Page 1 堅樹院日寛教学の一考察 ― 1 ― 一、はじめに ― 問題の所在

堅樹院日寛教学の一考察
派
勝劣派を問わず、従来の天台学偏重の教学態度から、日蓮聖人
から考えられることは、日寛が生きた時代は日蓮宗教学史上、一致
学への意識が高まった時代であることを指摘されている。この説示
わち室町時代から続いてきた天台学を中心とした教学から、日蓮宗
たり、同時代における宗学意識の特徴として「宗学醞釀時代」、すな
げている。その日寛が生きた時代は教学史的に、江戸時代前期にあ
二十六世堅樹院日寛(一六六五―一七二六、以下日寛と略称)を挙
執行海秀氏の『日蓮宗教学史』によれば、日興門流における富士
大石寺の教学、すなわち石山教学を体系化した人物として、大石寺
いては、等閑に付されてきた感がある。このことは日寛の教学を狭
日蓮聖人の思想信仰を主体化し、敷衍化していったという問題につ
価学会や顕正会等の中で論じられることが多く、日寛がどのように
る排他的な宗教活動、特に近代における大石寺系新興教団である創
それは日寛の教学が日興門流において、『二箇相承』や『本因妙
抄』に記される血脈相承の立場から、自らの法脈の独自性を強調す
てきたであろうか、という問題が生じる。
れている日寛が、日蓮宗教学史上においてどのような評価がなされ
さて、このような視点から日寛教学を探求しようとするとき、石
山教学を体系化し、今日の日蓮正宗において、中興の祖として仰が
―
堅樹院日寛教学の一考察
研究史の確認を中心として
―
水 谷 進 良
(仏教学専攻博士後期課程三年)
立するに至ったであろうか。これらの問いが私にとっての課題であ
教学を宣揚しようとする宗学意識が高まった時代であったことであ
小な位置に閉じ込めてしまう傾向があるように感じられるのである。
る。
る。
そこで、本稿においてはこの問題に対し、日蓮教学の立場から論
じられている先行研究にその教学の評価を確認するという方法によっ
一、はじめに―問題の所在
では、このような宗学宣揚の気風が高揚した時代にあって、日寛
が体系化した石山教学とはいかなる教義体系をもつものであろうか。
て、日蓮宗教学史上における日寛教学の一端を確認してみたい。そ
(1)
また、日寛は日蓮聖人の教えをどのように受け止め、その教学を樹
― 1 ―
・
のことは、日寛教学をより鮮明にすることに繋がると思うからであ
容別に分類してみると、大きく二つの視点に分けることができる。
表的な先行研究である。なお、これらの先行研究について、私に内
日寛の教学について考察を加えられ検討されているもで、それが①
まず一には、日蓮宗教学史の立場から、石山教学の大成者として
る。
二、先行研究の確認
・
日蓮宗教化学という立場から、
日蓮聖人と日寛の教義の違いを論じられているものとして、早坂鳳
~④にあたり、二に、現代宗教研究
日蓮宗教学史に立脚して、主に明治期以降の先行研究という視点
から、日寛教学について論じた研究を発表年代順に列挙すると管見
城氏の⑤~⑦の論稿である。
ここでは、叙上の研究史において、日寛教学がどのように評価さ
れているか整理 確認していきたい。
三、日蓮宗教学史上における日寛教学の評価
この小論においては、これら二つの視点を依用しつつ、日寛教学
の評価をたずねていきたい。
の限り、次のものをあげることができる。
①執行海秀著『日蓮宗教学史』(昭和二七年 平楽寺書店)
②茂田
井教亨稿「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」(『創
価学会への教学的批判』所収 昭和三九年 東成出版社)
③望月歓厚著『日蓮宗学説史』(昭和四三年 平楽寺書店)
④執行海秀著『興門教学の研究』(昭和五九年 海秀舎)
⑤早坂
鳳城稿「日蓮本佛論の構造と問題点(一)―恵心流口伝法
・
・ ・
・
「江戸前期に於ける興門の教学は、要山系と石山系に大別する
さらにその中でも、当時の興門教学の特徴性として、
ら日蓮教学宣揚の気風が高揚した時代であったと指摘されている。
代前期として区分され、その時代の宗学意識の特徴が天台学偏重か
、および④『興門教学の研究』
執行海秀氏は、①『日蓮宗教学史』
において、日蓮宗教学史的視点から、日寛が活躍した時代を江戸時
(一)執行海秀氏の評価
・
門との関係を視点として―」
(
『現代宗教研究』第三二号所収 平
成一〇年 日蓮宗宗務院)
⑥早坂
『六巻抄』の構造と問題点(一)~(六)」(『教化
鳳城稿「
二一年)
学論集』一~四号 『現代宗教研究』四二 四三号所収 平成一
三~一六年 二〇
⑦早坂
鳳城稿「顕正会の概要―教義と沿革―」(『現代宗教研究』
第三四号所収 平成一二年 日蓮宗宗務院)
以上が日蓮宗教学史の立場から日寛の教学について論じられた代
― 2 ―
堅樹院日寛教学の一考察
であって、その間に於ける石山系の教学の如きは要山系教学の
が出るまでは、要山系の辰門教学が興門教学の主流をなしたの
がない。また石
要両山に於ても、江戸の中葉、大石寺に日寛
ことができるのであって、其の外の諸山にはその見るべきもの
その思想内容の特徴に関しては、次のように指摘される。
も、日寛が興門派に及ぼした影響の大きさが伺えるのである。また、
石寺の教学を、自らの教学に刷新し体系化したという意味において
されるのである。このようなことから、要山系に風靡されていた大
寺塔頭の圓教院より、辰門の日昌が大石寺日主の譲りを受けて
分流に過ぎない感がある。即ち石山に於ては、文禄三年、要法
こに本迹相対もなお究竟の教判ではなく、その本門も下種の本
寿量と下種の正宗分題目と、種脱の勝劣を分つことである。こ
「日寛教判の特色は、脱益三段と下種三段、つまり脱益の正宗
・
十五代の法統を継ぐに及び、爾来、二十三代日啓に至るまで、
門によって否定されるというのである。これは四重興廃におけ
「日寛が種脱判を立てる根拠として用いているのは、『十法界
・
抄』における四重興廃判である。
(中略)最後の観心の大教のみ
(5)
九代百十余年の間は、辰門系によって継承され、その教学思想
る教観相対の興廃と軌を一にするものである」
れていたのであるが、大石寺においては、十五世日昌より二十三世
とて、当時における興門教学は富士大石寺
が当流の観で、前の三はすべて教門に属して廃せらるべきもの
(2)
においても、辰門教学の流れを汲んだのである。」
日啓までが辰門より輩出されており、日寛が教学を体系化するまで
とするもので、教観相対を究竟とする教判である。いま日寛は
京都要法寺に大別さ
は、大石寺も辰門教学に風靡されていたことを指摘されている。ま
最後の教観相対を種脱と見なし、全ての教は本門といえども脱
益の教で、下種のみが観心の大教であると解するのである」
(6)
た、さらに日寛が出でた以降については、
(3)
「日寛が石山教学を大成するに及んで、従来の石要両山の大勢
『十法界抄』にみられる中
すなわち、日寛における教学的基盤は、
古天台教学の教判論の一つである「四重興廃判」を用いる立場が中
は逆転し、興門教学の主流は遂に石山に帰するに至った。」
「日寛以後においては、要山系中にも日寛教学の影響を受けて、
心となっていることを指摘されている。つまり執行氏によれば日寛
のである。そして、さらに次の指摘がなされている。
教判を立てていることから、観心正意の教学的基盤が存するとする
(7)
日寛教学思想をもって、興門教学の本義とみなす一派が生じた
は、この四重興廃の思想を日蓮聖人の教判として扱い、観心主義の
(4)
のである。」
とて、日寛が教学を体系化してからは、その教学が興門教学の主
流となり、しかのみならず要山系にもその教学が及んだことを指摘
― 3 ―
「本尊に於ては法
茂田井教亨氏は、昭和三九年に発表された②「純正日蓮教学から
(二)茂田井教亨氏の評価
・
尊とは事一念三千無作本有の南無妙法蓮華経であるといひ、
「人
観た大石寺日寛の教学」の論文において、日寛教学について以下の
・
本尊とは久遠元初自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因
ように述べられている。
してこの人
城聖の実践宗学を根幹としていることは周知の事実ですが、教
「現在の創価学会の思想が故牧口常三郎の教育哲学と、故戸田
・
下種の本門の題目となり、人が下種の教主で、本門の本尊であ
学的基本は何といっても堅樹院日寛に負う所であります。」
人 人法一体の三種を分別している。法本
妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」と述べている。而
ると云ふのである。
(中略)従って他門に於て宗祖を上行の再誕
法は体一で不二であるから、三秘の場合には法が
といふが如きは、外用の浅近に執したものであって、未だ内証
すなわち、創価学会の教学は、日寛教学に基づいているというこ
とを指摘されている。そして日寛教学の方向性を以下のように述べ
( (
の深秘を知らざるものであると評している。」
られる。
「日寛は『六巻抄』第一『三重秘傳鈔』の冒頭において、日蓮
(8)
「本果妙の釈尊は脱益の教主で、本地自受用報身如来の垂迹に
過ぎない。然るにいま日蓮聖人は本地自受用報身如来の再誕で
聖人の『開目抄』にいう、
「一念三千の法門は、但法華経の本門
とて、その本尊論が釈迦脱仏を論じ、日蓮聖人を久遠元初自受用
報身如来の再誕として本仏とする説、すなわち「日蓮本仏論」が在
こに求めたことは正しいのですが、その解釈は文意を曲解し、
基本を示しています。
(中略)彼が自己の宗学的思惟の出発をこ
(9)
あって、本仏そのものであると解する。」
することを特徴としてあげられるのである。また、他門流において
自流の都合のいいように歪曲されたものになってしまいました」
( (
寿量品の文の底にしづめたり」の文を引き、彼の宗学的思考の
は従来、日蓮聖人の宗教自覚の表現方法として用いられている、上
来として仰いでいる、とみているということが理解できる。
脱仏とし、末法における救済者として日蓮聖人を本地自受用報身如
四重興廃判を日蓮聖人の教判として扱い、本尊義においては釈迦を
このように見てくると、日寛は中古天台本覚思想に裏付けられた、
行再誕論を破し、日蓮本仏論を標榜していると指摘されている。
のである。さらに、その解釈の問題について、具体的に次の様に述
解釈された、文意にそぐわない誤ったものであると指摘されている
ている。しかも、その文底秘沈理解に関しては、都合のいいように
中心にその宗学的思考を展開し、その教学の嚆矢となっているとし
と、日寛は、『六巻抄』の中で、『開目抄』の「文底秘沈」の文を
(1
― 4 ―
(1
堅樹院日寛教学の一考察
教相から離れたものと解釈するべきではないということを指摘して
ように理解すべきであり、寿量品の経文に即した文意であるとし、
「文上の寿量品は釈尊在世の寿量品で価値がなく、文底の寿量
いる。また、日寛のこのような思考の背景には四重興廃判が存する
べられる。
品は末法の日蓮によって、始めて把握された時機相応のもので
とし、
(
「日寛が「文底」という語句にこだわり、形式的思考に走り、
檀越の富木入道に与えた書簡『富木入道殿御返事』に「日蓮が
「日寛がこの日蓮教学の根本義を見誤ったのは、日蓮聖人から
(
あるという謬見に陥ったのです。」
二種の寿量品が形の上で存在するものとし、文上の寿量品は、
法門は第三の法門なり」とある「第三の法門」の解釈に偏見を
文上と文底の取捨を論じているものとして扱い、寿量品の文底に秘
つまり、日寛は「文底秘沈」を「文上」と「文底」に分別し、文
上、すなわち寿量品は在世脱益であるから意味をなさないものとし、
起こさなかったのですが、大石寺の日寛が独りこれを「四重興
われたものとの解釈が宗門の古来から行われてきて誰も問題を
「第三」とは「三種教相」の第三「師弟の遠近不遠近の相」をい
(
められた観心こそが、末法の世において意味をなすものである、と
廃」の昔 迹
(
在世のものという限界があるように考えてしまったのです。」
解釈していると指摘されるのである。さらに茂田井氏は、この文底
の意であると解したわけであります。
(中略)日寛が「第三の法
持ったためと言わねばなりません。
(中略)そこでいうところの
秘沈の語句の正当な解釈方法として、次のように紹介されている。
門」を「観興本亡」の立場と解し、むしろそれが聖人の本意を
・
・
・
(
とて、『富木入道殿御返事』の「日蓮が法門は第三の法門也」の
「第三」という表現を中古天台本覚思想の四重興廃判の「観興本亡」、
(
観の「観心の大教興れば本門の大教亡ず」
( (
聖人の親撰と見たからに外なりません。」
本
「寿量品が二種あるのではありません。一つの寿量品を媒介と
得たもののごとく強調したのは、上述のように、『開目抄』の
(
してそれを如何に開信するかに問題は懸かってくるのです。」
「文底」の語につまづき、
『本因妙抄』や『百六箇相承』を日蓮
底」という表現になるのです。(中略)ゆえに、この文にいう
(
「文の底」は「見難きをあらわす」という古人(堯山日輝)の解
(
釈が正しいといわねばなりません」
(
すなわち、観心の大教が興ることによって本門の教えも必要がなく
(
(
なる、という思想に基づいて理解しているとし、さらにその問題は、
(
すなわち、日蓮聖人の「本門寿量品の文の底にしづめたり」とい
(1
う表現は、優陀那院日輝の説示の如く「見難きをあらわす」という
(1
(1
(
「寿量品の心を読む事によって可能である世界ですから「文の
(1
(1
― 5 ―
(1
(1
(1
寿量品の文の底の解釈につまづき、現在の文献学的立場から見れば、
の三区分の中、日寛が活躍した時代は三の宗学醞釀時代に当たるが、
城時代」、後期五〇年間を「宗学醞釀時代」と区分化されている。こ
(
聖人の真撰とみとめられない『本因妙抄』、『百六箇相承』を扱って
この時代の宗学意識の傾向として、
(
いることによるものであると指摘されている。さらに、茂田井氏は
・
(
「守城の反動期にして元政 日透等の如き宗学に向ひ発足せる
とて、天台教学が興隆した中期七〇年間の反動期でもあり、宗学
意識が高まった時代であると規定されている。さらに望月氏は、そ
(
これらの教義をふまえた上で、日寛について次のような評価もなさ
時代にして宗学醞釀期とも云ふべし。」
努力を払ってその大成に精進した業績には敬意を払います。」
のような時代に生きた日寛の教学に対し、
「略伝及び著書」、
「種脱相
(
「彼の主著は『六巻鈔』
、
『観心本尊文段』等ですが、特に前著
対論」、「事理三千論」、「顕本論」、
「本尊論」
、「宗祖本仏論」
、「本因
(
のごときは壮年時代に一度書き、さらに死の前年半歳を費して
下種論」、「本門題目論」、
「本門戒壇論」、「成仏論」
、「日寛教学の概
すなわち、茂田井氏は日寛の教学を純粋な日蓮教学を踏襲してい
るとはいえないとしながらも、江戸時代という時代も鑑みて、教学
の体系化が困難であった時代であるのにも関わらず、それを大成し
(
珍奇なもの多し。」
(
「師等石山の教学は概してその法門構成と所用の法相が独断的
として、
再治大成したほど彼の心魂が籠められたもので、体系化される
(
いまでも見事な体系をもった労作であります。」
(
評」の一一項目の視点から詳細に検討されている。そしてその結果
「江戸の中期に出た日寛が、石門教学の不振をかこち、畢世の
れている。
(2
ことの稀れであった当時の宗学界に、純正日蓮教学とはいえな
(2
との厳しい評価を加えられるのである。このような望月氏の評価
は、前述の一一項目にわたる詳細な考察の上からであることは言う
ところであるが、執行氏によると、望月氏は、宗義の根底を顕本論
のようである。それは執行海秀氏が本書の解説において指摘される
までもないが、望月氏が特に問題とされるのは顕本の問題について
(三)望月歓厚氏の評価
に求められたとされ、かかる立場を主軸とし、日寛教学において特
(
望月歓厚氏は、③『日蓮宗学説史』において、天文法難より享保
(
の時代までの一八〇年間を大きく、
「講学論議時代」と規定され、そ
徴的な宗祖本仏論に対し批判を加えられるとされている。望月氏に
(2
― 6 ―
(2
の中でも前期六〇年間を「宗風一風時代」、中期七〇年間を「興学守
た日寛の宗学への思いを評価されている。
(2
(2
堅樹院日寛教学の一考察
論の特徴を有する日寛の教学であるが、具体的な本尊の実態論とし
寛の顕本論の特徴の一端が伺えるのである。では、このような顕本
「
(日寛の)顕本論が詮顕せんとする所は自受用身たる本因妙教
ての宗祖本仏論とはどのような構造を持つものであろうか。その問
よる日寛の顕本論の問題は、管見の限り次の指摘に集約される。
主日蓮にあれば、本迹論も三千論も顕本論も本尊論も皆同一目
(
題について望月氏は次のように述べられる。
(
的を顕す。能顕の異れる方法たるに止れり。」
に首を刎ねられ、此は魂魄佐渡国に至るといふ(開目抄下)が
「宗祖自ら、日蓮と云いしものは去文永八年九月十二日子丑時
この指摘によれば、その特色は本因妙の教主としての日蓮聖人を
顕す所を目的とし、そうであるならば本迹論、一念三千論、顕本論、
故に、その魂魄とは久遠名字の本仏の魂魄なり。故に佐渡は再
(
本尊論においても、所詮は本因妙教主としての日蓮聖人を顕す事に
誕の日蓮にあらずして本地自受用身の日蓮なり。」
と、日寛は龍口法難を契機として日蓮聖人が久遠名字の本仏を顕
わされたと見ている、と指摘されるのである。すなわち、この法難
(
帰結するとされるのである。このような望月氏の顕本論に対する立
「由来、顕本論は仏格を規定すべく論ぜられる。而して佛は救
を日蓮聖人の発迹顕本の時であると見なし、本因妙教主としての日
場は、
『日蓮教学の研究』においても次のように説示される。
主であるから、本尊論と顕本論とは不離直接の関係を有する。
(
蓮聖人が表明されたと見るのであろう。ここに日蓮本仏論の構造の
(
「かくて実際的本尊は宗祖本仏を中心としたる末法の三宝なり。
(
る久遠実成の釈尊という存在が、そのまま我々の救済主になるので
(
結要付属の開山日興は即ち僧宝なり。」
つまり、日寛の顕本論で顕される仏格が、本因妙の教主としての
と、日蓮本仏論を中心とした独自の三宝論を立て、末法衆生の救
も広がるであろうという指摘である。ここに望月氏が指摘される日
日蓮本仏論の思想へと展開し、加えて救済論としての一念三千論に
済論を説いていると指摘されるのである。
るという指摘である。
自受用身の日蓮を仏宝とし、無作本有妙法曼荼羅は即ち法宝、
に、
一端が確認できるのである。そして、そのような本尊観であるため
即ち顕本論上の佛格はそのまま本尊の本主とならねばならぬ。」
(2
あるから、我々が尊崇すべき本尊と不離の関係になるべきものであ
すなわち、望月氏によると顕本論とは、本門寿量品によって顕現
されるところの仏格を規定する事にその本質が存し、そこに顕され
(2
日蓮聖人であるならば、それはそのまま本尊論の問題とも結びつき、
(2
― 7 ―
(2
(四)早坂鳳城氏の評価
・
いることを指摘されるのである。具体的には日蓮本仏論の思想とし
つまり、中古天台恵心流で使用されていた教義と、日寛の説示が
類似することを示し、日寛教学の母体に中古天台本覚思想が存して
等の日蓮本仏論を標榜する教団の思想が日蓮宗の教義と異なる、と
て、
現代宗教研究 日蓮宗教化学という視点から、創価学会や顕正会
いうことを指摘し、その教義究明のため研究を加えられた人が早坂
ハ
テ
テ
ノ
ヲ
「周知の如く、日蓮本仏は久遠元初自受用報身佛と表現される
ト
鳳城氏である。早坂氏の日寛研究に関する代表的な研究は、⑤、⑥、
ス
スル
ところであるが、『一帖抄』には「自受用報身如来。ン以 顕
ンイ 本
ト
⑦の論稿である。早坂氏は、⑤「日蓮本佛論の構造と問題点(一)
ノ
為 正
ンイ 意 也
ンア。」と見え、また『二帖抄』巻下に、「以 報
ンイ 身 自ン 受
ヲ
スト
―恵心流口伝法門との関係を視点として―」において、
(
」などとみえる。自受用報身をもって
用 為アン 顕イン 本正意
ン 相アン 伝 也ン 。
(
「日蓮本仏論の思想的基盤には、恵心流中古天台口伝法門に依
(
本佛とするのは、まさに中古天台の口伝法門の焼き直しに過ぎ
ないのである。」
(
拠するところが多いことは夙に指摘されているところである。」
と、日寛の思想的基盤には中古天台本覚思想が存することを指摘
されている。そして、日蓮本仏論が依拠したであろう、中古天台の
『本因妙抄』などに見られる「久遠元初自受用報身佛」とい
とて、
う標語は、すでに中古天台の口伝書に見られるところであり、釈尊
れるのである。そして、このように日寛教学の背景に中古天台本覚
考であることを指摘し、中古天台教学の亜流であると批判を加えら
る思想は、中古天台本覚思想に特徴的な、麈点仮説論と共通する思
を実説であると見なさないこと、久遠の概念に初めを求めようとす
本佛という思想は、久遠元初などの標語、そして釈尊の五百麈点劫
ある。すなわち、早坂氏が指摘されるところは、日寛が唱える日蓮
で捉える見方であり、法身正意に基づく思想であると指摘するので
いう概念で見なさず無始に始めを求める、久遠元初という時間概念
口伝として、
『一帖抄』
、
『蔵田抄』、
『二帖抄』、
『二帖抄見聞』、
『等海
)
の顕本に際し、その永遠性を表明する五百麈点劫の説示を、無始と
( (
(
ンア
― 8 ―
(3
(3
口伝抄』等をあげられ、中古天台恵心流の口伝法門と、日寛の説示
石山教学(日寛)
文底勝文上
寿量品の文底
自受用報身(日蓮)
七箇の大事
切紙相承
本因妙の教主
唯受一人秘すべし
五百億塵点当初
との関連性を整理され、結果次のような図を記されている。
中古天 台 ( 恵 心 流 )
止観勝法 華
寿量品の 内 証
自受用報 身 ( 天 台 )
七箇の大 事
切紙相承
本因行の 能 化
嫡流一人 秘 す べ し
五百塵点 最 初
32
(3
堅樹院日寛教学の一考察
その後は化主まで任していることから、この説示は妥当ではない。
ら、このように言われたものと思われるが、日寛は細草檀林に学び、
「日蓮本仏論の成立の背景は恵心流中古天台口伝法門の影響だ
しかし、日寛の説示と仙波檀林で学ぶ中古天台本覚思想の類似性に
思想が存する影響の理由について、次のような指摘をされている。
と言う話に戻りますが、当時の興門派の中で大石寺派は一番の
ついては、重要な課題であると思われる。
以上、四氏の先行研究を確認しつつ、日寛教学の評価について確
認してきた。これの考察を通して理解できたことを、ここであらた
めて確認してみたい。
・
研鑽の場であったとされる。しかもその勉学内容は、中古天台本覚
台宗星野山無量寿寺のことをさし、中世における代表的な仏教教理
間郡仙波郷(現在の埼玉県川越市小仙波にあたる場所)にあった天
釈迦脱仏等の思想を学んだと
とて、仙波檀林において天台本仏
いうことを指摘されている。早坂氏がいう仙波談林とは、武蔵国入
派に及ぼした影響の大きさが知られるのである。
し、大石寺の教学を体系化したという意味においても、日寛が興門
大石寺は要法寺の教学に風靡されており、それを自らの教学に刷新
高揚していた時代であったということ。また、日寛が出るまでは、
・
思想が中心となっており、早坂氏は日寛がこの檀林へ行き、その修
そして二に教学的な特質については、日寛の宗学態度は中古天台
本覚思想に特徴的な、教相を離れた観心に重点が置かれているとい
釈迦脱仏」と
四、日寛教学の特質
弱小教団でした。他の興門教団は、時の政治権力を背景として
どんどん教団を拡張していた時期でした。そこで堅樹院日寛は、
何とか教団のオリジナリティーと教学の体系化を計りたいとい
うことから仙波の檀林に行った。当時勝劣派には檀林がありま
せんでしたので、後々細草檀林に行くわけですけれども、先づ
( (
天台宗の仙波檀林に行った。そこに「天台本仏
いう考え方があった。」
学内容を学んだものと指摘されるのである。
わない「文底の観心」に重を置き、日蓮聖人を本因妙教主の本仏と
まず一つには、日寛が生きた時代は「宗学醞釀時代」と規定され
るが如く、従来の天台教学中心の思想から、日蓮教学宣揚の気風が
しかし、日寛の生涯についてはすでに考察したところであるが、
( (
日寛が仙波檀林で学んだという事実は確認できない。日寛が学んだ
して仰ぐという思想は、理顕本的な発想に基づくものと言えよう。
( (
檀林は興門と八品派の合同で運営されていた細草檀林である。早坂
ところで、このような観心主義と日蓮聖人の思想をめぐる問題は
うことである。とくに、寿量品の文上
氏は前掲の表の如く、中古天台文献と日寛の説示が類似することか
(3
・
文底とを区別し、実態の伴
― 9 ―
(3
(3
聖人滅後、間もない頃から論じられ、特に明治以降、島地大等氏に
思われるが、前述した通り、扱う御遺文の問題、そしてそこに見ら
ら、その教学を成立されている、と結論づけることができるように
(
よる「日蓮宗は四重興廃を以てその法門の枢要となす」との指摘に
れる思想的な問題を、日寛はどのように摂取し理解していったのか、
(
よって、喧しく論じられてきた。私の管見では、日蓮聖人の真蹟現
ということについて更に検討を加えなければならないと考えている。
・
・
・
(
注
曾存を中心とした御遺文から導き出される聖人の信仰は、涅槃
存
経如来性品に説かれる「依法不依人」に立脚されており、そこには
経典から乖離させた観心への信仰は無いと理解している。もちろん、
( (
現代においては日蓮聖人遺文に対する文献学的な研究が進んでおり、
『日蓮聖人遺文真蹟集成』等によって、我々が日蓮聖人の真蹟を披見
し、研究活動を行うことができるようになったのは近年のことであ
る。日寛が活躍した、江戸時代前期という時代においては、おそら
く御遺文は刊本録内 録外御書を扱っていたものと思われるが、そ
れらに収録される遺文を全て是とし、日蓮聖人の思想信仰を学び、
敷衍するという方法は現代の文献学的視座から見れば妥当ではない。
(
このことについては浅井要麟氏が『日蓮聖人教学の研究』において
詳細に検討されているところであるが、日蓮聖人の宗教を考えると
・
思想的問題が大きな課題となっているという
(1)執行海秀著『日蓮宗教 学 史』(昭 和二七 年 平楽 寺書店) 六― 七
頁 二七五頁
(2)
『日蓮宗教学史』二六七頁
(3)
『興門教学の研究』三二二頁
(4)
『興門教学の研究』四頁
(5)
『興門教学の研究』二二一頁
(6)
『興門教学の研究』二一九頁
(7)この問題は、拙稿「四重興廃判に関する一考察―先行研究を中心
として―」
(
『日蓮教学研究所紀要』第三六号所収 平成二一年 日
蓮教学研究所)において検討した課題であるが、中古天台本覚思
想にみられる四重興廃の教判は、日蓮聖人遺文中、偽疑の問題の
ある遺文にのみに見える思想であり、また思想的にも四重興廃判
の如く昔迹本観と興廃を論じるという、経典軽視の思想は聖人の
真撰遺文からは看取できないということを確認している。
(8)
『日蓮宗教学史』二七八頁
(9)
『日蓮宗教学史』二七八頁
( )
「純正日蓮教学から見た大石寺日寛の教学」一一六頁
( )
「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一八頁
( )
「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一九頁
( )
「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一九頁
( )
「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一九頁
14 13 12 11 10
(3
・
叙上の考察によって、日寛の思想は中古天台本覚思想における観
心主義的な思考や、口伝 秘伝を重んじる伝統的大石寺教義の上か
五、おわりに
ことに、あらためて気づかされるのである。
き、御遺文の文献的
(3
― 10 ―
(3
堅樹院日寛教学の一考察
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
)「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一八頁
)『昭和定本』五三九頁
)なおこの出典についてであるが、優陀那院日輝著「文底秘沈決膜」
(『充洽園全集』第二編収録 三七五頁 昭和五〇年 大東出版社)
チ
ハ
ハシ
キヲ
ハ
ス
ヲ
ル
」と
に、「則秘ン沈之言。ン顕 其
ンイ 難 見
ンナ。文底之言。ン示 義
ンイ 之所 存
ンナ也ン。
みえる。
)「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一二〇~一二四頁
)
『昭和定本日蓮聖人遺文』一五八九頁。この「日蓮が法門は第三が
法門也」という表現に関しては、日蓮聖人が三種教相の第三であ
る「 師 弟 の 遠 近 不 遠 近 の 相 」 の 立 場 に 立 た れ る こ と を 表 明 す る 文
である。すなわち、本仏と本眷属の関係が、
「師弟ともに久遠」と
いう事があらわされることによって、釈尊の化導の常住性があら
われることを指すのである。つまり、日蓮聖人のこの表現は、如
来寿量品を中心とした本門法華教学に立たれるという立場を表明
したもの で あ る 。
)「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一七頁
)「純正日蓮教学から観た大石寺日寛の教学」一一七頁
)『日蓮宗学説史』三一七~三二〇頁
)『日蓮宗学説史』三二〇頁
)『日蓮宗学説史』六四九頁
)『日蓮宗学説史』九九一~九九二頁
)『日蓮宗学説史』六二二頁
)望月歓厚著『日蓮教学の研究』
(昭和四四年 平楽寺書店)三九七
頁
)『日蓮宗学説史』六三〇頁
)『日蓮宗学説史』六三二頁
)島地大等著『天台教学史』
(昭和八年 中山書房佛書林)一三五頁
) こ れ ら は 口 伝 法 門 で あ る が、 鎌 倉 末 期 か ら 室 町 時 代 に 文 献 化 さ れ
たと言われており、『天台宗全書』第九巻(昭和四八年 第一書
房)に収 録 さ れ て い る 。
)早坂鳳城稿「日蓮本佛論の構造と問題点(一)―恵心流口伝法門
(
(
(
(
(
(
(
との関係を視点として―」一四四頁
)早坂鳳城稿「日蓮本佛論の構造と問題点(一)―恵心流口伝法門
との関係を視点として―」一四〇頁
)早坂鳳城稿「顕正会の概要―教義と沿革―」一四七頁
)仙波檀林に関する先行研究は、北川前肇稿「行学院日朝の研究―
仙波遊学について―」
(『印度学仏教学研究』第二二巻二号収録 昭
和四九年) 小野文珖稿「仙波と日蓮門下との交流―《関東天台》
と関東日蓮教団」
(浅井円道編『本覚思想の源流と展開』収録 平
成三年 平楽寺) 渡辺麻里子稿「仙波に集う学僧たち―中世にお
ける武蔵国仙波談義所(無量寿寺)をめぐって―」等がある。本
稿においてはこれらの先行研究を参考とし、仙波檀林の特色を確
認した。
)拙稿「堅樹院日寛伝の検討」(
『日 蓮 教 学 研 究 所 紀 要』 第 三 八 号 所
収 平成二三年 立正大学日蓮教学研究所)
)
『天台教学史』五一四頁
)日蓮聖人真蹟集成法蔵館編集部編『日蓮聖人真蹟集成』全十巻(昭
和五一年 法蔵館)
)浅井要麟著『日蓮聖人教学の研究』(昭和二〇年 平楽寺書店)。
浅井氏は、本書の前編「祖書学概論」において、五百余篇に及ぶ
日蓮聖人遺文中に見える思想的 歴史的矛盾を指摘し、御遺文研
究に対する方法の問題を提起している。その結果、
「祖書学」とい
う研究方法を提示され、御遺文に対する思想的 文献的研究の必
要性を語られている。
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