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ウノ ・シグネ ウス期のフィンラン ドにおける工作教育の発展
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伊藤
喬治 訳
ウノ ・シ グネ ウス期 の フィンラン ドにお ける工作教育 の発 展
o
uko Kant
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伊藤
喬治 訳
は じめに
1
81
0・
1888
掴二
当時のフィ.
ンラン ドにお ける預言者 で あった01
9世紀の半ばにおいて、
ウノ ・シグネ ウス(
40年 を越 える歴 史
彼 は工作教育の未来- と続 く道 を整 えた といえる。 フ ィンラン ドにおいて工作教育は 1
が存在 してい るが、 フィンラン ド国民学校 の父 と呼ばれ る ウノ ・シグネ ウス もその歴 史の中の-人物であ
る。彼 は神学 と科学 、歴 史 を学び、牧師 としての修行 を し、複数の言語 を使 い こな し、広 く海外 で働 いた。
彼 は新 しい状況 にす ぐに適応 し、革新的で、勤勉 で辛抱強い人物 で もあった。 かつて フィンラン ドは巨大
な ロシア帝国のはずれ にある一部で あ り、その よ うな地理的状況 は、他 国 との交流や他 国か らの影響 を受
ける機会 を保 障 しなかったが、この よ うな中、シグネ ウスは海外で働 く事 を通 じて大衆教育の基礎 を得た。
しか し、この時期 はフィンラン ドが国際化 を進 める時期であ り、フィンラン ドは社会経 済的基金 をつ く り、
国内で何か新 しい ものが発展 され る とす ぐに知れ 渡 るよ うになってお り、国際的ネ ッ トワー クを持つ こと
が必要不可欠 となっていた。 当時、 フィンラン ド語 を話す事がで きる知識 人はほ とん どいなか ったが、そ
の中で も話す事がで きたのが、 スネルマ ンや シグネ ウス と、 ヨー ロッパ のそのネ ッ トワー ク内の者 であっ
た。 このスネルマ ンにつ いては後述す る。 ところで、職業教育を制度化す るべ き時期 が来 る と、ナ シ ョナ
9世
ル スクール制が作 られた。 当時 は工業化が明 らかであ り、職業のための教育の発展が重要であった。 1
紀 の終 わ りに種 々の国で導入 された最初期 の職業教育は北欧諸国 にお ける発展 に よ り触発 され た ものであ
ur
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a、Ot
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n、Sal
o、Har
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る。 工作教育の創設者 と しての シグネ ウスについては、例 えば La
Ju呂
B
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a、Nur
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、Kana
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j
a、Kant
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l
a、Lako
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va に よってい くつかの論文が発表 され ている また、
Kant
o
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aと La
kot
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vaの研 究が本稿 の基礎 となってい る。
Ⅰ
亡
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a、 1
997)
には長期 にわたって燦然 と輝 いてきた国際的評価 があ る。 イ ギ リスの学者 D.J.
工作教 育(
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ake
r(
1
965
)
はイ ギ リスにお ける最初期の工作教育について研 究 したが、彼 は 400ペー ジを越 える大
。
規模 な論文 『
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n』 の中で 1
9世紀 の終わ りに勃興 したス ロイ ドと呼ばれ る運動 について論証 してい る。 よ り正確 に
同
述べ る年 らば、「
女子 と男子 のための必修 の工作教育が フィンラン ドの 406校 の国民学校 にて始ま った」(
p.
1
28
)として述べ られ てい る。 そ してその後 に、運動 が フィンラン ドの外、つ ま り最初 にス ウェーデ ン と
他 の北欧諸 国に広 ま り、続 いてイ ギ リス、そ してその他 の ヨー ロ ッパ諸国 とア メ リカに広 が った としてい
j
aは、他の国の研 究者 について も、その国の工作教育の根源 は同 じであ る としてい る。 また、
る。Kanano
ス ウェーデ ンでは、多 くの要素 が工作教育に付加 されてい るoその第一段階では、オ ッ トー ・サ ロモ ンが
その理 由であ る とされ てい る。 Kanano
j
a(
1
990、89)
はシグネ ウス とサ ロモ ンの工作教育の発展 について
それぞれの意義 を比較 したが、彼に よれ ばシグネ ウスの意義 は普通工作教育の導入にあ り、サ ロモ ンの中
He
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r
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ko
yama,
心的意義 はその教育学的発展 と、それ を国際的に広 めた とい う点にある と してい る(
2002
)
。これ はシグネ ウスにはそ こまでを行 う時間がなかったためである。 ところで、Whi
t
t
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亡
e
rや前述の
研 究者 た ち は シ グネ ウス が 学 校 工 作 の創 始 者 で あ る と国 際 的 に認 知 され て い る事 は示 して お り、
Whi
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Hま彼 の 1
965年 の論文の中で北欧の工作運動 について 「
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(
この運動 の初期 にお ける代表 はフィンラン ド人の ウノ ・シグネ
ウスであっ・
た)
」 と述べてい る。また この意 見は ドイ ツ人の名誉教授 Rappkeの博士論文の序文において も
「
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e」・と して述べ られ
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ke、 1
995、8
)
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keが訳す ところに よれ ば、Rappkeは ウノ・シグネ ウスの主た る意義は
てい る(
工作を普通教育の中に、 自由な形で統合 した事である、 とい うよ うに考 えてい る、 との ことであ る。
83
技術教育学研究室 研究報告
技術教育学 の探究 第 4号 20
07年 9月
1.
高度 に実践 的な方 向性 にお ける大衆教育の発展
1
8世紀の終 わ りに、国際的認識 と共に、大衆教育 をよ り役立っ ものにす る、 とい う試み が始 め られた。
そ こでは全 ての少年 に工作、主に木 工を教 えるこ とが重要で ある と考 え られ、また農 業 に関す る知識 を増
やす事 もね らい として存在 した。重農主義の精神 か ら、農業 の発展 と交易の さらなる 自由化 を任務 とした
経 済協会が設 立 され た(
Ⅵr
r
anko
s
ki
、1
975、41
)
。またフ ィンラン ドにお ける啓蒙運動 的理想 の最初 の支援
者 の一人であ る H.G.Po
r
t
ha
nはフィンラン ド経 済協会 のメンバーで もあ り、彼 によって経済協会 の事業
の一部 は大衆教育 の拡大 となっていた(
Ha
l
i
l
al、 1
949、96・
97
)
O さらにアールマ ン学校 を設 立す る事 に よ
Ky
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i
s
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6、 1
955
)
o これ らの学校 では、教 育の大陸的
って、経 済協会は大衆教育 を増やす事 を意図 していた く
観念 とともに、教育 は実践的 ・実例 的、また楽 しめるもの となるよ う計画 されたが、計画 は実 現せ ず 、ま
た He
po
r
aut
a(
1
945、28
)
に よれ ば生徒 はただ読み書 き とキ リス ト教 の教義だ けを教 え られ ていた。 ただ、
ひ とつアール マ ン学校 の注 目すべ き特徴 として、それ が散会 ではな くフィンラン ド経 済協会 に よって経営
され ていた とい う点 があ る。 アールマ ン学校 に よって、大衆教育 の再編成 もまた関心 の輪 を広 げっっ始 ま
った。
2.
シグネ ウスー 教育的ス ロイ ドの支援者
1
85
8年の夏 と秋 の間、シダネ ウスはフィンラン ドの民衆教育の状況の 自身の理解 を深 めた。彼 はスネル
5年 も早 く同 じ結論 に到達 していた :人々の言
故字能力 とい うものは見か けだ けの ものであって、
マ ンよ り 1
読 んだ ものの理解 は行 われ ていないのだ(
Cygna
e
uS1
91
0、 27・
29;
Ⅰ
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S
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O1
955、 1
69
)
. フィン ラン ドを旅
行 中に、 シグネ ウスは産業の教授 とい う考えを基 礎 としたであろ う国民学校 の支援者 であった。 この よ う
に して職業 と農業の教育 とい う異な る形式の ものがカ リキュラムの中に組み込 まれ てい った。
自治政府 は、それ が中央 ヨー ロッパ に研 究旅行 に誰 を行かせ るか を決定す る権利 を保有す る ことを定 め
Ha
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i
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a、 1、 1
949、262・
264
)
0Nur
mi(
1
983、 7
5
)
は、個人的 な良い関係 に よって、シグネ ウスが選
ていた(
ばれ たのではな い か と推 測 してい る。海外へ の旅 行の道順 は、ス ウェーデ ンとデ ンマー ク経 由で中央 ヨー
Cyg
nae
us
、1
91
0、3
8)
。 この方
田子は、シグネ ウスに産業の教授 について
ロ ッパ に入 る とい うものであった(
意 見に見切月 をつ け させ 、彼 を教育的な工作 の教授 の支援者 に した とい う影響 を与 えた。 フ レーベル主義
の幼稚 園(
就学前学校)と Le
vanaの改善が彼の思想 の変化に主に影響 を与 えた(
i
bi
d、 1
91
0、29)
。シグネ ウ
スは Le
vanaを良いモデル とは しなかったが、現在 の教授法が全教育システムの改革 を行 いえた としてい
i
bi
d、 1
91
0、1
05
)
。旅行 の間彼は 自分の感 じた印象 を書 き綴 った文章 を出版 社 に送 り、影響 力のあ る行
る(
政の役人 と連絡 を取 っていた。 この よ うに して シ ダネ ウスは人々が民衆教育の改革 を忘れ て しま うこ とを
Nur
mi
、1
979、1
1
1
)
0
防いだ(
1
861年 の春 、自治政府 はシグネ ウスの研 究旅行 の報告書 を出版 した。その報告書 を も とに、 自治政府 は
シグネ ウスに彼の最 終的 な計画 を提 出す る事 と同時に シグネ ウスの計画 を調査 し民衆教育の最 終的 な計画
i
d.1
1
5・
1
1
6)
。シグネ ウスの計画では国民学校 は一般 的な基礎学校 で
を作成す るための委員会 を任命 したGb
ある とみ な され ていた。 国民学校 の 目的は若者 を、神 -の畏怖 が あ り、分別がつ き、心身 ともに調和 の取
れ た状態 に発達す るこ とで社会 のために役立っ よ う教育す ることであった。生徒 たちは正 しい行動 を理解
し労働骨 尊敬す るよ うに導かれ た。 学校 はただ知識 を与 える事だ けに専心す るのではな く、全 員が学校卒
業後に も役 立っ、その よ うな一般的 な器用 さを与 え られ るよ うにす る とされたO シグネ ウスは、器用 さこ
そ労働者 に とって非常 に重要 な ものであると した(
Cyg
nae
us1
91
0.
295
)
0
自治政府 に よって任命 され た調査委員会の意見 は、シグネ ウスの意見 とは三つ の基本的 な点 で異 なって
いた. それ らは、一般的 な基礎学校 としての国民学校 である とい う点について、工作 の意味について、そ
して国民学校 にお け る手 工のための教育につ いて、であった。調査委員会の意見では、工作 は職業的 な性
Cyg
na
e
uS1
91
0,
質 に関す るものであ るべ きであ り、それ は単に 目的 を刺激す るだけの ものであ るとされ た (
346
)
0
3.
シグネ ウスの作業学校
シグネ ウスの意見では、国民学校 は中等学校 の よ うな 『知識の学校』 ではなかった。 実例的 な教授 と実
践的 な作業 とが一体化 され た、作業学校 であ ると考え られた。 この方法 に したが って、生徒 た ちは、理論
的 な知識 を実践 とつ なげて、充実 した熟練- と変換 され る(
Cyg
na
e
usl
91
0,228,
403,41
1
,41
3,444
)
。国民
84
ウノ ・シグネ ウス期のフィンラン ドにおける工作教育の発展
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,AkiRa
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伊藤
喬治 訳
学校 では、工作 は他 の教科 と同等 に考 え られ 、職 業能力 を得 るとい う意味では教 え られず 、形 式陶 冶のた
めの教育 を与 え、教育的 な性質 を持つ教科 である とみ な された。 工作教育が職業能力 を得 るこ とに合 わせ
られ なかったため、教授 は教育学の訓練 を受 けた国民学校教師に よって指導 され る とも考 え られていた。
工作教育 の主た る 目的は器用 さの発達で あった。 生徒 た ちは、異 なるタイプの技術的道 具 と生 活用 品の製
作のた
I め、ナイ フか ら始 まる単純 な道 具の使 用 に関す る技能 を身 につ けるよ う訓練 され る よ うなっていた
524)
0
(
Cygnaeus1910,523・
その 目的 が器用 さの発達であるよ うに、学校 の課題 は基本的な手工技能 、つま り道 具 の使用 と素材-の
知識 を与 える事 である とされ た。教授 の 目標 は、役 に立っ技能の獲得であった。 教育的工作教 育 と職業的
工作教育 を分 ける事 に よって、 シグネ ウスはその唯一の 目的が即時的な経 済効果 であ る生産 ライ ン作業 を
脱 しよ うとした(
Cygnaeus1910,31
)
。教育的工作の反対者 はその違 いを完全 には理解 しなかった。その有
益 な視点 は直接 的な経済効果 を生み 出す もの と解釈 され 、教育的 工作は単 に どの よ うな利用 もない形式的
な ものであ る と解釈 され た。 しか し、シグネ ウスの考 えは、 日常生活に役 に立っ技能 を供給す ることであ
った。
シグネ ウスに よれ ば、工作教育は美的 な 目的 も持 っていた。 も し工作教育が正 しく組織 され れ ば、革新
Cygnaeus1910,195・
196)
。 シグネ ウ
し創作す る能力 と同 じく、形 と美 に関す る感覚 も発達す るとされ たく
スは実践的活動 と工作は態度 の教育 において二本柱 であると考 えた。 実践作業 は手工作業 に対す る肯定的
態度 を育成 し、人び とは卒業後 に働 くこ とに消極 的にな らない とした。 シグネ ウスは 『俗者主義』 か ら抜
け出そ うと し、労働者 も含 めたすべての人び とのための国民学校 を作 ろ うとした。
労働-の肯定的態度の形成 は、国民学校の道徳 目的 と繋がっていた。学校 の役割 は生徒 た ちが よ くな り、
信仰的 にな り、道値 的な市民 となるよ うに延 ばす事であった。 この 目標 の達成 に、活動的 で、 よ く働 き、
役立っ市民 を教育す る とい う点か ら工作教育は寄与 した(
Cygnaeus1
910,441
)
O 工作教育の 目標 は精神的
i
bi
d.347348)
。工作学習 は国民学校 の 目的 である道
に機転が利 き、挑戦の精神 を増加 させ ることであった(
徳 的市民の教育の達成 に関 して重要 な役割 を果た していた。教育的工作学習 は彼 らの道徳 、審美眼、技能
とい う目標 とともに、正式 に道徳的市民の育成 を 目的 としてい ることに寄与で きた。
技能 の訓練 は多 くの技能の応用 と異なる素材 に対す る専門的知識 を必要 とした。 それ ゆえ、教員養成科
にあるモデル校 の少年た ちは、指物 、旋盤 、金属加 工のための道 具の使用 も監督 され た。 その 目的は生徒
に家具、生活用 晶、農具、機械 部晶 を製作す るための技能 を与 えるこ とであった。 また馬 具製 作 と靴製作
の基本的技能 も教 え られ た(
CygnaeuS1
910,284)
。 上記 に加 えて、酎 可苧上の機器 と滑車や ポ ンプの よ う
な物理 的装置 を含む計画や思考 を要す るよ うな製 品が作 られた。
上記 を基盤 として シグネ.
ウスの 目的は実際 に広範 囲な工作教育であ ると主張 され た。 つ ま り、その教科
は 当時 のす べての技術 と素材 を含 んでいた。 目標 は農民の技術的な ノウハ ウを進歩 させ 、そ うして彼 らの
経 済的地位 を改善す るこ とであった。 シグネ ウスはただ工作 とい う単語 は使 わず 、教科 内容 の多様性 と技
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alhandc
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af
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S
)と表現 した。 国民学校 の教師が工作を教
術的 な面の強調 のために 「
技術的手工芸 」(
えるこ とがで きるのかその能 力 を疑問に思 う人た ちに対 して、 シグネ ウスは教師た ちは技術者 としての知
織 は持つ必要 はないが、彼女 も しくは彼 は、理論的知識 を実践へ応用す るこ とはで きなけれ ばな らない と
応答 したo この原則 は 日々の教授 において も貫かれ た(
Cygnaeus1
910,3471
348)
。
身体 と精神 と技術 のそれぞれ の能 力の調 和の取れ た発達 を 目的 とす るシグネ ウスの教育的工作 は、理解
され なか った。 と りわけスネルマ ンは 『労働 を通 して労働 を教 える』 方式 を理解 しなか った。 彼 は貧 しい
農民の農耕 生活 に とって このいたず らに時間 を過 ごさせ る方法 が どの よ うな意味 を持っ のか疑問 に感 じて
いた(
CygnaeuS1910,
408を参照)
。 しか し、スネルマ ンは直接 的には工作教育 に反 対 していなか った。精
神 的な視 点か らは、それ は意味があ る としていた。 しか し、Jus
S
l
l
a(
1968,48)
に よれ ば、特別教 室 を作 る
だけの資金 がなかったため、実現は不可能であった としている。
4.
シグネ ウスの計画 の背景
Nur
mi
(
1977,117
)
は、シグネ ウスの基礎 学校-のアイデアは 自由 と平等 を原則 としたア メ リカの原則 を
基盤 に した ものである と結論づ けた。 北西 ア メ リカのシ トカ島に住 んでいた間に、彼 はア メ リカの学校制
度 につ いて精通す る よ うにな り、人び との教育は、すべての人び とのための国民学校 か ら始 ま らなけれ ば
な らない と考 え るよ うになった。 国民学校 にお け る道徳 的課題 の強調 は、シグネ ウスの個 人的体験 によっ
85
技術教育学研究室 研究報告
技 術教育学の探究 第 4号 200
7年 9月
て生まれた。 シ トカ島 とサ ンタ トペ テル プル グで働 いている間、彼は もっ とも不利 な境遇 の若者 を相手 に
していた。 Sal
o(
1939,1
85186)
は、不幸で窮乏 にあえ ぐ人び とを見ていた後 にシグネ ウスは近代市民遺徳
教 育の重要性 に対 しはっ き りと した意 味 をみ るよ うになった と推 測 した。 サ ンタ トペ テル プル グでは、シ
グネ ウスは博愛主義者 の思想 と、 中央 ヨー ロッパの教育学の文献 を研 究 した。 これ らの基盤 を もとに、彼
はペ ス タロ ツチ- とデ イスチルベ ー ダの思想 に興味 を持つ よ うになった。 デ ィステルベー グはベル リン大
草 の教師で奉った。
シグネ ウスは、 レヴァナ にお いて、作業学校 のアイデ ア と 『労働 を通 して労働 を教 える』方式 をつなげ
CygnaeuS
た。地方改革の監督 で あった ゲオル ゲ ンズは、フ レーベルの精神 において彼の学校 を発展 させ た (
1
910,52
)
。 レヴァナ では、労働 教 育(
召乍業教育)
の教育学的重要性 がシグネ ウスに とって最終的 にはっ き り
と し、Sal
o(
1939,289・
303)
は彼 が産業 教育的工作教育 を断念 したの もまた この ときである と仮 定 してい る。
ゲオル ゲンズは この意見 の変化 に とって決定的 に重要であった。 彼は、国民学校 の少 年た ちのための工作
の教授 を要求 した。 ゲオル ゲ ンズの意 見では、工作は職業訓練ではな く、すべての教科 に統合 され た実践
的 な活動 である とされ た。 実践 的作業 では、芸術的 ・身体的教育 目標 が設 定 され た。 ゲオル ゲ ンズに よれ
ば、民衆教育は国民学校 にお け る創 造的作業 の実施 を必要 と した。 シ グネ ウス 自身の教育の計画では、彼
は ゲオル ゲンズか ら理論 と実践 の統合 とい う考 えを取 り入れ た。 国民学校 の第一 の課題 としての道徳 教育
は レヴァナではっき りと した。
cygnaeuS は博愛 主義者 の労働 教 育 を研 究す ることに よって、すでにサ ンタ トペテルプル グで労働 と教
授 を取 り込みは じめてい た。 Cygnae
us は実践作業の技術が あったので、工作 の教育的効果 については何
Sal
o1939,3011
302;Lonnbe
c
l
亡1
91
0,1541
155)
Oその技術的、また科学的 な強調 は、
も疑 うこ とはなか った(
彼 の科学の研 究の結果 で あ るか も しれ ない。彼 は大学で物理 の c
um l
aude(
教科 レベル)
の勉強 を していた。
Lakot
i
e
va(
1
986
)
に よる と、例 えば ウィー ンの産業学校 に訪れ るな ど、魅 は技術的 な事柄 に関 して、広範 囲
な興味 を持 っていた。 産業学校 は、当時 のポ リテ タニー クで あった。
シグネ ウスは、 フ レーベル の教育 メ ソッ ドをすべての段階 の学校教 育
′
応用す るとい う方法 で、海 外か
らも評価 を受 けていた。 それ は、 シ グネ ウスが工作の教育的かつ美的 な価値 を国民学校-導入 した こ とに
よるものであると考 え られ る(
Br
ubac
her1966,271
)
。 シグネ ウスの作業学校 と 『労働 を通 して労働 を教 え
る』方式は、 この よ うに して外 国か らの影響 を基礎 と していた。 近代 中央 ヨー ロ ッパ の教育 に関す る思想
の衝撃 は、はっき りと見 て取れ た。 す でに実行段階 においては、ポ リテ タニー ク教育 、つ ま りす るこ とに
よって学ぶの と同 じよ うに、理論 と実践 の適用 に関す る、はっき りとしたアイデ アが見 られ る。 新 しい教
育思想 の採用者 と して、 シ グネ ウスはいわ ゆる進歩的教育の支援者のひ と りと してみ な され うる。
5.
国民学校 にお け る工作教 育 の第 一段 階
5.
1.シグネ ウスの計 画の実行
国民学校令 が 1
866年 に成 立 した。 それ は調査委員会のアイデアを踏襲 した ものであった(
Nur
mi1983,
76)
。 この法に よって、ユパ スキュ ラセ ミナー(
師範学校)
の男子学生は職人の技能 を身 につ け るための訓練
を受 け、そ してモデル学校 の男子た ちは器用 さと工作 について習熟 させ られた。農村部の国民学校 の男子
た ちは器用 さにつ いて指 導 され た(
Gl
adh1
968,133
)
。 この法律はその内容 に関す るもので、 目標や教授 法
には言及 していなか った。 その一方で 、 1
866年か らのセ ミナー(
師範 学校)
に関す る法令は、技能 を身 につ
け る工作の 目的は誰 にで もふ さわ しい あ る課題 についての一般的 な器 用 さと技能 を達成す るこ とにその焦
点 を定 めていたO 男子学 生 は、い くらかの一般的 な家庭用晶 を作 るこ とができるよ うにな るた め、家 具製
作 、旋盤 、鍛 冶の道 具の使 いか た を教 え られ ることになっていた。そのセ ミナー に関す る法令 は、調 査委
員会は民衆教育の提案 にお いてはね退 けた ものの、シ ダネ ウスの視点 に従 った ものであった。
国民学校 の最初 の数十年 間、工作教育 の発展 は国民学校の設 立によって起 こった矛盾 に よ り阻害 され た。
通商 と経済の代表 は 、家庭 内産 業 の促進 のために工作教育 を取 り入れ たO -方その提案の中で、シグネ ウ
スは、反対者 か らはその積極 的 な利 益 が見 られ ない とい う、教育的工作 を提唱 した。 両者 の どち らもが達
成 された結果 に満 足せず 、 また どち らもがその状況 を改善 しよ うとした。 シグネ ウスは、 フィンラン ド自
身 の伝統 に根 ざしたモデル集 成 を作成す るこ とを計画 し(
Cygnaeus1910,
598)
、通商 と商業の代表 であ る桂
子
削窺会 (
TheEc
o
nomi
c
BAs
B
OC
i
at
i
on)
は、サ ロモ ンによって発展 されたモデル シ リー ズによ り自信 を持 って
いた。 また、以前 に も、経 済協会 は活発 に工作教授 の基準を上げ よ うとした。 ス ウェーデ ンのネ- ス にあ
86
ウノ ・シグネ ウス期のフィンラン ドにおける工作教育の発展
J
o
uk
oKa
)
l
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O転 AkiRa
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i
n
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n
伊藤
喬治 訳
るス ロイ ド(
木工)
学校 に対 して奨学金 を与 えた ことも あ り、そ してス ウェーデ ンのモデル ・シ リー ズ と学校
Gl
adh1
968,1
851
86)
。 シグネ ウスはユバスキュラにある臨時教員養成セ
のための工作物 の図 を出版 した(
ミナー(
学校)を組織す るた めに選 ばれ 、
彼 に関す る限 りは、アイデ アの按 をなん とか教師教育 に持 ち込 んだ。
初期の段階 にお いては、国 民学校 は、ユバ スキュラ教員養成セ ミナー(
学校)
モデル学校 の作業の計画 に従 う
よ う考 え られ た。
工作の教授 は、国 民学校会議 の議論 のなかで も主要 な話題 で あった0 5 回 目の公 立国民学校 会議 では、
議題 は 「
国民学校 にお け る工作教育 の 目的は何か、そ して どの よ うにその 目的は達成 され るのか」 で あっ
た。家 内産業の発達 は、 当時 まだ重要 な議題 であ り、またその会議 は、近隣諸国 では学校 工作 の支援 の も
KKK 1
8町 27
)
。 この国民学校 会議 の
とに、家庭 内産業 の発展 にお いては進 んでい るとい う事が示 され た(
期間に、国民学校 の歴 史 において初 めて、教育的工作 は実践の中で どの よ うに進 む のか とい うモデル が提
出 された。 教授 は、生徒 や児童 に形や 素材 に関す るい くらかの知識 を与える 目的で製作 され た物 のモデル
を参考 にす るよ うに考 え られ た。道 具の利用 に関す るi
Eしい方法 は示 され るよ うに され 、表現 の強調 点は
正確性 、努 力、順序 に置 かれ た。
教育的工作は、それ ぞれ の作 品が与 え られ た指導 と一致 して完成 され なければな らない とい う前提 を基
礎 としてい る。 これ らの 目的が定 め られ た教授法 を通 して、器用 さ、形 と美-の感覚 、手 と目の協応 の発
展 が達成 され た(
i
bi
d.28)
0
それ に もかか わ らず 、モデル を基礎 と している工作教育は、適正な道具 とよい手本 を必要 とした。 その
一般的器用 さか ら生ず る利 益 もまた議論 され たo その観 点は、一般的器用 さは職 業的技能 の学習 に拍 車 を
かけることと、その発達 に関す る最 大の手段 は 日常生活 で使用す る物 の作 り方 を学ぶ よ うに させ るこ とで
KI
捕 1
881,30
)
O 全体会議 は、工作教育は他 の教科 と同 じ地位 にあるわ けではない とい うこ とには
あった(
賛成 した。 発展 への障害 は、 自治体 が道 具 と手本 を購入す るこ とを しぶ ったためである と考 え られ た。 そ
の会議 は、 この点 にお い て変化 が起 こることが期待 され た。 国民学校 の啓発者た ちに とって、工作教育の
発展 は、 当時 まだ実際 に悩み の種 で あった。教授 は計画 され た通 りに実行 されず 、また教育的工作 と実践
的工作の間 には矛盾 が存在す る とい う見方 も存在 していた。 しか し、その会議では、教育的工作 の間接 的
な利 益 を強調す るこ とで その軌畔 を減 らす こ とが 目指 された。 また、その会議は、工作教 育の促進 につ い
て、 自治体 がいか にそれ を不本意 と していたか とい うこ とを強 く明 らかに Lた。 また、組織 され たプ ログ
ラムの もとに作業 に入 る とい うメ ソ ッ ドを紹介す ることに よ り、その会議は 日々の教授 を前進 させ た。 そ
Sa
l
o
mon,
れ は、 ス ウェーデ ンの オ ッ トー ・サ ロモ ンに よって発展 され た メソッ ドに従 った もので あった(
1
887,6777
)
。ス ウェーデ ンモデル を応用す ることは、将来の発展 において効果的 な前例 とな った。工作展
覧会におけ る木 工製 品は、 シグネ ウスの アイデアに一致 した。 しか し、その展覧会 は、鍛 治製 品 と機械道
具の不足 とい う点 に留意 すべ きで あ る。 全体 として、その会議 は工作教育において シグネ ウスの思想 を支
持 した。
最初 のプ ログラムは工作教育 が始 まって 20年後 にや っ と出版 された。 1
880年代 の始 めまでは、カ リキ
ュラムは学校 ご とに計画 され 、それ ぞれ で非常に異なっていた0 1
881年 のモデル コー ス特、シグネ ウスの
義理 の息子 であ り、シグネ ウスの もとにいた G,
Lo
nnbec
kに よって計画 され 、 これ によって統合 され 明確
に され た(
Nur
mi1
988,12
)
。そのモデル コー スは、シグネ ウスの思想 を示す 1
881年 の国家教育委員会 の回
状 をその基盤 と してい る(
KanS
akoul
unKaS
i
t
yono
pet
uS1
91
2,64
)
。その回状は、1
883年 1
1月 30日付 け
であ り、
.国家教 育委員会 は工作教育 の組織 に正確 な指導書 をあたえたoつま り、作業案 は一年 を基本 に作
られ るよ うに され 、教授 は教育的原理 を基礎 に行 われ るよ うに され、学習は単純 な ものか らよ り複雑 な も
の- と過程 をた どる よ うに され 、また生徒の現在 の技能 と適性 を考慮す るよ うに され た。加 えてそ の回状
は、そのモデル につ いて の使 い方の指導書 も含 まれていた(
i
bi
d6465
)
。セ ミナー(
教員養成 学校)にお ける
工作教育の基準 につ いて は、不満 が残 っていた(
Gl
adh1968,151
)
01
880年代半 ばには、大公 国評議 会 は工
作教師 を育成す るた めの別 の機 関 を設立す るこ とを計画 した。 その 目的は、工作教師 の よ り効果的 な育成
を通 じて家庭 内産業 を発 展 させ る こ とであった。 Bl
omqvi
S
t
(
1
886,1
601
77
)
に よれ ば、その機 関は現在 の
西 フィンラン ドに あた るオ ス トロボスニアに建て るこ とが計画 され た0La
kot
i
eva(
198即は、複数 の異 なっ
た視 点は工作教 育の発展 を阻害 した と主張 してい る。 も し国家経 済 協会が、 自国の工作教授 の方法 の発展
のために経 済的 資源 を使 用 した な らば、結果 は明 らかに よ りよい もの になっていたであろ うo ス ウェーデ
ンの メ ソッ ドが知 られ た こ とに よって、木工が支配的地位 とな った の かもしれ ない。
87
技術教育学研究室 研究報告
技術教育学の探究 第 4号 2
007年 9月
国民学校 の始 ま りの ころは、工作の教授 法はば らば らで、 目標 は達成 され なかった。 それ は他 の教科 と同
等 とされたが、 しば しば工作の授業 は他 の 目的のために使用 され た。 さん ざんな結果 には、多 くの理 由が
あった。当初 、はっき りとした指導はな く、教授法 も地域 ごとに さま ざまであった。また、最大 の障害 は、
Gl
adh1
968,1
89190
)
。 もっ とも工業化 した 自治体であって も、工作教育 を
道 具 と工作室 の不足であった(
非常に重視 した。現在 フィンラン ド東部の北カ レリア州 にある Ki
t
eeと Var
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S
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l
aでは、工作は国民学校 の
設立時か ら教 え られ て きた く
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96
)
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eでは、い くつかの製材所 と造船産業が あ り(
Kar
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945,
1
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)
、
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aにはひ とつ の製材所 と後 に金属加 工工場が作 られ た(
Ahone
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Li
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Ryt
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止one
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nen,S.1
983,1
31
)
o Lか し、シグネ ウスがユバ スキュラに臨時セ ミナー(
教員養成学
校)
の組織 をす る機 会 を提供 され た とき、彼 は 自身のアイデアが実行 に影響 をあた える とい うチ ャンスを得
Num i1
977,138
)
01
863年 に成立 したセ ミナー法は、 シグネ ウスの考 えに従 った ものであった。 彼は
たく
かつて調査委員会 に よって拒否 され たアイデ アを、 この法の中で もっ とも重要 な もの として盛 りこんだ。
・
シ グネ ウス は 、設 立 され るセ ミナ ー の 中で製 図 と工作 の 教授 のポ ス トの た め に十 分 に尽 力 した く
i
bl
d,
159・
1
61
)
o 教師教育 はシ グネ ウスに よって引かれ た ライ ンをなぞ るよ うに始まった. 工作のた めのカ リキ
Lappal
a
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n(
1
985,30)
に よれ ば、教師たちは 口々の教授 の中で行 われ るシグ
ュラムは作 られ なか ったが ∴・
ネ ウスの教育的工作 と、そのモデル スクール に従 うことに された。 実際 にシグネ ウスは、 自身 が主調 査官
とセ ミナー の指導者 の両方 となっていた ことで、いかに彼の思想 が現実に使 われ てい くのかをっねに見守
る機会 があった。
全体 と して、 ささや かで あった工作教育の結果は、 シグネ ウス と、思想 の実践工作学校 の代理 人の どち ら
l
adh 1
988,1
91
)
01
856年にスネルマ ンに よ り言 われ たその疑いは現 実の もの
も失望 させ るものであった (
s
i
l
a(
1
968,48
)
は、工作教育 の発展 を妨げた もののお もな理 由は、経済的 な もので ある とし
となった。 Jus
た。 工作教育 において多様 な異 なる技術 を強調す るシグネ ウスの思想 は実現 されず 、家庭内産業 の促進者
た ちが勝 利 した。 特 に 、 シ グネ クス の あ とは功 利 主義 と家庭 内産 業 の ア イ デ ア が 支配 的 に な った。
Kanano
j
a(
1
999,39
)
に よれ ば、 しか しこれ は有意義 で必要 な もので さえあった。 その後者 の思想 は、プ ロ
フェ ッシ ョナ リズムの重要視 と製品の実体の なかに見 られ るよ うに され た。
5.
2 シグネ ウスに よる工作委員会の 1
887年一最初 の工作カ リキュラム
887 年 に出版 され た。委員会の 目標
シグネ ウスは、最初の工作委員会 の委員長 になったD その記録 は 1
は、工作教育の教育的 な視点 と実用主義的な視点の統一 であった。 この よ うに して委員 会は、 工作教育の
理解 を高め るこ とを 目的 とした。委員会 は、 どの よ うな タイプの工作が実践 され るべ きか、 どの よ うな タ
イプの作品が作 られ るべ きかを強 く主張 した。作 品は、準備段階のカ リキュラムの延長上 にあ るモデル ・
コ レクシ ョンに よって構成 され ていた。 しか し、その 目的は窮屈 で正確 なシステ ムを作 るこ とではなかっ
Ko
m1
887:
6,23
)
o 委員会に よれ ば、 フ レーベル主義教育学 と一致 した編み物作業 とテ キス タイル作業
た(
は、国民学校 の低学年の授業 を受 ける少年少女に こそあ うものであった(
i
b札 3
)
。高学年へ は、委員会 はナ
イ フで行われ る木工作業や指 し物、木工旋盤 な どを推奨 した。 ブ ラシ作 り、や な ぎ細 工、編み細 工、針金
細工、鉄板加 工 とい った地元の伝統 工作 も含 まれ た。他 の種類の金属加 工は特別 な教室で教 え られ ること
になっていた。 新 しい構成要素 は、木工製 品の表面仕上げであった。 よい設備 を もつ学校 には、製図の追
i
bi
d,3
)を通 して、モデルのシ リー ズは多様 な もの とな り、生徒 の技能 をよ
加 を委員会 は提案 した。 これ ら(
り発達 させ る有能 な ものになった。 委員会 は、製 図の読解能 力を身 につ けることは正 しい作業 方法 を学ぶ
上で重要で ある と強調 した。実践作業 においては、モデル とモデルか ら作 られた設計図 に忠実 で あること
が重要であ った。 よ り基礎 的な製図が以前 よ りも数 え られた(
Kom 1
887:
6,
78
)
。 また委員会 は、工作 の教
授 にお けるコス トをカバーす るための政府 の基金 の重要性 について も指摘 した。 それ はまた よ り効果的で
i
bi
d,1
317
)
O国民学校 にお ける工作教授 は最初の一貫 したカ リキ ュラムを作
多面的 な教師教育 を要求 した(
ったが、そ の 目的は教育的視点 と実用主義的視点の統合 であった。 そ してのちに教育的工作の教授 が有用
であ りうる とい うことが明 らか にな り始 めた。委員会は、 フィンラン ド自身の工作教 育 を作 る こ とを意図
した。 多様 な工作の選択 はシグネ ウスの視点 に従 った ものであった。 ス ウェーデ ンでは木工の教 育的価値
のみが認 め られ てい る とい う点で、はっき りとした違 いが見受 け られ ら(
Sal
o
mo
n1
887,75
)
。Laur
i
l
a(
1
91
2,
67
)
に よれ ば、木 工の優位性 はデ ンマー クで も見受 け られた。モデル と製 図を統合す るこ とは委員会の出 し
Sal
omo
n1
887,77
)
、中央 ヨー ロ ッパ
たアイデアであった。 ス ウェーデ ンではモデルのみが使 われ てお り(
88
ウノ ・シ グネ ウス期 の フィンラン ドにお ける工作教育 の発展
J
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n
伊藤 喬治 訳
で使 われ ていた メ ソッ ドは製 図に忠実で あることを基礎 に した ものであった。製 図の強調 は、中央 ヨー ロ
Ko
m 1
912;
0,ll
)
。製図の選択 は予測 されたほ ど多種多様 な ものではなか
ッパの影響 によるもので あった(
った。木工製図が多数で あ り、機械 に関す るものは滑車のための台のみであった。 だいぶ後になって、委
i
bi
d,1
887;
6,7)
o 工作の中に製図の基礎 を含 んだ こ とは
員会の提案 したブー ツジャ ックが一般的になった(
工作教育の進む道 を決定 した。 工作教育 はデ ッサ ンに近 い科 目として見 られ るよ うにな り、科学的側 面 は
取 り残 され るよ うになった.
6.
ま とめ
シグネ ウスに よって示 され た 目標 の代 わ り
.
に、技術的 ノウハ ウの改 良 と、それ を通 じた経済的地位 の向
上が、国民学校教育 の 目標 となった(
La
ko
t
i
e
va1
986,
32
)
。例 えば、 フィンラン ド経済協会は教 区 ご とに違
う新 しいモデル を分配す るこ とな どによって工作 の地位 の向上 に熱心であった。 この よ うに経 済協会 は、
家庭 内産業 の改 良で あって工作 の教育的意味 の促進ではない とい うね らいか ら、 シグネ ウスの対立者 のひ
とつ としてみなす こ とがで きる(
Sal
o
l
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909,131
4
)
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スネルマ ンは、 ドイ ツ- スイス教育学 も受 け入
れ る事 がで きず 、それ 自身が家族 の役割 を引 き受 ける学校 であ る基礎 学校 と しての国民学校 も、
`受 け入れ
KanS
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l
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O1
927,
463
)
oスネルマ ンは工作 も含 めて多様 な教科の
ることがで きなかった(
名前 を国民学校 に明記 したが らなかった。Ha
l
i
l
a(
1
949,1
)に よれば、スネルマ シは、生徒 を自発 的で独 立
した情報の収集者 にな る よ う教育す ることが主た る 目的 であ る と考 えた。 この抵抗 は、
、シグネ ウスに よっ
て示 され る提案 を、調査す るた めの委員会 を組織 させ るこ ととなった。 その委員会では、彼の提案 は しば
しば厳 しく扱 われたo原 理の違 いは、カ リキュラム上の教科 として工作 を持 ち一般 に手工教育 を行 う国民
学校 を、社会の基礎 学校 として扱 うか ど うか、 とい うこ とに関す るものであった。 また委員会 は 「
女性 の
KanS
al
l
i
nene
l
amanke
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r
as
t
o1
927,
463
)
。教育
ための適切 な教育の必要性 」 について も疑いを持 っていたく
的活動 は、人 口中心地 の成長 とともに、その増加 が始 まった(
Hei
kki
nen 1
982,1
1
5
)
。 自治体 を学 区に分
898 年 の案 は、 自治体に国民学校 の設立 を義務づ けた。 これ は、農村 の学校設備 改善 によ
割す る とい う 1
って明 らかによい影響 を与 えた(
Hunhka1
955,38
)
。政府 の工作教育- の関心は、 1
873年の家庭 内産 業の
委員会の覚書に見 られ る。それ による と、家庭 内産業の促進 は国民学校 にお ける工作教育 を基礎 と してい
る とされ ている(
Gl
adh1968,1
40
)
。家庭 内産業 を発展 させ る理 由 としては、 フィンラン ドの貧 しい経 済状
況 に よるものがあった。 そ こには、農業だけでは人 口を伸 ばす ことがで きず 、新 たな生計 の糧 を発展 させ
る必要が生 じた とい う停 滞期 の ことがかかれ ていた(
Hal
i
l
a1949,
284
)
。国民学校 の代表者 たちは家庭 内産
業の委員会の覚書 について評言 を頼 まれた。第三回公立国民学校会議 において議論 され た疑問のひ とつ は、
「
形 と美の感覚 、一般 的器用 さの感覚の発達 をね らい と した工作の国民学校 での教 え方 と、そ して どの程
度 これ らの学校 が農村部 にお ける家庭 内産業 を促進 させ るこ とがで きるか」 であった。 特別委員会 は、 自
身の覚書に よ り近づ き、 よ り実践的 な方向で国民学校の発展 を支援 した。 この委員会は、国民学校 とセ ミ
ナー(
教員養成学校)
にお いて器用 さの発達 をよ り強調 したがった。グループは、職業志向の教授 は重要 であ
る とみ な さなか ったが、一般 的 な器用 さの発達 は十分であった。 この グルー プはまた、 自治体の義務 とし
て道具の購入 と教室の供 給 に賛成 したが、あま りに要求 をつ きつ け る事は、国民学校 の設立 を止 めて しま
う可能性 があ り、す るべ きではない と指摘 した。 国民学校会議 は、その内容 に賛成 できなかったため、最
終答 申を出 さなかった。 委員会 の覚書は、公 的で広範な議論 を求 め、異 なった意見の存在 を求 めていた。
国民学校 に相応 しい工作 の練習 の提言 は、国民学校会議 の議 事録 に残 された。非常に幼 い生徒 に相応 しい
練習は、編み ものや粘 土造形 と同 じよ うに、木のブ ロックや木 の棒 な ど異なった ものを使 った積 み木 であ
った。 年長 の国民学校 の生徒 は、か ごあみ、糸の こ、簡単な道 具 と家 具の作成 が提案 され た。 最 も技術 の
ある者 は、風車や水車の模型 を作 ることもで きたく
KKK 1
875,
47・
68)
O
この よ うに、国民学校 は、シグネ ウスが望んだ通 りには発展 しなか った。国民学校 の最初 の段階 において
は、国民学校 にお け る工作教育の究極 の 目的が何 か とい うこ とはまだ不明確 であった。 国民学校設 立のた
めの条件 は、経 済発展 の上昇 まで改善 され なかった。 さま ざまな思考 とつなが りのあ る科学 と、技能や菜
的感 覚の発達に関わ る教 育的工作の間に、矛盾があるよ うに見 られ ていた。農業国 に とって、産業社会 の
教育学的思想 を受 け入れ ることは難 しかった。 シグネ ウスはすべての教育において平等 を支持 した。農村
社会の影響 は今 日もなお少年少女-の工作教育の分離 とい う形 で見受 け られ る(
RaS
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ne
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tal
.2005,1・
9)
0
一方、フ ィンラン ドのユバ スキュラのセ ミナーの女子学生の うちのい くらかは、ス ウェーデ ンでサ ロモ ン
89
技術教育学 研究室 研 究報告
技 術教育学 の探究 第 ■
4号 2007年 9月
のもとで工作教育 を追究す るためにそ こを徳 に した。 シグネ ウスが求 め戦 った平等 は、全国選 挙で女性 が
906 年 に現実 となった。 フィンラン ドは女性 に選挙権 を与 えた ヨー ロ ッパ で最初 の国 とな
投票権 を得 た 1
った0-度■
の跳躍 で フィンラン ドは旧来の代議制 の制度 か ら脱却 し、全大陸で最 もラデ ィカル な制度 を持
っ こととな った。興味深 い議論 は、他 の学校 教科 に比較 した工作 の平等制 に関す るもので ある。 実践的教
科 埠、後 に含 まれ 高 く評価 され る理論教科 に比較 して、市民・
の人間的概念 に応 じて普 通教育 に含 まれ てい
る。 フィンラン ドの農村共同体は、優れ た技能 を持っ者 を高 く評価 したが、国民学校 の最初の段階 では こ
の種 の評価 を学校 -持 ち込む ことは困難 であった。一
一
・
方 、工業化や産業生活 において 、工業製 品の拡 大 と
い う変化 は、市民か ら労働者 と新 しい技能 を要求 した。景気 が よ くな るにつれ て、 自己持続的 消費 は新 し
い消費習慣 を引き起 こ し、家庭 で作 られた ものでない もの を買 う、とい うことはい よい よ一般的 になった。
REFERENCES
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