阿 寒 観 光 とアイ ヌ文 化 に 関す る研 究 ノ,___.ト 昭和40年代までの

北海道立北方民族博 物館研究紀要 第8号(1999.3)
阿 寒 観 光 と ア イ ヌ 文 化 に 関 す る 研 究 ノ,___.ト
昭和40年 代 までの阿寒紹介記事 を中心に
齋
藤
玲
子*
Note on Research: History of relationship
between
tourism in Akan National park and Ainu Culture
by compiling the remarks from the travel guide
magazines
in Showa period (1926-1980's)
Reiko
Akan
is well
National
known
springs,
and
tourists
from
Hokkaido"
lakeside.
traditional
This
tourism
guidebooks.
relationship
Park
is a popular
worldwide,
virgin
is
The
with
forests.
the 1930's.
lined
paper
with
in Akan
from
Ainu
many
such
performing
has
resort
its
compiled
various
Ainu
the
shops
carving,
such
on
attracted
Ainu
hot
many
village
the
of
Akan
embroidery,
and
the
by the residents.
the
Ainu
as travel
This study
will be useful for the
between
Ainu culture and Tourism
landscape
lakes,
along
for tourists
remarks
sources
has
the largest
souvenir
offered
volcanic
caldera-type
culture
Kotan:
as wood
are
whose
famous
Also the
"The
handicrafts
dance
SAITO
culture
magazines
historical
research
in Hokkaido.
on
and
of
北海道立北方民族博物館学芸員
キ ー ワ ー ド 阿 寒(国 立 公 園)、 ア イ ヌ文 化 、 観 光 、 旅 行 雑 誌
Key Words
Akan National
park, Ainu Culture,
Tourism,
Traveler's
Magazine
111
齋藤 阿寒観光 とアイ ヌ文化 に関す る研究 ノー ト
1.は
じ め に
阿寒 は 初 期(昭
和9年)に
制 定 され た 国 立 公 園 の 一 つ で あ り、 昭和30年 代 に は 最 も人 気
の高 い 周 遊 地 とな っ た 日本 有 数 の観 光 地 で あ る。 国 の 特 別 天 然 記 念 物 とな っ て い る マ リモ
はい うま で も な く、 阿寒 湖 、 屈 斜 路 湖 、 摩 周 湖 と今 も噴 煙 を あ げ る雌 阿 寒 岳 な ど火 山 性 の
景 観 、温 泉 、 深 い 森 な どが 観 光 客 を 引 きつ け て い る 。
これ ら 自然 の魅 力 あ る 要 素 に加 え 、 ア イ ヌ 文 化 も ま た 阿 寒 観 光 に大 き な 役 割 を果 た して
い る。 昭 和10年 代 に は 、展 覧 会 や 出版 物 を とお して観 光 宣 伝 と と も に ア イ ヌ 文 化 が 紹 介 さ
れ て き た こ とは 明 ら か で あ り、 観 光 ポ ス タ ー に ア イ ヌ 風 俗 が描 か れ る こ と も多 い 。 元 来 、
阿 寒 湖 畔 地 区 に は 今 の よ うな 大 き な集 落 は な か った が 、 観 光 が盛 ん に な るに つ れ 、 工 芸 品
販 売 や 写 真 、 歌 や 踊 りな どア イ ヌ 文 化 へ の 需 要 が 増 え 、 人 口 も増 え る に 至 っ た 。 現 在 、
「『阿 寒 湖 ア イ ヌ コ タ ン』 は北 海 道 で 一 番 大 き な ア イ ヌ コ タ ン(36戸
イ ヌ 工 芸 協 同 組 合]と
・約200人)」[阿
寒ア
称 され て い る。
明 治 ・大 正 期 か ら 「アイ ヌ 風 俗 」 の 見 られ る 地 と して 紹 介 され て き た旭 川(近
文 地 区)
や 白老 よ り遅 く、 昭 和 に入 っ て か ら急 激 に観 光 地 と して脚 光 を浴 び た 阿 寒 は 、 湖 畔 地 区 だ
け で も 今 な お 年 間150万 人 の入 り込 み が あ る人 気 の 場 所 で あ る。 それ だ け に 、 阿 寒 で ア イ
ヌ 文 化 に触 れ 、 理 解 を深 め た い と考 え る旅 行 客 も少 な くな い と思 わ れ[ペ
会1998]、
ウ レ ・ウ タ リの
ア イ ヌ 文 化 を普 及 す るた め の さ ま ざ ま な 新 しい 試 み も始 め られ て い る。
本 稿 で は 、 旅 行 雑 誌 等 の 出版 物 を収 集 ・整 理 しな が ら、 国 立 公 園 指 定 前 か ら戦 後 の北 海
道 観 光 ブ ー ム が落 ち つ き を み せ る昭 和40年 代 ま で の 阿 寒 観 光 の歩 み を概 観 す る。 阿 寒 で の
ア イ ヌ 文 化 の 変 遷 を検 討 す る こ と は、 ひ い て は 北 海 道 観 光 と アイ ヌ 文 化 の 関 わ りや 昭和 期
か ら現 在 に 至 る アイ ヌ 文 化 観 の 形 成 、 工 芸 ・芸 能 の伝 承 過 程 を研 究 す る うえ で も示 唆 的 な
情 報 を供 す る も の と考 え る。
2.阿
寒 の概 要
ここで 「
阿 寒 」 とい っ た 場 合 、 阿 寒 国 立 公 園 地 域 を 指 す こ と と定 義 し、 「阿 寒 町 」 を 意
味 す る の で は な い こ と を お 断 り して お く。 狭 義 に は 「
阿 寒 湖 畔(地
阿 寒 国 立 公 園 は 、 昭和9年12月4日
指 定 され 、 同 年3月
区)」 を も使 用 す る 。
に大 雪 山 ・日光 ・中部 山 岳 ・阿蘇 く じ ゅ う、 と とも に
の瀬 戸 内海 ・雲 仙 ・霧 島 に 次 い で 、 戦 前 に 指 定 され た 初 期 の 国 立 公 園
の 一 つ とな っ て い る(公 園 の名 称 は 当時 の ま ま)。 面 積 は 約905平 方kmで 、 阿 寒 町 ・弟 子 屈
町 ・美 幌 町 ・足 寄 町 ・津 別 町 を は じめ11ヶ 町 村 に ま た が る 広 大 な公 園 で あ る 。 近 年 の入 り
込 み は 阿 寒 湖 畔 地 区 で 年 間150万 人 、 阿 寒 国 立 公 園 全 体 で は500万 人 に の ぼ る とい う。
阿 寒 へ の ア クセ ス の 方 法 は何 通 りか あ り、 道 東 観 光 の 中 心 とい っ て よい 。 しか し、 弟 子
屈 町 の 川 湯 温 泉 以 外 は 鉄 道 か ら遠 く、 自動 車(バ
112
ス)で
な け れ ば 、 阿 寒 湖 畔 な ど に は行 く
北海道立 北方民族博物館研 究紀要 第8号(1999.3)
こ とが 出来 な い 。 石 北 線 の北 見 ・網 走 を 拠 点 に津 別 や 美 幌 か ら入 る コー ス 、根 室 線 の釧 路
を拠 点 に 阿寒 湖 あ る い は 弟 子 屈 か ら入 る コー ス 、 根 室 線 ・石 勝 線 の 帯 広 を拠 点 に 足 寄 か ら
阿寒 湖 畔 に入 る コー ス な どい くつ か のル ー トが あ る。
3.阿
寒 観 光 の 背 景 と経 緯
次 に 、 阿寒 観 光 の歴 史 的 経 緯 につ い て 、 時 代 ご と の主 た る出 来 事 、 交 通 等 の 基 盤 状 況 、
出版 物 等 マ ス コ ミ で の 取 り扱 い と広 報 活 動 、 祭 な どの 行 事 、 ア イ ヌ 文 化 関 連 事 項 を ま とめ
て み た い 。 仮 に 、1)明 治 期 、2)大 正 ∼ 昭 和9年 の 国 立 公 園 指 定 ま で 、3)昭 和10年 代 、4)20
年 代 、5)30年 代 、6)40年 代 、7)50年 代 以 降 、 とい う時 代 区 分 を 設 定 す る(以
下 の年表 は
『阿 寒 町 百 年 史 』、 種 市 佐 改 「阿 寒 国 立 公 園物 語 」、 『北 海 道 観 光 連 盟20周 年 記 念 誌 』 を
べ 一 ス に した)。
1)明
治期
明 治20年 代 、本 格 化 した 硫 黄 山 の 採 掘 と標 茶 集 治 監 の 設 置 に よ り、鉄 道 の敷 設 と道 路 の
開 削 が 相 次 ぎ 、釧 路 か らの 交 通 路 が 整 備 され た 。 そ の た め 、 弟 子 屈 と川 湯(弟 子 屈 町)方
面 は 明 治 中期 に は 温 泉 旅 館 が で き る な ど早 く に 開 け た 。 両 地 域 に遅 れ て 明 治45年 に 阿 寒 湖
畔 に温 泉 宿 が 開 業 した 。
全 国 的 に は 明 治20年 に 始 ま っ た 小 中学 校 の 修 学 旅 行 が 、30年 代 に は 阿 寒 で も行 わ れ る よ
うに な る。 釧 路 の 第 一 小 学 校(現
日進 小 学 校)は
高 等 科44名 で 標 茶 ・弟 子 屈 へ の4泊5日
科3、4学
に第3回
修 学 旅 行 と して
の旅 を行 っ て い る 。 明 治39年9月
には、同校高等
年70名 が 雌 阿 寒 岳 登 山 を5泊6日
、 明 治33年7月
で 行 っ た 。 そ の 後 も、 大 正期 に か け て 小 学 校
か ら大 学 ま で の 学 生 た ち を 中 心 とす る登 山 が 急 速 に 一 般 化 し、 阿 寒 が 注 目 され る よ うに
な っ た 要 因 と考 え られ て い る[種 市1974]。
20年 標 茶 一硫 黄 山 間 に 鉄 道 敷 設
33年 釧 路 第 一 小 学 校 が 弟 子 屈 に 修 学 旅 行
38年 (釧路 第 一 、 第 二 小 学 校)雌
阿寒 岳 登 山 の修 学 旅 行
39年 前 田正 名 が 阿寒 湖 畔 の 開発 に着 手
45年 山浦 政 吉 が 阿寒 湖 畔 に温 泉 宿 を 開 業
*国 の外 郭 団 体 と して 「ジ ャパ ン ・ツ ー リス ト ・ビ ュ ー ロー 」 設 立
2)大
正∼国立公 園指定 前まで
阿寒 が 国 立 公 園候 補 地 とな っ た の は、 大 正10年 の こ とで あ る 。 これ を機 に、 道 路 整 備 を
は じめ とす る観 光 の た め の 開 発 が急 ピ ッチ で 進 む こ とに な る 。 鉄 道 で は釧 網 線 の 開 通(昭
113
1 和6年
全 通)、 今 は廃 線 とな っ た 相 生 線(大
阿 寒観 光 とア イ ヌ 文 化 に 関す る 研 究 ノー ト
正14年 開 通 ・美 幌 ∼ 津 別 町 相 生 問)が 大 き な
役 割 を果 た す こ と とな り、 そ れ らを 結 ぶ 自動 車 網 が 昭 和 初 期 に整 う。 阿 寒 湖 畔 へ も バ ス が
運 行 され る よ うに な っ た 。
ま た 、 登 山 よ りや や 遅 れ て 、 さ らに 底 辺 の広 い ス キ ー や キ ャ ンプ の 施 設 が 阿 寒 に も登 場
す る。 大 正 末 期 に は 屈 斜 路 湖 で 遊 覧 船 事 業 も始 ま り、 昭 和 に入 る と阿 寒 湖 で も数 隻の船 が
競 合 す る 状 態 に な る。
また 、 明 治 ∼ 大 正 期 に活 躍 した 随 筆 家 の 大 町桂 月 が 大 正10年 に 阿 寒 を訪 れ 、 阿 寒 湖 一 帯
の 景 観 に 打 た れ て 『文 芸 春 秋 』 に詩 で紹 介 した 。13年 に は 雑 誌 『旅 』 が発 刊 され 、 旅 行 情
報 が 全 国 的 に 市 民 の 文 化 と して 定 着 し始 め る時 代 で あ る 。
国 立 公 園 の 誘 致 活 動 の た め の パ ン フ レ ッ トな ど も作 成 され 、 東 京 で は 写 真 展 が 開 催 され
る な ど、 宣伝 も盛 ん に 行 わ れ る よ うに な る 。
大正
4年
弟子 屈で スキーが初 めて紹介 され る
10年 マ リモが天然 記念物 に指 定 され る
大 町桂月、 阿寒に来遊 、詩で紹介
15年 舌辛(現 阿寒 町本町)∼ 阿寒湖 のバス運転 開始
昭和
4年
岩淵 モー ター部創設(阿 寒湖上遊 覧船事業 の さきがけ)
5年 阿寒横 断道路完成
6年 阿寒 国立公 園期成 同盟結成? 国立公園調査委 員一行 招待
釧網線(釧 路 ∼網 走)全 通
8年
阿寒 国立公 園観 光協会創 立
阿寒 遊覧船(株)設
3)昭
和9∼10年
立
代
国立 公 園 に な っ た 阿 寒 は 、 最 初 の2、3年
は 入 り込 み も多 くな っ た が 、 次 第 に戦 争 の 影
響 が 出始 め、 観 光 目的 の旅 行 自体 が減 少 して い く厳 しい 時 代 を 迎 え る こ と とな る 。
しか しな が ら、 国 立 公 園 誘 致 活 動 に 引 き続 き 、PR活
られ た本 格 的 な ポ ス タ ー は 、 昭 和9年
動 は熱 心 に 展 開 され た 。 最 初 に 作
に阿 寒 国 立 公 園観 光 協 会 が 作 っ たB全 判 の も の で 、
図 柄 は原 始 林 の 中 を走 る 自動 車 の後 ろ 姿(佐
々 木 栄 松 ・画)で
あ った 。
昭 和10年 に 阿 寒 国 立 公 園 観 光 協 会 で パ ン フ レ ッ ト 『阿 寒 』 を発 行(図1参
照)、 同 じ こ
ろ、 札 幌 鉄 道 局 発 行 の 『北 海 道 旅 行 の栞 』 で も 、 主 要 都 市 近 郊 と国 立 公 園 を 中心 と した 観
光 案 内 等 が掲 載 され て い る。 昭 和14年 版 の 『阿 寒 』、12年 版 の 『北 海 道 旅 行 の栞 』 両 パ ン
フ レ ッ トで は 、 阿 寒 国 立 公 園 内 の屈 斜 路 湖 畔 に 「
ア イ ヌ 部 落/古
114
丹/コ
タ ン」 を示 して い
北海道立北方民族博物 館研究紀要 第8号(1999.3)
る。
ま た 、 昭 和11年 に は4公
園 が 追 加 指 定 され 、全 部 で12と な った 国 立 公 園 を紹 介 す る展 覧
会 が 、 東 京 の 伊 勢 丹 デ パ ー トで 開 か れ た 。 翌 昭 和12年6月
に は 、 同 じ く東 京 の 伊 勢 丹 デ
パ ー トで 『
観 光 の 北 海 道 展 覧 会 』 が 開催 され た(主 催:東 京 鉄 道 局 、 日本 旅 行 協 会 、 札 幌
鉄 道 局 、 北 海 道 庁)。 この 展 覧 会 につ い て は 写 真 帳 が 残 され て お り、 好 評 を博 した様 子 と
会 場 の 詳 細 を知 る こ と が で き る。 こ こ で は 大 雪 と阿 寒 の 両 国 立 公 園 の ジ オ ラ マ が 展 示 さ
れ 、 阿 寒 は摩 周 湖 と屈 斜 路 湖 の展 望 が再 現 され た 。
そ の 展 覧 会 に お い て 、 復 元 した チ セ(ア
本 伊 之 助(エ
イ ヌ の 家)と そ こ で の 熊 彫 の 実 演 や 、 白老 の 宮
カ シ マ トク)氏 の講 演 も行 わ れ る な ど、 アイ ヌ 文 化 が 呼 び物 と な っ て い た こ
とが うか が わ れ る。 大 正 の 末 に 八 雲 と旭 川 で 製 作 が始 め られ た 木 彫 り熊 は 、 昭 和10年 代 に
急 激 に 普 及 した も の と見 られ 、 この こ ろ 阿 寒 で も熊 をは じめ とす る木 彫 りが 製 作 ・販 売 さ
れ る よ うに な っ た こ とは 明 らか で あ る。 阿 寒 の み や げ も の店 に 残 され て い る初 期 の熊 の 木
彫 りを 見 る と、 昭 和8、9年
こ ろ ま で は小 さ く素 朴 な も の で あ っ た が 、 昭 和10年 代 以 降 は
か な り現 在 販 売 され て い る も の に 近 い 形 に な っ て い る よ うだ 。
さ らに 、 ヤ マ モ トタ ス ケ 著 『阿寒 国 立 公 園 とア イ ヌ の伝 説 』 とい う小 冊 子 が 昭和15年 に
ジ ャ パ ン ・ツ ー リス ト ・ビ ュー ロー(札 鉄 旅 客 課 援 助 ・協 力)か
参 照)。 著 者 の 山本 多 助 氏(1904∼93)は
ら発 行 され て い る(図3
、 ア イ ヌ 文 化 の伝 承 者 で あ り、 活 動 家 と して 著
名 な 人 物 で 、 昭和10年 に 屈 斜 路 湖 畔 で 木 彫 りの 製 作 と販 売 を始 め 、14年 頃 に は 阿 寒 湖 畔 に
移 っ て 店 を始 め て い る 。 以 後 、 ま りも祭 、 舞 踊 保 存 会 、 ユ ー カ ラ 劇 、 執 筆 活 動 な どア イ ヌ
文 化 の保 存 と阿寒 観 光 の発 展 に寄 与 した 。
ま た 、 当 時 の 関 連 事 項 と して は 、 日本 民 芸 協 会 の 『工 藝 』106・107号(昭
和16・17年)
に アイ ヌ 文 化 の特 集 が組 ま れ て お り、 アイ ヌ 工 芸 品 を世 に知 ら しめ る役 割 を果 た した と考
え られ る。
そ の 一 方 、 昭和16年2月
に は、 北 海 道 庁 は ア イ ヌ(文 化)を
観 光 に利 用 す る行 為 を 防 止
す る た め 、 関 係 方 面 へ 以 下 の 通 達 を行 って い る 。
「旧土人の中には今 尚熊祭 を行ひ、または往時の服装 を為 し、観光客 より撮影料の寄捨 を受け、或いは又
府県 を巡回して古来の舞踊を興行する外、往時の同族生活 を講演行脚す る者等有之や に及聞候、甚だ遺
憾の次第有之候 に付ては、…中略…今後一層戒め以て同族教化指導上遺憾なき期せ られ度、為念。」
[昭和17年 ・北海道樺太年鑑]
9年
阿 寒 国立 公 園 指 定 初 のB全 判 ポ ス タ ー 「阿寒 」 発 行
11年
パ ン フ レ ッ ト 「阿 寒 」 を発 行 東 京 で12国 立 公 園 の 展 覧 会 開 催
12年
東京 で 「
観 光 の 北 海 道 展 」 開催
舌辛村 を阿寒村 に改称
13年
ガ ソ リ ン欠 乏 の た め 木 炭 バ ス 導 入
18年
バ ス 業 界 の 戦 時 統 合 (国 立 公 園協 会 が 国 土 健 民 会 に改 称)
115
齋藤 阿寒観光 とアイ ヌ文化 に関す る研究 ノー ト
19年 公 園 内 の旅 館 が 錬 成 施 設 等 に 売却 続 出 (7/17全 国 的 に 国 立 公 園 の業 務 停 止)
4)昭
和20年 代
戦 後 、 外 貨 獲 得 の た め と平 和 の 象 徴 で あ る 「
観 光 」 を 国 家 事 業 と して 官 公 庁 が 支 援 を
行 っ た た め 、 阿 寒 観 光 の 復 興 も 比較 的 早 くに 実 現 した と言 え る。 平 和 の 訪 れ と と もに 修 学
旅 行 もい ち早 く復 活 して い る。
交 通 事 情 で は 昭 和20年 代 半 ば か らバ ス路 線 が急 激 に拡 充 され 、 横 断道 路 や 釧 路 一 阿 寒 湖
畔 の 定 期 バ ス が 運 行 され るな どの基 盤 が整 っ て くる が 、 冬 期 の 運 行 は40年 代 ま で待 つ こ と
になる。
出版 や 報 道 の 面 で は 、24年 に雑 誌 『旅 』 で 北 海 道 特 集 が掲 載 され 、 以 後 、 数 年 に1度
特 集 が組 まれ る よ うに な る。 ち な み に そ の 号 の 表 紙 は 、 ム ック リ(口 琴)を
は
ひ くア イ ヌ の
衣 装 を 身 に着 け た 女 性 の 写 真 で あ っ た 。
阿寒 で の ポ ス ター や パ ン フ レ ッ トの 印 刷 に もい っ そ う力 が入 れ られ る よ うに な る 。28年
ア イ ヌ の 女 性 を描 い た 「Hokkaido」
で 世 界 観 光 ポ ス タ ー コ ン クー ル の 最 優 秀 賞 を受 賞 し
た 栗 谷 川 健 一 氏 が 、 そ の後 の 阿 寒 の ポ ス ター を い くつ か 手 掛 け て お り、 丸 木 船 に乗 る ア イ
ヌ の男 女 と湖 中 の ま りも が 描 か れ た 「国 立 公 園 阿 寒 」 な ど も後 に 同 コ ン クー ル で入 賞 し
て い る 。 ま た 、29年 に は 「阿 寒 国立 公 園 漫 画 案 内 図 」 が 釧 路 鉄 道 管 理 局 か ら発 行 され た 。
ふう
これ らの 印 刷 物 に は 、 アイ ヌ の 衣 装(風
の も の を含 む)を
身 につ け た 人 物 画 が 多 く登 場 し
て い る 。28年 に は 英 文 パ ン フ レ ッ トも発 行 され て い る 。
後 半 に は 、 「君 の名 は 」 の ブ ー ム で 美 幌 峠 が有 名 に な り、 映 画 ロケ や 皇 族 の来 遊 な どマ
ス コ ミの力 も あ っ て 、 阿 寒 の 名 が 全 国 的 に 知 られ る よ うに な る。
観 光 に 関 わ る行 事 と して は 、 阿 寒 湖 畔 の ま りも祭 が さっ ぽ ろ雪 ま つ り と同 年 の25年 に第
1回 が 開催 され た 。 ア イ ヌ の 人 た ち が積 極 的 に携 わ る行 事 と して現 在 も続 け られ て お り、
北 海 道 の 主 要 な祭 の 一 つ と して 挙 げ られ る こ と も多 い[合
田1977]。
現 在 に ま で 続 く観 光 事 業 の 多 く が 、20年 代 半 ば に 現 れ て く る と言 っ て よ い だ ろ う。
20年 終 戦(GHQは
国 立 公 園 等 の 保 護 保 存 を指 令)
21年 北 海 道 観 光 連 盟 設 立
22年 阿 寒 国 立 公 園 観 光 協 会 再 発 足
23年 阿寒 横 断 道 路 に初 め て 定 期 バ ス運 転
釧 路 ア イ ヌ 古 典 舞 踊 保 存 会 結 成(山
本 多 助 氏)
24年 雑 誌 『旅 』6月 号 で 、 北 海 道 特 集
25年 第1回
ま り も祭 開 催
日本 観 光 地 百選 で 阿寒3湖
が上位入 選
27年 タ ンチ ョウ とマ リモ が特 別 天 然 記 念 物 に 指 定 され る
116
北海道立北方民族博 物館研究紀要 第8号(1999.3)
「
君 の名 は 」 ラ ジ オ 放 送 開始 。 翌28年 映 画 ロケ
29年 パ ン フ レ ッ ト 「阿 寒 国 立 公 園 漫 画 案 内 図 」rAKAN」(英
文)発 行
昭 和 天 皇 ・皇 后 行 啓
川 湯 で イ オ マ ンテ(熊
5)昭
送 り)催 行
和30年 代
昭 和30年 代 は、 国 鉄 の周 遊 券 販 売 を は じ め航 空 機 や フ ェ リー の便 も よ く な り、 全 国 的 に
陸 ・空 ・海 路 とも に 交 通 事 情 や パ ック旅 行 が 充 実 して 、 宿 泊 を伴 う観 光 旅 行 に 参加 す る割
合 が 急 激 に伸 び 始 め る時 代 で あ った 。
そ れ に 加 え 『挽 歌 』 『
森 と湖 の ま つ り』 な ど 阿 寒 周 辺 を舞 台 に した 小 説 が ベ ス トセ ラー
に な り、 昭和20年 代 に 引 き続 き 、 阿 寒 が 周 知 され る こ とに な る。35年 に は 、 雑 誌 『旅 』 の
人気投票 で阿寒 が 「
行 って み た い 周 遊 地 」 の第 一 位 を獲 得 して お り、 そ の 特 集 号 で は 「こ
れ が 最 近 の 阿 寒 だ 」 とい うグ ラ ビ ア を は じ め、 阿 寒 に まつ わ る記 事 が 多 数 掲 載 され た(別
章 を 参 照 され た し)。
ま た 、34年 に 前 田光 子 が湖 畔 の 土 地 を無 償 提 供 し、 分 散 して 生 活 して い た 住 民 が集 結 し
て 「ア イ ヌ部 落 」 がつ く られ た 。 中央 に は 各 種 行 事 の 広 場 を つ く り、38年 に は民 芸 品 生 産
の た め の 「ア イ ヌ 共 同作 業 場 」 も設 置 され て 、 民 芸 品 店 が軒 をつ らね る 現 在 の 「阿 寒 湖 ア
イ ヌ コ タ ン」 の お お よそ の景 観 が で き た 。 こ こ で の 「
ア イ ヌ 舞 踊 」 の観 覧 も人 気 を 呼 ぶ よ
うに な る 。
一 方 で 、 み や げ も の と して 本 州 産 の大 量 生 産 品 も 出 回 る よ うに な り、 ア イ ヌ を 見 世 物 に
して い る な ど、 一 部 の 文 筆 家 な どの 間 に観 光 地 の 「俗 化 」 や ア イ ヌ 文 化 の 変 容 が 嘆 か れ る
よ うに な り始 め る の も こ の頃 で あ る。
31年
世 界 観 光 ポ ス ター コ ン クー ル で 「国 立 公 園 阿 寒 」 が グ ラ ン プ リ受 賞
阿寒 湖 アイ ヌ'協会 設 立
32年
第25回 全 日本 ス ピー ドス ケ ー ト選 手 権 大 会 が 阿 寒 湖 で 開 催
33年
皇 太 子(現 天 皇)来 遊
34年
前 田 光 子 が湖 畔 の土 地 を 提 供 し 「ア イ ヌ部 落 」 成 立
35年
雑 誌 『旅 』 人 気 投 票(周
遊 券 発 売5周 年 記 念)で
阿 寒 が1位 に 。 次 い で 十 和 田 ・
雲仙 の順
36年
阿 寒 水 族 博 物 館 開館
第1回
美 幌 峠 まつ り開催
38年
ア イ ヌ 共 同作 業 場 完 成
39年
知 床 国 立 公 園 に指 定 以 後 、 阿 寒 と知 床 は 一 緒 に 紹 介 され る 機 会 が 多 くな る。
117
齋藤 阿寒観光 とアイヌ文化 に関する研 究 ノー ト
6)昭
和40年 代
昭和30年 代 末 の 観 光 基 本 法 の 制 定(38年)、
昭 和39年 の東 京 オ リン ピ ッ ク 、 海 外 旅 行 の
自 由化 、東 海 道 新 幹 線 ・名 神 高 速 道 路 の 開通 な ど を うけ て 、 引 き 続 き観 光旅 行 が市 民 に 浸
透 す る時 代 で あ っ た 。 大 阪 万 国 博 覧 会 を契 機 とす る 「
大 衆 化 」 「大 量 化 」 「
集 中化 」 に よ
り、 昭和45年 は 日本 の観 光 旅 行 の タ ー ニ ン グ ポ イ ン トと も評 され て い る[日 本 交 通 公 社 調
査 部1994]。
北 海 道 で は 、 昭 和43(1968)年
が 明 治 初 年 か らち ょ うど100年 に あ た るた め 、 「開道 百 年
記 念 」 を冠 す る事 業 が 多 く開催 され 、博 物 館 の 開 館 や 出版 物 の発 行 も相 つ い だ 。
道 路 の 除 雪 事 情 が よ くな り、 阿 寒 周 辺 で も通 年 開 通 が 増 えて 、全 道 的 に 冬 の 観 光 に も力
が 入 れ られ る よ うに な る。
出 版 等 で は 、 国 立 公 園 指 定30年 記 念 作 成 の ポ ス ター 「ま り も の 阿 寒 湖 Lake Akan」
が45年 に 日本 観 光 ポ ス ター コ ン クー ル 奨 励 賞 を 受 賞 した 。 そ のデ ザ イ ン は伝 統 的 な衣 装 を
身 に つ け た 若 い ア イ ヌ の女 性 が 湖 畔 の 丸 木 船 に腰 掛 け 、 ム ック リ(口 琴)を
手 に して い る
写 真 を全 面 的 に使 用 した も の だ った 。
40年 阿 寒 湖 バ ス セ ン ター 完 成
41年 第1回
美 幌 雪 まつ り
第1回
屈斜 路湖水 まつ り
42年 第1回
摩周 湖樹氷 まつ り
第1回
硫 黄 山 噴 火 まつ り
43年 阿寒 アイ ヌ 民 族 文 化 保 存 会 結 成
阿寒 湖 ビ ジ タ ー セ ン タ ー(道 立)開
45年 第1回
館
阿寒 湖 氷 上 まつ り開 催
日本 観 光 ポ ス ター コ ン クー ル 奨 励 賞 受 賞
48年 阿寒 湖 ∼ 摩 周 湖 ∼ 美 幌 峠 ∼ 美 幌 間 の 阿 寒 パ ノ ラ マ コー ス が通 年 バ ス の 運 行 開 始
7)昭
和50年 代 以 降
50年 代 以 降 につ い て は 別 稿 に 改 めた い と考 えて い る が 、 あ え て 概 観 す る な ら、 そ れ ま で
の 北 海 道 観 光 ブ ー ム も 一 段 落 し、 そ の 間 に 生 じた 問題 をふ ま え た で 、 ア イ ヌ の 人 た ち が 自
主 的 に 新 しい 形 の観 光 や 文 化 伝 承 に 取 り組 ん で き た 時 代 、 と言 え るだ ろ う。 そ の 徴 候 は40
年 代 半 ば か ら見 られ 始 め 、51年 の 北 海 道 ウ タ リ協 会 文 化 対 策 部 に よ る 「北 海 道 の観 光 とア
イ ヌ 問 題 」 実 地 調 査 、57年 の ア イ ヌ 民 俗 資 料 館 開 館(屈
斜 路 コ タ ン)、58年 の 阿 寒 湖 ア イ
ヌ 古 式 舞 踊 ほ か が 国 の 重 要 無 形 民 俗 文 化 財 に 指 定 、 な ど か らア イ ヌ 文 化 に 対 す る 責 任 感 ・
自覚 の 急 速 な 高 ま りが 読 み とれ る か らで あ る 。
118
北海道立北方民族博 物館研究紀要 第8号(1999.3)
4.観
光 に お ける アイ ヌ に関 す る記 述の 変遷
次 に 、 阿 寒 観 光(一
部 、 北 海 道 全 般 ・旭 川 や 白老 の観 光)を
紹 介 す る文 献 か ら、 アイ ヌ
に関 す る 記 述 の抜 粋 を し、 そ の 変 遷 を 見 て い き た い 。
明治 末 期 か ら昭和 初 期 ま で の 旅 行 案 内 等 で は 、 ア イ ヌ の 習 俗 が 見 られ る場 所 と して 旭 川
と 白老 を あ げ る と こ ろ が ほ とん どで あ る。 昭和 初 期 の 国 立 公 園指 定 前 まで の 阿 寒 にお い て
は 、 ア イ ヌ が 道 路 開 削 の道 案 内 で あ っ た とか 、温 泉 発 見 の き っ か け 、 地 名 の 由 来 と して の
ア イ ヌ の存 在 が 挙 げ られ る程 度 で アイ ヌ(文 化)に
つ い て こ とさ ら強 調 され て は い な い 。
しか し、 昭 和10年 代 以 降 は観 光 の み ど こ ろの 一 つ と して 必 ず ア イ ヌ に 関 す る記 述 が あ る と
い って よ い 。
現 在 、 多 様 な 出版 物 か らの観 光 地 に お け る アイ ヌ 関 係 記 述 を収 集 して い る と ころ で あ る
が 、 本 稿 で は ガ イ ドブ ッ ク 、 パ ン フ レ ッ ト、 旅 行 雑 誌 を 中 心 に記 事 を 抜 粋 し、 当 時 の 様 相
を よ く表 して い る と思 わ れ る もの を時 代 順 に並 べ て み る こ と と した 。 尚 、 現 在 で は 不 適 切
と思 わ れ る 表 現 も原 文 の ま ま 引 用 す る こ と と し、 旧字 体 は一 部 新 字 に 改 め た 。
○ 明治45年 北海 道 鉄 道管 理 局 『
北 海道 鉄道 沿 線案 内』 よ り
「【
土人 部 落 】近 文 駅付 近 に土 人保 護 給 与地 あ り。部 落 を成 し戸 数 五十 余 、 人 口百 九 十余 、 農業 を営 む 。旭
川 町 に於 て は此部 落 の 為 め、 小学 校 農事 試作 場 を設 け、 専 らそ の指 導保 護 に努 め居 れ り。
… 中略 …
名 物 旭 豆、 ア イ ヌ細 工。」
○ 昭和7年 山崎 窒 一郎 『北海 道 の展 望 』 よ り
「
アイ ヌ風 俗(一) 旭 川 か ら約 四粁 、 近文 騨 付近 に約 三百 戸 ば か りの近 文 土人 部 落 があ る。 又 、室 蘭本 線
白老 騨 か ら約 半粁 の庭 に も戸数 八 十戸 の 白老 土 人部 落 が あ る。 そ の何れ か を訪 ね て 、 アイ ヌの 生活 を知 る こ
とは、 彼等 が其 の昔 蝦 夷 と呼 ばれ て 、北 海道 を我 が家 と して い た民 族 で あ る丈 に、本 島 とは切 離す こ との 出
来 な い色 々 な関係 があ る が故 に、 大 い に興趣 のあ る もの で あ る。 …後 略」
○ 昭和15年 ヤ マモ トタ スケ 『
阿 寒 国立 公 園 とアイ ヌ の伝 説 』 よ り
「
観 光 の 頃 と もなれ ば 、雄 大神 秘 の 阿寒 地 帯 に杖 引 く人 が多 くな り、 アイ ヌ細 工 を製 作 販 売す る私 の店 に も
沢 山 の観光 客 が立 ち寄 ります 。そ してい ろい ろアイ ヌ につ い て 尋ね ます 。 地名 の 事 、草木 、鳥 魚 のア イ ヌ名
の こ と、或 は古老 と話 が した い、伝 説 がき きた い 、ア イ ヌ踊 りや 歌 を き きた い、 日 日の 挨拶 は どんな 風 か、
な どど尋ね られ るの です 。」
○ 以下 は 昭和24『 旅 』6月 号 に掲 載 され た も ので あ るが 、そ の 当時 の こ とば か りで はな く、回 顧 も含 まれ て
い る。
・明治 末期 ∼ 大正 半 ば 頃の 回顧 と推測 され 、 「
後 年(筆 者 下線)」 は大 正末 以 降 の こ と と考 え られ る。 林 常夫
「
阿寒 草分 けの 頃」 よ り。
「さるに て も舟首 に擢 を とっ て立 つ音 吉 親爺(ち ゃ ちゃ)の 姿 のす ば らし さよ。 ア イヌ 男特 有 の 眼鼻 だ ち、
長 鷺 か ら、そ の ポー ズー 切 が典 型 的 なモ デル で あ る。全 く見 とれ る程 の雄 姿 で あ る。物 心 、動 静一 切 が渾 然
と融 和 した小 天地 が刻 々移 り変 わ っ て行 く。 此 の 時の こ とは 其後 似 た もの に も出 会 ぬ私 の秘 興 で あ る。 此音
吉 は後 年 阿寒 湖畔 に住 み、 素 直 に写真 のモ デル に もな り、人 々 に非 常 に愛 せ られ た有 名 人 で ある 。
」
・昭和10年 代 後半 と推測 され る 更科 源 蔵 「コ タンの 人 々 一 わ がアイ ヌ の友 一」 よ り
119
齋藤 阿寒観光 とアイヌ文化 に関す る研究 ノー ト
「
或 る 日彼(ア イ ヌ の知人;筆 者 注)が 摩 周湖 を見 に行 っ て いた 。す る とそ こヘハ イ ヤー で 乗 りつ けた 観光
客 が あっ て、 あま りに見事 な 原始 人 で あ る彼 にす っ か り感 心 して 、 あな た が摩周 湖 を見 てい る写 真 を一 枚写
させ て くれ ない か とお そ るお そ る頼 み込 ん だ ところ、 案 外彼 は素 直 に承知 した の で … 中略 … 「
あ っち を
向 いて 五 円だ か ら、 こっ ち を向 いた の も五 円だ 」 とモ デ ル料 を請 求 した も のだ った 。」
・佐 々木 朔 「
食 べ る北 海道 」 よ り
「
北 海道 とい え ば アイ ヌ人 と熊 と鮭 とが三 大噺 に な って い るの で あ るが、 …中 略… 阿寒 の 山 中に永 年住 ん
で居 る阿寒 湖荘 の主 人 吉島 氏 も熊 の 味覚 は知 らぬ との 話 で あっ た。 北海 道 を旅 す れ ば、 ア イヌ の 一刀 刻 の熊
は何 処 で も手 に入 るが 、生 き た熊 は仲 々見 られ な い… 」
○昭和33年 北海 タイ ムス 社 『
北 海道 大博 覧 会記 念 北海 道 の観 光 と産 業 』
「
支 笏湖 の ち か くの 白老 町 は、 ア イヌ 部落 で観光 客 に馴 染 み がふ かい。 アイ ヌの 生活 習 慣 と家 屋 が残 され て
いて 、酋 長 が いつ で も説 明 の労 を とって くれ る。民 芸 品や 叙 事詩 ユ ー カ ラの 国碑 、イ オ マ ンテ(熊 祭 り)な
ど の信 仰 的風 習 が、 亡 び ゆ く民 族 の 悲 しみ を こ えて 少数 の アイ ヌ た ち に よ って 守 られ てい る。 旭川 市 の近
文 、 日高 の 平取 町 に は、 ま だ アイ ヌ部 落 が姿 を とどめ て い るが 、純 粋 のア イ ヌは 年 々少 な くな るば か り、 道
内に生 活 してい る約1万 人 の アイ ヌ は、 ほ とん ど一 般 の く ら しのな か に溶 け こん で しま っ た。 生 きて い く逞
し さが足 りない とい う批判 も あ るが、 少数 民 族 の生 活習 慣 を観 光 の 売 りもの に して生 きてい く人た ち に も、
そ れ な りの切 実 な 歴史 が 綴 られ て い るの で ある。
アイ ヌ とクマ はき りはなせ な い。 この民 族 の神 話 の時 代 か らの つ き あい で あ る。
こ としに な って か ら、 阿寒 の バ ス通路 に子 グマ が 寝て い て 、本 州 のお 客 さん を び っ く りさせ た。 クマ はい
まで は観 光地 の 愛敬 者 で あ る。温 泉 で も都 市 で も面 会 に不 自由 しな い。」
○ 昭和33年 遠藤 利 雄 『阿寒 の 千一 夜』 「
阿 寒俗 化 の 防止 策」 の 章
「
… アイ ヌ と阿 寒 の関 係 が余 りに も等 閑 にふ され て い るの で はな か ろ うか と思 う。 そ れ が全然 ない とい うの
で は ない 。熊 の 木彫 りをす る職人 もい る し、 アツ シ を着 た モデ ル も い る し、 歴 史や伝 説 に もな い"ま りも祭
り"を 、 古代 か らあ った よ うな儀 式 そ この け で出演 す るアイ ヌ もい るに は い る。 どれ をみ て も、 見世 物 的 で
み す ぼ ら しくつ て い け ない の で あ る。 観 光 客 が 一番 最 初 に興 味 を そ ンるの は 、 アイ ヌ な の で は なか ろ うか
…」
と して 、建 築物 にア イ ヌ の文様 を取 り入 れ た りアイ ヌ の歴 史 や慣 習 を伝 え る工夫 を し、
「
先住 民族 であ るアイ ヌ は、 われ わ れ と同化 され てい るの で ある か ら、 見世 物視 した り、 みす ぼ ら しく して
は い けな い。 雄 大 な 自然美 と原始 美 にマ ツ チす るよ うに すべ きだ」
と結 ん で い る。
○ 昭和35年 の 『
旅 』10月 号 ・人気 投 票で1位
とな っ た阿 寒 の特集 記 事 中 、少 々長 い が アイ ヌ に関 連す る文章
を抜 粋 してみ た い。
・更科源 蔵 「
ふ る さ と阿寒 の50年 」
「…然 し木 で 熊 の形 を刻 む とい うこ とは、す で に アイ ヌ で はな く、 立 派 な 日本 人 的根 性 で あ る。 アイ ヌ の人
達 には物 の像 をつ く るこ とは厳 しい タブ ー で あっ たか らで あ る。 も う阿寒 には アイ ヌ はい ない 。」
・弟 子豊 治 氏 か らの聞 き書 き 「
熊彫 り男 の生 活 と意 見 」
「
冬 眠 の この湖 畔で こつ こつ とつ く りだ め た木彫 りグマや アイ ヌ人 形 を店 頭 に並 べ 、店 先 に しつ らえた作 業
台 にあ ぐ らをか いて 日がな ノ ミをふ る う。 … 中略 … 日に7、8千
円の売 上 は あ る。だ が こ の"み や げ 品"
に も商 の風 は激 しく厳 しい 。
大 量 生産 の"メ イ ド ・イ ン ・日光"の 盆状 差 しな どが レ ッテル をか え て逆流 し本場 もの の商 圏 を食 い 。腕
一本 の アイ ヌ木 彫 り師 た ちの く らしをお びや かす 。 加 え て北 海道 ブー ム も頭打 ち、 アイ ヌ風 俗 もい さ さか食
傷 気 味 。冷 や か しの客 ばか り増 え る昨今 だ。
… 中略 …
アイ ヌ ーそれ はエ キ ゾチ シズ ム を売 る観 光 北海 道 の泣 き どこ ろ。 だ が、 こ の民族 の"商 品化"に つ いて
120
北海道立北方民族博物館 研究紀要 第8号(1999.3)
は同族 間に も賛 否分 かれ て冷 た い反 目 さえ生 ん でい る。 ア イヌ 風俗 でモ デル 料 を と る老人 。今 は遺跡 に しか
過 ぎぬ コ タ ンの藁小 屋 を再現 して客 を呼ぶ 一 団 に"同 族 の 屈辱 だ"と 眉 をひ そ め るの は釧 路 な ど都市 に住 む
ア イ ヌ に多 い。 だ が弟 子 さん は必 ず しもそ れ が民 族 の恥 部 だ とは考 えて い ない。 酋 長 の風俗 も観 光 の ヒ トコ
マ だ と ドライ に割 り切 っ てい る。… 後 略」
・編集 部 「
阿寒 一帯 の 観 光ポ イ ン ト」
「この阿 寒湖 畔 に は アイ ヌ部 落 が あ り(グ ラ ビア参 照)一 人50円 出す と、 アイ ヌ の踊 りをみせ て くれ る。 グ
ラ ビア に紹介 した酋 長 以 下 「口三味 線」 をな らして独 特 な音 色 を 出 して みせ て くれ るので 一興 だ 。 これ を知
らぬ 人 が多 い。」
○ 昭和40年 代
・昭和41年 版 『
観 光 北 海道 』
阿寒 湖 紹 介 のペ ー ジ で、 「
子 グ マ を行水 させ るア イヌ 青 年」 の 説 明 で正 装 した二 人 の男 性 とク マ1頭 の写
真 が掲 載 され て い る。
・昭和42年
『
旅 』7月 号 北 海道 特 集 「
阿 寒 ・摩 周湖 」(編 集 部)
「
バ ス道 の両 側 に は、 近年 ます ます 規模 、 施設 の立派 に な った旅 館 や 、 アイ ヌ のみ や げ物屋 が建 ち並 び 、観
光 地 らしい体 裁 を整 えて い る。温 泉 町 は、 かつ て の原 始 境 も姿 を消 して しまっ たが 、年 間50万 人 か らの観 光
客 が押 し寄せ る今 日の 現状 で は 、そ れ も止 む を得 な い こ とだ ろ う。
ここ には 、 アイ ヌ 部落 も ある が、200人 近 い 人 々 のほ とん どが 現在 では ク マ の木 彫や 観 光 みや げの販 売 に
従事 して い る。観 光 シ ーズ ンの最 中 に は、観 光 客 で部 落 は い っぱい にな る程 だ。
ここで 人気 が あ るの は"チ セ"(家)と
呼ば れ る部 落 の 中央 にあ る小 劇 場 。民 族 衣装 を着飾 っ た部 落 の主
婦や 娘 さんた ちの く りひ ろげ る歌 や 踊 りの 数 々は 、訪 れ る観 光 客 を喜 ばせ て い る。」
・昭和45年
『
旅 』7月 号 「
に わ かに盛 り上 が るア イヌ を め ぐ る動 き」(お そ ら く編集 部)
「
今 年 の春 、 北 海道 議 会 でア イ ヌ問題 が取 り上 げ られ 、 あ る議員 が 「
修 学 旅 行 の生徒 のな か には アイ ヌ もい
るの に、観 光 地 のバ ス ガイ ドな どは お も しろお か しくア イ ヌ伝説 を取 り上 げ てい る。観 光 ポ ス ターな ども ア
イ ヌ を観 光資 源 と して 売 り込 む もの が多 い」 と理 事者 側 に かみ つ いた 。
これ に 限 らず アイ ヌへ のい ろい ろ な意 味 での 関心 は、 昨年 あ た りか らにわ か に盛 り上 が って き た よ うで あ
る。
… 中略 …
い わ ゆ る"観 光 アイ ヌ"の コタ ン は、 道 内 に 白老 、 登別 、 昭和 新 山 、 阿寒 湖 畔 、嵐 山(旭 川)な どに あ
る 。昭 和新 山は旭 川 アイ ヌ が 主流 で あ った り、地 元 で 観光 商 売 をや るの を恥 じて 他 の土 地へ"出 張"す る こ
とが多 い のだ が 、最 近 は"シ ャモ(和 人)が い い加 減 な アイ ヌ を演 出 して 金 も うけ をや る くらい な ら、 自分
た ち が本物 をや ろ う"と い っ た ムー ドが出 てい る とか 。
4.ま
…後 略」
とめ に 代 え て
以 上 、 明治 期 か ら昭和40年 代 ま で の 観 光 地 と して の 阿 寒 とア イ ヌ 文 化 の 変 遷 を概 観 して
き た 。 資 料 不 足 で は あ る が 、 今 回 の 研 究 ノ ー トを ま と め る こ とで 、 お お ま か な 流 れ を っ か
め た よ うに思 う。 時 代 ご と に呼 び物 とな っ て い た 工 芸や 芸 能 を は じ め 、地 名 の 由来 な ど ア
イ ヌ 文 化 へ の根 本 的 な 関 心 事 は 昭和10年 代 か ら変 わ っ て い な い の か も しれ な い が 、 見 せ る
た め 、 売 れ る た め の 形 態 や 手 法 が 、観 光 に携 わ る人 び との 努 力 に よ って 開発 され 、 継 承 さ
れ て き た こ とも 読 み とる こ と が で き る。 さ らに これ らの 内 容 を 分 析 して い く こ とで 、観 光
客 の ア イ ヌ 文 化 に 対 す る 需 要 と、 ア イ ヌ 文 化 の 担 い 手 た ち の提 供 す る も の との 関 わ りを知
る こ とが で き る よ うに思 わ れ る。
121
齋藤 阿寒観光とアイヌ文化に関する研究ノー ト
今 後 も旅 行 雑 誌 な どで 紹 介 され て き た ア イ ヌ(文 化)は
どの よ うに 変化 し、 時 代 背 景 や
北 海 道 全 体 の観 光 の動 き と どの よ うに 関 わ っ て き た か につ い て 検 証 して み た い と考 え て い
る。 本 研 究 が観 光 関 係 者 に とっ て も、 本 道 観 光 とア イ ヌ 文 化 の 歴 史 を知 る うえ で何 らか の
役 に た つ も の で あ る こ と を信 じた い 。
*本 稿 は 、 平 成10年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 補 助 金 「アイ ヌ を め ぐる 社 会 政 治 的 状 況 に 関す る
人 類 学 的 研 究 」(課 題 番 号10610305;代
表 ス チ ュ アー ト ヘ ン リ)に よ る 調 査 成 果 を 中 間
報 告 と して ま とめ た も の で あ る。
参 考 文 献
阿 寒 国 立 公 園 指 定 五 十 周 年 記 念 誌 編 纂 委 員 会(種
市 佐 改 編 集)
1984 『阿 寒 国 立 公 園 指 定 五 十 周 年 記 念 目で 見 る 阿 寒 国 立 公 園 史 』 阿 寒 国 立 公 園広
域観光協 議会
阿 寒 町 史編 纂 委 員 会
1986 『阿 寒 町 百 年 史 』 阿 寒 町 役 場
阿 寒 アイ ヌ 工 芸 協 同組 合
1999年 版 「
民 芸 品 と踊 りの里 阿 寒 湖 ア イ ヌ コ タ ン」(パ ン フ レ ッ ト)
遠藤 利雄
1958 『阿 寒 の 千 一 夜 』 東 北 海 道 社(昭 和32年 刊 『
釧 路 の365日
』 を 改 訂)
小樽 新 聞
1942 『北 海 道 樺 太 年鑑 』 小 樽 新 聞 株 式 会 社
合 田一 道
1977 『北 海 道 祭 の旅 』 北 海 道 新 聞 社
齋藤 玲 子
1994 「
北 方 民 族 文 化 に お け る観 光 人 類 学 的 視 点(1)一 江 戸 ∼ 大 正期 に お け る ア イ ヌ の
場 合 一」 『北 海 道 立 北 方 民 族 博 物 館 研 究 紀 要 』 第3号 pp。139-160
種 市佐 改 著 ・編
1974 「阿 寒 国 立 公 園物 語 」 阿 寒 町 ほ か 編 『阿 寒 国 立 公 園 指 定 四十 周 年 記 念 誌 』 阿 寒
国 立 公 園広 域 観 光 推 進 協 議 会
1984 「
阿 寒 国 立 公 園指 定50周 年 記 念 阿 寒 国 立 公 園 の 三 恩 人 」(ざ つ が く新 書2)釧
路 観 光 連 盟
日本 交 通 公 社(日
本 旅 行 協 会 、 ジ ャパ ン ・ツ ー リス ト ・ビ ュ ー ロー)
1924∼ 『旅 』
1989 『「
旅 」 に刻 ま れ た 昭和 の 記 録 』(「旅 」 復 刻 版 付 録)JTB出
122
版事業 局
北海道立北方民族博物館研究紀要 第8号(1999.3)
(財)日 本 交 通 公 社 調 査 部 編
1994 『
観 光 読 本 』 東 洋 経 済 新 報 社
ペ ウ レ ・ウ タ リの 会 編 集 委 員 会
1998 『
ペ ウ レ ・ウ タ リ ー ペ ウ レ ・ウ タ リの 会30年 の軌 跡 一』 ペ ウ レ ・ウ タ リの 会
(社)北 海 道 ウ タ リ協 会
1977 『
先 駆 者 の集 い 』14・15号
(社)北 海 道 観 光 連 盟
1982 『北 海 道 観 光 連 盟20周 年 記 念 誌 』
北海道新 聞社
1950∼66『 観 光 北 海 道 』
北 海 タイ ム ス 社
1958 『北 海 道 大 博 覧 会 記 念 北 海 道 の観 光 と産 業 』
山崎 墾 一 郎 編
1932 『北 海 道 の展 望 』 山 崎 茎 一 郎 発 行(発
売 元;富 貴 堂 書 房)
ヤ マ モ トタ ス ケ(山 本 多 助)
1940 『阿 寒 国 立 公 園 とア イ ヌ の 伝 説 』 日本 旅 行 協 会(ジ
ャ パ ン ・ツ ー リス ト ・
ビ ュー ロー)
未 詳(主 催:東
京 鉄 道 局 、 日本 旅 行 協 会 、 札 幌 鉄 道 局 、 北 海 道 庁)
1937 『観 光 の 北 海 道 展 覧 会 』 写 真 帳
現在の
「阿 寒 湖 ア イ ヌ コ タ ン 」
123
齋藤 阿 寒 観 光 とア イ ヌ 文化 に 関 す る 研 究 ノー ト
図1 『阿寒 』 阿 寒 国立 公 園 観 光協 会 発 行 昭 和14年 版
図3 『阿 寒 国立 公 園 とア イ ヌの 伝説 』
日本旅 行 協 会 発行 昭 和15年
図2 『北 海道 旅 行 の 栞』 札 幌 鉄 道局 発 行 昭和12年 版
図4 『
阿 寒 国 立 公 園漫 画 案 内 図』
釧 路 鉄 道管 理 局 発行
発 行 年 未 詳(昭 和29年 以降)
124