Title 福島秀策小伝 : 哈爾濱医科大学と東京歯科大学大学院 の建設(3

Title
福島秀策小伝 : 哈爾濱医科大学と東京歯科大学大学院
の建設(3) 大学経営の近代化と附属総合病院の拡充
Author(s)
吉澤, 信夫; 高橋, 英子; 北林, 伸康; 渡辺, 賢; 福田,
謙一; 齊藤, 力; 片倉, 恵男; 金子, 譲
Journal
URL
歯科学報, 114(3): 242-263
http://hdl.handle.net/10130/3332
Right
Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College,
Available from http://ir.tdc.ac.jp/
242
― 解
説 ―
福島秀策小伝
― 哈爾濱医科大学と東京歯科大学大学院の建設 ―
⑶ 大学経営の近代化と附属総合病院の拡充
吉澤信夫
高橋英子
北林伸康
渡辺
賢
福田謙一
齊藤
片倉恵男
金子
譲
力
東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会
1960
(昭 和35)
年頃から始まったベトナム戦争
27.学長辞任と杉山学長の誕生
は,1964
(昭和39)
年のトンキン湾事件をきっかけに
1965
(昭 和40)
年5月31日,学 長 を 辞 任 し た 福 島
米国を軍事介入に引き込み,インドシナ半島の諸国
は,法人の常務理事としてひきつづき学校経営に参
や韓国等アジア各国の軍隊まで巻き込んで泥沼化し
画したが,これには,理事長であった石河幹武の強
た。米国の一部市民ばかりでなく,帰還兵達までが
い要請があったとされる。この時福島は70歳であっ
反戦運動を激しく展開する時代に突入する。日本を
たが,前年の2月27日に法人理事会が次期学長に福
含む周辺諸国はもちろん,米国本土でも平和につい
島を任命したばかりで,第3期となる3月8日から
ての不安が増大し,反戦運動が止まるところを知ら
1967
(昭和42)
年3月7日までの任期の途中であっ
ず,米国大統領の権威は失墜した。
た。安房鴨川に老後の保養のための別荘地を求めた
1975
(昭和50)
年4月30日,南ベトナムの首都のサイ
りしていたが,その思惑も夢に終わる。2年近い任
ゴン陥落で,15年に及ぶベトナム戦争もようやく終
期を残して学長を辞した福島は,市川病院の整備や
結したが,米軍だけで死者5万8千人,さらに約2
後述する血脇守之助の伝記刊行など,やり残した仕
千人の行方不明者を出した。この結果,米国の経済
事は少なくないと自覚していたが,日本社会のます
をはじめとする国力と権威は,長期的に衰退する
ますの激変と,みずからの健康状態等を勘案熟慮
きっかけとなる。
し,学長を辞する決意を固めた。後任には福島の下
日本では1960
(昭和35)
年に発効する新日米安全保障
44)
で学監,副学長の任にあった杉山不二が就任した
(図12)
。ただ,福島にとって石河とともに法人の仕
事に専従することは,学長時代よりも多難な時代の
幕開けにつながっていく。
このころ,わが国は高度経済成長がつづき,1964
(昭和39)
年10月10日から15日間にわたって東京で開
催された第18回夏季オリンピックはその頂点となっ
た。しかしその反面,自然破壊や環境汚染,物価騰
貴が著明となり,世界的にも米ソ両陣営の東西冷戦
が深刻化し,アジア,アフリカ諸国の植民地の独立
運動や人種差別反対運動などで不安定な状態が継続
していた。
― 56 ―
図12 昭和38年秋,蓼科寮の基礎工事を視察する福島(中
央)
,杉山(左)
,山浦安夫氏(昭和10年東歯専卒,長野
県立科町)
。東京歯科大学同窓会報,第163号,1975年
2月
歯科学報
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条約をめぐって労組,学生らの反対デモが長期にわ
さが残るだけといわれていたが,東京歯科大学の場
たりつづけられ,時の岸信介内閣が7月15日に総辞
合はこれを機に大きな収穫を得たというのがうるさ
職するに至った。この後,池田勇人内閣による所得
がたの多い若手教員達の感想でもあった。事実,高
倍増計画を掲げたいわゆるハト派政策で,いったん
添議長のまとめによれば,このとき提出された問題
世論が鎮静化したかに見えたが,この30年代末の暗
点は細目で45項目以上に及んだ。主なものは次の通
45)
雲は,そのまま昭和40年代に持ち込まれる 。
りである。
⑴
1965
(昭和40)
年6月1日,
福島の後を受けて第3代
大学問題を考えるにあたっては,大学人の立
場に立った本学の理念設定
東京歯科大学学長に就任した杉山不二は,日本全国
⑵
に発生した学園紛争,大学紛争にも神経を使うこと
教育,研究,診療,管理機構の合理化,近代
化の推進方策
になる。本校と至近距離にある日大,明治大,少し
離れた本郷では東大,さらに関係の深い慶応義塾の
⑶
大学院歯学研究科のあり方の検討
医学部まで,嵐の吹き荒れる事態となった。そうし
⑷
各部署におけるオリエンテーションの必要性
た中,東京歯科大学も進学課程に大学紛争独特の立
⑸
無給医問題の解決
て看板がならび,さ ら に は1969
(昭 和44)
年2月4
⑹
財政問題との調和
日,専門課程第3学年から臨床実習の改善,合理化
⑺
進学課程の立場
といった具体的内容のある要望書が,学長に提出さ
⑻
市川病院のあり方
れる事態となった。
高添は,本学をよくするための新しい気運の誕生
は喜ばしいことであるが,問題の多くは必然的に生
28.野口記念会館における全学集会
じたものであることを全員が理解すべきこと,ま
1958
(昭和43)
年11月に第8期日本学術会議会員と
た,制度の変革は容易ではあるが,人を変えること
なっていた杉山は,他大学の状況や本学学生の動向
は難しく,その意味からも各自の自覚が必要である
に鑑み,また学内教員との調整を経た後,全学に
と結んでいる。また,杉山学長は参会者の熱心な意
向って「教育と研究をよくするための会」−東京歯
見を聞き,本学の長期ビジョンを確立するため委員
科大学の集い−と銘打ち,いわゆる全学教員による
会設立の意志を表明し,時を移さず大学諸問題研究
集会を開催することにした。これは,杉山の歴史に
委員会準備委員会を発足させ,さらにその答申に
46)
沿 っ て1970
(昭 和45)
年5月19日 に「大 学 問 題 委 員
残る英断であった 。
1969
(昭 和44)
年12月3日 午 後5時30分 か ら,教
会」が発足した。
員,大学院生など228名が参加して信濃町の野口記
この委員会は専門課程の基礎,臨床,進学課程,
念館で開催された。議長は米国留学から帰国したば
市川病院,大学院生の37名であったが,教授,助教
かりの高添一郎助教授(当時,以下同じ)
,副議長
授,講師,助手,大学院生のベテランから若手ま
は川島康助教授(市川病院)
,林
淳一教授(進学課
で,文字通り横断的な構成でもあった。委員は立場
程)
,大森清弘助教授である。ここで,市川病院や
にかかわりなく発言し,次第に相互の信頼と合意形
進学課程からも副議長が選出されているのが,従来
成に向けた熱意が生まれたのは,委員長の高添と副
の慣行にはなかった大きな流れの変化と見てよい。
委員長の大森らの運営努力によるところが大きい。
当日は延々3時間にわたって自由な意見が開陳さ
翌46年3月31日に至る約10か月の間に27回の委員会
れた。ただ,学長の杉山は,議長団から離れたス
のほか,20回の教育・研究・診療各小委員会を開催
テージの端で,じっと無言のままひたすら耳を傾け
して議論を深めた。その後1970
(昭和45)
年10月23日
ていた。論客の少なくない教授達も普段と異なり,
に中間報告,そして最終的な大学問題委員会答申
一部を除いてもっぱら聞き役であった。
は,1971
(昭和46)
年4月29日に杉山学長に手渡され
多くの大学の場合は,このころ全学集会を開いて
た47)
(図13)
。
も収集のつかない混乱に終わり,ひどい場合は学長
の吊るし上げで救急車がかけつけるなどして,空虚
― 57 ―
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られた福島秀策先生に呼ばれました。そして,「石
川君,血脇先生の伝記を書いてくれないか?」と頼
まれたのです。しかし,私は血脇先生がどういう方
か知らなかったので,「私にはそのようなことはで
きません」と言って一応お断りしました。福島先生
は「そうかなあ」などとおっしゃっていましたが,
怒ったりはなさらなかった。ところがその後,研究
室に戻ってきて,当時の私の先輩教授であり,保存
科の部長をしておられた関根永滋先生に,「福島先
生からこのようなことを頼まれたのですが,私は何
も知らないのでお断りしました」と言ったところ,
「君は何ということを言うのだ。福島先生にそのよ
うなことを頼まれたのは,君にとって大変光栄なこ
とだ。それを断るとはひどいやつだ」と,ものすご
く叱られてしまいました。最近はそんなに怒る先生
はいませんが,当時の関根先生は本学の中でも有数
の硬派の先生だったのです。困っていると,「福島
図13 大学問題委員会の答申を報ずる大学広報
第25号,1971年
先生に謝ってきなさい。そんな光栄な仕事を引き受
けないやつがあるか。
」と言われました。そこで,
私はもう一度福島先生のところに行きまして,「血
29.血脇守之助の伝記発刊への執念
脇先生の伝記をつくってみます。ただ,私は何もわ
一方,任期の途中で学長を辞した福島には,仕事に
はきりがないという決断の中でも気になっていたも
かりませんから,いろいろ教えてください。
」とお
願いして始めたのです。
のがあった。それは,血脇守之助の生誕100年を記
『血 脇 守 之 助 傅』は,昭 和54年 に 発 行 さ れ ま し
念した伝記の発刊であった。その編纂での経過は,
た。作業を開始したのが昭和41年ですから,完成ま
非公式の調査委員会が1966
(昭和41)
年11月5日,福
でに13年間かかっています。
島直々の声掛けで招集されたことに始まり48),次い
(中略)さて,
徐々に資料も集まり,
『血脇守之助傅』
で学校法人東京歯科大学が,東京歯科大学創立80周
も完成へと近づいてまいりました。ところで,私
年記念並びに血脇守之助先生生誕100年記念実行委
は,いろいろな大学の歴史についての本を読んで,
員会の事業の一環として「血脇守之助傳」編纂委員
気になっているころがありました。それは,どれも
会(松宮誠一委員長)
を発足させることであった。世
「何月何日に何があった」といった,箇条書的文章
情は騒然としていたが,1970
(昭和45)
年8月13日正
だったことです。タイトルは格好良くても,読んで
式に委員会が成立した。
みると単なる記録で,ちっともストーリーになって
東京歯科大学第9代学長の石川達也教授は,2003
いなかったのです。ですから私は,『血脇守之助
(平成15)
年7月8日に大学の千葉校舎講堂で行われ
傅』をどうすればストーリーを持った読み物にでき
た「教職員特別講演会」で,つぎのように述べてい
るか考えました(後略)
。
49)
編集作業は難航し何度も中断したが,執筆を担当
る 。
私
(石川)
は,昭和30年に本学を卒業後大学院研究科
した石川達也教授をはじめとする委員の努力と,学
生となり,翌年から助手として保存学教室のお世話
内外の関係者のなみなみならぬ協力によって,しだ
になりました。そして,昭和40年に教授になって,
いに順調に進行していった。刊行は1979
(昭和54)
年
1年くらいたった昭和41年の11月,38歳の時,私は
2月24日で50),福島は成果を見ることなく世を去る
当時大学の顧問(註:法人の常務理事兼務)
をしてお
が,途中の経過を知って,何度も喜んでいた。大学
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の諸懸案が一段落となった昭和46年3月30日に理事
務していたが,昭和48年5月3日付けで死去,享年
も辞任,以後顧問となっている。
79であった。
ちなみに理事長の石河と福島は全く同世代で,奇
しくも生まれが同じ明治27年12月であり,石河が11
30.中古住宅の購入
日,福島が15日というわずか4日違いの仲であっ
1968
(昭和43)
年の同窓会名簿によると,福島の住所
た。石河は理事長在任中時々辞意を洩らしていた
は千葉県柏市若葉町
が,学内の行事で挨拶を求められると,自分は本学
ている。
の出身ではないが,誰よりもこの学校を愛する心に
引けを取るものではない,と強調していた。
となっ
一家はようやく柏市内の若葉町に小さな1戸建て
住宅を取得して移り住み,以後この中古の家を改造
その石河にも,今につづくエピソードがある。彼
したり増築をして,長男家族と同居することになっ
の長男は三井物産の社員で高い地位にあったが,そ
た。部屋と部屋との間の廊下が狭く家具は置けな
の息子すなわち石河の孫も利発なこどもで,祖父の
かったが,真っ白な壁が塗られた。秀策は真っ先に
話をよく耳にしていた。祖父が繰り返し自慢する話
みずから太い毛筆で「円相」と「まがたま」をひと
のひとつは,自分の総義歯のことであった。それは
つにしたような独特の模様を描いた。その後招かれ
自分の勤める東京歯科大学の病院で,溝上(喜久男)
た教授や友人知人等は,新築祝い(?)
の記念として
という教授がつくってくれたが,上下ともぴったり
白壁に墨書するようにすすめられて,ためらいなが
で,そして,
らも署名などをした。福島にとってようやく手に入
「これは,おれの宝物だ。実によい入れ歯だ。
」
れた自宅であったが,その喜びは家族だけでなく,
と何度も喜んでいたという。食事や話をする時も,
大学の関係者にも解放したいという血脇譲りの梁山
周りから見て満足そうであった。
泊精神が再発していたのかもしれない。
石河は,この孫が中学2年の時に他界するが,三
しかしこの「落書」入りの壁はその後家具の配置に
井物産に勤める長男もある時期から,同じ水道橋病
より,見えなくなった。しかも家の老朽化のため改
院の歯科に通院することになった。たまたまその父
築した際,取り壊しとなった。その直前に撮影され
に同伴して病院に行ったこどもは,すでに高校3年
た写真が残されているが,壁面には一部棚板の張り
になっていたが,父の診療を横で眺めていたとこ
つけのため,やはり見えないところがある(図14−
ろ,その少年に,診療を担当していた羽賀教授が小
a,b)
。
さく声をかけた。高校3年なら,来春ここの大学を
受験してみないか,と笑顔で話すのである。羽賀は
31.他 界
冗談半分で言ったのかもしれないが,この時のやり
福島秀策は1974
(昭和49)
年9月10日20時22分,入
とりは少年に重大な影響を及ぼした。彼の心はひど
院先の東京歯科大学市川病院第1病棟で,家族や大
く動揺したにちがいない。というのは,高校3年の
段階での進路が,祖父以来の慶応義塾大学の経済学
部へ推薦で入学することが決まっていたのである。
結局,石河幹武の自慢話が,孫の人生に大きく影響
を与えた結果,孫は東京歯科大学を受験,合格し,
(昭和58)
年に卒業した
入学することになった。1983
彼は,大学院での研究生活を経て学位を取得した後
臨床に従事することとなり,今は充実した五十路を
満足しながら歩んでいる。そして自分を導いた運命
に感謝しているというのは,何よりも幸福なことで
あろう。
石河幹武は福島の常務理事在任中,理事長として執
― 59 ―
図14−a,b
柏の福島宅の白壁に残された“落書”
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学の関係者特に大陸で苦楽を共にした同志に見守ら
筆すべき大学院の新設と市川病院の総合病院として
れながら,波乱に満ちた生涯を閉じた51)。これまた
の拡充は,戦後10年近くを経た東京歯科大学が未来
奇しくも石河と同じ享年79であった。
に向って新たに飛躍するための不可欠な事業では
大学葬および告別式は同年10月2日午後1時から
東京青山葬儀場で,厳粛かつ盛大に挙行された。定
あったものの,経済的混乱期に直面した歴史的難題
でもあった。
その克服のために,時代が福島を,
ふたたび大陸か
刻までには故人の遺徳を偲ぶ関係者が陸続としてつ
ら母国へ呼び戻したともいえる。不思議な運命の存
めかけ,参会者は約800名の多数にのぼった。
奏楽のうちに祭員入場が終り,式は松宮誠一副学長
の司会の下に開始された。
「…先生を失った今,私どもは堪え難い追慕の念
と寂寥とを禁じ得ません。私ども一同は先生の御遺
在が感じられる。
32.元中国人学生から見た福島秀策
1)記念誌「老ハルビン医科大学」に紹介された福
訓を守り,本法人がその本来の使命を達成するため
島秀策
に全力を結集することをお誓いいたし,先生の御霊
福島秀策が世を去って19年後の1993
(平成5)年,
を御慰めいたしたいと存じます。先生,安らかに御
「中国人民政治協商会議黒竜江省文史資料委員会」
眠り下さい…。
」葬儀委員長で学校法人東京歯科大
によって「老ハルビン医科大学」という記念誌が発
学法人理事長の鹿島俊雄は,永遠の鎭魂を願う弔辞
行された。これは「ハルビン医科大学校友会」の協
をささげた。
力のもとに編纂され,黒竜江人民出版社から発行さ
次いで,学長の関根永滋は「私達が常に敬愛し思
れたものである。この記念誌は翌1994年春,日本の
慕してやまなかった福島秀策先生が,…逝去されま
「ハルビン医科大学同窓会」に送られ,同会を通じ
したことは,将にこの上なき痛恨事であります。い
て福島家にも届けられた。
つまでもご存命で私達を見守り導いて下さる事を,
内容は,戦前(1926∼1946年)
のハルビン医科大学
常日頃,心から冀っていましたのに,天は遂に,先
についての記録で,客観的記述であり,日本人指導
生と私達との間に幽冥境を頒って了いました…。
」
者の業績もきちんと評価されている。項目を設けて
と追悼の言葉を述べ,さらに東京歯科大学同窓会長
記載されている日本人は,家原小文治校長(註:陸
井上
真は「…生者必滅,会者定離の理とは申せ,
軍軍医,内科)
をはじめ6人。その中に,福島秀策
今先生の霊は天に昇り,耳咳に接することも出来ま
教授とその部下であった高木圭二郎教授の項目があ
せん。今は只,遥かに天空を仰いで昇天の先生の霊
る。高木は後に第7代の東京歯科大学となる人物で
のご冥福を祈るのみであります。
」と述べた。
ある。
玉串奉奠は福島正光喪主,御家族,理事長,学
福島に関する中国文の執筆者は,教え子の李!斯
長,同窓会長,友人代表の順で行なわれ,同窓はも
教授と傅有鋒教授の両名である。本文は同誌の296
とより国の内外の関係者からの弔電は500余通にの
−297頁にわたっているが,中国の簡略字が少なく
ぼった。午後2時からは告別式に移ったが,故福島
ない(図15)
。翻訳された和文は,以下の通りであ
先生に対する敬慕の念厚く,御遺徳をしのぶ人々の
る。ただし,内容に誤りも散見されるので留意され
長蛇の列は式場外にあふれ,偉大な足蹟をしのぶと
たい。
共に永遠の別れを告げた52−54)。
なお昭和41年秋の叙勲では勲二等瑞宝章,叙位は従
(和訳)歯科保存学教授
福島秀策
四位を追贈された。私見になるが,福島の業績は満
福島秀策教授は1894年日本で生まれ,東京歯科医学
州ハルビンでのそれもあり,私立歯科大学長と常務
専門学校を卒業した。卒業後も学校に留まり,助
理事までの業績に対する勲二等瑞宝章は,国立大学
教,講師,助教授,教授を歴任するとともに医学博
学長の勲一等に勝るとも劣らないものと認識してい
士の学位を取得,米国留学の後,東京歯科医学専門
る。
学校の学監も兼任した。当時日本口腔学会で高い声
対外的な貢献はいうまでもないが,学内において特
望を誇っていた。彼は弁舌さわやかで,国際口腔医
― 60 ―
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図15 記念誌「老ハルビン医科大学」に掲載された福島秀策の記事
学の動向に詳しく,優れた教育能力を有し,口腔医
材輩出をもたらし,中国の早期口腔医学の発展に対
学教育事業に熱心に携わっていた。彼は当時,偽満
し多大な貢献をなした。
州時代の東北各地が立ち遅れている状況を見て,
福島教授は学を修めるに厳格であり,人には寛大で
1938年初頭,招聘に応じてハルビンに赴き,ハルビ
あり,学者の風格を有し,政治には介入しなかっ
ンロシア人第一及び第二歯科専門学校の接収管理の
た。学生達は皆彼を尊敬した。彼は,植村秀一,家
命を受けた。彼は,両校を合併してハルビン歯科医
原小文治,田村於兎といった歴代校長との関係も良
学院を設立,その院長となった。1939年1月歯科医
好で,家原校長が夫人を亡くした後は福島教授宅に
学院はハルビン医大に編入されて歯科医学部とな
居住した。中国学生に対しても礼を尽くし,我々が
り,福島秀策は歯科医学部長,首席教授に就任し
助教の時代はよく彼の家にお邪魔したものである。
た。彼は,東京歯科医学専門学校の支持を得て同校
政治問題で逮捕・入獄し,
その後釈放された歯科医
学部学生が生活するのはその当時困難であったた
より専門教師を招聘した。
福島教授は学生募集など学校運営において厳格で
め,福島教授宅に居住した。福島教授は彼らに同情
あった。大部分の学生は中国人であり,その他少数
し,「努力して学習しなさい,政治に関与しすぎて
の日本国籍,ロシア国籍の学生がいた。
はいけない」と語っていた。
1940年,福島教授はハルビン医大歯科医学部教授
1945年8月15日日本が降伏した後,彼は田村於兎の
を兼任している小林一郎が,北京大学医学院で口腔
後を継いで日本人会会長となった。1947年日本人が
学部を設立する計画を支援,1943年には正式に学生
送還される時には残留して善後処理を行った。中国
を募集する運びとなった。両大学の口腔学部の設立
学生は彼に好意をもって接し学校の教師になるよう
と発展は,東北,華北地区で口腔科関係の多数の人
求めたが,当時彼は体調が芳しくなく婉曲に辞退し
― 61 ―
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た。1954年帰国した後,東京歯科大学の学長を長年
差し上げた席で,まず次のような発言をされ,私た
務めた。1965年には日本教育訪中団の副団長として
ちをいたく感動させました。
訪中したが,その際北京にいるハルビン医大歯科医
「私は,時たま,大学勤めをするより,もし貴方
学部同窓生が彼を招宴し,ゆるゆると心ゆくまで別
がた中国人留学生の寄宿舎があったなら,その寄宿
離の情を語り合った。
舎の舎監をやりたいものだ,と考えることがありま
1975年病のため逝去(註:原文は逝世)
,享年82歳
す。もし私が舎監になれたとしたら,皆さんが少し
でも安心して日本で勉強できる,助けて上げること
(ママ)
。
2)追悼文「福島先生と中国人留学生」郭
ができるでしょうし,そうなれば,日頃私が念願し
永仁
標題の筆者,賀久(旧姓 郭)
永仁氏は1934年香港
の出身で,父君のすすめで日本に渡り東京歯科大学
ている,日中友好の道が,いくらかずつでも開けて
ゆくと思うからです…」
。
に進んだ。1961
(昭和36)
年卒業の9期生(久喜会)
で
この御発言が,日中友好第一の雰囲気に包まれた現
あったが,1992年12月24日58歳で膀胱がんのため逝
在ならば,そう特別なものと受け取れないかも知れ
去された。福島元学長を偲ぶ文章を書いたのは41
ません。しかし,それは,日本の対中国政策が,全
歳,ほのぼのとした師弟の関係を再生させる筆致な
くアメリカの対中国敵視政策に追従していた20年以
ので,全文を転載する。同氏の紹介については,東
上も前のことなのです。
京歯科大学同期生の篠田
55)
登氏の追悼文 がある。
それからというもの,おりおり見聞する先生の御
なお,1974年の同窓会報(第162号)
に記された「仁
言動は,どれもこれも私達に深い印象を残しました
永」は誤植で,調査の結果,正しくは永仁である。
が,卒業式の日,卒業証書を手渡してくださってか
ら私の手を取って強く握手され,
本来ならば,私のような弱輩者が,諸先生や先輩諸
「これからも一層努力したまえよ」とおっしゃっ
兄をさしおいて,福島元学長の追悼文をしたためる
た一言は,以後の私の大きな励みとなったばかりで
などということは,全くそれの任になく,福島先生
なく,現在でも,なにか起るたびに,そのお言葉を
に対しても,礼を失したことになるかも知れませ
思い出し,一層の努力を心に誓うほどです。
先生が,つねづね私たち留学生に対して,なみな
ん。
ですが,私は,今,やむにやまれぬ気持からペンを
みならぬ関心をお寄せ下さったことは,贅するまで
もありませんが,1960年に,香港の医務条例が変更
取っています。
福島先生の温顔に初めて接したのは,もう20数年前
され,日本の歯科大学の卒業生が香港で開業出来な
になりますが,そもそもの初めから,福島先生の私
くなった時,丁度,中国視察団の一員として中国へ
に対する御好意と御慈愛は,終生忘れ得ぬほどのも
行かれた先生は,帰途,香港で団から離れられ,御
のでした。恐らく,それは,私一人だけでなく中国
自分で手土産までととのえられて,香港医務官のド
人留学生全部が,そう感じ,心に深く銘記している
クター・スモールを訪問して下さり,私たち日本の
ことと思われます。
歯科大学卒業生の開業問題のために,わざわざ交渉
私たちが,専門課程の一年級だった時,皆で相談し
の労をとって下さったのでした。結果は,先生の御
た結果,福島先生にお願いして,一夜,食事を共に
努力にふさわしいものではありませんでしたが,こ
して頂こうということになりました。
のような御好意,御尽力も,私たち中国人留学生に
私たちは,福島先生が中国に14年間もお暮しにな
り,中国人の風俗習慣や心情によく通じておられる
とっては,強く心に残る思い出の一つとなっていま
す。
と伺っていたので,私たち中国人留学生の話をお聞
又,先生のこの中国視察旅行には,次のようなエピ
き頂き,又先生のお話もいろいろ拝聴したいと考え
ソードもかくされているとのことです。大学当局
てのことでした。
は,先生の停年を記念して,先生に世界一周旅行を
先生は,私たちの申し出を,こころよく承諾された
おすすめしたのだそうですが,先生は,
というより,大変喜んで下って,粗末な中国料理を
― 62 ―
「世界を見るより,もう一度中国を見たい。もう
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
249
一度中国を見ずには,目をつぶれない…」といわれ
とした雰囲気の中で,少しずつお互いの思いを交換
た由です。
することができた。福島秀策という人物が,あたか
先生の中国に寄せる関心と愛情は,それほど深く大
もすぐ傍に立ち会ってくれているかのように和やか
きなものだったわけですが,私たち香港育ちの中国
な対話がつづいて,不思議と気持ちの通じ合う関係
人は,中国に対する愛情も知識も,逆に日本人であ
が生じた。
る先生から,御教示を受けたようなものでした。事
30分ほど経ってお別れすることになったが,最後
実,先生は中国旅行から帰られると,私たちを御自
に記念の写真を撮ろうということになった。そこで
宅に招かれ,現地で撮影された8ミリをうつしなが
ご主人が移動しながら言い残した言葉は,当方に例
ら,当時における中国の新知識を,私たちに与えて
えようのない衝撃と感動を与えた。それは涙まじり
下さったのでした。
で,たしか絞るような声で,つぎのように聞いたよ
最後にもう一つ,私が開業した時,先生の御親切
がどのようなものであったかを記して,この追悼文
うな記憶がある。
「President Dr. Fukushima lives now in my heart. 」
を終りたいと思います。
その頃,先生は,もう耳も遠く,足も大部弱ってお
それにしても,このお二人が山形大学については
られましたが,御自身,私の診療所まで,祝いの金
ともかく,なぜ筆者の訪中を知っていたのかは不思
一封をお届け下さり,
議であったが,その理由は帰国してから分った。福
なおし
「なにか心配事が起ったら,ひとりでくよくよす
島秀策の三男である直が東京歯科大学の12期生で,
るより,大学へ相談に行きなさい…」と変らぬ温顔
彼のもとに日本語の上手な中国からの若い留学生が
でおっしゃるのでした。その時の私の感謝と感激
居て,そこから一行の旅行計画が先方へ伝えられて
は,たとえようもなく大きなものでしたが,時と形
いたという事情があった(図16)
。
は変っても,先生に対するそのような感謝と感激は
人口の多い中国人同士の社会であるにもかかわら
恐らく中国人留学生の誰もが経験し,その思い出
ず,われわれの想像以上に情報の交換が密になって
を,生きるささえにしているに違いありません。
いることに気づかされたのは,今でも学ぶべき点の
福島元学長の御他界は,私たちにとって,親を
失ったも同然であり,御冥福を心底からお祈りする
ひとつと痛感している。
4)鄭州大学口腔医学院の教え子
次第です。
中国鄭州大学口腔医学院の姜
3)上海に居たハルビン時代の教え子
国城名誉院長は,
現在90歳を超える御高齢だが,最近日本を訪れて,
1989
(平成元)
年,日本の山形大学医学部と姉妹校
今後東京歯科大学との交流を望んでいると伝えたと
締結をした上海第二医科大学に,レーザー光線(激
いう。以前から数回書簡で連絡をとっていたが,わ
光)
治療を中国の歯科口腔臨床に初めて導入し,成
ざわざ来日して語った雑談の中に,ご自身も哈爾濱
書まで刊行した馬宝章という女性の教授がいた。
山形の訪中団は1990
(平成2)
年1月,大学に到着
早々熱烈歓迎を受けたり,専門別に別れて講演した
りで多忙であったが,その翌日早朝,馬教授はご主
人とふたりで訪中団が宿泊しているホテルに突然,
筆者を尋ねて来られた。ご主人は第二軍医大学整形
外科主任医師の潘誠教授で,すでに退官されていた
が,このご夫妻とロビーで話し込むうちに,ご主人
の方はハルビン医科大学出身で,なんと福島秀策先
生の教え子だと名乗ってきたのである。
ご夫妻とは,共通言語としてたどたどしく下手な
英語でしか会話できなかったが,それでもゆったり
図16 福島の教え子の潘教授夫妻(中央,右)
と筆者(1990年)
― 63 ―
歯科学報
250
Vol .114, No .3(2014)
で高木圭二郎,福島秀策両教授の教えを受けた者で
ました。そう判ってみれば父が好みそうな言葉でご
あると名乗った。書簡にも同様に日本語で書かれて
ざいました。“而”の字は抜けております。そう思
いる。これを受けて東京歯科大学は,2009
(平成21)
い込んでいたのでしょう。お許しください。
年8月19日に鄭州大学口腔医学院と同地で友好校の
(註)周:すべての人とあまねく交わる様。雅量。
正光
比:二人が並ぶ様から特定の仲間に限って親
締結を行った。
しみあう様。偏狭。
33.人生のエピソード
2)関東大震災(校舎から最後に出てきた男)
以下の記述内容は断片的であるが,大学や同窓関
マグニチュード7.
9。1923
(大正12)
年9月1日11
係者,友人知人が直接体験した事柄をまとめたもの
時58分,相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を
である。福島は人間関係が広く,宴席で披露した“ど
襲った。ちょうど昼食の準備どきで,木造建築の多
じょうすくい”
などの隠し芸や座談でのふるまいは,
い東京では各地で火災が発生し,190万人が被災,10
多くの人々を楽しませたと伝えられている(図17)
。
万人以上が死亡,あるいは行方不明になったとされ
趣味は魚釣りで,かなりの腕前だったようだ。勝
る。
負事は室内外ともにせず,家人による観察では多分
地震発生直後,東京歯科医専では白山通りに退避
嫌いだったろうという。また頼まれれば筆も揮った
した職員が心配する中,校舎からゆっくりと出てき
らしいが,他界後に家人が探しても残されている色
た大柄な男がいた。しかも非常持出用の,大きく重
紙などは,ほんのわずかだったとのことである。
そうな箱を数個担いでいる。それまで職員達は,福
1)周(而)
不比
島が見当らないことに心配していたので,呆気にと
ごく一部の関係者に配られたらしい記念の品(紫
色の袱紗)
が残されており,その左上に「周不比 秀
られしばらく無言のままであった。そこで本人いわ
く,
策」と斜め書きされた白文字が見える。この品に
は,長男正光の説明書きを印刷した小さな紙が添え
「ご心配なく。ガスの元栓はちゃんと閉めてきま
したから。
」
られている。なお,日付は記されていない。
この時,福島が持ち出した物品の中にどのような
56)
周而不比(論語為政第二)
ものが含まれていたかについて,正木
父はこの言葉を好んで書いていたようです。“書
い記録を残している。
正56)が詳し
それによれば,「揺れ動く木造 建3階 の 一 隅 に
いていたようです”と言うのは,私達家族のものは
あった貴重な一揃の病理組織標本が,無事に運び出
殆んど見たことがなかったからです。
父の死にあたって,何か父の気持を表わすものを
された。そのなかには,ペンシルベニア大学のカー
形に残したいと考えましたが,ほんの数枚の色紙し
ク学長から贈られたベルリン大学のミラー教授が
かみつかりませんでした。その中に,この言葉があ
作った世界的にもめずらしい貴重な一枚の組織標本
りました。そしてようやく,母がその出典を見つけ
があった。この標本は,花沢(鼎)
先生が当時のアメ
リカにはなかった拡大した顕微鏡写真をペンシルベ
ニア大学へ贈られたお礼にいただいた,金銭では購
うことのできない珍品である。ミラー教授は口腔細
菌学で知られているが,また偉大な病理学者でもあ
り,臨床学者でもあった(後略)
。
」と記している。
福島の死去直後に発行された特集記事とはいえ,
辛口で滅多に他人を誉めない正木の紹介だけに,価
値ある快挙であったにちがいない。事実,標本箱の
なかには,花澤,小野寅之助,近藤三郎らの苦心の
作品(切片標本)
が収納されており,その後に多くの
図17 伊豆山旅行での福島の隠し芸披露
研究業績が生まれたという。ちなみに小野,近藤と
― 64 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
251
も,花澤から直接の指導を受けた標本づくりの名人
と謳われた人物であった。後に小野は大阪歯科大
学,近藤は愛知学院大学の教授になっている。
神保町界わいから大火が襲来した結果,東京歯科
医専も結局,類焼から逃れることはできなかった。
しかし,自らの出火という,不名誉な結果から免れ
ることができたのは不幸中の幸であった。
また昭和30年代に生化学を担当していた故鈴木芳
太郎教授は,講義の合間に福島の上記のエピソード
を口にした。当時の学生であった筆者らは,驚きと
ともに記憶している。たぶん,本学の先輩教授から
図18 昭和4年竣工の東京齒科醫學専門學校
聞いたことを,我々に伝えておきたかったのであろ
う。そして「オレは,ますます福島秀策という人物
が好きになったよ」と付け加えていた。
言葉から受けた感情の記憶を,「暖かさ」という表
3)山岳部員の遭難と救援
現で結んでいる。
57)
ちなみに,本校を壊滅状態に陥れた1923
(大正12)
河辺清治 (昭和6年東京歯科医専卒)
によれば,
1927
(昭和2)
年3月28日は入学試験の日であった
年の関東大震災による損害は約70万円といわれた
が,当日は季節外れの大雪に加えて関東大震災後の
が,理事者は極度の緊縮財政を断行する一方,仮校
バラック校舎であったため,控室はひどく寒かった
舎や新館の建設を進めた。しかし,校長の血脇守之
らしい。余りの寒さに誰ともなく持ち寄った新聞紙
助は1922
(大正11)
年の外遊による見聞を基にして当
をストーブに入れて燃やしていたところ,恰幅の良
初の計画(建坪1,
200坪)
を大幅に変更拡充する構想
い先生が出て来て,
を抱き,その要請に準拠して花澤
「火を焚いてもよいが,
バラックの教室だから気を
鼎委員長の主宰
する建築調査会は延坪2,
100坪余の4階建鉄筋コン
つけてください」
クリート建築の設計図を作成した。そして1929
(昭
と暖か味のある言葉で注意された。この印象深い出
和)
4年に落成した本館は目立って聳え,以後長く
会いが,福島との初対面だったという。
水道橋のシンボル,ランドマークとなる(図18)
。こ
入学後,河辺ら学生達は福島に山岳部の部長を依
の時,委員として設計に参画していた福島の若き日
頼していた。1933
(昭和8)
年頃の夏,北アルプスで
の経験が,後に哈爾濱醫科大學の歯科医学部建設は
東京歯科医専の学生が遭難した。ちょうど河辺らが
もとより,第二次大戦後の大学院建設に際してふた
別途に現地で合宿していた関係で,救援に向う旨を
たび情熱と使命感を呼び起こし,福島を現場に駆り
福島部長に電報したところ,早速本人が現地にやっ
立てた遠因なのかもしれない。
てきて,学校からという「救援費」を出してくれ
4)帰国から学長就任までの波乱
た。学生達にとっては,名目上も実質的にも嬉しい
前回⑵に略述したように,1954
(昭和29)
年頃から
激励である。そこで母校に帰ってから早速御礼に
奥村鶴吉理事長兼学長は体調を崩し,秋頃からは慶
行ったところ,そんな大金は学校から出ていない,
応義塾大学附属病院に入退院をくりかえしていた。
多分,福島先生がご自分で出されたのだろうとい
当時,本学では重要な大学院建設問題に直面してお
う。驚いて自宅に御礼に上がると,今後は山での行
り,さらに1955
(昭和30)
年1月15日午前5時30分頃
動は注意するように,とこの時も暖かい一言があっ
市川病院の第3病棟看護婦勤務室天井付近より出
た。
火,第3,第5病棟が全焼するという事故が発生し
河辺の文章は,前半のストーブに新聞紙を入れて
た。まさに多事多難の状態で,長期にわたる理事長
火を焚いた際に福島から注意された言葉と,後半の
学長の不在は各組織の運営上重大な支障を来してい
山岳遭難に対する「救援費」につづいて注意された
た。
― 65 ―
252
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
1953
(昭和28)
年8月,福島は波瀾万丈で苦難に満
た。以後理事会は大学の寄付行為について文部省と
ちた大陸の生活を終え,帰国した時はすでに59歳と
の意見調整をはかりながら,また奥村家のご家族と
なっていた。しかし生来の恵まれた体力気力に加
の相談をつづけながら,大学としての対応方法を加
え,多くの苦難を乗り越えた15年の風雪は,元来色
速する必要に迫られた。すなわち奥村の役職である
黒の福島に一層大陸的風貌を濃くし,以前にも増し
学長及び進学課程主任を解任とする件,寄附行為改
て厚い人望を集めていた。福島を知る同窓や関係者
正の件がはかられ,その議決を経て理事長の任が解
は,当初裸一貫の彼を支えるべく東奔西走し,結局
かれることになったのである63)。
1954
(昭和29)
年5月に大阪市厚生年金病院に歯科嘱
つぎの難題は,後任の学長をどうするかというこ
託として勤務することになり,とりあえず当面の生
とであった。理事会は大学の寄附行為を検討した
きる糧を得ていた。
後,教授会を信頼してそこで選出される学長を候補
しかし,周囲の情勢は福島をこのままにして置く
として推薦させ,評議員会にはかるという手順を踏
むことにした。このような事態は,理事会の理事長
べくもなかった。
前回にも若干触れたように,1956
(昭和31)
年6
と教授会の学長の双方を兼ねる奥村鶴吉が長期に
月,東京歯科大学教授会は,福島秀策を教授として
亘って不在となるという,きわめて異例で寄附行為
迎えることを決定した。そして直ちに大学院建設委
も想定していなかった結果であった。
員会の中核である建築委員長に就任するや,同年7
月17日開催の第240回東京歯科大学理事会に,早く
1957
(昭和32)
年2月27日,第246回理事会は午後
も非理事ながら列席を求められ,出席した。大学院
2時30分から本学学長室で開催された64)。出席理事
建設委員長としての陪席であり,以後昭和32年2月
は石河幹武,小林喜一,榎本美彦,西村豊治,田村
15日の第245回まで連続して建設関係の報告,発言
一吉,溝上喜久男,陪席者は法人主事の三崎釥郎,
をしている。
書記の武井晴夫であったが,記録の冒頭に福島の名
当初は学内に起居して,大学院建設に尽力したと
58)
はない。この理由は,その5日前の2月22日に開催
記録されている 。その時の建築計画についての報
された第8回東京歯科大学全体教授会における選挙
告は,詳細にしかも技術的な側面と予算的側面から
の結果,福島が過半数の票によって教授会が後任学
見積もりを第三者に諮るなど慎重を期した内容で
長として福島を推薦することを決議しており,その
59)
あ っ た 。作 業 が 始 ま る と み ず か ら 工 事 現 場 を
詳細な経過の報告が,理事会議案第1として予定さ
チェックし,随時専門家の見解を参考にして,予算
れていたためと思われる。
の執行と工事の進捗状況を法人や学内にフィード
開会後,理事長奥村鶴吉解任となり,後任理事長
バックした手腕は,教授会ばかりでなく理事会でも
決定までその職務をとるべきところ病気欠席のた
高く評価されるものであったと伝えられてい
め,その指名により理事溝上喜久男が議長となり,
60−63)
議事を行うことになった。議案の第1は「奥村学長
一方,法人理事の榎本美彦は1957
(昭和32)
年1月
解任に伴う後任学長選任の件」で,溝上理事は先の
10日,慶応病院に入院中の奥村を見舞い,同時に主
全体教授会において行われた選挙の結果,福島秀策
治医の三浦岱栄教授から説明を聞いた。その結果
教授が過半数の票を得られたので,教授会は後任学
は,患者が自らの意志をもって辞任を申し出るとい
長として福島秀策教授を推薦することを決議した,
う能力を欠いており,病状の回復する見込みはまず
と報告した。
る
。
ところが,そこで「西村豊治理事の指名により,
ないとの見解であった。榎本は大学に戻り,まず第
62)
三崎釥郎教授は同理事会で次の通り説明した。
」と
244回理事会に一部始終を報告した 。
次いで同年2月15日に開催された第245回理事会
ならびに第81回評議員会では,奥村の病状が報告さ
いう補足の記録がある。以下はその報告にもとづく
記録である。
全体教授会(昭和32年2月22日)
における学長選出
れるとともに,それまでに経験したことのない理事
長,学長の解任に関する難題に直面することになっ
について
― 66 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
253
5)市川の進学課程講堂の椅子
1.選挙の方法は出席者の無記名投票による。
講堂とはいいながら,合同教室並みの広さの床面
2.過半数の票を得た者が学長(候補)
として推薦
に据え付けられた椅子は,もっぱら集会時に用いら
される。
3.過半数の票を得た者のあった場合はその者の
れる程度で,とりわけ学生にとっては多分に使い勝
氏名,票数を発表し,その他の氏名,票数はこ
手の悪い邪魔な存在であった。講堂はそれ以外の活
れを発表しない。過半数の票を得た者がなく,
用,つまり室内の運動などには利用できず,むしろ
したがって決戦投票を要する場合は,上位二名
これがなければと感じる場合が多かった。当時の進
の氏名,票数を発表し,その他の氏名,票数を
学課程は広い屋外の各種運動場に恵まれていたもの
発表しない。
の,特に雨天の場合に望ましい屋根のついた体育館
以上の取り決めの後,教授会議長溝上教授指名に
はなかったのである。
よる選挙管理委員長杉山不二教授,選挙管理委員野
しかし1953
(昭和28)
年に建築されたピンク色の校
口好之教授,同嶺脇四郎教授の管理のもとに選挙が
舎はまだ新しく,この椅子も100席以上あり,ライ
行われ,出席教授29名全員投票し,開票の結果は全
オン歯磨が校舎新築の際に祝いとして寄贈したもの
員有効投票で,福島秀策教授15票,溝上喜久男教授
であった。この時代,折りたたみ椅子などはなく,
7票,斎藤
取り外すのはもったいないという考えが少なからず
久教授6票,松宮誠一教授1票,合計
ある。
29票であった。
以上を理事会として審議の結果,選出の方法は公
1958
(昭和33)
年,学生の要望を受けて進学課程の
正妥当に行われたことを認め,よって東京歯科大学
教授会は福島学長を交えて開催された。主事の木下
全体教授会が後任学長として推薦するところの福島
隆治教授の経過報告がしばらくつづき,椅子の撤去
秀策教授を東京歯科大学学長に任命いたすべく,こ
の是非を検討するよう求めた。しかし教授をはじめ
れを第82回評議員会(同年3月8日開催予定)
に諮問
教員達の表情は固く,沈黙がつづいたが一部の教員
することを議決した。
から,学生の要望を受け入れてほしいという発言が
添えられた。
腕組みしてじっと考え込んでいた福島は,言葉少
第247回理事会は3月8日に開催され,この時か
65)
ら福島は理事の末席に名を連ねた 。理事長代理の
なに発言した。「外そう」と。
溝上教授は従来のように議長として着席し,議案第
(註:この件については,1958−1959
(昭和33−34)
1の奥村学長解任に伴う後任学長選任の件について
年頃,当時の現場(教授会)
に居合わせた進学課程の
発言した。すなわち本日の第82回評議員会において
複数の教授からの伝聞によるものである。
)
賛成が得られたので,教授会の推薦に基づく原案通
6)東京歯科大学創立70周年記念会における物故教
り,福島秀策教授を東京歯科大学学長に任命するこ
職員同窓会員慰霊祭と学長の祭文
とに決定した。
創立70周年記念会は,1960
(昭和35)
年11月6日午
議案第2は,従来の理事に理事福島秀策を加え,
前10時30分から,大学の1階ホールにおいて開催さ
理事長を互選の結果,理事石河幹武が理事長となる
れた。まず記念式は開会の辞を田丸将士同窓会副会
ことに決定した。さらに常任理事は田村一吉が留
長,記念式式辞を石河幹武理事長が述べたあと,永
任,学内の常任理事は溝上喜久男から福島秀策に交
年勤続者表彰・法人関係者に感謝状と記念品が贈呈
代となった。また,法人主事は石河理事長の任命に
された。記念式は大井
より,ひきつづき三崎釥郎教授が努めることになっ
清教授の閉会の辞で終了し
66)
た 。
た。
その後ホール壇上には幔幕を張り廻らし,その中
なお,奥村学長は名誉学長となり,1957
(昭和32)
央に祭壇を設けた。定刻が近づくと遺族,同窓及び
年3月25日に発行された卒業証書には学長福島秀
校友が相継いで来会し,11時には参列者一同着席し
策,名誉学長奥村鶴吉の連名となっている。
た。その中央前列には遺族,その左右には同窓及び
教職員,その後方および1階,2階の廊下には在校
― 67 ―
歯科学報
254
Vol .114, No .3(2014)
慰霊祭はこのあと,石河幹武創立七〇周年記念会
生が列席し,会場は隙間なく埋め尽くされた。定
悌教授司会の下に開会が宣せられ,三崎
実行委員長,血脇日出男遺族代表による玉串奉奠,
神社宮司による修祓,招魂,献饌が行われ,祭主祭
宮司の撤饌,送霊がしめやかに執り行われた。最後
詞に移り,福島学長の祭文が読み上げられた。
に遺族を代表して,血脇日出男氏から御礼の挨拶が
刻,渡辺
あった。
祭
記念式,物故教職員並びに同窓会員慰霊祭に引き
文
謹み敬い畏み畏み本学創設者故高山紀齋先生恩師
続き,11時30分から同ホールで故奥村鶴吉先生胸像
血脇守之助先生始め物故せられし諸先生の尊霊並び
除幕式が行われた。その後,校歌斉唱,矢崎正方同
に先亡せられし同窓及び本学職員合計弐千壱百六拾
窓会会長の音頭で万歳三唱があり,最後に七〇周年
六柱の英霊に申す。
記念会実行委員会総務部副部長杉山不二教授の閉会
惟うに本学は明治,大正,昭和と烏兎怱怱年を閲
する事正に七十年その間時勢の変遷に伴い紆余曲折
の辞ですべての記念式典を終了した(図19,20)
。
7)東京歯科大学定(停)
年規程の制定
第282回理事会議事録67)によれば,以下のように
量り難く万感交々至り寔に感慨無量なり。本日ここ
に全国より同窓会員相集まり本学創立七十周年記念
記されている。
会を挙行す。
「昭和三十七年二月十五日(木)
午后三時より千代
この時に当り,物故諸先生の宏大無辺なる恩徳を
田区三崎町一ノ七東京歯科大学会議室に於て開催,
感謝し奉り先亡同窓,職員諸彦の深遠なる友情を鳴
石河幹武理事長を議長として理事五名出席。議案審
謝し謹み畏み祭霊祈祷し奉る。ここに吾等は神明に
議に先立ち,故西村豊治理事の急逝を悼み,議長の
誓い先師の偉績を護り先亡諸彦の芳躅に倣い互に交
提議にて黙祷を捧げたる後,左記議事を審議,これ
友を厚くし,研精撓まず時代に即応して本学の発展
を議決した。
向上に努力邁進し日本歯科教育界延いては世界歯科
出席者
界の礎石となり報国の万一を尽し以て人類福祉増進
理事長
石河
幹武
に奉仕せん事を期す,冀くは在天の霊位,微笑を
理事
榎本
美彦
もってわれらを哀憐し守り給らんことを謹み畏み申
理事
矢崎
正方
す。
理事
福島
秀策
理事
溝上喜久男
昭和三十五年十一月六日
東京歯科大学学長
福 島 秀 策
陪席者
東歯大学監
図19 玉串を奏奠する石河幹武理事長
杉山
不二
図20 祭文を奏上する福島学長
― 68 ―
歯科学報
東歯大病院長
大井
清
市川病院長
野口
好之
進学課程幹事
平井満喜男
東歯大事務長
山本
法人主事
長谷川
Vol .114, No .3(2014)
255
年制該当人員,退職金支給総額並に停年退職金を含
む財源確保の見通しにつき数字的説明を行った。
右,原案説明に対し,石河議長並に榎本理事は,
栄一
夫々,本学興隆のため長年各職場において尽力され
潔
た高齢の功労者を停年と同時に生活困窮者に追い込
むことのないよう規定の運用については,萬全且つ
欠席者
理事
小林富次郎
可能な限りの配慮を払うよう要望の後,本学の停年
監事
北村
原案たる
監事
小(椋)
善男
教
員
六十五才
法律顧問
五十嵐太仲
職
員(男)
六十才
宗一
〃 (女)
議
案
五十五才
用務員
六十才
雑私用婦
五十五才
第一号
停年制に関する件
第二号
寄附行為に関する件
の可否を審ったところ左の如く決定。
第三号
市川病院建設計画に関する件
(決定)
第四号
年度末手当に関する件
第五号
学債資金による動物舎完成状況検証の件
退職金額については,普通退職金とは別箇の観点に
第六号 (追加)
故西村豊治理事大学葬に関する件
立ち,原案支給額を上廻るよう,配慮の上,実施す
第七号 (追加)
日本学術会議会員候補として本学
ることを希望条件とし議決した。
停年々齢については,右,原案承認,但し,停年
教授立候補に関する件
第二号議案
報
(説明)福島秀策常務理事
告
第一号
現在,施行中の本法人寄附行為並に同施行細則
昭和三十六年度(自四月至一月間)
予算執
第二号
寄附行為に関する件
行状況
は,昭和二十六年三月制定以来,部分的には,同三
学債募集状況
十年三月,同三十二年七月,同三十五年七月の三回
に亘って修正したが,その後の社会状勢の変転並に
議
本大学の内容充実に伴い,根本的な面,特に,顧問
事
第一号議案
制度或は役員会の構成,その他については現規定の
停年制に関する件
当否につき議論の存するものもあるので特定の専門
(説明)福島秀策常務理事
本件に関しては,年初の第九十一回評議員会にて
制度採用の基本的承認を得ているが,その実施に関
しては,支給財源,単位支給率,実施年度等につき
慎重なる検討を要するので各他大学の実情を調査す
ると共に,教授会に於ても,爾来,二回に亘って原
委員会を設け検討の上,その結論を理事会に答申し
て頂く方法を採り度い旨提案(以下略)
。
34.市川病院でのエピソード
1)病院長交代式の学長挨拶
案の審議,検討を経た結果,「昭和三十六年度末停
1964
(昭和39)
年以前の市川病院は戦後間もなく建
年到達者を対象とし,同三十七年度を実施第一年度
てられた木造か,新しくても2階建て木造モルタル
とし,昭和三十八年三月末を退職金の支給期日とす
の建物の中で,手術をはじめとする診療が行われて
る」方針の了解を得たので,本席にて右方針にて停
いた。老朽化が進んだため,病院は全面的な鉄筋コ
年制を実施することの承認を得たい旨提案。
ンクリ―トによる新築工事中で,建築会社の関係者
尚,退職金支給予定人員,その支給総額,その財
も多数構内を往来する慌ただしいふんいきがつづい
源の見通し等につき長谷川主事に説明を命じたの
ていた。院長室も4畳半程度の仮設であったくらい
で,同主事は,別添D表及A表に基き,支給原則(停
である(図21)
。
― 69 ―
256
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
分前には集合していなければならない。どうしても
始動の準備や確認のために,5分は必要ということ
です。
第2は,“ようそろ”という掛け声です。声を掛
け合うようにしないと船を動かす櫓が揃いません。
船を進めるための必要条件です。
第3は,「出 船 の 気 持」で す。船 を 浜 に 上 げ る
際,舳先を海の方に向けておくという意味です。魚
はいつ来るか分らない。見張りが沖に魚の群れを発
見して皆が集合したら,すぐに海へ出られるように
図21 昭和39年工事中の市川病院本館。上方(北)
に木造モ
ルタルの3,5病棟,左端(西)
に外来棟,6病棟や婦
人科病棟が見える。右下は工事事務所で,完成後は駐
車場となる
するためです。
」
これを聞いた筆者は,大学を卒業後市川病院歯科
に無給の副手として入局したばかりの,紛れもない
新米であったが,幸い定刻前から窓際に立ってい
そのさなかの昭和39年7月7日病院長が交代する
た。しかし,この時の福島の挨拶は,痛烈にこの新
ことになり,野口好之教授(整形外科)
から鈴木弘造
人の脳裡に焼き付き,今もって消えていない。
教授(内科)
にバトンタッチされることになった。そ
2)知人の見舞いで守衛に追い返された学長
の儀式はまだ広い場所がないので,診療のほぼ終
昭和30年代は,下記の註に示すように学長の公用
わった夕刻,内科の患者用外来待合室で行われるこ
車があったものと思われるが,福島は日常これを敬
とになった。
遠して,
よくてもタクシーを用いていた時代である。
司会役の加藤倉三副院長は,渋い表情であった。
{註:東 京 歯 科 大 学 百 年 史752頁 に,「昭 和14年
定刻を過ぎても教職員の集まりがよくないのであ
(1939)
4.
26校長専用自動車購入(94回理事会)
」と
る。すでに新旧の院長はもちろん,その横には学長
いう記録がある。また,第二次大戦後の昭和28年
の福島も立ったままじっとしている。院内放送の設
に外国の車を(おそらく奥村鶴吉の体調不良を理
備はない。事務員たちが手分けして各部署に電話し
由に)
購入した記録が,理事会の議事録68)に残さ
集合を促した結果,ようやくパラパラと職員が集
れている。
}
まってきて,約15分遅れの開会となった。司会に促
福島秀策が学長に就任したのは昭和32年3月8日
されて福島が挨拶に立った。
のことであるから,かなりの年数を経た昭和39−40
「病院の仕事は激務で,皆さんの日頃のご苦労は
年ころ,親しい友人が市川病院に入院した。福島は
並大抵のことではないと推察します。大学を代表し
ひとり国電の水道橋駅から総武線の電車に乗り,市
て厚く感謝申し上げる。このたびは建物の一新とと
川駅で下車,京成バスに乗り換え,ようやく菅野の
もに,職員の増加も予定しているが,今なお少ない
病院に到着した。
職員がよくチームワークを発揮してくれるよう,期
市川病院の建物はいよいよ鉄骨鉄筋コンクリート
待しています。
」概略このような型通りの口上を述
製に建て替えられることになり,昭和39年5月19日
べたあと,やや間をおいて話をつづけた。
にまず本館(外来,医事,薬局,臨床検査,管理部
「病院というのは病院長を筆頭に,全員がこころ
をひとつにして行動しないと充分な成果は得られま
門,手術室,内科外科病棟)
が竣工(当面243床)
した
ばかりである。
せん。その意味で病院は船のようなものでありま
間もなく,職員や入院患者の出入りなど時間外に
す。特に魚を相手にする漁業に従事する漁師には,
使用されていた小さな玄関から院内に入ろうとした
三つの心掛けが求められる。
福島は,建物新築と同時に採用されたばかりの守衛
第1は,「5分前」です。チームで気持ちをひと
に呼び止められた。患者の面会と告げると守衛から
つにして仕事を始める時は,あらかじめ少なくも5
時間制限があり,午前中はだめ,規則通り午後に来
― 70 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
257
るように,といわれた。そこで福島は素直にしたが
が不可欠であるものと先人達は充分承知していた。
い,守衛に不明をわびたのち先刻来た方向へ帰って
ただ,時期の到来を待つ隠忍自重からの開放が容易
いった。この後,どこへ向かったかは明らかでな
に訪れない。ようやく敗戦という過酷な犠牲を経
い。推測では市川の駅前あたりで,早めの昼食を済
て,歯科医学専門学校から歯科大学に昇格するな
ませていたとも考えられるが,福島がふたたび病院
ど,皮肉な経過とともに局面が大きく打開する。そ
にやってきたのは,守衛に指示されたとおりの午後
のためにこそ以前にもまして市川の地に将来の夢を
2時頃である。
托し,戦後の苦しい財政の中から隣接の土地を買い
一方,病院内では鈴木院長はじめ関係者が,福島
足していき,いよいよ新たな構想を具現化する総合
の到着が遅いことにやきもきしていた。つまり,こ
病院の設立という歯科大学としての先進性を福島は
の日水道橋から福島がやってくることは,あらかじ
継承し,さらに発展させる歴史的責務を負う覚悟を
め電話連絡で関係者の知るところであったが,遺憾
決めたに相違ない。自然,進学課程や市川病院には
ながらその情報は玄関の守衛までには至らなかった
可能なかぎり足を運んだ。
のである。この1件が,関係者の反省しきりとなっ
市川病院の新築に際して池つきの中庭がつくられ
たことはいうまでもない。しかし,福島は特に守衛
たが,その中に福島は学長退任の記念として三つの
に非はないことを関係者に強調し,あらためて自ら
庭石を寄贈した。それぞれに名称がある銘石であ
の不明をわびたという。
る。ひとつ目の石はTであり, Talent ,以下Dは
3)中庭に置かれた TDC の石
Duty ,Cは Culture である,と福島は笑顔で説明
福島秀策が市川病院に注いだ思い入れは,並々の
ものではなかった。第2次大戦に敗れ,大陸から辛
した。これも職員に対して奮起を促す日常の訓示と
なるものと解釈された。
うじて帰国したものの,同窓有志の世話でしばらく
これらの TDC の銘石は,平成の今日でも東京歯
大阪の病院に寄寓していた福島は,名実ともに今浦
科大学市川総合病院の敷地の西端,患者用駐車場の
島のようであった。戦後間もなくすでに大学となっ
奥に,標識とともに配置されている(図22)
。
ていた学内組織は,徐々に講座の前身である教室が
整備され,やがて1958
(昭和33)
年には待望の大学院
35.鴨川寮
が設置された。そして学長に選出されたものの,実
福島は学長退任後まもなく,安房鴨川の別荘地を
質的に拠りどころとなる出身教室はなかったのであ
大学に寄贈した。これは楽隠居を断念した結果で
る。
あった。そして,大学の職員の厚生施設として利用
一方,1946
(昭和21)
年に開設された市川病院の初
代病院長は,専門学校時代から親炙していた花澤
させたい旨申し添えられたことが,大井
清常務理
69−71)
事を通じて法人理事会に伝えられている
。地目
鼎であった。しかし 花 澤 は1950
(昭 和25)
年2月22
日,67歳で生涯を閉じている。血脇,花澤の訃報を
大陸で,それも敗戦後に虜囚の身で知ったとき,福
島としては痛恨の極みであったろう。さらに軍国主
義体制下,血脇守之助や奥村鶴吉は外部の歯科関係
者から敵国であるアメリカ歯科医学の信奉者である
とか,戦時の新体制にそぐわない,いわゆる医科歯
科二元論に立つ者と単純に決めつけられていたこと
を,帰国してから耳にする。これらの批判は,本質
的には当を得た指摘ではないことを後年の史観とし
ても,福島自らの思想としても感じ取っていたよう
に思われる。すなわち新しい歯科医学の進歩発展に
は基礎医学のみならず,臨床医学全般の実質的修得
― 71 ―
図22 TDC の石。当初は病院の中庭に置かれたが , 現在
は病院敷地の西端で患者用駐車場の奥にある
(撮影 廣瀬 哲)
258
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
は宅地で約200平米(60坪)
であったが,実面積は100
うしても必要だったのである。中屋敷は市川病院を
余坪あった。
拠点に,福島ら法人役員の指導に沿って大学全体の
地元同窓の寄附もあって1967
(昭和42)
年8月8
日,「鴨川寮」の開所式が行われた。管理人(嘱託)
組織,特に事務機構の見直しと整備計画を立案し,
経営の近代化に備えた。
は大陸で苦労を共にした杉谷忻五氏夫妻であった。
1970
(昭和45)
年4月1日法人事務室は「法人事務
料理の腕前はプロ並みで,場所柄,新鮮な魚をはじ
局」と改称し,中屋敷が大学本部の事務部長として
めとする食材にも事欠かなかった。得意のわざは鯵
転任した。同年6月1日には大学事務部,大学病院
のタタキで,ヌタともいえたが,何よりもその味は
事務部,市川病院事務部を設置した75)。福島はすで
絶品であった。
に長年この3カ所を学長として歩き回り,それらの
太平洋を見下ろす絶景が左右に広がり,釣りの名
連携の必要性は大学の誰よりも痛感していたに違い
所仁右衛門島に近く,温暖な土地柄もあって周囲に
ない。中でも市川病院に寄せる期待は大きく,その
柑橘類をはじめとする果物が実るなど,四季を通じ
ために前述の中屋敷に加え,大陸時代からの腹心で
て職員学生に利用された。ただ,海岸線から鴨川寮
あり,厚生省勤務の経験もある高木圭二郎を病院近
までは道が狭く歩いて行かねばならず,急傾斜の階
代化の課題に当たらせた。ただ,この時代のコミュ
段がきびしかった。しかも駐車場がないという欠点
ニケーションの媒体は,わずかに電話ひとつで,
は,如何ともしがたい。蓼科寮に比べて敷地や建坪
FAX さえ一般にはない時代である。
が小さく,学生向けにはあまり適していなかったこ
先に,定年制を制定した際は一身に憎まれ役を
と,管理人の高齢化などに伴って1974
(昭和49)
年こ
担った福島であるが,就業規則を大学全体の組織に
ろ廃寮となった。なお蓼科寮は借地であった関係
導入するためには,さらに多くの越えなければなら
で,2003
(平成15)
年3月31日付けで「土地賃貸借契
ないハードルが立ちはだかっていた。
約解除」となり,校地返還すなわち廃寮となってい
2)就業規則の制定
市川病院には「服務規程」と称するものの立案計
る。
画があったが,「就業規則」の制定は,市川市労働
36.常務理事としての福島と大学の改革
基準監督署の勧告もあって,喫緊の課題になってい
た76,77)。そして1956
(昭和31)
年7月17日開催の第240
1)病院と大学の事務機構の整備
既述のように1965
(昭和40)
年5月31日に学長を辞
回理事会以降福島は,大学院の建設委員会の総務部
任した福島は,法人の常務理事としてひきつづき学
長としてではあるが,理事会に列席を求められるこ
校経営に参画したが,いわゆる裏方となり,表面的
とになる。
活動からは距離をおく立場になった。福島は元来,
71,
72)
表に出ることを極力控えてきたところがある
女性でありながら看護婦は夜間勤務,超過勤務が
。
日常で,健康管理が真っ先に問題視されるように
特に敗戦後の長期抑留に遭い,帰国後に母校へ復帰
なった。看護婦の定員数は市川病院の新,改築後の
し,さらに思いもよらず学長に就任したものの,日
病床増加とともに急増したものの,現員数は思うよ
常的に遠慮を余儀なくされる存在であるとする自戒
うに補充されなかった。この職種の労務管理問題は
73)
市川病院から発生したものの,大学全体としても就
の念に駆られていたふしがある 。
これより少し先,昭和40年2月1日付けで,厚生
業規則は重大にして不可避の課題となっていく。
省医務局管理課課長補佐であった中屋敷小吉が,市
74)
1965
(昭和40)
年,市川病院にも建物の一新を期
川病院事務長に就任している 。これは,東京歯科
に,タイムレコーダーが導入された。そして1966
(昭
大学が時代の趨勢を見越して,まず事務管理機構の
和41)
年4月1日には大学の新経理・管財規定が施
整備を急ごうとする大学全体の先見的人事であっ
行され,3か月後の7月1日からは全学一体の就業
た。当時のキャンパスは本校の水道橋,市川の総合
規則が施行された。
病院,進学課程と分かれており,それらの組織を有
病院職員の労務管理は基本的にむずかしく,今日
機的に統一して機動力を発揮するための方策が,ど
のように病院管理などという合理的なノウハウはな
― 72 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
259
かった。加えて大学であるという建前で市川病院の
ために,多目的に用いられた。なお,保育室につい
医師,歯科医師は名目上教員すなわち教育職とさ
ては1969
(昭和44)
年頃,病棟の片隅を改造する形で
れ,特別診療手当が付加されていたものの社会一般
数人のこどもを受け入れる業務をしていた実態はあ
の医療職には及ばない水準であった。医師の場合原
るが,職員名簿の中に保育室という項目と採用した
則的に全科当直となる宿直や日直はあるものの,手
保母の名が現れるのは1970
(昭和45)
年になってから
当は他院に比べると多くはなかった。しかし,診療
である。さらに,保育所として独立した施設が建設
主体のための時間拘束は規定される一方で,例外規
されるのは,24年後の1994
(平成6)
年のことであっ
程があった。教員の場合,「前項の規定にかかわら
た。
ず,教育業務に支障のないようにつとめなければな
矢面に立つ福島,高木圭二郎に苦渋の色は濃く,
らない」という但書である。これによって事実上8
またそれを支える事務長の中屋敷小吉も,法人と労
時出勤,5時退勤といった事務職(公務員の場合行
組の間で調整する苦労が続いた。
政職)
のような定型は求められないことになった。
4)昭和40年代の大学騒動(学園紛争)
そのかわり,給与は国家公務員の医療職に比べて
も,はるかに低いものとなったのである。
この時期になると,日本における学園紛争(中
学,高校,大学等)
は,大学を中心に激烈化した。
それでも,本校(水道橋)
の教員からは羨望の特別
石川49)によれば,このころ「血脇守之助傅」刊行の
診療手当があり,一方市川の教員自身としてはボー
仕事がスタートしたばかりであったが,世情が第二
ナスの計算外である半端な手当という感覚があっ
次安保闘争で日本中が騒然としてきて,本学もその
た。このように,種々の矛盾,歪みを抱えたまま,
渦中にあったこと,学校の歴史にはあまり記録され
新しい市川病院は出発し,そこへまたしても福島の
ていないが,水道橋校舎の窓ガラスを割れにくい防
舵取りが求められることになったのである。服務規
弾ガラスに取り替えたこともあること,当時はデモ
定は就業規則と名を変え,しかも市川病院に限った
が非常に盛んで,本学もかなり投石の被害を受けた
問題ではなく,大学全体の重要課題として浮上して
りしたことを述べている。1968
(昭和43)
年から1969
きた。
(昭和44)
年にかけて,全国的にピークを迎えたが,
3)市川病院の労使問題
その素因,背景はすでに昭和30年代から発生してい
当時としてはわが国で唯一といってよい歯科大学
た。
の総合病院を,教育と診療のいずれに重点を置く施
石川も指摘しているように,東京歯科大学に身近
設にするか,という難題,ジレンマが1965
(昭和40)
な大学紛争として衝撃的だったのは,隣接する日本
年過ぎから,市川病院の教員から具体的に提起され
大学経済学部をはじめとする日大闘争と,東京大学
ていた。名目上教育職であっても,医師として実質
医学部から始まったいわゆる東大紛争である。これ
的にほとんど診療に従事する時間の多い教員は実質
もマスコミで連日全国放送されたが,水道橋に位置
的に医療職であるとして,さらなる待遇改善すなわ
する東京歯科大学からは,まさに肉眼で,リアルタ
ち国家公務員の医療職なみの処遇をすべきではない
イムで体験する歴史的出来事であった。このような
かというのが,教員組合の主張であった。
状況の最中,東京歯科大学の第三代学長杉山不二が
一方,職員組合は,1960
(昭和35)
年に看護婦を主
1969
(昭和44)
年に,全学集会を開催したのは既述し
体に結成され,給与改善の他に「看護婦宿舎」の建
た通りである。
設を強く要望していた。住宅事情の悪い当時は看護
5)団体交渉
職員の募集にも宿舎がない病院ということで,看護
労働組合があるのは,進学課程(教員の一部を含
婦ばか り で な く,病 院 経 営 自 体 に も 不 利 な 条 件
む)
,市川病院の職員組合と教員組合(歯科を除く)
であった。理事者もその必要性と時代遅れは認識
であった。
していた。ようやく本格的な看護婦宿舎(4階建,
2
組合の賃上げ要求,ボーナス交渉は,進学課程と
1,
543.
48m )
が完成したのは,1965
(昭和40)
年10月
足並みを揃えて毎年末,年度末に書面による要望書
のことである。1階の集会室は,病院全体の行事の
の形で行われていた。
― 73 ―
260
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
ところが1967
(昭和42)
年4月,従来方式の書面で
した人物である。
のやりとりの後,遂に初めての団体交渉が開催され
第1回は1967
(昭和42)
年7月8日に開催され,3
ることになった。交渉に臨んだ副院長,歯科部長の
つの部会を設けて種々討議し,11月7日に答申が出
加藤倉三教授は,苦渋の表情を見せていた。配下の
された。しかし,その内容はもっぱら市川病院の自
歯科から団体交渉に出た四人の助手は,外部から獅
主努力に期待する方向性であったこと,歯科のス
子身中の虫と非難されたという。しかし,理事者側
タッフに実質的な進展の促進をはかる実力が今ひと
は福島をはじめとして淡々と対応し,正面から話を
つ乏しく,積極的に責任ある役廻りもなかったこと
聞いた後,大学の全職員のためにできるだけの待遇
から,事実上この委員会の活動は結実に至らずに終
改善をはかる所存である,と回答した。
る。
なお,この時の団体交渉で産婦人科講師の委員長
この後も1970
(昭和45)
年5月,「オーラルメディ
が,市川病院の歯科の性格はあいまいで,若い人が
シン委員会」の発足が教授会で決定されたが,オー
研究して博士号を取りたくても事実上難しいのは何
ラルメディシンの定義等の観念論に時間をとられ,
とかしてもらいたいと発言したことは,若手の医局
さらに委員長の加藤倉三教授が,1972
(昭和47)
年に
員はもちろん,交渉参加者にとって予想外の陳情で
新設される松本歯科大学に転出することになったた
あった。この1件は,これ以上市川病院歯科の在り
め,後任の川島
康教授が引き継ぐことになる。
方問題を放置できないとする意識が,水道橋の臨床
1975
(昭和50)
年12月,第335回教授会で時の学長
系教授にも広がってゆくきっかけとなった。しか
関根永滋は,定員増に伴う学生の教育を充実するた
し,数次に わ た る 労 使 交 渉 の 結 果 は 決 裂 で あ っ
め,教育管理委員会を設置することを提案,それに
た78)。
伴って市川病院部会長に川島教授を任命,市川病院
世間では,争議が多発していた。市川病院教員組
の全教授を委員とした。ここで,卒前教育における
合でもストに入るべしという強行論が,特に当直
市川病院の位置付けが明確となり,オーラルメディ
(宿日直)
が過酷だとして不満を持つ者に激しくなっ
シンを掲げる歯科や,内科,外科ばかりでなく,各
た。遂に実力行使突入である。同年6月19日から,
科の臨床実習を正規のカリキュラムに導入して学生
常勤医師の宿日直拒否が実施された。そこで急遽病
教育の一層の充実を図ることになった。それととも
院長,部長教授が対応策を検討した結果,管理職す
に従来のオーラルメディシン委員会を改組し,学長
なわち教授による宿直の代行策をとった。福島,大
自ら委員長となった。
ところが関根学長は翌1976
(昭和51)
年5月22日,
井両理事をはじめ,関係者間の調整がつづき,1週
間後,争議は事実上中止となった。
急逝する。結局,このような経緯を経て市川病院歯
後年,市川病院の教員は相互に業務多忙となり,
科が「オーラルメディシン講座」に昇格するのは,
また漸進的に待遇も改善された。また,次項に説明
1981
(昭和56)
年4月1日のことであった。
するように,水道橋から臨床系教授が指導応援に来
7)本校(水道橋)
臨床系教授による市川病院歯科支
るようになったり,市川病院委員会が発足するなど
援
環境も改善してきたことから,組合を解散すること
一部の史料に,市川病院への水道橋臨床系教授の
になった。会計に残された若干の繰越金は,進学課
出向による臨床指導が,1964
(昭和39)
年10月3日開
程の教員組合に寄附されることで一致した。
始とされているのは,当時の現場に勤務していた者
6)「市川病院委員会」発足78)から講座開設まで
から見ると,もっと後のことではないかと思われ
この委員会のメンバーは,学外の病院管理の権威
る。さらに,東京歯科大学市川病院創立三十周年記
を交えた10名で,石川幹武理事長が委嘱した。委員
念誌79)の年表には,昭和42年10月23日「水道橋と市
長は川上六馬・元厚生省医務局長であった。この川
川との交流を密にするため,本校臨床部長クラスの
上は1926
(大正15)
年慶応義塾卒の医師で,福島が哈
方々が指導に来ることになる」と記述されている。
爾濱で1940
(昭和15)
年に第23回満洲歯科医学会大会
そして筆者の手許にある記録によると,1968
(昭和
を開催したおり,民生部大臣代理として総会に列席
43)
年8月24日,21歳の男性の左下顎に生じたエナ
― 74 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
メル上皮腫に対して,口腔外科の長尾喜景教授が執
261
の面で努力された。
信哉,吉澤信
かつては,歯科材料学の教授候補ではなかったか
夫が介助した症例(下顎半側切除)
がある。麻酔は長
と思われるような時期があった。それは,材料学の
尾教授の指示によって高北義彦助教授(当時)
と山口
松井礼七(七兵衛)
先生が,退職されて郷里の青森で
忠臣助手(同)
が担当した。所要時間は,ゆっくりし
開業される前後のころか,はっきり覚えていない
たぺースで約5時間,この日は土曜日でそれも午後
が,安井作太郎先生と東北帝国大学金属研究所へ研
開始であったため,関係部門の調整が大変であっ
修に行かれたことがあるからである。
」
刀し,手術の助手として主治医の縣
福島秀策の専門は,歯科保存学,充填学というこ
た。これが市川病院歯科としての,いわゆる major
とになっている。哈爾濱での教え子で,後に中国の
surgery の嚆矢と思われる。
この後,1969
(昭和44)
年9月1日に癌研究所の小
教授となった二人による紹介記事でも,福島は「歯
林秀夫部長が,専任の放射線科教授として赴任し
科保存学教授」となっている。この分野を得意とし
た。つづく11月1日には Co60遠隔照射装置が設置
ていたことは,敗戦後の長い抑留期間に細々ながら
され,以後口腔がん患者は市川病院で診療する態勢
歯科医療をつづけて,生き延びるために役立ったの
がつくられていく。指導の部長,教授というのは次
であろう。
その一方,正木は福島について上述のように「学
のような方々であった。
者ではなかった。
」とまで断言している。この正木
月曜:三崎釥郎教授(放射線科)
土曜:長尾喜景教授(口腔外科)
,後に中久喜
喬
のズバリとしたもののいい方は普段周囲から学内外
で煙たがられたが,一面の真実を言い当てていたの
教授(口腔外科,歯科麻酔科)
他に山本義茂教授(矯正歯科)
,木村吉太郎教授(保
存科,歯周病)
後に佐藤徹一郎教授,鵜養
弘教授
かもしれない。しかし,その正木の言以上に福島
は,専門である病理学から臨床まで幅広い領域に手
を染めていた器用人の花澤
(補綴科)
鼎には可愛がられ,特
歯科の若手にとってはまたとない好機会で,各教
に親近感を持っていたらしい。充填学や金属ばかり
授はきわめて熱心に,かつ親切に指導した。市川に
でなく,関東大震災で灰燼に帰した母校の跡地に,
勤務していた若手の医局員が,臨床に自信を持てる
花澤好みのがっちりとした建築物,すなわち森山松
ように感じたのも,この時期であった。
之助という超一流の設計者が,周囲の期待を一身に
このような東京歯科大学の新しい動きは,学生の
受け止めて具現化する一挙手一投足を同時進行で直
臨床実習の場として市川病院が大幅に活用される流
視,参画する機会を得たことは,後々の福島の財産
れともなり,幸にも福島が存命中の出来事であっ
になったことであろう。
た。血脇,奥村,花澤の時代から夢のように描かれ
地位は,人をつくるという。凡人と見える者でも
ていた構想を,市川病院がやがて名実ともに,現実
抜擢されて一定の地位に立たされるとそれなりに,
のものとすべく再出発した時代であった。
あるいは予想以上の力を発揮し,困難な仕事に取り
組んで実績を挙げるようになる場合がある,という
おわりに
福島秀策について,正木
のである。しかし,福島の場合は天性の何かが組織
56)
正は追悼記 の中で,
のトップに立つ能力を潜在させていたのではない
か。何よりも学生好きだったことは確かで,同窓生
次のように述べている。
「秀策先生の充填学の指導者は,花沢先生であ
はもちろん,異業種の人々との交際に幅が広かった
る。花沢先生は,ブラックシステムを中心に研究し
ことが知られている。宴席には自ら進んで,また誘
ておられた。花沢先生との共著である充填学に関し
われて断ることは少なかったようだ。かつての血脇
80−82)
があったはずである。秀策先生は,学者
がそうであったように,福島もハルビンの梁山泊を
ではなかった。勉強は好きではなく,あまりされな
夢見たのか,自宅に困っている食客が来ても拒むこ
かったように思う。むしろ行政的な手腕にすぐれ,
とはなかった。そのような人柄が哈爾濱で感謝さ
また昭和4年に落成した校舎の建設に,設計その他
れ,帰国後の母校でも同窓生達によって学長に押し
た論文
― 75 ―
歯科学報
262
図23−a
Vol .114, No .3(2014)
福島夫妻(河辺清治氏宅にて)
図23−b
葵祭見物中の福島夫妻
島自身の言葉)
」で旅行等によく出かけたが,失礼
ながらせめてもの罪滅ぼしといったところであろう
か(図23− a , b , c )
。
しかし現代に生きる者としては,現実ばなれした
人物として見るのではなく,今日でも見習うべき点
の多いことに注目したい。昭和という時代が生んだ
“ President ”福島を相手に,しばし沈思省察する
のも,平成に生きる将来ある人々にとって裨益する
ところが大きいものと信ずる(完)
。
文
献
44)東京歯科大学百周年記念誌編纂委員会:東京歯科大
学百年史, pp.307−309,学校法人東京歯科大学,千
葉,1991.
45)東京歯科大学創立120周年記念事業記念誌編纂部
会:近代歯科医学教育を拓く
(東京歯科大学創立120
周年記念誌)
, pp.116−117,学校法人東京歯科大学,
図23−c
在りし日の福島秀策
)
(東京歯科大学同窓会会報,162号,28,1974.
東京,2011.
46)東京歯科大学百周年記念誌編纂委員会:東京歯科大
学百年史, pp.310−314,学校法人東京歯科大学,千
上げられる一因になったのかも知れない。ただ,勝
負事はしなかった。人間関係を悪くする危険性から
葉,1991.
47)東京歯科大学広報部:東京歯科大学の改革について
思慮深く避けたとすれば,豪放磊落といわれる反
−大 学 問 題 委 員 会 答 申,東 京 歯 科 大 学 広 報,第25
面,細心で慎重だった表れであろう。事実,決して
大雑把な性格ではなく,仕事には精密な視点が随所
号,1−10,1971.
48)東京歯科大学広報部:トピック,血脇守之助伝発
刊,血脇守之助伝刊行にあたって
(石川達也)
,東京
に示されたことが知られている。
歯科大学広報,第69号,2−3,1979.
こうしてみると,ある意味で非凡,現実ばなれし
た人物だったのかもしれない。経済的に単なる清貧
ではなく,しばしば「赤貧洗うが如き」に近い状態
49)石川達也:血脇守之助先生が残されたもの,東京歯
科大学教職員特別講演会記録, pp. 1−19,2004.
50)学校法人東京歯科大学:血脇守之助傅,東京歯科大
になったのも,結局,血脇譲りであった。家族に
学,東京,1979.
とっては迷惑どころか,悲惨な場合も少くなかった
51)大野虎之進,川島 康:故福島秀策先生追憶記,東
ことであろう。晩年わずかに「古女房サービス(福
京歯科大学同窓会会報,第162号,28−29,1974.
― 76 ―
歯科学報
Vol .114, No .3(2014)
52)東京歯科大学学会:福島秀策先生を偲ぶ.歯科学報
68)第200回東京歯科大学理事会議事録
{1952
(昭和27)
年
74⑼,
(冒頭,ページ数なし)
,1974.
53)東京歯科大学同窓会:故福島秀策先生の大学葬及び
4月28日開催}
69)第314回東京歯科大学理事会議事録
{1966
(昭和41)
年
告別式,東京歯科大学同窓会報,第161号,2−5,
1974.
6月9日開催}
70)鈴木敬止郎:福島秀策学兄を偲ぶ,東京歯科大学同
54)東京歯科大学:故福島秀策先生大学葬 東京歯科大
学広報 第45号,2−4,1974.
窓会会報 第162号,29−31,1974.
71)米澤和一:福島秀策先生のことども.東京歯科大学
55)篠田 登:クラス会だより「久喜会」
(郭 永仁君
の 逝 去 を 悼 む)
.東 京 歯 科 大 学 同 窓 会 会 報,第273
同窓会会報 第163号,25−27,1975.
72)松井隆弘:福島先生の陰の功績,東京歯科大学同窓
号,28,1993.
56)正木 正:秀策先生は病理学教室の大恩人である.
会会報,第162号,40,1974.
73)福島秀策:御挨拶に代えて,東京歯科大学同窓会会
東京歯科大学同窓会会報,第162号,37−39,1974.
57)河辺清治:福島先生の追憶.東京歯科大学同窓会会
報,第49号,2,1956.
74)中屋敷小吉:市川病院と私,東京歯科大学市川病院
報,第162号,39−40,1974.
創立三十周年記念
58)東京歯科大学百周年記念誌編纂委員会:東京歯科大
学百年史, pp.287−289,学校法人東京歯科大学,千
病院,市川,1980.
員 会:東 京 歯 科 大 学 市 川 総 合 病 院 創 立50周 年 記 念
59)第241回東京歯科大学理事会議事録
{1956
(昭和31)
年
誌, pp.267,学校法人東京歯科大学,市川,1997.
76)第239回東京歯科大学理事会議事録
{1956
(昭和31)
年
60)第242回東京歯科大学理事会議事録
{1956
(昭和31)
年
11月14日開催}
5月17日開催}
77)第240回東京歯科大学理事会議事録
{1956
(昭和31)
年
61)第243回東京歯科大学理事会議事録
{1956
(昭和31)
年
11月27日開催}
7月17日開催}
78)東京歯科大学市川総合病院創立50周年記念誌編集委
62)第244回東京歯科大学理事会議事録
{1957
(昭和32)
年
員 会:東 京 歯 科 大 学 市 川 総 合 病 院 創 立50周 年 記 念
誌, pp.28−33,学 校 法 人 東 京 歯 科 大 学,市 川,
2月5日開催}
63)第245回東京歯科大学理事会議事録
{1957
(昭和32)
年
2月15日開催}
1997.
79)東京歯科大学市川病院:昭和42年年表,東京歯科大
64)第246回東京歯科大学理事会議事録
{1957
(昭和32)
年
学市川病院創立三十周年記念誌, pp.50,東京歯科大
2月27日開催}
65)第247回東京歯科大学理事会議事録
{1957
(昭和32)
年
学市川病院,市川,1980.
80)花澤 鼎,福島秀策:隣接面齲蝕ノ處置ニ就テ
(其
ノ一)
.歯科学報,27⑾,1−30,1922.
3月8日開催}
66)学校法人東京歯科大学:東京歯科大学創立七〇周年
81)花澤 鼎,福島秀策:隣接面齲蝕ノ處置ニ就テ
(其
記念誌, pp.229−234,東京,1961.
67)第282回東京歯科大学理事会議事録
{1962
(昭和37)
年
pp,138−140,東京歯科大学市川
75)東京歯科大学市川総合病院創立50周年記念誌編集委
葉,1991.
10月29日開催}
263
ノ二)
.歯科学報,27⑿,1−21,1922.
82)花澤 鼎,福島秀策:隣接面齲蝕ノ處置ニ就テ
(其
2月15日開催}
ノ三)
.歯科学報,28⑴,1−20,1923.
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