カタリーナ・ブルームの「失われた名誉(die verlorene Ehre)」とは何か?

[発表要旨] カタリーナ・ブルームの「失われた名誉(die verlorene Ehre)」とは何か?
Rufmord には Mord を
武田智孝
Die verlorene Ehre der Katharina Blum(1974)邦訳の題は『カタリーナの失われた名誉』であ
るが、「失われた名誉」という日本語には違和感がある。
第一、日本なら「名誉」は高い身分や地位の人に使うので、お手伝いさんのカタリーナ
にはなじまない。第二に、日本語の「名誉」は「傷つける」、
「汚す」、とは結びつくが、
「名
誉を失う」とは普通言わない。一方ドイツ語の Ehre は verletzen や kränken とも結びつくが、
いちばん目立つのは verlieren との結びつきだ。Ehre に関する最も有名な言いまわし、諺は
Ehre verloren, alles verloren.
日本語の「名誉」にない意味合いがドイツ語の Ehre にはある。それは何か?
また、特に 19 世紀後半以降 Ehre が差別的な身分的名誉(Standesehre)や決闘と結びついて
社会問題化し、文学でもたびたび批判的に取り上げられ、第一次大戦とともに死滅したか
に見えたが、今度はナチスの国粋主義、ドイツ民族至上主義と結びついて、無残に濫用さ
れた結果、戦後、当然ながら Ehre という言葉は忌避された。
それなのに 20 世紀後半も四半世紀を過ぎるころになって、民主主義者であり、カトリッ
ク教徒でもあるベルが何故 Ehre などという anachronistisch とも取られかねない言葉を使っ
たのか。そこにどのような理由、事情が隠されているのか、これが第二の疑問。
更に第三の疑問、Ehre と Würde はどう違うのか。以下【参考資料】の一部[強調引用者]
1) sie(Katharina) meinte, diese Leute(Zeitungsleute) seien Mörder und Rufmörder,
2) (※›Rufmord‹ ist eine schwere Verleumdung, die den ›guten Ruf‹ eines Menschen zerstört.)
3) Schopenhauer: Die Ehre ist, objektiv, die Meinung anderer von unserm Werth, und subjektiv,
unsere Furcht vor dieser Meinung.
4) Und der Arme, so verleumdet,/ erniedrigt und getreten,/ muss unter der öffentlichen Geißel/
unweigerich zugrunde gehen.
(Die Verleumdung ist ein Lüftchen. In „Der Barbier von Sevilla“)
5) Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland
Die Grundrechte
Art 1
(1) Die Würde des Menschen ist unantastbar. Sie zu achten und zu schützen ist Verpflichtung aller
staatlichen Gewalt.
Art 5
(1) Jeder hat das Recht, seine Meinung in Wort, Schrift und Bild frei zu äußern und zu verbreiten
und sich aus allgemein zugänglichen Quellen ungehindert zu unterrichten. Die Pressefreiheit und
die Freiheit der Berichterstattung durch Rundfunk und Film werden gewährleistet. Eine Zensur
findet nicht statt.
(2) Diese Rechte finden ihre Schranken in den Vorschriften der allgemeinen Gesetze, den
gesetzlichen Bestimmungen zum Schutze der Jugend und in dem Recht der persönlichen Ehre.
1
啓蒙の寓話における擬人化
―
レッシングとリチャードソンにおける描写の比較から
小林英起子
(発表要旨)
寓話は啓蒙主義の時代、人気のある文学形式であった。英国のサミュエル・リチャード
ソン(1689-1761)は、市民階級に向けた書簡体小説をきっかけに小説ジャンルを発展させ
た作家である。彼の『イソップの寓話』(1740)がドイツのゴットホルト・エフライム・レッ
シング (1729-1781) の目にとまり、1757年3月ドイツ語に翻訳され、1759年出版された。翻
訳化を経てレッシングは、リチャードソンの教訓 (Lehre)と考察 (Betrachtung)の形式を学び、
自身の『寓話』90話余りを3巻本にして1759年、ベルリンのフォスの元で出版している。
本発表ではまず、リチャードソン作『イソップの寓話』をレッシングの翻訳により読み
解き、擬人化の特性を考える。レッシングの『寓話』における擬人化の特性を、狼、犬、
鷹、ロバ、鹿、ライオン、蛇等を例にリチャードソンの場合と比較し、そこから引き出さ
れる教訓と世界観の違いを検討する。その際、レッシングの寓話理論も参照する。
英国のリチャードソンにあっては、さまざまな職業につく市民の描写が豊富で、その合
間に動物寓話や自然・事物を描く寓話が見られる。各寓話は簡潔で、教訓 (Moral)が短く続
き、考察 (Reflection)にむしろ主眼があるかのように、リチャードソンの私見、処世訓が綴
られている。原典の『イソップ寓話』に比べて、18世紀中葉の英国市民に向けて世才を説
くことに重きが置かれていると考えられる。ここでは自然や動物を制するのは人間である。
レッシングの場合、リチャードソンのような考察部分を取り払い、教訓も圧縮されて、
表現が簡潔で明晰である。レッシングは翻訳から学びつつも、人間の登場は数少なく、ド
イツの田園や森で見かける身近な動物、植物の他に、ギリシャの神々が登場する。自然は
人間ではなく、神の手にある。レッシングの場合、市民の処世術を説くことよりも、同時
代の模倣に甘んじる詩人や文芸思潮を批判するために、動物の擬人化が好んで使われる。
彼の『寓話』の素材と形式は、むしろイソップの原典に近く、機知と辛辣な諷刺がその基
調となっている。
2
「シュトルムの『三色すみれ(Viola tricolor)』について
-キリスト教倫理との格闘を中心に-」
田淵昌太(香川県)
1866 年 6 月、シュトルムはドロテーア・イェンゼンと再婚した。しかし、シュトルムの
心には亡き妻コンスタンツェのおもかげが、消えることなく残っていた。こうした再婚に
まつわる身辺状況を作品化したのが『三色すみれ』
(1874 年)である。
全 6 章で構成されているこの作品では、まず第 1 章で先妻マリーに対する後妻イーネス
のわだかまりが示される。それはマリーの肖像画を見た際に感じた「ああ、この絵の女性
はまだ生きている。ひとつの家に、二人の妻を容れる余地など、ありはしないのだわ」と
いうイーネスの吐露で表される。引き続き第 2 章では、継母イーネスと継子ネージーの確
執が示される。それはネージーのイーネスに対する「『ママ』となら ―― ネージーは思
った ―― 呼んでもいい。でも『お母さん』と呼ぶわけにはいかない」という内的独白に
よって表される。これらの心理的葛藤は、やがて第 5 章でイーネスとネージーが和解する
ことにより、解消されていく。
これだけならば『三色すみれ』は、家庭内の不和を扱いながらも、最後にはその不和の
原因であった登場人物相互の心理的齟齬が円満に解消され、幸福な結末を迎えることにな
った作品と見做すことができるだろう。しかし、この作品には、もうひとつ見過ごしがた
い主題が盛り込まれていた。
第 3 章でイーネスは「再婚なんて ―― そんなもの、そもそも存在しているのだろうか?
最初の結婚が唯一の結婚であり、その結婚が二人が死ぬときまで続いていくべきではなか
ったのか」と自問自答している。ここで、再婚の可否という倫理的な問題が提示されてい
たのである。その問いはさらに尖鋭化され、そもそも再婚がありえないものであるならば
「わたしの子どもは、実の父親の家に生まれながら、闖入者にして私生児であることにな
ってしまう」というところにまで突き進む。心理的に居場所を失ったイーネスは「自分は
ここにとどまることはできない、自分はこの家から出ていかなければならない」と思いつ
め、無意識のうちに夜の湖で入水しかけるのであった。
こうしたイーネスの姿には、再婚の可否および再婚が倫理的罪悪であった場合に下され
るべき処罰についての、シュトルム自身の懐疑と不安が反映されている。シュトルム作品
では、倫理的罪人はたいてい〈暗い水〉に飲みこまれて命を落とすからである。キリスト
教会の制度的側面には嫌悪感を抱き、儀式や聖職者は毛嫌いしていたシュトルムではある
が、倫理的罪悪に起因する処罰への恐怖だけは捨て去ることができていない。
イーネスが婚家に馴染み、一家に新しい未来が開けていくという作品の表向きの流れの
背後で、キリスト教倫理に関る深刻な問題をシュトルムは扱おうとしている。だが、その
問題は消化も解決もされないまま、作品は幕を閉じてしまうのだった。
3
ガンゼル『ウェイブ』試論
木本 伸
『ウェイブ』
(デニス・ガンゼル監督)は 2008 年に公開されたドイツ映画である。主人公
のライナーは高校で社会と体育を担当する教師。彼は民主制度の長所を学ぶための 1 週間
のプロジェクトで、
「独裁制」(Autokratie)を担当することになる。ナチスのような独裁制は
現代では起こりえないと主張する生徒たちに対して、ライナーは教室を期間限定の模擬的
な独裁空間とし、生徒自身に専制的な政治状況を体験させようとする。このプロジェクト
学習は教師と生徒の合議により「ウェイブ」(Die Welle)と命名され、片手で波を描くような
独自の敬礼が定められる。さらに生徒の発案により、ジーンズに白シャツというクラスの
制服も定められる。こうして他との差別化が行われるにつれて、ウェイブのメンバーは集
団に帰属する喜びを覚え、それと並行してグループの外部に対する排他的で暴力的な言動
を示すようになる。この暴走を察知したライナーは学校の講堂にメンバーを集めて、ウェ
イブの解散を宣言する。ところが「ウェイブは僕の命だ」と主張する生徒の反乱により、
この集会は流血の事態に至り、ライナーは首謀者として警察に連行されてしまう。以上が
内容の要約である。実はこの物語には起源がある。1967 年にアメリカ・カリフォルニア州
の高校で行なわれた「第三の波」(The Third Wave)という名の教室実験である。この実験は
高校教師の手記をもとに小説化(Morton Rhue: The Wave, 1981)され、特にドイツでは授業の
教材として広く受け入れられ、補助教材なども出版されている。映画『ウェイブ』は 250
万人の観客を動員したというが、映画館の窓口には教師に引率された生徒たちの姿が目立
ったという。このような背景から、ドイツの批評は不可避的に映画と小説を比較するもの
が多かった。たとえばウェイブが平和裏に解散するカリフォルニアでの教室実験や小説と
比して、流血の事態に至る映画の扇情的な側面は非現実的であると複数の論者は非難して
いる。また映画化による登場人物の設定の変化に目を奪われている批評も少なくない。だ
が、この作品は小説のたんなる映画化として片付けることはできない。むしろ小説が捉え
切れていない重要な問題、すなわち独裁性が発生するメカニズムを現代の風俗に即して、
カメラは映し取っていると言えるだろう。劇中の若者たちは「現代では独裁制は起こり得
ない」と主張する。それは現代では個人主義の風潮が徹底しているからだ。だが、この個
人主義とは多くの場合、無気力で怠惰な生活に他ならず、それに倦んだ人々を全体的な思
想や行動へと熱狂的に奪い去る可能性を秘めている。劇中の無気力な若者たちが集団の規
律の中で生き生きとした表情を取りもどしていく様には、ある種の説得力がある。つまり
個人主義が徹底した現代こそ、それとは正反対の全体主義へと転化する可能性があるのだ。
このような現代の問題を抉り出したところに、この映画の独自性は認められるだろう。
4
「うるさい!」と“Ruhe!”:
コミュニケーション行動制御慣用表現の日独対照の試み
西嶋 義憲
文化的背景の異なる者どうしが出会うコミュニケーションでは、相手の言動
に対して「おや」
「あれ」
「なんか変」
「そんな言い方するのか」などと思うこと
がときどきある。コミュニケーション行動において文化ごとに「当り前」と見
なされる言語行動があり、その期待が裏切られるからであろう。このような期
待のずれが生じるのは、ある行動を「当り前」と見なす背景的知識として行動
規範や価値観が文化ごとに存在しているからだと考えられる。では、そのよう
な背景的知識はどのようにして獲得されるのであろうか。この獲得には、社会
化の過程で頻繁に使用される慣用的な表現が関与していると考えられる。ある
場面において規範にはずれるような行動が認められた場合、それを通常にもど
すために慣用的に使用される典型的な言語表現があり、それがどのような行動
が特定の場面で適切なのかを繰り返し教え込む装置として働いているように思
われるからだ。そこで、このような慣習化された表現を本研究ではコミュニケ
ーション行動制御慣用表現(Kontrollierende Routineformeln kommunikativen
Verhaltens)と呼ぶことにする。たとえば、歩道を歩いている子供が車道を車に
注意せずに道を渡ろうとしたとき、その子に対して日本人の多くは「危ない!」
と言うだろう。ところが、ドイツ人は同じ場面で“Vorsicht!”とか“Halt!”と言う
ようだ。これらがコミュニケーション行動制御慣用表現の例である。こういっ
た表現にはある種の類型があり、そのような類型とコミュニケーション行動の
類型との間には一定の対応関係が想定可能である。そして、そのような表現は、
一種の鋳型と働き、それが使用される社会・文化の具体的なコミュニケーショ
ン場面において何に注目し、何に配慮すべきなのかを方向付けする示唆を与え
ているはずである。上記の慣用表現では表現者の視点に差があり、それが表現
形式に組み込まれていることがわかる。
本報告では、日本とドイツの対応する場面で収集された言語表現を比較する
ことにより、表現にどのような「鋳型」が認められるかを考察する。
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