あつ てん 「十八の旅 旅路ながしと 思えども それ一天に 集まりし点 ひふみよ いむなや ここのとお み ふ ぼ び 見ゆるかな かくれし父母は 見えねども 美 う かく 宇に隠せり ちゅう かく 宙 に隠せり ひふみよ いむなや ここのとお てんかい もん ひら かえ み たま うるわしき 天界の門 開かれて いざ還りつく 御霊のふるさと ひふみよ いむなや ここのとお」 ま お き 月の精は舞い終わり、月の光の精たちとともに消えました。 第 13 章 ありあけのつき 有明 月 陽子の心が語ります。 はじ な こ あふ わたくしはこの日、初めて心から泣くことができました。目からは涙を超えたものが溢れ うちがわ さ こ なんぼん だしました。やわらかなお月さまの光が心の内側まで差し込んで、こんがらがっていた何本 いと と くし ま す と む ほうこう なが もの光の糸を解きほぐし、櫛で真っ直ぐ梳かすかのように、自分の心が向かうべき方向に流 ひそうかん かな ちが してくれたようでした。その心は、悲愴感や悲しみというものではなく、何か違うなつかし ちから つ ひとつぶ か こ ひず と め まど そと い 力 に突き動かされて、涙の一粒一粒が過去の歪んだレンズを溶かし出し、眼の窓から外 お へ押し出してくれているようでした。 ろうじょ な は はな こえ つぶや 老女陽子が、泣き腫らした目と鼻にかかった声でありながら、せいせいとして 呟 きます。 な 「泣いた泣いた、大いに泣いたわ!」 にぎ み しかしふと、握りしめていたハンカチを見てあわてます。 33 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 ぬ A たいへん 「プ、プレゼントのハンカチが、こんな涙で濡れてしまう。 大変、大変。ええっと、こ とき しんこきゅう ういう時は深呼吸、深呼吸!」 まわ せいれい ま ね 老女陽子は深呼吸します。周りにいる精霊たちと若い陽子も、深呼吸の真似をしています。 はんたいがわ あくうん りょううん え 「それから、ええーっと。反対側向いてみるといいってきいたわ。悪運を切り 良 運を得 る!」 はんたいがわ まわ せいれい 老女陽子が反対側に向きます。周りの精霊たちと若い陽子も、真似して反対側をくるりと 向いています。 若い陽子が明るい声で言います。 な まえ わら 「クスクスさんの名前を思い出すと、どうしてもクスクス笑ってたことを思い出しちゃ ふ ま じ め なげ うわ。不真面目な陽子。あー、こんなに嘆いているのに、もう一人の陽子はクスクス笑いだ しそう」 こ おう 老女陽子も呼応します。 お か 「ほんと、可笑しいわ。もう笑いたいときには笑っちゃいましょうよ」 若い陽子が呼応します。 な 「ほんと、もう泣きたいときには泣いちゃいましょうよ」 せいれい まわ じょじょ 精霊たちが、二人の周りに徐々に集まってきて、あたりが明るくなってきました。 よ クスノキの精が呼びかけます。 「今だよ、陽子。ダンス、するんだ!」 げ んき こた 若い陽子が元気に応えます。 「よし!こうなったら、どんどんいくわよ!」 かさ かいかつ おど せいれい 若い陽子は、老女陽子の傘を手にすると、快活に踊り始めます。生き物や精霊たちも一緒 に歌い、踊りだしました。 おおごえ な 「大声あげて 泣いてもいいよ め 眼から涙を 流していいよ なか は 心の内から 晴らしていこう なか 心の内から 涙をつくろう おおごえ 大声あげて 泣いてもいいよ め 眼から涙を 流していいよ なか 心の内から 晴らしていこう なか 心の内から 涙をつくろう」 すす で 老女陽子の手をとる若い陽子。うなずいて車いすから立ち上がり、進み出る老女陽子。若 34 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 おど で あ つぎつぎ いっしょ A い陽子、老女陽子、ともに踊りあいます。これまで出会ったみんなが次々と現れて、一緒に おど はじ 踊り始めます。 なみだ なが 「 涙 はなんでも 流してくれる は かがみ 腫れた目のまま 鏡 をみたら クスクス クスクス クスックス なが き のう こと 流しちゃおうよね 昨日の事は 流しちゃおうよね さっきの事は いちびょうまえ 流しちゃおうよね 一 秒 前 まで いつでも ゼロから スタート OK! ・ ・ き もうそろそろそろ 気づけよ気づけ つ はな 詰まった鼻だよ かがみ 鏡 をみたら クスクス クスクス クスックス わら ご こと 笑っちゃおうよ 一秒後の事 き ょう 笑っちゃおうよ 今日みる夢を あ した はっけん 笑っちゃおうよ 明日の発見 いつでも ゼロから スタート OK! いのち 生ききろうよね いただく 命 死にきろうよね 生ききる命 まよ なんにも なにも 迷うことなく め ざ いのち 目覚めたんだよ もとの 命 に かえ 還れるんだよ もとの命に 愛の光に つつまれながら なん ひかり もう何であれ わたしの 光 を さえぎるものは ないんだよ もど すがた 戻っていくよ すべてのものは もとの 姿 に うつく 美 しく か ぞく だれもがみんな 家族というけど うちゅう 宇宙がまるごと 家族家族 クスクス クスクス クスックス おど 踊っちゃおうか ほら、あご上げて み あ 踊っちゃおうか クスクス見上げ 35 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 A こうかく 踊っちゃおうか 口角あげて いつでも ゼロから スタート OK! いつでも ゼロから スタート OK! いつでも ゼロから スタート OK!」 うた や き のこ すわ 歌が止みました。みんなが消え、老女陽子とルナだけが残りました。陽子は車いすに座り、 ぼうくうごう ど て よ あ そら ありあけのつき ルナは防空壕の上の土手にいます。ルナが、夜明けの空に消えかかっている有明 月 を見つ けました。 そら さ い ルナが空の月を指して言います。 「ヨーコさん、あそこ!」 あか め こた 陽子が明るい目をしながらルナに答えます。 き ょう すがた 「ほんと。今日はわたしの大好きなお 姿 の、お月さまね」 そら 老女陽子が空の月に伝えまます。 「お月さまに、ありがとう そら ひび 空からお心 響いてきます いっしょにいますよ かならずと いっしょ 見えなかろうとも 一緒よと ああ、私は生きている いま、ここに、いる かあさん、ありがとう、ごめんね かあちゃん、ありがとう、ごめんね」 陽子の心が語ります。 わたくし じ しん ふか ところ ひ う じんせい 私 は、それがどんなことであろうと、私自身の深い 処 で引き受けた人生なのであれば、 い けっしん おそ おも これを生ききろうと決心いたしました。遅すぎる決心であるとは、もう思いますまい。どの いま い い み 人も、 「今」 「ここに」居るということに、必ず意味があるのだと思えるからでございます。 ななじゅう た こんにちはじ い かんしゃ 戦後七 十 年経ち、今日初めて、生きさせていただいていることに感謝できました。あた まい ふか めぐ りまえに見える毎日があるということが、深い、深い恵みでございます。 さまざま ぎじゅつ おもて うら これからも様々に出て来るでありましょう新しい技術、どんなものにも 表 と裏がござい ひ だ せ かい い かか し だい ましょう。どちらを引き出すか、どちらの世界で生きるかは、それに関わる者の思い次第。 わたくし くく しば こ みずか おも これからの 私 は、外からのあらゆる括りと縛りを超えて、 自 らのなかに作りだす思い 36 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 こ とば たいせつ みずか A おも と言葉の力を、大切に、大切にしていきたいと思うのでございます。自 らのなかの「思い」 ちから たいら よ もっと とお ちか みち と「言葉」 。その 力 。平 かな世に近づくには、それが 最 も遠く見えて最も近い道であると、 い まい つ 九十年生きて参りましてようやく、そのような思いにたどり着いたのでございます。 き ぎ あいだ とり き しらじら あ そら う 木々の 間 から鳥たちのさえずりが聞こえ始めました。白々と明けて行く空に浮かぶ月を ど て そうちょう へ いわ ねが ひ ろば おく わかもの 土手からじっと見つめるルナ。早 朝 の「平和を願う広場」の奥から、若者たちのハーモニ き よ うこ がっしょう ーが聞こえてきます。陽子はゆっくりと合 掌 しました。 終 37 ©ひのめぐみ 物語版 クスクスの木の物語 +++++++ + +++ +++++ +++++++ + +++++++ +++++ +++ こ A + +++++++ ばっ 「わるい子だから 罰したの?」 わ 「だれが我が子を だ い と う あ せんそう 罰したかろう」 ま っ き ながさき 大東亜戦争の末期、1945 年 8 月長崎。 く さい しょうじょ すうじつご しゅっせい ま ぢ か しろうず – つつましやかに暮らす 18才の少女 とく じ しゅうげん 白水陽子は、出 征 間近の徳治と祝言をあげた。 げんばく と う か よ う こ きせきてき いちめい それから数日後、8 月 9 日。長崎に原爆投下。陽子は、奇跡的に一命をとりとめるものの、 ひ ば く こういしょう わずら たいせつ か ぞ く うしな おっと い わか な 被爆の後遺症を 患 うこととなる。大切な家族も 失 い、 夫 とも生き別れた。これまでの名も じんかく な ま え じんせい ひ と り 人格までも失い、新しい名前で新しい人生を一人で生きていくことになる。 てんば つ 「天罰だったのですか」 こころ と 陽子はそう 心 に問いながら、生きつづけた。 ささ つき そんな陽子の心の支えとなっていたのは - 月。 にく ゆる つた 「憎しみを伝えるのではなく、赦しを伝えてください」 せ ん ご ゆる こころ つた ものがたり 戦後70 年、日本から赦しの 心 を伝えたい物語 。 +++++++ + +++ +++++ +++++++ + へん +++++++ +++++ +++ + +++++++ ぶたい 『クスクスの木の物語』の英語編、朗読劇・舞台劇(オペレッタ)用のシナリオは 以下の URL からダウンロードできます HP Mail http://kuskusnoki.web.fc2.com/ [email protected] 38 ©ひのめぐみ
© Copyright 2024