Page 1 Page 2 クリスタ ・ ヴォルフ ニ 「場所はない。 どこにも。」 (昭和59

九州工業大学学術機関リポジトリ
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クリスタ・ヴォルフ : 「場所はない。どこにも。」
宮島, 隆
1985-03-30T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3478
Rights
Kyushu Institute of Technology Academic Repository
155
クリスタ・ヴォルフ:「場所はない。どこにも。」
(昭和59年11月30日原稿受付)
工学部第二部(独語)宮島 隆
(1)
1979年のことであったが,私はクリスタ・ヴォルフに関する素朴な質問をする機会を当
地で得た。彼女の「引き裂かれた空」から「幼年期の構図」に至る文学的過程に興味を覚
えたのであるが,それは作家としての方法論上の問題と出版・表現の自由ということで
あった。ライプッィヒ大学のH・ダールケ教授は,DDRでは出版・表現の自由は保障さ
れていることを断言しながら,「クリスタ・Tの追想」に関しては,否定的であった。そ
れは主観主義すぎる美学的態度と,客観的な,つまり教育的効果のこと故だったと思う。
期待を込めて「引き裂かれた空」の様な作品は書かないのだろうか,という質問に,彼女
は一週間前にここに来ていたのに,と笑いながらの答えであった。昨年の夏,J・ベッ
ヒャー研究所のF・アルプレヒト教授に,再度逢う機会をもった時に,似た様な質問と
ヴォルフの作家としての地位について訊ねたのであった。正確を期すことは,後で手紙を
貰ったのだが,彼女がすでにそれはSEDの中央委員候補ではないことは,然りであるこ
とであった。さらにF・フユーマンと共にDDR作家会議の幹部会員でもなくなったこと
だった。そして「クリスタ・T」に関しては,この書の公式の評価は,「ドイッ文学史第
11巻」(Volk und Wisssen,1976.)のS・547を呼んで貰いたいことであり,この作品は
時に応じ版を重ねているということだった。寒風吹きすさぶ厳冬に,ビァマンのことも思
い出し勝手にヴォルフの運命を案じたりした頃のこと,F・メーリング書店で「場所はな
い。どこにも。」の初版を手にしたのが1979年でもあった。
(2)
1983年の「新ドイッ文学」(NDL)の10号の「時代の諸層」で,クリスタ・ヴォルフ
はアンナ・セーガースの「死んだ少女たちの遠足」にふれてこう云っている。
「このクラスの遠足目的の場所がどこであるかは,我われは知らない。女流詩人カロ
リーネ・フォン・ギュンダーローデが,1806年自ら死んで行ったラインガウのあの地,
ヴィンケルだったのではなかろうか?」1)
ヴォルフによれば,ゼーガースはギュンダーローデのこととその運命とを知り,また,
たびたび言及しており,彼女の死と遠足に行く少女たちの恐るべき死とを関連づけている
様に思われるのである。現代の歴史を省みると,精神的・芸術的な営みをする人間たちが,
生き難い生活を眼前にして,その時から「盲従,自己難行苦行,ショーヴィニズムと搾取
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についての」2)あの独特のドイツ的妄想の,国家社会主義(ナチ)において頂天に達し
た所産である運命の糸に操られたのである。ゲシュタポにであれ,ナチス親衛隊の高官に
であれ,マリアンネやレニーの様に友情と愛を脅かされたという事実は,友人ザヴィニュ
イや愛人クロイツァー教授を失ったというギュンダーローデの運命を連想させたのである。
そしてこの物語る態度は,遙かに過去に遡りながら「書くという時点では,殆どユートピ
ア的存在に思われるに相異ない未来に道を開いたま・でいる」様に思われ,自分の祖国で
大ていの人びとをたぶらかし,ゆがめられた「リアリティ」の中へ眩惑させられている層
に対し,歴史,神話,メールヘンと伝説の中から創造された確証された現実を対置するこ
とを,セーガースは止めないのである。古代の構造・生活様式が,或はメールヘンの効果
が,現代の産業化された時代の,彼女が自覚する危機の時代の人間を,どのように動かし
得るかという問題は,多くの詩人の共通の課題である。クリスタ・ヴォルフはこの論文の
冒頭にゼーガースの次の一文をモットーとしている。
「私を今感動させて,物語りたいことと,メールヘンの世界の多彩なあやと。この二つ
のことを本当に統一させてみたいのだが,どうしたらいいのだろう。」4)
メールヘン的なものとリアリステックなものとを,より精確に規定しようとすればする
程,独特の形象で描写することは困難だと云っている。セーガースはその境界を特に意識
することなく,様ざまな世界の間を往来し,どの経験領域にも神話的なものによる独自の
光を当てて,それを深化する。「ネティ」が本名である作家ゼーガースが,「死んだ少女た
ちの遠足」の中で,別のネティに宗教的・メールヘン的なことへの共感を語らせているの
みならず,他の諸作品にも神話的・メールヘン的なものとリアリステックな世界との間の,
すなわち未来と現在との間の弁証法的創作態度とその精神的風土とが散見される。ヴォル
フは「彼女の散文の特徴は,融合である。」5)と規定し,彼女との対話でのゼーガースの
言葉をこう引用している。
「数千年このかた,芸術の基本的諸題材はそう変わるものでなく,それらが多様化して
いるだけです。」6)
かって,ゼーガースは「太古のメールヘンの容易に心にはいる」7)力について語った
が,彼女にとって,日常の生活心情に沈潜し,浸透する力を正しく理解するならば,相異
する時代層を結びつけたいという彼女の憧れは,本来的に人間的なもの永遠なるものに向
けられていた。そしてこの作品の中では,このメールヘンの援助により,法外で救い難い
現代を言葉で呪縛することに成功したのである。
クリスタ・ヴォルフもまたこのライン旅行の描写で終わる物語りを案内人として,新た
に再建されたマインッのプラタナスの並ぶラインの岸を歩いて,ゼーガースの育ったレー
リング家の跡を訪問した。しかし既に今日では,「これらの体験も映像も私の心からすっ
かり色槌せてしまった。でも彼女がこの物語で書いた人びと,運命,風景と感情といった
ものが,読むことによって彼女だけのものではなくなり,私の心に鮮明に親近さを感じさ
せてくれるのである。この例にならってアンナ・ゼーガースが残した『線』を追ってみた。
そしてそれらのものは,違った方法で別の物語の中で再び現われるだろう。」8)(1983年
5月.)と結んでいる。
こうしてクリスタ・ヴォルフは彼女の物語,「場所はない。どこにも。」をゼーガースの
クリスタ・ヴォルク:「場所はない。どこにも。」 157
作品とその創作方法をかりて,自己の作家・芸術家としての方法の可能性を,擁護iしたい
のであろう。
(3)
クリスタ・ヴォルフは「場所はない。どこにも。」(“Kein Ort. Nirgends”1979)9)と
いう作品で,ライン河畔・ヴィンケルにて,ハインリヒ・フォン・クライストと女流詩
人カロリーネ・フォン・ギュンダーローデとを逢わせている。共に才能豊かで多感でもあ
り,共に生きる場所を見失い自ら死を選んだことに,この作品の表題が由来する。その後
半にこのモチーフがこう語られている。
「自分に相応しいだろう現世の存在に向けた希望を,彼が放棄した時に現れた安堵の気
持。最早,生きられぬ生だ。場所はない。どこにも。
彼は自分の全身の最も深いところまで,地球の回転の動きをしばしば感じるのである。
いつか彼はこの限られた地球の縁からはじき出されるのだろう。もう彼はかすかに隙間風
を感じている。」10)
この作品の批判の中でナレヴスキイは,かって今世紀初頭,リルケの中にも「芸術のこ
とどもはつねに,危機の中に居たことの体験であり,人間これ以上進めない縁にまで来て
しまらたことの体験である。」11)というモチーフが語られていることを指摘している。
作品の登場人物は二人の外に,彼女の友人ベッティーナ・フォン・アルニム,法律家
フォン・サヴィニュイ,クレメンス・ブレンターノとウルリーケ等の婦人たちであり,こ
れらの人物による対話が,意見交換の形である裕福な商人の家で展開される。しかしここ
でも先の「クリスタ・Tの追想」(1968年)や「幼年期の構図」(1976年)と同様に,作品
の中で或る劇的事件とかストーリーでもって,読者をひきつけるものではなく,重要なも
のは諸人物の内面的な営みであり,不安,憧憬とか疑念等の人間を悩ます生の問題につい
ての解答を模索することである。そして先の作品でも忠実に行使されたヴォルフの云う詩
的原理・「主体的な確証」(die subjektive Authentizitat)12)のことが指摘される。それは
極めて主観的ではあるが,決して恣意的なものではなく,作家が場合によっては作品との
距離を置くことではなく,「作品の中に居るということ」(das Inmitten−Sein, die
Anwesenheit)であり,「参加すること」13)(Mit−zu−teilen),である。このことは出来事
に対する作家の態度伝える現実的な主観性のことで,かってヴォルフ自身が名付けた「作
家の第四次元」14)(die vierte Diemension des Autors)であり,現代の散文に不可欠だ
としている。さらにまた,プロローグ,エピローグ,省察や体験の領域に関連づけて,情
緒的な映像の中で,主観的で拝情的な価値判断をさそう要素が,その態度に込められてい
ると説明される。参加するという意味は,ヴォルフの場合作家のみならず自己発見の過程
として,読者にも要求され,緊張感を禁じ得ない所以である。
現代の歴史的過程で如何なる態度を社会から要求されているかという問題は,凡ゆる作
家の共通の課題であったが,最近の二十年間の世界史の変遷の中で,新たに生じた予期せ
ぬ問題は,作家に新たな解答と違った時代意識とを追るのである。かかる観点で二人の女
流作家ゼーガースとヴォルフを対置し批評したジークリート・ボック15)によれば,「場所
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はない。どこにも。」は,ゼーガースの「旅の出会い」16)(Die Reisebegegnung.
1972)を手本にしたものである。E.T.A.ホフマンとゴーゴリとカフカが,プラハの喫茶
店での奇妙な出会いの中に文学論争を盛り込むという構成である。これらの人物の対話が
この作品であるが,誰が話しているかという引用の構成が容易に認識され,現実とは何か,
リアリズム芸術とは何かという問題に向けられていることも明白である。難しいのは誰も
が真のものと現実のものとを別のものと解し,この二つのものを,あからさまで現実的な
もの,見えるもの,つかめるものとだけ解釈している。引き合いに出された行動の個々の
モデルを確認し,強調し,評価するために,作家は経験の鎖をたぐり,第四の人物として
の役割を演じるのである。その結果読者は,相異した信条の特性を確認し,自ら真実の内
容を問い,確かめるのである。歴史の経験は,ゼーガースにとってリアリズムの描写方法
として,有効で利用可能なものを,読者の理解のために提供するのである。彼女は,読者
が自ら判断を下し得る様に,世代の間の仲介者としての役を果たす。空想・非現実・伝
説・メールヘン等は,芸術家が書くことを,読者が心得ている場合に,リアリズムの手段
とすることができる。「われわれは出口を探さなければならないんだ… 囚人が人から
人への一つの使命を伝えるために,壁の中に割れ目を探すように。」17)
クリスタ・ヴォルフの方法はどうであろうか。彼女は素材から現在思い浮んだま・のも,
のを,最初から作品の中に持ち込んでいる。
「時が私たちから去りながら残していく,意地悪な痕跡。君たち先行者よ。靴の中の血。
主のない視線。主のない言葉。実体のない姿。天へ向かって去り行き,遙かな墓場での離
別,死者たちからの蘇生,私たちに罪ある者に対する変わらぬゆるし,悲しい天子の様な
忍耐力。私たちは,言葉の灰の様なむなしい味を,相変わらず渇望する。が,私たちの心
を満たすものは,更に何もなく,沈黙のみだ。
どうか云って下さい。ありがとう。
どういたしまして。ありがとう。
何世紀も前の笑声。ものすごい幾重にもくりかえす山彦。そして疑念が,現れ来るもの
はこの反響だけ。しかし,偉大なものだけが法にそむいた誤りを許し,罪びとと和解する。
或る人が,クライストが敏感な耳でこれに驚き,のぞきみてはならない口実で逃れようと
する。彼はぼろぼろのヨーロッパ地図に,自分の通ってきた道をあてもなく書き込んでい
る様だ。自分が未だ行ったことのない所,そこには幸せがある。18)
狭い所に呪縛されている様な婦人,ギュンダーローデは熟慮し,燗眼で,過去に煩わさ
れることなく,不死なるものに関心を向け,見えるものを見えないものの犠牲にすること・
を決意する。彼女は好都合の伝説に遭遇したかの様である。ライン河畔のヴィンケルで,
と私たちは思う。相応しい場所だ。
1804年の6月。
誰が話すのだろう?」19)
この中には明らかに,聖書からと思われる言葉が見られるが,ヴォルフにとって聖書は
古いメールヘンの世界である。そして現在のことを関連づけるために,「私たち」(Wir)
を登場させている。このプロローグの中の言葉,意地悪,沈黙,疑念,笑声等は以下に続
く物語の中でのこれらに対する作者の内面的葛藤を暗示したものである。併記された言葉
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に対する,ナレヴスキイの解釈20)は次のようだ。「靴の中の血」とは,メールヘンであり,
現実であり,歩み行く人に課せられた傷と芸術の破壊とが込められている。「主のない視
線,主のない言葉」は,持続的出会いと語り,見出すこともない観察返答のない呼び掛け
とが,無限の空間に残されたままだという心象である。「実体のない姿」とは,想像が我
われに向ける所産で,消えかけたり成長したりしながら幻影として残るものである。「天
に向かって去り行く」ことは,天上と地上との往来の過程で,呪説の念が救済されること
であり,「遙かな墓場での離別」の後の,現世的なものであろうとも。過ぎ去ったものを
呼び出し,理解しようとする我われが,伝えられた凡ゆる言葉の「灰の味に渇望してい
る」とは,どうして起こるのか?しかしながら,過ぎ去ったものから残された「痕跡」残
された「灰」から我われが求め聞き出すものは,「沈黙」のみなのである。そしてこれら
の深淵の間に,「ありがとう。どういたしまして」という礼儀正しい挨拶が,呼吸する様
に,2D生の証として挿入されている。そして「何世紀も前の笑声」とは,楽しみから出
た笑いではない。世界を知り,自己探求の過程での忍耐と克服といったものから出る苦に
がしい種類のものである。ヴォルフは終末近くにこう書いている。
「何故人は笑うのだろう。決して喜びからではない。悲しみから泣くことをすぐに止め
る様に,私たちを襲ってくる全てのものに対し,この様な笑い方をするのだろう。どこま
で行くのか,地獄の笑いが私たちについてくる。」22)
そしてこの笑声の反響の様に,「疑念」が湧き上ってくるが,それには「偉大さ」の
「しかし」(Aber)が対置され,「法に対する誤りをゆるす」働きをするというのである。
ヴォルフがこの作品に,クライストとギュンダーローデを登場させた理由は,共通の天
逝に至る過程での,生活環境や心的素質は異にするが,本質的な近さを二人の中に感じ
取ったからである。
革命後のパリから帰って来たクライストは,マインツで重病で挫折し,同時に彼の体験
は,彼の人生観・世界観を根底から破壊した。自由を失ったパリでは,ブルジョアジーの
みがよい暮らしをしていた様に,ブルジョア的な年金生活や官吏職は,彼にとって耐え難
いものであった。
「非道徳だ!それが何を意味しているか,人びと、は知らないのだ。彼は知っている。人
生に負い目を感じたま・でいること,それが何を要求しているかを。… 真の人生を感
じることは,書くことによってである。… 彼の状態はそのことさえ,彼に考えさせる
ことを許さなかった。死に近づきこの義務感は消えている。生きるために生きているの
だ。」23)ドラマ「ロベルト・ギスカール」の中で,古きものと新しいものとの長所を統一
する,という計画を断念し,彼は草稿を火中に投じたのである。しかし彼は,自分の運命
を引き裂くものにこそ,献身する以外に道はないことを知っていた。「凡俗なるものの喜
びを拒否すること,単調で,中間的・調和的な生活への願望を拒絶することが,憧憬の意
味である。」24)彼にとって救済される道とは,憎むべき征服者ナポレオンの打倒である。
ギュンダーローデの中にヴォルフは,社会の中で独立していない,孤独な婦人の地位を
見ている。彼女は貴族であるが,貧しく,臆病な修道女である。社会の婦人の問題は,
ヴォルフの一貫したテーマでもあった。ギュンダーローデも女性であるが故に,拘束され
た存在である。
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クライストは伝う。「自然が人間を男と女に分けたことが,私をしばしば耐え難くする
のです。」ギュンダーローデはこう答える。「クライストさん,あなたはそうじゃなくて,
あなた自身の心の中で,男と女が敵対的に対立していると思っていらっしゃるのでしょう。
私の心の中の様に。」25)
こうした対話がクライストやギュンダーローデの個人的生活,作家としての実践につい
て交わされ,吟味されながら,最後に次の箇所へ到達する。
「相も変わらず無意味な理念の数かず。そのように,人類が活動的なものと思考的なも
のへ,分裂していくことに,私たちも手をかしている。行動それ自体をずたずたにしてし
まう人びとの行為が,どうしていよいよ考慮に値しないのかということに,私たちは気付
いていないのか?実践なき人びとの詩は,行動している人びとの目的に,どうしてますま
す相応しいのか?’現実的な行動には順応できない私たちが,日常の仕事が誰もから要求す
る,極めてささいな承認にすら応じられずに,この世では満たすことが不可能な要求の中
で,つまり活動の最中でも,自分自身を見失わないでいるという要求の中で,がんじがら
めのま・で,嘆き悲しむ,めめしい女性になることを,私たちは恐れなくていいのか?
誰が話すのだろう?」26)
この間は作者ヴォルフによって,作品のプロローグでも発せられたものであった。誰が
話しているのか?勿論,物語り,道を探り発見しようとするその人であり,自己変革のた,
めの助けを,憧憬の念をもって求めるその人である。しかしゼーガースとは逆に,解明と
いうことに対しては沈黙のま・でのモノローグである。
ナレヴスキイはこう評している。「自らの中に矛盾を心得ている自己対話。… 声が
見出した合意と,見出されないま・の対立物である現実との差は,何と大きく強烈か。語
り口調はいたいたしく,きびしい。誰が聞くのか?最初のページから当惑させられた読者
である。… 凡ゆる動的なものは,思考による省察の中に押し込められている。」27)こ
の様な方法はヴォルフが目的とした所で,読者はクライストやギュンダーローデの著書や手
紙の中から選び出された背後の意味を,注意深く読み取り,感じ取らなければならない。
そしてユルゲン・エングラーの言葉によれば,「ティー・サロン」でのかって孤独を感じ
ていた人びとの省察の言葉の中に,ヴォルフの確信が感じ取られるのである。が「場所は
ない。どこにも。」は,「思惟と告白の文学である。常に作者が参加している。」と云って
最後にゲーテの「格言と省察」のアナロギーに関する文章を引用しながら,ヴォルフの態
度は,アナロギーのあやに支配されすぎることを指摘している。28)風景や心象のたくみ
な描写は認められるにしても,彼女におけるリアリズムの「美学主義」とでも呼ばれるべ
きものに偏するところは,ゼーガースと対照的であり,理解を困難にさせている。この作
品の最後に次の文章が見られる。
「凡ゆる時代の精神に,厳格にさからっていく人間は,自ら完成すると定められている
という私たちの根絶されない信仰。」29)
この文に対しエングラーは,「従って,モラル,性欲と人間的な実践に対し,歴史的・
人間的進歩に対して期待することは矛盾している。」 と述べているが,ナレヴスキイは,
「ここに道徳性,人間性への強制が告白されている。」と云っている。先に引用された
「活動の最中でも,自分自身を見失わないでいる」という文に対し,エングラーは何故い
クリスタ・ヴォルク:「場所はない。どこにも。」 161
けないのか,と疑問をはさみ,ナレヴスキイはこのことがこのノヴェレの目的だろうか,
と云っている。さらに彼はこう結論づけている。
「どの客観化する物語り方に反し,またゼーガースの語り方に反しての厳密なアンチ
テーゼが考慮され,主体的確証のプログラムが,先ず芸術的個性化への一歩として歓迎さ
るべきことは認められるとしても,この過激な反対の立場が,独自の可能性を更に限定し
てしまうときは,今後検討さるべきだろう。そして老ゼーガースは現代の作家の態度の例
として,歴史との交互作用のための提案をした。その殆ど比喩的な要素が,『隠れ家』と
いう物語の中で試みられている。」エングラーにいたっては,「場所はない。どこにも。」
という作品の「とどまるべき場所も,また,どこにもない。」30)と断定した。
「引き裂かれた空」(1963)の当時の高い評価を知る者の,幻滅と焦燥感とヒステリッ
クな反応も理解出来ない訳ではないが,ファシズムを若い世代で体験した彼女が,新しい
世界での自己探求の過程で,心の琴線に触れる社会の矛盾・危機感に反応した時の表現形
式であろう。人間の心の底に沈潜するファシズムの要素も,常に彼女の問題意識にあり,
何かをしなければならない,という衝動にかられるし,また科学進歩と人間と芸術との係
わりという問題も,この作品にふれられて,ブレヒトの「ガリレイの生涯」を彷彿させる。
そこで「新ドイツ文学」(1979年)7号に,エングラーの論文と並列されたウルズラ・
ビュシェルの論文の中で,彼女はヴォルフの文学の新しさと,倫理的・美学的作家態度を
容認し,「我われの文学社会は,『引き裂かれた空』のものと,『場所はない。どこにも。』
がもつものの両方とも我われは必要とする。」31)と云っているが,これが妥当な見解であ
ろう。
ヴォルフは続いて1983年に,ギリシャ神話を素材にした「カサンドラ」32)を発表し,
再び物語りの「主体的確証」の方法に立ち帰るのであるが,またビュシェルの当然の評価
を受けた。33)
完
注。(Anmerkungen}
1)Christ Wolf:Zeitschichten, In:NDL,10/1983.S.26.
2) Ebenda. S.25.
3) Ebenda. S.25.
4) Ebenda. S.19.
5) Ebenda. S.19.
6)Ch. Wolf l Spricht mit Anna Sehgers. In:NDL,6/1965.S.18.
7)Anna Sehgers:Motto der“Sch6nsten Sagen vom Rauber Woynock”In:Das Wort.1938,6.
S.22.
8)Ch. Wolf. a.a.0., S.26.
9)Ch. Wolf:Kein Ort. Niergends, Aufbar Verlag Berlin und Weimar.1979.(AbgekUrzt KON.)
10) Ebenda. S.157.
11)Horst Nalewski:Monologisches Sprechen. Ch. Wolf:“Kein Ort. Nirgends”.ln:Selbster.
fahrung als Welterfahrung, DDR−Literatur in den siebzigen Jahren.1981.
162 宮 島 隆
12)Sigrid Bock l Ch. Wolf:Kein Ort. Nirgends.:Weimarer Beitrage, Aufbau,5/1980.S.146.
13)Hans Kaufmann:Zu Ch. Wolfs poetischem Prinzip. In:Weimarer Beitrage,6/1974、S.116.
14) Ebenda. S.117.
15) Sigrid Bock.a.a.0., S.149.
16)Anna Sehgers:Die Reisebegegnung, In:ASehgers:Gesammelte Werke in Einzelausgaben,
Bd. X I I,Berlin 1977.
17)アンナ・ゼーガース「旅の出会い一ゴーゴリ,ホフマン,カフカー」
森田弘訳,河出書房新社,1977年(文芸2月号)
18).VgL Sigrid Bock. a.a.0., l Anm 41. S,253... und hier lautet die bei Ch.Wolf bewuBt oder
unbewuBt benutzte, jedoch angewandelte Zeile:”Dort, wo du nicht bist, dort ist das GIUck.”
19) KON, S.6.
20) Horst NalewskLa.a.0., S.160.
21) Vgl. JUrgen Engler:Herrschaft der Analogie. Im Spannungsfeld von Gedanke und Tat. In:
NDL,7/1979. S.130.
22) KON. S.153.
23) Ebenda. S.27.
24) Jurgen Engler. a.a.O., S.129.
25) KON. S.153.
26) Ebenda. S.165.’
27) Horst Nalewski. a.a.0., S.149.
28) JUrgen Engler. aa.0., S.133.
29) KON. S.173.
30) JUrgen Engler. a.a.0., S.133.
31) Ursla PUschel:Zutrauen kein Unding, Liebe kein Phantom. In:NDL,7/1979. S.139.
32)Ch. Wolf:Kassandra. Vier Vorles皿gen. Eine Erzahlung, Aufbau−Verlag Berlin und Weimar,
1983.
西ドイッではErzahlungとVoraussetzungenとば別べつにLuchterhand社から出版されている。
33) Ursura PUschel:“...die Reflexion der weiBen Frau auf sich selbst”. In:NDL,8/1984.
参考文献
1)藤本淳雄・解説「クリスタ・Tの追想」,河出書房新社,1973。
2)保坂一夫・クリスタ・ヴォルフ小論,「幼年期の構図」,恒文社,1981・
3) Bettina von Arnim:Die Gunderode」nsel Verlag Leipzig.1984.
4)Margarete Mitscherlich:Die Frage der Selbstdarstellung. Uberlegungen zu den Autobig.
raphien von Helene Deutsch, Margaret Mead und Christa Wolf. In:Neue Rundschau,1981.
5) Annemarie Auer:Gegenerinnerung. In:Sinn und Form,4/1977.
6) Krzysztof Bartos:Abrechnung mit dem Faschismus und subjektive Authentizitat. In NDL
5/1978.
7)Max Walter Schulz:Das Neue und das Bleibende in unserer Literatur. In二NDL,9/1969.
8) Zu einigen Entwicklungsproblemen der sozialistischen Epik von 1963−1968/9. In:NDL,
9/1969.